君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。   作:霜月ルイ

9 / 10
第9話 黄色い雷が、助けを求めた日。

 嫌いな男だった。

 

 初めて会ったときから、ずっとそう思っていた。

 

 ぼくのことを知らないと言った。古いスマートフォンを馬鹿にしたら、不機嫌そうに睨んできた。何を聞いてもろくに答えないし、少しからかえば、すぐに「関係ない」と突き放してくる。

 

 あんなに感じの悪い男は、そうそういない。

 

 しかも、強い。

 

 それが何より腹立たしかった。

 

 ぼくは自分の腕に自信がある。ポケモンバトルだって、配信だって、中途半端な気持ちでやってきたわけじゃない。負けることはある。もちろん、悔しい思いをしたことだって何度もある。

 

 けれど、あんな負け方は初めてだった。

 

 エレザードも、マッギョも、デンリュウも。

 

 最後に送り出したメガシビルドンさえ、あいつのゼラオラを倒せなかった。

 

 あの日、ぼくは一匹のポケモンに四匹続けて負けた。

 

 しかも、相手は少しも嬉しそうじゃなかった。

 

 勝ったことを自慢するでもなく、ぼくを見下すでもなく、ただ当然の結果を確かめるような顔をしていた。

 

 思い出すだけで、今でも腹が立つ。

 

「……今度こそ、あんな簡単には負けないから」

 

 端末の画面に映し出された対戦通知を見ながら、ぼくは小さく呟いた。

 

 FランクからEランクへの昇格戦。

 

 挑戦者、リュカ。

 

 審査を担当するトレーナー、カナリィ。

 

 正式な対戦だ。

 

 あの日のように、工務店の空き地で勢いに任せて始めた勝負とは違う。ぼくの立場も、プライドも、全部かかった試合になる。

 

 だからこそ、負けられない。

 

 いや、相手がリュカだからというだけじゃない。

 

 あいつに、もう一度ぼくのことを見せつけてやりたかった。

 

 自信満々で、腹立たしくなるほど無愛想で、誰かに勝っても喜びさえしない男。

 

 そいつに、少しでも本気で悔しがらせてやりたかった。

 

 そう思っていた。

 

 少なくとも、昨日の夜までは。

 

     ♦

 

 朝から、妙に落ち着かなかった。

 

 普段のぼくなら、こんな時間に起きていない。

 

 配信が深夜まで続くことは珍しくないし、ゲームの調整や企画の確認を始めれば、気づけば朝になっていることもある。だから午前中は寝ていることが多かった。

 

 けれど今日は違った。

 

 昨夜はおじいちゃんのところへ顔を出し、そのまま工務店の奥にある休憩用の部屋を借りていた。正式戦の通知を見て、あいつの様子を確認しておきたくなったからだ。

 

 もちろん、本人にはそんなこと言ってない。

 

 言ったところで、どうせ面倒くさそうな顔をされる。

 

 それに、ぼくがわざわざ様子を見に来たなんて知られたら、何を言われるか分かったものじゃない。

 

 だから、祖父に会いに来たことにした。

 

 実際、おじいちゃんには会ったのだから嘘じゃない。

 

 昨日はそのまま夜遅くまで対戦の準備をして、寝たのは明け方だった。机の上には、まだ確認しきれていない資料が残っている。

 

 ゼラオラ。

 

 幻のポケモンだということは知っている。電気を操り、信じられない速度で動く。普通のポケモンとは比べ物にならない力を持っている。

 

 でも、強いポケモンを連れているだけで勝てるほど、ポケモンバトルは単純じゃない。

 

 あの日の勝負で、ぼくはそれを思い知らされた。

 

 リュカは、ほとんど余計な指示を出さなかった。

 

 ゼラオラが次に何をするべきか、最初から分かっているみたいだった。あいつ自身も、それを当たり前のように受け取っていた。

 

 長い時間を一緒に過ごしてきたのだろう。

 

 そんなことは見れば分かる。

 

 だから、ぼくだって負けるつもりはない。

 

 何度も戦い方を見直した。シビルドンの動きも確認した。前回のように感情的になって、無理な指示を重ねたりしない。相手が速いなら、それを前提に考えればいい。

 

 できる準備は、全部するつもりだった。

 

 なのに、頭の中で繰り返し浮かぶのは、戦い方よりもリュカの顔だった。

 

 目の下の濃い影。

 

 骨ばった手首。

 

 いつもより遅れて返ってくる返事。

 

 あの男は、この何か月かで明らかに痩せた。

 

 最初に会ったときだって細いと思ったけれど、最近はもっとひどい。

 

 頬の肉が落ち、以前はちょうどよかった作業着が妙に余っている。何かを聞いても、すぐに答えないことが増えた。机の上の書類を見たまま、何分も動かないことさえあった。

 

 それでも、仕事には来る。

 

 日が落ちればZAロワイヤルへ行く。

 

 毎日、毎日。

 

 何がそこまでさせるのか、ぼくには分からなかった。

 

「……ほんっと、馬鹿」

 

 誰もいない部屋で呟いた。

 

 昨日も言った。

 

 今日はちゃんと寝なよ、と。

 

 あいつは「寝る」と答えた。

 

 何度も同じやり取りをしてきたから、信用なんてしていない。どうせまた夜の街へ出て、朝まで走り回るつもりなんだろう。

 

 でも、今日は大事な公式戦だ。

 

