統一暦一九一八年。
帝国陸軍士官学校。
グスタフ・リヒター大尉は、机の上に置かれた演算宝珠を見つめていた。
外見に目立った傷はない。だが、内部の魔導回路は完全に機能を停止している。
「……どう考えても、おかしい」
リヒターは報告書をめくった。
使用者はエーリヒ・ヴァルター候補生、十九歳。
士官学校でも指折りの魔力量を持ちながら、飛行術式をまともに扱えない青年である。
入学以来、リヒターは彼の訓練を見てきた。努力を惜しまないことも、命令に忠実なことも、そして魔力の扱いが絶望的に不器用なことも、よく知っている。
だが、いくら不器用だからといって、演算宝珠の内部回路まで壊してしまうものだろうか。
演算宝珠は、魔導師の魔力を制御して術式を展開するための高価な精密機器だ。小銃のように、壊れたからといって簡単に交換できるものではない。
今回の故障を受け、エーリヒの一三式標準宝珠を使った訓練は中止されていた。
「魔力が足りないわけではない。本人も手を抜いていない。それなのに、術式が成立しない……」
リヒターは過去二年間の訓練記録を並べた。
魔力を抑えると術式が発動せず、出力を上げると宝珠の動作が不安定になる。同じような記録が、何度も繰り返されていた。
「……ひょっとすると、問題はヴァルターだけにあるのではないのかもしれんな」
専門家に調べてもらうべきだろう。
そう判断したリヒターは、故障した演算宝珠と訓練記録を帝国軍エレニウム工廠へ送ることにした。
それが、少々厄介な人物の興味を引くことになるとも知らずに。
◇ ◇ ◇
帝国軍エレニウム工廠。
「ドクトル、士官学校から故障した演算宝珠が届いております」
「故障? 整備部門へ回したまえ。私は忙しいのだよ」
白衣姿の男は、机から顔も上げなかった。
「ですが、通常とは異なる破損が確認されまして……」
「異なる? どう異なるのかね」
「内部の演算回路が、通常の過負荷では考えられない壊れ方をしているんです」
男の手が止まった。
「……見せたまえ」
研究員から報告書を受け取ると、男は一枚、また一枚とページをめくった。
そして突然、椅子を蹴るように立ち上がった。
「なんだこれは!?」
「ド、ドクトル?」
「ありえん! こんな損傷が起こるはずがないぞ! いや、現に起きているではないか! なんだね、これは!」
男は報告書を机に広げ、食い入るように見つめた。
「面白い……実に面白いぞ!」
「ドクトル、士官学校からの説明によりますと――」
「使用者はどこだ!?」
「……はい?」
「この宝珠を使った人間だよ! どこにいる!?」
「士官学校の候補生ですが……」
「候補生!? 素晴らしい! すぐに連れてこい!」
「ドクトル、まずは詳しい事情を――」
「何をしている! 早くしたまえ!」
研究員は諦めたように肩を落とした。
アーデルハイト・フォン・シューゲル。
帝国軍エレニウム工廠の主任技師にして、演算宝珠の研究開発を担う天才。
その頭脳は帝国軍でも高く評価されていたが、研究への情熱が暴走すると、他人の話をまるで聞かなくなるという厄介な性格の持ち主でもあった。
「ふふふ……いったい、どんな魔導師なのかね?」
シューゲルは故障した宝珠を持ち上げ、子供のように目を輝かせた。
◇ ◇ ◇
数日後。
「エーリヒ・ヴァルター候補生、出頭しました!」
エーリヒは研究室の入口で敬礼した。隣には、付き添いのリヒター大尉が立っている。
「おお、君か! 待っていたぞ!」
シューゲルは満面の笑みで近づいてきた。
「ドクトル・シューゲル。本日は候補生の検査をお引き受けいただき――」
「大尉、君はそこに立っていたまえ」
「……は?」
「邪魔にならん場所だ。そこだ、そこ」
リヒターを部屋の隅へ追いやると、シューゲルはエーリヒの肩をつかんだ。
「エーリヒくん! 君はこの一三式宝珠を壊したそうだな!」
「はい。申し訳ありません」
「謝る必要などない! あれほど奇妙な破損は初めて見た! 実に素晴らしい!」
「……ありがとうございます?」
褒められているのか怒られているのか、エーリヒにはよくわからなかった。
「では、早速始めよう!」
シューゲルが指さした先には、大きな測定装置が置かれていた。
「ドクトル、検査内容の説明をお願いしたいのですが」
リヒターが口を挟むと、シューゲルは面倒くさそうに振り返った。
「魔力を測る。それだけだ!」
「安全性の確認は――」
「大尉! 私は演算宝珠の専門家だぞ!」
それが安全性の説明になるのか、リヒターには理解できなかった。
しかも、エーリヒはすでに測定装置の前で姿勢を正している。
