玉座の上で、若き秦王・嬴政は静かに杯を手にしていた。
広間のざわめきが、その一点に吸い寄せられるように収まっていく。声を張り上げるでもなく、威圧するでもない。ただそこに座しているだけで、場の空気を支配する者の佇まいだった。
(これが、秦王嬴政か)
修は広間の隅から、その姿を見つめていた。信の友として、噂は何度も聞いているし論功行賞なので見たことはあるが。だが、こうして宴の場で間近に見るのは、また違う感覚だった。年は自分たちとそう変わらないはずなのに、その背には、一国の重みが載っている。
「修様」
すぐ隣で、猫猫が小さく囁いた。
「香袋の配膳が、予定より早く進んでいます」
「何?」
修の視線が、広間の中央へ走った。内務監の侍女たちが、手際よく盆を運び、各妃の卓の上に香袋を置いていく。すでに、最初の三卓には、小さな布袋が並んでいた。
そこへ、音もなく背の高い影が近づいてきた。壬氏の腹心、高順だった。
「麃修殿。申し訳ありません。すり替えの手筈に、狂いが生じました」
「どういうことだ」
「内務監が、配膳の順序を直前に前倒ししたのです。こちらが用意した替えの香袋を差し込む前に、本物が置かれてしまいました」
「チッ、察づいてやがったか」
「あるいは、最初から計画の内だったのかもしれません。いずれにせよ、すでに三卓には、仕掛けの香袋が置かれています」
修は奥歯を強く噛み締めた。背筋を、冷たいものが走る。
「猫猫。乾杯まで、どれくらいある」
「四半刻ほどかと。酒が注がれ、広間の熱が上がってから、効き目が出始めます。それまでに香袋を回収できれば、毒は成り立ちません」
「回収するなら、今しかねえってことか」
「はい。ですが、大王様の御前です。下手に動けば騒ぎになります。かといって、動かなければ……」
猫猫の頭の中で、いくつもの手が組み立てられ、崩され、また組み直されているのが、修には見えた。
修に迷いはなかった。
「猫猫」
「はい」
「お前が決めろ」
猫猫が、ハッとして顔を上げた。
「どう動くか、何を優先するか。毒のことは、お前が一番分かってる。判断はお前に任せる。責任は、全部俺が持つ」
「……」
「失敗したら、俺が大王様に頭を下げる。だから、お前の思った通りにぶちかませ」
猫猫は、ほんの一瞬だけ、言葉を失ったように修を見つめた。
これまで、猫猫が何かを判断すれば、その結果は常に彼女自身の責任になった。花街でも、後宮でも、そういうものだった。頼まれることはあっても、「任される」ことは、なかった。
猫猫は、小さく息を吸った。
「……分かりました」
猫猫の声は、いつもより、少しだけ低かった。
「私が、侍女として動きます。玉葉妃様と梨花妃様の卓は、私が直接。残りの卓は、壬氏様に助けを求めていただけますか」
「高順殿」
修が振り返ると、高順は静かに頷いた。
「承知しました。壬氏様に、お伝えしましょう」
猫猫は、盆を持った侍女の列に紛れて、広間を歩き始めた。
袖の中には、すり替え用の無害な香袋が、いくつも忍ばせてある。背筋を伸ばし、目を伏せ、足音を殺して歩く。ここで目立ってはいけない。誰かに怪しまれれば、その瞬間に、すべてが終わる。
最初に向かったのは、玉葉妃の卓だった。
近づくと、玉葉妃は優雅に杯を揺らしながら、ふと猫猫の顔を見た。その目が、ほんの少しだけ、細くなる。
猫猫が何かを言うより早く、玉葉妃は、傍らの侍女に向かって、柔らかく声をかけた。
「あら。この香り、少し強すぎるわね。頭が重くなってしまうわ。どなたか、下げてくださらない?」
「かしこまりました」
猫猫は頭を下げ、さりげなく卓上の香袋を盆に載せた。そして、袖の中から、同じ形の別の袋を取り出し、そっと元の位置に置いた。誰の目にも、ただ侍女が香袋を整えているようにしか見えない。
玉葉妃は、猫猫に目配せもしなかった。ただ、上品に微笑んだまま、杯に口をつけていた。
(さすがです)
猫猫は心の中で、深く頭を下げた。この方は、本当に、周りをよく見ている。
次は、梨花妃の卓だった。