 さすがに少しくらい休むはずだ。

 

 そう思い直し、端末を伏せた。

 

 試合までは、まだ時間がある。

 

 少し眠ろうと思って横になった。

 

 そのとき、廊下の向こうからおじいちゃんの声が聞こえた。

 

     ♦

 

「……まだ連絡つかねえのか」

 

 低く、苛立った声だった。

 

 続いて、事務所の人の返事が聞こえた。

 

「はい。携帯にも何度かかけていますが、応答がなくて」

 

「昨日もあんな顔してやがったからな……」

 

 何の話だろう。

 

 最初は、誰かが仕事を休んだのだと思った。

 

 工務店には何人も従業員がいる。体調を崩す人もいるだろうし、急な事情で欠勤することだってある。

 

 おじいちゃんが従業員のことを心配しているのは、珍しいことじゃない。

 

 だから、最初は気にしなかった。

 

 けれど、次の言葉を聞いて身体が固まった。

 

「リュカの奴、無断で休むような人間じゃねえんだよ」

 

 名前が聞こえた。

 

 ぼくは寝台から起き上がった。

 

 扉へ近づき、少しだけ開ける。

 

 廊下の先では、おじいちゃんが事務所の人と話していた。手にはスマートフォンを持っている。

 

「……リュカが、どうかしたの?」

 

 声をかけると、おじいちゃんが振り返った。

 

「おう、カナリィ。起きたか」

 

「何かあったの?」

 

「いや……あいつ、今朝から来てねえんだ。連絡もない」

 

 胸の奥が、ほんの少し冷えた。

 

「……寝坊じゃないの?」

 

 そう言ってみた。

 

 自分でも、あまり信じていなかった。

 

 リュカは感じが悪い。

 

 頑固だし、何を考えているのか分からない。

 

 けれど、仕事に関してだけは異様なほど真面目だった。

 

 約束した時間は守る。頼まれたことは最後までやろうとする。自分の仕事が残っていれば、ほかの人間が帰っても居残ろうとする。

 

 そんな奴が、何も言わずに休むだろうか。

 

「俺も最初はそう思ったんだがな」

 

 おじいちゃんは険しい顔で続けた。

 

「昨日、体調がよくないなら来るなって言ったんだ。けど、あいつは今日も来るって言い張ってな」

 

「……また?」

 

「ああ。病院に行けとも何度も言ってるんだが」

 

 嫌なものが、胃の底へ落ちた。

 

 昨日、ぼくにも言った。

 

 今日こそ寝る、と。

 

 あいつは、ちゃんと笑っていたっけ。

 

 いや、笑ってなんかいなかった。

 

 笑おうとして、うまく笑えていないような顔だった。

 

「……電話、出ないの?」

 

「何度かかけた。今も繋がらねえ」

 

「ぼくからかけてみる」

 

 言ってから、少しだけ迷った。

 

 リュカの連絡先は知っている。以前、工務店の用事で連絡を取ったことがあった。そのあと何度か短いメッセージを送ったが、返事はいつも必要最低限だった。

 

 今も、ぼくからの電話には出ないかもしれない。

 

 それでも、端末を取り出した。

 

 名前を選び、発信する。

 

 呼び出し音が続いた。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 出ない。

 

 もう少し待つ。

 

 やがて、応答がないまま通話が切れた。

 

「……出ない」

 

 おじいちゃんの顔が、さらに険しくなった。

 

 ぼくはもう一度かけた。

 

 結果は同じだった。

 

 何度目かの呼び出し音が途切れたとき、指先が冷たくなっていることに気づいた。

 

 ただの寝坊かもしれない。

 

 昨夜は早く寝ると言っていたし、疲れているなら深く眠っているのかもしれない。

 

 そうだったら、後で思いきり文句を言ってやればいい。

 

 電話くらい出なよ、と。

 

 ぼくまで心配させるなんて、ほんっと感じ悪い、と。

 

 そう考えようとした。

 

 でも、昨日のあいつの顔が頭から離れなかった。

 

「……おじいちゃん」

 

「何だ」

 

「リュカの家って、どこ?」

 

 おじいちゃんは少し驚いた顔をした。

 

「住所は会社の記録にある。だが、個人情報だから、確認もせずに渡せるもんじゃ――」

 

 そこで、事務所の入口から大きな音がした。

 

 何かがぶつかったような、硬い音だった。

 

 続いて、作業員の驚いた声が響いた。

 

「うわっ! 何だ!?」

 

 ぼくたちは同時に振り返った。

 

     ♦

 

 黄色い影が、開いた扉を抜けて飛び込んできた。

 

 最初は何が起きたのか分からなかった。

 

 あまりにも速かったからだ。

 

 床を蹴る音。

 

 机の横をすり抜ける風。

 

 誰かが反射的に身を引く。

 

 そのすべてが、一瞬だった。

 

 黄色い身体が事務所の中央で急停止する。

 

 ゼラオラ。

 

 リュカの相棒だった。

 

「……え?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 ゼラオラは荒く息をしていた。

 

 肩が大きく上下している。黄色い毛並みには埃がつき、足元には細かな砂が付着していた。

 

 あのゼラオラが。

 

 工務店の空き地でぼくのポケモンたちを圧倒した、あのゼラオラが。

 

 今は何かから逃げてきたような顔をしていた。

 

「ゼラオラ……?」

 

