君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
嫌いな男だった。
初めて会ったときから、ずっとそう思っていた。
ぼくのことを知らないと言った。古いスマートフォンを馬鹿にしたら、不機嫌そうに睨んできた。何を聞いてもろくに答えないし、少しからかえば、すぐに「関係ない」と突き放してくる。
あんなに感じの悪い男は、そうそういない。
しかも、強い。
それが何より腹立たしかった。
ぼくは自分の腕に自信がある。ポケモンバトルだって、配信だって、中途半端な気持ちでやってきたわけじゃない。負けることはある。もちろん、悔しい思いをしたことだって何度もある。
けれど、あんな負け方は初めてだった。
エレザードも、マッギョも、デンリュウも。
最後に送り出したメガシビルドンさえ、あいつのゼラオラを倒せなかった。
あの日、ぼくは一匹のポケモンに四匹続けて負けた。
しかも、相手は少しも嬉しそうじゃなかった。
勝ったことを自慢するでもなく、ぼくを見下すでもなく、ただ当然の結果を確かめるような顔をしていた。
思い出すだけで、今でも腹が立つ。
「……今度こそ、あんな簡単には負けないから」
端末の画面に映し出された対戦通知を見ながら、ぼくは小さく呟いた。
FランクからEランクへの昇格戦。
挑戦者、リュカ。
審査を担当するトレーナー、カナリィ。
正式な対戦だ。
あの日のように、工務店の空き地で勢いに任せて始めた勝負とは違う。ぼくの立場も、プライドも、全部かかった試合になる。
だからこそ、負けられない。
いや、相手がリュカだからというだけじゃない。
あいつに、もう一度ぼくのことを見せつけてやりたかった。
自信満々で、腹立たしくなるほど無愛想で、誰かに勝っても喜びさえしない男。
そいつに、少しでも本気で悔しがらせてやりたかった。
そう思っていた。
少なくとも、昨日の夜までは。
♦
朝から、妙に落ち着かなかった。
普段のぼくなら、こんな時間に起きていない。
配信が深夜まで続くことは珍しくないし、ゲームの調整や企画の確認を始めれば、気づけば朝になっていることもある。だから午前中は寝ていることが多かった。
けれど今日は違った。
昨夜はおじいちゃんのところへ顔を出し、そのまま工務店の奥にある休憩用の部屋を借りていた。正式戦の通知を見て、あいつの様子を確認しておきたくなったからだ。
もちろん、本人にはそんなこと言ってない。
言ったところで、どうせ面倒くさそうな顔をされる。
それに、ぼくがわざわざ様子を見に来たなんて知られたら、何を言われるか分かったものじゃない。
だから、祖父に会いに来たことにした。
実際、おじいちゃんには会ったのだから嘘じゃない。
昨日はそのまま夜遅くまで対戦の準備をして、寝たのは明け方だった。机の上には、まだ確認しきれていない資料が残っている。
ゼラオラ。
幻のポケモンだということは知っている。電気を操り、信じられない速度で動く。普通のポケモンとは比べ物にならない力を持っている。
でも、強いポケモンを連れているだけで勝てるほど、ポケモンバトルは単純じゃない。
あの日の勝負で、ぼくはそれを思い知らされた。
リュカは、ほとんど余計な指示を出さなかった。
ゼラオラが次に何をするべきか、最初から分かっているみたいだった。あいつ自身も、それを当たり前のように受け取っていた。
長い時間を一緒に過ごしてきたのだろう。
そんなことは見れば分かる。
だから、ぼくだって負けるつもりはない。
何度も戦い方を見直した。シビルドンの動きも確認した。前回のように感情的になって、無理な指示を重ねたりしない。相手が速いなら、それを前提に考えればいい。
できる準備は、全部するつもりだった。
なのに、頭の中で繰り返し浮かぶのは、戦い方よりもリュカの顔だった。
目の下の濃い影。
骨ばった手首。
いつもより遅れて返ってくる返事。
あの男は、この何か月かで明らかに痩せた。
最初に会ったときだって細いと思ったけれど、最近はもっとひどい。
頬の肉が落ち、以前はちょうどよかった作業着が妙に余っている。何かを聞いても、すぐに答えないことが増えた。机の上の書類を見たまま、何分も動かないことさえあった。
それでも、仕事には来る。
日が落ちればZAロワイヤルへ行く。
毎日、毎日。
何がそこまでさせるのか、ぼくには分からなかった。
「……ほんっと、馬鹿」
誰もいない部屋で呟いた。
昨日も言った。
今日はちゃんと寝なよ、と。
