ドラキュラ討伐を終えた英雄ラルフと、男性修道僧に身を偽ってきた女魔術師サイファ。
その身に秘めた強大な力ゆえに迫害されてきたラルフは、世間の欺瞞的な称賛を拒み、故郷の森へ戻ることを決める。
一方、正教会に戻れば魔女として処刑される運命にあったサイファも、自分を偽り続けてきた過去を捨て、自分らしく生きられる場所を求めてラルフと共に彼の一族の里へ旅立つ。

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私たちの帰るべき場所へ

 轟音と共に、天を突く暗黒の城が土煙の中に崩れ落ちていく。

 長い、本当に長い夜の終わりだった。

 切り立った崖の端に立ち、私たちはその光景をただ黙って見つめていた。

 

 大地を揺るがしていた振動が次第に収まり、立ち上る灰煙の向こうから、待ち望んでいた朝の光が差し込んでくる。漆黒の雲が引き裂かれ、黄金色の光線が世界を照らし出すのを、私はフードの奥から見つめていた。

 横に立つ男――ラルフ・C・ベルモンドは微動だにせず、その光を浴びている。真紅の鎧を血と煤で汚し、ベージュ色のマントを激しい風に揺らしながら、彼はただ静かに、滅びゆく混沌の残骸を凝視していた。

 

 彼の腰のベルトには、一族に伝わる神聖な鞭が静かに収まっている。その鋼の意志と人間離れした力で、彼は世界を破滅から救った。

 だが、その横顔には歓喜も、安堵すらも浮かんでいない。まるでこれが最初から決まっていた結果であったかのように、ただ息を整えているだけだった。

 

「終わったな」

 

 低く澄んだ声が彼の唇から漏れた。それが、私たちを縛りつけていた永い呪縛からの解放を告げる合図だった。

 

 

 城の崩壊を見届けたあと、私たちは人里を目指して歩き続けた。帰還の途上で私たちが目にしたのは、かつての平穏な営みの跡ではなく、魔物たちの蹂躙によって完全に滅ぼされた町だった。

 崩れ落ちた石造りの家々、焼き払われた畑、全く人影のない広場……風が通り抜けるたびに乾いた砂埃が舞い上がる。かつてここにあったであろう、人々の笑い声や日常の温もりを感じ取ろうとしても、残されているのは濃厚な死の気配だけだった。

 

 言葉にならない痛みが胸に込み上げてくる。なぜ、これほど多くの無辜の命が失われなければならなかったのだろうか。世界の不条理さと、救いきれなかった命への悔恨が、私の心を重く締めつける。

 

 町の中心部へ進むと、そこには周囲の廃墟を見下ろすように、一本の十字架を戴いた教会が佇んでいた。屋根の一部は崩落し、壁には爪痕のような無数の傷が刻まれていたが、その厳かな佇まいは、辛うじて聖域としての尊厳を保っているように見えた。

 私は聖杖を握り直し、教会の扉へと歩み寄った。ここで命を落とした魂たちのために、どうしても祈りを捧げたかった。

 

 扉に手をかけ、同行するラルフを振り返る。

 

「ラルフ、中へ……」

 

 だが、彼は教会の敷地の入口で足を止め、それ以上進もうとはしなかった。そして無表情のまま、教会の外へと続く古びた石階段を見つめ、首を横に振った。

 

「俺は外で待つ。お前だけで行ってくれ」

「どうして?」

「俺たちベルモンド一族は、その強大すぎる力ゆえに正教会から異端視され、迫害されてきた。人々に恐れられ、神の家からも拒絶された身だ。そんな俺が、今更この中に入る理由はない」

 

 淡々とした口調だった。そこには怒りも恨みもなく、ただ事実として自らの境遇を受け入れている、彼特有の合理性があった。

 彼はそう言うと、気にする様子もなく石階段に腰を下ろした。私はそれ以上、彼を説得することを諦めた。彼の言葉の裏にある、孤独に耐え抜いてきた一族の歴史の重みを思うと、胸が塞がれるようだった。

 同時に、彼はその孤独を哀れむことすら望んでいないことも分かっていた。

 

 私は小さく一礼し、一人で教会の内部へと足を踏み入れた。堂内はひんやりとしている。壊れた窓から差し込む光の筋の中に、埃が静かに舞っていた。

 奥へ進むと、辛うじて破壊を免れた小さな祈祷室が見つかった。壁には聖人たちの姿を描いたイコンが掲げられている。

 