 ぼくが名前を呼ぶと、あいつは勢いよく振り返った。

 

 目が合った。

 

 その瞬間、背筋が冷たくなった。

 

 リュカと一緒にいるときのゼラオラは、いつも落ち着いていた。

 

 ぼくが何を言っても、あまり気にしない。リュカが嫌な態度を取れば、たしなめるように袖を引くこともある。ヤブクロンが怖がれば、隣に座って安心させる。

 

 人間よりよほど大人びていると思ったことさえあった。

 

 けれど、今は違う。

 

 目を大きく見開き、何かを必死に訴えようとしている。

 

 ぼくのところへ駆け寄ってきた。

 

「……ちょ、ちょっと、どうしたの?」

 

 ゼラオラがぼくの服を掴んだ。

 

 強く引く。

 

 身体が前へ傾いた。

 

「わっ、待って! 何!?」

 

 ゼラオラは答えない。

 

 ただ、玄関の方を指差した。

 

 もう一度、服を引く。

 

 ぼくが動かないと、今度は両手で手首を掴んだ。

 

 必死だった。

 

 あの強いポケモンが、言葉の通じない人間に何かを伝えようとして、必死になっていた。

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

「……リュカ?」

 

 ゼラオラの身体が止まった。

 

 ぼくは唾を飲み込んだ。

 

「……リュカに、何かあったの?」

 

 ゼラオラが強く頷いた。

 

 一度だけじゃなかった。

 

 何度も、何度も。

 

 ぼくの服を掴んだまま、頭を下げる。

 

 お願いするみたいに。

 

 助けてくれと言うみたいに。

 

「……っ」

 

 息が止まった。

 

 昨日の顔が浮かぶ。

 

 痩せた頬。

 

 冷たそうな指先。

 

 眠いだけだと笑おうとした口元。

 

『……今日こそ?』

 

『……ああ』

 

 あの返事。

 

 ぼくは、信じていなかった。

 

 信じていなかったのに、そのまま帰ってしまった。

 

「おじいちゃん!」

 

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 

「リュカのところ行ってくる! ゼラオラが案内してくれるから!」

 

「待て、カナリィ! 俺も――」

 

「すぐ連絡する! おじいちゃんも電話してみて!」

 

 言い終わる前に、ゼラオラが走り出した。

 

 ぼくはその後を追った。

 

 廊下を抜け、事務所を飛び出す。

 

 朝の光が目に刺さった。

 

 ゼラオラは入口の外で一度だけ振り返った。

 

 ぼくがついてきていることを確認すると、すぐに走り始める。

 

 足がもつれた。

 

 靴紐を結び直す余裕なんてなかった。

 

 息が乱れる。

 

 胸が苦しい。

 

 それでも、止まれなかった。

 

 何が起きたのかは、まだ分からない。

 

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 

 あのゼラオラが、リュカを置いて助けを呼びに来た。

 

 それが、どれほど異常なことなのか。

 

 ぼくにだって、分かった。

 

     ♦

 

 ミアレの朝は、いつもどおりだった。

 

 焼きたてのパンを並べる店員がいた。通学途中らしい子供たちが笑っていた。道路の向こうでは、犬のようなポケモンを連れた老人が、ゆっくりと散歩をしていた。

 

 誰も急いでいなかった。

 

 誰も、何かが起きているなんて思っていなかった。

 

 その中を、ぼくは必死に走っていた。

 

「はっ……はっ、ちょっと……!」

 

 ゼラオラが前方で立ち止まった。

 

 振り返って、ぼくを見る。

 

「……大丈夫、だから……行って!」

 

 言い終えると、また走り出した。

 

 息が苦しかった。

 

 寝不足の身体で、準備運動もせずに走っている。普段なら絶対にやらないようなことだった。胸の奥が焼けるように痛み、喉に冷たい空気が引っかかる。

 

 それでも、ゼラオラに置いていかれるわけにはいかなかった。

 

 あいつはぼくの歩幅に合わせていた。

 

 本気で走れば、こんなものじゃないはずだ。バトルのときには、目で追うことさえできなかった。

 

 なのに今は、何度も振り返っている。

 

 ぼくが遅れるたびに立ち止まり、追いつくとまた走り出す。

 

 その気遣いが、余計に怖かった。

 

 ゼラオラは急いでいる。

 

 一刻も早く、どこかへ連れていきたいと思っている。

 

 それなのに、ぼくを置いていくことができない。

 

 どうして。

 

 どうして、ぼくなの。

 

 そんな疑問が浮かんだ。

 

 リュカには職場の人がいる。おじいちゃんだっている。もっと体力のある人も、冷静に動ける人もいるはずだ。

 

 それでも、ゼラオラはぼくを選んだ。

 

 あいつが信じているのは、ぼくなのだろうか。

 

 リュカを助けられると、思ってくれたのだろうか。

 

「……っ、くそ……!」

 

 足がもつれそうになり、壁へ手をついた。

 

 ゼラオラが戻ってくる。

 

「いいから……先、案内して!」

 

 声が掠れた。

 

「リュカが……待ってるんでしょ……!」

 

 その名前を口にした途端、胸の奥が締めつけられた。

 

 リュカ。

 

 あの感じの悪い男。

 

 何を言っても聞かない男。

 

 ぼくがどれだけ怒っても、面倒くさそうな顔しかしない男。

 

 昨日だって、ちゃんと休めと言った。

 

 今日の試合に来いとも言った。

 

