へカーティア・ラピスラズリ。
地獄の女神であり、地球、月、異界という三つの世界にそれぞれ身体を持つ神である。
本人は自分のことを『超強い』と評しているが、それは決して誇張でも虚勢でもない。彼女の実力は、数多の神々や妖怪が存在する幻想郷においてさえ規格外と呼べるものであり、その力の全貌を知る者は極めて少なかった。
もっとも、当の本人はそんな恐るべき力を持っていることなど、普段はまったく気にしていない。
気さくで自由奔放。興味を持ったことには積極的に首を突っ込み、面白そうなものがあれば気軽に見物に出かける。
そんな彼女が最近楽しんでいるのが、異界の観光であった。
世界というものは、何も一つだけではない。
地球や月、幻想郷はもちろんのこと、その外側にはまったく異なる法則によって成り立つ世界が無数に存在している。
ある世界では人間が高度な文明を築き、空を飛ぶ鉄の乗り物を当たり前のように使っている。また別の世界では、人間が魔法を操り、巨大な竜と共存していた。
中には地球とよく似た歴史を歩みながら、まったく異なる文化を発展させた世界もある。
神であるへカーティアにとって、そうした世界を渡り歩くこと自体は難しいことではなかった。
それぞれの世界に暮らす者達からすれば、世界の壁を越えるなど想像すらできない偉業なのだろうが、彼女にとっては少し遠くまで散歩に出かける程度の感覚である。
そして今日もまた、へカーティアは異界と異界の狭間を気ままに歩いていた。
「いやあ色々な世界があるわね。見てて飽きないわねん」
上機嫌に呟きながら、へカーティアは周囲に広がる不思議な空間を眺めていた。
そこには空も大地もなく、上下左右という概念すら曖昧な世界が広がっている。遠くには無数の光が浮かび、それぞれが異なる世界へと繋がっていた。
どこへ行こうか。
次はどんな世界を見物しようか。
そんなことを考えながら、彼女は鼻歌交じりに歩いていた。
しかし、いかに規格外の実力を持つ女神であろうと、注意力まで完璧というわけではない。
次の世界に思いを馳せながら踏み出した足が、何も存在しない空間を捉えた。
「あら?」
足元にあるはずの感触が消えた。
身体がぐらりと傾き、へカーティアは反射的に手を伸ばしたものの、当然ながら掴まるものなど存在しない。
「ちょっ………!?きゃあああ!?」
次の瞬間、地獄の女神は間の抜けた悲鳴を上げながら、異界の狭間へと真っ逆さまに落下していった。
本来であれば、落下したところでどうということもない。
彼女ほどの存在ならば、空中で静止することも、好きな場所へ移動することも造作もないことなのだから。
ただ、あまりにも突然だった。
そして、何より本人が驚いていた。
こうして、幻想郷においても規格外の存在として知られる女神は、本人にすら予想できない形で、とある世界へと迷い込むことになったのである。
――――――
夜の木ノ葉隠れの里。
本来であれば、家族と共に夕食を終えた人々が眠りにつき、静けさに包まれているはずの時間帯だった。
しかし、その日の木ノ葉に安息など存在しなかった。
夜空を焦がす炎。
倒壊する家屋。
耳をつんざく悲鳴と、絶え間なく響く爆発音。
忍の五大国、その一つである火の国に属する木ノ葉隠れの里は、未曾有の大災害に見舞われていた。
原因は明白だった。
里の中心部に君臨する、巨大な九本の尾を持つ狐。
九尾。
尾獣と呼ばれる規格外のチャクラを持つ存在の中でも、特に強大な力を誇る怪物である。
その巨体は建物を遥かに凌駕し、九本の尾が動くたびに周囲の家屋が薙ぎ払われていく。
鋭い爪が地面を抉り、巨大な足が人々の営みを踏みにじる。
ただ暴れているだけで街並みが破壊され、人々の命が失われていった。
「怯むな! なんとしても九尾を里の外へ追い出すんだ!」
