木ノ葉隠れの里を襲った未曾有の災厄。
九尾という巨大な狐の襲撃によって、里は見るも無残な姿へと変わり果てていた。
あちらこちらで建物が倒壊し、燃え盛る炎が夜空を赤く染め上げている。道路には砕けた瓦礫が散乱し、先程まで人々の生活が営まれていた家々も、今では原形を留めていないものが少なくなかった。
それでも、つい先程まで響き渡っていた九尾の咆哮は聞こえなくなっていた。
当然である。
里を襲っていた張本人は、現在進行形で遥か遠くの森林地帯へと吹き飛ばされているのだから。
その原因を作ったへカーティア・ラピスラズリは、そんな騒動などどこ吹く風といった様子で、夜の木ノ葉を歩いていた。
もっとも、本人なりに反省していないわけではない。
九尾を蹴り飛ばした直後、周囲の人間達が呆然としていた光景を思い出すと、少々やりすぎたような気がしていた。
異界の神が、その世界の人間達の営みに無闇に干渉するべきではない。
それが今回の観光において彼女が決めていた方針だった。
ところが、実際にこの世界へ来てみればどうだろう。
到着して早々に巨大な狐から攻撃され、その攻撃を弾き飛ばした挙げ句、暴れていた狐を地面へ押さえつけ、最後には思い切り蹴り飛ばしてしまった。
我ながら、なかなか派手なことをしたものである。
「んー……ちょっとやりすぎたかしらねえ」
へカーティアは苦笑しながら呟いた。
とはいえ、後悔しているわけではない。
あのまま放置していれば、さらに多くの人間が命を落としていたことだろう。
それを考えれば、あの程度の介入は仕方がなかったとも思う。
ただ、一つだけ気になることがあった。
それは、先程蹴り飛ばした狐のことである。
あの巨大な狐は相当に頑丈そうだったし、あれくらいで死ぬとも思えない。
そもそも、殺すつもりで蹴ったわけでもない。
しかし、里の外へ追い払ったことで、今度は別の場所に被害が及ぶ可能性があった。
もし他の街で暴れ始めたら、結局は被害が増えるだけである。
そう考えると、少々無責任なことをしてしまったかもしれない。
「まあ、後で様子を見に行けばいいわよねん」
そう結論づけると、へカーティアは再び歩き始めた。
もっとも、今の彼女は先程までとは少しだけ姿が違っていた。
特徴的な赤い衣装は、何処からか拾ってきた大きな布によって覆われている。
九尾を蹴り飛ばした際、周囲の人間達が自分の方を見ていたような気がしたため、念のため変装することにしたのだ。
その結果、彼女は落ちていた布を頭から羽織り、なるべく目立たないように歩いていた。
無論、一般的な忍の装束とはまったく異なる格好であり、客観的に見れば十分に怪しい。
しかし、当の本人はなかなか満足しているらしい。
「この服気に入ってるけどーまあ仕方ないわねー」
布の隙間から自分の衣装を見下ろし、へカーティアは少しだけ残念そうに呟いた。
彼女にとって、普段着ている衣装はお気に入りの一着である。
異界の観光だからといって、わざわざ着替えるつもりもなかった。
しかし、今回ばかりは仕方がない。
何しろ、この世界の人間達がどのような服装をしているのかさえ、まだよくわかっていないのだから。
とりあえず目立たなければ問題ないだろう。
そう考えながら、へカーティアは周囲の様子を観察した。
「負傷者をこちらへ運べ!」
「医療班はまだか!?」
「火影様が九尾を里の外へ追いやってくださったらしい!」
「四代目様はどうされた!?」
あちらこちらから、慌ただしい声が聞こえてくる。
どうやら、この里には火影と呼ばれる人物がいるらしい。
先程から何度も耳にしている言葉だった。
火影。
一体どのような意味なのだろう。
炎に関係する役職なのか、それとも何か特別な力を持つ者に与えられる称号なのか。
へカーティアには見当もつかなかったが、周囲の人間達の反応を見る限り、相当に偉い人物であることは間違いなさそうだった。
「四代目火影……ねえ。四代目ってことは、何人かいるのかしら?」
どうやら、その四代目火影という子が、今も頑張っているらしい。
先程チラリと見かけた金色の髪の青年を思い出す。
まだ随分と若そうだったが、周囲の人間達からは強い信頼を寄せられているようだった。
きっと、あの子がこの里の偉い人なのだろう。
もっとも、それ以上詳しく調べるつもりはなかった。
彼女はあくまで観光客なのだ。
「全くとんでもない世界だわ。あちこちから死の匂いがするし……私の地獄の方がマシなくらいに」
へカーティアは周囲を見渡しながら、呆れたように溜息をついた。
地獄の女神が、自分の管理する地獄と人間の街を比較する。
それだけでも十分に恐ろしい話だったが、幸いにも彼女の発言へ突っ込む者は誰もいなかった。
もっとも、へカーティアの感想にも理由はある。
