君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
招待の通知が届いたのは、昼休みが終わる少し前だった。
壁際の椅子で、俺は古いスマートフォンの画面を何度も擦っていた。指先の傷がガラスに引っかかる。通信が切れたのかと思って一度画面を消し、再び点けると、見慣れない差出人からの知らせが表示された。
『ZAロワイヤルへの参加資格が承認されました』
その下に、登録された名前と参加ランクが並んでいた。
リュカ。Zランク。
確認のため、俺はもう一度最初から読んだ。招待は取り消されていないか。追加料金が発生する条件はないか。何かを見落として、後から参加できないと言われることはないか。そういうことばかりが先に浮かんだ。
ゼラオラが椅子の横から画面を覗き込む。
「……通ったみたいだ」
ようやく口にすると、あいつは俺の膝に前脚を乗せた。尻尾が一度、大きく揺れる。俺も笑おうとしたが、うまくいかなかった。
願いを叶える権利を得たわけじゃない。大会への参加が許されただけだ。まだ一勝もしていないし、母さんの治療について何かが決まったわけでもない。それなのに、手のひらがじんわり汗ばんでいた。
「おい、午後の搬入始めるぞ」
「……はい」
端末をポケットに押し込み、立ち上がる。仕事が残っている。明日の給料を守るために、今やるべきことは変わらない。
それでも、資材の数を数える間じゅう、頭の片隅に赤い文字が残り続けた。参加資格が承認されました。何度も声に出して確かめたくなるその一文を、誰にも見られないように胸の奥へ押し込めた。
♦
日が落ちる頃、ミアレの景色は別の街に変わった。
観光客の足が途絶え始めた通りに、赤い線が走る。舗装の上を光が這い、建物の壁を登り、見慣れた交差点を囲んでいった。遠くにはプリズムタワーが光っている。その足元で、人々が歓声を上げているのが聞こえた。
バトルゾーン。
昼間なら何の変哲もない道だ。工事車両が通り、学生が菓子を買い、買い物帰りの老人がポケモンと散歩する。そこへ夜だけ、勝つことを目的にした人間が集まる。
俺は端末の参加証を確かめ、赤い境界を越えた。
視界の端に、参加者であることを示す案内が浮かぶ。チケットポイント。賞金メダル。ボーナスカード。説明文は多かったが、必要なことはすぐに理解できた。勝利すればポイントが入り、メダルが増える。夜明けには集めたメダルが金に換算され、勝った人数によってさらに倍率がかかる。
ランクを上げるために来たはずなのに、真っ先に覚えたのは金の仕組みだった。
「ゼラオラ。無理はするな」
俺が言うと、あいつは呆れたように鼻を鳴らした。何度も同じことを言われていると思ったのだろう。
通りの向こうに、一人のトレーナーが見えた。こちらに気づく前に物陰へ入る。大会の案内には、不意を突いて先手を取る戦い方も認められていると書かれていた。
胸の中で一度だけ、ためらいが生まれた。
正々堂々と名乗り合ってから始めるものだと思っていた。少なくとも、俺が子供の頃に見たポケモン勝負はそうだった。だが、ここでは誰かに見つかる前に相手を見つけなければ、こちらが狙われる。
「……行け」
ゼラオラが走った。
勝負は、ほとんど時間を要しなかった。
一人目が倒れ、次の路地で二人目が倒れた。広場を抜け、別の赤い区域へ移る。看板の陰に落ちていた賞金メダルを拾い、歩道の端で光るボーナスカードを回収する。達成できる条件は片端からこなした。難しいカードは残さず、次を探した。
誰かが戦う前に叫び、誰かは技を指示する間もなく負けた。ゼラオラは一度も余計な追撃をしなかった。倒れたポケモンには近づかず、相手のトレーナーが駆け寄るのを待つ。俺たちは勝敗が決まるたびに足を止め、怪我のないことを確かめてから次へ向かった。
