会議室の扉が、静かに閉まった。
東雲優は、しばらくその場から動けずにいた。
つい先ほどまで自分が座っていた椅子。二年間、何度も顔を合わせてきた仲間たち。そして、最後に告げられた言葉。
『東雲優。お前には、今日限りでクランを抜けてもらう』
その声が、今も耳の奥に残っている。
「……まさか、本当に追い出されるとはな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
二年前。
十八歳だった優は、高校を卒業したばかりだった。
就職を目前に控えたある日、東京に巨大な《塔》が出現した。
それと同時に、人類に与えられた《ジョブ》という未知の力。
剣士、戦士、武闘家、弓使い、魔法使い。
まるでゲームのような世界が現実となり、優もまた、冒険者という道を選んだ。
理由は単純だった。
魔法使いになりたかったからだ。
幼い頃から憧れていた存在。
炎を生み、雷を操り、常識では考えられない奇跡を引き起こす者。
それが優にとっての魔法使いだった。
しかし、現実は違った。
魔法使いは、決して万能なジョブではなかったのだ。
魔法を発動するには魔力が必要であり、複雑な術式を構築するためには膨大な知識と集中力が求められる。
さらに、魔法の威力を高めようとすれば、それに比例して魔力消費も増大する。
初級魔法一つを発動するだけでも、未熟な魔法使いにとっては大きな負担だった。
それに比べ、剣士や戦士は扱いやすい。
身体能力を強化し、武器を振るえば、比較的早い段階から戦力として活躍できる。
結果として、魔法使いは不遇職と呼ばれるようになった。
それでも優は諦めなかった。
魔法を理解するために剣術を学んだ。
魔力の流れを知るために武闘家を経験した。
武器の構造を理解するために鍛冶師を選び、遠距離戦闘の感覚を身につけるためにガンナーにも手を伸ばした。
一見すると、無関係に思えるジョブばかりだった。
しかし、優には確信があった。
すべての技術は、どこかでつながっている。
剣術の身体操作は魔法の制御に応用できる。
鍛冶師の素材知識は魔法媒体の研究に役立つ。
ガンナーの射撃理論は魔法の命中精度を高める。
だからこそ、優は一つのジョブに固執しなかった。
だが、その考えを理解する者は少なかった。
『お前、またジョブ変えたのか?』
『いい加減、一つに絞れよ』
『そんなことしてたら、いつまで経っても強くなれないぞ』
最初は冗談交じりだった言葉も、次第に冷たいものへと変わっていった。
そして今日。
優は、二年間所属していたクランから脱退を求められた。
理由は、戦力としての成長が遅いから。
もっと正確に言えば、一つのジョブを極めようとしないからだった。
「……器用貧乏、ね」
優は自嘲気味に笑った。
確かに、そう見えるのだろう。
剣士として一流というわけではない。
魔法使いとしても、まだ理想には遠い。
他のジョブにしても、一定の技術は身につけているが、最上位に到達したものは一つもなかった。
それでも、無駄だったとは思わない。
いや、思いたくなかった。
優はクランの建物を出た。
夕暮れの街には、仕事を終えた人々が行き交っている。
冒険者用の装備を身につけた者も珍しくない。
塔の出現から二年。
かつて非日常だったものは、今や日常の一部となっていた。
街頭の大型モニターには、冒険者ランキングのニュースが流れている。
『本日発表された最新のランキングでは、上位冒険者たちの順位に大きな変動はありませんでした――』
「十傑、か」
優は足を止めた。
世界最高峰の冒険者十人。
その実力は、一般の冒険者とは文字どおり桁が違う。
単独で高難度の階層を攻略する者。
国家規模の危機を解決した者。
そして、人類の到達点と呼ばれる者たち。
いつか自分も、あの場所へ。
そう考えたことがなかったわけではない。
しかし、今の自分はどうだ。
二年間所属したクランから、戦力外を告げられたばかりだ。
「……ははっ」
思わず笑いが漏れた。
「十傑どころか、クランにもいられなくなったってのに」
だが、不思議と絶望はしていなかった。
悔しさはある。
怒りも、少しだけある。
それ以上に、優の胸には別の感情が芽生えていた。
――自由だ。
もう、誰かの都合に合わせてジョブを選ぶ必要はない。
効率が悪いと言われることもない。
自分が正しいと信じた道を、好きなだけ進める。
優は空を見上げた。
遠くに、巨大な塔の輪郭が見える。
「……そうか」
小さく呟く。
「別に、一つに絞る必要なんてないんだよな」
剣士を極めたいなら、極めればいい。
魔法使いを極めたいなら、極めればいい。
鍛冶師も、ガンナーも、武闘家も。
どれか一つを選ばなければならないという決まりはない。
もちろん、普通なら不可能に近い。
ジョブにはそれぞれ独立した成長体系があり、上位ジョブへ昇格するためには相応の経験と技術が必要となる。