彼女は地獄を知っている。
死者の魂が集まり、罪を犯した者には相応の罰が与えられる場所。
そこには人間達が想像する以上に様々な存在が暮らしており、当然ながら穏やかな場所ばかりではない。
しかし、今の木ノ葉はどうだろう。
戦う力を持つ者も、持たない者も関係なく傷つき、ある者は家族を失い、ある者は自分の命さえ失っている。
地獄であれば、少なくとも既に死んでいる者達の世界である。
ところが、ここでは生きている人間達が次々と死者へ変わっているのだ。
彼女の目には、街のあちらこちらから魂が肉体を離れていく様子が見えていた。
死という現象そのものに、特別な恐怖を抱いているわけではない。
地獄の女神である以上、それは日常的に接するものだからだ。
しかし、だからといって無意味な殺戮を好むわけでもなかった。
「……ま、私が口を出すことじゃないわね」
へカーティアは小さく呟いた。
この世界にはこの世界の事情がある。
見知らぬ神が、勝手に善悪を決めつけてよいものではないだろう。
とはいえ、自分が吹き飛ばしてしまった狐については別である。
あれだけの巨体と力を持つ存在ならば、別の街へ移動しただけでも大騒ぎになるに違いない。
「まあ私のせいで他の街が危なかったら意味ないし……見るだけね。もしも危ないならしばらく地獄に落として大人しくしてもらおうっと」
実に気軽な口調だった。
しかし、その内容は恐ろしく物騒である。
忍界において九尾とは、国家の軍事力を左右するほどの存在であり、並の忍では太刀打ちすらできない怪物だった。
そんな存在を、しばらく地獄に放り込んで反省させようというのだから、恐ろしいにも程がある。
もっとも、へカーティアにとっては十分に現実的な選択肢だった。
殺す必要などない。
多少頭を冷やしてもらえば、それで済む話である。
「それじゃ、ちょっと見てきましょうかねん」
へカーティアは周囲に人がいないことを確認すると、軽く地面を蹴った。
その身体は重力という概念など存在しないかのように宙へ浮かび上がり、建物の屋根を越えて夜空へと舞い上がる。
やがて彼女の姿は、まだまだ騒がしい木ノ葉の里から遠ざかっていった。
目指すは、先程九尾を蹴り飛ばした方角。
自分が引き起こした騒動の後始末を確認するため、地獄の女神は再び夜の空を飛んでいくのだった。
――――――
木ノ葉隠れの里から離れた森林地帯。
そこには、先程まで里を襲撃していた九尾の姿があった。
巨大な九本の尾を持つ狐は、周囲の木々を薙ぎ倒しながら地面に横たわっていたが、今では再びその巨体を起こしている。
もっとも、自由に動き回れる状況ではなかった。
その身体には無数の鎖が絡みつき、四肢や尾の動きを封じていた。
金剛封鎖。
うずまき一族に伝わる特殊な封印術であり、尾獣のような強大な存在でさえ拘束できる力を持っている。
その術を使用しているのは、一人の赤髪の女性だった。
うずまきクシナ。
かつて九尾の人柱力として、その身に尾獣を封じられていた女性である。
しかし、今の彼女の身体は限界に近づいていた。
九尾を引き剥がされたことによって生命力を大きく失い、辛うじて意識を保っている状態だったのだ。
普通の人間であれば、既に命を落としていても不思議ではない。
それでも彼女は、最後の力を振り絞って九尾を拘束していた。
何故ならば、守りたいものがあったからだ。
彼女のすぐ近くには、金色の髪を持つ青年が立っている。
四代目火影、波風ミナト。
そして、その傍らには小さな赤子が寝かされていた。
うずまきナルト。
今夜生まれたばかりの、二人の息子だった。
「クシナ……もう少しだけ頑張ってくれ」
ミナトは妻へ声をかけながら、九尾の状態を確認していた。
クシナの身体が限界に近づいていることは、彼にもわかっていた。
本来ならば、今すぐにでも休ませてやりたい。
しかし、それはできない。
九尾を再び封印しなければ、木ノ葉は同じ惨劇に見舞われることになる。
そして何より、息子の未来を守ることができない。
「……わかってるってばね」
クシナは弱々しく微笑んだ。
その顔色は悪く、額には大粒の汗が浮かんでいる。
それでも、彼女の視線はまっすぐに九尾を捉えていた。
「ナルトを……お願いね、ミナト」
「ああ。必ず守るよ」
ミナトは静かに答えた。
その表情には決意が宿っていたが、同時に、深い悲しみも浮かんでいた。
これから行おうとしていることが何を意味するのか、彼は十分に理解している。
それでも、他に選択肢はなかった。
そんな親子の様子を、遥か上空から眺めている者がいた。
「あら……?」
へカーティアだった。
先程九尾を蹴り飛ばした方角へやってきた彼女は、森の中で何やら儀式のようなものが行われていることに気づき、興味を引かれていた。
