人を殺したいって、思わないんですかー深夜、ほろ酔いの帰り道。向こうから歩いてくる知らない誰かを見て、私は思う。ああ、今だったら殺せるなあ、って。
恨みはない。理由もない。暑ければ汗をかくように、ただそう思うだけ。
道端でも。スーパーの階段でも。家の台所でも。
だからずっと、聞いてみたかった。
人を殺したい気持ちって、そんなに特別なものですか?

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人を殺したい気持ちって、そんなに特別なものですか

 人を殺したい気持ちって、そんなに特別なものですか?

 

 なんて。そんなことを言うと、まるで私が頭のねじの外れたヤバい奴か、もしくは頭のねじの外れたふりをしているヤバい奴のふりをしたい、中二病患者のようで気まずいのだけれど。

 

 だからといって、例えば「身体を売ることってそんなに悪いことですか?」という問いに対し。はい、悪いことです。なぜなら違法だからです、みたいな馬鹿みたいな、馬鹿丸出しの話が聞きたいわけではないんだけど。そんな、何の理屈にもなってない、善悪と法理を混同したような、ただの感情論でさえない、そんな馬鹿げた気違いじみた話が聞きたいんじゃない。

 

 善悪と法理は全く別の独立した問題だから。そんなのサルでも知っている。ド級の気違いでもわかってる。どれほど人間として欠陥製品で人間失格みたいなやつでも当たり前にわかってる。そんな頭の悪い、頭のおかしな話がしたいわけじゃない。

 

 私はただ、聞きたいだけ。知りたいだけ。人を殺したい気持ちって、そんなに特別ですかって。人を殺したい気持ちって、みんな当たり前に持っているものなんじゃないですかって。もっと言えば、人を殺したいって、思わないんですかって。

 

 私は、いつだって思っているけど。人、殺したいなあって。正直、誰でもいい。それこそ深夜、酔っぱらっているときとか。いつものように、大きなヘッドホンを身に着けて。向こうから私のようにちょっと酔っぱらった様子のサラリーマン風の男性が歩いてきたとして。私は、思うけど。ああ、今だったら殺せるなあって。

 

 私は別に、その男性とは何の面識もない。100%の初対面だと断言できる。別に会社の知り合いだとか、逆にライバル会社の社員だったりもしない。第一、そもそも私は今大学院をやめて、社会人を経ての二度目の大学生生活の真っ最中。仮に社会人時代に勤めていた会社のライバル会社の社員だからと言って、今更殺す理由もない。

 

 仮に先方が私と同じような理由で二回目の大学生活を送っていて、たまたま同じジャンルを研究しているのだとしても。別にパイを取り合うようなジャンルでもなし、別に、その男性が生きていたからと言って、私に何の不利益もない。何の不利益も及ぼさないし、何の不利益も及ぼせない。

 

 私にはその男性を殺す理由がない。私にはその男性を殺す必要性がない。私にはその男性を殺すような動機がない。私にはその男性を殺すきっかけもない。何の関係性もなければ何の感情もない。何の思い入れもない。

 

 わかってる。わかってる上で、私はいつも思ってる。ああ、殺せるなあって。首をへし折ってもいいし、首を絞めてもいい。駅のホームでタイミングよく突き落としてもいい。でも一番簡単そうなのは首の骨を折ることかな。足音を殺して忍び寄って後ろから首筋に腕を回し、同時に膝裏を蹴って姿勢を崩すと共に頚部を完全に固定する。きちんと口を塞いでおけばうるさくもない。まあ、そこまで手間取るとは思わないけど。普通の人っぽいし。喧嘩とかしたことなさそうだし。一応念のため。首を押さえられて叫べる人は、あんまりいないけど。変な奴はどこにでもいるから。念のための保険ってことで口も塞いでおく。

 

 あとは、固定した頚部を限界を超えて捻るだけ、なんて。限界を超えて捻るまではしたことはまだないけど。脅しとして限界ぎりぎりまで捻ることはあったし、忍び寄って拘束する機会なんて何度もあったから。悲鳴を上げてもらうかはケースバイケース。時と状況によりけりだけど。まあ、なんとなくだけど。きっと、思っているより人を殺すことなんて簡単なんだと思ってる。限界を超えるぎりぎりまで捻って見せても、別に何も思わなかったし。多分限界を超えて捻っても何も思わないんだろうなって。

 

 かつて、制圧の必要に迫られて護身術を使ったとき。変な暴れ方をするからつい、うっかり。腕を折ったり脱臼させてしまっても、別に何も思わなかったように。いや、厳密には、あ。とか、しまったな、とか。これを口外して回られると困るな。どうしよう。黙っててもらうよう納得してもらうしかないか。ああ、面倒くさい。本当に面倒くさい。余計なことをするから。いらない仕事が増えたじゃん。後処理が増えちゃったよ。本当に最悪。ああ、もう。ほんっとうにろくなことをしない。あー、めんどくさ。みたいなことはぐちぐち考えていたけれど。

 

 まあ、帰りにお汁粉とか甘いもの買って帰ろーと思えば切り替えられたし、一晩寝たら基本忘れてるから。だから、多分。限界を超えて捻って、首の骨をへし折ったとしても。そこまでうじうじ引っ張らないんじゃないかなって。人を殺しても何も思わないんじゃないかなって。

 

 まあ、別に。殺す相手は男性である必要もないのだけれど。別に女性でもいいし、老人でもいい。おばあちゃんでもいいし、おじいちゃんでもいい。小さな女の子でもいいし、小さな男の子でもいい。それこそ別に赤ん坊だっていい。別に対象にはこだわってない。

 

 強いてあげるのなら、これでも私は。肉体的には生物学的には女性の肉体を持っていると判断しているので。相手が自分より若ければ。というより幼ければ殺しやすいだろうし。どうせなら同性のほうが殺しやすそうだなあと思うけれど。別に、大きな差はないから。正直、本当にどうでもいい。

 

 目の前に人がいて。例えば背を向けているとか隙があって。まあ、隙が無くても。初対面であろうとなかろうと。縁があろうとなかろうと。なんとなく。そう。なんとなく。

 

