いつか名前を取り返しに来てくれないかなって。なんて、それも嘘なんだけどー私には偽名がいくつかある。
カラオケの予約はサイトウ。ファミレスの受付板にはヤマナミ。夜の街では、澪。
本名を名乗れば、どこの家の人間かすぐにばれる。見られて、測られて、噂になる。だから私は偽名を名乗る。ただの私でいられるから。
なーんて。そんなのは嘘。全部嘘。
嘘つきの「私」が、「澪」という名前について語る、小説みたいなもの。広義の百合作品。

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私は、偽名を愛している

 私には偽名がいくつかある。

 

 それは一回限りの使い捨ての偽名、それこそその場で適当に思いついたような偽名。それこそ佐藤とか斎藤とか。田中、伊藤。そんなごくごく普通の偽名を名乗ることもあるけれど。継続して使い続けるような偽名。例えばその施設を利用するには会員登録する必要があるから名乗らざるをえないけれど、だからといって本名も名乗りたくない。

 

 そんな時には覚えやすい、管理しやすい偽名。ある程度意味を持たせた偽名を名乗ってる。私が普段名乗るのは、基本この偽名。ただ、時と場合によってはその偽名を使い続けるのが好ましくない時とか。あるいは名乗る以上どうしても記録には残るから。その顔と偽名で記録が残り、記録と記録をつなぎ合わされてログという形で遡られると困ることも少なくないから。

 

 だから、他にも管理しやすい偽名はいくつか抱えている。大体、私がそういう形で使う偽名は4つか5つ。だけどその内の一つは、あまりにも普段使いしすぎて、さながら本名みたいになっているから。偽名として生きているのはせいぜい3つか4つ。どの名前で話しかけられてもきちんとお返事はするし、場合によっては立ち居振る舞いも微妙にズラす。偽名ごとに行動範囲というか、活動範囲は違うから。基本あれ、私の知ってる名前とは違う名前で呼ばれてる。みたいな間抜けなことにはまず、ならない。

 

 まあ、なんでこんなに偽名を持ったり使ったりしているか、という話なんだけど。まず勘違いしてほしくないのは、私は別に厨二病患者ではないということ。本名を名乗るのがあまり都合が良くないから、必然性に迫られて偽名を名乗っているだけ。

 

 だからといって、これも勘違いされたくないことなんだけど。私は別に犯罪者ではない。前科者でもない。そりゃあ、まあ。完全無欠に綺麗なおてて、とは言えないかもしれないけれど。人間誰しも積極的に話して回りたくはない思い出ぐらいはあると思ってる。

 

 それこそ、人生で一度も信号無視をしたことがない人とかはいないと思うし、本当は校則で禁止されているけど、帰りにショッピングモールに寄っちゃったとか。はたまた下世話な話でしかないけど、裏路地で立ち小便してしまった、とか。まあ、そんなことを一切してこなかった、なんて人はごくごく少ないと思う。

 

 そういうのを、いわば叩けばほこりが出るということわざの、「埃」とみなすのなら。私だって少なからず叩けばほこりの出る身の上だ。あくまで信号無視とか、校則無視とか。その延長線上だけど。その延長線上でしかないけど。だって一度も私は告発されたこともないし、被害届とか、私が何かしたから診断書を出された、なんてことは一度もないのだから。

 

 まあ、色々交渉事とかを任されることの多い人生ではあったし。中には、深夜徘徊を繰り返すようないわゆるワル。不良くん達とのご縁だって少なくはないし、それこそ売春グループの子達とも少なくないご縁もある。世間一般には白眼視されがちな彼らではあるけれど。別に悪い子達ばかりでもなければ、話せば分かってくれる子も少なくない。

 

 社会から白眼視されようとも、やっぱりそこは社会の一部だから。人と人が共通言語を用いてお話している以上、分かり合えるとまでは言わないけど、落とし所は見えてくる。誰だって厄介事は勘弁だし、揉め事は嫌い。痛い目にも遭いたくないし、体面も傷つけられたくはない。それが社会的地位とかなら尚更だ。そういう部分にみんなが少しずつ配慮して、譲り合う事さえできれば。みんな丸く収まる。誰も傷つかないで済む。みんなハッピーだ。

 

 やっぱり最後に物を言うのは人間の言葉。人間が理性ある生き物であり、その点をもって他の生物と区別されうる以上、言葉と言葉を交わし合えば、いずれみんな納得する。納得してもらう。私はただ、その後押しをしてあげるだけ。背中を押してあげるだけ。時にはあの子達困っているみたいだから、やめてあげてってお願いすることもあるけれど。私はいつだってお話するだけ。私はこれでも交渉人を気取っているから。

 

 ただ、中には困った手段に訴えようとする人もいるから。あまりクリーンではないやり方というか。スマートでないというか。大体が誤解に基づく行き違いで、後々腹を割ってお話さえすればやめてくれたりもするけれど。やっぱり困ってしまうから。私は別に構わないし、どれだけ丁寧にお話してもいいんだけど、周りの人まで巻き込んだりすることもあるから。

 

 あとはやっぱり私もシャイなので。そういうちょっと変わったお友達とは、変わったお友達同士の密接なコミュニティの中で過ごす方が居心地がいいというか、なんというか。まあ、だから私はその人たちのためだけに考えた特別な偽名で自己紹介したりする訳だけど。

