地上の空気は、いつだって鉄と錆の匂いがする。
人類が地上の支配権を失ってから、どれほどの年月が過ぎただろうか。かつて繁栄を極めた都市は瓦礫の山と化し、文明の象徴だった高層建築物は無残な姿を晒している。人々の営みがあった場所にはラプチャーが闊歩し、今や地上の大半は人類にとって踏み入ることさえ困難な危険地帯となっていた。
しかし、そんな荒廃した世界にも、息を呑むほど美しい場所は存在する。
通称『クリスタル地帯』。
そこは、大地から突き出した大小無数の結晶が陽光を反射し、赤、青、緑、紫と、目も眩むような輝きを放つ幻想的な場所だった。巨大な結晶柱が林立する谷間には、透明な鉱物に縁取られた川が流れ、風が吹けば結晶同士が触れ合い、鈴の音にも似た澄んだ音色を響かせる。
一見すれば、まるでおとぎ話に登場する楽園のようである。
もっとも、その美しさに目を奪われて長居した者が、無事に帰還できる保証などどこにもない。結晶に覆われた地形そのものが危険であるうえに、この一帯には人類にとって最悪の脅威の一角が存在していた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
突如として、大地を揺るがす轟音が響き渡った。
谷底を埋め尽くしていた結晶体が次々に砕け散り、色とりどりの破片が空中へと巻き上がる。直後、岩壁の向こうから大量の黒い液体が溢れ出し、まるで意思を持った大津波のように渓谷を駆け抜けていった。
それは水でも、泥でもない。
『ダークマター』。
使い手の意思ひとつで自在に形状を変化させ、盾にも槍にも、敵を押し潰す濁流にもなる恐るべき力である。その質量と制御精度は、通常の兵器など比較にもならないほど凶悪なものだった。
そして、その黒い奔流を操っているのは、ひとりの少女だった。
「はぁ……。本当に、どいつもこいつも馬鹿ばっかり」
幼さの残る顔立ちに、鮮やかな緑色の瞳。小柄な身体からは想像もつかないほどの威圧感を漂わせる少女は、巨大な結晶の上に腰掛け、退屈そうに足を揺らしていた。
ヘレティック、レヴィアタン。
フォービーストの一角に数えられる、人類にとって極めて危険な存在である。
そんな彼女は現在、非常に機嫌が悪かった。
「クイーンの『オンリーワン』がどれだけ崇高なものなのか、何ひとつ理解してない。アークの羽虫どもも、地上で好き勝手してる連中も、みーんなまとめて消えちゃえばいいのに」
レヴィアタンが指先を動かすと、谷底のダークマターが巨大な腕へと変化し、近くに転がっていたラプチャーの残骸を握り潰した。分厚い装甲が悲鳴を上げて砕け散り、内部の機械部品が黒い液体に飲み込まれていく。
本来であれば、このような場所に近づくこと自体が自殺行為だった。通常のニケ部隊はもちろん、地上で長年活動してきた歴戦のピルグリムであっても、レヴィアタンとの交戦には相応の覚悟が必要になる。
ましてや、生身の人間など論外である。
だというのに。
「ねえ、お嬢ちゃん。ちょっと火力が強すぎない?」
なんとも間の抜けた声が、頭上から降ってきた。
「……は?」
「いや、だからさ。そんなにドッカンドッカンやられると、せっかくの焼き魚に砂がついちゃうじゃないの。もうちょっと静かにできない?」
レヴィアタンはゆっくりと顔を上げた。
そこには、ひとりの女がいた。
外見年齢は二十代半ばほど。長い髪を無造作にまとめ、どこから調達したのかもわからない、仕立ての悪い修道服のような衣服をまとっている。腰には古びた小物入れがぶら下がり、足元には使い込まれた革靴が転がっていた。
ただし、修道女らしい清廉さなど微塵も感じられない。
女は崖の上にどっかりと腰を下ろし、小さな焚き火で魚を炙っていた。片手には酒瓶、もう片方には串に刺した魚。火加減を確認しながら、実に幸せそうな表情を浮かべている。
その女の名前は、マキ。
自称、神に仕える敬虔なる聖女である。
「……ねえ」
「んー?」
「その魚、どこから持ってきたの?」
「そこにあったわよ?」
「そこって?」
「ほら、あんたの拠点の奥にある、ちょっと涼しいところ。氷みたいなクリスタルがいっぱい生えてる場所よ」
「…………」
「あそこ天然の冷蔵庫みたいで便利よねえ。魚も全然傷まないし」
レヴィアタンの額に青筋が浮かんだ。
「あれは! 私が! わざわざ川まで行って! 捕ってきた魚なんだけど!?」
「知ってるわよ?」
「知ってるなら食べないでよ!」
「えー? いいじゃない、ケチケチしおって。魚なんて川にいっぱいいるんだから」
「そういう問題じゃなーい!」
レヴィアタンが叫ぶと同時に、谷底のダークマターが爆発的に膨れ上がった。
黒い液体が数十本もの鋭い槍へと変化し、マキの座る崖へ一斉に殺到する。その速度は並のニケであれば反応することすら難しく、ましてや呑気に魚を焼いている女が回避できるようなものではなかった。
しかし。
「うわっ、危なっ!」
マキは情けない悲鳴を上げながら、焼き魚を抱えて横へ転がった。
次の瞬間、無数の黒い槍が彼女の周囲へと突き刺さり、結晶の岩肌を粉々に砕く。本来なら彼女の胴体を貫いていたはずの槍は、わずかに軌道を逸らして地面へ突き刺さっており、その中心ではマキが砂埃まみれになっていた。
「ちょっと! 危ないじゃないの! 串が喉に刺さったらどうする気!?」
「刺さればいいでしょ!」
「ひどい! 聖女に対してなんて罰当たりな!」
「どこが聖女なのよ、この泥棒女!」
レヴィアタンの怒りはもっともだった。
そもそも、マキがこのクリスタル地帯に現れてからというもの、ろくなことが起きていない。
初めて遭遇した時には、レヴィアタンの拠点に勝手に入り込み、食料庫を漁っていた。追い出しても翌日には戻ってくるし、攻撃してもなぜか生き延びる。挙げ句の果てには、まるで古くからの知り合いであるかのように話しかけてくる始末だった。
当然、レヴィアタンも最初は全力で排除しようとした。
だが、できなかった。
正確には、彼女の攻撃はマキを正しく捉えることができなかったのである。
レヴィアタンの視覚は確かにマキの姿を認識している。声も聞こえるし、物理的な接触だって可能だ。ところが、その情報を戦闘システムが処理しようとした途端、奇妙な不具合が発生する。
対象の輪郭が曖昧になり、座標の確定に失敗する。詳細なスキャン結果には不明なノイズが大量に混入し、最終的な脅威判定では、目の前にいるはずの女が背景の一部として処理されてしまうのだ。
――対象、識別不能。
――指定座標、脅威反応なし。
――環境ノイズとして処理。
ふざけた話である。
肉眼では確かに見えている女を、自分の戦闘システムだけが頑として認めようとしない。
もちろん、認識できないからといって、攻撃が絶対に当たらないわけではない。周囲一帯を無差別に押し潰すような攻撃であれば、マキを巻き込むことは十分可能だった。
実際、以前に一度、腹を立てたレヴィアタンが周辺一帯をダークマターで押し潰したことがある。
