君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
その日の仕事は、いつもより長く感じた。
資材を運ぶ。伝票と個数を照らし合わせる。工具を所定の位置へ戻し、床に散った木屑を掃き集める。身体は覚えた手順を滞りなく繰り返しているのに、頭の中では昨日の夕方の声が何度も再生されていた。
『ぼくに勝てたら、推薦の話を取り付けてあげる』
約束の時間は、今日の勤務が終わってからだ。
カナリィが指定したのは、工務店の裏手にある資材搬入用の広場だった。普段は車両や荷物が置かれているが、今日は仕事を終えたあとに一角を空けるという。社長であるタラゴンにも話は通してあるらしい。正直、あの女が本当に約束を守るつもりだったことの方が、俺には意外だった。
勝てば、ZAロワイヤルへの推薦を受けられる。
その先で招待状をもらえるかは分からない。ましてAランクに辿り着ける保証なんてどこにもない。昨日まで閉ざされていた入口に、小さな隙間ができただけだ。
それでも、その隙間を見つけてしまった以上、何も見なかったことにはできなかった。
「リュカ、そっちの箱も頼む」
「はい」
声を返して、棚の下から工具箱を持ち上げる。使い込まれた取っ手が掌に食い込んだ。隣にいるゼラオラが手伝おうと前脚を伸ばしたが、首を振って止めた。
「いい。これくらいは俺がやる」
俺を見上げる金色の目に、何となく見透かされている気がした。
昨夜、あいつには何度も確認した。人と勝ち負けを競うために戦うことになる。相手も本気で技を放ってくる。怪我をするかもしれない。やめたければ、いつでもやめていい。
ゼラオラはそのたびに頷いた。最後には、何度も同じことを聞くなとでも言いたげに、俺の額を小突いてきた。
十年前、森で傷ついていたあいつを抱えて走った頃は、守ってやりたいとしか思わなかった。今は、母さんを救うためにあいつを戦わせようとしている。
その違いを、俺は簡単には飲み込めなかった。
仕事を終える頃には、空が鈍い紫色に変わっていた。着替えを済ませて鞄を持つと、スマートフォンが短く震えた。母さんからだった。
『今日は少し冷えるみたい。ちゃんと暖かくしてね』
古い端末の画面をしばらく見つめ、短く返信する。
『ありがとう。僕は大丈夫だよ。母さんも無理しないでね』
送り終えてから、端末を胸ポケットへしまった。
今日、これから何をするのかは書かなかった。
♦
裏手の広場には、すでに照明が点いていた。
端に寄せられた資材はロープで固定され、車両も移動している。地面の危険物は片付けられ、バトルをするための空間が確保されていた。外から見れば、ただの広い作業場だ。観客席も、歓声を上げる群衆もない。
その中央で、カナリィが退屈そうに片足を揺らしていた。
「おっそ。ぼくを待たせるなんて、いい度胸じゃん」
「勤務時間が終わるまで待っただけだ」
「言い訳まで感じ悪いんだけど」
「そうか」
「……ほんっと、こいつ」
彼女は何か言い返しかけて、やめた。代わりに俺の足元へ目を向ける。ゼラオラはいつもどおり、俺の少し前に立っていた。
「ボールには入れないわけ?」
「入ったことがないからな」
「ふうん。ま、いいけど。あんたたちがどれくらいやれるか、すぐ分かるし」
カナリィは手の中でボールを弄び、楽しそうに口元を緩めた。
「ルールは一対一。ぼくのポケモンを倒せたら勝ち。分かりやすいでしょ?」
「ああ」
「先に言っとくけど、遠慮とかしないからね。あとで泣いても知らないよ」
「分かった」
カナリィの頬がぴくりと動く。俺の反応が気に入らないらしい。
広場の端にはタラゴンもいた。仕事着のまま腕を組み、俺たちを見ている。若い社員が二、三人、興味深そうに残っていたが、タラゴンが不用意に近づくなと声をかけて離れさせた。
「おい、二人とも。建物に技を当てるなよ。ここは遊び場じゃねえ。それと、無茶して怪我させるようなら止めるぞ」
「分かってるって、おじいちゃん。心配しすぎ!」
「お前に言ってんだよ、カナリィ」