 

 なーんて。そんなのは嘘。全部嘘。真っ赤な嘘。私が偽名を名乗るのは、ちょっと私の本名が有名すぎるから。特に地元では。有名すぎるというのは大袈裟だし、そもそも有名なのは家の名前の方だけど。

 

 だけど地元でなら家の名前を名乗れば、9割5分は、ああ、あそこのお家のというリアクションになる。残りの5分は、引っ越してきたばかりか、何かの事情で地元のコミュニティに参加しづらいか、参加したくない人。あとは完全無欠に業界の違う人。そして純粋に社会に興味のない人。最後に本当にたまたま知らなかっただけの人。

 

 正直、名乗った瞬間に家がバレる。特に学校とか閉鎖的なコミュニティだし。私は私立の中高一貫校に通っていたから。俗に言うお坊っちゃまやお嬢様が多くて。中には女優の卵とか、とあるスポーツの日本代表の強化選手とか。地元ではかなりのシェアを誇るを通り越してほぼ一強のビジネスホテルの御曹司とか。本当に様々な家柄の子がいて。

 

 その中でも、家の古さと家業の特殊さ、ご縁の巡り合わせの機会とかは負けてない方だったから。名乗れば、ああ、あそこのとはなるし。それこそ日常生活を送っていても、見知らぬおばさまにひょっとして、あなた、あそこの家のお嬢様ですか?お名前はかねがね。実はおうちの方と主人がご縁もありまして、なんてご挨拶を受ける、なんてことも珍しくはなかったから。

 

 まあ、本家は大きかったし。美術館に置いておくべきなんじゃないかなー、みたいなお茶の道具や香木、それこそ歴史の教科書で見た名前のお客様がいらっしゃった時に記念にと色々コメントを残してくれた屏風が無造作に茶室に立てられていて。

 

 結構湯気のあたる場所に置かれてた時期もあって、所々ふやけていたり。もったいないなあというお話なんだけど。それこそ全国レベルでも知っている人は知っているんじゃないかなって感じ。実際大学進学に合わせて東京に来た時も、ご縁のある方にご挨拶を受ける機会はあったから。

 

 なので決して無名というほど無名でもないのかなとは思っている。あくまで有名なのは家の名前だけど。

 

 ただ、そこで面倒くさいのが、外食でもなんでもいいのだけれど。お店で予約を取らなきゃいけない場面なんだよね、という。本名を名乗ると。むしろ本名を名乗ってしまうと。少なからず、どこの家の人間かということがバレてしまう、赤裸々になってしまうというのが中々以上に厄介な点で。

 

 無駄にご縁は多いので。結構な頻度であそこのお家の、みたいにお店の方に気づかれてしまうという。それこそちょっとお高い、いいお店とかなら向こうも色々考えてしまって。ご挨拶しなきゃ、みたいな。料理長、あそこの家の方来てますよ。みたいに。少なからず気まずい。

 

 正直に言って、本当に面倒くさい。何しろ、向こうは私を認識しているけど、私からしたら、「はじめまして。こちらこそ、いつもうちの者がお世話になっております」なんてことが普通にあるので。しかも向こうは、あの家の人として扱ってくれるけど。あの家の人としては扱ってくれるけれど。それってつまりは、あそこの家の人として認識されているわけで。一挙手一投足を見張られているわけで。ああ、あの子があの家の、なんて。

 

 特に私は長女にして長子だから。色んな眼差しを向けられる。観察される。測られる。だからおかしな真似は出来ないって訳。礼儀作法、さりげない気づかい、言葉遣いに心遣い。何気ないしぐさ、外見、身なり、持ち物、立ち居振る舞い。それこそお辞儀の角度から、笑顔の浮かべ方、自然な笑顔の作り方。靴の履き方や箸の上げ下げまで。もちろん従業員さんに対する振舞い方も。

 

 そうした諸々が家の看板に関わってくるので。必然的にある種の家の名代として振舞うことになるし、そうした振舞い方を見て色々評判というのは成り立つものだから。

 

 私を見ているのは料理長だけじゃないし。それこそ配膳に来たボーイさんであったり、仲居さんであったり。はたまたフロアスタッフに受付のおねーさん。ドアマンにエレベーターガールに至るまで。何ならたまたまそこに居合わせた通行人の方々の視線まで気に留めておく必要はあるから。どこで噂というのは広がるかわからないし。何しろ地方の田舎だから。みんな噂が大好きって訳。

 

 そして噂と家の評判は極めて近い関係にあるから。それは、それは気を遣うよねというお話。それって、すごくすごく疲れるお話でしかなくて。肉体的にもそうだけど、精神的に。これでも学生のころから自主映画を撮ったり、演劇で主演を張ったり。はたまたディベートや弁論活動にも関わってきたけれど。

 

 気分はずっと通しでカメラが回ってる。全編ノーカットの一発撮り、もしくはずっと主演として舞台の上に立ち続けなければならないわけだから。もちろんどん帳なんて降りてくれるはずもなく。ずっと気を張ることになるから本当にしんどいんだよねという。

 

 別にお高いお店に限らずとも、ファミレスとかでもそう。大体のファミレスって、待機してる人の苗字を受付板に書くと思う。サイゼリヤでもココスでも。そして順番が回ってきたら、係の人が記入された苗字を読み上げて、席に案内されると思う。やっぱりそれも面倒で。

