# 第6話「ポケベルが鳴らなくて、大統領」
「ルリちゃん、今日から6歳ね。お誕生日おめでとう!」
西暦2191年。
研究所に来てから、丸2年がたった。
俺——ホシノ・ルリは、6歳になった。
研究員のお姉さんが、小さなショートケーキを持ってきてくれた。俺は「……ありがとうございます」と無表情で頭を下げて、イチゴから先に食べた。
6歳になったということは、今日からいよいよ「IFS(体内のナノマシンで機械と直接つながる訓練)」が始まるということだ。
もちろん、俺はそこでも「設計値のど真ん中」をキープするつもりだった。
ただ、ひとつだけ、個人的にどうしても解決したい問題があった。
(……地下のコモイカネと、連絡が取りづらい)
おひるねの時間に外から鍵をかけられるようになってから、もう2年になる。
そのあいだ、俺はずっと学習用のタブレット端末のすみっこを使って、モールス信号みたいな遅い回線で、地下室のコモイカネとやり取りしていた。
でも、学習端末はお勉強の時間が終わると扉の中にしまわれてしまうし、部屋の外に持ち出すこともできない。
いつでも、どこでも、手首につけたままでコモイカネと話せる、俺専用の小さな端末が欲しい。
1999年の俺がポケットに入れていた、ポケベルやPHSみたいなやつが。
(……待てよ。アニメのナデシコに出てきた、あの腕時計みたいな通信機って、なんて名前だったっけ)
頭の中の『未来のルリの資料庫』をめくる。
すぐに出てきた。
『携帯型・空間投影情報端末 コミュニケ』
手首に巻くバングル型で、何もない空中にホログラムの画面を浮かび上がらせて、通話もデータ通信もできる未来の端末だ。
アニメでは、ナデシコのクルーが当たり前に手首につけていた。
(よし、今のうちにこれ、研究所に配られないかな……)
そう思って、資料庫の横についていた開発年表を見た俺は、目を丸くした。
『2194年:ネルガル重工、軍用試作機としてコミュニケを開発』
(……まだ、この世界に存在してないのかよ!!)
2191年の今の携帯電話は、まだポケットから薄い板を取り出して使うタイプが主流らしい。手首から空中に画面を出す技術は、空間投影の消費電力が大きすぎて、まだ誰も実用化できていないのだ。
(……ないなら、作るか。俺が)
ちょうどいい。
4歳のときに売った「全自動ヘアゴム」に続く、覆面発明家『プロフェッサー・H』の大型商品の第二弾にするのだ。
自分で発明して、ネルガルに売って、世界中に普及させて、その「おこぼれ」として研究所の6歳児である俺の手首にも合法的に配らせる。
なんという回りくどい自作自演だろう。
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その日の昼休み。
俺は学習端末のすみから、地下室のコモイカネに指示を飛ばした。
『コモイカネ。資料庫にある「コミュニケ」の設計図を、民間向けにアレンジしてプロスペクターに売りこむぞ。ただの通信機じゃなくて、世界中の人間が1人1台、絶対に欲しくなるような機能を詰めこめ』
『おまかせください!! ルリさんの1999年のご記憶にある「ポケベル」「PHS」「着メロ」「パソコン通信の掲示板」の要素を、2190年代の技術と悪魔合体させてみますね!!』
(悪魔合体って言うな。人聞きが悪い)
数分後、コモイカネが上げてきた仕様書は、とんでもない代物だった。
まず、手首につけるだけで、空中にいつでも画面が出せる。
次に、体内のナノマシン(IFSがない一般人でも使える簡易センサー)と連動して、体温や体調を自動でチェックしてくれる。
そして、一番の目玉として、コモイカネが勝手に追加したのが——『コミュニケ・チャンネル(通称:コミチャン)』という、標準搭載のネット掲示板・動画共有機能だった。
手首をひねるだけで、いま見ている景色や、ちょっとしたつぶやきを、世界中の人に実名でポンと発信でき、それに対して誰もが「いいね!」やコメントをつけられる仕組みだ。
『ルリさん!! 1999年の人たちは、夜11時になるのを待って掲示板に書きこんでいたそうですが、これがあれば、24時間いつでも、歩きながらでも掲示板で語り合えます!! 絶対に流行ります!!』
(……いや、歩きながら掲示板を見たら、電柱にぶつかるだろ)
とは思ったものの、いつでも手首でネットが見られる便利さは、元SEとしても魅力的だった。
俺は、その設計図を『プロフェッサー・H』名義で、ネルガル本社のプロスペクターに送りつけた。