「避難誘導を急げ! 民間人を一人でも多く逃がせ!」
「くそっ、あんな化け物をどうやって止めろっていうんだ!」
木ノ葉の忍達は必死だった。
ある者は九尾の注意を引きつけるために忍術を放ち、ある者は崩れ落ちた建物から住民を救出し、またある者は逃げ遅れた子供を抱えて炎の中を走り抜ける。
だが、その奮闘も九尾の圧倒的な力の前にはあまりにも無力だった。
数人がかりで放った火遁は毛皮を焦がすことすらできず、無数の手裏剣や起爆札も巨体を傷つけるには至らない。
それどころか、攻撃を受けた九尾が苛立たしげに尾を振るうだけで、立ち向かった忍達はまとめて吹き飛ばされてしまう。
「ぐああああっ!」
「隊長!」
「構うな! お前達は避難を――!」
叫び声は最後まで続かなかった。
巨大な尾が地面を叩きつけ、巻き上がった土煙が周囲を覆い尽くした。
ほんの数秒前まで仲間が立っていた場所には、もはや何も残っていない。
それでも、生き残った忍達は逃げなかった。
自分達が退けば、その後ろにいる家族や仲間が殺される。
だからこそ、勝ち目が薄いと理解していても、彼らは九尾の前に立ち続けていた。
「猿飛様! 九尾の進撃が止まりません!」
「わかっておる!」
報告を受けた三代目火影、猿飛ヒルゼンは険しい表情で九尾を見据えた。
既に火影の座を四代目へと譲っているとはいえ、彼もまた木ノ葉を守る忍の一人である。
里が危機に瀕している以上、黙って見ているという選択肢など存在しなかった。
ヒルゼンは周囲の忍達へ次々と指示を飛ばしながら、九尾を里の外へ追いやる方法を模索していた。
しかし、状況はあまりにも悪い。
九尾の力は常識外れであり、並の忍術では足止めにすらならない。しかも周囲には多数の民間人が残されているため、大規模な術を無闇に使うこともできなかった。
「ミナト……!」
ヒルゼンは苦々しく呟いた。
その視線の先、火影岩の近くでは、金色の髪を持つ一人の青年が九尾と対峙していた。
四代目火影、波風ミナト。
黄色い閃光の異名を持ち、忍界大戦において幾多の戦果を挙げてきた木ノ葉の英雄である。
しかし、そんな彼でさえ、今回の事態には苦戦を強いられていた。
先程、九尾は口内に膨大なチャクラを収束させ、巨大な黒い球体を形成した。
尾獣玉。
尾獣が使用する、凄まじい破壊力を秘めた攻撃である。
その一撃が里に直撃すれば、どれほどの犠牲者が出るかわからない。
ミナトは飛雷神の術を応用した時空間忍術によって、放たれた尾獣玉を遠方へ転送することに成功していた。
だが、それで終わりではなかった。
九尾は既に次の攻撃を準備している。
巨大な口を開いた怪物の前方で、赤黒いチャクラが再び凝縮され始めていた。
「流石だね九尾……!こちらはまだ用意が終わってないんだけどね……!」
ミナトの額を汗が伝った。
先程の尾獣玉はなんとか防いだ。しかし、同じ規模の攻撃を何度も連続して対処することは容易ではない。
ましてや、今は九尾の襲撃だけに集中できる状況でもなかった。
仮面の男。
九尾を操っていた謎の敵。
そして、妻であるクシナと、生まれたばかりの息子。
考えなければならないことはいくらでもあった。
それでもミナトは目の前の脅威から視線を外さない。
自分がここで退けば、木ノ葉は壊滅する。
火影として、それだけは絶対に許すわけにはいかなかった。
九尾の口内で尾獣玉が膨張していく。
周囲の空気が震え、凄まじいチャクラの圧力が里全体を覆い始めた。
「まずい……!」
ミナトが次の行動へ移ろうとした、その時だった。
「きゃあああああああ!?」
突如として、場違いな女性の悲鳴が夜空に響き渡った。
もっとも、九尾の咆哮と人々の悲鳴、絶え間ない爆発音に包まれた戦場において、その声に注意を向ける余裕のある者などほとんどいなかった。