勝つのは、思っていたより簡単だった。
勝ったあと、その場を離れるのは、思っていたより難しかった。
敗北した人間は、みんな違う顔をしていた。悔しさを隠さず唇を噛む者。倒れた相棒へ何度も謝る者。次は負けないと吐き捨て、真っ先に回復へ走る者。俺が通り過ぎた先にも、その人間たちの夜は続いていく。
それでも俺は止まらなかった。
メダルの枚数が増えるたび、端末の隅の数字を見た。最初の数戦では小さかった表示が、一人、また一人と倒すうちに変わっていく。夜明けまで時間は限られている。立ち止まっていれば、その分だけ稼げる額が減る。
いつの間にか俺は、次の相手を探していた。
♦
最後に声をかけてきた男は、俺よりずっと年上だった。
擦り切れた上着を着て、片手に小さなボールを握っている。先ほどの勝負で負けたばかりだ。相棒を戻したあとも、男は道路脇から動こうとしなかった。
「……なあ。君、何か急いでるのか」
俺は足を止めた。
「どうしてですか」
「そんな顔してるからさ。勝っても、少しも嬉しそうじゃない」
何と答えればいいのか分からなかった。急いでいるのは確かだった。母さんの病気が悪くなる前に、できるだけ多くの金を集めたい。可能ならAランクまで行きたい。ただ、その全部を初対面の人間に話せるわけがない。
「……勝ちたいだけです」
男は短く笑った。けれど、その笑いには元気がなかった。
「俺もさ。どうしても叶えたいことがあるんだ。若い頃は、努力すりゃ何とかなるって思ってたんだけどな」
自嘲するように首を振り、ボールを見下ろす。
「こんなところまで来て、知らない相手に一方的に負けて。情けねえよな」
「……すみません」
口にしてから、違うと思った。
俺が謝れば、この男は救われるのか。負けたことがなかったことになるのか。少なくとも、あいつに勝てと指示したのは俺だ。男の願いを聞いていたとしても、結果を変えるつもりはなかった。
「謝んなよ。君はちゃんと勝った。それだけだ」
男は身体を起こした。
「俺だって、明日また来るさ。諦められるんなら、最初からこんな場所に立ってない」
その背中を見送る間、俺は何も言えなかった。
ここにいる人間が、みんな遊びで勝負をしているわけではない。俺が母さんのために戦うように、名前も知らない誰かが、誰かのために勝とうとしている。
その誰かを倒さなければ、俺は前に進めない。
分かっていたはずのことが、急に重さを持った。
けれど、別の路地でトレーナーの気配を見つけたとき、俺はまたゼラオラに合図を送った。迷う時間があれば、メダルを一枚でも増やしたかった。
その夜、俺は一度も負けなかった。
♦
空が白み始めると、赤い壁が薄れていった。
手元の画面が切り替わり、集めた賞金メダルの清算結果が表示される。メダルの枚数、倒したトレーナーの人数、それに応じた換金倍率。細かな数字が並んだ末、一番下に金額が現れた。
五万八千四百円。
表示を見間違えたのだと思った。
夜通し歩いて、勝負を重ねただけで、こんな金が入る。工務店で汗を流す一日より、ずっと大きな額だった。何度画面を閉じても、残高に反映された数字は変わらない。
俺は道端に立ったまま、自分の手を見つめた。
傷ついた指先。運搬で硬くなった掌。洗っても取れない汚れ。これまで働くことは、こういうものだと思っていた。身体を動かし、休めばそのぶん収入が途絶える。食べる量を減らし、移動を歩きに変え、一枚ずつ硬貨を残す。それでも何とか足りない。
その生活の何日分にも相当する金が、今、画面の中にあった。
喜びより先に、怖さが来た。