 

 係の人とか、受付板を見たお店の人にもまず、どこの家の人かばれるし。何より私の苗字って特徴的だから。呼び出しを聞いた周りの人にもどこの家の人かばれるという。私の顔は知らないけれど、苗字ぐらいは聞いたことがある。もしくは知っている、みたいな人は普通にいるので。あ、あそこの家の人今ここに来てるんだ、とか。何ならファミレスに来るんだ、みたいにチラッと見られることもある。

 

 そしてそういうファミレスの呼び出しの厄介なところは、その呼び出しを聞いた周囲の人が、後日周りにも言いふらす可能性があるということ。ねえ、聞きました奥さん。この間、あそこのファミレスにあの家の子が来ててね、なんて。その際もやっぱり、立ち居振る舞いとかはしっかり見られているから。

 

 むしろ、噂好きな人とかも結構いるから。必要以上にじっくり観察されて。よい振る舞いをしていてもいい噂は広がりづらいけど、粗相があればみんな嬉々として言いふらしてまわる。私の家が嫌われているというより、やっぱり噂ってそういうものだと思うから。

 

 もちろん中には私たちをよく思わない家があって、裏表問わず手段を問わず、場合によっては黒よりのグレーな手でちょっかいをかけてくる家の話も耳にはするし。私の家だって、親族会とか別に一枚岩ではないのだから。

 

 それこそ、分家のあの人から、あの家から届いたお菓子は絶対に捨てなさい。一口たりとも口に入れてはいけない。気づかずに入れた、断り切れなかったのなら、すぐに洗浄しろ。人を呼べ。最悪死ぬし、よくて脳を壊される。そんな世界なので。よそからのちょっかいが誹謗中傷で留まるのなら、まあ。そんなところではあるから。

 

 だから、間違ってもカラオケとかも行けないよねという。少なくとも家の名前を名乗っては行けない。あそこの家の娘さん、最近よくカラオケに来るらしいよ、とか連れはどんなの、どんなふうに遊んでどんなふうに騒いで、どのぐらいカラオケにいたか。全部広がりかねないから。やば、不良じゃん、とか。結構遊んでいる娘さんなんだ、教育とか大丈夫なのかしらねえ。ちゃんと躾とかなさっていらっしゃるのかしら。そんな噂が立っては目も当てられないから。

 

 そういうところもあって、両親はかなり厳しく私を躾けたし、それこそ折檻を躊躇わなかったという側面は否定できないと思ってる。それが、ゆくゆくは本家に入り婿を取って、子供を産んで家を後世につなげる人材として有力視されているのならなおさらだ。そりゃあ躾にも力が入って、時にはぼこぼこにもするし、お稽古事や学業の成績が振るわなければ、馬鹿だの気違いだの出来損ないだの罵って、さらにぼこぼこにしたくもなりますよねっていう。

 

 それこそ子供の頃の私が、このままだといつか殺される。撲殺か絞殺。ひょっとしたら刺殺すらありえてしまう。バラバラに刻まれて行きつく果ては土の中か海の中。誰にも看取られずに腐って朽ちて消えていく。きっと私はいなくなるんだ。友達にお別れの挨拶すらできずに転校したこととかにされるんだ。誰も私の行き先に気づいてくれない。一人寂しく虫のえさ。魚のえさ。

 

 そんなのは嫌。空しすぎるし寂しすぎる。何のために生まれてきたのか分からない。いや、家を残すためってことはわかっているんだけど。殺されたくない死にたくない。痛いのも苦しいのももう嫌。いやいやいやいや全部嫌!死にたい消えたい苦しみたくない!でも死ぬのも嫌!と布団にくるまって声を押し殺して泣きじゃくりたくなる程度には。まあ、ほぼ毎日泣いていたので別に珍しい話でもないんですけど。

 

 そしてそのくせ大学院生の時は、なんか全部嫌になって。殺してって泣きじゃくって。死にたい、もう生きていたくない。どうして生きていなくちゃいけないの。死にたい。死ねない。だったら、せめて殺してよ。憎いんでしょう。嫌いなんでしょう。だったら丁度いいじゃない。お願いだから。お願いだから殺してよって迫ったけれど。馬鹿みたいに泣きじゃくりながら。

 

 結局殺されなかった思い出。父親の手を私の首筋に添えさせて。あとは絞めるだけってところまでお膳立てしてあげたのに。首筋に手を添えさせて。抵抗しませんよと。間違っても抵抗しませんよ、と。だらんと腕を下げて。お願い、お父さん。殺して。殺してよ。殺せよ!お願いします、殺してくださいお願いしますってお願いまでしたのに。結局殺されなかったなって。嘘つきだなって。何をしたいんだろうな、とは思ったけれど。まあ、それは別の話だし。別の話でしかないし、特筆すべき話でもないというか。

 

 そんな余談はさておくにしても。どこで目が光っているかわからない以上、本名を名乗るのって一周回ってリスキーだよねというお話にもなってくる訳。やっぱり外食したい時ってあるし、カラオケにもいきたい時だってあるけれど。その度に本名を名乗って、あそこの家の人がうんぬんかんぬんって話される隙を作るのも馬鹿らしいし、いちいち立ち居振る舞いを気にするのも、本当に、本当に面倒くさいししんどいので。