上空で静止しながら地上を見下ろす。
そこには、先程チラリと見かけた金色の髪の青年がいた。
「……あら、あの子。確か四代目火影って呼ばれてた子じゃない?」
どうやら、九尾を追ってここまでやってきたらしい。
それだけでも大したものだが、さらに驚いたことに、今は巨大な狐を鎖で拘束しているではないか。
「へえ……やるじゃない」
へカーティアは感心したように呟いた。
もちろん、彼女自身にとって九尾を拘束することなど造作もない。
しかし、それは彼女が規格外の神だからである。
目の前の人間達は、そうではない。
自分達の持てる力を使い、命懸けで巨大な怪物へ立ち向かっている。
それは素直に評価すべきことだろう。
もっとも、気になることもあった。
青年の傍らにいる赤髪の女性。
その魂が、今にも肉体から離れようとしていたのである。
「……あらあら」
へカーティアは目を細めた。
地獄の女神である彼女にとって、魂の状態を見極めることなど容易だった。
人間の肉体がどれほど傷ついているのか。
その生命があとどれほど続くのか。
そして、魂が死へ向かっているのかどうか。
細かな事情を知らなくとも、ある程度は見ただけで理解できる。
赤髪の女性の生命は、既に尽きかけていた。
恐らく、長くは持たない。
それでも彼女は、必死に鎖を操り続けている。
「随分と無理をしているのね……」
へカーティアは小さく呟いた。
そして、地上で行われようとしている儀式へと目を向けた。
どうやら、あの狐を封印するつもりらしい。
しかも、その封印先は――。
「……え?」
へカーティアの視線が、小さな赤子へと向けられた。
まだ生まれて間もないのだろう。
身体は小さく、何が起きているのかなど理解できるはずもない。
そんな赤子の中へ、あの巨大な狐を封じ込めようとしている。
「残酷な事をするのねーあんな小さい子にキツネ君を封印するなんて」
へカーティアは眉を寄せた。
少なくとも、彼女の感覚では好ましい行為ではなかった。
あれほど強大な力を持ち、暴れ回っていた存在を、何の罪もない赤子の中へ封じ込める。
それは、赤子にとって決して幸福なことではないだろう。
しかも、あの二人は恐らく赤子の両親だ。
親が自分の子供へ、そんな運命を背負わせようとしているのである。
「んー……でも仕方ないのかしらね?あのままじゃキツネ君は暴れるわけだし……あの子は入れ物ってわけね」
へカーティアは腕を組みながら考えた。
この世界の事情を知らない以上、安易に非難することもできない。
そもそも、あの狐がどのような存在なのかさえ、まだ理解していないのだ。
何か理由があって封印されるのかもしれないし、赤子の身体でなければ封印できない事情があるのかもしれない。
人柱力。
この世界ではそう呼ばれる存在について、彼女は何も知らなかった。
しかし、見れば何をしようとしているのかくらいは理解できる。
強大な存在を器へ封じ込める。
それ自体は、神や妖怪の世界でも決して珍しい発想ではない。
「……まあ、見届けてあげましょうかねん」
へカーティアはそれ以上口を挟まず、上空から静かに見守ることにした。
彼らは彼らなりの覚悟を持って行動している。
ならば、異界の神がその決意を軽々しく踏みにじるべきではないだろう。
そして、地上ではついに儀式が始まろうとしていた。
ミナトが両手で印を結ぶ。
その表情には、これまで以上の緊張が浮かんでいた。
「……屍鬼封尽」
その言葉と共に、周囲の空気が変化した。
常人には知覚できない異質な力が空間へ満ち、ミナトの背後に巨大な影が現れる。
それは人間ではなかった。
白い髪を乱し、異様な形相を浮かべた存在。
口には短刀を咥え、その姿からは生者とは明らかに異なる気配が漂っている。
死神。
屍鬼封尽によって呼び出された、魂を刈り取る存在だった。
通常、その姿を目にすることができるのは術者など、ごく限られた者だけである。
しかし。
「あら?」
上空にいるへカーティアには、その姿がはっきりと見えていた。
彼女は興味深そうに首を傾げる。
「この世界の死神かしら?随分可愛くないわー。小町の方が愛嬌あるわ」
何とも失礼な感想だった。
しかし、実際に彼女の知っている死神と比較すると、目の前に現れた存在は随分と恐ろしい姿をしている。
小野塚小町。
幻想郷と関わりの深い三途の川の船頭であり、へカーティアも知っている死神の一人である。
仕事をさぼっては閻魔に叱られることも少なくないが、気さくで人当たりのよい性格をしている。
少なくとも、目の前の死神のように恐ろしい顔で人間の背後へ立つようなことはしないだろう。
「それにしても、面白い術ねえ。自分の魂を代償にして、相手の魂を封じるのかしら?」