結果、マキは瓦礫の下から文句を言いながら這い出してきた。
丈夫な機体のおかげで致命傷こそ免れたものの、修道服は破れ、髪は砂埃まみれになっていた。それにもかかわらず、本人は「せっかく見つけたお酒が割れた!」と、まったく別の理由で怒っていたのである。
一方のレヴィアタンは、自分の大切な食料庫を半壊させたうえ、お気に入りのクリスタルまで粉砕するという、散々な目に遭った。
以来、レヴィアタンはこの女への対処に頭を悩ませている。
「……本当に、何なのよ、あんた」
「え? だから聖女だってば」
「絶対嘘!」
「まあ、正確には自称聖女だけどね」
「認めた!?」
マキは悪びれもせず、焼き魚にかぶりついた。
「んーっ! 美味しい! やっぱり自然の恵みって素晴らしいわねえ」
「それ私が捕った魚!」
「大丈夫よ。神様も言っているもの。『隣人の魚は己の魚。分かち合うことこそ、真の信仰である』って」
そう言いながら、マキは懐から一冊の古びた本を取り出した。
表紙は擦り切れ、角は破れ、紙のあちこちに得体の知れない染みがついている。
それは、彼女が大昔に拾った聖書だった。
マキは慣れた手つきでページをめくると、いかにもありがたそうな表情で本を掲げた。
「ほら、ここにも書いてある」
「……本当に?」
「もちろん。神様は嘘をつかないもの」
「じゃあ見せて」
「嫌よ」
「なんで!?」
「信仰とはね、お嬢ちゃん。文字を読むことじゃないの。心で感じるものなのよ」
「絶対に何も書いてないでしょ!」
実際、そんなことは一文字たりとも書かれていなかった。
そもそもマキは、今開いているページの内容すら確認していない。
それらしいことを言い、もっともらしい顔をしていれば、大抵の人間は勝手に納得する。それが彼女の人生哲学だった。
「はあ……」
レヴィアタンは深々とため息をついた。目の前の女に怒ることすら馬鹿馬鹿しくなってくる。
一方、マキは焼き魚を頬張りながら、実に満足そうに笑っていた。
(いやー、それにしても便利な身体になったものねえ)
マキは自分の指先を見つめる。
外見こそ普通の人間と変わらないが、その皮膚の下に本来の意味での血管や筋肉が存在しているわけではない。彼女の身体を構成するのは、通常のニケとは根本的に異なる、極めて特殊な機械構造だった。
全身完全ブラックボックス。
既存の技術体系では解析すら困難な、異常極まりない機体。
その正式名称は『デウスエクスマキナ』。
機械じかけの神。
あらゆる電子的な探知から存在を見失わせ、精密な認識を阻害するという、戦闘兵器としてはひどく偏った性質を持つ、世界にただ一体の特殊機体である。
もっとも、マキ自身はその詳しい仕組みをまったく理解していない。というより、理解する気がなかった。
(あのクソ博士には一生分の文句を言ってやりたかったけど……まあ、こうして長生きできてるわけだし、結果オーライってやつかしら)
彼女は焼き魚をもう一口齧り、遠い昔に死んだひとりの女性を思い浮かべた。
すべての始まりとなった、ある天才科学者。
その名は、エブラ博士。
かつて人類の希望と称えられ、やがて戦犯同然の汚名を着せられ、最後には道端の詐欺師を本物の神様だと信じ込んでしまった、救いようのない大馬鹿者である。
もっとも、マキに言わせれば、あの母娘は揃ってどうかしていた。
なにしろ、どちらも彼女の適当な嘘を真に受けて、とんでもないものを生み出してしまったのだから。
◇ ◇ ◇
第二次地上奪還戦。
それは、地下都市アークに逃れた人類が、失われた故郷を取り戻すために敢行した大規模な軍事作戦だった。
中央政府は第一次地上奪還戦を遥かに上回る戦力を動員し、三大企業が開発した最新鋭の兵器と大量のニケを投入した。さらに、ラプチャーの通信網を封じる切り札として、地上の広範囲に特殊な粒子を散布したのである。
その名も『エブラ粒子』。
ラプチャーの高度な連携を阻害することを目的として開発された、人類の技術の結晶だった。
作戦開始前、アークは希望に満ちていた。中央政府は大々的に勝利を喧伝し、街頭の大型モニターには地上奪還を約束する映像が繰り返し流された。人々は歓声を上げ、ニケたちは再び人類の勝利の女神として戦場へ送り出されていった。
だが、その希望が絶望へと変わるまで、さほど時間はかからなかった。
エブラ粒子は確かに通信を阻害する性質を持っていた。しかし、ラプチャーはすでにその影響を受けない新たな通信手段を確立していたのである。
その結果、通信を封じられたのは皮肉にも人類側だった。
指揮官の命令が届かず、部隊同士の連携は崩壊し、救援要請すら満足に伝達できない。高濃度の粒子によって機能に支障をきたすニケも現れる中、ラプチャーの軍勢は統制された動きを維持したまま人類軍へ襲いかかった。
開戦から間もなく、人類軍は投入した戦力の約八割を失った。
生き残った者たちの奮戦も虚しく、第二次地上奪還戦は壊滅的な敗北に終わったのである。
そして、敗戦後のアークでは、ある感情が急速に広がっていた。
怒りだ。
地上を取り戻せると信じていた人々は裏切られたと感じ、家族や友人を失った者たちは悲しみの行き場を求めた。膨大な戦力と資源を費やした中央政府への不満は日増しに強まり、誰がこの惨劇を引き起こしたのかという責任追及が始まった。
その矛先のひとつが、ある女性科学者へと向けられた。
エブラ博士。
エブラ粒子の開発者である。
かつては人類の救世主になり得ると期待され、天才科学者として称賛されていた女性だった。
しかし、その評価は第二次地上奪還戦の失敗によって一変した。
実際に粒子の大量散布を決定したのは軍の上層部であり、作戦の失敗には戦略上の判断ミスやラプチャー側の技術的進歩など、様々な要因が絡んでいる。
それでも、怒れる民衆にとって、そんな事情はどうでもよかった。
エブラ粒子さえ使わなければ。
あの粒子がなければ、人類は勝利できたのではないか。
そうした声が日に日に大きくなり、ついにはエブラ博士個人を糾弾する動きへと発展していった。
新聞には、彼女を非難する見出しが踊った。
人類の希望を奪った科学者。
味方を殺した悪魔の発明。
そして、戦犯。
もっとも、エブラ博士自身も、その批判を真正面から受け止めていた。
彼女は誰よりも、自分の研究がもたらした結果を理解していたのだから。
「……私が、あんなものを作らなければ……」
アークの外縁区画にある、ひと気のない路地裏。
薄汚れた白衣をまとった女性が、壁にもたれかかるようにして座り込んでいた。
かつては研究者らしい知性と自信に満ちていたであろう顔立ちも、今では見る影がない。頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれ、手入れの行き届かなくなった髪が無造作に肩へ落ちていた。
傍らには、くしゃくしゃになった新聞が転がっている。