あいつは「寝る」と答えた。
何度も同じやり取りをしてきたから、信用なんてしていない。どうせまた夜の街へ出て、朝まで走り回るつもりなんだろう。
でも、今日は大事な公式戦だ。
さすがに少しくらい休むはずだ。
そう思い直し、端末を伏せた。
試合までは、まだ時間がある。
少し眠ろうと思って横になった。
そのとき、廊下の向こうからおじいちゃんの声が聞こえた。
♦
「……まだ連絡つかねえのか」
低く、苛立った声だった。
続いて、事務所の人の返事が聞こえた。
「はい。携帯にも何度かかけていますが、応答がなくて」
「昨日もあんな顔してやがったからな……」
何の話だろう。
最初は、誰かが仕事を休んだのだと思った。
工務店には何人も従業員がいる。体調を崩す人もいるだろうし、急な事情で欠勤することだってある。
おじいちゃんが従業員のことを心配しているのは、珍しいことじゃない。
だから、最初は気にしなかった。
けれど、次の言葉を聞いて身体が固まった。
「リュカの奴、無断で休むような人間じゃねえんだよ」
名前が聞こえた。
ぼくは寝台から起き上がった。
扉へ近づき、少しだけ開ける。
廊下の先では、おじいちゃんが事務所の人と話していた。手にはスマートフォンを持っている。
「……リュカが、どうかしたの?」
声をかけると、おじいちゃんが振り返った。
「おう、カナリィ。起きたか」
「何かあったの?」
「いや……あいつ、今朝から来てねえんだ。連絡もない」
胸の奥が、ほんの少し冷えた。
「……寝坊じゃないの?」
そう言ってみた。
自分でも、あまり信じていなかった。
リュカは感じが悪い。
頑固だし、何を考えているのか分からない。
けれど、仕事に関してだけは異様なほど真面目だった。
約束した時間は守る。頼まれたことは最後までやろうとする。自分の仕事が残っていれば、ほかの人間が帰っても居残ろうとする。
そんな奴が、何も言わずに休むだろうか。
「俺も最初はそう思ったんだがな」
おじいちゃんは険しい顔で続けた。
「昨日、体調がよくないなら来るなって言ったんだ。けど、あいつは今日も来るって言い張ってな」
「……また?」
「ああ。病院に行けとも何度も言ってるんだが」
嫌なものが、胃の底へ落ちた。
昨日、ぼくにも言った。
今日こそ寝る、と。
あいつは、ちゃんと笑っていたっけ。
いや、笑ってなんかいなかった。
笑おうとして、うまく笑えていないような顔だった。
「……電話、出ないの?」
「何度かかけた。今も繋がらねえ」
「ぼくからかけてみる」
言ってから、少しだけ迷った。
リュカの連絡先は知っている。以前、工務店の用事で連絡を取ったことがあった。そのあと何度か短いメッセージを送ったが、返事はいつも必要最低限だった。
今も、ぼくからの電話には出ないかもしれない。
それでも、端末を取り出した。
名前を選び、発信する。
呼び出し音が続いた。
一回。
二回。
三回。
出ない。
もう少し待つ。
やがて、応答がないまま通話が切れた。
「……出ない」
おじいちゃんの顔が、さらに険しくなった。
ぼくはもう一度かけた。
結果は同じだった。
何度目かの呼び出し音が途切れたとき、指先が冷たくなっていることに気づいた。
ただの寝坊かもしれない。
昨夜は早く寝ると言っていたし、疲れているなら深く眠っているのかもしれない。
そうだったら、後で思いきり文句を言ってやればいい。
電話くらい出なよ、と。
ぼくまで心配させるなんて、ほんっと感じ悪い、と。
そう考えようとした。
でも、昨日のあいつの顔が頭から離れなかった。
「……おじいちゃん」
「何だ」
「リュカの家って、どこ?」
おじいちゃんは少し驚いた顔をした。
「住所は会社の記録にある。だが、個人情報だから、確認もせずに渡せるもんじゃ――」
そこで、事務所の入口から大きな音がした。
何かがぶつかったような、硬い音だった。
続いて、作業員の驚いた声が響いた。
「うわっ! 何だ!?」
ぼくたちは同時に振り返った。
♦
黄色い影が、開いた扉を抜けて飛び込んできた。
最初は何が起きたのか分からなかった。
あまりにも速かったからだ。
床を蹴る音。
机の横をすり抜ける風。
誰かが反射的に身を引く。
そのすべてが、一瞬だった。
黄色い身体が事務所の中央で急停止する。
ゼラオラ。
リュカの相棒だった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
ゼラオラは荒く息をしていた。