 息でもするように呼吸でもするように。食事でもするように食事をしたら当然排便排尿するように。暑ければ汗をかき寒ければ鳥肌が立つように。夜眠れば朝目覚めるように。腸がひとりでに蠢くように、心臓が意識せずとも鼓動を刻むように。何の思い入れもなく。何の価値もなく。何の意味もなく何の意義もなく。ごくごく自然に当たり前に。ただ、殺せるなあって。そう思うだけ。

 

 そう、思うのって。私だけなのかなって。ずっと疑問に思ってる。まあ、結局は能力の有無の話になると思うんだけど。別に人を殺すことって、そんなに難しいことでもないのかなって思ってる。なんとなくだけど。

 

 いや、確かに人って意外としぶとくて。思っているほど簡単に死なないってことはよく知っている。これでもまあ、人並み以上には自分を切り刻んで生きてきた人生だから。それこそ記憶にある初期の初期、年齢が一桁台のころから自傷は繰り返してきたんだから。あ、意外と人って死なないんだ、へー。そう思ったことは何度もある。

 

 まあ、そんなことを言いつつ13歳か12歳の時には本当に死にかけているんだけど。12歳か11歳の頃かもしれないし、あるいはもっと前のことかもしれないけれど。そこはたいして重要ではないし。別にそんなに珍しい話でもない。ちょっと溺死しようかなって思っただけ。人生に意味なんてないことなんてよく知ってたから。えいやとばかりにチャレンジして。

 

 肺が爆発しそうで。どんどん意識が遠のいていって。口を開いたら死ぬなってことはわかっていたけれど、あまりに息が苦しかったから。肺が破裂するんじゃないかってぐらい熱を持っていて。とてもとても痛かったから。それに、溺死しに来たのになんで私、水の中で息止めてるんだろ、馬鹿みたいと思って。

 

 あれだけ必死に間違っても口を開かないように水を飲みこまないようにと頑張っていたんだけど。そもそも私、死にに来たんだったって思って。死にに来たんだったって思いだして。なんか眠くもなってきたから。水中から見る水面も、なんか白く輝いていて。

 

 あ、きれいなお日様って思って。あったかそー、みたいな。水は凍えそうに冷たかったけど。それでも、なんか。ぬくぬくしてきたから。ま、いいかなと思って。思ってたよりあっさり口も開けて。絶対に口を開けてはだめ、死んじゃう、なんて思いも忘れたかのように。まあ、覚えてはいたけど。なんでそんなこと考えてたのかなって。まあ、どうでもいいかなって。

 

 だから口を開けたし。がぶりと水を飲みこんで。それこそ意識的に口を開いて水が流れ込むままにした。口の中に、肺の中に水が流れ込んでくる様はよく覚えている。とても痛くって。肺が焼けそうなぐらい痛くって。あ、やり方間違えたかもしれない。思ってたより苦しい。失敗したなって。

 

 こんなやり方で死のうとするんじゃなかったって思って。間違えたな。馬鹿みたい。いっつもそうだなって。間違えてばっかりだ、私の人生って。ほんと、くだらない馬鹿みたいな人生だったなって思ったところまではよく覚えているんだけど。

 

 そこから先は覚えてない。死んだと思ったし、死ねたと思ったのに。気づいたら病院のベッド。病院服に着替えさせられていて。静かな空調の唸り声とか。看護師さんが廊下を歩いていく音とか。どこかの病室でスライド式のドアが閉まる音。人の動く気配。そんなことは覚えているのに。

 

 他のことはうろ覚え。呼吸器をつけられていた記憶もあるし、腕から伸びる点滴の管とか。ぽつりぽつりと落ちる点滴の液を見て、あのぽたぽた落ちるやつって何のためにあるんだろう。あのダイヤルまわしたら、なんかどばーって出てくるのかな。だったら面白いな、それ。全開にしてみたいって思って。

 

 手を伸ばそうとしたけれど。まるで自分の身体じゃないみたいにピクリとも身体が動かなかったりして。あれ?あれ?あれれ?おかしいな……。と思った記憶とか。微妙にぶらぶら揺れる点滴の袋を見て、微妙に動いてるのなんか気になるなあ。というかなんかムカつくなあ。はたき落としてやろうかなあ。

 

 でも身体動かないしなあ。猫パンチができればよかったのに。昔、本家のおうちで飼ってた猫、やたら猫じゃらしに猫パンチしまくってたけど、こんな気分だったのかな。目の前で、視界の端でうろうろされてうざかったのかな。だったら悪いことしたな。

 

 でも謝れないしな。いや、謝れるとは思ってたんだけど。年を取ってだいぶボケてきたからタクシーの運転手さんにあげちゃったと言ってたけど。きっと死んでるか、最悪殺されちゃったんだろうな。可哀想。私が小さなころ、尻尾を勢いよく引っ張っても怒んない賢い猫だったのに。よく遊んでもらったのに。私のお友達だったんだけどな。

 

 毛並みがきれいでよく枕になってもらってた。枕にするたびにミャと小さく鳴いてたっけ。でも全然逃げなかったな。あれ、でもあの子の名前なんだっけ。忘れちゃった。どうしよう、これじゃ探してあげられない。名前を呼んであげられないよ。最低だ、私。最低。

 

 それに心電図のモニターか何だか知らないけど、ピッピッピッピうるさいな。黙ってほしいな。それにこの呼吸器もうざい。なんか痒い。それに前のお母さんが亡くなる前こんなのつけてたから嫌いなんだよ。外してよ。は・ず・せ。

 

 そんなことを考えていた気もする。ただどこまで本当のことかはわからない。夢を見ていたのかもしれないし。それに最初、目覚めてからもだいぶぼんやりしていて。長い長い夢から目覚めた後のような。

 

 だからひょっとしたら記憶の捏造もあるかもしれないし、あるいはまた別の入院の時の思い出とごっちゃにしているのかもしれない。入院する機会はそれなりにはある人生だから。理由は様々なんだけど。別に大した理由じゃない。死に損ねてって回数も別に多くはないし。それこそ持病の関係で手術が必要になったりとか。

 