へカーティアは興味深そうに観察を続けた。
その理解は、おおむね正しかった。
屍鬼封尽。
術者自身の魂を代償として死神を呼び出し、対象の魂を封印する禁術である。
そして今、ミナトはその術によって九尾のチャクラを二つに分けようとしていた。
九尾の陰のチャクラを自分へ。
残された陽のチャクラを、息子であるナルトへ。
そのために、まず九尾の魂の半分を死神へ差し出そうとしていた。
「グオオオオオオオッ!!」
九尾が凄まじい咆哮を上げた。
自分の身体から力が引き剥がされていく。
膨大なチャクラが分断され、魂そのものを引き裂かれるような感覚が襲いかかっていた。
九尾は必死に抵抗した。
しかし、死神の力から逃れることはできない。
やがて、九尾の巨体が縮み始めた。
その力の半分が封じられたのである。
「……なるほどねえ」
へカーティアは静かに呟いた。
その視線は、九尾からミナトへと移る。
彼の魂にも、既に死の気配がまとわりついていた。
死神と契約した以上、彼が生きてこの儀式を終えることはできない。
つまり、この青年は最初から自分の命を捨てるつもりで術を使ったのだ。
「……あの子も死ぬつもりなのね」
少しだけ、へカーティアの表情が曇った。
赤髪の女性だけではない。
あの青年までもが、死へ向かっている。
そして、その二人のすぐ傍らには、生まれたばかりの赤子がいる。
どうやら、自分が思っていた以上に複雑な事情があるらしい。
「…………」
へカーティアは黙って見守った。
自分が介入すれば、恐らく状況を変えることはできる。
しかし、それは彼ら自身が選んだ道を否定することになるのかもしれない。
少なくとも、今の彼女にはその覚悟を踏みにじる理由がなかった。
地上では、ミナトが最後の封印へ向けて準備を進めていた。
「……これで、残りの九尾をナルトに封印する」
彼はそう呟くと、息子へ視線を向けた。
小さな身体。
まだ何も知らず、無邪気に泣いている赤子。
自分とクシナの間に生まれた、かけがえのない存在だった。
本当ならば、もっと一緒にいたかった。
初めて歩く姿を見たかった。
初めて言葉を話す瞬間に立ち会いたかった。
成長する息子を見守り、時には叱り、時には褒め、父親として多くのことを教えてやりたかった。
そんな未来を、彼は誰よりも望んでいた。
しかし、もう叶わない。
「……ごめんな、ナルト」
ミナトは悲しげに微笑んだ。
その瞬間だった。
「グルルルル……!」
九尾が低く唸り声を上げた。
自分の力を半分も奪われ、さらに残された力まで封印されようとしている。
そんなことを、九尾が黙って受け入れるはずもなかった。
先程から拘束され続けていた鎖に、凄まじい力が加わる。
「なっ……!?」
クシナの表情が変わった。
限界に近づいていた彼女の身体では、九尾の抵抗を完全に抑え込むことが難しくなっていた。
金剛封鎖の鎖が軋み、一本、また一本と引き千切られていく。
九尾の視線が、ナルトへ向けられた。
自分を封じ込めるための器。
それならば、封印される前に破壊してしまえばいい。
九尾は巨大な前足を持ち上げた。
鋭い爪が、何も知らずに横たわっている赤子へと向けられる。
「ナルト!!」
クシナが叫んだ。
ミナトもまた、ほとんど反射的に身体を動かした。
次の瞬間、九尾の爪が振り下ろされた。
鋭い爪は、赤子の小さな身体を貫くはずだった。
しかし。
その直前、二つの影が飛び込んだ。
ミナトとクシナ。
二人はほとんど同時に息子の前へ身を投げ出し、自分達の身体を盾にしたのである。
肉を貫く鈍い音が響いた。
鮮血が飛び散り、九尾の巨大な爪が二人の身体を貫通する。
「ぐっ……!」
「ぁ……!」
二人の口から苦痛に満ちた声が漏れた。
しかし、その身体は倒れなかった。
互いに支え合うようにして立ち、九尾の爪がそれ以上進むことを防いでいる。
そのすぐ下には、ナルトがいた。
赤子の身体には、爪の先端すら届いていない。
二人が、命を懸けて守ったのだ。
「…………」
上空からその光景を見ていたへカーティアは、言葉を失っていた。
今、自分の目の前で何が起きたのか。
それは十分に理解している。
あの二人は、子供を守るために自らの命を差し出したのだ。
既に死を覚悟していた青年も。
今にも命が尽きようとしていた女性も。
最後の最後まで、子供の未来を守ろうとしている。
「……すごいわね」
へカーティアの口から、小さな声が漏れた。
彼女は地獄の女神である。
長い時の中で、数え切れないほどの死を見てきた。
死者の魂が抱く後悔も、怒りも、悲しみも、そして未練も。
そのどれもが、彼女にとって特別珍しいものではない。
しかし、今目の前で起きていることには、思わず見入ってしまった。
