河城にとりが、無縁塚で拾った一台のスマートフォンをきっかけに、幻想郷独自の通信端末を開発し始めてから、およそ三ヶ月が経過した。
その間、妖怪の山の一角に設けられた彼女の作業場は、昼夜を問わず慌ただしい日々が続いていた。
当初は外の世界の精密機器を複製するという、単なる技術的好奇心から始まった計画である。しかし、いざ開発に着手してみれば、解決しなければならない問題は想像以上に多かった。
何しろ、スマートフォンという機械は、それ単体で全ての機能が成立しているわけではない。
離れた相手との通信を可能にするためには、それを支える設備が必要であり、さらにインターネットを利用するとなれば、情報をやり取りするための仕組みそのものを構築しなければならなかった。
外の世界では当たり前のように利用されている通信技術も、幻想郷においては全く異なる事情がある。
電気を利用する技術自体は河童たちの間で発達していたものの、人間の里や妖怪の山を含めた広範囲で電子機器を接続するような通信網は、これまで必要とされてこなかったのである。
もちろん、それを理由に諦めるような河城にとりではなかった。
むしろ、技術者としての腕を振るう絶好の機会だとばかりに、仲間の河童たちまで巻き込んで、必要な設備の開発を進めていた。
通信機器の試作、電子回路の調整、蓄電池の改良。そして、それらを小さな端末に収めるための設計変更。
時には試作品が突然動かなくなり、時には通信設備の不具合によって何時間も原因を調べる羽目になった。それでも試行錯誤を重ねた末に、ようやく完成と呼べる段階まで辿り着いたのである。
「インターネットってやつはなんとかしたぞー」
作業台の上に広げられた設計図を眺めながら、にとりは満足そうに大きく背伸びをした。
その表情には、長期間にわたる開発作業から解放された安堵と、自分の手で新しい技術を完成させた達成感が浮かんでいる。
もっとも、彼女の仕事がこれで全て終わったわけではない。
目の前に並べられた大量の端末に視線を移すと、今度は商売人としての笑みが自然と浮かんできた。
「記念すべき一号機、ニトフォン1はとりあえず百台くらい量産もできたし……」
作業台の上には、同じ形状をした薄い長方形の機械が整然と並んでいた。
それこそが、河童の技術力を結集して完成させた、幻想郷初の量産型スマートフォン『ニトフォン1』である。
基本的な形状は、にとりが無縁塚で拾ったスマートフォンを参考にしている。
片面の大部分を画面が占め、指先で触れることによって操作する仕組みも同様だった。画面を滑らせれば表示が切り替わり、小さな絵柄に触れれば対応する機能が起動する。
外の世界の人間が見れば、少々古めかしいスマートフォンだと思うかもしれない。
しかし、幻想郷に暮らす者たちにとっては、それだけでも十分に画期的な代物であった。
そして、何より目を引くのが端末の背面である。
そこには、鮮やかな緑色で描かれたキュウリのイラストが、堂々と配置されていた。
河童といえばキュウリ。
そのあまりにも分かりやすい意匠は、まるで自分たちが製造したことを全力で主張しているかのようだった。
実際、にとり自身はこのデザインを大層気に入っている。
外の世界のスマートフォンにも製造元を示す印が描かれていたことから、せっかくなら自分たちも何か印を付けようと思い立った結果である。
何を描くべきかについては、ほとんど悩まなかった。
キュウリ以外に何があるというのだろう。
そんな調子で決められた意匠だったが、製品の識別という本来の目的は十分に果たしている。
少なくとも、背面を見ただけで河童製だと分かることだけは間違いなかった。
「おー! ついに完成か!」
不意に入口の方から聞こえてきた声に、にとりは顔を上げた。
そこに立っていたのは、いつもの黒い魔女帽子を被った霧雨魔理沙である。
三ヶ月前、にとりにスマートフォンの複製を提案した張本人でもある彼女は、その後も何度か作業場を訪れていた。
開発がある程度進んだ段階では、実際に端末を使用して問題がないか確認するための協力も頼まれている。
もっとも、魔理沙本人にしてみれば、珍しい道具を一足先に使わせてもらえるというだけで、十分に魅力的な話だったのだが。
「お、魔理沙。ちょうど良かった、試作機はどうだった?」
にとりが声をかけると、魔理沙は待っていましたとばかりに懐から一台の端末を取り出した。
それは量産型よりも少し厚みがあり、背面のキュウリも描かれていない試作品だった。
