ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第17話です。霧を抜けた先で、聞き慣れた声が待っていました。
防衛線を背にして通りを五本ほど駆け抜けた後、一行はようやく霧の圏外へ脱した。
白い靄はある角を境に嘘のように途切れ、通ってきた背後の路地の奥には、まだ乳白色の壁が
だが一行の眼前には
膝に手をついて
ジョニィも壁に背を預け、頬の傷に指を当てた。出血はもう止まりかけ、指先には乾いた血のざらつきだけが残る。
「よう、全員無事らしいな」
瓦礫の向こうから飛んできた聞き慣れた声に、ジョニィは顔を向けた。大盾を背負った男が一人、崩落した壁の隙間をのんびりと歩いてくる。
煤で汚れた顔に、出がけに見たのと寸分違わない気楽な笑みが乗っている。
「Ace!」
安堵と苛立ちとがちょうど半分ずつ、ドーベルマン教官の声音に混在していた。
「お前とは合流地点で落ち合う手はずだろう。なぜここへ? それに、単独行動とは――」
その詰問が終わるのを待たず、ジョニィは横から短く割りこんだ。
「馬は」
エースの視線がジョニィの顔の上で止まり、目尻の皺がいっそう深くなった。
「開口一番がそれか。……合流地点の近くで、うちの若いのが二人見てる。ブラシも掛けといたぞ。お前さんの注文どおり、小さい方で首、大きい方で背中だ。それでも途中で鼻を鳴らして、文句を垂れやがったがな」
「掛け方が雑だったんだ」
「ハハッ、手厳しいな」
ジョニィの肩から緊張が抜けかけたところで、エースの目が頬の傷へ落ちた。
「そっちは、何があった」
「霧の中で、フードの女に。刃は二本だ」
「ほう。お前さんを掠めるとはな」
それ以上の軽口は続かず、エースの目尻に寄っていた皺も、その一言を境にすっと消えた。
「覚えとく。霧が出たら、その女が近いってことだな」
その時、交差点の向こうで複数の怒声が上がり、瓦礫を蹴散らす足音がこちらへ迫ってきた。
「いたぞ! 中枢区画から逃げた連中だ!」
「チッ……まったく、しつこい追手だな! 迎撃準備を――」
「待て、ドーベルマン! やり合うな、撤退を優先しろ! ――アーミヤ、ドクター! 行くぞ!」
有無を言わせぬ号令に、教官は一拍置いて顎を引いた。
「確かに……この場で戦ってもどうにもならん、か」
追手を振り切って裏通りへ駆けこんだ一行の前に、しかし別の通りからまた仮面の一団が出現した。
「――奴らめ、どこへ行った……? この辺りにいるのは間違いないんだ、探せ!」
「ッ、向こうからも追手が……今度は回避しきれんな」
「やれやれ、仕方ないか」
一行は崩れた家屋の陰へ身を寄せた。
大盾の革帯に手を掛けたまま、エースは医療オペレーターの肩を借りて立つフードの人影へ向き直った。古い友人と久々に再会した時のような、懐かしさと照れくささの混じる色がその目に浮かんでいる。ジョニィが一度も見たことのない顔だった。
「ドクター、指示をくれ。昔みたいにな」
ドクターからの返答はなく、フードの奥の顔はただ、見知らぬ男を眺める目でエースを見つめ返していた。
気まずい空白を埋めるように、二人の間へアーミヤが遠慮がちに進み出た。
「あっ、ええと……Aceさん。実は少しだけ、想定と違う状況になっていまして……ドクターは、以前の記憶を失ってしまったようなんです」
その一言を聞いた途端、エースの顔に浮かんでいた笑みがその場で凍りついた。
「……記憶を……? それじゃあまさか、何も覚えてないっていうのか?」
「はい。……ですから、すみません。今は、これまで通りにはいかないこともあると思います」
声を潜めた沈黙の向こうを、仮面たちの足音が行き来していく。
フードの奥にいるはずの誰かを探すように、エースはしばらくドクターの顔を見つめていた。やがて、短い吐息が漏れる。
「…………そう、か。まあ、お前さんが謝ることじゃあないさ。――で、指揮の方は?」
「ありません。ドクターの指揮は今も確かです。私が保証します」
「よし。だったら問題ない。これまで通り、ドクターの指示に従うとしよう」
背中の大盾を地面へ下ろしたエースは、いつもの調子を取り戻したように笑ってみせた。
「――失くしたものは、いずれ取り戻していけばいいさ。今はそれより、目の前の問題を片付けなくちゃならんしな」
少し離れた壁際で、ジョニィはその言葉を聞いていた。
ドクターの失くしたものは、頭のどこかに埋もれているだけかもしれない。いつか、ふとした拍子に戻ってくることもあるだろう。けれどジョニィの失くしたものは、艦に置いてきた木の棺の中で眠っている。
取り戻せない物もある――喉まで出かかったその一言を、ジョニィは呑みこんだ。