 

 だから偽名を使うよねというお話。例えばカラオケで予約を取るときにはサイトウと名乗るし、バンドの打ち上げのために焼肉キングで席を押さえてもらう時にはイトウと名乗る。ボウリングの予約の時はヒジカタだし、ファミレスで受付板にはヤマナミと書く、みたいな。それこそ会員登録の時に身分証明書が必要だったり、そもそも名乗りに合わせて公的な書類の提示が必要な場面では仕方がないので本名を名乗るけど。

 

 あとは、一時期家にいづらいなと思って、夜のお散歩を楽しんでいた時期があって。こっそり買ったウォークマンとヘッドホンを被ってふらふらと。まあ、深夜徘徊と呼ばれる行動なんだけど。なかなかワルいお友達とつるんでみたり。コンビニ前でたむろってみたり。時に喧嘩をしたり。いや、喧嘩目当てとまで言うといいすぎだけど、喧嘩してもいいかなぐらいの気持ちで深夜徘徊を繰り返したりして。護身術とかも学んではいたし、色々個人的に使いやすいような工夫も凝らしていて。

 

 それに勝てない相手からは逃げればいいし、足だけは速かったから。まあ、負けないというか。逃げればいいだけなんだからそもそも負けづらいよねっていう。そんな調子でぶらついていたら顔見知りも増えて。揉め事の仲裁とかメッセンジャーを頼まれたりすることもあったりして。それも一つの青春かなとは思っているんだけど。だけど誰も私がどこの家の子かまでは知らないはず。

 

 私は一回も本名を名乗らなかったから。私はずっと澪で通してた。本名に近いけど、本名ではないというか。いや、本名に近いというのは嘘なんだけど。嘘でもあり嘘ではないというか。個人的には思い入れのある名前だから。でも本名ではないし、決して私の家にはたどり着けないだろうなっていう名前。それでずっと通してた。

 

 私は、そういう本名を名乗らないというか、偽名を使うことって当たり前のことだと思っていて。だって本名なんて名乗ってしまえば、どこでいつ何をしていたかが全部丸裸になってしまう。ログを追跡されてしまう。それこそ誰と会って何を話していたかまでバレてしまうかも、聞き耳たてられてばらまかれたり、あまり愉快でない使い方をされてしまうかもって思ってて。しかも本名を名乗るイコール家の名代として振舞うみたいなものだから。

 

 そういうのってとても疲れるし。何より気を遣うから大変面倒くさい。だから私は偽名を使うし、喜び勇んで偽名を使う。むしろ偽名を使っているほうが好き。気を遣わなくてもいいし、ただの私でいられるから。あるいは、それこそ「澪」として振舞うことが許される気がしたから。

 

 だから率先して偽名を使うよねって話でしかないし、割と中高の友達は偽名を使う子も少なくなかった。少なくとも誰かが偽名を名乗ったのなら、少なくともその場ではみんな偽名でその子を呼ぶという対応が、とっさに何の打ち合わせもなく出来るぐらいにはみんな慣れてた。

 

 偽名に合わせてもらった側も、いちいちありがとうございます、みたいな馬鹿丁寧に感謝したりもしない。せいぜい、そのエリアを離れてさっきはサンキューとでも言えば義理堅いほうというか、礼儀正しいほう。みんないちいち気にもしない。誰かが公共の場では偽名を名乗る。別にそれが珍しくもない世界だった。

 

 だから、大学に入って偽名を名乗る文化がメジャーではないみたいだと知った時は、少なからず驚いたよねという。どこに知り合いがいるかもわかったものではなかったから、私はお店とかでは相変わらず偽名を名乗り続けていて。もちろん学校やゼミでは本名のほうを名乗るけど。ただ、例えばカラオケで13時から4人で予約しておいてと頼まれたとして。みんなで集まってカラオケ店に行ったとき。私は当然、13時から予約していたコンドウですけど、みたいに名乗るわけだけど。

 

 みんなぎょっとした顔で私を見て。コ、コンドウ⁈え、コンドウって……誰?コンドウなんていないけど……。え、もしかして偽名で予約取ってるの?なんで?どうして?しかもコンドウって本名にかすりもしない。え、ごめんね。実は知らない間に苗字変わってたりしたのかな……。いや、まだ知り合ったばかりだし全部教えてとは言わないけど、それぐらいは教えてくれてもいいんじゃ……。みたいな反応をされたり。

 

 なんであんた偽名なんか名乗ってんのよ。アイドルか?芸能人か?気にしすぎだって!とか。おや、厨二病かな?なんて揶揄ってくる子もいたりして。あ、偽名を名乗る文化ってそこまでメジャーじゃないのかもしれないってすごくびっくりした思い出。

 

 でも、当時、本当に仕送りが渋くって。本当にお金がなくて。どれだけバイトを入れたところで教材費や医療費や食費を考えたら届かない。特に授業のレベルも高くって。ある分野を学びたいのなら日本でも最高クラスの大学で、どれだけ低く見積もってもある分野に限れば全国5指には入るような。

 

 ある分野を本格的に学びたいのなら間違いなく目指す価値のある大学ではあったから。だからその分予習復習はかなり重要になってきて。どうやってもお金が足りないし、かと言って可処分時間のすべてをバイトに回しては学業に致命的な悪影響が出るという状態だったから。