カナリィは顔をしかめた。俺はタラゴンへ軽く頭を下げ、ゼラオラの隣にしゃがむ。
「いつもどおりでいい。相手が倒れたら、それ以上追うな」
ゼラオラは静かに頷いた。
身体のあちこちに古い傷がある。母さんが手当てした跡もあれば、俺を守るために負った傷もある。今では毛並みに隠れて見えないものまで、俺にはどこにあるか分かっていた。
俺はその頭を一度だけ撫でて、立ち上がった。
「始めよう」
♦
「じゃあ、まずはこいつ! エレザード!」
投げられたボールが開き、細身のポケモンが地面に降り立った。首の襟巻きが広がり、乾いた音とともに小さな電気が弾ける。カナリィは余裕を隠そうともしなかった。
「ま、ゼラオラって珍しいだけじゃ勝てないから。ちゃんとしたバトル、教えてあげる」
俺は答えなかった。
エレザードの足の位置を見る。踏み込む前に重心が後ろへ傾く。相手との距離を取り、攻撃の準備をするつもりなのだろう。電気の技を使うポケモンにとって、射程を保つのは自然な判断だった。
だが、ゼラオラを目の前にして、その距離は足りない。
「ゼラオラ。インファイト」
言い終わるより早く、黄色い影が地面を蹴った。
「え――エレザード、じならし!」
カナリィの声が追いつく前に、ゼラオラは間合いの内側へ滑り込んでいた。踏み込む足を止めず、相手の身体へ拳を叩き込む。続けざまの打撃がエレザードの姿勢を崩し、最後の一撃で地面へ倒した。
エレザードは立ち上がらなかった。
技の余波で舞った土埃が、遅れて足元へ落ちる。
「……は?」
カナリィの声だけが、広場に残った。
俺はゼラオラの手を見た。怪我はない。あいつも俺を振り返り、次の指示を待つように耳を立てている。
「終わりか」
「ちょ、ちょっと待って!」
カナリィが慌ててエレザードの元へ駆け寄った。身体を確認し、ボールへ戻す。その手つきは丁寧だった。俺はそれを見て、少しだけ息を吐く。
「……ふ、ふーん。少しはやるじゃん」
彼女は立ち上がり、口元を引きつらせた。
「でも、今のは油断しただけ。次はそうはいかないから」
別のボールが、指先に現れた。
「……おい。一対一じゃなかったのか」
「うるさい!」
「約束は」
「ぼくが終わりって言ってないんだから、終わりじゃないの! マッギョ!」
カナリィの叫びとともに、平たい身体が地面に落ちた。マッギョはじっと身を沈め、周囲の土を揺らす。相手の出方を待つつもりか。今度は最初から地面に近い位置にいる。
俺は胸の奥に小さな苛立ちを覚えた。
勝てば推薦する。そういう約束だったはずだ。ここで口論を始めて、気を変えられても困る。相手の機嫌一つに、自分たちの進む道を預けている。それがどうしようもなく不愉快だった。
「ゼラオラ。じゃれつく」
ゼラオラは地を這うように跳び込んだ。マッギョが泥を巻き上げようと身を震わせる。だが、ゼラオラは浮き上がった土の外側から身体を入れ、相手を抱えるように捉えた。そのまま勢いを殺さず、地面へ叩きつける。
鈍い音がした。
マッギョは一度身体を震わせたきり、動かなくなった。
「……そんな」
「戻してやれ」
「言われなくても分かってる!」
カナリィは急いでボールを向けた。唇を噛み、こちらを睨みつける。目の奥にあった余裕は、もう見えない。
「デンリュウ!」
光が弾け、丸みを帯びた大きなポケモンが現れた。デンリュウは身構えながら、主の声を待っている。
「今度こそ――」
「ゼラオラ、インファイトだ」
ゼラオラが走る。デンリュウは腕を上げ、身体に力を込めた。守りを固める動きが見えたが、その動作が完成する前に拳が届いた。
腹部へ一撃。身体が折れたところへ、さらに打撃。最後の踏み込みでデンリュウが後方へ押し飛ばされ、地面を滑った。
再び、沈黙が落ちた。
デンリュウは起き上がらない。
俺はゼラオラに目を向けた。呼吸は乱れていない。さっきから何度も拳を振るっているのに、あいつの顔には疲労より困惑が浮かんでいるように見えた。
カナリィの方を見れば、その理由が分かる気がした。
彼女は、倒れたデンリュウを前に動けなくなっていた。