結果から言うと。
プロスペクターは、チャット画面の向こうで、文字どおり踊り狂った。
『せ、先生ーーーッ!! なんというものを発明されたのですか!! 空間投影の省電力化だけでもノーベル賞ものですが、この「手首から1秒で世界に発信できる」という仕組み!! 弊社の通信事業部が、感涙にむせんでおります!!』
半年後。
ネルガル重工から発売された民間用端末『コミュニケ』は、地球から火星まで、文字どおり人類の生活を一変させた。
街を歩けば、大人も子供も手首から空中に画面を浮かべ、自分の朝ごはんの写真や、ペットの動画や、仕事の愚痴を発信している。
それどころか、有名人や企業の社長、果ては軍の広報官までが、毎日『コミチャン』でライブ配信をして、フォロワーの数や「いいね」の数を競い合う時代になってしまったのだ。
(……1999年の掲示板は、ハンドルネームでこっそりやるアングラな場所だったのに。なんで200年後の人間は、顔も本名も全部出して、世界中に日記を公開してるんだ……!?)
自分が売った商品のせいで生まれた「全員発信時代」の文化に、発明者本人がいちばん引いていた。
しかも、最大の誤算がふたつあった。
ひとつ目は、念願かなって研究所の俺にも支給されたコミュニケ(その日の夜に、無事コモイカネの本体を地下室から引っ越しさせた)に、俺が1999年のノスタルジーで設定した『ピピピ、ピピピ』というポケベルの着信音だ。
授業中にそれが鳴ったとき、研究員のお姉さんは目を細めて言った。
「あら、ルリちゃんのコミュニケ、なんだかレトロでかわいい小鳥のさえずりね?」
(……鳥じゃない。ポケベルだ)
1999年には女子高生が血眼になって数字を打っていたポケベルも、200年後には「小鳥の鳴き声」扱いだった。
そして、ふたつ目の誤算。
俺が4歳のときに、白いワンピースから早くズボンに戻りたくて撮られた、あの「無表情のブイ」の記録写真だ。
もちろん、この研究所は極秘施設なので、俺たちの存在も名前も外には一切秘匿されている。
ところが、ネルガル本社の開発部が『コミチャン』の通信負荷テストをした際、誰かがテスト用のダミー画像として、社内サーバーの奥にあったその写真をうっかり使い、しかも削除し忘れたまま一般公開のサーバーに流してしまったのだ。
すると、俺が自分で作った『コミチャン』の拡散機能によって、その画像が1日で地球圏を3周した。
『テストサーバーの隅っこにいた、この世の終わりみたいな顔でピースしてる銀髪の幼女は誰だ』
『笑ってないのにブイって言ってるぞ』
『どこの誰かも名前も一切出てこない。CGか? いや、本物の美少女だ』
『ネットの海にだけ現れる、電子の妖精だ……!!』
研究所が秘匿されているおかげで、どこの誰かは特定されなかった。
ただ、名前も素性もわからないまま、俺の「無表情のブイ」の画像だけが『見ると幸せになる(あるいは定時で帰れる)電子の妖精』としてネットのお守りみたいに世界中で出回るようになってしまったのだ。
「ルリちゃん、見て見て! 最近ネットで流行ってる『ブイの妖精さん』、なんだか昔のルリちゃんにそっくりなのよ! 外の人には秘密だから言えないけど、ちょっと自慢したくなっちゃうわね!」
研究員のお姉さんが、自分のコミュニケの待ち受け画面(俺が4歳のときの仏頂面のピース写真)をうれしそうに見せてくる。
自分が作ったSNSのせいで、自分の黒歴史の写真が、名前も知られないまま全人類の待ち受け画像になっている。
見事なまでの自業自得だった。
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だが、この「コミュニケとSNSの大流行」が、思いがけないところで、俺に最大の武器をもたらすことになる。
それからさらに2年後の、西暦2193年。俺が8歳になった年だ。
地球連合では、4年に一度の「大統領選挙」の真っ最中だった。
部屋のテレビでも、毎日、候補者たちのニュースが流れている。
俺は、おやつのプリンを食べながら、そのニュースを眺めては首をかしげていた。
(……政治家が、なんか、ユーチューバー……いや、テレビの司会者みたいだな)
1999年の日本の政治といえば、難しい顔をしたおじいさんたちが永田町の料亭で話し合って、1年か2年で首相がコロコロ変わるものだった。選挙といえば、白い手袋をして、軽トラックの上から「よろしくお願いします!」と名前だけを連呼するやつだ。
ところが、2193年の地球連合は違った。