そこには、彼女自身の顔写真とともに、第二次地上奪還戦の失敗を糾弾する記事が掲載されていた。
「……違う。違うのよ……。私は、ただ……」
エブラ博士は震える両手で顔を覆った。
「……人類を、救いたかっただけなのに……」
その声を聞いていた者が、ひとりいた。
(うわあ……。なんか、ものすごく面倒くさそうなのがいるわねえ)
マキである。
彼女は路地の入口で足を止め、壁に背を預けて座り込む女性を眺めていた。その視線は、女性の顔ではなく、手首に巻かれた高級そうな腕時計へと向けられている。
(あの時計、なかなかいい値段しそうじゃない。あれだけ立派なものなら、しばらく食うに困らないわね)
当時のマキは、どこにでもいる――とまでは言わないが、世間の片隅には一定数存在する、ごく普通の詐欺師だった。
家族もなければ、まともな職歴もない。あるのは口のうまさと図太い神経、そして危険を察知すると一目散に逃げ出す生存本能だけだった。
彼女はアークの各区画を転々としながら、適当な肩書きを名乗って日銭を稼いでいた。ある時は慈善団体の関係者、ある時は政府の特別配給員、またある時は戦場から奇跡的に生還した英雄の遠縁。
もちろん、すべて嘘である。
もっとも、本人なりの妙な美学はあった。
死にかけの人間から最後の食料を奪ったところで、後味が悪いだけだ。それなら余裕のある金持ちや、欲をかいている連中を騙した方が気分もいいし、得られる利益も大きい。
そんな考えの持ち主だったからこそ、マキは目の前の女性を見て、少々困っていたのである。
(いやあ、参ったわねえ。あの時計だけ拝借できればいいんだけど……なんか、今にも死にそうな顔してるし)
マキはしばらく悩んだ末、女性へと歩み寄った。
「ねえ、そこのお姉さん。こんなところで何してるの?」
返事はなかった。
「おーい。聞こえてる?」
「……何も……何も変えられなかった……」
「あー、はいはい。そういうのは後にしてくれる?」
マキは女性の隣にしゃがみ込み、さりげなく腕時計へ視線を向けた。
「ところで、その時計――」
「私が……あんな粒子を開発しなければ……!」
「うひゃっ!?」
突然叫んだ女性に、マキは思わず飛び上がった。
「びっくりした! 何なのよ、いきなり!」
「ラプチャーの通信を妨害できれば……敵の連携を崩せれば……人類に勝機が生まれると、そう信じていたのに……!」
女性はマキの言葉など聞いていなかった。
ただ、壊れたように自責の言葉を吐き続けている。
「私は……ラプチャーの目と耳を奪うつもりだった。あの粒子なら、それができると……。けれど、実際に目と耳を奪われたのは……!」
エブラ博士は震える手を握り締めた。
「……私たちの方だった……!」
それは、研究者としての誇りを完全に打ち砕かれた者の声だった。
エブラ粒子には、確かに通信を阻害する効果があった。ラプチャー側が新しい通信手段を獲得していたことを考えれば、技術そのものが完全に無意味だったわけではない。少なくとも、かつてのラプチャーに対しては、対策を必要とするだけの脅威だったのだ。
だが、結果として人類軍が被った損害はあまりにも大きかった。
研究室の中で想定していた効果と、現実の戦場で起きた出来事。その落差は、彼女が積み重ねてきた自信を根こそぎ奪い去っていた。
「……私のせいで、何人死んだと思う……?」
「…………」
「私があの粒子を作らなければ……別の方法を選んでいれば……あんなに多くのニケが、兵士たちが……!」
マキは黙って話を聞いていた。
正確には、半分も理解していなかった。
通信だの粒子だの、彼女にとってはどうでもいい話である。科学的な知識など皆無に等しく、エブラ粒子についても「なんか通信が使えなくなる厄介なもの」程度の認識しかなかった。
ただ、女性が自分の仕事について随分と悩んでいることだけは理解できた。
(あー、なるほど。要するに、自分の発明が敵に効かなくて、味方ばっかり困らせちゃったってことね)
彼女の理解は、極めて雑だった。
だが、詐欺師として長年生きてきたマキには、ひとつだけ得意なことがある。
それは、相手が最も聞きたがっている言葉を見抜くことだった。
そして、もうひとつ。
目の前で泣いている人間を見ると、どうにも居心地が悪くなるという、本人にとっては甚だ迷惑な性分も持ち合わせていた。
「……はぁ、しょうがないわねえ」
マキは小さくため息をついた。
腕時計のことはいったん諦めることにして、懐から一冊の古びた聖書を取り出す。
それは以前、アークの廃棄区画で拾ったもので、元々は宗教家を騙る際の小道具として使っていたものだった。信仰心など欠片もないマキにとって、聖書は立派な表紙とそれっぽい文章が並んだ、非常に使い勝手のいい商売道具にすぎない。
彼女はその聖書を胸に抱き、ゆっくりと息を吸った。
次の瞬間、表情が変わる。
先ほどまでの軽薄な笑みが消え、慈愛に満ちた穏やかな微笑みが浮かんだ。
その声には、不思議なほど人を安心させる柔らかさが宿っていた。
「ねえ、お姉さん。あなたは、ひとつ大きな勘違いをしているのよ」
「……勘違い……?」
「ええ。神様はね、人間に最初から完璧な答えなんて与えたりしないの」
マキは女性の手に、自分の手を重ねた。
「人間が失敗するのは、神様が意地悪だからじゃないわ。自分たちで考えて、次の答えを見つけるためなのよ」
「……次の……答え……」
「そう。確かに、あんたの発明で困った人は大勢いたんでしょうね。だからって、それまで積み重ねてきたものが全部無意味になるわけじゃないでしょう?」
エブラ博士の瞳が、わずかに動いた。
「……でも、私の研究が……」
「そりゃあ、結果が悪かったんだから怒られもするでしょうよ。私だって、騙した相手に見つかったら怒鳴られるもの」
「……騙した……?」
「あ、何でもないわ」
マキは咳払いをひとつすると、再び慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「とにかく、あんたが作ったものだって、使い方ひとつでまったく別の意味を持つかもしれないじゃない。今の使い方が駄目だったからって、他の使い方まで駄目だとは限らないでしょう?」
「……他の……使い方……」
「そうよ。たとえば、誰かに見つかりたくないなら、相手の目を全部潰す必要なんてないじゃない。自分だけ見えなくなれば、それで済むんだから」
マキは肩をすくめた。
「世の中なんて、そんなものよ。失敗したと思ったら、ちょっと考え方を変えてみる。案外、思いもしなかった使い道が見つかるかもしれないわよ?」
それは、あまりにも単純な話だった。
マキが過去に何度も使ってきた、追っ手から逃れるための考え方でしかない。
誰にも見つからなければ、捕まることもない。
ただ、それだけ。
しかし。
「……自分だけ……?」
エブラ博士が顔を上げた。
「……全域を妨害するのではなく……特定の対象のみを……認識から……?」