「いつでも始められます!」
「素晴らしい! 実に協力的な青年だ!」
シューゲルは嬉しそうに手を叩いた。
リヒターの嫌な予感は、ますます強くなった。
◇ ◇ ◇
「では、少しだけ魔力を流したまえ」
「はい!」
エーリヒが測定装置に手を置くと、計器の針が勢いよく跳ね上がった。
「……む?」
シューゲルが眉を上げる。
「エーリヒくん。少しだけ、と言ったはずだが?」
「そのつもりです」
「本当かね?」
「はい!」
「ふむ。もう一度だ!」
エーリヒが再び魔力を流すと、針は先ほどと同じように跳ね上がった。
シューゲルは計器を見つめ、やがて楽しそうに笑い始めた。
「なるほど! そういうことか!」
「ドクトル、何かわかったのですか?」
リヒターが尋ねると、シューゲルは勢いよく振り返った。
「この青年は魔力を細かく調整するのが極端に苦手なのだよ! しかも、瞬間的に流れ込む魔力が大きすぎる!」
シューゲルは机の上にあった一三式標準宝珠を指さした。
「普通の宝珠では、この不安定な入力を処理しきれん! それで術式が乱れるのだ!」
「では、ヴァルターが飛べないのは……」
「宝珠との相性が悪いのだよ! もちろん、本人の制御能力にも問題はあるがね!」
エーリヒは思わず身を乗り出した。
「ドクトル! それなら、自分も空を飛べるようになるのでしょうか?」
「飛行? そんなものは後回しだ!」
「……え?」
「君の魔力は実に興味深い! 飛行のような複雑な術式にこだわる必要がどこにある!」
シューゲルは黒板に向かい、勢いよく図を描き始めた。
「飛行機能を取り除き、身体強化だけに特化した宝珠を作ればいい! そうすれば君の魔力を活かせるかもしれん!」
「身体強化……ですか?」
「そうだ! 空を飛ぶのではなく、地上を走るのだよ!」
エーリヒは自分の足元を見た。
魔導師は空を飛ぶものだと思っていた。飛べなければ一人前になれないと、ずっと悩んできた。
だが、地上で魔力を使うという道があるのなら。
「ドクトル。それなら、自分も軍人として役に立てますか?」
「そんなことは知らん!」
「……えっ」
「私は人事担当ではない! 君が軍人として役に立つかどうかなど、私の知ったことではないのだよ!」
リヒターが顔をしかめたが、シューゲルは構わず続けた。
「だが、君の魔力を活かす装置なら作ってみせよう! この私がな!」
エーリヒは一瞬きょとんとしたあと、力強くうなずいた。
「ぜひ、お願いします!」
「よろしい! では、実験開始だ!」
「ドクトル! 今日は検査だけの予定では!?」
リヒターの抗議は、研究室に響くシューゲルの笑い声にかき消された。
◇ ◇ ◇
それから数週間。
エーリヒは士官学校での訓練を続けながら、許可された日には研究所へ通うようになった。
シューゲルは飛行機能を省いた試作型演算宝珠を開発し、エーリヒの魔力に耐えられるよう改良を重ねた。
もっとも、研究が順調だったとは言い難い。
「エーリヒくん! またかね! また失敗なのかね!?」
「すみません、ドクトル! この宝珠、どうしても術式が安定しません!」
「君の集中力と努力が足りんのだよ! 私の理論は完璧なのだ!」
「ドクトル、入力回路の耐久性にも問題が――」
「では、そこも強化したまえ!」
研究員は無言で記録用紙に修正点を書き加えた。
リヒターは、その光景を何度も見せられるうちに、シューゲルの言う「完璧」という言葉を信用しなくなっていた。
だが、試作品は少しずつ改良され、ついに身体強化術式を安定して維持できるところまでこぎ着けた。
そして、最初の屋外試験の日がやってきた。
◇ ◇ ◇
帝国軍エレニウム工廠、屋外試験場。
エーリヒは直線走路の出発地点に立っていた。
胸元には、身体強化に特化した試作型演算宝珠が下げられている。
「エーリヒくん! 今日は走ってもらうぞ!」
「はい!」
「魔力は慎重に流したまえ! いきなり全力を出すのではないぞ!」
「わかりました!」
リヒターは走路の先に積まれた土嚢を眺め、不安そうに眉をひそめた。
「ドクトル、あの宝珠は本当に大丈夫なのですか?」
「当然だ! 私が設計したのだからな!」
「……それが一番心配なのですが」
「何か言ったかね?」
「いえ、何も」
エーリヒは胸元の宝珠へ魔力を流した。
淡い光が灯り、全身に力が満ちていく。
いつもとは違った。術式が乱れることもなく、宝珠が異常を起こす気配もない。
「……すごい」
エーリヒは自分の手を見つめた。
「ドクトル、できています!」
「うむ! では、走りたまえ!」
「はい!」
エーリヒは大きく息を吸い、地面を蹴った。
ドンッ!