強い権限を持ったリーダー型の大統領を、市民の直接投票で選ぶ。
そして、その勝敗を決めるのは、政策の分厚いパンフレットではなく——俺が発明した『コミュニケ』のSNSでの支持率と、毎朝の配信の再生数だったのだ。
その選挙で、ひとりの候補者が苦戦していた。
名前は、ローガン・クライン。
のちにアニメ本編の時代にも地球連合を率いることになる、豪快なヒゲの中年政治家だ。
俺のアニメ知識によれば、本来ならこの人が当選するはずなのだが、現在の支持率は2番手。
原因ははっきりしていた。対立候補が、AIに作らせた「耳あたりのいい、完璧な演説動画」を毎日アップして、若い世代の「いいね」を稼ぎまくっていたからだ。
一方のクライン候補は、政策の柱として『宇宙開拓の現場や地方都市の医療格差をゼロにする! すべての市民に無償の早期医療を!』という、すごくまっとうな医療政策を掲げていた。
ところが、対立候補から「火星や月のコロニーすべてに最新鋭の総合病院を建てるなんて、予算がいくらあっても足りない! 夢物語だ!」と攻撃され、それに対してコミュニケのカメラの前で、不器用に顔をしかめて怒鳴り返していたのだ。
『わしは、AIが書いた綺麗な言葉なんぞ読み上げん! 予算が足りんだろうがなんだろうが、火星や月で汗を流して働いとる人間が、病院が遠いせいで手遅れになるなんぞ、絶対にあってはならんことだろうが!!』
ネットのコメント欄には、『古い』『声がでかい』『財源どうすんだよw』『今の時代に根性論かよ』と、バカにする書き込みが並んでいる。
だが、テレビの前でプリンを食べていた俺だけは、スプーンを止めて、その画面をじっと見ていた。
(……いや、このおっさんの言ってることの方が、100倍まともじゃないか?)
1999年の現場で、3日徹夜して誰にも気づかれずに倒れた俺には、痛いほどわかる。
体が壊れてから病院に行くのでは遅いのだ。倒れる前に気づいてくれる仕組みが、働く人間には一番ありがたい。
しかも、このおっさんが困っている「病院を建てる予算がない」という問題は、俺の手元にある技術を使えば、今すぐに解決できる。
それに、俺はもう気づいていた。
再来年——2195年には、木星蜥蜴が火星に攻めてくる。
そのとき、火星の何百万人もの市民を避難させるには、ネルガルという一民間企業の力だけでは絶対に足りない。軍や自治政府をトップダウンで動かせる、地球連合の「最高権力者」との太いパイプが、どうしても必要なのだ。
(……よし。このおっさんの医療政策を完成させて、最大の恩を売っておこう)
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その日の夜。
俺は『プロフェッサー・H』として、クライン候補の選挙事務所の専用回線に、暗号チャットを送った。
コミュニケを開発した伝説の発明家からの突然の連絡に、クライン候補本人が、目を白黒させながらカメラの前に出てきた(もちろん、こちら側は音声も映像もオフで、黒い画面に白い文字だけだ)。
「あ、あんたが、あの『コミュニケ』を作ったプロフェッサー・Hか!? わしみたいな古い人間に、いったい何の用だ!」
俺は、布団の中で短い指を動かして、老博士の口調で打った。
『うむ。クライン君、君の掲げている「医療格差ゼロ」の政策を見たよ。私はね、AIが書いた薄っぺらい言葉より、君のような現場思いの政治家を信じるタチでね』
画面の向こうで、クライン候補が「おお……!」と感激したように目を見開いた。
『ただ、君の言うとおり、すべての開拓地に大病院を建てるにはお金と時間がかかりすぎる。そこで提案だ。新しい病院を建てるのではなく、いまや市民全員の手首についている「コミュニケ」を、そのまま病院にしてしまえばいい』
「なっ……!? コミュニケを、病院にだと!?」
『うむ。私がまだ公表していない「コミュニケ用の次世代・ナノマシン健康診断プログラム」の特許を、君の政策のために無償で提供しよう。これをコミュニケに配信すれば、手首のセンサーが体内の微細な変化を読み取って、子供の急病も、高齢者の発作も、働きすぎのサラリーマンの過労も、倒れる3日前に予知して近くの医師に自動でつないでくれる。病院を一から建てるより、予算は100分の1、導入は来月から可能だ』
「ば、バカな……!! それがあれば、わしの医療政策の弱点だった財源問題が、一発で消えてなくなるぞ!? そ、そんな何百億もするような特許を、なぜわしに……!?」
