シルヴァリオ戦記 作:光の模造品
奇妙な静寂だった。
音という音のすべてが凍りつき、まるで世界の駆動輪が焼き切れたかのような真空の空間。
漆黒の虚空。底知れぬ無限の闇のなかで、特務士官──ターニャ・デグレチャフの精神は、突如として現実から引き剥がされてそこに立っていた。
(……チッ。またか……ッ!)
舌打ちを響かせるまでもなく、彼女の脳裏には怒りと侮蔑の感情がドス黒く渦巻いていた。
見上げれば、そこにいる。
黄昏の光すら届かない不気味な明滅を放ちながら、おぞましいほど歪んだ笑みを張り付けた「それ」──自称・神、存在Xの化身である木彫りの「くるみ割り人形」が、宙に浮いていた。
『ああ、なんと愚かしいことか。人の子よ』
脳髄を直接引っ掻くような、不快で澱んだ思念が響いてくる。
『お前は相変わらず、我の与えた過酷な試練の場においてすら、唯物論的な合理主義にしがみつき、信仰の道を外れようとしている。東部戦線の泥濘といい、昨夜の帝都の喧騒といい、お前の魂は未だに傲慢の罪に満ちている』
(……ふざけた戯言を。どこのどいつが望んでこんな不条理な世界に転生させられたと思っているんだ!)
『だが、見てみるがいい。ターニャ・デグレチャフよ』
存在Xの嘲笑うような思念が、さらにねっとりと彼女の精神を這い回る。
『お前はあの戦場で、我が定めた
(──……っ!!)
その瞬間、ターニャのなかの何かが盛大に、探りようもなく冷ややかにブチギレた。
神への賛美が板についてきただと? 信仰の言祝ぎだと?
ふざけるな。あれは私の意思ではない。あんな不条理なシステム(呪い)によって、喉の奥を無理やりこじ開けられ、虫唾が走るような神の名を歌わされているだけだというのに……! 泥を啜るような屈辱を、よくもそんな軽薄な言葉で言い立ててくれたものだな!
怒りの炎が、彼女の理性の底で一瞬にして最高温度に達する。
信仰心だと? 神への感謝だと? 笑わせるな。私にあるのは、貴様のような無能なシステムに対する、文字通りの「殺意」のみだ!!
「──神だと? 存在Xだと? ふざけた冗談を垂れ流すのは、その腐った木製の脳みそを鉛で撃ち抜かれてからにしやがれ、この役立たずのバグプログラムがッ!!」
怒号とともに、ターニャの精神体は虚空から愛用の銃剣を引っ掴み、渾身の力で引き金を絞った。
──ドガァァンッ!!
至近距離から放たれた極限の魔術光弾が、存在Xの化身であるくるみ割り人形の頭部を完全に粉砕し、木端微塵の屑鉄へと変え上げる。
『あ、の、ま、に、合……ぬ、愚、か……』
醜悪な断末魔すら残させず、爆風のなかでその存在を跡形もなく消し去った後、ターニャは荒い息を吐き捨てながら吐き捨てるように悪態をついた。
「二度と私の夢に出てくるな、クソが……ッ!」
*
「はぁっ……はぁっ……!」
ガバッと、帝都の軍宿舎のベッドの上でターニャは跳ね起きた。
額にびっしりと浮かんだ冷え切った汗が、冷たい早朝の空気に晒されてピリピリと肌を刺す。荒い息を整えながら、彼女はギラギラと血走った瞳で周囲を睨みつけた。
(夢だ……。悪夢だ。あの野郎め、相変わらず私の貴重な睡眠時間を削ってまで、精神攻撃を仕掛けやがって……っ!)
忌々しさに顔を歪めながら、頭を冷やすために机の上へと視線を向けた瞬間──
ターニャの思考が、音を立てて完全に停止した。
ベッドのすぐ脇、昨日まで絶対にそこになかったはずの机の上に、一筋の光を浴びて「それ」がぽつんと佇んでいた。
──木彫りの、くるみ割り人形。
不気味に歯を剥き出しにし、嫌らしい笑みを浮かべたその造形は、先ほど夢の中で自らの手で粉々に粉砕したはずのそれと、寸分の狂いもなく一致していた。しかも、傷ひとつない、完璧な新品の状態で。
「……っ!? な、んだ……これは……ッ!?」
全身の毛穴から、先ほどの悪夢とは比較にならないほどの強烈な悪寒と恐怖が吹き出す。
夢の中の出来事ではなかったのか? いや、それとも、実態のない精神攻撃が、現実世界へと物理的な爪痕を残したというのか!?