肩が大きく上下している。黄色い毛並みには埃がつき、足元には細かな砂が付着していた。
あのゼラオラが。
工務店の空き地でぼくのポケモンたちを圧倒した、あのゼラオラが。
今は何かから逃げてきたような顔をしていた。
「ゼラオラ……?」
ぼくが名前を呼ぶと、あいつは勢いよく振り返った。
目が合った。
その瞬間、背筋が冷たくなった。
リュカと一緒にいるときのゼラオラは、いつも落ち着いていた。
ぼくが何を言っても、あまり気にしない。リュカが嫌な態度を取れば、たしなめるように袖を引くこともある。ヤブクロンが怖がれば、隣に座って安心させる。
人間よりよほど大人びていると思ったことさえあった。
けれど、今は違う。
目を大きく見開き、何かを必死に訴えようとしている。
ぼくのところへ駆け寄ってきた。
「……ちょ、ちょっと、どうしたの?」
ゼラオラがぼくの服を掴んだ。
強く引く。
身体が前へ傾いた。
「わっ、待って! 何!?」
ゼラオラは答えない。
ただ、玄関の方を指差した。
もう一度、服を引く。
ぼくが動かないと、今度は両手で手首を掴んだ。
必死だった。
あの強いポケモンが、言葉の通じない人間に何かを伝えようとして、必死になっていた。
心臓が、嫌な音を立てた。
「……リュカ?」
ゼラオラの身体が止まった。
ぼくは唾を飲み込んだ。
「……リュカに、何かあったの?」
ゼラオラが強く頷いた。
一度だけじゃなかった。
何度も、何度も。
ぼくの服を掴んだまま、頭を下げる。
お願いするみたいに。
助けてくれと言うみたいに。
「……っ」
息が止まった。
昨日の顔が浮かぶ。
痩せた頬。
冷たそうな指先。
眠いだけだと笑おうとした口元。
『……今日こそ?』
『……ああ』
あの返事。
ぼくは、信じていなかった。
信じていなかったのに、そのまま帰ってしまった。
「おじいちゃん!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「リュカのところ行ってくる! ゼラオラが案内してくれるから!」
「待て、カナリィ! 俺も――」
「すぐ連絡する! おじいちゃんも電話してみて!」
言い終わる前に、ゼラオラが走り出した。
ぼくはその後を追った。
廊下を抜け、事務所を飛び出す。
朝の光が目に刺さった。
ゼラオラは入口の外で一度だけ振り返った。
ぼくがついてきていることを確認すると、すぐに走り始める。
足がもつれた。
靴紐を結び直す余裕なんてなかった。
息が乱れる。
胸が苦しい。
それでも、止まれなかった。
何が起きたのかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あのゼラオラが、リュカを置いて助けを呼びに来た。
それが、どれほど異常なことなのか。
ぼくにだって、分かった。
♦
ミアレの朝は、いつもどおりだった。
焼きたてのパンを並べる店員がいた。通学途中らしい子供たちが笑っていた。道路の向こうでは、犬のようなポケモンを連れた老人が、ゆっくりと散歩をしていた。
誰も急いでいなかった。
誰も、何かが起きているなんて思っていなかった。
その中を、ぼくは必死に走っていた。
「はっ……はっ、ちょっと……!」
ゼラオラが前方で立ち止まった。
振り返って、ぼくを見る。
「……大丈夫、だから……行って!」
言い終えると、また走り出した。
息が苦しかった。
寝不足の身体で、準備運動もせずに走っている。普段なら絶対にやらないようなことだった。胸の奥が焼けるように痛み、喉に冷たい空気が引っかかる。
それでも、ゼラオラに置いていかれるわけにはいかなかった。
あいつはぼくの歩幅に合わせていた。
本気で走れば、こんなものじゃないはずだ。バトルのときには、目で追うことさえできなかった。
なのに今は、何度も振り返っている。
ぼくが遅れるたびに立ち止まり、追いつくとまた走り出す。
その気遣いが、余計に怖かった。
ゼラオラは急いでいる。
一刻も早く、どこかへ連れていきたいと思っている。
それなのに、ぼくを置いていくことができない。
どうして。
どうして、ぼくなの。
そんな疑問が浮かんだ。
リュカには職場の人がいる。おじいちゃんだっている。もっと体力のある人も、冷静に動ける人もいるはずだ。
それでも、ゼラオラはぼくを選んだ。
あいつが信じているのは、ぼくなのだろうか。
リュカを助けられると、思ってくれたのだろうか。
「……っ、くそ……!」
足がもつれそうになり、壁へ手をついた。
