統一暦一九一九年九月。
クルスコス陸軍航空隊試験工廠。
あの大惨事から数か月。シューゲルによる安全装置の改良も進み、エーリヒ専用の演算宝珠と脚部補助装具は、ようやく実用化への道筋が見え始めていた。
跳躍距離を間違えて着地点を通り過ぎたり、急停止に失敗して派手に転んだりと、研究員たちを慌てさせることは相変わらずだったが、高速走行や跳躍後の着地も徐々に安定してきた。
そして、そんなある日のこと。
「……何だね、これは?」
研究室で資料を確認していたシューゲルが、机の上に置かれた小さな演算宝珠を手に取った。
「ドクトル。先日ご指示いただいた、簡略化回路の試作品です」
研究員が答えた。
「ああ、あれか。エーリヒくんの演算宝珠からさらに一部の機能を省いたものだったな」
「はい。身体強化と簡易防御に必要な回路だけを残し、演算処理をできる限り簡略化しました」
「ふむ。それで、性能は?」
「最大出力は大幅に低下しています。ヴァルター候補生の魔力入力には耐えられません」
「そんなことはわかっている! 私が聞いているのは、術式の安定性だ!」
「それが……予想外の結果が出まして」
「予想外?」
シューゲルの眉が動いた。
「この宝珠を動かすのに必要な魔力量が、想定以上に少なくなったのです」
「……何?」
「複雑な術式回路を省いた結果、わずかな魔力入力でも身体強化術式を安定して維持できることがわかりました」
研究員は、試験記録を差し出した。
「これなら、航空魔導師としての適性基準に届かなかった者でも使用できる可能性があります」
シューゲルは報告書へ視線を落とした。
しばらく黙り込む。
そして――。
「……なるほど」
その口元が、ゆっくりとつり上がった。
「なるほど、なるほど……ハハハハッ!!」
「ド、ドクトル?」
「面白い! これは実に面白いぞ!」
突然笑い出したシューゲルに、研究員が思わず身を引いた。
「エーリヒくんの膨大な魔力を制御するための複雑な回路を省けば、ここまで魔力消費を抑えられるのか! いや、考えてみれば当然だ! 身体強化と防御だけなら、あれほどの演算能力は必要ないのだからな!」
シューゲルは勢いよく立ち上がった。
「エーリヒくんを呼びたまえ! それからリヒター大尉もだ!」
「は、はい!」
研究員が慌てて研究室を飛び出していく。
シューゲルは試作宝珠を掲げ、満足そうに笑った。
「ふふふ……思わぬものができたではないか!」
◇ ◇ ◇
「……自分以外でも、使えるんですか?」
呼び出されたエーリヒは、目を丸くした。
「その可能性がある!」
シューゲルは、手にした小さな演算宝珠を二人へ見せた。
「君の専用宝珠とは、設計目的がまったく違う。出力も低いし、複雑な術式も扱えん。だが、その代わりに魔力消費を大幅に抑えることができた!」
「……なるほど」
リヒターが興味深そうに宝珠を見つめた。
「つまり、魔力量の少ない者でも身体強化や防御術式を使えるようになる、ということでしょうか?」
「理論上はな! 実際にどこまで使えるかは試してみなければわからん!」
シューゲルは笑った。
「だが、これは面白い研究になりそうだぞ!」
エーリヒは、シューゲルの手にある宝珠へ目を向けた。
「ドクトル。それなら……空を飛べない人でも、地上で戦えるようになるんでしょうか?」
「だから、これから試すと言っているであろう!」
「す、すみません!」
エーリヒは慌てて頭を下げたが、その表情には期待があふれていた。
リヒターもまた、同じ可能性を考えていた。
航空魔導師になるには、一定以上の魔力量と飛行適性が求められる。
その基準に届かず、通常の航空魔導部隊では運用できない者たちも存在した。
しかし、そうした者たちが地上で魔導術式を使用できるのなら。
「……ドクトル。ぜひ、適性試験を実施していただきたい」
「言われるまでもない!」
シューゲルは、すでに次の実験計画を書き始めていた。
「まずは試験者を集めたまえ! 航空魔導師の適性基準に届かなかった者の中から、魔力を扱える人間を選抜するのだ!」
「了解しました!」
研究員たちが動き始める。