 あいつは「ああ」と答えた。

 

 たった、それだけだった。

 

 でも、約束した。

 

 絶対に来ると。

 

「……約束したじゃん」

 

 思わず呟いた。

 

 ゼラオラが振り返る。

 

「……今日、戦うって……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 胸が苦しくなり、ぼくは唇を噛んだ。

 

 違う。

 

 今、そんなことを考えている場合じゃない。

 

 勝負なんてどうでもいい。

 

 今日の試合がなくなったって構わない。

 

 あいつが無事なら、それでいい。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、ぼくは自分で自分に驚いた。

 

 どうして、そんなことを思うのだろう。

 

 あれほど負けたくなかった相手なのに。

 

 何日も準備してきた試合なのに。

 

 その全部が、どうでもよくなっていた。

 

     ♦

 

 ゼラオラが足を止めたのは、賑やかな通りから少し外れた場所だった。

 

 大通りには綺麗な建物が並んでいる。店の窓は磨かれ、花壇には季節の花が植えられている。観光客が写真を撮り、若い人たちが笑いながら歩いている。

 

 けれど、一本路地へ入るだけで景色は変わった。

 

 舗装は古く、壁には黒ずんだ雨染みが残っている。建物の裏手には室外機や配管がむき出しになり、狭い道の端にゴミ袋が並んでいた。

 

 ぼくは、こんな場所に来たことがほとんどなかった。

 

 ミアレで暮らしているのに、同じ街だとは思えない。

 

 ゼラオラは迷わず進んでいく。

 

 古い建物の前で止まった。

 

「……ここ?」

 

 見上げる。

 

 三階建ての、小さなアパートだった。

 

 外壁の色はところどころ剥げ、鉄製の階段には錆が浮いている。入口には建物の名前が書かれた板があったが、文字の一部が薄くなっていた。

 

 周囲には店もない。

 

 人の気配も、ほとんど感じられなかった。

 

 ぼくは、もう一度ゼラオラを見た。

 

「……リュカ、ここに住んでるの?」

 

 ゼラオラが頷く。

 

 息が止まりそうになった。

 

 あいつがどこに住んでいるかなんて、考えたこともなかった。

 

 いや、考えなかったわけじゃない。

 

 何度か聞こうと思ったことはある。

 

 でも、どうせ「お前には関係ない」と返される気がして、聞かなかった。

 

 古いスマートフォン。

 

 毎日同じようなパン。

 

 何度も着ている作業着。

 

 そんなものを見ていたのに、ぼくは何も考えなかった。

 

 ゼラオラが階段へ向かった。

 

 ぼくも後を追う。

 

 鉄の階段は、一段上がるたびに小さく軋んだ。

 

 手すりは冷たく、ところどころ塗装が剥がれている。廊下には薄暗い蛍光灯がついていた。朝なのに、ほとんど光が届かない。

 

 ゼラオラは奥の部屋へ向かった。

 

 扉の前で立ち止まる。

 

 ドアは、わずかに開いていた。

 

 おそらく、ゼラオラが飛び出してきたときに閉めきらなかったのだろう。

 

「……リュカ?」

 

 呼びかけた。

 

 返事はない。

 

 ぼくは息を整え、もう一度声をかけた。

 

「……ねえ、リュカ。ぼくだけど」

 

 静かだった。

 

 中からは、人の声も足音も聞こえない。

 

 代わりに、小さな鳴き声がした。

 

 ヤブクロンだ。

 

 ゼラオラが扉を押し開けた。

 

 ぼくは、その後ろから部屋を覗き込んだ。

 

     ♦

 

 最初に思ったのは、部屋を間違えたのではないかということだった。

 

 狭い玄関。

 

 短い廊下。

 

 その先に、小さな部屋が一つ。

 

 六畳ほどだろうか。

 

 床がよく見えた。

 

 あまりにも、よく見えた。

 

 家具がなかったからだ。

 

 ベッドも、机も、椅子もない。

 

 棚も、テレビもない。

 

 冷蔵庫のようなものも見当たらなかった。

 

 壁際に鞄が一つ置かれ、衣類が小さく畳まれている。

 

 床には、薄い寝袋。

 

 その隣に、少し古びた柔らかそうな布団があった。丁寧に縫い直された跡のある、小さな布団だった。

 

 ゼラオラのものだろう。

 

 それ以外には、ほとんど何もなかった。

 

 こんな部屋で。

 

 あいつは、暮らしていたのか。

 

 思考が止まった。

 

 昨日まで工務店で見ていたリュカと、目の前の光景が結びつかなかった。

 

 あの男は、いつも堂々としていた。

 

 誰に対しても同じように無愛想で、ぼくが何を言っても怯まない。バトルでは迷いがなく、ゼラオラへ指示するときの声は驚くほど落ち着いていた。

 

 だから、勝手に思っていた。

 

 何か、ぼくの知らない余裕があるのだと。

 

 誰にも頼らず生きていけるだけの強さがあるのだと。

 

 けれど、そこには何もなかった。

 

 人が一人暮らしているとは思えないほど、生活の跡が少なかった。

 

 そして。

 

「……リュカ?」

 

 寝袋の上に、人がいた。

 

 横向きに倒れるようにして眠っている。

 

 いや。

 

 眠っているのだと、最初は思いたかった。

 

 目を閉じている。

 

 身体は動かない。

 

 顔は、ひどく白かった。

 