「……なにそれ。強すぎるんだけど」
吐き出された声は小さかった。
俺は少し間を置いて尋ねた。
「まだやるのか?」
カナリィは顔を上げた。悔しさで赤くなった目が、俺を射抜く。
「……シビルドン!!」
最後のボールが開いた。
長い身体をくねらせ、大きな口を持つポケモンが現れる。これまでの三体とは違った重圧があった。地面からわずかに浮いている身体には、積み重ねた戦いの気配がある。シビルドンはカナリィを一度見てから、こちらへ鋭い視線を向けた。
「そいつがエースか」
「だったら何!」
「……いや、別に」
俺はゼラオラの位置を確かめた。足元は乾いている。広場の奥には建物がある。相手の大きさを考えれば、これまでより広く間合いを取る必要があった。
カナリィが腕を掲げる。
「ぼくの最強最高のメガシンカでしびれろ!」
石が強く輝いた。
シビルドンを光が包み込み、輪郭が一度崩れる。身体を駆け巡る力が目に見えるほど濃くなり、空気がぴりついた。光の中から現れた姿は、先ほどまでとは明らかに異なっていた。
メガシンカ。
何度か映像で見たことはある。トレーナーとポケモンの結びつきが、一時的に大きな力を引き出す現象。目の前にすると、画面越しには分からなかった圧力を感じた。
俺は拳を握った。
これほどの力を引き出せるなら、カナリィは決して弱いトレーナーではないのだろう。少なくとも、俺の知らない技術と経験を持っている。
だが、それと勝てるかどうかは別だった。
「ゼラオラ、インファイト」
「シビルドン、迎え撃って!」
ゼラオラが正面から踏み込んだ。メガシビルドンの身体がうねり、腕が打撃を受け止める。先ほどまでの相手とは違う。連撃を受けても倒れず、地面を削りながら踏みとどまった。
その一瞬、カナリィの顔に希望が浮かんだ。
俺は相手の姿勢を見た。防いだ腕が外へ開き、身体の中心が無防備になっている。受け止めたことに意味はある。だが、次の動作へ移るには遅すぎる。
「でんこうせっか」
黄色い影が消えた。
ゼラオラは半歩だけ引いて踏み直し、残された隙間へ身体ごと突っ込んだ。鈍い衝撃音。メガシビルドンの巨体が後ろへ滑り、支えを失って倒れ込む。
地面が震えた。
揺れていた電気の光が、途切れる。メガシンカの輝きが薄れ、シビルドンは元の姿へ戻っていった。
それでも、起き上がらなかった。
「……うそ、でしょ」
カナリィは、しばらく動かなかった。
俺は隣へ戻ってきたゼラオラにしゃがみ込む。拳に痛みがないか、肩や足に傷がないか、一つずつ確かめる。あいつは煩わしそうに手を払ったが、傷は見当たらなかった。
「ありがとう、ゼラオラ」
耳の間を撫でると、あいつはようやく目を細めた。
♦
「……おまえさ」
カナリィの声は、さっきまでとは違っていた。
「何だ」
「今の、何なの」
「バトルだろ」
「そういうこと聞いてない!」
顔を上げると、彼女はボールを握ったまま立っていた。怒っているのか、泣きそうなのか、よく分からない顔だった。
「ぼくのポケモン、四体だよ。メガシンカまでしたんだよ。それなのに、一回もまともに攻撃できなくて……」
言葉が途切れる。
俺には返し方が分からなかった。どこが悪かったかと聞かれれば説明はできる。距離の取り方、最初の動き、技を出す前に見せる癖。だが、今それを口にしても、負けた相手をさらに傷つけるだけだろう。
「強かったよ」
考えた末に言うと、カナリィは目を見開いた。
「……は?」
「最後のシビルドン。攻撃を耐えた。ゼラオラの動きも見えてた」
「そんな慰め、いらないんだけど」
「慰めじゃない」
俺は立ち上がった。
「ただ、俺たちの方が速かった。それだけだ」
カナリィの表情が歪んだ。
自分が余計なことを言ったのは、すぐに分かった。だが、言い直す言葉も見つからなかった。勝ったからといって嬉しくないわけじゃない。母さんに近づく道が、一つ増えた。そのことには安堵している。
ただ、飛び跳ねるほど喜べる状態でもなかった。
まだ推薦の約束が残っている。
「……約束、守ってもらうからな」