 強いてあげるのなら、昔、自分のお腹を刺したことがあって。自分で。三回ぐらいぶす、ぶす、ぶすと。ざく、ざく、ざくでもいいんだけど。おまけに最後は捻った、らしい。そのあたりはよく知らない。覚えてないから。理由と言っても大した理由でもない。昔の嫌な夢を見た。ただそれだけのこと。

 

 私は、昔レイプされたことがあるから。結構仲の良かった男の子に。かなり長い付き合いで。結構信用もしていて。それなり以上には信じていて。嫌いじゃなかったんだけど。優しかったし。色々面倒見てくれたし。頭もよくって。話もあった。小説とかも好きだったし。私も好きだったから。色々話も弾んで。一緒に家に内緒で映画見に行ったりとか、地元の祭りを一緒に回ったりして。

 

 正直嫌いじゃなかったと思う。多分だけど。別に、もう覚えてないし。ただ仲は間違いなくよかったから。よく一緒にいるのを見て彼氏と間違われることも多かったし。友達に揶揄われることも多かった。イケメンじゃん、お似合いだよ。みたいな。こうしたくだらないことはよく覚えているんだけど。彼氏じゃないしって言って。まあ、付き合うとかよくわかんないし、人を好きになるという気持ちもよくわかんない。

 

 大体、私は女として欠陥品で。自分自身女なのかわかってなかったし。今は男だという時もあれば、今は女だという時もある。あるいは完全に男とも女とも言い切れないけれど、どちらかというと今は男より、あるいは女よりという時もある。そのどちらでもないって時もあったし、そのどちらでもあるって時もあって。だから人を好きになるっていうのがわかんないし、好きになったとして、そもそもどの私が人を好きになっているのかなというのはよく思っていたから。

 

 第一、私は私っていうのがよくわかんない。そもそも私っているのってずっと思ってた。恰好をつけるのなら、私なるものは実存か。なーんて。そんな大したものでもないけど。私はこの世界にリアリティを感じられない。全部が偽物に見える。全部が作り物にしか見えない。近所の高層マンションに飛び降り自殺の候補地を探すために、もしくは今日こそ飛び降りるために忍び込んではよく思ってた。

 

 田舎だし、まだ屋上の管理もがばがばで。鍵なんてかかってなくて当たり前だったから。勝手に屋上に上がって見下ろしてた。フェンスなんかもなかったし。ここなら飛び降りやすいなって。飛び降りるのならここかなって思ってたんだけど。

 

 夕日に照らされる街並みも。商店街も。遠くに見える山々も。全部作り物っぽいなって。なんか嘘っぽい。あの裏側には何があるんだろうってずっと思ってた。それこそ人生ゲームのマンションや山のように、取り外しては台座に取り付けられるようになっているんじゃないかって。そんな馬鹿なことも考えたり。それこそ月が出てくるまで屋上でぼんやりしていて。

 

 家に帰ったら成績とかお稽古事とか。別に理由があろうとなかろうと。理由なんて無から無限に生えてくるものだから。理由をつけてはぼこぼこに殴られ怒鳴られていて。たくさん殴りつけたりどこかに叩きつける割には罵倒のボキャブラリーは少なかったけれど。馬鹿、屑、気違い。これが基本の三点セット。

 

 あとはお前は本当に頭が悪い、出来が悪い、出来損ない。これが時々、語形変化する。ここまで頭が悪いとびっくりするな、とか。こんなに頭が悪いのは才能だよ、とか。ここまで出来が悪い人間を見るのは生まれて初めてだ、とか。教えてくれ。何をどうやったらこんなに出来が悪くできるんだ?とか。いや、ここまで頭が悪くて出来が悪いと笑えてくるな。本当にお前は出来損ないだよ。ここまで人間、馬鹿になれるなんて思ってもみなかった。いや、ここまで人間としての失敗作は初めて見たぞ。びっくりするぐらいの出来損ないだ。いや、ごめん。面白くなってきた、なんて。

 

 あるいはもっとシンプルに、この出来損ないの屑が!なんて怒鳴られては頭をつかんで壁や机の一番硬くてとんがっているところに何度も何度も叩きつけられたりして。なんか鳩のおもちゃでこんなのあったな。ポッポーと言いながらコツコツ木の板つつくやつ、なんて思いながら父親の気が済むまで叩きつけられ続けていた。抵抗したって無駄だってわかってるし。

 

 むしろ抵抗したらもっと怒るから。俺は、俺はこんなにもお前のことを思って怒ってやってんのに。それが親に対する態度かこの屑が!みたいな。正確ではないけど、大体こんな感じ。次第に殴られているほうもなんだか面白くなってくるんだよねっていう。今日は何発殴られるのかな、みたいな。はい、13発目、14、15、16。まだ続くんだ。今日は元気だなー。前読んだ物語シリーズだと、こんな時なんて言うんだっけ。元気がいいね、阿良々木君。何かいいことでもあったのかい?だっけ。

 

 また読みたくなってきたな。ああ、でも無理か。全部捨てられたし。もったいないなー。お気に入りのあざらしのぬいぐるみまで捨てられるし。もっと抵抗したらよかったかな。土下座とかして。でも母親は土下座した人の頭踏むの好きみたいだしな。土下座でもすれば許されるとでも思ってるの。人生舐めすぎでしょってまた怒られちゃうから。あー、めんどくせー、みたいな。

 

 そんなよそ事を考える余裕すら生まれる。気分は殴られる私と、殴られてない私がいるというか。いや、肉体の私は殴られているんだけど、本当の私、本体の私はもっと別のところにいる、みたいな。

 

 それは基本私の右肩あたりにいることが多いんだけど、別にそこが定住の地でもないみたいだから。結構自由に動き回ったりする。まあ、要は別視点で私を眺めているというか。結構これが便利で。そうやって殴られている私と、殴られていない私が別々なら、そこまであんまり痛くないというか。痛いことはわかるんだけど、どことなく別世界のことというか。現実感がないというか。

 

 それこそ殴られたはずみで支えきれずに壁に勢いよくぶつかる、なんてのはデフォだし、悲鳴を上げたら結構イライラするみたいで追撃が飛んでくるから。ただ我ながらよくない癖だなとは思うのだけど、あんまりぼこぼこ殴られて、出来損ないだの屑だの、それこそ生まれそこないみたいなことを言われると結構イラっとして。