「見つけたぞ、奴らはここだ! 急げ、手早く仕留めろ!」
「……悪いが、話はそこまでだ。構えろ、戦いは始まっている!」
教官の号令に肩をすくめ、エースは下ろしたばかりの大盾の取っ手を握り直した。
「だとよ。――じゃあ、ドクター。命令を」
通りの向こうでは仮面の一人が背後の仲間へ向かって大きく腕を振り上げていた。
「野獣を放て! あいつらに肉を裂かれる苦しみを味わわせてやれ!」
煙の向こうで不穏な唸り声が響いた。地面に腹をこすりそうなほど身を沈めた影の群れが、石畳の上を
猟犬だ、と誰かが叫んだ。
距離が縮まるにつれて露わになったのは、異様な姿だった。ひどく痩せた体は皮の下に
ところどころ抜け落ちた毛の跡からは、黒い結晶が
その足元を、硬い殻に覆われた虫の群れがざわざわと這い寄ってくる。オリジムシ、と前衛オペレーターが忌々しげに吐き捨てた。
怒号と唸り声の交錯する中、フードの奥から掠れた声が漏れた。
「左の瓦礫。待たせてある隊は?」
一呼吸ぶんの沈黙を挟んで、エースの口角がにやりと持ち上がった。
「お見通しか。記憶がなくても、そういう所は変わらんらしい。――E3小隊! ドーベルマンの支援に回れ!」
左手の瓦礫の陰から、盾を構えた一団が一斉に立ち上がった。猟犬の横腹へ、矢とアーツの光が次々に叩きこまれる。
「なっ……伏兵か!?」
「なるほど……隊員の姿がなかったのは、敵を挟撃するためというわけか」
腑に落ちたような教官の声音を受けて、エースは悪びれる様子もなく種明かしを続けた。
「通信を潰されてる以上、隊は伏せておく方がいいと思ってな。合流地点の周りの安全を確かめるのが先決だ。足を引っ張りに来たわけじゃあない」
「はぁ……分かった。この件は、敵を片付けてからゆっくり話すとしよう」
「はいはい。――ロドスの指揮は任せたぞ、ドクター」
伏兵の射線を避けた仮面の何人かは、ジョニィたちの側面へ回りこんできた。眼前に躍り出た一人が振り下ろした棍棒を、一歩前へ出た像の
像の見えない男の目には棍棒が宙で止まったとしか映らなかっただろう。顔を引きつらせた男が事態を呑みこむより早く、もう一方の拳が腹に深々とめりこむ。
回転を載せない一撃に胃の中身を吐き散らし、男は膝から崩れ落ちた。
『チュミッ』
「ジョニィさん!」
盾を構えてジョニィの横へ滑りこんできたのは、E3小隊の男だった。艦の装備庫で、隊長は断る時ほど気に入ってる、と片目をつぶってみせた顔だ。
「隊長が一人で行っちまって、こっちは気が気じゃなかったんですよ。……ああ、あなたの駄獣なら、おとなしくしてます。俺たちより落ち着いてるくらいですよ」
「当たり前だ。何万人の歓声の中を走ってきた奴だぞ」
男は愉快そうに笑いながら盾の隊列へ戻っていった。
その間も、ジョニィの目は戦場を駆ける猟犬の姿を追い続けていた。意図とは無関係に、視線が勝手に吸い寄せられていく。
六千キロのあいだ、ずっと馬の背にいた。走る生き物の体がどう伸び、どう縮むのかを、鞍越しの腰と手綱を握る掌で覚えてきた。だから、分かってしまう。
一頭の猟犬が石畳を蹴った瞬間、伸びた前脚から首へ、背から腰へと、体が一本の弧を描いた。風に揺れる葉とは違い、駆ける体の線は一瞬だけ一つの弧に収まる。その弧の中に、ジョニィの目はあの比率を捉えていた。
黄金の長方形。
病魔に冒されて骨の浮いた体の中にも、それは確かにあった。痩せ衰え、結晶に食われてなお、走るために造られた体の線は、まだ自然の形を覚えている。
爪が指先で唸りを上げた。伝わる重みが、いつもの回転とはまるで違う。
撃てる。撃てば、黄金の回転になる。
殺さない――それはロドスと動く間の、人に向けた決まりだった。目の前の獣は人ではない。だがジョニィにとってはただの獣でもなく、誰かに背中へ箱を縛りつけられ、走らされている生き物だった。
脚を撃っても、この獣は這ってでも牙を剥く。足止めは痛みを長引かせるだけだ。
その猟犬が、アーミヤめがけて宙へ躍った。
ドクターの前でアーツの光を練っていたアーミヤが振り向く。黄ばんだ牙が、喉の高さにある。
「伏せろ、アーミヤ!」
右手を突き出し、ジョニィは撃った。
黄金の回転を纏った爪弾は宙を舞う猟犬の胸に吸いこまれ、
苦痛を感じる暇もなかったはずだ。そうなるように、撃った。
エースの大盾が最後の一頭を弾き返す頃には、仮面の連中も四散していた。石畳には、猟犬とオリジムシの
ジョニィは撃った猟犬の傍らに膝をついた。跳びかかってきた時より、ずっと小さな体だった。
見開いたままの両目はもう何物も映していないのに、背中の箱の赤い光だけが律儀に明滅を続けている。