 頬が落ち、閉じたまぶたの下に濃い影がある。唇は乾いていて、普段よりずっと小さく見えた。

 

 そばにはヤブクロンがいた。

 

 小さな身体を寄せ、何度もリュカの顔を覗き込んでいる。

 

 ぼくたちが入ってきたことに気づくと、ヤブクロンは顔を上げた。

 

 小さく鳴く。

 

 その声が、ひどく弱々しかった。

 

「……ねえ」

 

 足が動かなかった。

 

「……リュカ?」

 

 もう一度呼んだ。

 

 返事はなかった。

 

 いつもなら、面倒くさそうに顔を上げるはずだった。

 

『……何だよ』

 

 そう言って。

 

 ぼくが勝手に部屋へ来たことを、怒るはずだった。

 

『お前、何でここにいるんだ』

 

 そんなふうに。

 

 何も知らないぼくを、あの冷たい目で見上げるはずだった。

 

 なのに。

 

「……ねえ、起きてよ」

 

 近づいた。

 

 膝が床についた。

 

 リュカの肩へ手を伸ばす。

 

 触れた瞬間、身体の冷たさに息を呑んだ。

 

「……リュカ」

 

 肩へ触れて、呼びかける。

 

 反応がない。

 

「……起きて」

 

 声を大きくする。

 

 それでも、目を開けなかった。

 

 ゼラオラがそばへ来た。

 

 ぼくの隣にしゃがみ、リュカの顔へ手を伸ばす。

 

 いつものように、頬へ触れる。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 その仕草を見た瞬間、ようやく理解した。

 

 ゼラオラは、もう何度もこうしていたのだ。

 

 自分で起こそうとして。

 

 どうしても起こせなくて。

 

 それで、助けを呼びに来た。

 

「……っ、なんで……」

 

 声が震えた。

 

「なんで、起きないの……?」

 

 ぼくは、まだどこかで寝坊だと思いたがっていた。

 

 疲れて眠っているだけ。

 

 少し強く呼べば起きる。

 

 いつものように面倒くさそうな顔をして、ぼくを追い返そうとする。

 

 そうなってくれれば、どれだけよかっただろう。

 

 でも、何度呼んでも反応はなかった。

 

 胸の奥が、一気に冷たくなった。

 

 眠っているのとは違う。

 

 そう思った。

 

 そう思った瞬間、身体の震えが止まらなくなった。

 

     ♦

 

 電話。

 

 救急車。

 

 呼ばなきゃ。

 

 頭の中に言葉が浮かんだ。

 

 それなのに、手が動かなかった。

 

 ポケットから端末を取り出そうとして、一度床へ落とした。拾い上げても、指が震えてうまく操作できない。

 

「……っ、もう……!」

 

 自分の声が、情けないほど掠れていた。

 

 何をやっているんだ。

 

 ぼくがしっかりしなくて、どうする。

 

 ゼラオラは助けを求めてきた。

 

 あいつが、ぼくをここまで連れてきた。

 

 なのに、ぼくまで何もできなかったら。

 

「……大丈夫」

 

 誰に向けた言葉か分からなかった。

 

「大丈夫だから……」

 

 深く息を吸い、緊急通報の画面を開く。

 

 呼び出し音が鳴った。

 

 数秒後、落ち着いた声が聞こえた。

 

『救急です。どうされましたか』

 

「……人が、倒れてて……!」

 

 思った以上に大きな声が出た。

 

『落ち着いてください。場所を教えてください』

 

「場所……」

 

 そこで、言葉に詰まった。

 

 知らない。

 

 ここがどこなのか、正確な住所を知らない。

 

 ゼラオラについて走ってきただけだった。

 

 建物の名前は見た。

 

 でも、番地なんて覚えていない。

 

「……あの、ちょっと、待って……!」

 

 声が裏返った。

 

『大丈夫です。建物の名前や、近くに見えるものは分かりますか』

 

 ぼくは玄関の方を振り返った。

 

 建物の名前。

 

 入口に書いてあった。

 

「……古いアパートで、名前が……!」

 

 ゼラオラがすぐに立ち上がり、玄関へ向かう。

 

 ヤブクロンも小さく鳴いた。

 

 ぼくは端末を耳へ押し当てたまま、部屋を出た。廊下の先にある表示を確かめ、建物名と書かれた住所を読み上げる。

 

『確認します。その方の意識はありますか』

 

「……ない、です」

 

 口にした途端、涙が出そうになった。

 

「呼んでも、起きなくて……何回も、呼んだんですけど……」

 

『呼びかけに反応しないんですね。呼吸はしていますか』

 

「……っ」

 

 分からない。

 

 さっき、そんなことまで見ていなかった。

 

「すぐ、確認します……!」

 

 部屋へ戻る。

 

 リュカのそばへ膝をつく。

 

 電話の向こうから、確認の仕方を落ち着いた声で案内された。ぼくは言われたとおりに、胸の動きや呼吸の様子を確かめた。

 

 わずかに、胸が動いていた。

 

 息をしている。

 

 でも、いつもと同じなのかは分からない。

 

「……してます。息は、してます。でも……」

 

『分かりました。救急車を向かわせます。電話は切らずに、こちらの案内に従ってください』

 

 その声を聞いて、ようやく少しだけ息ができた。

 

 救急車が来る。

 

 誰かが助けに来てくれる。

 

 そう思った。

 