異変が起きたのは、九尾の目前に広がる空間である。
何の前触れもなく、そこに一人の女性が現れた。
いや、正確には落ちてきた。
何もない空中から突然姿を現した女性は、両手をばたつかせながら地上へ向かって落下していた。
奇妙な服装だった。
赤を基調とした衣装に、どこか異国を思わせる装飾。そして何より特徴的なのが、首から伸びる鎖と、その先に繋がれた球体である。
忍の装束とは似ても似つかない。
もっとも、この女性は忍などではない。
地獄の女神、へカーティア・ラピスラズリ。
異界の狭間に足を踏み外した彼女が、偶然にもこの世界へと辿り着いてしまったのである。
「はあ……良かった。止まれた……ん?なにあれ」
落下していたへカーティアは、地面に激突する寸前で体勢を立て直すと、何事もなかったかのように空中で静止した。
周囲には燃え盛る建物が立ち並び、耳をつんざくような悲鳴が響いている。
一体どんな世界へ落ちてしまったのだろう。
そう考えながら辺りを見回した彼女の視界に、巨大な狐が飛び込んできた。
「……あら?」
大きい。
とにかく大きい。
その身体は周囲の建物を軽々と見下ろし、全身からは尋常ではない力が溢れている。
獣の姿をしているものの、普通の動物でないことは明らかだった。
しかし、へカーティアが最初に興味を持ったのは、その大きさでも力でもなかった。
「しっぽが1……3……9……あら。藍みたいね」
彼女の脳裏に浮かんだのは、幻想郷に住む一人の妖狐だった。
八雲藍。
九本の尾を持ち、八雲紫の式神として仕えている妖怪である。
もっとも、目の前にいる狐は、藍のような可愛らしい存在ではなさそうだった。
何しろその巨大な口からは禍々しい力が溢れ、周囲の建物は炎に包まれている。
おまけに、どうやら機嫌も相当に悪いらしい。
「んー……?」
へカーティアは首を傾げた。
九尾の口元で膨れ上がる黒い球体。
そこに途方もない力が凝縮されていることは、見ただけで理解できた。
ただし、彼女にとってはそれだけのことである。
危険な力であることはわかるが、だからといって自分が脅かされるようなものではなかった。
そして九尾もまた、突然現れた見知らぬ女に特別な関心を向けることはなかった。
人間が一人増えたところで、何が変わるというのか。
九尾は巨大な口を開き、凝縮した尾獣玉を解き放った。
轟音と共に放たれた黒い球体が、空気を震わせながら一直線に突き進む。
その進路上には、今まさに空中で首を傾げているへカーティアの姿があった。
「え、なんで私目掛けて撃ってくるの?」
へカーティアは不思議そうに呟いた。
別に何かをした覚えはない。
それなのに、見知らぬ狐から突然攻撃されている。
随分と物騒な世界に来てしまったものだ。
そんな彼女とは対照的に、周囲の忍達は絶望していた。
「逃げろおおおおっ!」
「間に合わねえ! もう駄目だ!」
先程と同じ攻撃が、再び里へ向けて放たれた。
ミナトが一度は防いでくれたものの、今度も間に合うとは限らない。
忍達は必死に人々を逃がそうとし、ある者は身を挺してでも被害を抑えようと前へ出た。
だが、尾獣玉は既に目前まで迫っている。
その破壊力を知る者達は、誰もが最悪の結末を覚悟した。
しかし。
尾獣玉の進路上にいた女性だけは、まるで危機感を抱いていなかった。
「もう、危ないわねえ」
へカーティアは軽く右手を持ち上げた。
そして、自分へ向かって飛んでくる巨大な球体に対し、邪魔なものを払いのけるように手を振った。
ただ、それだけだった。
直後。
凄まじい破壊力を秘めた尾獣玉が、突如として軌道を変えた。
それまで一直線に地上を目指していた黒い球体は、何かに弾かれたかのように急激に進路を変え、夜空へと舞い上がっていく。
そして、遥か上空で爆発した。
轟ッ!!
