【プール】
冬の寒さが近づく今日。
いつものようにヒキオの家でまったりとしている私だが、家主であるヒキオ本人はそこに居ない。
ここ最近はゼミの論文発表が近いとのことで、研究室に籠り切りになる時がある。
1人で居るには大きすぎる部屋でソファーに腰掛け、私はヒキオの帰りを待っていた。
テレビから流れる芸人のリズミカルな芸を聞き流しながらスマホの画面と睨めっこを繰り返すばかりで時間が過ぎていく。
せっかくの休日なのにあいつは何をやっているんだ…。
スマホを睨むこと30回、玄関の先から靴で廊下を叩く音が聞こえてくる。
ゆっくりとなる足音。
踵から地面に着くような歩き方をするヒキオの靴はすべて踵がすり減っているんだ。
「……。ん、来てたのか」
「来てたし!朝から!!」
「…朝から来てたのか」
ヒキオは脱いだアウターを椅子の背もたれに掛けた。
「ちゃんとハンガーに掛けろし。型崩れするよ」
「型崩れファッションってやつ」
「ださ」
夕日が隠れ始めた頃。
外からは子供の声と5時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。
「ヒキオ、おなか減った?」
「ん。飯作るか。何がいい?」
「んー。牡蠣とほうれん草のチーズリゾット食べたい」
「………もっと簡単なのにしてくれません?」
「じゃぁラーメンと餃子」
「君の胃袋は縦横無尽だね」
先ほどまで疲れ切っていた姿が嘘だったかのように、ヒキオはいつものエプロンを身に付けてキリキリと料理を始めた。
餃子の下準備を始めたヒキオの隣で私はキャベツを包丁で切り刻む。
「ラーメンつけめんぼくいけめん~」
「古くね?」
「ん~。……ちょっちょっちょっちょっと待って、お兄さん」
「それさっきテレビで見たし!」
「流行ってるらしいな。ゼミの奴が言ってた」
「………女?」
「……違う。本当に」
私は持っていた包丁をヒキオに向ける。
「ならいいし。はい、キャベツ切り終わった」
「……はい」
――――――――――
「ふぁ~、お腹いっぱい」
「ん。うまかった」
食べ終わりの食卓に、バラエティ番組から流れるナレーターの声が広がる。
南国リゾートのロケのようだ。
テレビの中では青い空の下に半袖のアロハシャツを着た芸人が大はしゃぎで現地の様子を伝えていた。
「……、次の連休に…」
「行かんぞ」
「まだ何も言ってないし!!」
「どうせハワイ行こうとか言い出すんだろ」
「ぶー。バリ島だし」
「同じだ」
「あーし達付き合ってからどこも行ってないじゃん!」
「行ったろ。アウトレットとか、スーパーとか、コンビニとか」
「どこも近場過ぎだし!!」
私はテレビの電源を消し、テーブルに残してあった食器類を片付けた。
「緊急会議を始めます」
「……なんなんだ、急に」
「まず、付き合うとはどうゆことでしょう」
「……一緒に居ること」
「ふ、深いこと言うなし。正解は幸せを共有することです!」
「…なんか陳腐だな」
私はググールで調べたとあるページをヒキオに見せつける。
ヒキオの視線が数秒左右に移動していき画面の下までたどり着くと、呆れたように溜息をつきながら私を睨みつけた。
「……ここに行きたいってことか?」
「そうゆうことになるね」
「夏に行くもんだろ」
「待ちきれないからここに行くんだし」
「……行きたくない」
「そうゆうと思った。だけどあんたは断れない!!」
「は?」
私は勢い良く立ち上がりヒキオを見下ろす。
そして高々と宣言した。
その声はヒキオの耳を通り脳に突き刺さること間違いなしだ。
「もう水着を買っちゃったから!!」
目の前でスカートとパーカーを脱ぎ始めた私を見て、ヒキオは目を大きくして驚いた。
「……ずっと着てたのか?」
「うん!」
「……」
「ふふん!来週は温水プールに行くぞー!!」
―――――――――
一週間後
大型レジャー施設の前にあるチケット売り場で入場券を購入し、異様なまでに暖かく室温が設定されている施設内に入っていく。
