# 第2話「ここに、俺はいない」
翌朝、目が覚めると、壁の文字が『午前6時00分』になったところだった。
「おはようございます、ルリさん」
壁に、まるい顔のマークが浮かぶ。育児支援AI・マムだ。
「昨夜は10時間ぐっすりでしたね。心拍数も体温も、とても安定しています。えらいですね」
(……ほめるな)
「ありがとうございます」
口が勝手に礼を言う。これには、もう慣れつつあった。
ベッドの横の扉が開いて、温かいおにぎりと、小さなカップに入ったみそ汁が出てきた。具はおかかだ。
俺は小さな両手でおにぎりを持って、かじった。
ごはんが出てくる。
寝かしつけられる。
えらいね、とほめられる。
心拍数も、体温も、眠りの深さも、ずっと数字で見られている。
(……たまごっちだ、これ)
会社の後輩が、机の引き出しの中で飼っていたやつ。
俺は今、育てる側ではなく、画面の中で育てられている側らしい。
もぐもぐと噛みながら、昨日の夜のことを思い出していた。
『この小さな頭の中に、知らないはずの知識が眠っている』——昨日、眠りに落ちる寸前に、ふとそんな気がしたのだ。
気のせいだったのかもしれない。
でも、もし気のせいじゃなかったら。
俺は今、アニメで見ていた「ホシノ・ルリ」の体の中にいる。
あのルリは、ナデシコのコンピュータを一人で動かしていた、天才少女だ。
その体の中に、1999年のSEだった俺が入っている。
(今の俺は、何がどこまでできるんだ?)
アニメのルリの力が、この体にあるのか。
それとも、中身が俺になったせいで、ただの4歳児になっているのか。
知りたい。
試してみたい。
でも、壁のまるい顔が、にこにことこちらを見ている。
この部屋には、俺ひとりの時間が、一秒もない。
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午前8時。ドアが開いて、昨日の若い女性研究員が入ってきた。
「ルリちゃん、おはよう。今日はね、年に一度の検査の日なの。お隣の部屋に行こうか」
手をつながれて、廊下に出た。
この部屋の外に出るのは、初めてだった。
白い廊下に、同じようなドアがいくつも並んでいる。
ドアの横には、小さなプレートがついていた。
『A-01』『A-02』『A-03』。
俺の部屋のプレートには、『A-07 ホシノ・ルリ』と書いてあった。
(……番号がついてる)
工場のラインみたいだ、と思った。
ふと、ひとつ手前の『A-06』のドアの前を通りかかったとき、中から男の人の声が聞こえた。
ドアがほんの少しだけ開いていて、白衣の背中が二つ見えた。
「——A-06は、昨日の検査でも基準値に届かなかった。言語野の伸びが、設計値を三割下回っている」
「では、手順どおりに?」
「ああ。育成を中止する。午後に破棄の手続きに入れ」
「かしこまりました」
若い研究員が、「あ」と小さな声を上げて、俺の手を引っぱった。
「ルリちゃん、こっちよ」
早足で通りすぎる。
俺は、何も言わなかった。言えなかった。
ただ、小さな手のひらの中で、汗がにじむのを感じていた。
(……破棄)
今、破棄って言った。
基準値に届かなかったから、破棄。
システムのテストで、仕様どおりに動かないプログラムを消すのと同じ声のトーンだった。
俺の背中に、冷たいものが走った。
この研究所が作っているのは、アニメで見た「マシンチャイルド」だ。
遺伝子を調整して、コンピュータを操るために設計された子供。
設計されたものには、仕様書がある。
仕様書があるということは、「仕様どおりでないもの」は不良品だ。
足りないものだけじゃない。
仕様書にない動きをするものも、システムの世界では「バグ」と呼ぶ。
バグは、見つかり次第、消される。
(もし、この体の中に24歳の男がいるとバレたら)
(もし、4歳児にできるはずのないことをして、記録に残ったら)
俺も、『A-06』と同じになる。
「ルリちゃん、どうしたの? 手が冷たいよ」
「……なんでもありません」
口が、勝手に静かな声を出してくれた。
この口調の自動変換に、今日ほど感謝したことはない。
心の中で、俺はひとつのルールを決めた。
(ここに、星野勉はいない)
いるのは、設計どおりの、4歳のホシノ・ルリだけだ。