 

 もともと反骨心が強いから。つい睨みつけてしまったり。そうするとますますヒートアップして、みたいな。身体って不自由で、あたり場所によってはめちゃくちゃ苦しかったり痛かったり、息ができなくなる場所もあるから。

 

 勝手に涙があふれてくるのも惨めたらしいし。蹲って、丸まって。きちんとした姿勢でお説教を聞かないからますます怒って追撃が飛んでくる。そんなときも切り離しさえすれば痛くないから不思議なものだよねっていう。あと、人間って自分を切り離しても勝手に急所を守ろうとするのも面白いよねって思ったり。頭とか。丸まること自体多分何かを守っているんだろうけど。

 

 ただ丸まると怒られるから。人の話はきちんと聞けって絶叫しながら。サッカーボールの気分を味わえる。キャプテン翼で翼君がボールは友達!と言いながら勢いよく蹴り飛ばしていたけれど。あれは正真正銘ボールだから許されるのであって。私、人間のつもりだったんだけど。実はボールだったのかもしれない、なんて。だったら私とお父さんは友達だ。ずっ友ってやつなんだなあ、とか考えていたりとか。

 

 まあ、父親も父親で色々イライラしてたから。私を立派な人間に育てなきゃ、みたいなプレッシャーはあるんだろうなって見てて思ってた。何しろ本家が400年以上の歴史のある家ってやつで。それこそ歴史の教科書に載るような人がお客様としてたびたび来られて。茶室の屏風にお名前とか一言メッセージを書き込んでいくという文化があったりして。

 

 その屏風自体、平気で茶室の隅に放置されているというか、時たま着物を干したりひっかけたりするぐらいには雑に使われているし。美術館で似たようなもの見たなって感じの壺とか茶釜みたいなお茶のお道具とか。掛け軸に絵画、お椀、香木その他諸々の品も見たことがあったし。

 

 先代の奥様がお手入れが好きで結構良好な状態で保存されているけど、代替わりの時にはそろそろ適当な美術館にでも寄贈しようか。管理面倒くさいし、みたいな話は聞くから。それこそ本家のお庭は結構広いし、中庭もあり、なんかいろんな木々も生えてるから管理も大変で。池の鯉の世話もしなきゃいけないし。だから住み込みの庭師さんを雇っているし、通いのお手伝いさんも何人かいる。

 

 私は年なので引退しますけど、これからは娘が後を引き継ぎますので、みたいなご挨拶は何度か目にする機会もあったし、18、19ぐらいのお手伝いさんの娘さんには子供のころよく遊んでもらっていた思い出。一緒にお風呂に入ってもらったりして。タオルでクラゲを作っては一緒になって笑ってた。頭を洗ってもらったり。背中を洗ってあげたり。ぴと、と言いながら背中に張り付いてみたりして。大きくて白い背中で。ぴと、と張り付いた瞬間、ふふ、という笑い声とともにわずかに震えて。

 

 あとびっくりするぐらい、すべすべで滑らかだなって思ってた。なんというか、もちもちというか、ぴったりと肌と肌がはりつくようで。吸い付くようで。そして何より、温かかった。そんな感覚、生まれて初めてだったから。それまでの人生で、後ろからとはいえ、一度も抱き着いたことも抱き着くこともなかったから。誰もそんなことしてくれなかったし、許してくれなかったから。

 

 それこそ、生みのお母さん。もう、だいぶ前に亡くなったお母さんにはこうしてもらってた気がする。あまり思い出せないけど。基本的にずっと病院にいたから。でも昔、本当に昔はこうやって一緒にお風呂に入ったり、頭を撫でてもらったこともある、ような……?そんな風に、いろんな思い出がよみがえってきたりして。

 

 耳を押し付ければ、とくとくという静かな心臓の鼓動が聞こえてきて。生まれて初めて、誰かの鼓動を聞いて。なんか眠くなるな、と思って。でも、嫌じゃない眠さ。ふわふわとした、自然な安らぎ。自然な心地よさ。お風呂は温かいし。背中も温かい。

 

 あ、今ならすごく自然に眠れそうって。多分、このまま寝たらとっても気持ちいいんだろうなって。あんまり悪い夢見なさそう。殴られる夢とか。怒鳴られる夢とか。酷いことをされる夢とかも。

 

 あと、眠れないからと言って無理矢理眠らなくてもよさそうだし。夜中に泣きながら跳ね起きることもなさそう。このまま、ずっとひっ付いていたいな、くっついていたいなって思ってた。その人にとりわけ懐いていたからというのもあるんだけど。きっと、この人は。私が悪いことをしても怒鳴らないし、殴らないんだろうなって。

 

 だって、習い事とかお稽古事がよくできたら、いい成績を取ったら、かがんでにっこり微笑んで。その人だけは褒めてくれたし、たまにはお菓子もくれた。頭は撫でてくれなかったけれど。でも、いつもにこにこの笑顔で褒めてくれた。

 

 本当は頭も撫でてほしかったから。手を借りて、頭を撫でさせようとしたこともあるんだけど。すごく困った顔をされてしまって。お嬢、それだけはだめです。それだけは本当に駄目なんです。勘弁してください。私が怒られてしまいます。ごめん。お嬢。本当に。本当に、ごめんなさい。

 

 そう言って謝るその顔がとても苦しそうで。初めて見るぐらい苦しそうな、本当に苦しそうな。今にも泣きだしそうというか、何とも言えない顔。初めて見るような顔をしていたから。いつもにこにこしているのに。さらさらのショートのボブヘアーがすごくかっこよくて。元気な人だったのに。すごく辛そうな顔をしていたから。

 

 だから。頭撫でて貰っちゃ駄目なんだな、頭撫でさせちゃ駄目なんだな。悪いことしたなって思って。泣かせちゃうところだったもんなって思って。二度とそんなことはしなかったんだけど。

 

 それでも、その人は悪いことをしても、というより失敗しても怒鳴らなかったし、殴らなかった。バシンと叩かれたけど、叩かれたはずみにころころ転がってないから殴られてないとか言ってるんじゃなくて、本当に一回も殴られなかった。