自分の命を守ろうとするのは、生き物として当然の本能である。
それなのに、あの二人は何の迷いもなく子供を守った。
自分達が死ぬとわかっていながら。
「……すごいわね。あれが親ってものなのね。美しくも儚い愛情だわ」
へカーティアは静かに微笑んだ。
その表情には、先程までの気楽さとは違う、穏やかな感情が浮かんでいた。
「……いいもの見せてくれるじゃない。私そういうの嫌いじゃないわ」
人間という生き物は弱い。
神や妖怪と比較すれば、その寿命はあまりにも短く、身体も脆い。
ほんの少しの怪我や病で、簡単に命を落としてしまう。
しかし、そんな弱い存在だからこそ、見せられる強さもあるのだろう。
へカーティアはしばらく二人を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……よし」
彼女は右手を持ち上げた。
「ちょっとお手伝いしてあげる」
軽く指を動かす。
ただ、それだけだった。
しかし、その瞬間。
「グッ……!?」
九尾の身体が、再び硬直した。
先程まで赤子を貫こうとしていた爪が、完全に動きを止める。
四肢も、九本の尾も、巨大な口さえも。
まるで見えない鎖によって全身を固定されたかのように、九尾は身動きできなくなってしまった。
その感覚に、九尾は覚えがあった。
先程、木ノ葉の里で突然自分を拘束した不可解な力。
そして、その直後に自分を里の外まで蹴り飛ばした、あの女。
「グオオオオオオッ!!」
九尾が怒りに満ちた咆哮を上げた。
「またしても貴様か!!」
その声には、明確な怒りが込められていた。
九尾は周囲へ視線を走らせる。
しかし、あの女の姿は見当たらない。
それでも、確信していた。
この不可解な拘束は、間違いなくあの女によるものだ。
「女!! 出てこい!! 八つ裂きにしてくれるわ!!」
九尾は激しく吠えた。
忍界最強の尾獣として恐れられている自分が、こうも容易く自由を奪われるなど、到底許せることではなかった。
ましてや、先程は蹴り飛ばされるという屈辱まで味わわされている。
その怒りは、もはや頂点に達していた。
しかし。
「あら物騒。でもダメ。親子の別れは邪魔しちゃね」
上空から、そんな呑気な声が返ってきた。
当然、地上にいる人間達には聞こえないようにしている。
彼女はまだ、正体を明かすつもりなどなかった。
九尾はさらに怒りを募らせたが、どれほど力を込めても身体は動かなかった。
そして、へカーティアの関心は既に九尾から離れていた。
彼女が見つめているのは、今にも命を落とそうとしている二人の人間である。
「……さて」
へカーティアは静かに指を振るった。
すると、ミナトとクシナの周囲に淡い赤色の光が漂い始めた。
それは炎のようにも見えたが、熱を持つものではなかった。
柔らかく、温かな光。
二人の身体を包み込むように広がったそれは、まるで傷ついた魂を優しく撫でるかのように輝いていた。
「死という運命は覆さない。でも別れを言う時間くらいはあげられるわ。それが神様ってものじゃない?」
へカーティアは穏やかな声で呟いた。
彼女は二人の命を救おうとしているわけではなかった。
既に青年は死神と契約し、自らの魂を代償にしている。
女性もまた、九尾を引き剥がされたことで生命力を失い、さらに致命傷を負っている。
その運命を、無理に覆すつもりはなかった。
彼らは自分達の意思で、子供を守るために命を懸けたのだ。
ならば、その覚悟を尊重しよう。
ただし。
最後の言葉を伝える時間くらいは、与えてもよいのではないだろうか。
それが、へカーティアの考えだった。
「……あれ?」
最初に異変に気づいたのは、ミナトだった。
九尾の爪に身体を貫かれているというのに、先程まで感じていた激痛が不思議なほど和らいでいた。
呼吸が楽になり、意識もはっきりしている。
何より、身体から急速に失われていた力が、ほんの僅かではあるが戻ってきたように感じられた。
もちろん、傷が治ったわけではない。
命が助かったわけでもない。
それでも、今すぐ意識を失ってしまうような状態ではなくなっていた。
「……ミナト?」
クシナもまた、不思議そうに夫を見つめた。
彼女も同じだった。
既に限界を迎えていたはずの身体が、僅かに楽になっていたのである。
「クシナ……身体は?」
「……不思議。さっきより、ずっと楽になったってばね」
二人は互いに顔を見合わせた。
何が起きたのかはわからない。
しかし、何者かが自分達へ力を貸してくれたことだけは理解できた。
ミナトは九尾へ目を向けた。
先程まで暴れていた九尾は、今では何かに拘束されたかのように動きを止めている。
そして、その様子は木ノ葉の里で目撃した不可解な現象と酷似していた。
