帝国西方方面――ライン戦線。
共和国軍による大規模攻勢が開始されてから、帝国軍の防衛線は各所で激しい圧力にさらされていた。
絶え間ない砲撃。
泥に沈む塹壕。
砲弾によって掘り返された大地には、敵味方の区別もなく兵士たちの亡骸が転がっている。
その日もまた、数え切れない兵士が戦場へ投入され、消耗されていた。
だが、その戦場の一角で、共和国軍の将兵たちは理解しがたい光景を目撃することになる。
◇ ◇ ◇
共和国軍第七歩兵師団、前線指揮所。
「帝国軍歩兵部隊、接近! 距離六百!」
「機関銃隊、射撃開始!」
共和国軍の塹壕から、一斉に機関銃が火を噴いた。
帝国軍の歩兵たちが次々と地面に伏せる。
砲弾で荒れ果てた無人地帯を横断するなど、通常であれば自殺行為に等しい。
共和国軍の指揮官、アルベール・デュラン少佐は双眼鏡を覗きながら、帝国軍の動きを観察していた。
「敵の攻撃は正面からか。こちらの火力を甘く見たな」
帝国軍歩兵の前進が止まる。
少佐は部下に命じた。
「第二砲兵中隊に連絡。敵歩兵の後方へ阻止射撃を――」
「少佐! 敵兵が一名、前進を続けています!」
「何?」
双眼鏡を向ける。
確かに、帝国軍の兵士が一人だけ、無人地帯を進んでいた。
軍服を着た若い男だった。
背中には何丁もの小銃を背負い、腰には手榴弾を吊るしている。
奇妙な装備ではあったが、少佐の目には、特別な兵士には見えなかった。
「命知らずがいるものだ。機関銃で片づけろ」
命令を受けた機関銃手が照準を修正する。
次の瞬間、青年に向かって銃弾が集中した。
土煙が上がる。
着弾によって周囲の泥が跳ね上がった。
だが――。
「……少佐」
「どうした?」
「敵兵、前進を継続しています」
「何だと?」
青年は倒れていなかった。
それどころか、何事もなかったかのように歩いている。
機関銃弾は確かに命中していた。
しかし、その身体の周囲で淡い光が瞬き、銃弾が弾かれていたのだ。
「防御術式か!」
少佐は舌打ちした。
「魔導師だ! 対魔導射撃に切り替えろ! 砲兵隊にも連絡!」
通常の歩兵ではない。
それならば、相応の火力を投入すればいい。
共和国軍は魔導師との戦闘経験を十分に積んでいた。
魔導師とて無敵ではない。
集中砲火を浴びせれば、防御術式を破壊することは可能だ。
「目標、敵魔導師! 榴弾、三発急射!」
砲兵隊から応答が返る。
数秒後。
青年の周囲に砲弾が降り注いだ。
轟音。
爆炎。
大量の土砂が舞い上がり、帝国軍の魔導師は完全に視界から消えた。
「命中!」
観測兵が叫ぶ。
だが、デュラン少佐は双眼鏡を下ろさなかった。
砲撃の結果を確認するまでは、何も終わっていない。
やがて土煙が薄れていく。
そこには、巨大な砲弾孔ができていた。
そして、その中央に――。
「……馬鹿な」
青年が立っていた。
軍服は土埃に汚れている。
しかし、負傷した様子はない。
青年は軽く肩を回すと、何事もなかったように歩き出した。
「砲撃を続行しろ!」
少佐が叫んだ。
「直撃させろ! 奴を前進させるな!」
再び砲声が響く。
だが、次の瞬間。
青年の足元が青白く輝いた。
「……消えた?」
観測兵が目を見開く。
違う。
消えたのではない。
青年は地面を蹴り、一瞬で数十メートル先へ移動していた。
着地した場所の土が大きくえぐれる。
そのまま、再び地面を蹴る。
「速い! 速すぎます!」
「飛行しているのか!?」
「違います! 高度ゼロ! 地上を移動しています!」
「何だと!?」
魔導師ならば空を飛ぶ。
それが、この戦場における常識だった。
だが、目の前の青年は違った。
飛ばない。
地面を蹴り、走り、跳躍する。
まるで砲弾そのものが意思を持って突進してくるかのようだった。
◇ ◇ ◇
「第一機関銃陣地、敵魔導師が接近!」
「撃て! 撃ち続けろ!」
共和国軍の機関銃手たちは必死に引き金を引いていた。
銃弾が青年の周囲に集中する。
しかし、弾丸は淡い光に阻まれ、その身体に届かない。
「何なんだ、あいつは!」
青年が背中から小銃を一本引き抜いた。
銃口を機関銃陣地へ向ける。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
直後、発砲音が響く。
通常の小銃とは比較にならない轟音。
陣地を覆っていた土嚢が吹き飛び、機関銃ごと周囲の地面が爆発した。
「うわああっ!」
衝撃で兵士たちが吹き飛ばされる。