「……なっ!?」
リヒターの目の前から、エーリヒの姿が一瞬で遠ざかった。
いや、消えたわけではない。
走っているのだ。
ただし、本人の予想をはるかに超える速度で。
「うおおおおっ!?」
エーリヒは驚愕した。
足が地面を蹴るたび、身体が勢いよく前へ押し出される。景色が流れ、風が顔を叩いた。
「は、速い! 速すぎる!」
そのとき、胸元の演算宝珠から赤い警告光が点滅し始めた。
本来なら、一定以上の出力を抑える安全機構が働くはずだった。しかし、エーリヒの魔力は試作宝珠の想定を超えていた。
「えっ!? まだ加速するのか!?」
慌てて魔力を絞るが、時すでに遅し。勢いのついた身体は簡単には止まらず、走路の終点が恐ろしい速さで迫ってきた。
「と、止まれない!?」
次の瞬間。
ドガァァン!!
エーリヒは走路の端に積まれた土嚢へ突っ込んだ。
土煙が舞い上がり、土嚢が四方へ飛び散る。
「ヴァルター!!」
リヒターが駆け出し、研究員たちも慌てて後を追った。
やがて、崩れた土嚢の中から一本の手が伸びた。
「……教官! 成功しました!」
「どこがだ!!」
泥だらけのエーリヒが顔を出した。制服は土まみれで、髪には破れた土嚢の中身が入り込んでいる。
それでも、本人は満面の笑みを浮かべていた。
「教官! 自分、走れました!」
「それは見ればわかる!」
「すごい速さでした!」
「そんなことより怪我はないのか!?」
「はい! どこも痛くありません!」
エーリヒが元気よく答えると、リヒターはようやく安堵の息を吐いた。
そんな二人のやり取りをよそに、シューゲルは測定器の記録を見つめていた。
身体強化術式は最後まで維持されていたが、出力を抑える安全機構は正常に働いていなかった。
「ふむ……安全機構の改良も必要か。だが、身体強化そのものは成功だ!」
シューゲルの口元がつり上がった。
「実に素晴らしいぞ、エーリヒくん!」
「ドクトル?」
「君は空を飛べない! だが、地上なら話は別だ!」
エーリヒは目を見開いた。
「まだ改良は必要だが、この出力なら面白いことができそうだ!」
シューゲルは嬉しそうに笑った。
エーリヒも、つられて笑った。
空を飛べないという事実は変わらない。それでも、二年間ずっと探していたものが、ようやく見つかった気がした。
自分にも、進める道がある。
「ドクトル!」
「なんだね!」
「もう一度、走ってもいいでしょうか!」
「もちろんだ! 好きなだけ走りたまえ!」
「待てぇぇぇ!!」
リヒターの怒声が試験場に響いた。
「安全機構が故障したままだろうが! 貴様ら、もう一度土嚢に突っ込むつもりか!!」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
研究所を後にしたエーリヒは、リヒターと並んで歩いていた。
「……教官」
「なんだ?」
「自分、まだ空は飛べません」
「そうだな」
「でも、地上なら魔導師として戦えるかもしれません」
リヒターは隣を歩く青年を見た。
入学以来、失敗を繰り返しても決して諦めなかった候補生。その青年が、今日は心から嬉しそうに笑っている。
「……ああ。そうかもしれんな」
リヒターは静かに答えた。
「ただし、ヴァルター。今日の試験が成功したからといって、すぐに戦場で使えるわけではないぞ」
「はい。まだまだ訓練が必要です!」
「その意気だ。焦らず、一つずつ覚えていけ」
「了解しました!」
エーリヒは元気よく敬礼した。
その姿を見て、リヒターは小さく笑った。
◇ ◇ ◇
一方、研究所では、シューゲルが机いっぱいに図面を広げていた。
「ふむ……身体強化は成功した。次は出力の調整だな」
シューゲルは新しい図面を取り出した。
「それに、あの速度では脚部への負担も大きい。装備の補強も必要か……」
考えれば考えるほど、試したいことが増えていく。
「ふふふ……エーリヒくん。君は実に面白い研究対象だ」
シューゲルは楽しそうにペンを走らせた。
こうして、空を飛べない魔導師と狂気の天才による、奇妙な研究が始まった。
まだ実戦で使える装備が完成したわけではない。地上で戦う魔導師という発想も、今は一人の候補生のための実験にすぎなかった。
だが、この出会いが後にエーリヒの運命を大きく変えることになる。
空を飛べない魔導師、エーリヒ・ヴァルター。
十九歳の彼は、この日初めて、自分の進む道を見つけたのだった。