夜空に巨大な閃光が広がり、遅れて凄まじい爆音が響き渡った。
衝撃波によって上空の雲が吹き飛び、夜の闇が一瞬だけ昼間のように明るく照らされる。
しかし、地上に被害はなかった。
あれほど巨大な破壊力を秘めていた尾獣玉が、誰一人傷つけることなく空の彼方で爆発したのである。
「え、あんなの街にぶつけるつもりだったの?物騒すぎないかしら……というかこの世界怖いわ」
自分が何をしたのかなど、まるで理解していない様子でへカーティアは呟いた。
その物騒な力を片手で弾き飛ばした女神の方が遥かに恐ろしいのだが、本人にその自覚はない。
何より、この場にいる者達は誰も彼女の存在に気づいていなかった。
突然現れた女性よりも、迫り来る尾獣玉と九尾に意識を奪われていたのである。
「た、助かった……?」
「今のは……?」
「ミナト様だ! 四代目様が助けてくださったんだ!」
「火影様が守ってくれたぞ!」
一人の忍が歓声を上げると、それに釣られるように周囲の忍達も声を上げ始めた。
無理もなかった。
先程の尾獣玉を防いだのはミナトだったのだ。
ならば、今回も彼が何らかの忍術によって攻撃を逸らしてくれたのだろう。
誰もがそう考えていた。
ただし、当のミナトだけは違った。
「……え?」
思わず声が漏れた。
ミナトは九尾を見据えたまま、目の前で起きた現象を理解しようとしていた。
確かに自分は、尾獣玉を迎え撃つために行動しようとしていた。
しかし、実際には何もしていない。
飛雷神の術も使用していなければ、他の忍術を発動したわけでもなかった。
それなのに、尾獣玉は突然進路を変えたのである。
しかも、先程自分が行った時空間転送とは明らかに違う。
球体が消えたわけではない。
何らかの力によって、物理的に弾かれたように見えたのだ。
「一体……何が起きたんだ?」
ミナトは周囲に視線を走らせた。
何者かが介入した可能性がある。
だが、それらしい術者の姿は見当たらない。
もし忍術によるものだとすれば、どのような術を使えばあれほど巨大な尾獣玉の軌道を変えられるというのか。
ミナトの疑問に答える者は、どこにもいなかった。
一方、九尾は苛立たしげな唸り声を上げていた。
放ったはずの尾獣玉が突然空へ飛んでいった。
何が起きたのか理解できない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
尾獣玉が効かないのであれば、直接破壊すればよい。
九尾は巨大な尾を持ち上げると、怒りをぶつけるように周囲の建物へと叩きつけた。
「ぐおおおおおおおっ!!」
凄まじい咆哮と共に、再び破壊が始まった。
尾が振るわれるたびに家屋が崩れ、地面が抉られ、人々が吹き飛ばされる。
「うわああああっ!」
「誰か! 助けて!」
「母ちゃん! 母ちゃああん!」
泣き叫ぶ子供。
瓦礫の下敷きになった家族を必死に助けようとする男。
九尾を食い止めようとして、巨大な尾に薙ぎ払われる忍達。
目の前に広がる光景は、まさしく地獄だった。
「…………」
へカーティアは黙ってその様子を見つめていた。
先程まで浮かべていた気楽な笑みが、少しずつ薄れていく。
彼女は神である。
しかも、今いる世界とはまったく異なる場所からやってきた異界の神だ。
この世界がどのような歴史を歩み、どのような法則によって成り立っているのか、まだ何も知らない。
そんな自分が安易に介入するべきではないだろう。
神という存在は、人間にとってあまりにも大きな影響力を持っている。
善意で行ったことが、必ずしも人間達のためになるとは限らない。
だからこそ、へカーティアは異界を観光する際、基本的にはその世界の営みに干渉しないようにしていた。
もちろん、少しくらいの交流ならば構わない。
人間達と話をしたり、その土地の料理を楽しんだり、面白そうな祭りを見物したり。
そうした些細な関わりまで避けるつもりはなかった。
しかし、今目の前で起きているのは、それとはまったく別の話である。
巨大な狐が暴れ回り、抵抗する力を持たない人々を無差別に殺している。
逃げ惑う人々の中には、小さな子供もいた。
建物の陰では、母親らしき女性が幼い子供を抱き締め、必死に身を守ろうとしている。
その頭上へ、九尾の巨大な尾が迫っていた。
女性は子供を庇うように覆い被さり、強く目を閉じた。
「……あらあら」
へカーティアは小さく溜息をついた。
確かに、異界の神が人間の世界に介入するのは好ましくないかもしれない。
しかし、だからといって、目の前で無抵抗な人々が殺されるのを黙って見ている必要があるのだろうか。
少なくとも、彼女はそうは思わなかった。
「ダメよん。神様の前で殺しちゃ」
どこか困ったように呟くと、へカーティアは右手を持ち上げた。
そして、九尾へ向けて軽く振り下ろした。
「はい、おすわり」
その瞬間だった。
ドズンッ!!