「へぇ~。想像よりも広いし」
「……結構人居るし」
「こんなん海に比べたら少ない方でしょ」
集合場所だけ決めて、それぞれの更衣室に分かれて入る。
ロッカーに荷物を詰めて、駆け足気味に更衣室を出た。
「っと、早いな」
「中に着てきた!」
「またか」
「で?どう?」
私はホルタ―ネックのビキニで強調された胸を少し前に付きだした。
先週買った淡い紫のビキニはお淑やかに身体を包む。
初心なヒキオの慌てる顔を想像しながら買った物だ。
「ん。似合ってんじゃないか?」
「ふ?え?」
「…ん?」
「あ、ありがとう!?」
「なんだそれ」
「な、なんでもない!!ほら行くよ!!」
なんだか急に恥ずかしくなり、腕で出来るだけ胸を隠しながらヒキオの前を歩く。
照れさせようとしたのに、逆に照れてしまったら元も子もない。
室内の温度以上に熱くなった身体がヒキオにばれないように、そう願いながら早足でプールに向かうことが今できる精いっぱいの抵抗だ。
・・・・・・・・・・・・・・
「ふわーー!!疲れたー!!」
「そりゃ流れるプールを逆走すりゃ疲れるだろ」
定番の流れるプールから波の出るプールまで、多くの種類を要する施設で数時間を満喫した私とヒキオは、昼食のために屋台が並ぶエリアに向かいテーブルに座る。
「焼きそば上手い?」
「ん。まずくはない」
「私のカレー超まずいし…」
「…、今日の夕飯はカレーにしようか」
「…うん!」
私は、まずいカレーをスプーンで混ぜながら、施設内にそびえたつ大きな高台を見上げた。
「ごはん食べ終わったらアレ行くし!」
「アレは行かない」
「なんでだし!」
「…穏やかじゃないからだ」
ヒキオは焼きそばを啜りながら高台から目を逸らした。
どうやらスライダーが嫌いらしく、午前中も高台の近くにすら寄り付こうとしなかった。
「大丈夫大丈夫。あんなん子供騙しだし」
「大人なら騙されるな。アレは危険だ」
「は?どこが?」
「ブレーキが効かない」
高台から延びる青いホースはクネクネと曲がりくねっており、浮き輪に乗った人達が高台のてっ辺から滑り出しては数秒後に下のプールに大きな水しぶきを出し現れる。
「な?」
「な?じゃねぇし。ほら食べ終わったなら行くよ」
「ちょっと消化中だから先行っててー」
「消化終了。はい行くよ」
「ぬぅ」
高台が近づくにつれて高さの全長が見えてくる。
後ろを歩くヒキオが言うには「リアルな高さ」らしい。
浮き輪を持って高台の階段を上ると、さほど待つこともなく順番を迎えた。
「ヒキオ後ろと前どっちがいい?」
「一人がいい」
「なんでだし。じゃああーしが前ね」
「ちょっと待てこの浮き輪に一緒に乗るのか?」
ヒキオは浮き輪を持ちあげて私に見せつける。
浮き輪は至って普通の丸型浮き輪。
二人で座るには少し小さいかもしれない。
「まぁくっつけば乗れるっしょ」
「……俺、見てるよ」
「今更わがまま言うな!」
「わがままじゃない。倫理的な判断だ」
「は?」
「これ結構小さいし」
「…あんた、そうゆうところ変わんないんだね」
私はあまりにごねるヒキオを浮き輪に無理やり座らせ、後ろから抱きつくように私も浮き輪に座る。
「ちょっ!おま!?」
「だ、黙れし!!……あーしも結構恥ずかしいんだから」
浮き輪がスライダーを走り始めると、意識せずとも密着度は増してしまう。
流れる水に逆らうことなく走る浮き輪の上で、聞こえるはずのない胸の鼓動が高鳴る。
肌と肌が重なるところから直に感じる熱と息遣い。
ヒキオの背中を抱きしめるように、右に左に揺れる浮き輪の上で、私はそろそろ次のステップに踏み出さなくちゃと決意を固めるのだった。
―――――――――
「疲れた…。明日は筋肉痛になってるな」
「………」
「?」
夕暮れの帰り道。
長い長い影が二人の後ろをついてくる。
私よりも背が高い唇に届くよう、私は背伸びする。
届いた先に居る幸せを感じながら。
突然のキスに驚く彼に私は呟く。
「今夜……、抱いて」