 

 そんな様子を見るに見かねてというか、あるいはある種のビジネスチャンスと見込んでか。大学独自の売春グループに誘われて。まあ、色々性には嫌な思い出があるから身体は売れなかったのだけれども。

 

 それでも折衝役というか、交渉役。トラブルがあったら駆けつけて。色々お話して。最終的に笑顔で仲直りして、何もなかったことにする。そういうお仕事を任されていたわけだけど。そこでは普通に偽名で予約を取るし、普通に偽名を名乗るのが当たり前だったな、という思い出。そこでも私は「澪」と名乗っていたわけだけど。

 

 私は偽名を名乗るのが好き。私ではない私になれる気がして。何より家の名前で見られないのが好き。家の名前を名乗ればどうしても家の名前で評価されることになるから。あの家の人ならこれぐらいはできて当たり前、みたいな基準は常に付きまとってくる。その基準に達していて初めて人間として認めてもらえるというか。まあ、それぐらいはできますよね、みたいな。ああ、でもその程度なんですか、なんて。頑張ってその基準を超えても褒められない。

 

 あの家の人ならそれぐらいは出来てもらわないと困ります。もしくは、あの家の人なら確かにそれぐらいは出来るでしょうね。流石はあの家の子と言ったところですか。なんて。しょせん見ているのはみんな家の名前に過ぎないから。誰も私のことなんて見てもいない。気にしてもいない。私はただの代弁者。看板を担いで歩いているだけの黒子に過ぎない。

 

 それでいて基準値を下回れば、あの家も大したことがない、あるいはあれであの家の子ですって。ずいぶん今のご当主は手ぬるいようで。しょせん失敗作というお話ですし。筆頭分家の姉妹のできの悪いほうという話は、あながち間違いでもなかったのですね、なんて。みんな好き放題言ってくれるから。まあ、今更傷つかないけれど。もう慣れた。30年も生きてりゃ大体の悪口はコンプリートする。失敗した時、何を言われるかなんて大体予測はつく。

 

 失敗作。姉妹のできの悪いほう。出来損ない。不出来な姉。妹の爪の垢でも煎じて飲ませたらいいのに。なんであの子が本家に入るのかしら。妹さんのほうがよっぽど上手くお勤めになると思いますけど。しっ、神輿軽けりゃ楽でいいともいうでしょう。なーんて。

 

 もう慣れた。聞き飽きた。それこそ耳にタコができるほど聞いた。私だってよくわかっている。妹のほうがよっぽど出来がいいって。いつも完璧な笑顔を浮かべている妹。いつでも、にこにこ、明るく、元気よく。それでいてお淑やかで、朗らかで。姉の私から見てもとんでもない美少女。私の家に生まれていなければアイドルも目指せただろうし、スタイルがいいからグラビアアイドルだってお手のものだっただろう。

 

 何を考えているのかは全く読めないけれど。その笑顔が仮面であることは知ってるし、仮面だよってことは二人きりの時によく教えてくれるから。でも、仮面だよって教えてくれる時の妹も、やっぱり完璧な仮面を被っていて。正直、何を考えているのか全く分からない。いつの間にか全く中身の読めない子になっちゃった。昔はもっと素直で、わかりやすくて。お姉ちゃん、あそぼ。お姉ちゃん、あそぼ、と。あとをとてとてついてきたり。

 

 それこそリビングで父親と母親が大喧嘩をしていたり。はたまたこっぴどく叱られ殴られた後も、どことなくこわばった笑顔でお姉ちゃん、あそぼ、と。私の部屋にやってきたものだけど。その面影はどこにもなくて。完璧な仮面を被った美少女がにこやかに佇んでいるだけ。

 

 そんな出来のいい妹と比べたら、しょせん私は失敗作。みんなが言うように姉妹のできの悪いほう。妹の爪の垢を煎じて飲んで優秀になれるのなら、三食と言わず常に飲み続けるべきだし、妹のほうがよっぽど本家にふさわしい人間だと思っている。なんで私が本家に入る方針が揺るがないのか理解に苦しむぐらい。家には家の方針があるのだろうけれど。やっぱり神輿は軽いほうがいいのかな、なんて思うこともあったりして。そういうのって、やっぱり少なからず傷つくから。

 

 だったら、私は「澪」でいい。どこの家のものでもない、ただの「澪」。私は偽名を名乗っているときだけ、本当の「私」でいられる。私という仮面を外せる。限りなく「澪」に近づける。だって、私に「澪」って名前を与えてくれたのは。「澪」って名乗る機会を与えてくれたのは。私を初めて「澪」って呼んでくれたのは。まぎれもない……。なーんて。

 

 そんなのは、嘘。全部嘘。真っ赤な嘘。真実の一端にすら掠らない。私は、嘘つきだから。息をするように嘘を吐き。鼓動するように嘘を編み出す。そういう生き物だから。そういう生き物としてしか生きてこられなかったから。私は、ただ。「澪」という響きが好きなだけ。さんずいが何だか可愛いし、澪って響きがさわやかで。とても優しくてかっこよかったあの人に。私をお嬢って呼んで優しくしてくれたあの人に。本当のお姉ちゃんのように思ってた、あの人に。