もっと早く知っていれば、と考えてしまったからだ。
母さんが痛みを我慢した夜。俺が働き口を探して歩いた日。必要なものを買えず、診療所へ何度も相談した時間。その全部が、何か取り返しのつかない遠回りだったように思えてしまう。
そんなはずはない。ゼラオラの力を金に換えることが、正しい生き方だとは限らない。昨日までやってきたことが無駄だったわけでもない。
それでも、数字は俺に訴えていた。
明日も来ればいい。
今夜と同じことをすれば、また金が増える。
俺はゼラオラの方を見た。あいつは疲れた様子もなく、ただ俺を待っていた。
「……帰ろう。少し寝よう」
そう言いながら、次の夜にはどの区域を回るべきか考えている自分に気づいた。
♦
翌日も、その次の日も、俺は夜の街へ出た。
仕事を終える。スーパーで安い食事を買う。ゼラオラの様子を確かめる。日が落ちればバトルゾーンへ向かい、夜が明けるまでトレーナーを探す。倒した人数を数え、カードの条件を選び、メダルを拾う。終われば数時間だけ横になり、仕事へ行く。
最初は毎晩、これで最後にしようと思った。
寝不足で手元が狂いかけた日には、明日は休むと決めた。ゼラオラが俺の腕を引いた夜には、早めに帰るつもりになった。だが、翌朝には残高が増えていた。母さんへ送金できる額を計算すると、休むという選択肢が遠ざかる。
毎夜、六万円近く。少ない日も、多い日もあった。勝利数によって倍率が変わることを覚えた俺は、いつの間にか相手の顔よりも、あと何人倒せば次の倍率になるかを気にするようになっていた。
ゼラオラが傷つけば必ず立ち止まった。無理に戦わせることはしなかった。あいつの食事も、休める時間も守った。昼間は工務店の決まった場所で眠らせ、起こす必要がなければそっとしておいた。そこだけは譲れなかった。
だが、自分自身については、驚くほど簡単に妥協できた。
シャワーで立ったまま眠りかけた。仕事用の靴を履いたまま寝袋へ倒れた。朝食を食べる時間が惜しくなり、水だけで出勤した日もあった。歩き慣れた道で信号が変わったことに気づかず、ゼラオラに服を引かれて立ち止まった。
眠たいという感覚は、いつしか鈍い頭痛に変わった。
寝不足は積み上がるのに、稼いだ金は減らずに積み上がる。その二つが同じ速度で増えていくことを、俺は見ようとしなかった。
七晩を終えたとき、夜の賞金は合計で四十万円近くになっていた。
何度かに分けて、三十五万円ほどを故郷へ送った。家賃と最低限の生活費、ゼラオラの食事代、それに不測の事態のためのわずかな金だけを手元に残した。振込を終えるたび、口座の残高は小さくなったが、後悔はなかった。
母さんが必要なものを買える。
専門の病院へ行く交通費にできる。
痛みが強い夜に、我慢せず助けを頼める。
できることが増えていくのが、嬉しかった。
ただ、その喜びを話せる相手が、俺にはゼラオラしかいなかった。
♦
「おい、リュカ」
資材置き場で呼び止められたとき、俺は一瞬、自分の名前が分からなかった。
振り返ると、タラゴンが立っていた。いつもの大きな声ではなく、低く抑えた声だった。
「お前、今日はもう重いもん持つな」
「……まだ運ぶものが」
「ほかの奴に任せる。手が止まってるぞ」
見下ろすと、俺は同じ伝票を二度数えていた。紙の数字がうまく頭に入ってこない。指で追い直しても、一つ前の行を忘れる。
「すみません。確認し直します」
「確認の話じゃねえ。寝てんのか、お前」
「寝てます」
「どのくらい」
答えられなかった。正確に数えれば、昨日は二時間半、その前は三時間ほどだった気がする。途中で何度も目を覚ましたので、実際に眠った時間はもっと短いかもしれない。
タラゴンの顔が厳しくなる。