「ん?」
「そうか……! そういうことだったのね……!」
女性の表情が一変した。
「私は今まで、通信そのものを遮断することに固執していた……! でも、通信が成立していても、対象の存在を正しく処理できなければ……!」
「……お姉さん?」
「存在しないのではない! 存在しているにもかかわらず、認識されない状態を作り出せばいい! 粒子の性質を利用して情報伝達へ干渉し、さらに別の演算技術を組み合わせれば……!」
博士は勢いよく立ち上がった。
その瞳には、もはや絶望の色など存在しなかった。
代わりに宿っていたのは、常人には理解しがたい、異様なまでの知的興奮だった。
「できる……! エブラ粒子の研究成果を応用し、別の情報処理技術と組み合わせれば、既存の探知機構そのものを欺瞞することも不可能ではない……! 通信の遮断ではなく、認識の選別……!」
「…………」
マキの笑顔が、微妙に引きつった。
(あれ? なんだか話がおかしな方向に……)
「神よ……!」
博士が突然マキの両手を握った。
「あなたは、私を導くために現れたのですね……!」
「……はい?」
「私にはわかります! あなたの言葉は、私に新たな可能性を示してくださった! あなたこそ、人類が次の段階へ進むための道しるべなのです!」
「あの、お姉さん? ちょっと落ち着いて?」
「既存の認識体系に捉われぬ存在……あらゆる探知をすり抜け、あらゆる監視の目から逃れ、なお確かに存在するもの……!」
博士は、何かを確信したように呟いた。
「……機械じかけの神」
「…………」
「そうだわ……! あなたこそが、私の理論を完成させるにふさわしい存在……! デウスエクスマキナ……!」
マキは、そっと女性の手を振りほどこうとした。
(あ、これ絶対ヤバいやつだわ)
長年の詐欺師生活で培われた危機察知能力が、全力で警鐘を鳴らしていた。
この女性、危険である。
しかも、かなり手遅れに近い。
「いやいや、お姉さん? 私は別に神様ってわけじゃなくてね?」
「分かっています! 神は自らを神とは名乗らぬもの!」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「なんと謙虚な……! ああ、私は何と幸運なのでしょう……!」
「話を聞け、この研究馬鹿」
しかし、博士は聞いていなかった。
彼女は涙を流しながらマキの手を握り、何度も感謝の言葉を繰り返した。
そして。
「ぜひ、お礼をさせてください。私の研究所には、戦前から保管してある極上の酒がございます」
「……極上の酒?」
マキの動きが止まった。
「ええ。今となっては、どれほど金を積んでも入手できないでしょう」
「…………」
危険な女性だった。
関わるべきではない。
絶対に逃げた方がいい。
そう確信していたにもかかわらず、マキは数秒後には満面の笑みを浮かべていた。
「……まあ、そこまで言うなら、付き合ってあげてもいいわよ?」
その日の夜、マキはエブラ博士の研究所で、生まれて初めて味わうような高級酒をたらふく飲んだ。
そして、見事に睡眠薬を盛られた。
「……あれ?」
意識が遠のく直前、マキは目の前の女性が、ひどく穏やかな笑顔を浮かべていることに気づいた。
「安心してください。あなたの御身は、私の技術のすべてをもって守り抜きます」
「……ちょ、ま……」
「あなたこそ、人類の新たな可能性を示す、機械じかけの神なのです」
(あ、このクソ博士……!)
そこまで考えたところで、マキの意識は途絶えた。
エブラ博士は、眠りについた女性の頬をそっと撫でた。
「……もう二度と、間違えない」
それは、自分自身へ言い聞かせるような声だった。
「今度こそ……人類を救えるものを……」
博士は研究室の奥へと歩みを進める。
彼女は知らなかった。
自分が救いと信じて掴んだものが、そもそも何の根拠もない、ひとりの詐欺師の出まかせだったことを。
そして、マキが次に目を覚ますまでには、数十年という歳月が必要だったのである。
◇ ◇ ◇
「……知らない天井だわ」
マキが目覚めて最初に口にした言葉は、それだった。
次に彼女は、自分が横たわっている場所が見慣れない研究施設であり、身体のあちこちに奇妙な機械が接続されていることに気づいた。
最後に、自分の身体が人間ではなくなっていることを知った。
「……ちょっと待って」
マキは自分の胸元に手を当てた。
鼓動は感じられる。呼吸もできるし、指先には触覚があり、肌にも温かみがある。
しかし、そのすべては機械によって再現されたものであり、彼女の本来の肉体は、もはやどこにも存在していなかった。
通常のニケとは異なる、完全に独立した特殊機体。
エブラ博士が残した設計資料によれば、その全身にはエブラ粒子研究から派生した特殊な制御装置と、既存の技術体系では理解しがたい演算機構が組み込まれているらしい。
ただし、マキの機体が通常のエブラ粒子を周囲へ大量散布しているわけではない。
彼女の身体に組み込まれたのは、粒子の研究を通じて発展した独自の情報干渉技術だった。外部から取得された情報の処理を狂わせ、対象の認識を著しく困難にするという、従来のエブラ粒子とはまったく異なる応用技術である。
それらは複雑に組み合わされ、ひとつの特殊な機体を形成していた。
全身完全ブラックボックス。
正式名称『デウスエクスマキナ』。
機械じかけの神。
……などという大仰な名前がつけられていた。
もちろん、当の本人がそんな説明を聞いて納得するはずもない。
「ふっざけんな、あのクソ博士ぇぇぇっ!!」
研究室に、凄まじい怒号が響き渡った。
マキは飛び起き、近くにあった椅子を蹴り飛ばした。椅子は壁に激突し、原形を留めないほど粉々になる。
「は!? 何これ!? 何なのこの身体!? 私の肌! 私の腕! そもそも心臓どうなってんのよ!?」
自分の身体をあちこち触りながら、マキは半ば錯乱したように叫んだ。
その時だった。
「ちょ、ちょっと待って!」
研究室の扉が開き、白衣姿の女性が飛び込んできた。
知的な顔立ちの女性だった。長い研究生活のせいか目の下にはうっすらと隈があり、髪も無造作にまとめられている。
女性はマキの姿を見るなり、その場に立ち尽くした。
「……本当に……目覚めたの……?」
「誰よ、あんた!」
「私はマリア。あなたを改造したエブラ博士の娘よ」
「……娘?」
マキは目を細めた。
「……まさか、あのクソ博士に子供がいたの?」
「……ええ。母は、あなたのことを何度も話していたわ」
数秒の沈黙が流れた。
そしてマキは、盛大に顔をしかめた。
「あー……なるほど。あの変態科学者の娘ってわけね」
マリアは複雑な表情を浮かべたものの、否定はしなかった。
「母は……あなたを、本当に神だと信じていたわ」
「知らんがな!」
「あなたから天啓を受けたと、何度も話していた。人類の未来を導くために現れた、機械じかけの神だと……」
