君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
その朝、俺は自分がどうやって家へ帰ったのか、思い出せなかった。
寝袋の中で目を開けると、薄いカーテンのない窓から朝の光が差し込んでいた。六畳の部屋には、夜の冷気がまだ残っている。壁際ではヤブクロンがゼラオラの布団に丸まり、ゼラオラはその隣で身体を起こしていた。
どうやら、俺が起きるのを待っていたらしい。
鞄から滑り落ちたスマートフォンが床で震える。勤務開始を知らせるアラームだった。画面を拾い上げると、昨夜の賞金が振り込まれた通知も残っていた。
六万千八百円。
その下に表示された時刻を見て、胃の奥が縮んだ。
「……まずい」
普段なら、もう家を出ている時間だった。
寝袋を跳ね除けようとして、両脚がうまく動かなかった。膝から下が自分のものではないように重い。床に手をつき、何とか身体を起こす。視界の端が一瞬だけ暗くなり、耳の奥で低い音がした。
ゼラオラが近づき、肩に手を添える。
「大丈夫。立てる」
口を開いた途端、喉がひどく乾いていることに気づいた。昨夜、何を食べただろう。夜のバトルゾーンへ入る前にパンを買った記憶はある。だが、それを食べたかどうかが分からない。
手の甲には、いつの間にか小さな擦り傷ができていた。ぶつけた覚えはなかった。
ゼラオラが俺の前に回り込む。通り道を塞ぐように両腕を広げた。
「……遅刻するんだよ」
あいつは退かなかった。
「仕事を休んだら、その分、迷惑がかかる」
聞き分けのない子供に言い聞かせるような声になった。そんなふうに話している自分が、少し嫌だった。
ヤブクロンまで布団から降りてきて、俺の作業着の裾を掴んだ。
二匹の目を見ないまま、俺は古い靴を履いた。
あと少し。あと少しだけ、頑張ればいい。
その言葉を、最近は朝の挨拶よりも多く口にしていた。
♦
三か月目に入ってから、時間は日付ではなく、入金の回数で進むようになった。
朝、賞金が振り込まれる。昼、工務店で働く。夕方、ゼラオラとヤブクロンに食事を用意する。夜、ZAロワイヤルに出る。翌朝、また金が入る。
曜日の感覚は曖昧だった。昨日食べたものは忘れるのに、三日前の換金額なら答えられる。最後に誰と戦ったのかは覚えていなくても、次の倍率まで必要な勝利数は頭から離れなかった。
母さんへ送った金は、すでに数百万円になっていた。
振込記録を下へ滑らせれば、同じ名前が繰り返し並んでいる。最初の頃は、金額の横に短いメッセージを添えていた。病院へ行くときに使ってほしい。無理せず食べたいものを買ってほしい。寒い日は暖房をつけてほしい。
最近は、金額だけを送ることが増えた。
書きたいことがなくなったわけではない。何を書いても、結局は「大丈夫」の一言に行き着いてしまうからだった。
口座に残す生活費も、最初に決めた額より少なくなっていた。家賃と最低限の光熱費、ゼラオラとヤブクロンの食事代、仕事に必要なもの。それ以外は、削れるだけ削った。
安いパンを買うことに抵抗はない。むしろ、値引きされた商品を見つけると安心した。食事に金を使わなかった日は、母さんに何かしてやれたような気になれる。
なのに、身体は正直だった。
夜の途中で立ち止まると、膝が震える。冷たい水を飲むだけで胃がむかつき、空腹なのか吐き気なのか分からなくなる。寝袋に横たわると心臓の音だけが耳につき、疲れきっているのに眠れない。ようやく意識が途切れたと思えば、アラームが鳴る。
眠れない夜があった。
眠ったはずなのに、一度も休めた気がしない朝もあった。
それでも、働いた。
働けば金が増える。その事実だけは、今も裏切らなかった。
♦