「工事現場じゃ、ぼんやりした一秒で人が死ぬこともある。無茶して働くのは、真面目とは違うぞ」
言い返す言葉はなかった。
昨日までは大丈夫だった。今日も動ける。俺が休めば、誰かにしわ寄せがいく。そんな言い訳を並べかけたところで、タラゴンが先に口を開いた。
「今日は事務所で軽い作業だけにしろ。明日もその顔なら現場には出さん」
「……分かりました」
見捨てられたわけではない。注意されているだけだ。頭では理解できた。それでも、仕事が減れば収入が減るのではないかという考えが、真っ先に浮かんだ。
タラゴンが離れたあと、椅子に座って水を飲んだ。ゼラオラは足元で腕を組むようにして座り、俺をじっと見ている。
「……そんな顔するなよ」
あいつは目を逸らさなかった。
母さんを守ろうとしているのに、俺が倒れたら誰が母さんを守るのか。分かりきったことを、ゼラオラに言われている気がした。
「ちょっと、おまえ」
聞き覚えのある声が近づいてきた。カナリィだった。
「顔色、やばくない? ほんとに人間の色してる?」
「……うるさい」
「だって、目の下すごいことになってるし。あのあと毎晩出てるんでしょ、ZAロワイヤル」
「そうだけど」
「何でそこまで必死なの? 別に一日くらい休んでもランクは逃げないじゃん」
「時間がもったいない」
「は? 時間って……」
俺は水の入った紙コップを見つめた。余計なことを言えば、また話を聞かれる。疲れている今は、言葉を選ぶ余裕がなかった。
「関係ないだろ」
カナリィが息を呑む。
「……またそれ? ぼくが何回心配してやってると思ってるわけ」
「頼んでない」
言った瞬間、ゼラオラが俺の膝を小さく叩いた。
カナリィの口が閉じる。彼女はしばらく何か言いたげに俺を睨んでいたが、怒鳴らなかった。その沈黙の方が、昨日までの悪態より重かった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
母さんだった。
♦
「……あ、母さん。どうしたの?」
出た瞬間、自分の声が変わったことが分かった。
『リュカ。ごめんね、お仕事中だった?』
「ううん、今は休憩中だよ。大丈夫」
『あのね。お金のことで、ちょっと聞きたくて』
心臓が小さく跳ねた。
『今週、何回も送ってくれたでしょう。合計を見て、びっくりしちゃった。あなた、何か無理してるんじゃないの?』
「……ちょっと、多めに稼げたんだよ」
俺は喉を整えた。母さんを不安にさせないための声を選ぶのは、もう癖になっていた。
「仕事の方が忙しくてさ。僕は大丈夫。気にしないで」
『本当に? 危ないことしてない?』
「してないよ。ちゃんと働いてるだけ」
『そんなに稼げたなら、自分のために使いなさい。あなたが送ってくれるお金で、私は助かってる。でもね、あなたまで倒れたら意味がないのよ』
「……うん。分かってる」
『声が少し疲れてる。寝てる?』
「寝てるよ。昨日もちゃんと寝たから」
紙コップの縁を握る指先が震えた。
母さんが黙る。電話越しに、小さく息を吸う音が聞こえた。
『リュカ。お金はありがたいわ。でも、私が欲しいのは、お金だけじゃないの』
俺は返事を探した。
『あなたが元気で、たまに笑ってくれること。それも、私には大事なのよ』
「……分かってるよ、母さん」
嘘だった。少なくとも、今の俺はその意味を分かっていない。何をすれば母さんが安心するかは知っている。けれど、安心させるためには何を隠せばいいかばかり考えていた。
母さんは近いうちに、専門施設への紹介について診療所で相談するという。以前から話は進めていたが、受け入れ先での詳しい評価が必要で、まだ手術の日程を決められる段階ではなかった。金だけでどうにかなる問題ではないと、遠回しに言われた気がした。