九尾の巨体が、突然地面へと押しつけられた。
「グオッ!?」
巨大な狐の口から、困惑したような声が漏れた。
何が起きたのかわからない。
つい先程まで自由に動いていた身体が、突然何かに押さえつけられたのだ。
頭部が地面へと沈み、四本の足が強制的に折り畳まれる。
周囲を薙ぎ払おうとしていた九本の尾までもが、見えない何かに捕らえられたかのように動きを止めた。
九尾は反射的に身体を起こそうとした。
しかし、動かない。
足に力を込めても、爪で地面を掴もうとしても、身体はまったく言うことを聞かなかった。
いや、それどころではない。
指一本、尾の先端一つ動かすことすらできない。
「グルルルル……!」
九尾は怒りに任せて唸り声を上げた。
だが、どれほど力を込めても状況は変わらない。
まるで世界そのものが、自分の身体をその場所へ固定してしまったかのようだった。
九尾は知らない。
自分を拘束しているのが、忍術でも幻術でも封印術でもないことを。
そもそも、この世界の法則に従った力ですらないことを。
ただ一人の女神が、軽く手を振っただけであることを。
「なっ……!?」
少し離れた場所で、ヒルゼンが目を見開いた。
先程まで暴れ回っていた九尾が、突然地面へ押さえつけられたのである。
その巨体は不自然なほど完全に静止し、何度も身をよじろうとしているにもかかわらず、まったく動く気配がなかった。
「九尾が……止まった?」
周囲の忍達も呆然としていた。
「封印術か!?」
「いや、誰も印を結んでいないぞ!」
「一体何が起きているんだ……?」
ヒルゼンは九尾の様子を注意深く観察した。
九尾の力が失われたわけではない。
その身体からは依然として膨大なチャクラが溢れている。
それなのに、動けない。
力で押さえつけられているというより、動くこと自体を許されていないように見えた。
ヒルゼンほどの経験を持つ忍であっても、理解の及ばない現象だった。
そんな騒ぎをよそに、へカーティアは悠々と地面へ降り立った。
「んー……」
彼女は目の前で地面に押さえつけられている巨大な狐を見上げた。
近くで見ると、やはり随分と大きい。
それに、力も相当なものらしい。
少なくとも、この辺りの人間達では簡単に対処できないことは理解できた。
「んーこのままだとまた貴方暴れるわよね?とりあえず外に出したらいいかしら」
へカーティアは腕を組みながら考えた。
この狐が何者なのかは知らない。
何故暴れているのかもわからない。
もしかすると何か事情があるのかもしれないが、今はそれを確かめている場合ではなさそうだった。
何しろ周囲には怪我人が大勢いる。
人間達が落ち着いて対応するためにも、とりあえず危険な存在には街の外へ出てもらった方がいいだろう。
へカーティアはそう判断した。
「それじゃあ、ちょっと失礼するわねん」
そう言って、彼女は九尾の拘束を解いた。
瞬間、九尾の巨体が跳ね上がった。
「グオオオオオオオッ!!」
怒りに満ちた咆哮が響き渡る。
突然動けなくなったことへの困惑。
何者かに拘束されたことへの屈辱。
そして、その原因と思われる存在が目の前にいることへの激怒。
九尾は自分のすぐ近くに立つ小さな女を睨みつけた。
先程まで気にも留めていなかった存在。
しかし、今は違う。
目の前の女が何者なのかなど、もはやどうでもよかった。
ただ、この女を八つ裂きにしてやる。
九尾は巨大な前足を振り上げた。
鋭い爪が夜空を切り裂き、へカーティア目掛けて振り下ろされる。
その一撃は、大岩でさえ容易く粉砕するほどの力を秘めていた。
普通の人間であれば、触れた瞬間に肉片すら残らないだろう。
しかし。
ガシッ。
九尾の爪は、へカーティアの目前で止まった。
「…………?」
九尾は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
自分の爪が動かない。
いや、違う。
止められている。
目の前の女が、片手で自分の爪を押さえていた。
「グ……?」
九尾は力を込めた。
当然ながら、その巨大な前足には凄まじい力が宿っている。