 

 悪いことをしたら叱られたけど。失敗だったら次はどうしたらいいかとか、どうすればうまくできるかを考えてくれた。物をうっかり壊しちゃったとかだったりしたら、内緒ですよ、お嬢、とか。あるいはこれは私が壊してしまったことにしますから、お嬢様は黙っててくださいね、約束ですよ。ほら、指切りしましょう。嘘ついたらはりせんぼんのーます、指切った!と指切りまでして庇ってくれたりもしたから。

 

 ママではないけれど、お姉ちゃんみたいって思っていて。本当のお姉ちゃんになってくれないかなって、ずっとずっと思ってた。でも口に出したら困らせてしまうから。迷惑をかけてしまうから。無言で頭をぐりぐり押し付けて。私の長めの髪の毛が背中にこすれるのを感じるのか、恥ずかしそうに、くすぐったそうに笑っていたりして。

 

 他にもシャボン玉をたくさん作ったりとか。湯船をシャボン玉で埋めてしまったりもして。一緒になって叱られて。私のせいで巻き添えにしてしまったなと思って。無理矢理飴ちゃんを押し付けたりとか。誰にもばれないようにこっそりと。

 

 あとはそれこそ、ほぼ同い年の娘さんを連れてきている方もいたりして。一緒にかくれんぼとか追いかけっことかしてたなあって。もらったお菓子をポケットに詰めてお座敷から抜け出して。鯉にもおすそ分けしながら、池のふちの芝生に一緒に並んでお菓子を食べてた。

 

 みんな、いつからか見かけないけど。どこで、何をしているのかなあ。元気かなあ、なんて。妹が生まれる前か、生まれたばかりの頃の思い出だけど。そのころからみんな、いなくなった気がする。来なくなった気がする。

 

 みんな、元気に健やかに生きてたらいいなあとは思うんだけど。きっと二度と会えないのだろうから。私たちの世界で、常に別れの挨拶ができるとは限らないし、もとよりそんなことに期待なんかしてないけど。そもそも期待なんかすべきでもないし。もとより、最初から何事にも期待なんかするべきではないんだろうけど。それでもせめて、どうか。お元気で。お幸せに。どうか、せめて。末永く、なんて。

 

 そんなのは余談にしても。まあ、そこそこ大きな家ではあるのかな、みたいな。全国的にも知っている人は知っているだろうし、少なくとも地元では名を知られていたから。道を歩けば棒にあたる、でもないけど、道を歩いていて見知らぬ人からご挨拶を受ける機会っていうのは別に珍しくもなんともなかったり。

 

 その本家が正に途絶えそうだから困ったものなのだけど。だから、家の存続のために筆頭分家たる私たち姉妹に白羽の矢が立って。色んな関係で私が本家に入って婿を取り、子供を産んで家を残すという方針は割と早い段階で言われていて。出来れば男の子を産んで、予備も考えれば複数は欲しいみたいな話はよく聞いていたから。そりゃあ父親も気合が入るというもの。

 

 そもそも親族会も一枚岩ではなかったし。あそこの人から貰ったお菓子は絶対に食べるな。即座に処分しろみたいな話は普通にあるし、普通に全部捨ててた。別に嫌がらせとかではなくて、まあ、食べたら死ぬか、脳が壊れるか。そういうたぐいのお菓子ですよねってわかりきっていたから。

 

 だけど、そういう家って居心地がよくないなって思うこともあるから。だからマンションの屋上に忍び込んだりもする。半球状に広がった真っ暗な夜空に、ちょんと乗ってる大きなお月さま。さながら半球状のドームに開いたのぞき窓みたいで。誰かがそこから覗いていたりしないかな。

 

 さながら私たちはフラスコの中の小人に過ぎないんじゃないかって思ったり。私たちは自分を人間だと信じて振舞ってはいるけれど、本当にそうなのかな、みたいな。ただ、自分たちを人間と信じたいだけなんじゃないか、みたいな。誰も彼もが自分の意志で生きていると信じているけれど、全部作り物に過ぎなくて。全部偽物の張りぼてが人間のふりして蠢いているだけなんじゃないかって。

 

 ある意味では、まさにこの世は舞台。誰もが役を演じなければならぬというシェイクスピアの言葉がぴったりで。張りぼてのお人形さんたちが自分を人間だと信じて、勘違いして必死に定められた物語を演じている。

 

 この世界には運命なんてないんだよ。自分の道は自分で切り開かないと、なんて台詞は小説とかで時々見かけるし、何ならライトノベルとかだとそういう展開も結構あるって聞いた。でもそれって嘘だと思うんだよね。明確に嘘。もしくは自分で道を選んでいる気になっているだけで、誰かから与えられた脚本の中で踊っているということは変わらない。

 

 人間は、だれしも己の運命があるって思っている。もとい、脚本。己の分、と言い換えてもいいかもしれないけれど。分を弁えよの、分。例えば私なら、いずれ本家に入る人間としての脚本に従って生きている。初めからそう。私が生まれた時点で私の脚本は決まってた。私に許される生き方は脚本通りに生きて、脚本通りに死ぬだけ。脚本からは逃れられない。脚本から逃れた気になっていても、最終的には脚本通りの結末にたどり着く。

 

 私が家を離れ一人で生きていこうと決めて、大学院をやめ。その後社会人になったはいいけれど、結局本家に入ることがほぼ確定し、家の都合と私の都合が相まって二度目の大学生活を送っているように。

 

 人は脚本から自由にはなれない。運命から自由であることなんてありえない。運命はあるべき姿に収束する。人はみな、運命の奴隷なのだ。なんて誰が言ったのかは知らないけれど。

 

 個人的には物語はやがてあるべき姿に収束する、みたいなことを語っていた西尾維新の戯言シリーズに出てくる狐さんの台詞のほうが好きだけど。全ての事物は代替が可能であるという「ジェイルオルタナティブ」と、物語はどうであれ全て同じ場所に行き着くという「バックノズル」という二つの理論を掲げていたはずだけど。

 