「……分かった、分かったよ!」
カナリィが叫んだ。
「推薦してやるよ! ほんっと感じ悪いなおまえ!」
その声に、広場の端で見守っていた社員が肩をすくめた。タラゴンは黙ったまま、孫娘の様子を見ていた。
カナリィはシビルドンのところへ歩き、しゃがみ込んでその身体へ触れた。
「……ごめん。無茶させた」
低い声だった。こちらに聞かせるつもりはなかったのだろう。
俺は目を逸らした。
少なくとも、ポケモンを道具だと思っている女ではない。それだけは分かった。
自分の悔しさより先に相棒の具合を確かめる姿を見て、今朝まで抱いていた印象の一部が、静かに揺らいだ。
タラゴンが近づいてきた。
「リュカ。お前、あのゼラオラと何年一緒にいる?」
「十年です」
「……そうか」
何か言いかけたようだったが、タラゴンはそれ以上聞かなかった。代わりに、片付けを手伝うよう社員たちへ声をかける。俺にも水を飲んで休むよう言い、帰り際に明日の集合時間を確認した。
俺は、明日も勤務があることに少しだけ安心した。
♦
推薦の手続きは、カナリィの部屋で行うことになった。
工務店の奥にある一室には、画面や機材がいくつも並んでいた。灯りの色は明るく、部屋の中央には座り心地のよさそうな椅子がある。高価そうな端末の横にゲーム機が置かれ、壁には見たことのないグッズが飾られている。
俺の部屋とは、何もかも違った。
だが、比べて何になるというのだろう。
「そこ、立ってないで座れば?」
「すぐ終わるなら、このままでいい」
「……もう。勝った途端、ますます偉そうになってない?」
「そんなつもりはない」
「それが腹立つんだってば!」
カナリィは椅子に腰を下ろし、端末の画面を開いた。先ほどまでの苛立ちは消えていない。けれど手元の操作は速く、迷いがなかった。
「先に言っとくけど、ぼくができるのは推薦まで。招待状が絶対届くって保証はないからね」
「分かってる」
「それから、推薦したからってランクが上がるわけでもない。出られるようになっても、最初はZから。あとは自分で勝ち上がるしかないよ」
「……ああ」
知っていたはずの言葉なのに、改めて聞くと重かった。
ZからAまで。
どれほどの数の勝負が待っているのだろう。夜に戦い、朝には仕事へ行く。身体がもつのか。ゼラオラが傷つくことはないのか。勝ち進んだ先で、本当に母さんの治療につながるのか。
何一つ答えは出ていなかった。
「名前」
「リュカ」
カナリィの指が止まった。
「……そ。じゃあ、連絡先」
スマートフォンを取り出すと、彼女の視線が端末に落ちた。朝、骨董品だと笑われたものだ。角の塗装が剥げ、画面には薄い傷が走っている。
「それ、ちゃんと通知見られる?」
「文字なら読める」
「ほんとに?」
「電話もできる」
「……そういう問題じゃないんだけど」
カナリィは何かを言いかけたが、結局口を閉じた。俺が伝えた連絡先を入力し、いくつかの項目を確認する。画面には、小さな文字が次々と現れていた。
「ゼラオラ以外は?」
「いない」
「……一体だけで行くつもり?」
「今はな」
彼女は一瞬だけ顔を上げた。
「さっきみたいに勝てるときばっかじゃないからね。ZAロワイヤル、甘く見ない方がいいよ」
「甘く見てない」
「だったら、ちゃんと考えなよ」
「……分かった」
そう答えたものの、今すぐ新しいポケモンを仲間にするつもりはなかった。誰かを連れていくなら、最後まで責任を持たなければならない。食事も、怪我をしたときの治療も必要になる。ただ勝つために頭数を揃えるなんて、俺にはできない。
少しして、カナリィが画面を指差した。
「推薦は送った。ここから先は向こうの判断。返事が来たら教える」
「……いつ頃になる」
「だから知らないって。ぼくだって全部決められるわけじゃないんだから」
「そうか」
俺は画面を見つめた。『推薦受付』という文字が、小さく表示されていた。
たったそれだけだった。
何年も働いて、切り詰めて、母さんへ金を送り続けてきた。そのどれも、病気を治すには足りなかった。なのに今日、たった一度勝ったことで、少なくとも次へ進むための手続きができた。