一つを最上位まで育てるだけでも、膨大な時間がかかるのだ。
ましてや、すべてのジョブなど。
誰もが笑うだろう。
無謀だと。
不可能だと。
しかし――。
「だったら、全部極めればいいだけだろ」
口に出してみると、不思議なほどしっくりきた。
優は笑った。
先ほどまでの自嘲ではない。
心の底から、これからの未来を楽しむような笑みだった。
「よし。決めた」
拳を握る。
「全ジョブ、最上位まで育ててやる」
誰かに認められるためではない。
クランを見返すためでもない。
ただ、自分の理想を追い求めるために。
魔法使いになるという、あの日の夢を叶えるために。
優は、すべてを極めることを決意した。
もっとも、決意したところで問題が解決するわけではない。
「……さて」
優はスマートフォンを取り出した。
冒険者用のアプリを起動し、自分の登録情報を確認する。
所属クランの欄には、すでに『無所属』の文字が表示されていた。
「仕事が早いことで……」
思わず苦笑する。
次に確認したのは、所持金だった。
しばらく画面を眺める。
「…………」
もう一度確認する。
「……まずいな」
クランに所属していた間は、攻略で得た報酬の一部が定期的に分配されていた。
しかし、今後はそうはいかない。
装備の整備費。
生活費。
ジョブの育成に必要な素材。
それらをすべて自分で賄わなければならない。
「全ジョブを極める前に、生活が破綻するぞ……」
壮大な目標を掲げた直後に、あまりにも現実的な問題が立ちはだかった。
優はため息をついた。
だが、すぐに気持ちを切り替える。
「とりあえず、明日からソロで潜るか」
幸い、これまでの二年間で塔の基本的な構造や魔物の習性については十分に学んでいる。
複数のジョブを経験したことで、状況に応じた立ち回りも身についていた。
特定の分野で突出していなくとも、対応できる状況の幅は広い。
それこそが、優の強みだった。
もっとも、本人はまだその価値を正確に理解していない。
そして、周囲の冒険者たちも。
優はアプリの攻略情報を開いた。
現在公開されている階層の情報が並んでいる。
推奨レベル、出現する魔物、採取可能な素材。
その中から、明日の探索に適した階層を探していく。
「まずは経験値と資金集めだな。ついでにジョブの検証も進めたい」
そう呟いたところで、ふと手が止まった。
ジョブの検証。
それは、これまで何度も繰り返してきた行為だった。
しかし、クランに所属していた頃は、他のメンバーに迷惑をかけないよう制限していた部分も多い。
戦闘中のジョブ切り替え。
異なるジョブの技術の組み合わせ。
魔法と近接戦闘の同時運用。
試してみたいことは山ほどあった。
「……待てよ」
優の頭に、一つの疑問が浮かぶ。
魔法使いは、なぜ後衛でなければならないのだろうか。
魔法の発動には集中が必要。
近接戦闘では術式を構築する余裕がない。
だから魔法使いは後衛に配置される。
それが現在の冒険者社会における常識だった。
だが、本当にそうなのか。
剣を振るいながら魔法を使うことは、不可能なのだろうか。
魔法陣の構築を効率化すれば。
身体操作を極限まで洗練させれば。
戦闘中でも安定して術式を展開できるのではないか。
「……面白そうじゃん」
優の口元が緩む。
その瞬間、頭の中に次々と可能性が浮かび上がった。
剣士の技術。
武闘家の身体操作。
魔法使いの術式構築。
それぞれを独立したものとして考えるのではなく、一つの戦闘体系として組み合わせる。
もし、それが実現できたなら。
魔法使いというジョブの常識を、根本から覆せるかもしれない。
「……やっぱり、全部学んでおいて正解だったな」
まだ何一つ証明できていない。
実現できる保証もない。
それでも、優の胸は高鳴っていた。
久しぶりだった。
誰かの評価を気にせず、純粋に自分の可能性を追い求められる感覚は。
優はスマートフォンをしまい、歩き始めた。
夕焼けに染まる街を、一人の青年が進んでいく。
その背中を見送る者はいない。
彼がクランを脱退したことなど、世間にとっては何の意味もない出来事だった。
冒険者は毎日のように生まれ、そして消えていく。
東雲優もまた、そんな無数の冒険者の一人にすぎない。
――今は、まだ。
この日、一人の青年が選んだ道。
それは、誰もが非効率だと切り捨てた道だった。
しかし、後に世界は知ることになる。
一つのジョブを極めた者が、達人と呼ばれるのなら。
すべてのジョブを極めた者は、いったい何と呼ばれるのか。
そして、あらゆる知識と技術を手にした魔法使いが、自ら新たな魔法を生み出すようになったとき。
世界の常識は、根底から覆されることになる。
その未来を、今の優はまだ知らない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼の冒険は、ここから本当の意味で始まるのだ。
――後に《万職の創造魔導士》と呼ばれる男の物語が。