 けれど、安心なんてできなかった。

 

 目の前のリュカは、まだ起きない。

 

 顔色は悪いまま。

 

 何も変わっていない。

 

「……早く……」

 

 勝手に言葉が漏れた。

 

「お願いだから、早く……!」

 

 涙で画面が滲んだ。

 

 電話の向こうでは、落ち着いた声が続いていた。

 

 リュカを無理に起こそうとせず、呼吸の様子を見ながら待つように言われる。ぼくは言われたことを一つずつ繰り返し、確認した。

 

 普段なら、知らない人間に指示されるのは好きじゃない。

 

 けれど今は、その声に縋るしかなかった。

 

 ぼく一人では、何もできなかった。

 

     ♦

 

 どれくらい待ったのか、分からない。

 

 数分だったのかもしれない。

 

 それとも、もっと長かったのかもしれない。

 

 ぼくはリュカのそばに座り、何度も胸の動きを確かめた。

 

 ゼラオラは反対側に座っていた。

 

 ヤブクロンは寝袋の端に身体を寄せ、リュカの手元から離れようとしなかった。

 

 小さな部屋には、ぼくの呼吸と、電話の向こうの声だけが響いていた。

 

 窓から朝の光が差し込んでいる。

 

 明るくなればなるほど、部屋の中がはっきり見えてきた。

 

 壁には何も飾られていない。

 

 床には小さな傷がある。

 

 部屋の隅に積まれた衣類は、どれも着古したものだった。新品らしいものは見当たらない。

 

 寝袋の近くには、パンの袋が落ちていた。

 

 開けかけのまま、食べられていない。

 

 ぼくは、それを見つめた。

 

 昨日、言った。

 

 ちゃんと食べて、と。

 

 あいつは「食ってるよ」と答えた。

 

 嘘だと思った。

 

 絶対に嘘だと分かっていた。

 

 なのに、ぼくは帰った。

 

 何度も心配した。

 

 何度も腹を立てた。

 

 それでも、あいつの暮らしを想像したことはなかった。

 

 毎日、同じパンを食べていた理由。

 

 あんなに古いスマートフォンを使っていた理由。

 

 夜通し戦って、昼間も働き続けていた理由。

 

 全部、知らなかった。

 

 知らなかったのに、ぼくは簡単に言った。

 

『もっとちゃんとしたもの食べたら?』

 

『休めばいいじゃん』

 

 今なら分かる。

 

 少なくとも、そんなに簡単な話じゃなかったのだと。

 

 それでも。

 

 分からないことばかりだった。

 

 リュカはZAロワイヤルで、かなりの金を稼いでいるはずだ。

 

 あのゼラオラなら、一般のトレーナーに負けることはほとんどないだろう。三か月も戦い続けているのなら、相当な額になっている。

 

 それなのに、どうして。

 

 どうして、こんなところで暮らしているの。

 

 どうして、食べ物さえまともに買っていないの。

 

 どうして、自分が倒れるまで働いていたの。

 

 聞きたいことが、いくつも浮かんだ。

 

 けれど、その全部に答えてくれるはずの人間は、目の前で意識を失っていた。

 

 ぼくは、何も知らない。

 

 あいつの好きな食べ物も。

 

 どこで育ったのかも。

 

 家族がどんな人なのかも。

 

 何をそんなに急いでいるのかも。

 

 何か月も顔を合わせてきた。

 

 何度も喧嘩した。

 

 一度は本気でバトルをした。

 

 なのに、何も知らなかった。

 

「……ほんっと、感じ悪い」

 

 小さく呟いた。

 

 涙が頬を伝った。

 

「……こんなときまで、何も教えてくれないんだから」

 

 返事はなかった。

 

 当然だった。

 

 ぼくは唇を噛み、涙を拭った。

 

 泣いている場合じゃない。

 

 この男は、まだここにいる。

 

 息をしている。

 

 救急車が来るまで、ぼくが見ていなければならない。

 

 それだけは、できるはずだった。

 

     ♦

 

 しばらくして、端末がもう一度震えた。

 

 救急通報の連絡を保ったまま、画面におじいちゃんからの着信通知が表示されている。

 

 ぼくは電話の向こうの指示を優先しながら、別の通話で簡潔に状況を伝えた。

 

「……おじいちゃん」

 

『カナリィ! どうなってる!?』

 

「リュカが……倒れてて……」

 

 声が震えた。

 

『意識は?』

 

「……ない。呼んでも、起きない」

 

 電話の向こうで、息を呑む音がした。

 

『救急車は呼んだか』

 

「呼んだ。今、向かってるって……」

 

『分かった。俺もすぐ行く。住所は――』

 

「アパートの入口に書いてある。今、送るから」

 

 震える指で、建物の情報を送る。

 

 おじいちゃんは短く了承した。

 

『カナリィ。お前はリュカのそばにいてやれ。ゼラオラもいるんだろ』

 

「……うん」

 

『大丈夫だ。救急隊が来るまで、電話の指示を聞いて、落ち着いて動け』

 

「……分かった」

 

 通話が切れた。

 

 ぼくはリュカへ視線を戻した。

 

 まだ、動かない。

 

 ゼラオラがこちらを見ていた。

 

 あの強いポケモンが、ひどく不安そうな顔をしている。

 

 ぼくは、ゆっくり手を伸ばした。

 

 黄色い毛並みに触れる。

 