 

 いつからか家に来なくなってしまったけれど。お母さん諸共、家には来なくなったし。生きているのか死んでいるのかもわからない。知りようがないけれど。どこかでまだ元気に生きていて、昔のようにお手伝いさんでも何でもして暮らして生きていてくれたらいいなって願っている。あの澪ねえみたいに。澪ねえって直接呼んだら困らせてしまうから。心の中では澪姉さんと呼んでたあの人に。なーんて。

 

 そんなのも嘘。生憎、そんな悲劇的な過去を背負っていたりはしない。そんな悲劇的な過去なんて背負ってあげたりしない。まあ、確かに、本家にはお手伝いさんもいたし、分家である私の家にも一時期お手伝いさんが派遣されてきていたころもあったけれど。

 

 それこそ、私の産みのお母さんが亡くなる前後のごく短い期間。とてもよくしてもらって。たくさん一緒に遊んでもらったし。ずっと一緒にいたいなって願ってた。本当のお姉ちゃんになってくれなくてもいいから、せめて住み込みで働いてくれないかなって。

 

 いつかお金を貯めて大学に行きたいって言っていたから。だったら、ここに住んで働いてお金を貯めればいいじゃんって思ってた。いつからか、来なくなったけれど。さよならの挨拶も出来なかったけれど。また明日ねって言葉を信じてずっと待っていたのに。ばいばいって言って。笑って手を振ってはいたけれど。でも、また明日ねって言ったのに。絶対に、間違いなくまた明日ねって言ったのに。

 

 私は、私は。ずうっと待ってたのに。今の母親が嫁いできても。家の居心地がずっと悪くなっていっても。毎日毎日死にたくても。たびたび自殺未遂をしても。あと半歩で死ぬところだったとしても。深夜徘徊を繰り返すようになったとしても。深夜徘徊を禁じられて自傷がますます酷くなったとしても。

 

 悪い成績表を隠し持っていないかと部屋中徹底的にガサ入れされたとしても。部屋の棚という棚、すべての収納スペースが解放され、鞄の中身もベッドの上にぶちまけられ、下着の棚すら確認されても。すべての下着を丁寧に確認されても。広げて並べて、パッドの隙間まで確認されて。

 

 結局本当に下着の棚に隠していた悪い成績表たちが見つかって。シャワー中に踏み込まれてぶん殴られ。とっさにつかんだ下着一枚でみぞれの降る夜空の下に放り出されたとしても。家に帰りたくなくて。長い付き合いの友達の家に入り浸るようになって。そこでその子に無理矢理押し倒されて。レイプされたとしても。私はずっと待ってたんだよ。ずっとずっと、ずうっと待ってたんだよ。

 

 いつか、迎えに来てくれるって信じてた。あの頃みたいに、サラサラのショートヘアーをなびかせて。大きな眼鏡の奥で、にっこり目を細めて。お嬢、すみません。お待たせしましたって。すみません、少し遅くなっちゃった。お待たせしてしまいました。大丈夫ですか。寂しくなかったですか、なんて。一人でお留守番できました?みたいに。

 

 そんなことを言われたら、きっと私は泣いてしまうけれど。遅いよ!って。寂しかったよって。嫌われてしまったんじゃないかって。二度と会えないって思ってた。死んだんじゃないかって思ってた。お母さんも含めればずっと前からいてくれている人だから。まあ、色々見てきただろうから。暇を出してよそで色々喋られるぐらいなら、なんて。

 

 家がそんなことをするとは思わないけれど。そんなことをするとは信じたくもないけれど。でも、本当に古い家だから。色々できちゃう家だから。あとはやる気の問題だから。本当に死んだんじゃないかって思ってた。「いなくなった」んじゃないかって思ってた。

 

 だって。だって。一度も連絡くれなかったじゃない。挨拶にすら、来てくれなかったじゃない。ちゃんと挨拶をしに来てくれる人もいるのに。でも、何にも言わずにふらっといなくなるから。

 

 だから、だから。もしかして私のせいなのかなって。私と一緒にたくさん遊んでくれたからなのかなって。一緒にお風呂に入ってクラゲを作ったり。シャンプーや石鹸でたくさん泡を作って遊んだり。シャンプーのほうがより大きな泡を作れることを発見して。泡の中に泡を入れる方法を発明したり。頭を洗ってもらったり。背中を洗ってあげたり。背中にぴとっと張り付いてみたり。

 

 人に自分から抱きついたのはあれが初めてだったんだよって。少なくとも自分から抱きついたのは、覚えている限りあれが初めてだったんだよって。だって、怒鳴らなかったもん。殴らなかったもん。褒めてもらったもん。しゃがんで目線を合わせて、たくさん褒めてもらったもん。誰も褒めてくれなかったし。誰も認めてくれなかったのに。誰も見てくれなかったのに。私がものを壊してしまっても黙っててくれたし。庇ってくれた。私が壊してしまったんです、申し訳ございませんって。嘘をついてまで。

 