ゼラオラが戻ってくる。
「いいから……先、案内して!」
声が掠れた。
「リュカが……待ってるんでしょ……!」
その名前を口にした途端、胸の奥が締めつけられた。
リュカ。
あの感じの悪い男。
何を言っても聞かない男。
ぼくがどれだけ怒っても、面倒くさそうな顔しかしない男。
昨日だって、ちゃんと休めと言った。
今日の試合に来いとも言った。
あいつは「ああ」と答えた。
たった、それだけだった。
でも、約束した。
絶対に来ると。
「……約束したじゃん」
思わず呟いた。
ゼラオラが振り返る。
「……今日、戦うって……」
言葉が続かなかった。
胸が苦しくなり、ぼくは唇を噛んだ。
違う。
今、そんなことを考えている場合じゃない。
勝負なんてどうでもいい。
今日の試合がなくなったって構わない。
あいつが無事なら、それでいい。
その考えが浮かんだ瞬間、ぼくは自分で自分に驚いた。
どうして、そんなことを思うのだろう。
あれほど負けたくなかった相手なのに。
何日も準備してきた試合なのに。
その全部が、どうでもよくなっていた。
♦
ゼラオラが足を止めたのは、賑やかな通りから少し外れた場所だった。
大通りには綺麗な建物が並んでいる。店の窓は磨かれ、花壇には季節の花が植えられている。観光客が写真を撮り、若い人たちが笑いながら歩いている。
けれど、一本路地へ入るだけで景色は変わった。
舗装は古く、壁には黒ずんだ雨染みが残っている。建物の裏手には室外機や配管がむき出しになり、狭い道の端にゴミ袋が並んでいた。
ぼくは、こんな場所に来たことがほとんどなかった。
ミアレで暮らしているのに、同じ街だとは思えない。
ゼラオラは迷わず進んでいく。
古い建物の前で止まった。
「……ここ?」
見上げる。
三階建ての、小さなアパートだった。
外壁の色はところどころ剥げ、鉄製の階段には錆が浮いている。入口には建物の名前が書かれた板があったが、文字の一部が薄くなっていた。
周囲には店もない。
人の気配も、ほとんど感じられなかった。
ぼくは、もう一度ゼラオラを見た。
「……リュカ、ここに住んでるの?」
ゼラオラが頷く。
息が止まりそうになった。
あいつがどこに住んでいるかなんて、考えたこともなかった。
いや、考えなかったわけじゃない。
何度か聞こうと思ったことはある。
でも、どうせ「お前には関係ない」と返される気がして、聞かなかった。
古いスマートフォン。
毎日同じようなパン。
何度も着ている作業着。
そんなものを見ていたのに、ぼくは何も考えなかった。
ゼラオラが階段へ向かった。
ぼくも後を追う。
鉄の階段は、一段上がるたびに小さく軋んだ。
手すりは冷たく、ところどころ塗装が剥がれている。廊下には薄暗い蛍光灯がついていた。朝なのに、ほとんど光が届かない。
ゼラオラは奥の部屋へ向かった。
扉の前で立ち止まる。
ドアは、わずかに開いていた。
おそらく、ゼラオラが飛び出してきたときに閉めきらなかったのだろう。
「……リュカ?」
呼びかけた。
返事はない。
ぼくは息を整え、もう一度声をかけた。
「……ねえ、リュカ。ぼくだけど」
静かだった。
中からは、人の声も足音も聞こえない。
代わりに、小さな鳴き声がした。
ヤブクロンだ。
ゼラオラが扉を押し開けた。
ぼくは、その後ろから部屋を覗き込んだ。
♦
最初に思ったのは、部屋を間違えたのではないかということだった。
狭い玄関。
短い廊下。
その先に、小さな部屋が一つ。
六畳ほどだろうか。
床がよく見えた。
あまりにも、よく見えた。
家具がなかったからだ。
ベッドも、机も、椅子もない。
棚も、テレビもない。
冷蔵庫のようなものも見当たらなかった。
壁際に鞄が一つ置かれ、衣類が小さく畳まれている。
床には、薄い寝袋。
その隣に、少し古びた柔らかそうな布団があった。丁寧に縫い直された跡のある、小さな布団だった。
ゼラオラのものだろう。
それ以外には、ほとんど何もなかった。
こんな部屋で。
あいつは、暮らしていたのか。
思考が止まった。
昨日まで工務店で見ていたリュカと、目の前の光景が結びつかなかった。
あの男は、いつも堂々としていた。
誰に対しても同じように無愛想で、ぼくが何を言っても怯まない。バトルでは迷いがなく、ゼラオラへ指示するときの声は驚くほど落ち着いていた。
だから、勝手に思っていた。
何か、ぼくの知らない余裕があるのだと。
誰にも頼らず生きていけるだけの強さがあるのだと。
けれど、そこには何もなかった。