しかし、びくともしない。
さらに力を込める。
それでも動かない。
まるで巨大な岩盤にでも引っ掛かったかのように、爪はその場から一寸たりとも進まなかった。
その一方で、へカーティアは涼しい顔をしていた。
「あらあら、元気ねえ」
何とも気楽な感想だった。
九尾にしてみれば、冗談ではない。
自分は全力で目の前の女を叩き潰そうとしているのだ。
それなのに、この女はまるで子供の悪戯でも受け止めたかのように笑っている。
へカーティアは九尾の爪から手を離すと、軽く身体を捻った。
そして、にっこりと笑った。
「とりゃ!」
次の瞬間。
彼女の足が九尾の巨体を捉えた。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい衝撃音が響き渡った。
九尾の身体が、くの字に折れ曲がる。
「グオオオオオオオッ!?」
それまで地上に君臨していた巨大な狐が、まるで蹴り飛ばされた小石のように宙へと浮き上がった。
九本の尾が激しく揺れ、巨大な四肢が空を掻く。
九尾は何が起きたのか理解する暇さえなかった。
ただ、凄まじい力によって自分の巨体が持ち上げられ、猛烈な勢いで吹き飛ばされていることだけはわかった。
その巨体は放物線を描きながら木ノ葉の上空を通過し、里を囲む外壁を遥かに飛び越えていく。
そして。
ズドオオオオオオオンッ!!
遠方の森林地帯から凄まじい衝撃音が響き、巨大な土煙が夜空へと立ち上った。
九尾は里の外へと吹き飛ばされたのである。
「よし。これでいいわねん」
へカーティアは満足そうに頷いた。
少なくとも、これで街の中で暴れられる心配はなくなっただろう。
あとは、この世界の人間達が何とかするはずだ。
もしかすると、あの狐にも何か事情があったのかもしれない。
しかし、それについては彼ら自身で解決してもらえばいい。
自分はあくまで通りすがりの異界の神。
あまり深く関わるべきではないのだ。
そう考えながら、へカーティアは軽く両手を払った。
「さて、それじゃあ観光の続きでも――」
そこで、ふと気づいた。
妙に静かだった。
つい先程まで悲鳴や怒号が飛び交っていた周囲から、ほとんど音が聞こえてこない。
不思議に思って顔を上げると、少し離れた場所に何人もの人間が立っていることに気づいた。
彼らは一様に、九尾が吹き飛んでいった方角を見つめていた。
口を開けたまま固まっている者。
手に持っていた武器を取り落とした者。
何度も目を擦り、自分が見た光景を確かめようとしている者。
誰もが言葉を失っていた。
無理もない。
彼らが今まで必死になって戦っていた相手は、九尾である。
忍の五大国において、その名を知らない者などほとんど存在しない。
尾獣の中でも特に強大な力を持ち、かつて初代火影である千手柱間が戦ったことでも知られる怪物。
そんな存在が、突然空を飛んだのだ。
しかも、術によって転送されたわけではない。
何かに殴られたか、蹴られたかのような勢いで、文字通り吹き飛んでいったのである。
「…………」
「…………」
沈黙が続いた。
やがて、一人の忍が震える声を漏らした。
「……九尾が……飛んだ?」
隣にいた忍も、呆然としたまま答える。
「あ、ああ……飛んだな……」
「……誰がやったんだ?」
「知らん……」
「火影様の術か?」
「いや……あんな術、聞いたことがないぞ……」
困惑は瞬く間に広がっていった。
当然、その光景を目撃していたのは一般の忍達だけではなかった。
「…………」
ヒルゼンは言葉を失っていた。
長い忍人生において、彼は数え切れないほどの強敵と戦ってきた。
忍術の数々を学び、様々な血継限界を目にし、初代火影や二代目火影といった伝説的な忍達の力も知っている。
そんな彼でさえ、今の現象を説明することができなかった。
九尾が突然拘束された。
次に、何かを攻撃しようとして動きを止めた。
そして最後には、里の外まで吹き飛ばされた。
その一連の出来事に、彼の知る忍術らしい兆候は何一つ見当たらなかった。
「……何者かが、九尾に干渉しておる?」