あまりの不釣り合いさに、胸の奥が冷えた。
「……ありがとう」
カナリィがこちらを見た。
「え?」
「約束、守ってくれたから」
「……そりゃ守るでしょ。ぼくを何だと思ってんの」
「知らないって、何度も言ってる」
「もうその返しやめてくんない!?」
俺は小さく頭を下げた。何も笑うような話じゃなかった。けれど、カナリィは椅子の背にもたれ、力が抜けたように天井を見上げていた。
部屋を出ようとしたとき、胸ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には、母さんの名前があった。
♦
いつもなら、誰もいないところへ移動してから電話に出る。
けれど今日は、あまり待たせたくなかった。母さんが自分から電話をかけてくるのは、何か話したいことがあるときか、痛みが強くて眠れないときが多い。
「……あ、母さん。どうしたの?」
廊下に出て、声を落とした。
『リュカ? ごめんね、遅い時間に。まだお仕事だった?』
「ううん。ちょうど終わったところだよ」
『よかった。今日はね、少し歩けたの。支援の人が来てくれて、庭まで出てみたんだけど』
「庭まで? ……そっか。よかったね」
声が自然に柔らかくなる。歩けた距離より、母さんがそのことを嬉しそうに話してくれるのが嬉しかった。
『でも、帰りはちょっと疲れちゃって。あんまり欲張っちゃ駄目ね』
「無理しないでよ。痛みは?」
『大丈夫。少し休んだら落ち着いたわ』
「……本当?」
『本当。あなたに嘘なんてつかないわよ』
笑う声を聞いて、俺も口元を緩めた。
母さんは、俺が毎朝何を食べているか知らない。どんな部屋で眠っているかも、何時間歩いて会社へ通っているかも知らない。知られたくないと思っている俺と、何でも話してほしいと願う母さん。その間にある距離は、ミアレから故郷までの道のりよりずっと長かった。
「僕は元気だよ。今日もちゃんと仕事してきた」
『そう。ゼラオラは?』
「隣にいるよ。ほら、声聞く?」
ゼラオラがスマートフォンに近づき、短く鳴いた。向こう側で母さんが笑う。
『二人とも仲良くね。帰ったら温かいもの、食べなさいよ』
「うん。母さんも早く休んでね」
『ありがとう。おやすみ、リュカ』
「おやすみ、母さん」
通話を切ったあと、しばらく画面を見つめていた。庭まで歩けたという話が本当なら、今日は調子がよかったのだろう。良い日があることは嬉しい。けれど、良い日が一日あったからといって、病気が治ったわけではない。
振り返ると、カナリィが部屋の入口に立っていた。
目が合うと、彼女は気まずそうに顔を逸らした。
「……何」
「別に。声、聞こえただけ」
「そうか」
「おまえ、普通に喋れるんじゃん」
「普通に喋ってるだろ」
「ぼくと話すときと全然違うんだけど!」
言い返そうとして、やめた。母さんへの話し方が違うのは、事実だった。
「家族だからな」
それだけ答えると、カナリィは少し黙った。
「……ふうん」
その声が何を意味しているのか、俺には分からなかった。知る必要もないと思った。
「返事が来たら連絡してくれ。俺も確認する」
「はいはい。分かってるって」
「じゃあ、帰る」
「……ちょっと」
呼び止められ、足を止める。
「おまえさ。あの大会、そんなに急ぐ理由って何なの?」
昨日と同じ問いだった。
今度はからかうような口調ではなかった。それがかえって、答えづらかった。
「……言いたくない」
「ぼく、推薦までしてあげたんだけど」
「感謝してる。でも、話すかどうかは別だ」
カナリィは唇を尖らせた。
「ほんっと、面倒くさいやつ」
「……そうだな」
否定できなかった。
俺が誰にも事情を話さなければ、誰かの助けを得られる機会まで失うかもしれない。それでも、母さんの病気を他人の話題にしたくなかった。かわいそうだと思われ、事情を勝手に広められ、知らない人間の優しさを受け取らなければ薄情者のように扱われた、あの日々を思い出す。
名前と顔と困窮の事情が、人の好奇心を満たすために並べられる。