「……まさか」
ミナトの脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。
尾獣玉が突然空へ弾かれたこと。
九尾が身動きできなくなったこと。
そして、九尾の巨体が里の外まで吹き飛ばされたこと。
あの時は何が起きたのかわからなかった。
しかし、今再び同じような現象が起きている。
しかも、自分達の身体には説明のつかない力が働いていた。
誰かがいる。
自分達には見えない、何者かが。
そして、その存在はどうやら自分達を助けようとしているらしい。
ミナトはそう考えたが、今は正体を探している時間などなかった。
何故ならば、目の前には何よりも大切なものがあるからだ。
「……クシナ」
ミナトは妻へ視線を向けた。
「最後に、ナルトへ言葉を残そう」
「……うん」
クシナは静かに頷いた。
二人は、すぐ傍らにいる小さな赤子へ目を向けた。
ナルト。
今夜生まれたばかりの、自分達の息子。
まだ何も知らない彼は、小さな手を動かしながら泣いていた。
その姿を見た瞬間、クシナの瞳から涙が溢れた。
「……ナルト」
彼女は震える声で息子の名前を呼んだ。
本当ならば、もっと抱き締めてやりたかった。
温かい布団に寝かせ、優しく頭を撫でながら、子守歌を歌ってやりたかった。
これから何年も、何十年も。
母親として、この子の成長を見守っていきたかった。
しかし、それはもう叶わない。
「……ごめんね」
クシナは涙を流しながら微笑んだ。
「せっかく生まれてきてくれたのに……お母さん、こんなことになっちゃって……」
言葉を続けようとすると、胸が締めつけられるようだった。
それでも、彼女は息子から目を離さなかった。
「ナルト……ちゃんとご飯を食べるんだよ。好き嫌いばっかりしちゃ駄目だからね」
小さな赤子が、何かを訴えるように声を上げた。
その声に、クシナは少しだけ笑った。
「それから……たくさん友達を作ってね。困った時に助けてくれる友達がいたら、きっと心強いから」
涙が止まらなかった。
伝えたいことは、いくらでもある。
風邪を引かないようにしてほしい。
怪我をしたら、きちんと手当てをしてほしい。
悲しいことがあった時は、一人で抱え込まないでほしい。
自分を大切にしてほしい。
そして何より、幸せになってほしい。
母親として伝えたいことが、次から次へと溢れてくる。
「……ナルト」
クシナは声を震わせながら、最後に微笑んだ。
「お母さんね……あなたのこと、大好きだってばね」
それは、飾り気のない言葉だった。
しかし、その言葉には彼女のすべてが込められていた。
ミナトもまた、静かに息子を見つめていた。
「……ナルト」
彼は穏やかな声で呼びかけた。
「これから、きっといろんなことがあると思う。楽しいことばかりじゃないかもしれないし、辛い思いをすることもあるかもしれない」
ミナトは言葉を選びながら続けた。
「でも、どうか自分を嫌いにならないでほしい。君は僕達にとって、何よりも大切な息子なんだ」
彼は四代目火影だった。
里の人々から信頼され、多くの忍達に慕われてきた。
しかし、今この瞬間の彼は火影ではない。
ただ一人の父親だった。
「本当は……もっといろいろ教えてあげたかったんだけどね」
ミナトは寂しそうに微笑んだ。
「忍術のことも、里のことも。それに、父親として教えてあげたいことも、たくさんあった」
小さなナルトの手が、何かを探すように動いている。
ミナトはその姿を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「……だけど、君なら大丈夫だと信じてる」
彼の瞳にも涙が浮かんでいた。
「ナルト。どうか、幸せになってくれ」
それが、父親としての願いだった。
クシナはミナトの言葉を聞きながら、小さく頷いた。
「……ミナト」
「うん?」
「……ありがとう」
短い言葉だった。
しかし、それだけで十分だった。
二人は互いに微笑み合った。
今夜、彼らは多くのものを失った。
そして、これから命さえ失おうとしている。
それでも、最後の最後に息子へ言葉を残すことができた。
その事実だけで、二人の心は僅かに救われていた。
そんな親子の様子を、へカーティアは静かに見守っていた。
「…………」
先程までの軽い笑みは、今の彼女にはなかった。
代わりに浮かんでいるのは、どこか穏やかで、優しげな表情である。
地獄の女神として、数え切れないほどの死を見届けてきた。
しかし、人間の死というものは、決して一つとして同じではない。
ある者は後悔を抱いて死に、ある者は怒りを抱いて死ぬ。
そして中には、自分の命よりも大切なものを守り、満足して死んでいく者もいる。