青年は銃を下ろした。
銃身から白煙が上がっている。
続けてもう一発。
今度は隣の火点が爆発した。
そして――。
銃身が赤熱し、金属が歪んだ。
青年は使い物にならなくなった小銃を、ためらいもなく地面へ放り捨てた。
そして背中から新たな小銃を引き抜き、次の陣地へ向けて構える。
「くそっ! また来るぞ!」
共和国軍の生き残った兵士が叫んだ。
「撃て! 撃ち続けろ! 近づけるな!」
残された機関銃が再び火を噴いた。
小銃を構えた兵士たちも、次々と引き金を引く。
銃声が重なり、青年の周囲に猛烈な弾幕が形成された。
しかし、銃弾はその身体を覆う防御結界に弾かれていく。
「止まらない! あいつ、止まらないぞ!」
「構うな! 撃ち続けろ!」
青年は降り注ぐ銃弾の中で、静かに照準を合わせた。
◇ ◇ ◇
共和国軍前線指揮所。
「第一機関銃陣地、沈黙!」
「第二陣地も突破されました!」
「敵魔導師、第三防衛線へ接近!」
報告が立て続けに飛び込んでくる。
デュラン少佐は地図を睨みつけた。
敵は一人。
たった一人の魔導師だ。
にもかかわらず、共和国軍の防衛線が次々と破られている。
「対戦車砲を前進させろ。直射で仕留める」
「少佐、敵は高速で移動しています!」
「移動経路を予測しろ! 着地点を狙え!」
共和国軍の砲兵は無能ではなかった。
敵の異常な機動力を観察し、跳躍後の着地点を予測する。
砲口が旋回した。
「撃て!」
砲弾が発射される。
青年が着地した瞬間、砲弾がその正面で炸裂した。
「命中!」
今度こそ。
誰もがそう思った。
しかし、爆煙の向こうから青年が姿を現す。
「……まだ動くのか」
少佐の声が低くなる。
「第二射、急げ!」
砲兵が再装填を始める。
だが、間に合わなかった。
青年が地面を蹴った。
次の瞬間には、砲兵陣地の目前に着地していた。
砲兵たちが慌てて小銃を構える。
青年は腰から手榴弾を一つ取り出した。
その手榴弾表面に、青白い魔導光が走る。
「退避――!」
爆発。
砲座が吹き飛び、対戦車砲が横倒しになった。
青年は爆炎の中から歩き出す。
そして次の目標を探すように、前方へ視線を向けた。
◇ ◇ ◇
「少佐!」
通信兵が指揮所へ駆け込んできた。
「師団司令部から緊急通信です!」
「何だ!」
「敵魔導師の特徴を照合した結果、該当する個体ネームが確認されたと!」
少佐は眉をひそめた。
「やはり、敵はネームドか!」
通信兵は一枚の報告書を差し出した。
そこには、共和国軍情報部がまとめた敵魔導師の識別情報が記されていた。
帝国軍所属。
男性。
若年。
異常な魔力量。
地上戦闘に特化。
複数の小銃を携行。
そして、最も重要な一文。
『共和国軍識別呼称――ラインの鉄鬼』
少佐の顔色が変わった。
「……鉄鬼?」
その名は聞いたことがあった。
ライン戦線の各所で報告されていた、正体不明の帝国軍魔導師。
砲撃を受けても倒れず、要塞化された陣地を単独で突破するという。
最初は誇張された戦場の噂だと思っていた。
だが、目の前の光景が、その報告を裏づけていた。
「……まさか、本当に存在したのか」
「少佐、どうされますか!」
デュラン少佐は即座に決断した。
「第三防衛線を放棄! 全部隊、予備陣地まで後退させろ!」
「しかし、それでは帝国軍が!」
「分かっている!」
少佐は地図を叩いた。
「奴一人を止めるために、これ以上部隊を消耗させるわけにはいかん!」
一瞬、沈黙が落ちる。
そして少佐は、苦々しく言葉を続けた。
「……あの化け物が突破口を開けば、帝国軍歩兵が雪崩れ込んでくる。そうなる前に戦線を整理する」
合理的な判断だった。
だが、すでに遅かった。
「少佐! 帝国軍歩兵部隊、前進を再開!」
「第三防衛線、敵魔導師に突破されました!」
「敵装甲部隊も移動を開始しています!」
少佐は目を閉じた。
たった一人の魔導師によって、師団の防衛計画が崩されつつあった。
◇ ◇ ◇
帝国軍前線。
「ヴァルター少佐! 第三防衛線の突破を確認しました!」
通信兵の報告に、エーリヒ・ヴァルターは頷いた。
「了解。後続の歩兵部隊は?」
「現在、前進中です!」
「敵の側面火点がまだ残っている。そちらを先に潰す。歩兵は無理に突出させるな」
「了解!」
エーリヒは背中の小銃を確認した。
残り三丁。
先ほどの戦闘で二丁を使用不能にしていた。
補給のことを考えれば、無駄撃ちは避けたい。