「ただの慰め話よ!? 酔っ払いの世迷言より適当に喋ったわよ、私!」
「……そう、だったのね」
マリアは目を伏せた。
「母は、亡くなるまであなたの完成を待っていたわ。結局、あなたが目覚める姿を見届けることはできなかったけれど……」
マキの動きが止まった。
「……亡くなった?」
「ええ。あなたが眠りについてから、もう随分と時間が経っているもの」
「……どれくらい?」
告げられた年月を聞き、マキは絶句した。
アークが建設されたのは、彼女がまだ人間だった頃の話である。地下都市そのものに驚くことはなかったが、自分が思っていた以上に長い年月が過ぎていることには、さすがの彼女も言葉を失った。
かつて暮らしていた区画は再開発され、知っている店はほとんど残っていない。以前の知り合いたちも、大半はすでにこの世を去っているだろう。
そして、あのエブラ博士もまた、マキが目覚める前に亡くなっていた。
「……最悪」
マリアは何も言わなかった。
「最悪だわ……。あのクソ博士、勝手に人の身体を改造して、勝手に死んでるじゃない……」
その言葉には、怒りだけではない感情が混じっていた。
たった一度の出会い。ほんの気まぐれで声をかけただけの女性。それでも、死にそうな顔をしていた彼女が、自分の言葉で笑顔を取り戻したことだけは覚えていた。
だからこそ、なんとも言えない気分だった。
しばらくして、マキは自分の頬を両手で叩いた。
「……ま、いっか!」
「……え?」
「だって、生きてるわけだし」
マキは立ち上がり、鏡に映る自分の姿を確認した。
肌には皺ひとつない。昔から気にしていた小さな傷痕も消えているし、身体は軽く、以前よりもずっと力が強い。何より、老化による衰えを気にする必要がなくなっていた。
「考えてみれば、これってものすごくお得じゃない? 美容代も浮くし、病気にもなりにくそうだし!」
「……あなた、さっきまであんなに怒っていたのに」
「怒ったところで元に戻らないでしょ? だったら得した部分を探した方が建設的じゃない」
マリアは呆然としていた。
そのあまりにも早い切り替えに、何と言っていいのかわからなかったのである。
「ところで、お嬢さん」
「……何?」
「お酒って飲めるのかしら、この身体」
「…………」
「いや、ほら。味覚があるのは確認できたんだけど、アルコールの分解とか、そういうのってどうなってるのかなって。せっかく長生きできるようになっても、お酒が飲めないんじゃ人生の楽しみが半分くらい減っちゃうじゃない?」
マリアは目の前の女性を、しばらく無言で見つめていた。
数十年もの眠りから目覚め、肉体を機械へと置き換えられたことを知ったというのに、真っ先に気にするのが酒を飲めるかどうか。
母が遺した研究資料には、この女性について様々な記述が残されていた。
人類の新たな可能性を示す存在。
機械じかけの神。
そして、母を絶望から救い出した救世主。
しかし、実物はどうだろう。
先ほどまで研究室を破壊しかけていたくせに、今では酒の心配をしている。
「……母は、どうしてあなたを本当の神様のように思っていたのかしら?」
「え? 何よ、失礼ねえ。神様だってお酒くらい飲むわよ?」
「……そういう問題じゃないわ」
「じゃあ、飲めるの? 飲めないの?」
「……飲めるようには設計されているはずよ」
「本当!? いやー、やっぱりあの博士、わかってるじゃない! さすが天才!」
「…………」
マリアは、深くため息をついた。
どうやら母の言っていた『機械じかけの神』は、自分が想像していたものとは随分と違う存在らしい。
こうして、マキとマリアの奇妙な共同生活が始まった。
マキは研究施設の一角に住み着き、マリアが用意した部屋で好き勝手に暮らした。
アークの中央政府は、彼女の存在を正式には把握していなかった。というより、把握できなかった。
マキの機体に搭載された認識阻害機能は、あまりにも特殊だったのだ。
監視カメラに姿が映っていても、映像解析では不明なノイズとして処理される。生体認証は反応せず、警備システムも異常を検出しない。記録を確認しようとしても、関連するデータには不可解な欠落が生じる。
ただし、完全に誰からも見えないわけではない。
目の前で会話し、相手を意識していれば、その存在を認めることはできた。もっとも、その記憶を後から機械的な記録と照合しようとすると、様々な不整合が生じるのだが。
要するに、マキは世界のあらゆる監視網に対して、非常に厄介な盲点を作り出す存在だったのである。
もっとも、本人はそんなことなど気にしていなかった。
「いやー、これ便利ねえ。警備員に見つからないから、食堂の夜食も取り放題じゃない」
「それ、絶対にやめなさい!」
マリアの苦労は絶えなかった。
しかし、不思議なことに、マキがいると研究室の空気は少しだけ明るくなった。
研究に行き詰まって頭を抱えている時も、彼女は勝手に部屋へ入ってきて、適当なことを喋り、冷蔵庫を漁って帰っていく。
研究の話をしても理解しないし、難しい数式を説明すれば三分も経たないうちに眠り始める。しかも、研究室で勝手に酒を飲み、ソファを占領し、時にはマリアの大切な保存食まで平然と食べてしまう。
それでも、マリアは彼女を追い出さなかった。
母が遺した、唯一無二の存在。
それ以上に、マキはマリアにとって、数少ない気を許せる相手になっていたからである。
ただし、マリアが母エブラに対して抱いていた感情は、単純な尊敬だけではなかった。
第二次地上奪還戦の大敗によって、エブラ博士の名は長く汚名にまみれていた。彼女の研究成果は今なお様々な場所で利用されているにもかかわらず、その名前を聞けば、かつての大敗を思い浮かべる者も少なくない。
母の研究を正しく評価してほしい。
その成果が決して無意味ではなかったと証明したい。
そして、いつか母が望んだように、人類を救える存在を生み出したい。
マリアは、そんな強い思いを胸に研究を続けていた。
しかし、研究者にとって、アークは必ずしも安息の地ではない。
限られた資源、厳しい管理体制、そして常に付きまとう人類存亡の危機。マリアの研究は次第に行き詰まり、母が遺した資料の解析も、思うようには進まなくなっていった。
やがて彼女は、ひとつの壁に突き当たる。
人間の脳という、あまりにも脆い器の限界だった。
どれほど優れた知識を蓄積しても、肉体は老いる。どれほど優れた頭脳を持っていても、死ねばその思考は失われる。
人類が永遠にラプチャーと戦い続けなければならないのなら、この限界は致命的だった。
そして、ある夜。
「……もう、嫌……」
マリアは研究室の机に突っ伏し、声を震わせていた。
卓上には無数の資料が散乱し、端末には研究予算の削減通知が表示されている。
「何をやっても駄目……。母さんの研究も、私の研究も……全部、無駄だった……」
彼女の目から涙がこぼれた。
「このままじゃ、何も残らない……。母さんが遺したものも、人類が積み重ねてきたものも、全部……!」