目の前にいる二人は、恐らく後者なのだろう。
もちろん、未練がないわけではない。
むしろ、未練など山ほどあるはずだ。
それでも、最後まで子供の幸せを願っている。
その姿は、へカーティアの目に美しく映っていた。
「……人間って、本当に面白いわねえ」
彼女は小さく呟いた。
「弱くて、脆くて、あっという間に死んじゃうのに……こんなにも強いんだから」
へカーティアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……いい親じゃない」
その声は、誰にも届かなかった。
しかし、それで構わなかった。
彼女は別に、感謝してほしくて力を貸したわけではない。
ただ、目の前の親子が少しでも穏やかな別れを迎えられるようにしたかった。
それだけだった。
やがて、ミナトは最後の封印術を完成させた。
八卦封印。
残された九尾の陽のチャクラを、ナルトの体内へ封じ込めるための術である。
九尾はなおも抵抗しようとしていたが、その身体はへカーティアの力によって完全に固定されていた。
どれほど力を込めても、逃れることはできない。
「グルルルル……!」
九尾の視線が、憎々しげに周囲を巡る。
あの女。
あの正体不明の女さえいなければ。
こんな屈辱を味わうことなどなかったはずだ。
しかし、九尾の怒りなど、へカーティアにとっては特に気にするほどのものではなかった。
「あらあら、そんなに睨まないでちょうだいな。別に殺そうとしてるわけじゃないんだから」
相変わらず、気楽な口調だった。
九尾はさらに怒りを募らせたが、もはやどうすることもできなかった。
封印術が完成する。
九尾の身体が、少しずつ赤子の中へ引き込まれていった。
「グオオオオオオオッ!!」
巨大な狐の咆哮が、夜の森に響き渡る。
しかし、その声も次第に小さくなっていった。
巨大な身体が縮み、膨大なチャクラが封印へと吸い込まれていく。
そして、最後にはその姿が完全に消え去った。
九尾の封印が完了したのである。
ナルトの腹部には、封印術式を示す紋様が浮かび上がった。
その小さな身体の中に、忍界でも屈指の力を持つ尾獣が封じ込められたのだ。
ただし。
この時、誰も気づいていないことがあった。
九尾の身体を拘束していたへカーティアの力。
そして、ミナトとクシナを包み込んでいた赤い光。
その僅かな残滓が、九尾のチャクラと共に封印術式へ巻き込まれていたのである。
それはほんの微かな力だった。
へカーティア自身が意識して与えたものではなく、本人にとっては存在していることすら気づかないほどのもの。
しかし、地獄の女神の力であることに変わりはない。
本来、この世界には存在しないはずの異質な力が、九尾と共にナルトの中へ封じ込められてしまったのだ。
それが何を意味するのか。
そして、いつか何らかの影響を及ぼすことになるのか。
今はまだ、誰にもわからなかった。
もちろん、当のへカーティアも例外ではない。
「……よし。これで終わりかしらねん」
彼女は満足そうに頷いた。
あの巨大な狐は無事に封印された。
これならば、他の街へ被害が及ぶ心配もないだろう。
どうやら、自分が地獄へ連れて帰る必要もなくなったらしい。
「それにしても、あんな小さい子に封印するなんてねえ……」
へカーティアは小さく首を傾げた。
彼女の感覚では、やはり少々不思議な方法だった。
もっとも、それがこの世界の人間達の選択なのだろう。
彼らが命を懸けて守ろうとしたもの。
それを否定するつもりはなかった。
へカーティアは再び地上へ視線を向けた。
そこでは、ミナトとクシナが静かに息子を見つめていた。
先程まで二人を包み込んでいた赤い光は、少しずつ薄れ始めている。
彼女が与えた猶予も、そろそろ終わりだった。
「……お疲れ様」
へカーティアは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「二人とも、よく頑張ったわね」
その言葉には、女神としての敬意が込められていた。
彼らは確かに弱い人間だった。
しかし、その弱い人間が命を懸けて守ったものは、決して小さなものではなかった。
そして。
ミナトが、ふと顔を上げた。
「…………?」
彼の視線が、夜空へと向けられる。
不思議な感覚があった。
先程から自分達を助けてくれていた、何者かの存在。
その気配が、ほんの僅かに感じられたのである。
死が目前に迫っているからなのか。
あるいは、へカーティアが二人へ与えた力の影響なのか。
理由はわからなかった。
ただ、ミナトには見えた。
夜空に浮かぶ、一人の女性の姿が。
赤い衣装。
奇妙な鎖と球体。
そして、どこか楽しそうな表情を浮かべている、不思議な女性。
その姿を目にした瞬間、ミナトは理解した。