「リュカ、これを何でこっちへ入れた?」
タラゴンの声に、俺は棚の前で立ち尽くした。
手にしていたのは、納品書の束だった。保管場所を間違えたらしい。指示された棚とは反対側の引き出しが開いている。
「……すみません」
「謝罪じゃなくて、理由を聞いてる」
「……確認を、間違えました」
それ以上、言いようがなかった。
自分では正しい場所へ入れたつもりだった。そもそも、いつその引き出しを開けたのか記憶が曖昧だった。
タラゴンは書類を受け取ると、俺の手元を見た。
「震えてるぞ」
指先が細かく揺れていた。握り込むと一度は止まる。だが、力を抜けばまた震え始める。
「……寒いだけです」
「今日は暑いくらいだ」
事務所の窓は開いていた。外からは作業員の声と、運搬車両が後退するときの警告音が聞こえてくる。誰かが笑い、誰かが返事をする。いつもどおりの午後だった。
俺だけが、そこから少し離れた場所にいるような気がした。
「お前、病院には行ったのか」
答えられなかった。
前にも言われた。休め、食え、医者に診せろ。必要なのは分かっている。診察の予約を取ろうとした日もあった。けれど、受付時間を調べているうちに夜の予定が気になり、画面を閉じてしまった。
「……まだです」
タラゴンは深く息を吐いた。
「もう現場は外してる。確認仕事も一人じゃやらせてねえ。それでも、この有様だ。根性で何とかなる段階じゃないぞ」
「……仕事は、できます」
「今、何ができてる?」
言葉が喉に詰まった。
タラゴンの問いは、意地悪ではなかった。だから余計に答えられない。間違えた書類も、何度も数え直した資材も、途中で分からなくなった作業手順も、全部本当のことだった。
「……明日、診てもらいます」
「本当だな」
「はい」
「今日はもう上がれ。医療機関に連絡して、ちゃんと診てもらえ。仕事のことはこっちで考える」
その一言に、安心より先に恐怖が来た。
休んだ日の給料はどうなる。夜の参加時間は減るのか。今月、母さんへ送る額を下げるのか。
答えの出ない計算が頭の中で始まり、気づけば俺は「すみません」と繰り返していた。
タラゴンの顔が、一瞬だけ歪んだ。
「……謝らせたいわけじゃねえんだよ」
その声を聞いても、俺は謝ることしかできなかった。
♦
専門病院からの返事が来たのは、その日の夜だった。
正確には、母さんから電話が来た。
俺は六畳の部屋で、スマートフォンを充電器につないでいた。画面の角には薄いひびがあり、通話を始めるまでに少し時間がかかる。ゼラオラは布団から顔を上げ、ヤブクロンも小さく身体を起こした。
「もしもし、母さん」
『リュカ。遅い時間にごめんね』
「大丈夫だよ。僕もちょうど休んでたところ」
座っていただけなのに、呼吸がわずかに乱れていた。悟られないように息を整える。
『今日ね、紹介先の病院から連絡があったの』
「……うん。どうだった?」
『診てもらえることになったわ。少し先だけど、ちゃんと日程も決まったの』
胸の奥が、かすかに軽くなった。
「よかった。僕、必要なら迎えに行くから」
『そこは、まず先生と相談するわ。移動の手配もあるし。あなた、仕事があるでしょう?』
「でも、一人じゃ大変だろ」
『一人で全部やるとは言ってないわよ。こっちにも相談できる人がいるもの』
母さんは小さく笑った。それから、声を落とした。
『ただね、診てもらえることと、手術ができることは、まだ別なんですって』
俺はスマートフォンを握り直した。
『前に撮った画像だけじゃ判断できないところがあるみたい。腫瘍が神経とどう接しているか、詳しく調べてから方針を決めるって。手術をするにしても、どんな危険があるか、どの程度よくなる見込みがあるか、説明を受ける必要があるって言われたわ』