 私が死んでも、私の脚本を妹が引き継ぐという点で、私は代替が可能だし。本家に入るのは私である必要はない。子供を産める若い女であればいいだけなのだから。その点で「ジェイルオルタナティブ」。

 

 そして、私が死んでも妹という若い腹が本家に入り子供をなせば、本家は存続する。若い腹は私でも妹でも変わらない。本家の存続という物語は変わらない。すべては本家の存続という未来に集約される。その中の違いなんて些細なものさ、という点で「バックノズル」。

 

 そうした運命の外に出ようとすると。物語の外に出ようとすると。たいていろくな未来は待っていない。縁起でもない未来しか待ってない。大体のノベルゲームだってそうでしょう。正規のルートを外れれば、待っているのはデッドエンドかバッドエンド。私はデッドエンドに進めなかったから生きているだけ。バッドエンドに進んだだけ。

 

 だから自殺を試みては痛罵され。信じていた友達にレイプされるって結末を迎える。人を好きになる気持ちというのはよくわからないけれど。でもいつかは付き合うのかもしれないなって思ってた。それでもいいって思ってた。好きってよくわからないけれど。それでも少なくとも優しいし、いい子だから。

 

 それにあらかじめ私が女か男かわからないこととか話しておけば。もし仮につきあってうまくいかなかったとしても、きっと友達に戻れるって信じていた。だって、それぐらいの付き合いはあったし。ずっとずっと信じてきた子だったから。物わかりいいし、頭もいいから。きっとわかってくれるはずって。それに、その子は私にとってお兄ちゃんみたいな人だったから。

 

 初めて家でゲームに触らせてもらったのもその子の家だったし。ずっと一緒に遊んできて。知らないこともたくさん教えてもらって。たくさん煽って。煽りあって。本当のお兄ちゃんのように思っていた。家にいたくないから、なんてまさか口には出せないけれど。

 

 それでも毎日のようにお邪魔する私を黙って受け入れてくれて。お菓子を出してくれたりジュースを飲んだり。一緒に映画を見てドラマを見てバラエティを見て。一緒に勉強して一緒に小説を読んで一緒に専門書を読んでたくさん議論した。

 

 まさに友達以上の関係。私を守ってくれるお兄ちゃん。お兄ちゃんがいたらこんな感じなんだろうなって思っていたし。だからこそお兄ちゃんがいる人っていいなって思ってた。本当のお兄ちゃんならよかったのにって。まあ、レイプされたんだけど。

 

 だから諦めちゃったんだよね。髪の毛もやたら愛おしそうに撫でてくるしさ。まるでよしよしでもするように頭を撫でてきたりもして。キスだけはされたくなかったから、頭をぶんぶん振り乱していたから。その頭を固定するためという目的もあったのだろうけど。髪の毛は自信があったのに。耳が出るぐらい短く切ってはいたけれど。さらさらで滑らかな髪質が自慢だったのに。

 

 他にも色々されて。どうやっても振り払えないってなった時に。あ、本当に最後までする気なんだってわかってしまった時に。お兄ちゃんなんていなかったんだって。友達ですらなかったんだって。

 

 私が一人で盛り上がって、その気になっていただけ。私はこいつの何を見ていたんだろうって。ほんと、ばかみたい。そう思っていたら身体が動かなくなっちゃった。身体に力が入らなくなっちゃった。

 

 そこからのことはあまり覚えていない。別に気絶していたわけでもないし、目も見開いていたけれど。閉じれないし、身体が動かないから見てるだけ、なすがままにされているだけ、みたいな。

 

 だからパンツをずらされて中をほぐされても抵抗しなかったんだよねっていう。私が受け入れたみたいなものなんだよねっていう。勘違いさせたうえで、ろくな抵抗もせずに受け入れた。実質合意じゃんという話でしかなくて。

 

 そこから先はほとんど覚えてない。意味のある記憶として認識できない。でも、多分複数回はされてるし多分舌を入れてキスもされてる。もっと酷いこともされてる。多分写真も動画も撮られた。でもまさか家にレイプされましたなんて言えるわけもないから。

 

 未婚の婿を取るべき女性が、男の家にみすみす上がって乱暴されたなんて家の恥だから。家の恥でしかないから。それがたとえ、先方も名のある家だったとしても。むしろ、名のある家であればこそ。

 

 ばれたら多分その場での刺殺絞殺撲殺。運がよくて自裁の機会を与えられる。まあ、そもそも辱めを受けるぐらいなら舌を噛むなり喉を突くなりして潔く死になさいって言う家だから、多分撲殺ルートが一番可能性としては高いけど。

 

 まあ、それは仕方がないことだから。仕方がないと思っているくせに昔の夢を見てはパニックになる。私が自分で進んで受け入れている夢。自分で進んで受け入れて、よがって喘いで髪を振り乱して喜んでいる夢。それを動画で撮られてあちらこちらにばらまかれている夢。それで関係を迫られて喜んで応じる夢。

 

 全部夢だけど、全部が嘘じゃない保証なんてどこにもないから。私が覚えていないだけで、実は喜んで受け入れていたんじゃないのって。締まるとか濡れてるとか立ってるとかかわいいとかたくさん今でも思い出せるぐらい言われたもんね。それで嬉しくなっちゃったんじゃないのって。私は私を信じてないから。記憶がなければなおさら。

 

 だからというとおかしな話かもしれないけれど、だから私は自分のお腹を突き刺したんだと思う。よく覚えてないけど。よりにもよって人様の車の中で。バーベキューの帰り道、うたたねしている最中に夢を見て。

 

 衝動的に目の前にあった包丁で突き刺した。他のメンバーこそいい迷惑って話でしかなくて。全然包丁放さなくて、無理矢理取り上げるのに苦労したらしいから。死んでおけよって話ではあるんだけど。まあ、それはまた別のお話。

 

 まあ、そんなこんなで。私は何事にも現実感を感じられない体質だから。別に、私の過去の思い出がそういう体質に影響しているかって言われると難しいところなんだけど。ある程度は関わっているかもしれないし、あるいは全く関わっていないかも。

 