人が一人暮らしているとは思えないほど、生活の跡が少なかった。
そして。
「……リュカ?」
寝袋の上に、人がいた。
横向きに倒れるようにして眠っている。
いや。
眠っているのだと、最初は思いたかった。
目を閉じている。
身体は動かない。
顔は、ひどく白かった。
頬が落ち、閉じたまぶたの下に濃い影がある。唇は乾いていて、普段よりずっと小さく見えた。
そばにはヤブクロンがいた。
小さな身体を寄せ、何度もリュカの顔を覗き込んでいる。
ぼくたちが入ってきたことに気づくと、ヤブクロンは顔を上げた。
小さく鳴く。
その声が、ひどく弱々しかった。
「……ねえ」
足が動かなかった。
「……リュカ?」
もう一度呼んだ。
返事はなかった。
いつもなら、面倒くさそうに顔を上げるはずだった。
『……何だよ』
そう言って。
ぼくが勝手に部屋へ来たことを、怒るはずだった。
『お前、何でここにいるんだ』
そんなふうに。
何も知らないぼくを、あの冷たい目で見上げるはずだった。
なのに。
「……ねえ、起きてよ」
近づいた。
膝が床についた。
リュカの肩へ手を伸ばす。
触れた瞬間、身体の冷たさに息を呑んだ。
「……リュカ」
肩へ触れて、呼びかける。
反応がない。
「……起きて」
声を大きくする。
それでも、目を開けなかった。
ゼラオラがそばへ来た。
ぼくの隣にしゃがみ、リュカの顔へ手を伸ばす。
いつものように、頬へ触れる。
何度も。
何度も。
その仕草を見た瞬間、ようやく理解した。
ゼラオラは、もう何度もこうしていたのだ。
自分で起こそうとして。
どうしても起こせなくて。
それで、助けを呼びに来た。
「……っ、なんで……」
声が震えた。
「なんで、起きないの……?」
ぼくは、まだどこかで寝坊だと思いたがっていた。
疲れて眠っているだけ。
少し強く呼べば起きる。
いつものように面倒くさそうな顔をして、ぼくを追い返そうとする。
そうなってくれれば、どれだけよかっただろう。
でも、何度呼んでも反応はなかった。
胸の奥が、一気に冷たくなった。
眠っているのとは違う。
そう思った。
そう思った瞬間、身体の震えが止まらなくなった。
♦
電話。
救急車。
呼ばなきゃ。
頭の中に言葉が浮かんだ。
それなのに、手が動かなかった。
ポケットから端末を取り出そうとして、一度床へ落とした。拾い上げても、指が震えてうまく操作できない。
「……っ、もう……!」
自分の声が、情けないほど掠れていた。
何をやっているんだ。
ぼくがしっかりしなくて、どうする。
ゼラオラは助けを求めてきた。
あいつが、ぼくをここまで連れてきた。
なのに、ぼくまで何もできなかったら。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「大丈夫だから……」
深く息を吸い、緊急通報の画面を開く。
呼び出し音が鳴った。
数秒後、落ち着いた声が聞こえた。
『救急です。どうされましたか』
「……人が、倒れてて……!」
思った以上に大きな声が出た。
『落ち着いてください。場所を教えてください』
「場所……」
そこで、言葉に詰まった。
知らない。
ここがどこなのか、正確な住所を知らない。
ゼラオラについて走ってきただけだった。
建物の名前は見た。
でも、番地なんて覚えていない。
「……あの、ちょっと、待って……!」
声が裏返った。
『大丈夫です。建物の名前や、近くに見えるものは分かりますか』
ぼくは玄関の方を振り返った。
建物の名前。
入口に書いてあった。
「……古いアパートで、名前が……!」
ゼラオラがすぐに立ち上がり、玄関へ向かう。
ヤブクロンも小さく鳴いた。
ぼくは端末を耳へ押し当てたまま、部屋を出た。廊下の先にある表示を確かめ、建物名と書かれた住所を読み上げる。
『確認します。その方の意識はありますか』
「……ない、です」
口にした途端、涙が出そうになった。
「呼んでも、起きなくて……何回も、呼んだんですけど……」
『呼びかけに反応しないんですね。呼吸はしていますか』
「……っ」
分からない。
さっき、そんなことまで見ていなかった。
「すぐ、確認します……!」
部屋へ戻る。
リュカのそばへ膝をつく。
電話の向こうから、確認の仕方を落ち着いた声で案内された。ぼくは言われたとおりに、胸の動きや呼吸の様子を確かめた。
わずかに、胸が動いていた。
息をしている。
でも、いつもと同じなのかは分からない。
「……してます。息は、してます。でも……」