『それからね。無理に全部送らなくていいから。少しは自分で持っておきなさい』
「うん。僕の分はちゃんと残してるよ」
『約束よ』
「……約束する」
通話が切れたあと、俺は画面を消せなかった。
稼げばいいと思っていた。
手術に必要な金を、生活に必要な金を、一つずつ積み上げればいいと思っていた。だが、母さんに必要なのは高度な手術を引き受けられる専門医の判断と、通院や入院を支える仕組みだった。術後に歩けるようになるかも、今の段階では誰にも断言できない。
基本的な診療に使える支援はある。けれど、専門施設へ移るための移動や滞在、長い療養のあいだの生活まで、すべてが補われるわけじゃない。金が増えれば選べる道は増える。それでも、医師が足りなければ手術はできない。受け入れ先が決まらなければ、予約すら取れない。
あの願いは、思っていたより遠かった。
「……ねえ」
顔を上げると、カナリィがまだそこにいた。
「おまえ、今の……仕送りって、誰に?」
俺はスマートフォンをポケットへ入れた。
「関係ないことだ」
「は? いや、だって今、めちゃくちゃ送ってるって……」
「聞こえたなら、忘れてくれ」
「……なんでそういう言い方しかできないわけ」
カナリィは目を伏せた。怒っているようでも、困っているようでもあった。
俺は立ち上がった。椅子から腰を上げただけなのに、膝が一瞬頼りなく感じた。ゼラオラがすぐ横へ寄る。
「ごめん。仕事に戻る」
「……勝手にすれば」
彼女の声は小さかった。
足を進めながら、どうしてあんな言い方しかできなかったのかと考えた。心配していると言われた。母さん以外の誰かからそんな言葉を向けられたのは、久しぶりだったかもしれない。
けれど、誰かに説明し始めれば、どこまで話せばいいのだろう。
病名。手術のこと。金のこと。故郷の家のこと。
以前、俺たちの事情を支援のためだと言って広めた人間たちは、悪気がなかったのだろう。写真を載せ、気の毒な親子として紹介し、温かい言葉を並べた。母さんが外へ出るたび、知らない人間から病状を聞かれた。俺は、自分たちの暮らしが誰かの話題になっているのを見ていた。
あんな思いを、母さんにもう一度させたくなかった。
カナリィが同じことをするとは限らない。それも、分かっている。
分かっていても、俺は口を閉ざすことしかできなかった。
♦
その日の夕方、端末に新しい通知が届いた。
『ランクアップ戦に挑戦できます』
チケットポイントは、数日前から必要な数に達していた。けれど、開催の案内と仕事の都合が合わず、申し込みを後回しにしていた。ようやく指定された時間に挑めるらしい。
俺は画面を見つめ、会社の出入口で足を止めた。
今夜は休むつもりだった。
タラゴンに言われたことも、母さんの声も、まだ耳に残っている。ゼラオラは俺の顔を見上げ、何も言わなかった。たぶん、答えを待ってくれている。
それでも、指は案内の先を開いていた。
ランクが上がれば、もっと上のトレーナーと戦える。より多くの賞金メダルを集められる機会も増える。何より、Aランクに一つ近づく。金では買えないものがあるなら、なおさら上へ行く理由がある。
「……行こう」
声に出した瞬間、自分が何を選んだのかを理解した。
ランクアップ戦は、夜のミアレの一角で行われた。
相手は三匹のポケモンを用意していた。俺はゼラオラ一匹だけで向き合い、始まりの合図を聞いた。戦うための準備は、それだけで足りた。
一匹目が倒れた。続いて二匹目。三匹目も、ゼラオラの速度には追いつけなかった。
相手のポケモンたちが起き上がれないことを確かめ、俺はゼラオラに戻るよう告げた。歓声があったのかもしれないが、覚えていない。勝った相手の顔も、よく思い出せなかった。