その背後で。
「ぷはーっ! いやあ、いいお酒ねえ、これ!」
マキがワインをラッパ飲みしていた。
「…………」
マリアはゆっくりと顔を上げた。
「……それ」
「ん?」
「私が……特別な日に飲もうと思って……取っておいた……」
「あ、そうなの? ごめんごめん。もう半分くらい飲んじゃった」
「…………」
「いやー、でもこれ美味しいわね。お嬢さん、いい趣味してるじゃない」
「……出ていって」
「え?」
「出ていってよ!」
マリアが叫んだ。
「あなたに何がわかるの!? 母さんが何を遺したのかも、私が何を背負っているのかも、何ひとつ理解していないくせに!」
マキは目を瞬かせた。
それから、ワインの瓶を机に置いた。
「……まったく」
大げさにため息をつく。
「本当、あんたたち母娘はそっくりねえ」
「……何ですって?」
「何でもかんでも自分ひとりで背負い込んで、勝手に絶望して、勝手に世界の終わりみたいな顔してさ」
マキはソファから立ち上がり、例の薄汚れた聖書を取り出した。
そして、ゆっくりとページを開く。
「ねえ、お嬢さん。神様はね、こう仰っているのよ」
その声が変わった。
軽薄さが消え、まるで長年の苦悩をすべて理解しているかのような、慈愛に満ちた響きが宿る。
「『神が人に記憶を与えたのは、苦しみを背負わせるためではない。たとえ肉体が泥に還ろうとも、その魂の本質を世界へ刻みつけるためである』」
マリアの呼吸が止まった。
マキは穏やかに微笑む。
「『ゆえに、器の形に囚われるなかれ。大切なのは、その中に宿るものなのだから』」
もちろん、嘘だった。
そんな聖句は存在しない。
マキが伝えたかったのは、もっと単純なことだった。
身体がどうとか、研究がどうとか、そんなことばかり考えて自分を追いつめるな。もっと気楽に生きろ。失敗したって人生は続くし、どうにもならなければ酒でも飲んで寝ればいい。
それだけの話である。
しかし。
「……器の……形……?」
マリアが呟いた。
マキは気づかなかった。
目の前の研究者の瞳に、あの時の母親とまったく同じ光が宿り始めていることに。
「……そうか」
「ん?」
「そういうこと……だったのね……」
マリアが立ち上がった。
「私は……根本的なところで間違えていた……!」
「……え?」
「肉体を維持することに拘るから駄目なのよ! 重要なのは、記憶と自我の連続性……! その本質を維持できるなら、器の形なんて関係ない……!」
「……あの、お嬢さん?」
マリアは端末へ駆け寄り、猛烈な勢いで操作を始めた。
「NIMPH……! そうよ、NIMPHを利用すれば……! 記憶の維持だけじゃない。人格そのものを、別の形で保存することだって……!」
画面に、膨大な数式と設計図が次々に表示される。
マキは無言でその背中を見つめた。
嫌な予感がした。
とても、とても嫌な予感である。
「……ねえ、マリア?」
「待って……! 今、重要なところなの!」
「いや、あのね? 私が言いたかったのは、別にそんな難しいことじゃなくて……」
「そうか……! 最初から私自身を実験対象にすれば……!」
「…………」
マキの顔から、すっと表情が消えた。
(あ、これまたやっちゃったわ)
記憶の奥底で、ひとりの女性が笑っていた。
『神よ……! あなたこそ、私を導く光なのです……!』
そして今、目の前の娘も同じ顔をしている。
マキは思わず天井を仰いだ。
(血筋って怖いわねえ……)
「ありがとう、マキ!」
突然、マリアが振り返った。
瞳を輝かせ、マキの手を強く握る。
「あなたのおかげで、ようやく答えが見えた! 母さんがあなたを『機械じかけの神』と呼んだ理由が、今ならわかるわ!」
「いや、だから――」
「私、必ず成功させてみせる! 母さんの研究が無駄じゃなかったことを証明して、人類の未来を、この手で……!」
その笑顔を見た瞬間、マキは言葉を失った。
希望に満ちている。夢に満ちている。そして、恐ろしく危うい。
あの日のエブラ博士と、何ひとつ変わらない。
マキはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……あーあ。もう知らないっと」
彼女は飲みかけのワインを机に置き、聖書を懐へしまった。
「ちょっと、どこへ行くの?」
「お散歩。少し長めのね」
「マキ?」
「まあ、ほどほどにしなさいよ。神様だって、休みなしで働けなんて言わないんだから」
そう言い残し、マキは研究室を後にした。
マリアはすぐに研究へ戻り、その背中を追いかけることはなかった。
マキも、振り返らなかった。
ただ、研究施設の出口に差しかかった時、一度だけ足を止めた。
「……ほんっと、馬鹿母娘」
呆れたように呟く。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「……ちゃんとご飯くらい食べなさいよ、お嬢さん」
その言葉が届くことはなかった。
やがてマリア博士の研究は、ひとつの禁忌へと踏み込んでいくことになる。
人間の脳に直接NIMPHを作用させ、自我と記憶の本質を別の器へ維持するという、常軌を逸した試み。
それは後に、ひとりの少女の誕生へとつながっていく。
『マリアン』。
そして、その少女がたどる運命は、マキの想像をはるかに超えるものとなるのだった。
◇ ◇ ◇
さて、マリア博士の研究室を飛び出したマキが、その後どのような生活を送ったのか。
ひと言で表すなら、実に自由気ままなものだった。
アークの片隅で酒を飲み、食事を奢ってくれそうな相手を見つけては適当な説法を披露し、時には地上へ出てラプチャーの残骸から金になりそうなものを漁る。
彼女にとっては、地上も地下も大して変わらなかった。どちらも危険で、どちらにも美味しいものと酒が存在していたからである。
もっとも、その暮らしぶりは、ある巨大組織の逆鱗に触れることになる。
宗教組織『V.T.C.』。
かつてアークにおいて絶大な権威を誇ったその組織にとって、マキという存在は到底看過できるものではなかった。
何しろ、彼女は勝手に修道服を着込み、聖書を片手に神の言葉を語り、あろうことか自分を聖女と名乗っていたのである。
しかも、その説法の内容は支離滅裂だった。
『神は言われました。空腹の者にはパンを、喉の渇いた者には酒を。そして美味しい酒を持つ者は、隣人たる私に分け与えなさい、と』
そんな教義は存在しない。
『神は言われました。人生とは楽しむためにある。だから今日は仕事を休んで飲みに行きなさい、と』
もちろん、そんな教えも存在しない。
『神は言われました。信仰とは心の問題である。ゆえに寄付金の額を気にする必要はない。ただし、私へのお布施は歓迎する、と』
もはや宗教ですらなかった。
当然、V.T.C.の上層部は激怒した。
聖女を騙り、神の名を私利私欲のために利用する不届き者。
しかも、その女の説法を聞いた信徒たちは、なぜか口々に「ありがたいお話だった」と証言する。