梨花妃は、玉葉妃の様子を遠くから見ていたのだろう。猫猫が近づいた時には、すでに自分から、香袋を指先で脇へ押しやっていた。
「私にも、この香りは少し、合わないようです」
「失礼いたします」
猫猫は、ここでも素早く香袋を入れ替え、静かに下がった。
二卓、終わった。だが、残りの一卓は、広間の反対側にある。そこまで歩いて、同じように回収する時間が、足りるかどうか。
その時だった。
「静まれ」
涼やかな声が、広間に響いた。
壬氏だった。柱の陰から、ゆるりと歩み出て、玉座の前に進み出る。広間の視線が、その美貌に集中した。
「大王様。恐れながら、申し上げます」
壬氏は優雅に一礼し、嬴政に向き直った。
「本日の宴は、大王様が妃たちを労われる、格調高き席にございます。ですが、各卓に香袋が置かれ、その香りが入り混じっては、せっかくの酒の香が損なわれましょう。香袋は、宴の終わりに、改めて記念としてお渡しする方が、風雅かと存じます」
広間が、しんと静まった。
内務監の官僚たちの間に、動揺が走る。一人の中年の男が、顔を強張らせて一歩前に出た。
「お待ちください、壬氏殿! 香袋は、内務監が心を込めてご用意したもの。今ここで下げるのは、あまりに」
「内務監の意向は、分かっている」
壬氏は、穏やかな微笑みを崩さないまま、男に目を向けた。
「だが、この宴の主は、大王様だ。判断は、大王様にお任せしよう」
視線が、玉座に集まった。
嬴政は、杯を置き、短く壬氏を見た。それから、ほんの一瞬だけ、広間の隅にいる修と、その傍らの侍女に、視線を走らせた気がした。
「……壬氏の言う通りにせよ」
低く、通る声だった。
「余の宴に、香は要らぬ。酒と、人の語らいがあれば足りる」
「御意」
壬氏は優雅に一礼した。内務監の官僚は、唇を噛んだまま、下がるしかなかった。
侍女たちが、慌てて広間を回り、卓上の香袋を回収していく。猫猫は、それを見届けながら、ほっと息を吐いた。
(……間に合いました)
修の方を振り返ると、広間の隅で、修が小さく頷いていた。その口元が、わずかに笑っている。
猫猫は視線を逸らし、盆を持つ手に、そっと力を込めた。
乾杯の杯が、掲げられた。
楚から献上された果実酒が、金の杯に注がれていく。甘い香りが、広間にふわりと広がった。
修の隣に戻った猫猫は、酒の香りを注意深く確かめた。香袋は、すべて回収された。酒に仕込まれていた何かが、他の要因と結びつくことは、もうないはずだ。
それでも、猫猫は広間の空気を観察し続けた。誰かの顔色が変わらないか。呼吸が乱れる者はいないか。
半刻が過ぎた。
何も、起こらなかった。
妃たちは、変わらず穏やかに杯を傾けている。嬴政も、静かに酒を口にしている。広間には、いつもの宴の温かな気気配が満ちていた。
ただ、一人。
内務監の官僚の男だけが、額に汗をにじませて、ちらちらと玉座の方を窺っていた。
「……動きますね」
猫猫が、唇をほとんど動かさずに呟いた。
「ああ。毒が効かねえと分かりゃ、力押しで首を狩りに来る」
修は、いつの間にか猫猫の前に立ち、広い背中で完璧に庇い立てしていた。本能型の野生が覚醒し、全身から殺気と覇気が渦を巻いて放たれている。
「猫猫」
「はい」
「俺の後ろから一歩も出るなよ。……ひと暴れしてやる」
「……承知しております」
猫猫が修の背中のすぐ後ろに身を寄せた、まさにその瞬間。
「――仕留めろッ! 大王の首をあげろーーッ!!」
甲高い叫びが広間に轟いた。
配膳の列に紛れていた刺客たちが一斉に装束を破り捨て、隠し持っていた短刀と剣を抜き放つ。悲鳴が狂乱となって広がり、妃たちが倒れ込み、金の杯が床を転がって酒が血のように流れた。
「大王様を守れ!」
「奴らを近づけるな!」
文官や護衛が混乱する中、刺客の頭目が一直線に玉座の嬴政へ向けて跳躍する。
「死ねッ、嬴政!!」
「――ハッ、どこ見てやがるドブネズミどもがァ!!」
怒号と共に襲いかかったのは、麃公の血を引く猛牛――麃修だった。
修は弾丸のような踏み込みで割って入ると、飛びかかった刺客の首根っこを素手で掴み上げ、そのまま凄まじい筋力で石畳へと叩きつけた。
ガシャアアンッ!!