「……そうなんだ」
『入院になったときのことも考えないとね。退院してから、前と同じように動けるとは限らないでしょう。家での暮らしをどうするかも、相談しておきたいの』
専門医が診てくれる。
それは確かに前進だった。けれど、手術が決まったわけじゃない。危険があると言われたらどうする。手術を受けられないと言われたら。受けられたとしても、母さんが以前のように歩けなかったら。
金があれば何とかなると思っていた問題が、金の届かない場所でいくつも枝分かれしていく。
『リュカ?』
「……聞いてるよ」
『ごめんね。心配させちゃった』
「謝らないで。ちゃんと診てもらえるなら、それだけでもよかったよ」
『ええ。私もそう思ってる』
母さんの声は穏やかだった。怖くないわけがない。それでも、あの人は自分の病気のことを、自分の言葉で話していた。
俺は、何も決められない。
金を送ることしかできない。
『それでね、お金のことなんだけど――』
「足りない?」
食い気味に言ってしまった。
電話の向こうが静かになる。
『……違うわ。足りないって話じゃないの。もうずいぶん送ってくれてるでしょう。必要な分は大切に取ってあるし、使った分もきちんと分けてる。だから、あなたまで無理しなくていいのよ』
「でも、これからもっと必要になるかもしれない」
『そうね。だからこそ、一緒に考えていきたいの』
「……僕は大丈夫だよ。まだ稼げるから」
言い終えてから、しまったと思った。
母さんはすぐに返事をしなかった。
『リュカ。あなた、そんなに働いてるの?』
「……仕事が、少し忙しいだけ」
『送ってくれるお金が多いから、前から気になってたの。危ないことはしてない?』
「してないよ」
嘘ではないと思いたかった。ポケモンバトルは正式な大会だ。危険な仕事に手を出したわけじゃない。誰かを騙して金を取ったこともない。
ただ、自分の身体をどこまで危険に晒しているかについては、答えになっていなかった。
『……母さんはね、あなたの人生まで借りるつもりはないのよ』
声が、とても優しかった。
『私の病気は、私自身が先生たちと向き合っていくから。あなたはあなたの身体を、大切にしてちょうだい』
「……うん」
『約束してくれる?』
「……約束する」
口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
通話を終えると、暗くなった画面に自分の顔が映った。頬がこけて、目の下には濃い影がある。見慣れたはずの顔が、知らない男のものみたいだった。
ゼラオラがそっと俺の膝に触れる。ヤブクロンは、開けたままの鞄に入っていたパンの袋を押してきた。
「……分かってる」
そう言いながら、俺は送金アプリを開いていた。
まだ使える金がある。
もっと送れる。
母さんが要らないと言っても、備えが多くて困ることはないはずだ。
送金額を入力したあと、確認画面で指を止めた。
母さんは、俺の人生まで借りたくないと言った。
なら、俺の人生の値段は、いくらなのだろう。
考えても、答えは出なかった。
♦
翌日、俺は病院へ行かなかった。
朝、予約窓口に電話をかけようとはした。だが、身体を起こしただけで吐き気が込み上げ、しばらく床にうずくまった。落ち着いてから時間を確かめると、受付の開始時刻は過ぎていた。
今から連絡すれば診てもらえるかもしれない。
そう考えながら、俺は仕事用の鞄を持った。
タラゴンには、病院へ行くと約束した。
工務店の前まで来たところで足が止まった。顔を合わせれば、行ったのかと聞かれるだろう。嘘をつくか、叱られるか。どちらも怖かった。