「おう。かなりいいぜ。写真とかメモしかまだ使えないが、インターネットってやつが使えたらかなり便利なんだろ?」
「もちろん! むしろ、そこからが本番みたいなものだからね」
にとりは自信ありげに胸を張った。
試作機には、まだ十分な通信機能が備わっていなかった。
それでも、写真を撮影したり、文字を記録したりする機能は利用できるようになっていたため、魔理沙には日常生活の中で自由に使ってもらっていたのである。
実際に使った感想を聞く限り、操作方法もそれほど難しくはないらしい。
魔理沙は画面に指を滑らせ、保存されていた写真を表示した。
そこには、数日の間に撮影したのであろう様々な光景が収められている。
森の中に建つ彼女の家や、何やら奇妙な形をしたキノコ。箒を立てかけた室内の様子に、魔法の実験で使用したらしい道具まで写っていた。
なるほど、確かに写真機能は問題なく動作しているらしい。
しかし、その中の一枚を見たところで、にとりの視線が止まった。
「……本の写真はなに?」
画面に表示されていたのは、何冊もの本が並べられた書棚だった。
しかも、単なる風景写真というには、特定の本ばかりが目立つように撮影されている。
背表紙に書かれた題名まで判別できるほど鮮明であり、どう見ても偶然写り込んだものではなかった。
にとりが不思議そうに尋ねると、魔理沙は何でもないことのように答えた。
「次に借りる予定の本だぜ」
「盗むの間違いじゃないの?」
「失礼だな。死ぬまで借りるだけだぜ」
悪びれる様子すら見せない魔理沙に、にとりは呆れたような視線を向けた。
魔理沙の本好きは以前から知られているものの、その収集方法については少々問題がある。
特に紅魔館の図書館から本を持ち出しているという話は、幻想郷ではそれなりに有名だった。
本人はあくまでも借りているつもりらしいが、貸した側が同意しているかどうかについては、甚だ疑問が残るところである。
それにしても、次に持ち出す予定の本をわざわざ写真に収めているとは。
新しい道具を与えた結果、思わぬ用途に使われていることに、にとりは何とも言えない気分になった。
「それ、持ち主にちゃんと許可取ってるの?」
「細かいことを気にすると禿げるぜ」
「いや、細かくないと思うけど……」
にとりの指摘を聞こえなかったことにしたのか、魔理沙は手元の端末を操作して写真の画面を閉じた。
そして、いかにも今思いついたという様子で話題を変える。
「なあ、これ無償で配るのか?」
「まさか。それじゃあ私が大赤字だよ。ニトファイもニトフォンも有料」
にとりは即座に否定した。
そもそも、今回の開発には相当な時間と資材を費やしている。
試作品を作るだけでも決して安くは済まなかったうえ、量産に向けて製造設備を整え、仲間の河童たちにも協力してもらっていた。
さらに、スマートフォンを便利な通信機器として使用するためには、端末だけでは足りない。
通信を可能にするための設備と、それを維持するための仕組みが不可欠だった。
そこでにとりが用意したのが、ニトフォン向けの通信サービス『ニトファイ』である。
名前の由来は、もちろん外の世界に存在する無線通信技術からだった。
河童の技術によって幻想郷でも通信を利用できるようにするため、何度も実験を重ねて完成させたものである。
端末を販売するだけでなく、その通信サービスまで提供するとなれば、今後も設備の管理や保守に費用がかかる。
当然ながら、それらを全て無料で提供するつもりなど、にとりには毛頭なかった。
「ケチだなあ」
魔理沙が口を尖らせる。
「慈善事業じゃないんだよ」
にとりは腕を組み、きっぱりと言い切った。
確かに、技術者としては新しい発明を完成させただけでも十分に満足できる。
しかし、せっかく作り上げた製品なのだから、商売に結びつけたいと考えるのも自然なことだった。
ましてや河童たちは、技術の提供や商品の販売によって利益を得ることにも積極的な種族である。
幻想郷に新しい通信文化を広めるという壮大な計画であっても、採算を度外視する理由にはならない。
もっとも、にとりも魔理沙の協力については十分に感謝していた。
「まあ魔理沙はテスターと幻想郷に話を広めてくれたから、ニトフォンはサービスしてあげるよ」
「やったぜ」
途端に魔理沙の表情が明るくなった。
もともと彼女は、面白い道具や珍しい発明があれば、知り合いに話して回ることが多い。