『分かりました。救急車を向かわせます。電話は切らずに、こちらの案内に従ってください』
その声を聞いて、ようやく少しだけ息ができた。
救急車が来る。
誰かが助けに来てくれる。
そう思った。
けれど、安心なんてできなかった。
目の前のリュカは、まだ起きない。
顔色は悪いまま。
何も変わっていない。
「……早く……」
勝手に言葉が漏れた。
「お願いだから、早く……!」
涙で画面が滲んだ。
電話の向こうでは、落ち着いた声が続いていた。
リュカを無理に起こそうとせず、呼吸の様子を見ながら待つように言われる。ぼくは言われたことを一つずつ繰り返し、確認した。
普段なら、知らない人間に指示されるのは好きじゃない。
けれど今は、その声に縋るしかなかった。
ぼく一人では、何もできなかった。
♦
どれくらい待ったのか、分からない。
数分だったのかもしれない。
それとも、もっと長かったのかもしれない。
ぼくはリュカのそばに座り、何度も胸の動きを確かめた。
ゼラオラは反対側に座っていた。
ヤブクロンは寝袋の端に身体を寄せ、リュカの手元から離れようとしなかった。
小さな部屋には、ぼくの呼吸と、電話の向こうの声だけが響いていた。
窓から朝の光が差し込んでいる。
明るくなればなるほど、部屋の中がはっきり見えてきた。
壁には何も飾られていない。
床には小さな傷がある。
部屋の隅に積まれた衣類は、どれも着古したものだった。新品らしいものは見当たらない。
寝袋の近くには、パンの袋が落ちていた。
開けかけのまま、食べられていない。
ぼくは、それを見つめた。
昨日、言った。
ちゃんと食べて、と。
あいつは「食ってるよ」と答えた。
嘘だと思った。
絶対に嘘だと分かっていた。
なのに、ぼくは帰った。
何度も心配した。
何度も腹を立てた。
それでも、あいつの暮らしを想像したことはなかった。
毎日、同じパンを食べていた理由。
あんなに古いスマートフォンを使っていた理由。
夜通し戦って、昼間も働き続けていた理由。
全部、知らなかった。
知らなかったのに、ぼくは簡単に言った。
『もっとちゃんとしたもの食べたら?』
『休めばいいじゃん』
今なら分かる。
少なくとも、そんなに簡単な話じゃなかったのだと。
それでも。
分からないことばかりだった。
リュカはZAロワイヤルで、かなりの金を稼いでいるはずだ。
あのゼラオラなら、一般のトレーナーに負けることはほとんどないだろう。三か月も戦い続けているのなら、相当な額になっている。
それなのに、どうして。
どうして、こんなところで暮らしているの。
どうして、食べ物さえまともに買っていないの。
どうして、自分が倒れるまで働いていたの。
聞きたいことが、いくつも浮かんだ。
けれど、その全部に答えてくれるはずの人間は、目の前で意識を失っていた。
ぼくは、何も知らない。
あいつの好きな食べ物も。
どこで育ったのかも。
家族がどんな人なのかも。
何をそんなに急いでいるのかも。
何か月も顔を合わせてきた。
何度も喧嘩した。
一度は本気でバトルをした。
なのに、何も知らなかった。
「……ほんっと、感じ悪い」
小さく呟いた。
涙が頬を伝った。
「……こんなときまで、何も教えてくれないんだから」
返事はなかった。
当然だった。
ぼくは唇を噛み、涙を拭った。
泣いている場合じゃない。
この男は、まだここにいる。
息をしている。
救急車が来るまで、ぼくが見ていなければならない。
それだけは、できるはずだった。
♦
しばらくして、端末がもう一度震えた。
救急通報の連絡を保ったまま、画面におじいちゃんからの着信通知が表示されている。
ぼくは電話の向こうの指示を優先しながら、別の通話で簡潔に状況を伝えた。
「……おじいちゃん」
『カナリィ! どうなってる!?』
「リュカが……倒れてて……」
声が震えた。
『意識は?』
「……ない。呼んでも、起きない」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
『救急車は呼んだか』
「呼んだ。今、向かってるって……」
『分かった。俺もすぐ行く。住所は――』
「アパートの入口に書いてある。今、送るから」
震える指で、建物の情報を送る。
おじいちゃんは短く了承した。
『カナリィ。お前はリュカのそばにいてやれ。ゼラオラもいるんだろ』
「……うん」
『大丈夫だ。救急隊が来るまで、電話の指示を聞いて、落ち着いて動け』
「……分かった」