結局、俺は事務所へ入らず、会社へ連絡した。体調が悪いので休ませてほしい、と。
電話の向こうでタラゴンはすぐに了承した。ただし、必ず受診しろと言われた。
「……はい」
返事をして通話を切った。
そのまま病院へ向かうこともできたはずだった。
けれど、家へ戻った俺は寝袋へ倒れ込み、次に目を開けたときには日が傾いていた。長く眠った気がしたのに、頭痛はひどくなっていた。
休んだという事実だけが残った。
夜の準備を始めると、ゼラオラが正面に立った。ヤブクロンも俺の鞄を抱え込み、離そうとしなかった。
「……今日は、少しだけにする」
二匹は動かなかった。
俺は床へ腰を下ろした。
「母さんの診察日が決まったんだよ」
ゼラオラの耳が動いた。
「ちゃんと診てもらえる。でも、治せるかはまだ分からない。金だけじゃ足りないかもしれないんだ」
話しているうちに、息が浅くなった。
「俺、ほかに何ができる?」
聞いたところで、答えが返ってくるはずもなかった。
ゼラオラは近づいてきて、俺の肩へ額を押しつけた。ヤブクロンは鞄を放し、膝の横へ座る。
その温かさを、俺は受け取れなかった。
「……ごめん」
結局、その夜も外へ出た。
勝てた。
だから、まだ大丈夫なのだと思った。
♦
三か月目も終わりに近づいた夜、Fランクへの昇格が決まった。俺はバトルゾーンの端で、しばらく通知を読めなかった。
Vランクからの昇格試験。相手が送り出した三匹のポケモンは、ゼラオラに触れることさえ難しかった。俺がしたのは、必要な指示を最小限に伝えることだけだ。勝負は短く、相手の敗北を確認して終わった。
拍手が聞こえたような気がした。
顔を上げると、誰かがこちらを見ていた。何か声をかけられたが、意味を取るのに少し時間がかかった。
『Fランクへ昇格しました』
赤い文字が、画面の中央で光っている。
F。
そこまで来た。
もう、最初の頃のように一文字ずつ進むわけではない。残るランクは、以前よりずっと少ない。
普通なら、嬉しいはずだった。
俺は端末を閉じたあと、すぐにもう一度開いた。何かを確かめようとしていたのに、その何かが分からない。しばらく画面を眺めて、ようやく次のランクアップ戦の案内を探していたことを思い出した。
対戦資格は満たしていた。
審査と日程調整の通知が、後ほど届くという。
「……次だ」
ゼラオラが俺を見る。
「Fまで来た。次はEだ。その先も……」
声が途中で掠れた。
喉が渇いている。足の裏が痛い。膝に力が入らず、じっと立っているのが難しい。
それでも画面のFだけは、くっきり見えた。
Fランクになったところで、母さんの病状は変わらない。手術の日も決まらない。金だけでは届かない場所に、必要なものがある。
なら、Aランクに行くしかない。
願いが叶うという話が本当なら、専門医に診てもらえる場所も、必要な治療とその後の暮らしを支える仕組みも、何か一つでも前へ進められるかもしれない。
母さんに、選べる未来を渡したい。
その考えだけを握りしめて、俺は夜明け前の道を歩いた。
♦
翌日の夕方、工務店の休憩室で通知が鳴った。
数日前に医療機関を受診するよう強く言われて以来、タラゴンは俺を短時間の事務作業にしか就かせなかった。体調の悪さを隠す余地は、もうほとんどない。仕事中に立ち上がればふらつく。長い説明を聞けば途中で頭が追いつかなくなる。
それでも、俺は今日も会社へ来ていた。
同僚の確認を受けながら書類を揃え、終了時刻になってから休憩室へ戻る。窓際にはゼラオラがいて、ヤブクロンはその隣で丸くなっていた。
端末が震えた。
『F→Eランクアップ戦 対戦日程確定』
開催は、翌日の夜。
対戦相手の欄を開く。
カナリィ。
名前を見たとき、少しだけ肩の力が抜けた。