エーリヒは、試作品の小型宝珠を見つめながらつぶやいた。
「……自分以外にも、地上で戦える魔導師が増えるかもしれないんですね」
リヒターが隣に立った。
「ああ。そうなるかもしれんな」
エーリヒは、嬉しそうに笑った。
「それは、楽しみです!」
◇ ◇ ◇
数日後。
クルスコスの試験場に、三名の兵士が集められた。
いずれも飛行魔導師としての適性基準に届かず、航空魔導部隊には配属されなかった者たちである。
彼らの胸元には、簡略化された小型の試作演算宝珠が装着されていた。
エーリヒのような特殊な脚部補助装具はない。今回の試験では、宝珠による身体強化と簡易防御だけを確認する予定だった。
「よし! まずは身体強化術式を起動したまえ!」
シューゲルの号令が響く。
三名が宝珠へ魔力を流すと、淡い光が灯った。
「魔力入力、安定しています!」
「術式の起動を確認!」
研究員たちの報告を聞いたシューゲルは、満足そうにうなずいた。
「よろしい! では、走ってみたまえ!」
「はっ!」
三名が一斉に駆け出した。
「……おおっ!」
エーリヒが思わず声を上げた。
速い。
もちろん、エーリヒのように地面を爆発させながら走るわけではない。
だが、通常の歩兵とは明らかに違う速度だった。
三名は軽快に地面を蹴り、試験場の障害物を次々と越えていく。
やがて、指定された地点へ到達すると、驚いた様子で互いの顔を見合わせた。
「……本当に速く走れたぞ」
一人が呆然とつぶやいた。
「俺たちでも、こんなことができるのか……」
その声には、隠しきれない喜びがあった。
続いて行われた簡易防御術式の試験でも、三名は短時間ながら防御結界の展開に成功した。
ただし、問題も多かった。
身体強化と防御術式を同時に使用すると、魔力の消費が大きくなり、長時間の維持は難しい。
それでも、飛行魔導師としては運用できなかった兵士たちが、新しい能力を手に入れたのである。
「すごいですね、教官!」
エーリヒが興奮気味に声を上げた。
「ああ……」
リヒターも、素直に感心していた。
「まさか、ここまでできるとはな」
シューゲルは試験記録を眺めながら、満足そうにうなずいた。
「ふむ。悪くない」
「ドクトル! 大成功ですね!」
「まだまだだ! 魔力効率も改善できるし、出力も不足している!」
シューゲルはそう言いながらも、口元には笑みを浮かべていた。
「だが……実に興味深い副産物だ」
こうして、エーリヒ専用演算宝珠の研究から、もう一つの可能性が生まれた。
それは、まだ正式な名称すら持たない小さな試作品だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
リヒターは試験場の一室で、研究記録を整理していた。
机の上には、エーリヒ専用装備の試験結果と、今回の簡易宝珠に関する資料が積み重ねられている。
「教官。少し、お話してもよろしいでしょうか?」
エーリヒが部屋へ入ってきた。
「どうした?」
「今日の試験を見て、考えたことがあるんです」
エーリヒは机の上に置かれた試験記録へ目を向けた。
「あの三人は、航空魔導師にはなれなかったんですよね」
「ああ。魔力不足で飛行適性が足りなかったそうだ」
「でも、今日の試験では普通の兵士より速く走れました」
「そうだな」
「だったら……あの人たちを、歩兵と一緒に戦わせることはできないでしょうか?」
リヒターは顔を上げた。
「……ほう?」
「空から攻撃することはできなくても、地上で素早く移動できます。防御術式も使えるなら、敵の攻撃で動けなくなった部隊を助けたり、危険な場所へ先に進んだりできると思うんです」
リヒターはしばらく黙っていた。
エーリヒの言葉は、決して洗練された戦術論ではない。
だが、その着想には確かな可能性があった。
「……面白い考えだな」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、問題は山ほどあるぞ」
リヒターは机の上に地図を広げた。
「例えば、地上魔導師だけが先へ進んでしまったら、後続の歩兵はどうする?」
「……あ」