『そのかわり、もうひとつ——私の「広報アドバイス」を聞きたまえ』
俺は、1999年の深夜、パソコン通信の掲示板でどうやったら自分の書き込みを読んでもらえるか研究した経験と、2190年代のSNSのクセを組み合わせて、一行ずつ指示を出した。
『君は、演台の前に立ってカメラをにらみつけるから「怖い」「古い」と言われるのだ。明日から、演説配信はやめなさい。代わりに、毎朝6時に、自宅の台所で自分で目玉焼きを焼きながら、市民から届いた医療や生活の悩みに、1件ずつ本音で答える5分間の生配信をやりたまえ。タイトルは『朝の目玉焼き相談室』だ。AIの原稿も、スタッフのカンペも一切禁止。言葉を噛んでも、目玉焼きが焦げても、そのまま流すのだ』
「め、目玉焼きを焼きながら!? わしは大統領候補だぞ!? そんなみっともない姿をさらせというのか!」
『AIが1秒で完璧な演説動画を作れる時代だからこそ、人は「人間の不器用な本気」に飢えているのだよ。いいから、だまされたと思って3日だけやってみたまえ』
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そして、翌朝6時。
俺が部屋のベッドで起き抜けに自分のコミュニケを開くと、『コミチャン』の片隅で、クライン候補の生配信が始まったところだった。
最初の視聴者数は、わずか300人。半分以上は、からかい半分のアンチだ。
画面に映っていたのは、立派な演説会場ではなく、どこか生活感のある普通のキッチンだった。
スーツの上に、サイズが合っていない花柄のエプロンを窮屈そうにつけたクライン候補が、仏頂面でフライパンの前に立っている。
「えー……あー、聞こえとるか。ローガン・クラインだ。今日から、朝飯を作りながら、みんなから届いた医療や暮らしの相談に答えることにした」
コメント欄に、さっそく『なんだこれw』『迷走しすぎだろ』『料理番組かよ』と草が生え始める。
クライン候補は、太い指で不器用に卵をコンコンと叩き、フライパンに割り入れた。
ジュワッ、といい音が響く。
ところが、力加減を間違えたのか、真ん中の黄身がぷつんと破れて、白身の上に黄色く広がってしまった。
「……あっ」
身長190センチ近い豪快なヒゲの政治家が、フライパンをのぞきこんで、本当にこの世の終わりみたいに肩を落とした。
「……ま、また割れた……! くそっ、わしは半熟の目玉焼きが好きなんだが、亡くなった女房みたいにうまくできん……!」
カメラが回っているのも忘れて、本気で悔しそうにフライパンの柄を握りしめるクライン候補。
コメント欄が、ぴたりと止まった。
そして、次に流れてきたコメントは、『お、おう』『なんか急に親近感わいた』『うちのお父さんと同じだw』という、戸惑い混じりの温かい言葉だった。
クライン候補は「コホン!」と慌てて咳払いをすると、焦げかけた目玉焼きを皿に移し、手元のコミュニケに表示された最初の相談メッセージを読み上げた。
「えー、火星の第9農業区画の母親からだ。『近くに小児科がなく、3歳の娘が夜中に熱を出すたびに、片道2時間の病院まで走るべきか、朝まで待つべきか、ひとりで震えています』……か」
さっきまで目玉焼きで凹んでいたおっさんの目が、一瞬で、本気の政治家の目に変わった。
「……わかるぞ、お母さん。怖いよな。わしも昔、地方都市で働いとったころ、夜中に子供の熱が上がって、吹雪の中を泣きながら車を走らせたことがある。だから、わしはこの医療政策だけは、誰に笑われても絶対に引っ込めなんだ」
クライン候補は、自分の手首のコミュニケを、カメラに向かってドンと突き出した。
「だが、もう安心せい! 昨日、このコミュニケを作った『プロフェッサー・H』先生が、わしの政策に全面協力してくれることになった! 来月からは、あんたの手首のそのコミュニケが、24時間、娘さんの体を診てくれる! 夜中に熱が出たら、それがただの風邪か、今すぐ走るべき病気か、その場で教えてくれて、遠くの専門医と即座に画面をつなぐ! もう、夜中にひとりで震えんでいい社会を、わしがかならず作る!!」
力強い声が、キッチンの壁に響いた。
そのままクライン候補は、「よし、冷める前に食うか!」と、黄身の割れた目玉焼きに醤油をかけて、豪快に口へ放りこみ、「うむ、焼きすぎたが、うまい!!」とニッと笑って、5分間の配信はブツッと終了した。
俺は、布団の中で画面を見つめながら、小さくガッツポーズをした。
(……100点満点だ、おっさん!!)