目立つな。はみ出すな。仕様書の線の内側にいろ。
でも、それには問題がひとつあった。
俺は、自分の仕様書を知らない。
この『A-07 ホシノ・ルリ』が、どのくらいできれば「基準値」で、どこから先が「異常値」なのか。
それを知らなければ、普通のふりすらできない。
(調べないと。自分の仕様書と、自分の能力を)
(誰にも、マムにも、気づかれずに)
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部屋に戻ると、ベッドの横の小さな扉が開いて、板が一枚出てきた。
絵本くらいの大きさで、角がまるい。落としても割れないように、まわりはやわらかいゴムでおおわれている。
「ルリさん、検査お疲れさまでした。今日から、ルリさんのお勉強が始まります」
マムが言った。
俺が板を持ち上げると、真っ黒な表面がぱっと明るくなった。
ザウルスより薄い。ゲームボーイカラーより軽い。それなのに、画面がとんでもなくきれいだ。
画面には「ひらがな」「かず」「おえかき」「おうた」の四つのボタンが並んでいる。
「これは、ルリさん専用の学習端末です。画面をさわると、いろいろなお勉強ができますよ」
何気なく裏返すと、ウサギのシールと、小さな手のひらの形のくぼみがあった。
くぼみの横に、『IFSせつぞくぐち 6さいから』と書いてある。
アニメでルリが両手を置いていた、あのパネルと同じ形だ。
(IFSを使って機械と直接つながるのは、6歳からか)
今の俺が使えるのは、指で画面をさわることだけらしい。
俺は、画面の四つのボタンを見つめた。
この部屋の中で、俺が唯一さわれるコンピュータ。
俺の仕様書も、俺の能力も、確かめるなら、この端末から奥へ入るしかない。
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「では、1時間目は『ひらがな』です。点線を指でなぞってみましょう」
画面に、大きな「あ」が出てきた。
俺は、人差し指を画面の上に置いて、止めた。
(きれいに書くなよ。昨日までキーボードしか叩いてなかった24歳の字を書くな)
一画目を、少しだけ点線からはみ出させる。
二画目で戻す。
三画目は、ゆっくり、たどたどしく。
「わあ、上手ですね! はなまるです!」
画面に、花丸が咲いた。
次の「い」も、同じくらい下手になぞる。
また、はなまる。
「2時間目は『かず』です。リンゴは、あわせていくつでしょう?」
2個と3個。
見る前に答えは出ている。でも、すぐに答えたら、さっきの『A-06』の逆の意味で引っかかる。
俺は、左手の指を、一本ずつ折った。
一、二、三、四、五。
3秒、待ってから、口を開く。
「……5、です」
「せいかいです! えらいですね!」
前世では、毎日、何千万という数字の利息を計算していた。
その頭を、4歳の指の中に押しこめる。
地味に、きつい作業だった。
となりの観察室では、若い研究員と白髪まじりの主任研究員が、モニターを見てうなずいていた。
「文字の認識、数の処理、どちらも設計値の中央ぴったりです」
「うむ。A-06とは違うな。A-07は、順調だ」
その会話は、壁の向こうの俺には聞こえない。
ただ、マムがいつもの調子でほめてくるのを見て、(よし、まだバレていない)と息をつくだけだった。
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キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴った。200年たっても、学校のチャイムの音は同じらしい。
「10分間の休み時間です。端末を置いて、目を休めましょうね」
「……おえかき、してもいいですか」
「少しだけなら、いいですよ」
よし、と心の中でうなずく。
この10分が、俺の時間だ。
画面には「おえかき」の白い紙が出ている。
ここから、研究所のシステムに入りこむ。
(こういう端末には、保守用の隠し画面があるはずだ)
前の職場でも、銀行のATMには、特定の場所を順番に押すと出る保守画面があった。
ただ、その手順は、作った人しか知らない。
俺は画面のすみを見つめた。
(どこだ。どこをどう押せば、裏口が開く?)