 私は関わっていないといいなって思ってる。父親がいつも気違いと罵ってきたように、ただ私の頭がおかしいだけなんだって。ただ私が人間として欠陥製品で、出来損ないの屑。人間失格なんだって結末のほうがよっぽどいい。ただ単純に私の頭がおかしいんだって理解のほうがよっぽどいい。

 

 だって、そうじゃなきゃ、なんか過去に縛られている人みたいでかなり嫌だ。まるで不幸な人生を送ってきたから価値観が歪みましたとか、苦労をしたから価値観が歪みました、みたいに思われるのはすごく嫌。まるで私が不幸な人みたいで。まるで私が可哀想な人みたいで。

 

 何も知らないくせに。知ろうともしなかったくせに。お巡りさんもスクールカウンセラーも、相談しても何にもしなかった。何にも。むしろ相談したからひどい目に遭った。死ぬかと思うぐらい殴られた。

 

 ここで終わるんだって本気で思った。みぞれの降る夜に、シャワー直後だったからびしょ濡れの姿で追い出された。下着をとっさにつかまなかったら全裸の痴女になるとこだった。成績表を隠していないか、下着の棚を漁られた。下着を一枚一枚広げて丁寧に確認された。パッドを取り出しそのすべてを確認された。

 

 家を追い出されることなんて何度もあった。私が小さいときには散々泣きわめいていたはずだ悲鳴を上げていたはずだ。殴られるのが嫌で走って逃げだした。追いつかれて家に連れ戻された。髪の毛をわしづかみにされて引きずられた門前で土下座してそのまま頭を踏みにじられた。髪の毛をわしづかみにされるのは嫌だったから短く切った耳が見えるぐらいバッサリ切った。全部見てたはずでしょう。でも何にもしなかった。

 

 それを今更、可哀想な子と見ないで。苦労した子として見ないで。反吐が出る吐き気がする。そんなわかりやすい話に回収しないで。理解しやすい文脈で語らないで。理解しやすい文脈に組み込まないで。私を軽々しく理解した気にならないで。私で気持ちよくなろうとしないで。私を使って気持ちよくならないで。お願いだから私をオナニーの材料にしないで。私は、あなたたちを気持ちよくするために生まれたんじゃない。私を犯さないで。私をこれ以上レイプしないで。お願いだからもう、これ以上、私を穢さないで。

 

 なーんて。そんなのは嘘。あんまり言って悲劇のヒロインとして見られたくないだけ。悲劇のヒロインぶっていると見られたくないだけ。恥ずかしくて顔から火が出ちゃう。悲劇のヒロインごっこをするには18年は遅かった。30歳の中二病というのはいささか以上に恥ずかしい。

 

 私が人を殺したくなるのは、ただ、なんとなく。たまたまそれができる知識と技術を持っていたから。護身術は修めているし。護身術というより逮捕術、逮捕術というより純粋な格闘技に近いような、相当以上に攻撃的なものだけど。そういうの、使い方を学ぶ機会はよくあったし、使う機会もよくあったから。

 

 深夜徘徊をしたりとか。馬鹿みたいに喧嘩して歩いた。喧嘩をしてるときは生きている気がしたから。あとは大学の頃とかお金がなくて。仕送りがゼロに近かったから。ゼロと言わないために送っているんじゃないかなってぐらい低かったから。食費も教材費も医療費も足りるわけがなかったから。

 

 誘われて売春グループに入って。色々昔を思い出して、身体こそ売れなかったけど。裏方をやって。裏方と言えば聞こえはいいけど、要は交渉役。揉め事を制圧して、何もなかったことにすることまでがお仕事のうちだったから。まあ、実戦経験はたまるよねっていう。別にそんなにキラキラしたばかりの人生でもなかったし。

 

 そういうのを重ねていると、次第にこれ以上やったら骨が折れるなって感覚って、なんとなくわかる。関節が砕けるな。あるいは腕、このままやると一生動かないだろうなって。そこまではやらないけど。痕跡を残したくないから。ケガはどうしても痕跡になるし。口止めしてもいいけど、どうしても波風は立つから。だから極力やりたくない。お互い無傷が一番平和。

 

 ただそれでもどうしても面倒事って起こるときは起こるから。そういう時って結構派手になる。こちらもあんまり加減してあげられなくなる。すると、このまま続けたらこいつ死ぬなって場面はどうしても出てくる。これ以上首を絞めたら死ぬな、ってのもあるし。あんまり派手に沈めないほうがいいなっていうのもある。はたまた、首元で羽交い絞めにして人質っぽく使っているけど、これ以上の角度で首捻ったら首の骨砕ける気配がする、みたいな。

 

 要は、場数を踏めば踏むほど、これ以上したら殺しちゃうというラインは見えてくる。それこそ何をしていても。それこそ家でだって。母親が背を向けてかがんでいる。肋骨の隙間が服越しに浮いている。目の前にはむき出しの包丁がある。このサイズ感なら肋骨の隙間通せるな、とか。

 

 妹と他愛もない話をしながらスーパーの階段を下りている。突き落として倒れているところに、喉元めがけて膝から落ちれば簡単に砕けそう、とか。そんなことしなくても背中向けてるし首後ろから狙えるな。多分折れる、みたいな。別に恨みはないけれど。何の感情もない。家とは昔よりよっぽど関係も改善したし。

 

 多分私は、そこに壊せるものがあるんだったら壊したいんだと思う。別に悪意があるわけではないけど。害意があるわけでもないけど。ただ、そこにあるから。邪魔というほど邪魔でもないんだけど。邪魔だからどけるわけでもないんだけど。そこにあるから壊しておくか、みたいな。そんなノリ。暴力に理由なんか求めるな。虚しいだけだ、なんて。ひょっとしたら何事にも現実感を感じられないことも影響しているのかもしれない。この世界は偽物で、人生も偽物で、風景も偽物。

 

 だったら人も偽物で、人の命も全部偽物。私の命ももちろん偽物。だから、私は自傷を躊躇えない。自殺も躊躇えない。躊躇える理由がどこにもない。躊躇う理由がそもそも存在しない。躊躇うに足る理由がそもそもいずこにも存在しない。ここ数年に限っては本格的な自殺を試みてはいないけど。それもまた、ただの気分。ただのノリ。なんとなくそんな気分じゃなかったから自分の命を壊さなかった。