ヒルゼンは周囲へ鋭い視線を走らせた。
何者かがこの場にいる。
少なくとも、九尾に対して何らかの行動を起こせる存在が。
しかし、その正体はわからない。
敵なのか、味方なのか。
あるいは、まったく別の目的を持った第三者なのか。
同じ頃、ミナトもまた九尾が吹き飛んだ方角を見つめていた。
「……信じられない」
思わずそんな言葉が漏れた。
あれほど巨大な九尾を、純粋な衝撃によって里の外まで吹き飛ばす。
一体どれほどの力が必要なのだろう。
そもそも、何をすればそんなことが可能なのか。
先程の尾獣玉といい、九尾の拘束といい、理解できない現象が立て続けに発生していた。
そして、それらはすべて木ノ葉を救う方向に働いている。
偶然とは考えにくかった。
「……誰かが助けてくれたのか?」
ミナトは小さく呟いた。
だが、誰が。
何のために。
疑問ばかりが浮かんでくる。
火影としては、その正体を確かめなければならない。
九尾を容易く退けられる存在がいるというのなら、なおさらだった。
しかし、ミナトが改めて周囲を見渡した時には、既にその人物の姿はどこにもなかった。
何故ならば。
「あ……やばいわ!これめちゃくちゃ目立ってる?」
へカーティアもまた、ようやく自分の行動が少々派手だったことに気づいたからである。
周囲の人間達が、あまりにも静かになっている。
先程まで命懸けで戦っていた相手を、いきなり遠くまで蹴り飛ばしたのだ。
冷静に考えれば、確かに少々目立つ行動だったかもしれない。
「……あら?」
へカーティアは首を傾げた。
もしかして、やりすぎた?
本来であれば、異界の神としての力はなるべく隠しておくつもりだった。
何しろ、この世界に来たばかりなのだ。
土地の事情も、人間達の文化も、そもそもあの巨大な狐が何者なのかさえわかっていない。
そんな状況で自分の力を大っぴらに見せつけるなど、少々軽率だったのではないだろうか。
「と、とりあえず隠れましょ!」
そう結論づけると、へカーティアは周囲の人間達が自分を認識するよりも早く、その場から姿を消した。
誰にも気づかれないよう、ほんの少しだけ力を使って。
何しろ彼女は異界を渡り歩く神である。
人間達の目を欺いて姿を隠すことなど、文字通り朝飯前だった。
こうして、木ノ葉隠れの里を未曾有の危機から救った女神は、名乗ることも、感謝されることもなく姿を消した。
その行動に、特別な目的があったわけではない。
ただ偶然、異界の狭間から落ちてきた。
そして、目の前で人々が殺されていたから、少しだけ手を貸した。
本人にとっては、それだけの出来事だった。
しかし。
木ノ葉の忍達にとっては、決してそれだけでは済まされない。
九尾の尾獣玉が突然空へ弾かれた。
何者かの力によって巨体が拘束された。
そして、最後には九尾そのものが里の外まで吹き飛ばされた。
そのすべてが、ほんの僅かな時間の間に起きたのである。
誰が。
何のために。
そして、どのような方法で。
数々の疑問を残したまま、九尾襲撃事件は新たな局面を迎えようとしていた。
もっとも、当のへカーティアはそんなことなど知る由もない。
人目につかない場所へ移動した彼女は、ようやく落ち着いた様子で周囲を見回していた。
「ふう……危なかったわねん」
危なかったのは、果たして誰のことなのだろうか。
少なくとも、九尾ではない。
先程まで木ノ葉を恐怖に陥れていた怪物は、今頃里の外で地面にめり込んでいることだろう。
へカーティアはそんなことを考えるでもなく、どこか楽しそうに微笑んだ。
「それにしても、随分と変わった世界に来ちゃったわねえ。あんな大きな狐がいるなんて、ちょっと面白そうじゃない?」
どうやら、当分は退屈せずに済みそうだった。
こうして、地獄の女神へカーティア・ラピスラズリの忍界観光が始まった。
この世界の人間達は、まだ知らない。
自分達の暮らす世界に、どれほど規格外の存在が迷い込んでしまったのかを。
そして、その女神がこれから忍界の歴史に、どのような影響を与えることになるのかを。
それは、誰にもわからなかった。