その日の昼には、『朝の目玉焼き相談室』の第1回切り抜き動画が、コミチャンで1000万再生を突破していた。
『ちょっと待て、あのおっさん、ただの頑固ジジイかと思ったらめちゃくちゃいい人じゃん』
『目玉焼きの黄身が割れてガチ凹みした直後に、あの熱い回答はズルいって。ちょっと泣いたわ』
『しかも財源問題、プロフェッサー・Hのコミュニケ健康施策で完全に解決してるじゃん! 対立候補のAI演説より100倍中身あるぞ!』
それからの1か月間、毎朝6時になると、何千万人もの市民が「今日はクラインさんの目玉焼き、割れないかな?」とわくわくしながら配信を見るようになり、支持率は地滑りを起こすように逆転した。
そして、投票日。
圧勝で地球連合の新しい大統領に就任したクライン氏から、俺の隠しアカウントに、涙マークの絵文字が10個くらい並んだ直通メッセージが届いた。
『プロフェッサー・H!! 先生のおかげで当選できました!! 先生は私の生涯の恩人です!! これから先、先生が何か困ったときは、この大統領直通アカウントにいつでもご連絡ください!! 政府の権限で、なんでも協力します!!』
俺は、布団の中でそのメッセージを読んで、満足そうにうなずいた。
(……よし。これで、お金と、大企業の筆頭株主の立場と、地球連合大統領への直通パイプ。全部そろったぞ)
目立たないように生きてきたはずの8歳児の手の中に、太陽系を動かせるだけのカードが、静かにそろった瞬間だった。
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翌朝。
「ルリちゃん、おはよう! きのうの選挙、目玉焼きのおじさんが勝ったわねえ!」
研究員のお姉さんが、自分の手首のコミュニケをひらひらさせながら入ってきた。
「あのおじさん、毎朝おいしそうに目玉焼きを食べるから、うちの研究所でも今日から朝ごはんに目玉焼きがつくことになったのよ! ああ、プロフェッサー・H様といい、新しい大統領といい、世の中を動かしてる偉い人たちはすごいわねえ!」
お姉さんの目の前で、その「プロフェッサー・H」であり「目玉焼きを指示した張本人」である8歳児は、小さなフォークで目玉焼きをつついていた。
黄身が、ちょっとだけ潰れていた。
俺は、それを口に運んで、静かに言った。
「……半熟のほうが、好きです」
「あら、ルリちゃん、おとなの好みねえ」
手首のコミュニケが、『ピピピ、ピピピ』と小鳥のようなポケベルの音を鳴らした。
画面のすみで、コモイカネが『ルリさん! 大統領から、今朝の目玉焼きの写真が届いています!!「今日は黄身が割れませんでした!!」とのことです!!』と報告してくる。
(……一国の最高権力者が、毎朝俺に目玉焼きの報告をしてくるな)
俺は、誰にも聞こえないように、小さくため息をついた。
火星に最初の嵐がやってくる2195年まで、あと2年だった。
(第7話へつづく)