 

 ただそれだけのこと。自分の命に現実感が持てないんだったら。自分の身体に現実感が持てないんだったら。やっぱりどうしても他人の命とか、肉体に現実感を持つのは難しい気もする。

 

 だから、私は目の前に壊せるものがあったら壊したいなと思う。息をするように。呼吸でもするように。食事でもするように食事をしたら当然排便排尿するように。自然な在り方として、壊したいなと願う。その対象が、たまたま他人の肉体であり。あるいは他人の命だったというだけのことで。それを壊したいという気持ちが、人を殺したいという気持ちなら、多分否定はできないのだけれど。

 

 でも、その感情はあまりに当たり前に私に備わっていて。当たり前に行使できてしまう。それをしないのはただの気分と。法律で禁止されているからなのかなって。その後、警察に捕まらない自信はないから。警察に捕まったら、家の恥として廃棄処分になることは目に見えているし。まあ、仲のいい子もいるし、ご縁のある人もいるから。あんまり迷惑はかけたくないなって。ただそれだけ。

 

 もちろん人を殺してはいけない理屈として社会契約論とかを挙げる人がいるのも知っているし、倫理、道徳的に殺人が悪とされることはよく知っている。だけどいつも思うのだ。倫理、道徳に意味なんてあるのかな、なんて。倫理、道徳なんて状況が変われば簡単に覆ってしまう。

 

 それこそメデューズ号の筏の話じゃないけれど。人は極限状態において簡単に倫理や道徳を投げ捨てられる。自分が生きるためなら生きている他者を殺して食べることも厭わない。殺して食べたのはミニョネット号事件のほうだけど。まあ、判決は有罪だったにしても。

 

 極限状態において人が人を食べるというタブーを犯したのは変わらない。だから、倫理や道徳なんてものは、あくまでも平時においてのみ我々の頭上に君臨するものに過ぎなくて。つまりはふわふわのメレンゲの上に取り澄ました顔でちょこんと乗っているだけの小さな王冠。倫理や道徳なんてものに意味なんてないんだって。

 

 だから。今の私が人を殺さないのは、法律で禁じられているから。法を犯した場合に課せられるペナルティを回避する目処が立たないからだけなのかなって。断じて人を殺すことが悪だからとかいうくだらない話ではない。そんなくだらない話じゃない。善悪とは常に流動的だから。状況次第で簡単に覆るような、しょせんは砂糖菓子の上に鎮座する王様。それも錆びついたブリキの王様に過ぎないのだから。

 

 まだ、社会契約論から人を殺してはいけないという命題を導いたほうが望ましい。それが信用できるかはまた別の話だけど。そもそもスクールカウンセラーも、お巡りさんも。みんな見て見ぬふりをした。私が悲鳴を上げても助けを求めても見て見ぬふりをした。私は守ってもらえないのに。どうして、社会から課されたルール、社会契約を守らなければならないんですか。なーんて。そんなのは多少のひがみが入っているにしても。

 

 それに、私は抱えている秘密が多すぎるから。一つでもばれたら廃棄処分待ったなし。よくて自殺か「自殺」か「行方不明」。人って簡単に消えるし、簡単に消せる。多分、世間で思っている以上に、ずっと簡単。人は、自分の見たいものしか見ないようにできていると、かつて伊藤計劃は語った。ならば人がどうやって消えるか、消されるかなんて知りたくもないという話だ。だから私はいつか人知れず消えていく。

 

 まあ、行く先は決まってる。土の中か海の中。必要に応じて切り刻まれているか、何かに詰められるかして浮かび上がってこないようにされている。それで、おしまい。私はいなくなっただけ。最近上の子見ませんね。どうしたんでしょう。さあ、どうされたんでしょうねえ。それだけの話。

 

 多分、私は天寿は全うできない。なんとなくそんな予感がある。なんとなくだけど。それでもいいって思ってる。それでもいいって信じている。それでいいと弁えている。それでもいいって諦めている。それが私の脚本で、私の運命なら仕方がない。だけどいずれ消えるなら。社会に対して何の波紋も及ぼさない。ならば、社会契約論の出る幕なんてあるのかな、なんてことを思ったりもする。

 

 なんて。そんなのは、嘘。まあ、嘘でもないのだけれど。人を殺すことは悪だから人を殺してはいけない。人を殺すことは悪だから人を殺したいと思ってはいけない。人を殺したいと願ってはいけない。そんな、簡単で、馬鹿みたいな、馬鹿丸出しの理屈に組み込まないでほしいなって。そう、思うのだ。

 

 簡単な言葉で私を理解しようとしないで。わかりやすい言葉で私を理解した気にならないで。そういうの、すごく気持ち悪いんだよって。反吐が出る。安易な同情なんかするな見下すな憐れむな。何も知らないくせに。知ろうともしないくせに。知ったような口を利くなわかったような口を利くな。わからないのなら素直にわからないと言えばいい。

 

 少なくとも、知ったような口を利くよりわかったような口を利くより知ったかぶりをするより、ずっとずっと誠実だ。無知は罪でもないし恥でもないが、生半可な知識や思い込みで知ったかぶりをするのは罪であり恥でしかない。悪であるとさえ言ってもいい。あなたがいい人ぶりたいダシに、私を使うな。他所でオナっててくれ。私を巻き込むな。不愉快だ。すごく気持ち悪いからさ。鏡見ろ鏡。今のあなたはすごく醜い顔をしているよ。正義に酔った、お馬鹿さん?なーんて。

 

 それも、嘘。まあ、何より。壊したい気持ちはいつもあるから。人を殺したい気持ちは、いつでもあるから。暑ければ汗をかき寒ければ鳥肌が立つように。夜眠れば朝目覚めるように。腸がひとりでに蠢くように、心臓が意識せずとも鼓動を刻むように。何の思い入れもなく。何の価値もなく。何の意味もなく何の意義もなく。そう願ってしまうだけの。要は、ただの生理現象だから。

 

 だからいつも思ってしまうのだ。人を殺したい気持ちって、そんなにも特別なものなんですか?って。

 


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