初めて会った日、あいつは俺の古いスマートフォンを見て笑った。俺も、あいつのことを知らないと言い、随分と感じの悪い返事をした。そのあと工務店で勝負をして、ゼラオラが四体を倒した。
あれから、何度も顔を合わせている。
今では、俺の顔を見るたびに休めだの食えだの言ってくる。気の強い女だ。うるさいと思う。正直、余計なお世話だと思うことも多い。
だが、知らない相手と戦うよりは、少し気が楽だった。
「……おまえ、何見てんの?」
扉が開いた。
カナリィが立っていた。片手に端末を持ち、いつもより硬い表情をしている。
「……通知」
「見たんだ」
「ああ。明日だってな」
彼女は小さく頷いた。
「Fランク、おめでと」
「……ありがとう」
「ま、ぼくが相手なら、そんな簡単にEには行かせないけどね」
いつもの強気な口調だった。
その言葉に、以前の勝負のことを思い出したのだろう。カナリィの指が端末の縁をぎゅっと握った。
「前みたいにはいかないから。ぼくだって、ずっと何もしてなかったわけじゃないし」
「……ああ」
「ちゃんと本気で来なよ。手加減とかしたら怒るから」
「しないよ」
カナリィはそれを聞いて、少しだけ笑いかけた。
だが、すぐに表情が消えた。
「……ねえ」
「何だ」
「ほんとに、明日戦えんの?」
答えようとしたとき、喉が引きつった。咳をひとつして誤魔化す。
「……問題ない」
「そういう意味じゃないんだけど」
彼女は近づいてきた。数歩の距離で立ち止まり、俺の顔を見つめる。
「おまえ、最近ずっと顔色悪い。前よりもっと痩せてるし。目も……何か、ちゃんと合ってないときあるよ」
「……眠いだけだ」
「だったら寝なよ」
「寝る」
「今日こそ?」
「……ああ」
カナリィはしばらく俺を見ていた。
それから、意地を張るように顎を上げた。
「じゃあ、明日。絶対に来なよ」
「……行くよ」
「約束だからね」
そう言って扉へ向かう。
出ていく直前、彼女はもう一度振り返った。
「……変な意味じゃないから」
「何が」
「ぼくが勝ちたいのは、ちゃんとしたおまえになの。倒れそうな顔で来られたって、嬉しくないし」
いつものように憎まれ口を返そうとして、言葉が出なかった。
彼女は返事を待たず、扉を閉めた。
俺は、しばらく動けなかった。
カナリィが何を言いたかったのかは、分かる。
分かったところで、どうすればいいのか分からなかった。
♦
帰宅して、俺はゼラオラとヤブクロンの食事を用意した。
二匹が食べ終わるのを見届け、自分の鞄を開く。中には安いパンが一つ残っていた。昨日買ったものか、今日買ったものか、はっきりしない。
袋を開けようとして、指に力が入らなかった。
包装の端を摘まむ。滑る。もう一度試す。うまく引き裂けない。
そんな簡単なことすらできない自分に腹が立ち、袋を床へ置いた。
ゼラオラが近づいてきた。
「……大丈夫。食べるから」
あいつはパンではなく、俺の顔を見ていた。
ヤブクロンが、袋を俺の膝の上へ戻す。
俺は開けかけた口を閉じた。
腹は減っているはずだった。何かを食べなければ、明日の仕事も勝負もできない。分かっているのに、胃のあたりが重く、口へ運ぶことを考えただけで吐き気がした。
結局、パンには手をつけられなかった。
窓の外では、ミアレの夜が始まっていた。
遠くの建物に赤い光が走る。バトルゾーンが形成され、人々が勝負へ向かっている。今出れば、夜明けまで何人倒せるだろう。明日はカナリィとの公式戦がある。今日のうちに少しでも多く稼いでおけば、その分だけ母さんへ送れる。
立ち上がろうとすると、ゼラオラが袖を引いた。
強く、はっきりと。
「……今日は、休むよ」
口にした言葉が、自分でも信じられなかった。