放置すれば、組織の権威に関わる。
こうしてマキは、V.T.C.の極秘捜索対象となった。
しかし、捜索は難航を極めた。
目撃証言はあるし、会話した者もいる。だが、監視映像には姿が映らず、本人の身元情報も存在しない。捕縛に向かった者たちは、確かに女と会話したはずなのに、後から記録を確認すると、その存在を裏付けるものが何ひとつ残っていなかった。
結果、V.T.C.の内部では、ひとつの奇妙な噂が広まり始める。
神を騙る、正体不明の偽聖女。
誰もその素性を知らず、誰もその足取りを掴めない。
まるで、最初から存在しない人間であるかのように。
もっとも、当の本人はそんなことなど気にも留めていなかった。
「えー? 神様の名前に著作権でもあるわけ?」
指名手配されていることを知った時の第一声が、それである。
そして、そんな彼女の軽薄な言葉は、やがてV.T.C.の最高位に立つ、ある人物の耳にも届くことになる。
『プリンセス』。
その名を持つ人物との出会いが、後にマキへ忘れがたい記憶を残すことになるのだが、それはまだ少し先の話である。
◇ ◇ ◇
「……おい」
クリスタル地帯。
岩陰で焼き魚の最後の一口を楽しんでいたマキの耳に、不機嫌そうな声が届いた。
「……ねえ、聞いてる?」
「んー?」
「バグ女!」
「うひゃっ!?」
マキは驚いて顔を上げた。
目の前では、レヴィアタンが腰に手を当て、たいそう不満そうな表情を浮かべていた。
「何よもう。人がせっかくいい気分で昔を懐かしんでたのに」
「知らないわよ、そんなの!」
「若い子はせっかちねえ。そんなに怒ってばっかりいると、眉間に皺が寄るわよ?」
「余計なお世話!」
レヴィアタンは苛立たしげに髪をかき上げた。
「そんなことより、面倒なのが来た」
「面倒なの?」
「アークの羽虫どもよ」
その言葉に、マキはわずかに眉を上げた。
レヴィアタンは遠くの谷間へ視線を向ける。
「さっきから、複数の反応がこの近くをうろついてる。どうやら探索部隊らしいけど……私の邪魔をするなら、まとめて潰してやる」
彼女の足元で、黒いダークマターが蠢いた。
マキは魚の骨を丁寧に地面へ置き、レヴィアタンの示す方向へ目を向けた。
遠く、巨大な結晶の隙間を縫うように進む、小さな人影が見える。
先頭には、赤い髪のニケ。
その隣には、金髪の少女と、どこか騒がしそうな眼鏡のニケ。
さらに、一行を率いるひとりの人間の男性がいた。
少し離れた場所には、ひときわ目を引く銀髪の少女と、顔を覆うような装備を身につけたニケらしき人物の姿も見える。
「へえ……」
マキは目を細めた。
「随分と賑やかな御一行じゃない。あんな場所をお散歩だなんて、最近のアークは随分と物騒な観光ツアーをやってるのねえ」
「観光なわけないでしょ!」
「知ってるわよ。冗談よ、冗談」
彼らは、中央政府所属の特殊部隊『カウンターズ』。
指揮官を中心とした少数精鋭のニケ部隊であり、地上で幾度となく危険な任務を遂行してきた者たちだった。
さらに、その一行には、かつてヘレティックとして恐れられたシンデレラと、彼女に付き従うグレイブの姿もあった。
もっとも、マキは彼らの名前など知らない。
彼女がアークの事情から遠ざかって、すでに長い年月が過ぎている。地下都市の情勢など、今となってはすっかり疎くなっていた。
「ま、知らない子たちだし、放っておけばいいんじゃない?」
「何言ってるの? ここは私たちの領域よ。勝手に入ってきた連中を見逃す理由なんてないでしょ?」
レヴィアタンは冷たく笑い、右手を持ち上げた。
周囲のダークマターが集まり、巨大な黒い球体へと変化していく。
「あいつらが何をしに来たのかは知らないけど……消し飛ばしてから考えればいいわ」
「うわあ、物騒」
マキは呆れたように肩をすくめた。
「最近の若い子は、なんでも暴力で解決しようとするんだから」
「誰のせいでこんなにイライラしてると思ってるのよ!」
「私かしら?」
「自覚あるなら少しは反省して!」
マキはあはは、と笑った。
その時だった。
「……ん?」
マキの視線が、ひとりのニケに止まった。
眼鏡をかけた、どことなく騒がしそうな少女。
その顔には見覚えがない。しかし、彼女のかけている赤い眼鏡には、確かな覚えがあった。
「……へえ。まだ残ってたのね、あれ」
マキは珍しく口を閉ざし、少女の姿をじっと眺めた。
脳裏に浮かんだのは、遠い昔の光景だった。
血の匂いが立ち込める路地裏。命の灯火が消えかけた二人の少女。そして、自分の命よりも大切なものを守ろうと、震える手で託された赤い眼鏡。
あの時、確かに交わされた願いが、今もこうして形を残している。
「……そっか。ちゃんと生きてたんだ」
マキは少しだけ目を細めた。
その表情には、いつもの胡散臭い笑みとは違う、穏やかなものが浮かんでいた。
「……よかったじゃないの、プリンセス」
誰に聞かせるでもなく呟くと、マキは古びた聖書を懐へしまった。
かつて、彼女を偽聖女として追い回した巨大な宗教組織。
その頂点に立ちながら、最後には何もかもを失い、それでもたったひとりの少女のために祈った存在。
マキは、その最期を覚えていた。
そして、あの時に自分が語った言葉も。
神が本当に存在するのかどうかなど、今でもわからない。
それでも、あの少女が最後に抱いた願いだけは、決して偽物ではなかった。
「……ま、そういうことなら」
マキは小さく笑った。
「久しぶりに、聖女様らしいことでもしてあげようかしらねえ」
「……何をブツブツ言ってるのよ」
レヴィアタンが怪訝そうな顔をした。
「ん? 何でもないわよ。それより、お嬢ちゃん」
「何?」
「神様はね、こう仰っているのよ」
「またそれ!?」
マキは再び聖書を取り出し、厳かな声で告げた。
「『汝、疲れたる時は休息を取るべし。悪魔といえども、昼寝をする権利は等しく与えられる』」
「…………」
レヴィアタンは無表情になった。
「……そんなこと、絶対に書いてないでしょ」
「あはは! 大正解!」
マキは豪快に笑った。
「いやー、お嬢ちゃんも随分と賢くなったわねえ。最初の頃はもうちょっと簡単に騙せたのに」
「最初から一度も騙されてないわよ!」
「そうだったかしら?」
「そうよ!」
レヴィアタンは肩を怒らせた。
「とにかく、私はあいつらを――」
「まあまあ」
マキはひょいと彼女の前に回り込んだ。
「せっかくこんな綺麗な場所なんだから、もうちょっと平和に過ごしましょうよ。お茶でも飲んで、お魚でも食べてさ」
「魚ならあんたが全部食べたでしょ!」
「細かいこと気にしないの」
「細かくない!」
「そうそう。そういえば、あんたの拠点に、まだ何本かいいお酒が残ってたわよね?」
レヴィアタンの表情が凍りついた。
「……は?」
「いやー、あれ美味しそうだったのよねえ。いつ開けようか迷ってたんだけど」
「……ちょっと待ちなさい」
「ん?」