石畳が砕け、刺客が血を吐いて沈む。間髪入れず、左右から二人の刺客が同時に刃を突き立ててきた。
「死ねええッ!」
「遅えよッ!!」
修は身を沈めると、麃家譲りの野性的なカンで二人の刃を紙一重でかわす。すれ違いざま、左の刺客の顎に強烈な拳を打ち叩き込んで骨を粉砕し、右の刺客の腕を掴んで強引に引きずり倒すと、手から脱落した剣を空中でひっ掴んだ。
「オラアッ!!」
剣を握った修の全身から、戦場の雄叫びが爆発する。
剣を振るうたびに風が唸り、刃が閃く。甲冑を纏っていない身軽さが、むしろ修の野性的な反応速度と武力を極限まで引き出していた。
三人、四人と襲いかかる刺客を、修は圧倒的な武力と本能の直感で次々と叩き伏せ、薙ぎ払い、踏み潰していく。その戦いぶりはまさに「戦場の獅子」。広間の豪華な装飾を吹き飛ばしながら、政の立つ玉座の前に、一歩も届かせぬ絶対の不可侵領域(鉄壁の陣)を一人で築き上げていた。
猫猫は、修の背中のすぐ後ろで、その壮絶な無双劇を目撃していた。
背中が、圧倒的に広い。
振るわれる拳、奔る剣風。荒々しい咆哮と共に敵を噛み殺すような猛威を振るいながらも、修の足運びは、猫猫へ刃や破片が一片たりとも届かないよう、緻密かつ本能的に猫猫を守る位置を保ち続けていた。
(……守られている。この怪物の背中に)
そう強く実感したとき、猫猫の胸の奥が、熱く深く、ざわりと揺れた。
その時、広間の巨大な扉が外側から激しく叩き割られた。
バギャアアンッ!!
「通すな! 一人も逃がすんじゃねえ!」
信の咆哮だった。甲冑を血と汗で濡らした信を筆頭に、飛信隊の猛者たちが広間へ雪崩れ込んでくる。外からの刺客を全滅させ、退路を完全に断ち切ってなだれ込んできたのだ。
「修! 無事かッ!」
「遅えぞ信! 庭の雑魚片付けるのに手こずってんじゃねえ!」
「うるせえ! 鼠一匹逃がさず叩き潰してきたんだよ!」
信と飛信隊が入ったことで、勝敗は一瞬で決した。前後を挟まれた刺客たちは、修と飛信隊の圧力を前に、次々と叩き伏せられ捕縛されていく。
最後の刺客が床に伏せられた瞬間、猫猫がハッとして叫んだ。
「待ってください! その男、口の中に毒を――!」
刺客が奥歯の隠し毒を噛み砕こうとした瞬間、修の大きな手が刺客の顎を強引に掴み上げ、力任せに開かせた。
「噛ませるかよッ!」
猫猫は素早く指を差し込み、奥歯の間に挟まっていた小さな毒薬の粒を引っ張り出した。
「……毒です。自害用の」
猫猫は粒を懐紙に包み、ふうと息を吐いた。
「これで、口は封じられずに済みます。彼らから、黒幕の情報が聞き出せるはずです
「お前、本当によく見てるな……」
修が荒い息を吐きながら、呆れたように、けれど極上の誇らしさを込めてニッと笑った。
広間は、ようやく静けさを取り戻した。転がる刺客と割れた器が散乱する中、玉葉妃をはじめとする妃たちは、傷一つなく無事だった。
乱れた広間の中央で、嬴政がゆっくりと立ち上がった。
「麃修」
静かだが、威厳に満ちた声だった。修は血のついた剣を納め、片膝をついて頭を下げる。
「はっ」
「麃公の息子か。信から聞いていた通りの男だな。見事な武だ」
「恐縮です」
「顔を上げよ」
修が顔を上げると、嬴政はまっすぐにその目を見つめていた。
「今夜の働き、実に見事であった。余は、後宮にこれほど頼もしい者を置けたことを心から嬉しく思う」
「もったいないお言葉です」
嬴政の視線が、修の後ろに静かに控える猫猫に移った。
「そちらの娘は」
猫猫の肩が、びくりと震えた。
修は一歩だけ猫猫を庇うように前に出て、堂々と答えた。
「猫猫と申します。毒と薬に通じた者で、今回の件では、彼女の判断がなければすべてを防ぐことはできませんでした。この宴の毒を見抜き、香袋を回収させ、刺客の自害を止めたのも、すべてこの猫猫の才によるものです」
「ほう」
嬴政は、わずかに目を細めた。
「毒を見抜く下女か。後宮には、実に面白い者がいるな」
「畏れ多いことでございます」
猫猫は深々と頭を下げた。胸の動悸が、うるさいほど高鳴っていた。