 まあ、結局バレて。恥知らずが。嘘をついた挙句、わざわざ庇わせやがって。本当にろくなことをしないな、お前は、なんて。父親に私が怒られているとき。私が殴られてころころ転がる様を見ないでくれていた。蹴りの勢いがあまりに強くて、お腹を抱えてうずくまっていても。あまりの痛さに涙をこらえきれなくなっても。それが癇に障ったのか、話の途中だ、きちんと聞けと髪の毛をつかんで鷲掴みにして。無理矢理引きずるように引っ張り上げられて。髪の毛もぶちぶちちぎれて。あまりに痛くて。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい。もう二度としません。許してくださいって謝って。泣きださないように、それでもどうしても涙声になるのは抑えられなかった時も。でも絶対に、黙っててくれるって言ったから、なんて言い訳はしなかったけれど。言い訳を嫌う人というのもあるけれど。殴らせたくはなかったから。父親は怒ると見境がなくなるし。それに殴られたら痛いじゃない。悪いのは私なんだし。殴られるのは私だけでいいかな、なんて。

 

 その時だけは、見ないでくれていたよねって。お盆を抱えて。きゅっと肩を上げて。肩をきゅっと縮こまらせるというか、どことなく強張らせて。お盆をぎゅっと握りしめて。ずっと斜め下を見て、見ないでくれていた。絶対に私を見なかった。他の人みたいに、周りの人みたいに。あらまあみたいな顔をしなかった。相変わらずお行儀が悪いのね、躾がなっていないのね、仕方のない子ね、みたいな顔をしなかった。

 

 それがどれだけ嬉しかったかなんて、わからないでしょうね。なんて。ごめんね。知ってほしくもないけれど。それにその後、自室に戻るときに、一緒に部屋までついてきてくれて。黙ってグリコをくれたしさ。いつものようにしゃがみ込んで。どことなく気まずそうな顔を、申し訳なさそうな顔をして。ごめんねって言いながら。微妙に目線が逸れては、すぐに目線を合わせ直す、なんてことを繰り返して。別に気にしなくてもいいのに、なんて思ったりして。だって、いつものことだもん。もう、慣れてる。そんな事より、グリコ、とってもおいしかったよって。

 

 頭を撫でてはくれなかったけれど。手を借りて、頭を撫でさせようとした時。すごく困った顔をして。ごめん、お嬢。それだけはできないんです。本当に。本当にごめんね。ごめんなさいと。本当に泣きそうな、辛そうな顔をされてしまって。泣かないようにしている普段の私の顔とあまりにそっくりで。二度とそんなことは言わなかったけれど。

 

 でもやっぱり、ママみたいだなって思って。ママというよりお姉ちゃんみたいだなって。だから抱きついたんだよって。きっと殴られはしないってわかってはいたけれど。それでも恐る恐る。そっと抱きついてみたんだよって。もし振り払われたら、嫌な顔されたらどうしようって。

 

 でも。ちっとも嫌な顔しなくって。むしろ、くすくす笑って。どうしたんです、お嬢?今日はずいぶん甘えん坊ですねえ、なんて言ってくれて。普段みたいにのんびりと。どこかのほほんとした口調で。私はあの時の口調も、湯気の温度も。抱きついた背中の白さも広さも、肌の感触も。もちもちで、すべすべで、なめらかだったあの感触も。泡で肌と肌がぬるぬるすべる感触も。そしてあの、温かさと。ゆっくり感じる鼓動も。

 

 全部全部覚えているんだよって。でも、いつからか来なくなった。なんで来なくなったのかは知らない。知りたくない。お願いだから教えないで。私は死んでも知りたくない。私のせいだったみたいに言われたら生きていけないから。でも、私はずっと待ってた。身勝手かもしれないけどね。それでもずっと待ってたんだよ。ずっとずっと待ってたんだ。まだかなまだかなって。

 

 本当は玄関先で待ち構えたかったけど。勝手口のところで待ち構えたかったけれど。それをしてたら父親が不機嫌になったから。それでもずっと待ってた。ずっとずっとずっと待ってた。一緒にいてくれたら、きっと私は。深夜徘徊も、誰かの家に入り浸ることもなかっただろうにね。なーんて。

 

 そんなのは、嘘。本当に嘘。真っ赤な嘘。私はただ、一緒にいられたらそれだけでよかったのに。お姉ちゃんっていつか呼んでみたかったのに。私はずっと待ってたんだよ。ずっとずっと待ってたんだ。姉さんのことを。

 

 でも姉さんは来なかった。嘘つきだね。嘘つきだよ。また明日ねって、言ったのに。本当に、ばいばいすることになるなんて思わないじゃない。それが最後のばいばいになるんだったら、もっと言いたいこともいっぱいあったし、謝りたいこともたくさんあったのに。いつも迷惑かけてごめんなさいって。たくさん褒めてくれてありがとう、遊んでくれてありがとう。そして庇ってくれて、ありがとうって。守ってくれてありがとう。本当に嬉しかったんだって。

 

 でもそんな機会は二度と来なくなっちゃった。姉さんの、嘘つき。酷いよ、澪姉さん。

 

 なんて、それも嘘。だって私は姉さんの本名を忘れてしまったから。顔も、声も、髪型も。体温も、肌の質感も全部覚えているのに本名だけは忘れてしまった。ただ、なんとなく。そう、なんとなく「澪」って名前がかっこいいなって気持ちだけは幼心のどこかに刻まれていて。「澪」って名前にぴったりなぐらい、さわやかで、格好いい人だったから。だから私は澪姉さんって心の中で呼んでいるだけ。