「魔力が尽きた場合は? 補給は? 敵の反撃を受けたらどうする?」
「…………」
エーリヒは黙り込んだ。
リヒターは小さく笑った。
「だが、それを考えるのが我々軍人の仕事だ」
「……はい!」
「よし。今日の試験結果を使って、研究報告書をまとめてみよう」
「研究報告書、ですか?」
「ああ。地上魔導師をどう運用するか、その可能性を論じるんだ」
リヒターは地図を指さした。
「うまくまとめられれば、陸軍大学へ提出してもよいかもしれんな」
「陸軍大学!?」
エーリヒの声が裏返った。
「教官! 自分のような候補生が、そんなところへ論文を提出してもいいのでしょうか!?」
「論文に階級は関係ない。中身が伴っていればな」
リヒターは笑った。
「もっとも、私も手伝うぞ。貴様一人に任せていたら、論文の半分が『もっと速く走れる』で埋まりそうだからな」
「そ、そんなことはありません!」
「本当か?」
「……三分の一くらいです!」
「十分多い!!」
リヒターの怒声が響いた。
だが、その表情はどこか楽しそうだった。
◇ ◇ ◇
それから数週間後。
帝国陸軍大学へ、一通の研究報告書が届けられた。
表題は、
『魔導師の地上運用戦術に関する研究』
提出者には、グスタフ・リヒター大尉とエーリヒ・ヴァルター士官候補生の名前が記されている。
さらに、エレニウム工廠での研究成果やクルスコスでの試験記録も添えられ、技術資料にはシューゲルの署名があった。
もっとも、その署名を求めるのは簡単ではなかった。
「何だね!? 私の研究成果を陸軍大学へ提出するだと!?」
「ドクトル。装備の実戦運用を研究するためです」
「ふん! 軍人どもに私の天才的技術が理解できるとは思えんが……」
シューゲルは不機嫌そうに報告書をめくった。
そして、自分の名前が記された部分で手を止めた。
「……ふむ」
数秒後。
「よろしい! 存分に提出したまえ!」
リヒターは何も言わず、書類を受け取った。
こうして提出された報告書は、陸軍大学の教官たちの間で小さな話題となった。
航空魔導師になれなかった者を、地上で活用するという発想。
従来とは異なる魔導師の運用方法。
しかし、試験結果はまだ限られており、実戦での有効性を判断するには材料が足りなかった。
多くの教官は、興味深い研究の一つとして受け止めた。
だが、その報告書に強い関心を示した人物がいた。
◇ ◇ ◇
帝国軍参謀本部。
「……地上で運用する魔導師、か」
クルト・フォン・ルーデルドルフは、机の上の研究報告書を読み進めていた。
軍大学から回ってきた資料である。
最初は、よくある新装備の研究報告だと思っていた。
しかし、数ページを読み進めたところで、その手が止まった。
「飛行に適さない魔導師を、地上で運用する……?」
さらに資料をめくる。
そこには、エーリヒ専用装備の試験結果が記されていた。
異常な魔力出力。
地上での高速機動。
数十メートルに達する跳躍。
そして――。
「……倉庫に激突?」
ルーデルドルフの眉が動いた。
記録はさらに続いていた。
壁面接触後、脚部装具が誤作動。
試験者、地面へ頭部から落下。
装具、爆発。
「…………」
ルーデルドルフは、ゆっくりと報告書を閉じた。
「……本当に軍の研究なのか、これは?」
思わずつぶやいた。
だが、すぐにもう一度資料を開いた。
彼の興味を引いたのは、その後半だった。
飛行魔導師としての適性基準に届かなかった兵士たちが、小型の試作宝珠によって身体強化術式を使用している。
しかも、その結果をもとに、新しい地上部隊の運用方法まで考察されていた。
「……なるほど」
ルーデルドルフは椅子に深く腰を下ろした。
魔導師の戦術的な価値は、飛行能力に大きく依存している。
だが、飛行能力を必要としない部隊を編成できるのなら。
これまでとは違う使い方ができるかもしれない。
「……面白いではないか」
その顔に笑みが浮かんだ。
ルーデルドルフは副官を呼んだ。
「クルスコスの試験工廠へ連絡を取れ」
「はっ。何か問題でもございましたか?」
「いや。問題があるかどうかを、確かめに行く」
彼は報告書を持ち上げた。
「この研究を、私自身の目で見たい」