「……ああ」
小さく、声が漏れた。
「……君だったのか」
何故だろう。
直接会ったことなど、一度もないはずだった。
それなのに、何故か確信できた。
九尾の尾獣玉を弾いたのも。
九尾の動きを封じたのも。
そして、あの巨大な怪物を里の外まで吹き飛ばしたのも。
すべて、この女性だったのではないか。
そんな考えが、自然と浮かんできた。
彼女が何者なのかはわからない。
忍なのかどうかさえ、わからなかった。
しかし、少なくとも敵ではない。
それどころか、自分達を助けてくれた存在なのだろう。
ミナトは穏やかに微笑んだ。
「……ありがとう」
その声は、あまりにも小さかった。
地上にいる者達にも、ほとんど聞き取れないほどの呟きだった。
しかし。
へカーティアには、はっきりと届いていた。
「……あら?」
彼女は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
どうやら、あの青年には自分の姿が見えているらしい。
本来ならば、認識されないようにしていたはずなのだが。
「……ふふっ」
へカーティアは微笑んだ。
そして、地上にいるミナトへ向けて小さく手を振った。
「どういたしまして、四代目くん」
その声が届いたのかどうかはわからない。
しかし、ミナトの表情はどこか安らかだった。
彼はもう一度、愛する妻と息子へ視線を向けた。
「……クシナ」
「……うん」
二人は互いに微笑み合った。
もう、言葉は必要なかった。
やがて、ミナトの身体から力が抜けていく。
死神との契約によって定められた運命が、ついに訪れたのである。
同時に、クシナの意識も少しずつ薄れていった。
二人は最後まで、息子の姿を見つめていた。
そして。
静かに、その生涯を終えた。
森に、夜の静寂が戻ってくる。
先程まで九尾が暴れ回っていたとは思えないほど、辺りは静かだった。
ただ、小さな赤子の泣き声だけが響いている。
その声を、へカーティアはしばらく聞いていた。
「…………」
やがて、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「……本当に、立派な親だったわね」
地獄の女神として、彼女は数え切れないほどの死を見てきた。
しかし、今日見届けた二人の最期は、きっと忘れることはないだろう。
あの青年が何故火影と呼ばれていたのか。
あの赤髪の女性が、どのような人生を歩んできたのか。
そして、彼らが命を懸けて守った赤子が、これからどのような運命を辿るのか。
へカーティアは、まだ何も知らない。
ただ一つだけ、理解できたことがある。
人間という生き物は、思っていた以上に面白い。
そして、時には神でさえ感心するほど、美しいものを見せてくれるのだと。
「……さて」
へカーティアは小さく微笑んだ。
「キツネ君も大人しくなったみたいだし、私もそろそろ行こうかしらねん」
彼女はゆっくりと身体の向きを変えた。
九尾の封印は終わった。
この世界の人間達も、ひとまず危機を乗り越えたらしい。
ならば、自分がこれ以上ここに留まる理由もないだろう。
もっとも、せっかく訪れた世界である。
観光を諦めるつもりなど、毛頭なかった。
「それにしても……忍者、ねえ」
へカーティアは楽しそうに呟いた。
「ふふっ。ちょっと面白そうじゃない?」
この世界には、忍と呼ばれる者達が暮らしている。
チャクラという不思議な力を操り、様々な術を使う人間達。
先程の青年も、その一人なのだろう。
九尾を封印するために、死神まで呼び出してみせた。
それだけでも、彼女にとって十分に興味深い存在だった。
「……もう少し、この世界を見て回ろうかしらねん」
そう呟くと、へカーティアは夜空へと舞い上がった。
彼女の視線が、最後にもう一度だけ地上へ向けられる。
そこには、静かに眠る二人の親と、小さな赤子の姿があった。
「……元気に育ちなさいよ、坊や」
へカーティアは穏やかに微笑んだ。
「貴方のお父さんとお母さん、とっても素敵な人達だったんだから」
そう言い残すと、地獄の女神は夜の闇へと姿を消した。
彼女はまだ知らない。
自分がほんの気まぐれで手を貸したことが、この世界に小さな変化を残したことを。
そして、その変化がいつの日か、再び自分と関わることになるかもしれないことを。
今はまだ、誰にもわからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
木ノ葉隠れの里を襲った九尾事件。
その夜、二人の親が命を懸けて守った赤子の中には、九尾の力と共に、ほんの僅かな異界の神の力が眠ることになったのである。
そして、その事実を知る者は、誰一人として存在しなかった。