 聖杖を壁に立て掛け、イコンの前に立つ。心を鎮め、右手を胸の前に持っていく。親指、人差し指、中指の三本の指の先をしっかりと合わせる。これは父と子と聖神の三位一体を表す。

 そして、残りの薬指と小指の二本を手のひらに深く曲げた。キリストが神であり、同時に人であるという二性を象徴する、我が正教会の古くからの不変の作法だ。

 

 合わせた三本の指を、まず額に、次に胸へと下ろし、そこから右肩、最後に左肩へと動かして、自らの体に十字を結ぶ。西方の教会とは逆の、右から左へと流れるその動きは、私の体に深く染みついた信仰の証だった。

 

「天の王、慰め主、真理の神、至る所に在りて一切を満たし、善の宝庫にして生命の施主なる者よ。来たりて我らの内に宿り、我らをすべての汚れから清めたまえ。慈悲深き者よ、我が魂を救いたまえ……」

 

 静寂に満ちた祈祷室に、私の囁くような祈祷が響く。目を閉じ、この町で無念の死を遂げたすべての人々の魂が、神の慈悲によって憩うことができるよう心から祈った。

 彼らの苦しみ、恐怖、そして絶望が、どうか永遠の安息へと変えられますように。

 

 そして、祈りは次第に自分自身の内面へと向かっていく。

 フードを深く被り直し、再び十字を描く。私の纏う青いローブとマントは、正教会の男性修道僧としてのものだ。

 私は自分が女性であることを隠し続けて生きている。もし、私が女であることが発覚すれば、待っているのは「魔女」という理不尽な誹りと、激しい炎に包まれる火炙りの刑だ。

 人を救うための力を持ちながら、その本質を偽らなければ生きられない。そんな自己の引き裂かれた現実に、私は常に深い孤独と恐怖を感じていた。

 

 ――神よ、私はいつまで自分を偽り続ければよいのでしょうか。私の本当の居場所は、この広い世界のどこにあるのでしょうか。

 

 何度も十字を結び、主の祈りを捧げるうちに、私の心は不思議と凪いでいった。自分の運命がどのようなものであれ、やるべきことは成したのだという静かな確信が胸の奥に灯っていた。

 

 

 祈りを終えて教会の外へ出ると、ラルフは私が残していった時と全く同じ姿勢で石階段に座っていた。その視線は、荒れ果てた町の遠くを見つめていた。

 私の足音に気づくと、彼は立ち上がることもなく、ただ顔だけをこちらに向けた。

 

「祈りは済んだか?」

「ええ。待たせてしまってごめんなさい」

 

 私は彼の隣にそっと腰を下ろした。二人の間に、心地よいとも言える静寂が流れる。

 私たちは並んで、この荒れ果てた町を眺めていた。魔物の脅威は去ったが、ここから新しい生活を築くには、あまりにも多くのものが失われていた。

 

 しばらくの沈黙の後、私は心の中に浮かんでいた問いを彼に投げかけてみた。

 

「ラルフ。これからどうするの?」

 

 ラルフは視線を遠くの地平線に向けたまま、迷いのない声で答えた。

 

「故郷に戻る」

「故郷に……」

「ああ。正教会にドラキュラ討伐の成功を報告すれば、これまで俺たちを迫害してきた連中も、手のひらを返したように英雄と崇めるだろうな。だが、俺はそんな欺瞞に満ちた称賛など望んでいない。人々が俺に求めるのは、魔物を殺すための都合のいい刃としての役割だけだ。用が済めば、またどうせ化け物扱いされる。俺が真に帰るべき場所は、俺の一族が静かに待つ、あの深い森の中だけだ」

 

 彼の言葉には、人間という存在の身勝手さに対する冷めた洞察が含まれていた。しかし、そこには悲観や諦めではなく、自分自身の生き方を完全に掌握している人間の強固な自立心があった。

 彼は他人の評価に惑わされず、ただ自分の現実を静かに見つめている。そんな彼の在り方が、私には少し羨ましく、そして眩しく思えた。

 

 ラルフはふと視線を私に戻し、感情の読めない瞳で見つめてきた。

 

「お前は、正教会に戻るのか?」

 

 その問いは、私の胸の最も深い、最も痛む場所に触れた。

 私は視線を落とし、握りしめた聖杖の木肌を見つめながら小さく息を吐いた。

 