「……よく、ぼくのところ来てくれたね」

 

 ゼラオラの耳が動いた。

 

「ありがとう。ちゃんと、連れてきてくれて」

 

 言いながら、また涙が出そうになった。

 

 ゼラオラは小さく鳴き、リュカの方へ顔を向けた。

 

 ぼくは、その視線を追った。

 

「……うん」

 

 小さく頷く。

 

「分かってる。まだ、安心できないよね」

 

 ゼラオラは何も言わなかった。

 

 でも、その沈黙がひどく苦しかった。

 

 もし、この子が工務店へ来なかったら。

 

 もし、誰も異変に気づかなかったら。

 

 もし、ぼくがもう少し寝ていたら。

 

 考えたくない想像が、頭の中で次々に膨らんでいく。

 

 ぼくは無理やり目を閉じた。

 

 そんなことを考えても、何も変わらない。

 

 今は、ここにいる。

 

 ちゃんと、助けを呼べた。

 

 あとは、待つしかない。

 

 そう思うのに、身体の震えは止まらなかった。

 

     ♦

 

 遠くから、サイレンが聞こえた。

 

 最初は、街のどこかを走っている車の音だと思った。

 

 けれど、少しずつ大きくなっていく。

 

 近づいてくる。

 

 ぼくは思わず顔を上げた。

 

「……来た」

 

 ゼラオラも立ち上がった。

 

「救急車……来たよ」

 

 ヤブクロンが小さく鳴いた。

 

 サイレンの音が、建物の前で止まる。

 

 廊下から、慌ただしい足音が聞こえ始めた。

 

 ぼくは玄関へ向かい、救急隊員を迎え入れた。

 

 状況を説明する。

 

 名前。

 

 年齢。

 

 呼びかけに反応しないこと。

 

 発見したときから意識がなかったこと。

 

 最後に会話したのは昨日の夕方だったこと。

 

 そのときも、ひどく顔色が悪かったこと。

 

 最近、あまり食べていないように見えたこと。

 

 眠っていないのではないかと心配していたこと。

 

 話しながら、自分が何も知らないことを何度も思い知らされた。

 

 持病はあるのかと聞かれても、分からない。

 

 薬を飲んでいるのかと聞かれても、知らない。

 

 いつから具合が悪かったのかと聞かれても、正確には答えられない。

 

 何か月も前から、顔色は悪かった。

 

 でも、それがいつからなのか。

 

 いつ、こんなに痩せたのか。

 

 ぼくは説明できなかった。

 

 救急隊員たちは手際よく確認を進め、必要な処置を始めた。

 

 ぼくは、その邪魔にならないように壁際へ下がった。

 

 ゼラオラは動こうとしなかった。

 

 リュカのそばから離れようとせず、近づいた隊員を警戒するように見つめている。

 

「……ゼラオラ」

 

 呼びかける。

 

 あいつは振り返らなかった。

 

「大丈夫。助けてくれる人たちだから」

 

 そう言うと、少しだけ耳が動いた。

 

「……お願い。今は、任せよう」

 

 ゼラオラは、ゆっくりとこちらを見た。

 

 それから、リュカへ視線を戻す。

 

 ようやく一歩、後ろへ下がった。

 

 ぼくはその隣にしゃがみ、肩へ手を置いた。

 

 黄色い身体が、わずかに震えていた。

 

 初めてだった。

 

 あのゼラオラが、こんなふうに震えているのを見るのは。

 

 いつもリュカを守っていた。

 

 どんな相手にも怯まず、彼の指示に応えて戦っていた。

 

 そんなあいつが今、何もできずに見ている。

 

 ぼくも同じだった。

 

 助けを呼ぶことしかできなかった。

 

 それ以上のことは、何一つできなかった。

 

     ♦

 

 リュカが担架へ移される。

 

 その瞬間、ゼラオラが立ち上がった。

 

 ヤブクロンも慌てて近づこうとする。

 

 ぼくは二匹へ声をかけた。

 

「……大丈夫。連れていってくれるだけだから」

 

 自分に言い聞かせているようだった。

 

 救急隊員が、慎重に担架を動かす。

 

 薄い寝袋が床に残った。

 

 その下にあった床の傷が、あらわになった。

 

 さっきまでリュカがいた場所。

 

 今は、誰もいない。

 

 その光景を見た瞬間、足元が揺れた。

 

 この部屋から、あいつがいなくなる。

 

 病院へ連れていってもらうだけだ。

 

 助けてもらうために必要なことだ。

 

 分かっている。

 

 なのに、胸の奥が締めつけられた。

 

 もし。

 

 もし、戻ってこなかったら。

 

 そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。

 

 嫌だ。

 

 そんなの、絶対に嫌だ。

 

「……リュカ」

 

 名前を呼んだ。

 

 担架の上の青年は、目を閉じたままだった。

 

 いつもよりずっと小さく見えた。

 

 あの無愛想な男が。

 

 ぼくに勝った男が。

 

 ゼラオラと一緒に、何人ものトレーナーを倒してきた男が。

 

 今は、誰かに運ばれていくことしかできない。

 

「……ねえ」

 

 声が震えた。

 

「……起きてよ」

 

 返事はない。

 

「今日、勝負するんでしょ」

 

 何を言っているんだろう。

 

 自分でも分かっていた。

 

 今、勝負なんてできるはずがない。

 

 そんなこと、どうでもいい。

 