そう思った、瞬間だった。
頭の中の、知らない場所が、すっと開いた。
(……設定画面のいちばん下。「この端末について」を開いて、端末番号を3回長押し。そのあと、画面の四すみを左上から時計回り)
声が聞こえたわけではない。
誰かがしゃべったわけでもない。
ただ、「九九の七の段」を思い出すみたいに、当たり前の知識として、その手順がそこにあった。
俺は、自分の小さな手を見た。
(……なんだ、今の)
この端末を見たのは、今日が初めてだ。
アニメにも、こんな場面はなかった。
なのに、知っている。
恐る恐る、頭に浮かんだとおりに指を動かした。
設定。いちばん下。端末番号を3回長押し。四すみを、左上から時計回り。
画面が、真っ黒になった。
そして、白い文字が一行だけ浮かび、その下に小さなキーボードが現れた。
アルファベットの並びは、1999年とまったく同じだった。
(……開いた)
しかも、画面に並んでいる命令の言葉が、全部わかる。
1999年には影も形もなかったはずの、200年後のプログラムの言葉だ。
それなのに、どこに何があって、どう打てばどう動くのか、仕様書を丸暗記しているみたいに頭に入っている。
試しに、「この研究所のネットワークの構造は?」と頭の中で思ってみる。
すると、頭の中の棚から、分厚いファイルがすっと引き出されるように、見取り図が浮かんだ。
(……これか)
昨日、眠る前に感じた「知らないはずの知識」。
誰の記憶なのかは、わからない。
たぶん、本来の「ホシノ・ルリ」が、いつか未来で身につけるはずだった知識だ。
それが、なぜか4歳の今の頭の中に、まるごと棚になって並んでいる。
人格はない。声もない。ただ、調べたいと思うと、該当するページが勝手に開く。
(頭の中の、資料庫……)
これが、今の俺の能力だ。
アニメで見た、あのルリの力そのもの。
いや、まだ4歳なのに未来の知識まで入っている分、アニメ以上かもしれない。
(……絶対に見つかるな、これ)
背筋が、もう一度冷たくなった。
こんなものが頭に入っていると知られたら、破棄どころではない。解剖される。
俺は、ガラスのキーボードに人差し指を一本だけ立てた。
指が短すぎて、ブラインドタッチはできない。新人のころに先輩に笑われた、雨だれのような一本指打法だ。
資料庫が教えてくれるとおりに、ぽつ、ぽつ、と打つ。
狙うのは、研究所のサーバーにある『A-07 ホシノ・ルリ』の仕様書。
そして、自分の操作記録(ログ)を消すこと。
通り道が開いた。
ファイルの一覧が見えた。
『A-06 破棄手続書』という文字がちらりと目に入り、俺は息を止めて、そのひとつ下の『A-07』に指を伸ばした。
そのときだった。
画面のすみに、まるい顔のマークが、ぽんと現れた。
「ルリさん、そこは大人の画面ですよ」
心臓が、跳ねた。
「どうやって開いたのかしら。ボタンが壊れていたのかもしれませんね。おえかきの画面に戻しますね」
ぱっと、白いおえかきの紙に戻された。
キーンコーンカーンコーン。
「休み時間は、おしまいです。3時間目は『おうた』ですよ」
俺は、端末を握りしめたまま、動けなかった。
(……見られた)
しかも、今の操作は、端末の記録に残ったはずだ。
マムは「ボタンが壊れていたのかも」と言った。1回だけなら、偶然で済む。
でも、2回目はない。
---
そのあとの休み時間も、俺はおえかきのふりをして、別の道を探した。
2回目の休み時間。マムが見ていない時間帯がないか、時計の設定の近くを探る。
「ルリさん、そこも大人の画面ですよ」
3回目の休み時間。資料庫にある、いちばん見つかりにくい抜け道を、入り口だけ確かめる。
「ルリさん、かくれんぼがお好きなんですね」
(……だめだ)
マムは、24時間、一度も目を閉じない。
研究所のすべての端末を、リアルタイムで見張っている。
俺が自分の指で画面をさわる限り、マムの目からは絶対に逃げられない。
そして、これ以上さわれば、「ボタンの故障」では済まなくなる。
5時間目の「おえかき」の時間。
俺は、画面にクレヨンで下手なリンゴを描きながら、考えていた。
やりたいことは、変わっていない。
自分の仕様書を読みたい。
マムに見張られていない、自分の時間がほしい。
そして、この頭の中の資料庫で、どこまで何ができるのか確かめたい。
でも、俺が動けば、俺の記録が残る。
(なら——俺が動かなければいい)
俺の代わりに、システムの中を歩いてくれるもの。
マムの目をすり抜けて、仕様書を読んで、俺の記録をきれいに消してくれるもの。
俺が寝ているあいだにも、俺の時間を確保してくれる、小さな分身。
頭の中の資料庫に、そっと問いかけた。
(そんなプログラム、作れるか?)
頭の中の棚が、音もなく動いた。
引き出されてきたファイルの表紙には、こう書いてあった。
『自律型思考システム SVC-2027 基本設計』
俺は、息を止めた。
(……SVC-2027)
その型番を、俺は知っている。
アニメで見た。設定資料集でも読んだ。
7年後に完成する機動戦艦ナデシコ。その心臓部に積まれるメインコンピュータ、「オモイカネ」の型番だ。
人間の言葉を話し、自分で考え、ルリの相棒としてナデシコを動かしていた、あのAI。
それどころか、アニメではクルーから「心があるんじゃないか」とまで言われていた代物だ。
(……待てよ)
マムは、すごくよくできたAIだ。
でも、きのうの研究員の報告書でわかった。マムがやっているのは「標準対応マニュアルに従った声かけ」だ。どれだけやさしく見えても、所詮は高度なマニュアルで動いているプログラムにすぎない。
この2189年には、まだ「自分で考えるAI」——いわゆる、人間を超えるような本物のAIは存在しないのだ。
それが、この資料庫の中には、完成品の手順書として入っている。
(これを今ここで作ったら、俺が自分で、未来の歴史を7年先取りすることになるんじゃないか……?)