もっとも、敵の機関銃陣地を一つ潰せるなら、小銃一本など安いものだ。
「少佐、追加の小銃は後方から運ばせています!」
「助かる。次の陣地を片づけたら受け取ろう」
エーリヒは軽く笑った。
その姿は、どこにでもいる若い帝国軍将校だった。
しかし、軍靴の側面には通常の兵士が身につけない金属製の装具が取り付けられている。
脚部にも、軍服の下に収まるよう設計された特殊な補助機構。
そして胸元には、彼専用に調整された演算宝珠。
いずれも、帝国軍の技術者によって開発された特別仕様の装備だった。
「では、行ってくる」
「ご武運を!」
エーリヒが地面を蹴る。
軍靴の装具が青白く輝き、青年の身体が一気に加速した。
次の瞬間、彼は前方の砲弾孔を飛び越え、敵陣へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
共和国軍後方陣地。
「敵魔導師、なおも前進!」
「後退命令は伝わっているのか!」
「伝達済みです! しかし、部隊の一部が取り残されています!」
デュラン少佐は拳を握りしめた。
戦況は最悪だった。
敵の突破を防ぐために構築した防衛線が、次々と機能を失っている。
しかも、敵の主力部隊はまだ本格的な攻撃を開始していない。
その先鋒を務めているのは、たった一人の魔導師。
「……一個師団だ」
少佐が呟いた。
「は?」
「奴の突破能力は、一個師団に匹敵する」
通信兵は何も言えなかった。
「もちろん、奴一人で占領地を維持することはできん。だが、防衛線を破壊する能力だけなら……」
少佐は言葉を切った。
そして、双眼鏡を覗く。
遠方では、再び青白い光が瞬いていた。
「……ラインの鉄鬼」
その名を、少佐は初めて実感とともに口にした。
◇ ◇ ◇
同時刻。
ライン戦線の別区域。
上空では、帝国軍と共和国軍の航空魔導師たちが激しい戦闘を繰り広げていた。
その戦場で、一人の幼い魔導将校が高度を上げていた。
ターニャ・デグレチャフ。
金髪碧眼の少女は十分な高度に達すると、空中で静止した。
そして右手を前方へかざす。
「空間座標、確定。目標の回避予測、演算完了。魔力充填、正常」
周囲に魔導光が瞬き、演算宝珠が膨大な魔力を処理し始める。
「友軍各位、衝撃に備えよ」
ターニャは小銃を構えた。
銃身に魔力が流れ込み、銃口にまばゆい光が集束していく。
「主よ、我らが祖国を侵す者より、帝国を守りたまえ」
静かな祈りとともに、引き金へ指をかける。
「願わくば、我を約束の地へ導きたまえ」
引き金が引かれた。
銃口から、強烈な魔導光をまとった一発の弾丸が放たれる。
「なっ……強大な魔力反応!!」
その光景を目撃した共和国軍魔導師が叫んだ。
次の瞬間、飛翔した魔導弾が空中で炸裂する。
拡散魔力気化爆発術式。
解放された膨大な魔力が周囲へ広がり、巨大な爆炎となって戦場を呑み込んだ。
「……悪魔か!」
共和国軍魔導師の声が、爆音にかき消された。
◇ ◇ ◇
その頃。
エーリヒ・ヴァルターは、敵の第四防衛線へ向かっていた。
次の陣地まで、あとわずか。
そのときだった。
「……ん?」
遠方の空が、突然まばゆい光に包まれた。
エーリヒは思わず足を止めた。
地平線の向こうで、巨大な閃光が膨れ上がっている。
一瞬遅れて、凄まじい轟音が響いた。
さらに数秒後。
戦場を強烈な爆風が吹き抜けた。
土埃が舞い上がり、周囲の兵士たちが慌てて身を伏せる。
エーリヒは防御結界を展開したまま、その光景を眺めていた。
「……何だ、今のは」
近くの通信兵が叫ぶ。
「少佐! 友軍の航空魔導部隊が、共和国軍の攻勢を撃退した模様です!」
「友軍か?」
「はい! 詳細は不明ですが、敵の魔導部隊に甚大な損害を与えたとのことです!」
エーリヒは、もう一度遠方の空を見上げた。
「……凄まじいな」
あれほどの規模の術式を扱える魔導師が、帝国軍には存在するらしい。
自分には到底真似できない芸当だった。
だが、それはそれ。
自分には自分の仕事がある。
「よし。こちらも任務を続行する」
「はっ!」
エーリヒは小銃を構え直した。
そして、再び地面を蹴る。
青白い光が軍靴を包み、青年の姿が前方へと跳躍した。
その先には、まだ共和国軍の防衛陣地が残っている。
空では、ラインの悪魔が戦っていた。
そして地上では、ラインの鉄鬼が進撃していた。
二人の異端の魔導師。
その運命が交わるのは、まだ先のことである。