通話が切れた。
ぼくはリュカへ視線を戻した。
まだ、動かない。
ゼラオラがこちらを見ていた。
あの強いポケモンが、ひどく不安そうな顔をしている。
ぼくは、ゆっくり手を伸ばした。
黄色い毛並みに触れる。
「……よく、ぼくのところ来てくれたね」
ゼラオラの耳が動いた。
「ありがとう。ちゃんと、連れてきてくれて」
言いながら、また涙が出そうになった。
ゼラオラは小さく鳴き、リュカの方へ顔を向けた。
ぼくは、その視線を追った。
「……うん」
小さく頷く。
「分かってる。まだ、安心できないよね」
ゼラオラは何も言わなかった。
でも、その沈黙がひどく苦しかった。
もし、この子が工務店へ来なかったら。
もし、誰も異変に気づかなかったら。
もし、ぼくがもう少し寝ていたら。
考えたくない想像が、頭の中で次々に膨らんでいく。
ぼくは無理やり目を閉じた。
そんなことを考えても、何も変わらない。
今は、ここにいる。
ちゃんと、助けを呼べた。
あとは、待つしかない。
そう思うのに、身体の震えは止まらなかった。
♦
遠くから、サイレンが聞こえた。
最初は、街のどこかを走っている車の音だと思った。
けれど、少しずつ大きくなっていく。
近づいてくる。
ぼくは思わず顔を上げた。
「……来た」
ゼラオラも立ち上がった。
「救急車……来たよ」
ヤブクロンが小さく鳴いた。
サイレンの音が、建物の前で止まる。
廊下から、慌ただしい足音が聞こえ始めた。
ぼくは玄関へ向かい、救急隊員を迎え入れた。
状況を説明する。
名前。
年齢。
呼びかけに反応しないこと。
発見したときから意識がなかったこと。
最後に会話したのは昨日の夕方だったこと。
そのときも、ひどく顔色が悪かったこと。
最近、あまり食べていないように見えたこと。
眠っていないのではないかと心配していたこと。
話しながら、自分が何も知らないことを何度も思い知らされた。
持病はあるのかと聞かれても、分からない。
薬を飲んでいるのかと聞かれても、知らない。
いつから具合が悪かったのかと聞かれても、正確には答えられない。
何か月も前から、顔色は悪かった。
でも、それがいつからなのか。
いつ、こんなに痩せたのか。
ぼくは説明できなかった。
救急隊員たちは手際よく確認を進め、必要な処置を始めた。
ぼくは、その邪魔にならないように壁際へ下がった。
ゼラオラは動こうとしなかった。
リュカのそばから離れようとせず、近づいた隊員を警戒するように見つめている。
「……ゼラオラ」
呼びかける。
あいつは振り返らなかった。
「大丈夫。助けてくれる人たちだから」
そう言うと、少しだけ耳が動いた。
「……お願い。今は、任せよう」
ゼラオラは、ゆっくりとこちらを見た。
それから、リュカへ視線を戻す。
ようやく一歩、後ろへ下がった。
ぼくはその隣にしゃがみ、肩へ手を置いた。
黄色い身体が、わずかに震えていた。
初めてだった。
あのゼラオラが、こんなふうに震えているのを見るのは。
いつもリュカを守っていた。
どんな相手にも怯まず、彼の指示に応えて戦っていた。
そんなあいつが今、何もできずに見ている。
ぼくも同じだった。
助けを呼ぶことしかできなかった。
それ以上のことは、何一つできなかった。
♦
リュカが担架へ移される。
その瞬間、ゼラオラが立ち上がった。
ヤブクロンも慌てて近づこうとする。
ぼくは二匹へ声をかけた。
「……大丈夫。連れていってくれるだけだから」
自分に言い聞かせているようだった。
救急隊員が、慎重に担架を動かす。
薄い寝袋が床に残った。
その下にあった床の傷が、あらわになった。
さっきまでリュカがいた場所。
今は、誰もいない。
その光景を見た瞬間、足元が揺れた。
この部屋から、あいつがいなくなる。
病院へ連れていってもらうだけだ。
助けてもらうために必要なことだ。
分かっている。
なのに、胸の奥が締めつけられた。
もし。
もし、戻ってこなかったら。
そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。
嫌だ。
そんなの、絶対に嫌だ。
「……リュカ」
名前を呼んだ。
担架の上の青年は、目を閉じたままだった。
いつもよりずっと小さく見えた。
あの無愛想な男が。
ぼくに勝った男が。
ゼラオラと一緒に、何人ものトレーナーを倒してきた男が。
今は、誰かに運ばれていくことしかできない。
「……ねえ」
声が震えた。
「……起きてよ」
返事はない。