「……いいえ。正教会に戻ったところで、私が女であることが知れたら魔女の誹りを受けて、待っているのは火炙りの刑でしょうから」

「そうだな……」

「私がこのまま正教会に戻らなければ、戦死者として記録されるだけのことよ。でも、そのほうがかえって都合が良いわ。もう自分を偽って、男のふりをして生きていく必要がなくなるのだから」

 

 私は心からの解放感を込めて、彼に向かって微笑んでみせた。仮面を脱ぎ捨て、本当の自分として生きられる自由が、すぐ目の前にあるような気がしたのだ。

 私の言葉を聞いたラルフの口元がわずかに綻ぶ。

 

「そういう考え方もあるな」

 

 彼はそう言うと、滑らかな動作で石階段から立ち上がった。

 ベージュのマントが風を孕み、小さく翻る。彼は私を見下ろし、いつもと変わらない無骨な、しかしどこか温かみを含んだ声で言った。

 

「一緒に行くか? 俺の故郷に」

 

 その言葉は、私の心を震わせるのに十分だった。

 彼の一族の里が、かつて人々から恐れられ、遠ざけられた場所であったとしても、そこには偽りのない真実があるはずだ。自分を隠すことなく、ありのままの自分でいられる場所として。

 私は満面の笑みを浮かべ、はっきりと答えた。

 

「ええ。そうするわ」

 

 私は聖杖を地面につき、その支えを借りて力強く立ち上がった。もう、後ろを振り返る必要はなかった。

 

 

 私たちは滅びた町をあとにして、ラルフの故郷を目指して歩みを進めた。

 整備された街道をしばらく歩いた後、ラルフは何の躊躇もなく道なき道へと足を踏み入れた。

 生い茂る草木をかき分け、私たちは深い森の中へと入っていく。

 サイファ、と心の中で自分の名を呼んでみる。もう私は誰のものでもない。私自身の足で歩いている。

 

 森を進むにつれ、周囲の景色が刻一刻と変化していく。木々の葉が、緑から仄かな黄色や赤へと色づき始めている。

 やがて、足元に確かな傾斜が現れ始めた。道は次第に険しくなり、巨岩や露出した木の根が私たちの行く手を阻む。

 カルパティア山脈に入ったのだろう。私は直感的にそう悟った。険しくも雄大な自然が、俗世の手からベルモンド一族を守る障壁となってきたのだ。

 

 私は聖杖をしっかりと地面に突き立てながら、一歩一歩、森に覆われた山を登っていった。

 徐々に空気が冷えていき、吐く息がうっすらと白く染まる。その寒さとは対照的に、周囲を取り囲むブナの原生林は、見る者を圧倒するほどの黄金色へとその色彩を増していった。

 

 見上げるほどの巨木たちが、鮮やかな葉を纏って天を支えている。木漏れ日がその葉に反射し、まるで森全体が自ら発光しているかのような、幻想的な美しさが広がっている。正教会の壮麗なモザイク画も美しいが、この神が創りたもうた自然の美しさは、私の魂を芯から震わせた。

 

 やがてブナの葉が山の斜面を埋め尽くした。行く手の木々の隙間に、いくつかの小さな影が見え隠れしている。それは、素朴な民家の屋根の連なりだった。

 

 先頭を歩いていたラルフが足を止め、その影を指差した。

 

「あれが俺の故郷だ。もうすぐ着くぞ」

 

 彼の声は、旅の終わりと、新しい始まりを告げていた。

 

 私は足を止め、夕日に輝く美しい木々に抱かれるようにして佇む、その小さな集落をじっと見つめた。

 西に傾いた太陽の光が、この森をさらに深く、神聖な色へと染め上げていく。

 

 人々から恐れられ、迫害され、歴史の闇に隠されてきたベルモンド一族の里。私の目に映るその場所は、不気味な魔境などではない。世界の何処よりも静かで気高く、そして平和に満ちた聖域のようだった。

 

「故郷……」

 

 私は胸の中でその言葉をそっと反芻した。

 正教会という偽りの籠を抜け出し、私はようやく、自分が自分として生きられる場所へと辿り着いたのだ。

 この寡黙で信頼できる男と共に、これから紡がれていく新しい日々のこと――そして、この美しい森がこれから私の本当の故郷となるのだという確信が、私の心を温かい感慨で満たしていった。

 

 深く息を吸い込み、冷涼で清らかな空気を胸いっぱいに満たす。再び前を歩き出したラルフの背中を追って、黄金の光の中へと一歩を踏み出した。


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