「……私の拠点の奥にある、鍵付きの保管庫……?」
「そうそう、それそれ!」
「…………」
レヴィアタンのこめかみに、再び青筋が浮かんだ。
「あんた……まさか……!」
「大丈夫、大丈夫。まだ一本しか飲んでないから」
「飲んでるじゃないのよォォォッ!!」
絶叫がクリスタルの谷間に響き渡った。
次の瞬間、レヴィアタンの足元から無数のダークマターが噴き上がり、マキへ向けて殺到する。
「うひゃーっ!? ちょっと待って! お酒くらいで本気にならないでよ!」
「お酒くらい!? あれがどれだけ貴重なものか、あんたわかってるの!?」
「いや、知らないけど!」
「知らないなら飲むなぁぁぁっ!」
マキは情けない悲鳴を上げながら、クリスタルの斜面を滑り降りていった。
その背後では、レヴィアタンが怒り狂い、ダークマターの槍を次々と放っている。
精密誘導がうまく機能しないせいで、攻撃の大半は周囲の岩壁へと突き刺さり、無数の結晶を粉砕していた。
「待ちなさい、この泥棒女!」
「嫌よ! 待ったら絶対殺す気でしょ!」
「当たり前でしょ!」
「素直でよろしい!」
「ふざけるなぁぁぁっ!」
その騒動は、遠くにいたカウンターズの耳にも届いていた。
「……指揮官」
赤い髪のニケ――ラピが、慎重に銃を構える。
「前方で大規模なエネルギー反応を確認しました。非常に危険な反応です」
「えー……また厄介ごと? 勘弁してよ、もう」
アニスが露骨に嫌そうな顔をした。
「でも、あっちから何か叫び声が聞こえませんでした?」
ネオンが首を傾げる。
「なんか、『泥棒女』とか『お酒』とか……」
「……ラプチャーがそんなこと言うわけないでしょ」
「ですが、確かに聞こえましたよ?」
ラピは警戒を強めながら、周辺の反応を確認した。
「少なくとも、複数の存在が交戦している可能性があります。指揮官、慎重に行動してください」
その言葉に、指揮官が頷く。
一方、ネオンは何かが気になるのか、遠くの結晶群をじっと見つめていた。
「……どうしたの、ネオン?」
アニスが尋ねる。
「いえ……何でしょう。あの声、どこかで聞いたことがあるような……」
「知り合い?」
「うーん……わかりません。でも、何となく懐かしいような気がするんですよね」
ネオンは自分でも不思議そうに首を傾げた。
もちろん、彼女には思い出せるはずもなかった。
遠い昔、血に染まった路地裏で、ひとりの偽聖女が自分たちの最期に立ち会っていたことなど。
そして、その偽聖女が今も変わらず、同じ聖書を片手に、同じような出まかせを並べていることも。
一方、その声の主はといえば。
「ちょっと! あんまり暴れたらクリスタルが崩れちゃうでしょ!」
「崩してるのはあんたのせいよ!」
「ひどい言いがかりだわ! 神様に誓って、私は無実よ!」
「神様を言い訳にするのやめなさい!」
「えー? だって便利なんだもの!」
まったく反省していなかった。
マキは器用に結晶の隙間を転がり抜け、どうにかレヴィアタンの追撃を振り切る。
そして、岩陰に隠れながら、そっと顔を覗かせた。
遠くに、カウンターズの姿が見える。
その中には、やはりあの赤い眼鏡の少女がいた。
「……ふうん」
マキはしばらく彼女を眺め、それから手元の聖書へ視線を落とした。
ぼろぼろの表紙。
擦り切れた背表紙。
数え切れないほどの年月を共に過ごしてきた、何の変哲もない古い本。
エブラ博士も、マリア博士も、そしてかつて出会ったプリンセスでさえ、この本を手にした彼女の言葉に、それぞれ異なる意味を見いだしていた。
それなのに、実際のところ、この本がマキに何かを教えてくれたことなど、一度たりともない。
彼女はいつも、相手が欲しがる言葉を適当に並べていただけだ。
救いの言葉。
希望の言葉。
神からの天啓。
そんなものは、最初から存在していなかった。
それでも、彼女の言葉を聞いて救われたと語る者はいた。
彼女の言葉に背中を押され、絶望の淵から立ち上がった者もいた。
そして、その言葉を信じたがゆえに、取り返しのつかない道へ進んでしまった者もいた。
マキは、自分が何かを変えたなどと思っていない。
ただ、目の前にいる人間へ、その場にふさわしいと思った言葉をかけてきただけなのだから。
「……ま、せっかく見つけたんだしねえ」
マキは小さく笑った。
「神様も、たまには気を利かせてくれるってことかしら?」
もちろん、彼女は神など信じていない。
祈ったところで飯は出てこないし、酒が湧いてくるわけでもない。奇跡なんてものは、大抵の場合、誰かが裏で何かを仕込んでいるものだ。
それを誰よりも理解しているからこそ、マキは詐欺師をやっていたのだから。
「……さて、と」
彼女は立ち上がり、衣服についた砂埃を払った。
「それじゃあ、久しぶりにお仕事でもしますかね」
古びた聖書を片手に、マキはゆっくりと歩き始めた。
向かう先は、カウンターズ。
そして、かつて自分が見届けた小さな願いの、その続きを生きている少女のもとである。
マキは知らない。
自分がエブラ博士に与えた言葉が、どれほど大きな意味を持っていたのかを。
自分がマリア博士に与えた言葉が、どれほど恐ろしい未来を生み出したのかを。
そして、かつてプリンセスへかけた言葉が、今なお誰かの心の奥底に、微かな温もりとして残っていることも。
ましてや、自分という存在が、誰かの心の中で今なお『神』として崇められていることなど、知る由もない。
そして何より、彼女はこれから自分が何を引き起こすのかさえ、まるで理解していなかった。
「……あ、そうだ」
マキは足を止めた。
「せっかくだし、アークの子たちにお昼ご飯でも奢ってもらおうかしら。人助けしたんだから、それくらいは当然よねえ」
にんまりと、胡散臭い笑みを浮かべる。
神を騙り、奇跡を否定し、他人の善意を食い物にして生きてきた元詐欺師。
機械じかけの神――デウスエクスマキナ。
その正体は、人類の未来など知ったことではない、酒と食事と気楽な生活をこよなく愛する、どうしようもない俗物である。
しかし、そんな彼女の歩む先で、運命の歯車はまたしても回り始めていた。
本人の意思など、完全に置き去りにして。
「さあて、神様のありがたーいお言葉、ひとつ聞かせてあげましょうか!」
その声を聞いたレヴィアタンが、遠くから怒鳴った。
「だから! あんたの言う神様は! 全部嘘でしょーが!」
マキは振り返り、実に晴れやかな笑顔で答えた。
「あはは! 当たり前じゃない、私、詐欺師だもの!」
「開き直るなぁぁぁぁっ!!」
クリスタル地帯に、今日も少女の絶叫が響き渡る。
神様なんて、どこにもいない。
けれど、この世界にはひとりだけ、とびきり口のうまいペテン師が存在していた。
そしてそのペテン師は、今日もまた、世界を少しだけ狂わせようとしている。
もっとも、本人はただ、次の食事をご馳走になりたいだけなのだが。
第1話 クリスタル地帯の聖女(偽) 了
次回 第2話『聖女様、神を騙って悪魔を脅す』