「今日、勝負するんでしょ」
何を言っているんだろう。
自分でも分かっていた。
今、勝負なんてできるはずがない。
そんなこと、どうでもいい。
でも、何か言わなければ、あいつが遠くへ行ってしまう気がした。
「……ぼく、いっぱい準備したんだから」
涙が落ちた。
「前みたいに、簡単に負けるつもりなかったんだから……」
喉が詰まる。
救急隊員が、静かに声をかけてくれた。
ぼくは慌てて道を空けた。
担架が廊下へ出ていく。
ゼラオラが、その後を追う。
ヤブクロンも、小さな足で必死についていこうとした。
ぼくは二匹を見て、ようやく動けた。
この子たちを置いていけない。
リュカが目を覚ましたとき、ゼラオラがいなかったら、きっと心配する。
ヤブクロンだって、あいつのそばにいたいはずだ。
救急隊員に相談すると、同行や搬送先について確認することになった。ぼくは必要な連絡を引き受け、二匹が離れ離れにならないようにした。
それだけのことをするのに、何度も言葉を噛んだ。
♦
建物の外へ出ると、朝の光が眩しかった。
通りには、いつもどおりの人々がいた。
買い物袋を持った人。
仕事へ向かう人。
笑いながら歩く学生たち。
誰も、何が起きたのか知らない。
この街では、今日も普通の一日が始まろうとしている。
けれど、ぼくにとっては違った。
ほんの数時間前まで、あいつに勝つことばかり考えていた。
どうやってゼラオラの速度に対応するか。
どんな順番でポケモンを出すか。
勝ったら何と言ってやろうか。
そんなことを考えていた。
今は、何も考えられなかった。
ただ、目を覚ましてほしかった。
それだけだった。
救急車へ運ばれる担架を見つめる。
リュカの顔が、一瞬だけ見えた。
閉じた目。
痩せた頬。
力の入らない手。
ぼくは、その手を思い出した。
工務店の休憩室で、何度も見た手だった。
パンの袋を開けるとき。
ゼラオラの頭を撫でるとき。
ヤブクロンを安心させるために、ゆっくり差し伸べるとき。
その手は、いつも誰かのために動いていた。
なのに。
自分のためには、何もしていなかった。
どうして。
何で、そんなことするの。
何で、ぼくに何も言わなかったの。
何で、あんなに無理してたの。
怒りたかった。
あいつが目を覚ましたら、思いきり文句を言ってやりたかった。
こんなになるまで働くなんて馬鹿だと。
自分のことを少しは大切にしろと。
心配させるなと。
全部、言ってやりたかった。
でも、そのためには。
まず、目を覚ましてもらわなければならない。
「……お願いだから」
声が漏れた。
ゼラオラが隣で、こちらを見上げた。
ぼくは、涙を拭おうとした。
うまく拭えなかった。
「……お願いだから、死なないでよ……」
言葉にした瞬間、堪えていたものが崩れた。
嫌いだった。
今だって、腹が立つ。
あんなに感じが悪くて、何を考えているのか分からなくて、いつもぼくを苛立たせる男なんて。
大嫌いだ。
そう思いたかった。
なのに、どうして。
どうして、こんなに怖いの。
ゼラオラが、そっとぼくの手に触れた。
黄色い毛並みは温かかった。
ぼくは、その手を握り返した。
あの部屋で、ゼラオラはぼくを選んだ。
助けを呼びに走った先で、ぼくを見つけた。
だから、ぼくはここにいる。
何も知らない。
何もできない。
それでも、ここにいる。
ぼくは震える息を吐き、もう一度救急車へ目を向けた。
今日、公式戦があるはずだった。
あいつに勝つために、何日も準備してきた。
その全部が、もうどうでもよかった。
ただ、もう一度。
あの冷たい目で、ぼくを見てほしかった。
『……お前には関係ない』
そう言って、突き放してくれても構わない。
腹が立って、喧嘩になって。
また、いつものように言い返せるなら。
それでよかった。
救急車の扉が閉まる。
サイレンが鳴り始める。
ぼくはゼラオラの手を握ったまま、ゆっくりと息を吸った。
まだ、終わっていない。
リュカは、まだ生きている。
その事実に縋るように、ぼくは搬送先の病院へ向かう準備を始めた。
そして、ふと思った。
あいつは、どれだけの夜を一人で過ごしてきたのだろう。
誰にも頼らず。
誰にも話さず。
何もない六畳の部屋へ帰って。
いったい、何を守ろうとしていたのだろう。
ぼくはまだ、その答えを知らなかった。
ただ、この朝、初めて知ったことがある。
あの男は、決して強いだけの人間なんかじゃなかった。
そして、そんな当たり前のことを知るまでに、ぼくはあまりにも長い時間をかけてしまった。