「ふざけるな……ふざけるなよ……ッ!」
血の気の引いた青白い顔で、ターニャは震える手でその木彫りの人形を掴み上げると、引き出しの最も深い底へと力任せに叩き込み、何重もの鍵をかけて無理やり視界から排除した。
心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響き、冷や汗が止まらない。
(落ち着け私! 悪趣味な悪戯だ! 宿舎の同僚か、あるいは帝都のどこかにいる私を陥れようとする諜報員の嫌がらせに決まっている! 超自然的な何かではない、合理的に考えろ……ッ!)
自分にそう言い聞かせ、震える足を無理やり統御しながら、ターニャは隙のない軍服の着こなしを確認し、早朝の宿舎を飛び出した。
今日の最優先事項はそこではない。予定通り東部戦線へ戻る列車に乗り込み、準備した完璧な書類仕事と今回の帰還で得た成果を揃えて軍部へ提出し、一日でも早く安全な「後方勤務(デスクワーク)」のイスを確定させなければならないのだから。
*
時は昨夜──。
スラム街の泥溜まりの中で瀕死の重傷を負い、使い物にならなかったあのボロボロの男(ゼファー)をどう処理したか。その記憶が、逃避するようにターニャの脳裏をかすめる。
『おい、起きろ! 身元が分かるものはないのか……っ! チッ、面倒な!』
あの時、最寄りの憲兵署へ放り込んでやろうとゼファーを引きずり回していたターニャの前に、不意に暗がりから巨大な影が立ちはだかった。
常人離れした巨躯を隠すでもなく、不気味なほど重苦しい圧力を纏ったその「大男」は、血まみれで意識を失うゼファーを一瞥すると、低くしゃがれた声でこう呟いたのだ。
『……おいおい、また手のかかる野郎だ。……まあいい、そいつは俺が預かる』
『なっ……貴様は? こいつの知り合いか?』
『あぁ、昔馴染みってやつさ。お嬢ちゃん、とんだ災難だったな。ここは俺たちが引き取るから、さっさと消な』
(……ふん、あんな怪しげな大男が身内を自称するなど、どう考えても裏社会のゴロツキか、あるいはキリガクレの類のような胡乱な連中の回し者だ。だが、私にとって好都合なことに違いはない!)
あの場に残されていた痕跡は、私の空中砲撃によって分子レベルで更地へと変えられた。憲兵隊が調査したところで、残るのは巨大なクレーターと謎の焦土のみ。
「あれで厄介払いは完了した。私の計算通り、現場に私の関与を示す証拠は何ひとつ残っていない。さあ、列車へ急ぐぞ!」
数分後。
早朝の蒸気と冷気が激しく渦巻く帝都中央駅のプラットホーム。
東部戦線行きの定期列車が重々しい効果音とともに煙を吐き出すなか、ターニャは完璧な身だしなみで乗車口のステップに足をかけようとしていた。
(よし、完璧だ。予定通り東部へ戻り、現地で圧倒的な軍務成績を維持しつつ、しかるべき手順で内勤への異動願を出す。政治的根回しと書類の精度さえ完璧なら、
「──ごきげんよう、デグレチャフ少尉」
乗車口に足をかけたその瞬間、背後から掛けられた、どこかねっとりと甘く、しかし刃物のように冷ややかな声に、ターニャの足がピタリと停止した。
「早朝からご苦労様ですわ。お忙しいところ申し訳ありませんが、少々お時間をいただいても?」
振り返ったプラットホームの柱の影から、端正な軍服に身を包んだ少女が音もなく姿を現した。
アドラー軍の象徴たる 第七特務部隊『
ターニャの目元が、わずかにピクリと跳ねる。
(ライブラの副官……サヤ・キリガクレ。なぜこんな早朝のホームに私を待ち伏せている? いや、落ち着け。昨夜の爆撃地点は完全な更地だ。私が誰かと戦っていた証拠など残っているはずがない)
ターニャは脳髄をフル回転させ、完璧な軍人としての敬礼とともに、微塵の隙もない声音で応じた。
「これはキリガクレ副隊長殿。東部戦線への定例帰還の途中であります。何か軍務上の緊急伝達でも?」
「ふふ……。いいえ、伝達というわけではありませんの」