今回も例外ではなく、試作機を使い始めてからというもの、訪れた先々でニトフォンについて話していた。
魔法の森にある自宅はもちろん、博麗神社や人間の里、時には紅魔館にまで足を運ぶ魔理沙の行動範囲は広い。
その彼女が新しい道具について宣伝して回ったのだから、少なくとも顔見知りの間では、それなりに話題になっていたのである。
にとりとしても、宣伝費を支払うことなく製品の存在を広めてもらえたのだから、端末一台くらいサービスしても損はない。
もちろん、魔理沙が純粋な善意だけで宣伝していたのかどうかは別の話だったが。
「ただし、壊したら修理代はもらうからね」
「分かってるって。それにしても、こういうのが幻想郷中に広まるってのは面白そうだな」
魔理沙は手元の試作機を眺めながら、愉快そうに笑った。
これまで幻想郷では、離れた相手に何かを伝えようとすれば、直接会いに行くか、誰かに伝言を頼むのが一般的だった。
しかし、ニトフォンが普及すれば、その常識も少しずつ変わっていくことになるだろう。
妖怪の山にいながら博麗神社へ連絡を取ることも、人間の里にいながら遠くの知人と会話することも、技術的には可能になる。
それがどれほど便利なことなのか、外の世界の事情を知らない魔理沙にも、何となく想像できた。
一方、にとりの頭の中では、すでに発売後の売れ行きについての計算が始まっていた。
何しろ、最初に製造した百台が売れれば、今後の増産にも弾みがつく。
通信サービスの利用者が増えれば、それだけ継続的な収入も見込めるだろう。
河童の技術を幻想郷中へ広めるという野望と、商売人としての利益。
その両方を実現できる可能性を秘めた新製品を前にして、にとりの期待は膨らむ一方だった。
◇ ◇ ◇
それから一週間後。
河童たちが満を持して発売した『ニトフォン1』は、予想を上回る反響を呼ぶこととなった。
事前に魔理沙があちらこちらで宣伝していたこともあり、販売開始前から興味を示す者は少なくなかった。
何より、手のひらに収まるほどの小さな機械で写真が撮影でき、文字を記録でき、さらには遠く離れた相手と連絡まで取れるというのだから、好奇心旺盛な幻想郷の住人たちが関心を持たないはずもない。
もちろん、全ての者が最初からその便利さを理解していたわけではなかった。
そもそも、スマートフォンという言葉自体を聞いたことがない者も多い。
しかし、実際に操作している様子を見せれば、話は変わってくる。
指先で画面を動かし、撮影した写真を表示する。小さな端末から音が聞こえ、文字や絵が次々と切り替わる。
その光景は、外の世界の技術を知らない者にとって、魔法の道具にも似た不思議なものだった。
そして、発売日を迎える頃には、最初の百台を求める購入希望者が次々と現れるようになっていた。
結果として、用意していたニトフォン1は瞬く間に完売。
同時に提供を開始した通信サービス『ニトファイ』にも契約希望者が殺到し、河童たちは嬉しい悲鳴を上げることとなった。
もっとも、にとり自身にとっては、想定を超える反響に喜んでばかりもいられなかった。
何しろ、百台では全く足りなかったのである。
追加生産に向けて部品を確保しなければならず、通信設備についても利用者の増加に対応できるよう、さらなる整備が必要になっていた。
それでも、自分の発明が幻想郷に受け入れられたという事実は、何よりも嬉しいものだった。
無縁塚で偶然拾った一台のスマートフォン。
それを分解し、研究し、試行錯誤を重ねて生み出した新製品が、今では多くの住人の手に渡り始めている。
そして、購入者の中には、幻想郷の成り立ちそのものに深く関わる、ある大妖怪の姿もあった。
◇ ◇ ◇
八雲紫。
幻想郷の賢者の一人であり、境界を操る程度の能力を持つスキマ妖怪である。
幻想郷と外の世界を隔てる博麗大結界にも深く関わる彼女は、外の世界の事情についても、並の住人とは比較にならないほど豊富な知識を持っていた。
もっとも、本人がその知識をどこまで周囲に明かしているかは、また別の話である。
そんな紫もまた、河童たちが新しい通信機器を開発したという噂を耳にしていた。
当初は、外の世界の携帯電話を参考にした簡単な機械でも作ったのだろうと考えていたのだが、実際に完成した製品を見て、その認識を改めることになった。
「あらあら……」
紫は手元のニトフォンを眺めながら、面白そうに目を細めた。
薄く平たい本体に、指先で操作できる画面。小型化された電子回路に、写真撮影や情報の記録といった機能まで備わっている。