 でも、何か言わなければ、あいつが遠くへ行ってしまう気がした。

 

「……ぼく、いっぱい準備したんだから」

 

 涙が落ちた。

 

「前みたいに、簡単に負けるつもりなかったんだから……」

 

 喉が詰まる。

 

 救急隊員が、静かに声をかけてくれた。

 

 ぼくは慌てて道を空けた。

 

 担架が廊下へ出ていく。

 

 ゼラオラが、その後を追う。

 

 ヤブクロンも、小さな足で必死についていこうとした。

 

 ぼくは二匹を見て、ようやく動けた。

 

 この子たちを置いていけない。

 

 リュカが目を覚ましたとき、ゼラオラがいなかったら、きっと心配する。

 

 ヤブクロンだって、あいつのそばにいたいはずだ。

 

 救急隊員に相談すると、同行や搬送先について確認することになった。ぼくは必要な連絡を引き受け、二匹が離れ離れにならないようにした。

 

 それだけのことをするのに、何度も言葉を噛んだ。

 

     ♦

 

 建物の外へ出ると、朝の光が眩しかった。

 

 通りには、いつもどおりの人々がいた。

 

 買い物袋を持った人。

 

 仕事へ向かう人。

 

 笑いながら歩く学生たち。

 

 誰も、何が起きたのか知らない。

 

 この街では、今日も普通の一日が始まろうとしている。

 

 けれど、ぼくにとっては違った。

 

 ほんの数時間前まで、あいつに勝つことばかり考えていた。

 

 どうやってゼラオラの速度に対応するか。

 

 どんな順番でポケモンを出すか。

 

 勝ったら何と言ってやろうか。

 

 そんなことを考えていた。

 

 今は、何も考えられなかった。

 

 ただ、目を覚ましてほしかった。

 

 それだけだった。

 

 救急車へ運ばれる担架を見つめる。

 

 リュカの顔が、一瞬だけ見えた。

 

 閉じた目。

 

 痩せた頬。

 

 力の入らない手。

 

 ぼくは、その手を思い出した。

 

 工務店の休憩室で、何度も見た手だった。

 

 パンの袋を開けるとき。

 

 ゼラオラの頭を撫でるとき。

 

 ヤブクロンを安心させるために、ゆっくり差し伸べるとき。

 

 その手は、いつも誰かのために動いていた。

 

 なのに。

 

 自分のためには、何もしていなかった。

 

 どうして。

 

 何で、そんなことするの。

 

 何で、ぼくに何も言わなかったの。

 

 何で、あんなに無理してたの。

 

 怒りたかった。

 

 あいつが目を覚ましたら、思いきり文句を言ってやりたかった。

 

 こんなになるまで働くなんて馬鹿だと。

 

 自分のことを少しは大切にしろと。

 

 心配させるなと。

 

 全部、言ってやりたかった。

 

 でも、そのためには。

 

 まず、目を覚ましてもらわなければならない。

 

「……お願いだから」

 

 声が漏れた。

 

 ゼラオラが隣で、こちらを見上げた。

 

 ぼくは、涙を拭おうとした。

 

 うまく拭えなかった。

 

「……お願いだから、死なないでよ……」

 

 言葉にした瞬間、堪えていたものが崩れた。

 

 嫌いだった。

 

 今だって、腹が立つ。

 

 あんなに感じが悪くて、何を考えているのか分からなくて、いつもぼくを苛立たせる男なんて。

 

 大嫌いだ。

 

 そう思いたかった。

 

 なのに、どうして。

 

 どうして、こんなに怖いの。

 

 ゼラオラが、そっとぼくの手に触れた。

 

 黄色い毛並みは温かかった。

 

 ぼくは、その手を握り返した。

 

 あの部屋で、ゼラオラはぼくを選んだ。

 

 助けを呼びに走った先で、ぼくを見つけた。

 

 だから、ぼくはここにいる。

 

 何も知らない。

 

 何もできない。

 

 それでも、ここにいる。

 

 ぼくは震える息を吐き、もう一度救急車へ目を向けた。

 

 今日、公式戦があるはずだった。

 

 あいつに勝つために、何日も準備してきた。

 

 その全部が、もうどうでもよかった。

 

 ただ、もう一度。

 

 あの冷たい目で、ぼくを見てほしかった。

 

『……お前には関係ない』

 

 そう言って、突き放してくれても構わない。

 

 腹が立って、喧嘩になって。

 

 また、いつものように言い返せるなら。

 

 それでよかった。

 

 救急車の扉が閉まる。

 

 サイレンが鳴り始める。

 

 ぼくはゼラオラの手を握ったまま、ゆっくりと息を吸った。

 

 まだ、終わっていない。

 

 リュカは、まだ生きている。

 

 その事実に縋るように、ぼくは搬送先の病院へ向かう準備を始めた。

 

 そして、ふと思った。

 

 あいつは、どれだけの夜を一人で過ごしてきたのだろう。

 

 誰にも頼らず。

 

 誰にも話さず。

 

 何もない六畳の部屋へ帰って。

 

 いったい、何を守ろうとしていたのだろう。

 

 ぼくはまだ、その答えを知らなかった。

 

 ただ、この朝、初めて知ったことがある。

 

 あの男は、決して強いだけの人間なんかじゃなかった。

 

 そして、そんな当たり前のことを知るまでに、ぼくはあまりにも長い時間をかけてしまった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。