 

 それに、いつか私が「澪」って名乗っていれば。いつか名前を取り返しに来てくれないかなって。あるいは名前を訂正しに来てくれないかなって。いや、お嬢。私の名前忘れちゃったんですか。「澪」じゃないですよって。しっかりしてくださいよって。今度は忘れないでくださいねって。昔みたいにコロコロ笑って。

 

 そしたらきっと私は勢いよく抱きつきに行く。姉さん、姉さんって。涙をぽろぽろ流して。会いたかった。本当に会いたかったんだよって。ずっと待ってたのに。ずっとずっとずうっと待ってたのに。姉さんの嘘つき!なんてポカポカ叩いてみたりして。

 

 そうして今度は正面からぎゅっと抱きしめる。後ろからじゃなくて、正面から。正面からなんて、抱きしめられたこともないけれど。それこそレイプされたときを除いて。そんなの抱きしめられたのうちに、入れたくもないから。

 

 だから、正面から抱きしめる。わんわん泣いて。ぎゅっと。ぎゅうっと抱きしめるのだ。涙を姉さんのうなじに吸わせたりして。姉さんの香りは忘れてしまったけれど。あのお風呂場のシャンプーの香りも。石鹸の香りも。全部覚えているのに。それでも姉さんの香りだけは思い出せない。それでも、きっと姉さんは昔みたいに笑うだろう。どこか困ったように。わずかに眉根を下げて。でもきっとにっこり笑って言ってくれるんだ。あらあら、相変わらずお嬢は泣き虫さんですねえって。大きくなったと思いましたけど、昔と全然変わってないじゃないですか、みたいな。

 

 きっと私は、うん、うんと泣きじゃくる。泣き虫だよ、私は。いつの間にか30歳になっちゃったけど。いつの間にか姉さんの年齢なんて、あっという間に追い越してしまったけれど。でも、私は前になんか一歩も進めなかった。一歩も進めなかったんだよ。ほんの一歩も。一歩たりとも。ずっと探してたんだから。ずっと探していたのに。気が付いたら、一歩も進めなくなっちゃった。姉さんがいなきゃ私は前には進めないんだ。私は姉さんがいたから前に進めたんだよ。姉さんが、見ててくれたから。姉さんがいてくれた間だけは、前に進めたんだよ。いまは、もう。進めない。進みたくない。

 

 だから。だから。お願いだから、もう、二度と。私を見捨てないで。もう二度と、私を置いていかないで。お願いだから、もう二度と、私を一人ぼっちにしないでって。そしたらきっと、どこか困ったように笑うのだろう。本当に、お嬢は変わってないですねえって。昔の甘えん坊のまんまです、って。

 

 昔のままの笑顔で。いつか大学に行きたいって言っていた、あの頃の笑顔のままで。髪の毛も短く切ったまま。少し耳が露出するぐらいの、サラサラなショートヘアー。今の私みたいに。大きな眼鏡も昔のままで。顔の半分が隠れそうな眼鏡。私とお揃いの眼鏡を輝かせて。ほら、お菓子あげるから泣き止んでくださいって。いつぞやみたいに。そっとグリコを差し出して。姉さんの体温で若干ぬるくなったグリコのパッケージを受け取って。うん、と小さく頷くのだ。

 

 そしてますますぎゅっと強く抱きしめる。二度と離れ離れにならないように。もし万が一再び離れ離れになってしまうとしても。私が二度と姉さんの体温を忘れないように。姉さんが私の体温を忘れないように。強く、強く。ぎゅっと。ぎゅうっと抱きしめるのだ。

 

 そしてにっこり笑って言う。昔のように、きらきら光る、きれいな瞳。レンズ越しに輝く、きれいな瞳。どことなく澄んだ、透き通った綺麗な瞳。覗き込んでいると、どこまでも吸い込まれていきそうな。そんなどこまでも黒々と黒く、透き通った。宇宙みたいな、美しい瞳を見上げて。これからはずっと一緒に生きていこうって。やり直そうよ、私たちって。これからはずっと一緒。ずっと、ずうっと一緒。二度と手なんか離してあげない。

 

 もし、それが無理なら。どうしても無理というのなら。どうか今、この場で殺して。抵抗なんてしないから。抵抗なんてするわけないから。この首をぎゅっと絞めて。そのひんやりした、すべすべした細長い指を私の首に回して。砕けそうなぐらいに絞めて。ぎゅっと。ぎゅううっと。そしたらきっと私は死ねるから。幸せなままで死ねるから。満足して死ねるから。だから、お願い。お姉ちゃん。なんてのは嘘。つまらない冗談。

 

 だから、だから。今度は私の手を離さないでね、お姉ちゃん。絶対に、絶対なんだからね。そう言って。にっこり微笑みかけるのだ。昔みたいに。そして指を絡めるのだ。二度と離さないように。二度と手放さないように。ぎゅっと。ぎゅううっと。姉妹のように。恋人のように。お姉ちゃん、だーいすき。なんて。そんなことを思いながら。なーんて。まあ、それも嘘なんだけど。嘘でしかないんだけど。

 

 それでも私は、「澪」という名前が好き。偽名が好き。偽名を名乗るのが好き。

 

 だから、だから。私は、偽名を愛している。

 

 

 

 


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