サヤは裾を揺らしながら静かに歩み寄り、混雑するホームの中で、ターニャのわずか一歩手前で足を止めた。その暗い瞳には、隠密特有の鋭利な毒が含まれている。
「昨夜、私どもライブラは別件の極秘調査でスラム街の近辺を監視しておりましてね。……そうしましたら不意に、夜空の彼方から街の一角を消し飛ばすほどの、実に見事な『白銀の閃光』が降り注ぐのを目撃いたしましたの」
「ほう。それは恐ろしいことですな」
ターニャは一切の眉を動かさず、感情を殺した鉄面皮で相槌を打つ。
サヤは楽しそうに、首をわずかに傾けて言葉を重ねた。
「ええ、ええ。チトセお姉様──我が主も、帝都の治安を脅かす不穏な星辰光の動きには非常に関心を持っておられます。……ただ、私が気になりましたのは、その爆心地から少し離れた暗がりを、驚くべき足取りで駆け抜けていく『小柄な人影』の姿でして」
サヤの視線が、ターニャの小さな身体をなめ回すように滑る。
(ちっ……! 爆撃そのものではなく、あの男、ゼファーとやらを引きずって憲兵署を探していたところを遠目から見られていたか……! いや、あの暗がりだ。確証はないはずッ)
ターニャの脳内で冷や汗が噴き出す。だが、彼女は瞬時に計算を完了させていた。
証拠はない。暗がりの中での目撃談など、いくらでも突っぱねられる。ここで動揺を見せれば、事情聴取名目で帝都に拘留され、彼女の「東部に戻って書類仕事で内勤を勝ち取る」という年次計画が完全に崩壊するのだ。
「あいにくですが、副隊長殿」
ターニャは冷徹な眼差しでサヤを見つめ返し、微塵の揺らぎもなく言い放った。
「私は昨日、帝都を観光し、東部での任務の疲労から宿舎の部屋で規則正しく深い睡眠をとっておりました。夜のスラム街を徘徊し、怪しげな荷物を引くような不毛かつ軍律に反する趣味は持ち合わせておりません。見間違いか、あるいは別の不審者とお見誤りでは?」
一瞬の静寂が、ホームの喧騒の中に落ちる。
サヤはジッとターニャの瞳の奥を覗き込み、やがて──愉悦に満ちた笑みを唇に浮かべた。
「ふふ……ええ、ええ。きっと私の見間違いですわね。デグレチャフ少尉ほどの優秀で模範的な士官が、そのような夜遊びをなさるはずがありませんもの」
サヤはスッと顔を近づけ、ターニャの耳元で歌うように囁いた。
「ただ……我が主の邪魔をする者、あるいは帝都に余計な混乱を持ち込む者がいれば、それが誰であろうと私どもライブラが粉砕いたします。……どうぞ、東部戦線でもお気をつけて。お姉様への素晴らしい報告書を期待しておりますわ」
「……ご忠告、感謝いたします」
サヤは優雅にお辞儀をすると、影が溶けるようにホームの混雑の中へと消えていった。
──プシュ──ッ!!
激しい汽笛とともに、定期列車が大きく揺れて動き出す。
ターニャは素早く車内へ入り、重い扉を閉め切ると、座席へ深く腰を下ろして息を吐き出した。
「ふぅ……っ! あぶないところだった……!」
手袋をはめた手で冷や汗を拭い、ターニャは窓の外へ流れる帝都の遠景を睨みつけた。
(危うく特務の不毛な調査に巻き込まれ、帝都に留め置かれるところだったぞ。……だが、これでいい。サヤの揺さぶりなど無意味だ。予定通り東部戦線へ戻る!)
彼女の目的は一貫している。
帝都のような政治的意図と特務の怪異が渦巻く危険な中央からは一刻も早く離れ、手慣れた東部戦線へ帰還すること。そこで圧倒的な戦果と完璧な事務処理を積み重ね、裁剣天秤(ライブラ)へ「私は現場の兵士ではなく、後方組織の歯車として最も価値がある」と認めさせ、安全なデスクワークのポストを合法的に勝ち取ることだ。
(待っていろよ、総統府の官僚ども。東部戦線で誰も文句を言えない完璧な実績を作り上げ、今度こそ安全な内勤の椅子を奪い取ってやる……!)
引き出しの奥で不気味に笑う木彫りの人形の存在と、背中に残るサヤの視線の不快感を振り払い、ターニャは決意も新たに、東部戦線への鉄路を進んでいくのだった──。