さすがに外の世界の製品と比べれば、技術的に見劣りする部分はある。
しかし、それを差し引いても、河童たちが独力でここまでの機械を完成させたという事実は十分に評価できるものだった。
「まさか河童がスマホを作るとはねえ。まあ私のiPhone程では無いでしょうけど……ふふ」
どこか得意げに笑いながら、紫は何もない空間へ片手を差し入れた。
すると、彼女の目の前に黒い裂け目が現れ、その内部からいくつもの不気味な目玉が覗く。
彼女が自在に操る、空間の境界を利用したスキマである。
そこから取り出したのは、外の世界で販売されている最新式のスマートフォンだった。
洗練された外観に、高精細な画面。内部には最新の電子技術が惜しみなく投入されており、性能という点では河童製のニトフォンとは比べるべくもない。
紫はそれを片手に持ちながら、もう一方の手に収めたニトフォンと見比べた。
外の世界から自由に品物を持ち込める彼女にとって、スマートフォンなど特に珍しい道具ではない。
それどころか、外の世界の技術の進歩についても、必要に応じて確認することができる立場だった。
そんな紫からすれば、河童たちが今になってスマートフォンを開発したという出来事は、微笑ましいものですらあった。
ただし、幻想郷において使用できるという点に限れば、ニトフォンには独自の価値がある。
外の世界の通信設備を前提として作られたスマートフォンとは異なり、こちらは最初から幻想郷での利用を目的に開発された製品なのだ。
そのため、河童たちが構築した通信網に接続できるという点では、むしろニトフォンの方が都合がよい。
「それにしても、よく通信設備まで整えたものねえ」
紫は感心したように呟いた。
幻想郷という土地は、外の世界から隔絶されている。
そのような環境で独自の通信網を整備し、一般の住人が利用できる形にまで仕上げたのだから、単純な模倣品として片付けることはできない。
技術とは、必ずしも性能の高さだけで評価されるものではない。
その土地で必要とされる機能を備え、実際に利用できることにも、大きな意味があるのだ。
もっとも、紫が今回ニトフォンを購入した理由は、単に河童の技術力を評価するためだけではなかった。
幻想郷という閉ざされた世界に、新しい通信手段が普及する。
それが今後、住人たちの暮らしや妖怪同士の関係にどのような影響を及ぼすのか。
幻想郷の管理に携わる賢者として、興味を持つのは当然のことだった。
紫はひとまず自分のiPhoneをスキマへ戻すと、ニトフォンの画面に触れた。
表示されたのは、いくつもの小さな絵柄が整然と並んだ画面である。
基本的な操作方法は外の世界のスマートフォンと変わらないらしく、紫は特に戸惑うこともなく指を動かしていった。
写真、メモ、各種設定。
いずれも見慣れた機能だったが、その中に一つ、気になるものがあった。
「あら? アプリまで開発してたのね、あの河童」
紫の指先が、画面に表示された小さな絵柄の上で止まった。
そこには、見覚えのあるキュウリの印とともに、独特な名前が記されている。
「……ニトッター?」
紫はその名前を静かに読み上げた。
外の世界の事情に通じている彼女には、その名称が何を参考にしたものなのか、何となく察しがついた。
試しに指先で触れてみると、画面が切り替わり、文字を投稿するための機能や、他の利用者の投稿を表示するための項目が現れた。
なるほど。
どうやら河童たちは、単にスマートフォンという機械を作っただけでは飽き足らず、それを利用した独自のサービスまで用意していたらしい。
通信機器そのものの開発に加えて、利用者同士が情報をやり取りするための仕組みまで構築したというわけだ。
紫は画面を眺めながら、小さく笑みを浮かべた。
「なるほど、SNSってとこかしら?」
外の世界では、人々が日々の出来事や考えを気軽に発信し、時には見知らぬ相手と交流するための道具として、広く利用されているサービスである。
それが今、幻想郷にも誕生しようとしていた。
妖怪、人間、神々、幽霊、妖精。
様々な種族が入り混じり、それぞれ異なる価値観を持つ幻想郷の住人たちが、同じ場所で自由に言葉を交わす。
果たして、それはどのような光景になるのだろうか。
紫は改めて画面に目を落とすと、興味深そうにニトッターの操作を始めた。
その表情には、幻想郷の未来を見守る賢者としての好奇心と、単純に新しい玩具を見つけた妖怪としての愉快そうな笑みが、入り混じっていたのである。