画面が光る。
『Yランクへ昇格しました』
赤い文字の中で、ZがYに変わった。
これで一歩。
それでも、Aまではまだ途方もなく遠い。
ランクの説明を読み直すと、次の対戦相手や報酬に関する案内が表示された。強い参加者ほど多くのメダルを獲得できる機会があり、一夜に倒した人数に応じた換金倍率も積み重なる。今までより効率よく稼げる夜があるかもしれない。
嬉しい、と感じた。
昇格そのものより先に、母さんへ送る金額を考えた自分に気づいて、胸の内側が鈍く痛んだ。
Aランクに行くために参加したはずだった。
けれど今は、勝利の数と金額が、俺の中で同じ意味を持ち始めている。
このまま戦えば、必要な費用の一部を用意できるかもしれない。いや、何か月も続ければ、それ以上の金額に届くかもしれない。だが、費用が揃っても、治療を受けられるとは限らない。病気を治すためには、もっと大きな力と、誰かの決断が必要だった。
だから、上を目指す。
他に何ができるのか、俺には分からなかった。
♦
帰り道、ゼラオラが急に立ち止まった。
赤いバトルゾーンから離れた、街の外れの細い路地だった。飲食店の裏口に並んだゴミ袋が、夜風に擦れて小さな音を立てている。建物の影には街灯が届かず、湿った土と捨てられた食べ物の匂いが混ざっていた。
「……どうした」
ゼラオラは路地の奥を見ている。
目を凝らすと、黒い袋の陰で何かが動いた。小さな緑色の身体。頭の上に、くしゃくしゃになった袋のような形が見える。
ヤブクロンだった。
食べ物を漁っているのかと思ったが、そうではなかった。破れた袋からこぼれた空き容器や紙切れを、小さな腕で一つずつ押し寄せている。足元の汚れを集めようとしているようにも見えた。
店の裏口が開き、人が出てきた。
「うわ、またいる。臭いからあっち行けよ」
男が足を鳴らすと、ヤブクロンはびくりと縮こまった。何も反撃しない。ただ、積み寄せた紙切れの陰へ身体を寄せる。
男は舌打ちをして店内へ戻った。
しばらくして、ヤブクロンがまた動き始める。さっきまで自分がまとめていた容器を、黙って押し続けた。
俺はその場に立ったまま、しばらく見ていた。
誰にも頼まれていないことをして、邪魔者にされる。何の役に立つかも知らない人間に、ただ嫌な顔をされる。それでも、そこから離れられない。
ゼラオラが俺の袖を引いた。
「……分かってる」
俺はしゃがみ、道へはみ出していた空き容器を一つ拾った。近くの集積場所へ運び、こぼれた紙切れをまとめる。ヤブクロンは驚いて後ずさったが、逃げなかった。
「追い払うつもりはない」
そう告げると、小さな身体がかすかに揺れた。
何かを渡してやれるほど、今夜も手元に余裕はなかった。腹を空かせているかどうかも分からない。勝手に連れて帰れば、それは俺の事情を押しつけるだけになる。
俺は散らばったものを片付け終え、立ち上がった。
「……邪魔したな」
ゼラオラが小さく鳴き、俺の隣へ並ぶ。
歩き出して少ししてから振り返ると、ヤブクロンはまだ路地にいた。街灯の届かない場所で、こちらを見ている。俺たちが角を曲がるまで、その小さな影は動かなかった。
家へ帰れば、冷たい床と寝袋が待っている。朝になれば仕事だ。母さんから連絡が来れば、俺はきっとまた同じ声で、大丈夫だと答える。
今夜、俺はYランクになった。
一週間で、これまで考えられなかった額の金を稼いだ。
それでも、母さんの手術の日は決まらない。俺が明日の朝、無事に立ち上がれるかどうかさえ、今は自信がなかった。
背中に感じた小さな視線を振り払うこともできず、俺はゼラオラと二人、夜明け前の道を歩いた。