あれだけは、二度と御免だった。
「……じゃあな」
返事を待たずに歩き出した。背後でカナリィが何か言った気もしたが、振り返らなかった。
♦
工務店を出ると、夜の空気が頬に触れた。
遠くにプリズムタワーが見える。街の中心では、今夜もZAロワイヤルが始まっているのだろう。通りの向こうで赤い光が立ち上がり、遅れて歓声が聞こえた。
俺はそこへ向かわず、いつものスーパーへ歩いた。
惣菜の値引きは始まっていたが、手持ちの硬貨では買えなかった。仕事帰りの客が並ぶ棚を通り過ぎ、安くなったパンを一つ手に取る。レジで会計を済ませると、残った金額をもう一度確かめた。明日の朝、何かあっても困らないように、少しは手元に置いておく必要がある。
今日は、四体のポケモンに勝った。
最初に決めた一対一の約束は途中で破られた。それでもゼラオラは、一度も膝をつかなかった。メガシンカした相手にさえ勝った。カナリィがどれほど有名で、どれほど強いトレーナーなのかは知らないが、少なくとも勝負の結果は変わらない。
それなのに、スーパーの棚の前に立つ俺は、昨日と同じことを考えていた。
この値段なら買える。こっちは少し高い。二つ買えば、明日の分が足りなくなる。
ポケモンを倒せる力があっても、値札の数字は動かなかった。
アパートへ帰る道の途中、ゼラオラが俺の袖を引いた。立ち止まると、あいつは俺の顔を覗き込んだ。
「……何だよ」
ゼラオラは何も言わず、俺の腕へ額を押しつけた。
嬉しくないわけじゃない。あいつが強いことを、今日初めて他人の前で証明できた。それは誇らしかった。カナリィが約束を守ってくれたことにも、感謝している。
ただ、喜びをどこへ置けばいいのか分からなかった。
母さんが今日、庭まで歩けた。
それだけで嬉しいはずなのに、俺はその先を考えてしまう。明日も歩けるのか。来週も同じように笑えるのか。身体の中で何が起きているのか、俺には何もできない。
ゼラオラの頭を撫で、もう一度歩き出す。
部屋へ戻ると、冷えた床が靴下越しに伝わった。寝袋を広げる前に、ゼラオラの布団を整える。夕食を用意し、俺は床に座った。今日は自分が買ってきたパンで、あいつにはいつもの食事がある。
向かい合って食べ始めると、ゼラオラは何度もこちらを見た。俺がパンを食べ終えるまで、いつもよりゆっくり自分の分を口に運んでいる。
「……気にするなよ」
そう言ってみても、ゼラオラは首を傾げるだけだった。
食事を終え、古いスマートフォンを開く。カナリィが送ったという推薦に関する通知が届いていた。小さな画面に『受付』の文字がある。それ以上のことは書かれていない。
招待されたわけじゃない。
ランクが上がったわけでもない。
まして、母さんの病気が治ったわけじゃない。
それでも、昨日までなかったものが、今は一つだけある。
俺たちが進んでいいかもしれないという、誰かの判断を待つ権利だ。
「……ゼラオラ」
隣を見ると、あいつはすでに布団へ戻っていた。疲れていたのだろう。目を閉じたまま、耳だけがこちらへ向く。
「今日は、ありがとう」
俺はその背中に触れた。
何度言っても足りなかった。母さんのために戦ってくれたことも、俺の勝手な願いを一緒に背負おうとしてくれたことも。
ゼラオラは目を開け、俺の手を引き寄せた。温かい毛並みの下で、確かな鼓動がしている。
この温かさを、いつか失う日が来るかもしれない。
そんな考えが不意に浮かび、俺は指先を止めた。
勝つために、あいつまで差し出すつもりなのか。
そんなはずはない。ゼラオラまで失って、母さんを救えたとして、それで俺たちは幸せになれるのか。けれど、戦い続ける以上、あいつを傷つけずに済む保証もなかった。
窓の外では、遠い街の灯りが揺れていた。誰かが勝ち、誰かが負け、そのたびに歓声が上がる。今夜も多くの人間が、夢や名誉や、手に入れたい何かのために戦っている。
俺たちは勝った。
けれど、救えたものはまだ何一つない。
俺はスマートフォンを伏せ、ゼラオラの隣で寝袋に入った。
明日も、仕事だった。