ゼラオラの手が少し緩む。
「明日、勝負があるからさ。今日は出ない。ちゃんと寝る」
ゼラオラはまだ離さなかった。
ヤブクロンが寝袋の端へ座り、俺が横になる場所を空けるように身体を動かした。
俺は靴を脱ぎ、寝袋へ潜り込んだ。
天井の小さな染みが、暗がりの中でぼやけている。薄い壁の向こうから、誰かが歩く音がした。遠くで車が走り、サイレンが一度鳴って消える。
眠ろうとする。
目を閉じる。
すると、数字が浮かんできた。
今日、稼がなかった金。
今月、母さんへ送れるはずだった額。
専門病院の診察日。
手術ができなかった場合のこと。
入院後の生活。
カナリィの名前。
Fランクの通知。
どれも頭から追い出せなかった。
眠れない。
身体は動かないほど疲れているのに、胸の内側だけが休もうとしない。
寝返りを打とうとすると、関節が痛んだ。喉が乾いている。手の先が冷たい。自分の呼吸が浅く速くなっているのが分かった。
ゼラオラが寝袋のそばへ座った。
ヤブクロンも、布団から下りてきた。
二匹とも、眠っていなかった。
「……そんな顔するなよ」
声が掠れた。
ゼラオラが前脚を伸ばし、俺の額に触れた。温かい。あいつの手が温かいのか、俺の身体が冷たいのか、分からない。
「……明日だけだ」
俺は二匹へ言った。
「明日、勝てば……また一つ、上に行ける」
ゼラオラの表情が変わった。
怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
俺は、あいつがそんな顔をしている理由を考えたくなかった。
「そうすれば、母さんに……」
そこで言葉が途切れた。
母さんに何をしてやれるのか、すぐには答えられなかった。
もっと金を送ること。
Aランクへ近づくこと。
あの人が不安なく治療を選べるようにすること。
どれも間違いではないはずなのに、今夜は一つも確かなものに思えなかった。
「……ごめん」
誰に謝ったのか、自分でも分からない。
ゼラオラが俺の手を包む。
ヤブクロンは寝袋の端へ額を寄せた。
二匹の体温が、少しずつ伝わってくる。
それでも、寒かった。
俺は目を閉じた。
明日になれば、仕事へ行く。
仕事が終われば、カナリィと戦う。
勝てばEランクだ。
そこまで行けば、もう一度考えよう。
ちゃんと食べることも、病院へ行くことも、眠ることも。
全部、明日になったら。
そう決めると、少しだけ気が楽になった。
今日、何も変えなくていい理由ができたからだった。
やがて、遠くの街の音が聞こえなくなった。
♦
翌朝、アラームが鳴った。
一度目の音で、ゼラオラが顔を上げた。
二度目の音でも、リュカは起きなかった。
いつもなら、どれほど眠そうでも手を伸ばし、うるさいと呟いて画面を止める。ヤブクロンがその動きに驚き、ゼラオラが呆れたように肩を揺らす。それが、最近の朝だった。
だが、その朝は違った。
ゼラオラが寝袋へ近づき、リュカの肩に触れた。
反応がない。
もう一度、少し強く揺する。
リュカの腕が、力なく寝袋の上へ落ちた。
ヤブクロンが小さく鳴いた。
ゼラオラは顔を寄せ、彼の呼吸を確かめようとした。息はあった。だが、いつものように目を開けない。名前を呼ぶように鳴いても、頬に触れても、返事はなかった。
アラームが三度目の音を鳴らす。
ゼラオラが、それを乱暴に止めた。
今度は両手で、リュカの肩を揺すった。
それでも、起きない。
小さな部屋に、ヤブクロンの怯えた声が響いた。
ゼラオラは扉を見た。
もう一度、寝袋の中のリュカを見る。
そして、何かを決めたように立ち上がった。
その朝、リュカは目を覚まさなかった。
活動報告更新しました。
22時にもう一話更新します。