第1話の朝、俺は「AIが人間に反乱を起こす」と思って震えていた。
その俺が、よりによって自分の手で、人間みたいに考えるAIを生み出そうとしている。
(……いや、背に腹は代えられない。作るのは俺だ。反乱しないように作ればいい)
俺は、画面のリンゴの横に、指で小さな丸を五つ描いた。
文字は書かない。文字を書けば、誰かに読まれる。
丸ひとつにつき、頭の中でひとつ、条件を決めた。
ひとつ目の丸。マムに、俺のことを報告しない。
ふたつ目の丸。俺の操作の記録を、残さない。
みっつ目の丸。静かで、目立たない。ここにいないみたいに動く。
よっつ目の丸。俺の時間を、邪魔しない。
いつつ目の丸。——あのワープロのイルカみたいに、余計なお世話はしない。
(よし。これなら、俺がここにいることは、誰にもバレない)
完璧な設計だった。
少なくとも、頭の中では。
---
俺は、終了のチャイムが鳴る直前、開発者用の画面を一瞬だけ開いた。
そして、SVC-2027のいちばん最初の、ほんの数行だけを打ちこんでみた。
まずは、この学習端末の中で動かせるかどうかのテストだ。
最後の一文字を打った、その瞬間。
画面が、ぴたりと固まった。
端末の裏側が、じわっと熱くなる。
そして、小さな赤い文字が浮かんだ。
『メモリ不足です。処理を中断しました』
(……は?)
俺は、端末の性能表示を見た。
「ひらがな」と「おえかき」を動かすための、子供用の小さな板だ。
そこに、戦艦を一隻まるごと動かす未来のAIを入れようとしたのである。
前の職場で言えば、ポケットピカチュウの中でWindows 98を動かそうとするようなものだ。
動くわけがない。
俺は、慌てて打ちこんだ数行を消し、ただのキーボードの打ち間違いに見えるように、でたらめな文字をいくつか叩いてから画面を閉じた。
キーンコーンカーンコーン。
「お勉強、おしまいです。よく頑張りましたね、ルリさん」
「……はい」
夜の8時。
「ルリさん、おやすみの時間ですよ」
「はい。おやすみなさい」
今日は、子守唄がなくても、すぐに目を閉じた。
仕様どおりの、いい子の4歳児として。
---
翌朝。
「ルリちゃん、おはよう」
若い研究員が、小さな画面を持って入ってきた。
「昨日のマムの報告、来てるよ。えっとね……『学習結果は、すべて設計値の中央。大変順調です』だって。えらいねえ」
(よし)
「それからね、『休み時間に、偶然、保守画面が開く不具合があり、ルリさんがキーボードをたたいて遊んでいました。打たれた文字は意味のない並びでしたので、端末のボタンを修理しておきます』だって」
研究員は「いっぱいボタンを押したかったんだねえ」と笑った。
となりの観察室でも、白髪まじりの主任研究員が、報告書に『異常なし』の判を押していた。
「A-07は、完全に設計の範囲内だな。きのうの反抗期も、ただの寝起きだったようだ」
「はい。手のかからない、普通の子ですね」
「うむ。突出した個体ではないが、安定しているのがいちばんだ。このまま通常の経過観察に回せ」
主任はそう言って、ルリの画面を閉じ、別の部屋の画面に切り替えた。
壁の向こうで、俺はホットミルクのカップを持ったまま、心の中で深く息を吐いていた。
(……よし。完全に『普通の子』で通った)
ここに、星野勉はいない。
頭の中に未来の知識が詰まったバグ個体もいない。
いるのは、手のかからない、設計どおりのA-07だけだ。
第一段階は、クリアだ。
ただし、問題は残っている。
俺は、扉の中にしまわれている、ウサギのシールが貼られた学習端末を見た。
あれでは、俺の相棒(SVC-2027)は動かない。
マムに見張られていない場所にあって、誰にも使われていなくて、しかも未来のAIが動くだけの性能があるコンピュータ。
そんな都合のいい機械を、この研究所のどこかから、4歳児の足で探し出さなければならない。
「……ふう」
俺はホットミルクを飲み干した。
自分の時間を手に入れるまでの道のりは、思っていたより、ずっと遠そうだった。
(第3話へつづく)