その箱を掴んで皮膚に食いこむ革帯をめくると、何度も
スロー・ダンサーの背中が頭に浮かんだ。あの背にこんな箱を縛りつけられたら。皮膚がただれるまで締め上げられ、病のまま、誰かの命令で走らされたら。
力任せに、引き剥がした。
「……重かったな」
石畳に叩きつけた箱は破片を散らして砕け、赤い光が消えた。
隣にそっとしゃがみこんだアーミヤが手を伸ばし、開いたままの猟犬の
「……助けてくれて、ありがとうございました、ジョニィさん。……この子のことも」
最後の一言を口にする間、アーミヤの目は足元の獣に落ちていた。
傍らでは像も膝を折り、青い籠手を胸に当てて首を垂れていた。
誰一人口を開かないまま荒い呼吸だけが続く中、ようやく沈黙を破ったのは前衛オペレーターだった。
「っ……今の野獣たち……レユニオンがけしかけてきた、ってことか……!」
「感染した野獣を、兵力として使うなんて……」
震えるアーミヤの声音に、ドーベルマン教官がゆっくりと首を横に振った。
「……いや。正確には、単なる『野獣』ではない。私には分かる。言うなれば……あれは『獣』というより、『我々』に近い存在だ」
顔を上げると、教官の頭上で尖った犬の耳がわずかに伏せられていた。その耳が、足元に横たわる猟犬の耳と、ジョニィの目の中で一瞬重なった。
「じゃあ一体……どうしたらいいんでしょう?」
前衛オペレーターの問いに答えたのは、エースだった。
「どの道、やることは一つだ。……苦しみから解放してやろう」
一度だけジョニィの方へ動いたエースの視線は、もう済ませた奴がいる、と言いたげだった。それから大盾を提げ、エースはまだ息のある獣たちの方へ歩いていく。
しばらく猟犬の骸を見下ろしていた教官が、ジョニィの方へ向き直って短く告げた。
「……礼を言う」
何への礼かは、教官も言わなかった。
「残りの奴の箱も、外してやってくれ」
無言の首肯を一つ返して、教官はエースの後を追っていった。
獣たちの始末を終えて戻ってきたエースが、教官の肩を軽く叩いた。
「……行くぞ、ドーベルマン。結局やり合う羽目にはなったが、天災はすぐそこだ。レユニオンやウルサスから逃げるのはお手の物でも、天災が相手じゃ話は別だからな」
「……お前の言う通りだ。先を急ごう。レユニオンの作戦がどれだけ狂気的なものだろうと、我々は……」
「全員の安全を第一として行動する。……ですよね?」
言葉の続きを引き取ったアーミヤに、教官の口元がほんのわずかに緩んだ。
「ああ、そうだ」
大盾を担ぎ直しながら、エースが誰にともなくぼやいた。
「にしても、レユニオンの奴ら、こんな状況を狙って事を起こすとは……よっぽど残酷な連中なのか、あるいは頭がおかしいのか……」
前を行く教官が、振り返りもせずに答えた。
「恐らく、その両方だろうな」
E3小隊を先導に加えた隊列は、灰色の陽の下を、再び西へと進み始めた。
歩きながら、ジョニィは指先に目を落とした。走り通しの時間とカモミールの葉のおかげで、霧の中で撃った爪はもう根元から生え揃っている。
手本さえ見えれば、まだ撃てる。さっきの一発がそれを確かめさせた。
けれど、霧の中では。
あの女の刃が頬を掠めた時、霧の向こうに手本となるものは一つもなく、三歩先の影にさえ拳は届かなかった。頬の傷が、思い出したように疼いた。
瓦礫を跨いで隣に並んだエースが、前を向いたまま声をかけてきた。
「さっきの話だが。失くしたものは取り戻せばいい、ってやつだ。お前さん、何か言いたそうな顔をしてたぞ」
数歩ぶん黙って歩いてから、ジョニィは答えた。
「取り戻せない物もある」
「知ってるさ」
返ってきたエースの声音に、いつもの軽さはなかった。
「艦にも、まだ目を覚まさん奴らがいる。……だからこそ、取り戻せる方は取りこぼさんようにするんだ。ドクターの記憶も。お前さんの、ここにいる仲間もな」
「あんた、盾を構えてる時よりよく喋るな」
「お前さんが黙って聞くからさ」
「聞き流してただけだ」
喉の奥で笑ったエースの声が、途中で途切れた。足を止めた大男の横で、ジョニィも気づく。さっきまで頬を撫でていた風が、ぴたりと止んでいた。
第17話をお読みいただき、ありがとうございました。
・エースの「失くしたものは、いずれ取り戻していけばいいさ」と、ドーベルマンの「あれは『獣』というより、『我々』に近い存在だ」は、アークナイツの原作の台詞です。
・黄金の回転は、その場の植物や動物から黄金長方形を見つけないと撃てません。前回の霧の中では撃てず、今回は走る猟犬の体の線が手本になりました。
開口一番が「馬は」だったことは、エースがしばらく言いふらすと思います。