「名を覚えておこう。猫猫、であったな」
「はい」
「呂不韋の手は、思っていたより深いところまで及んでいる。これからも、余に力を貸してもらいたい」
「……私にできることであれば」
嬴政は微かに頷き、再び玉座へと戻っていった。
広間の隅で、壬氏が静かに微笑みながら二人に視線を送っていた。猫猫は気まずそうに目を逸らした。
宴の後始末がようやく落ち着いたのは、夜も深まった頃だった。
修と猫猫は、後宮の回廊の誰もいない縁側に腰を下ろしていた。澄んだ月光が二人を照らしている。
「……腕、見せてください」
猫猫がぼそりと言った。
「あ? 何のことだ」
「先ほど、刺客の刃がかすったでしょう。袖が切れています」
修は自分の左腕を見た。礼装の袖が破れ、浅い切り傷から血が滲んでいる。
「ああ、こんなもんかすり傷だ。戦場じゃ傷にも入らねえ」
「毒が塗られていた可能性があります。黙って見せてください」
「……分かったよ」
修が腕を差し出すと、猫猫は傷口に顔を近づけ、指先で確かめ、匂いを嗅いだ。
「……毒はありませんね。ただの傷です」
「だから言っただろ」
「ですが、念のため薬を塗っておきます」
猫猫は小さな薬壺を取り出し、手際よく傷口に薬を塗った。指先が修の腕に触れる。修の肉体は固く、そして驚くほど熱かった。
その熱が、猫猫の指先から胸の奥へとじんわりと伝わってくる。
「……猫猫」
「はい」
「さっきの件だ。お前、迷わなかったな」
猫猫の手が、一瞬止まった。
「何のことでしょう」
「俺が『判断は任せる』って言った時だ。ためらうかと思ったが、すぐに動いたろ」
猫猫は再び薬を塗りながら、しばらく沈黙した。やがて包帯を巻きながら、ぽつりと呟いた。
「……任されたのは、初めてでした」
「そうなのか?」
「頼まれることはありました。毒を見てほしい、薬を作ってほしい、と。ですが、どう動くか、何を優先するかまで、私に任せてくれた方は誰もいませんでした」
猫猫は包帯の端をキュッと結んだ。
「ですから、少し驚きました。同時に……」
「同時に?」
「……悪くない、と思いました」
修は目を丸くしたあと、ハハッと爽やかに笑った。
「そうか。俺はお前に任せるのが一番手っ取り早いと思っただけだ。お前の仕事だろ。俺は、俺の仕事をしたまでだ」
「その考え方が、少し変わっているのです」
「どこがだ」
「普通は、責任を取るのが怖くて、任せるのも怖いものです」
「ハッ、怖がってたら戦場で麃公軍の将なんてやってられねえよ」
修は豪快に笑い、自慢げに肩をすくめた。
「それに、お前なら失敗しても、絶対に次の手を考えて脱出する。俺はそう信じてたからな」
猫猫は何も言い返せなかった。包帯を結び終えた自分の手元を見つめたまま、静かに息を吐いた。
(……この人は)
自分の判断を、最初から最後まで疑わなかった。責任を引き受けると笑って言い切り、背中を完璧に守り抜いた。
それがどれほど凄まじいことか。この野蛮で真っ直ぐな男は、きっと自覚すらしていない。
「修様」
「ん?」
「お疲れ様でした」
「おう。お前もお手柄だったぞ、猫猫」
二人はそれ以上言葉を交わさず、月明かりの中で並んで座り、夜風を浴びていた。
同じ頃。
後宮の外れにある暗い一室。
「……宴は失敗か」
「はい。毒は看破され、刺客も飛信隊と麃修によって全滅いたしました」
報告を受けた男は、長きにわたる沈黙ののち、低く呟いた。
「麃修……そして、あの薬師の娘か」
「いかがいたしましょう」
「焦るな。今回は手始めに過ぎん。本命の仕掛けはまだ生きておる」
男は暗闇の中で冷たく目を光らせた。
「だが、あの娘の目と、麃修の武が合わされば厄介極まりない。……次は、あの二人を分断する手を考えるとしよう」
報告者が深く頭を下げ、部屋の灯りが静かに消えた。
後宮の闇は、まだまだ深い。
だが、その闇の中で生まれた二人の固い信頼と絆は、これから訪れるどんな嵐にも折れないほど、強く強く灯り始めていた――。
はいていうことで解決編です次もどんどん出すのでお待ちください。