「ふう……よしっ! ハンナちゃん! こっち終わったよー!」
「ありがとうございます、エマさん。やっぱりエマさんとだとことがテキパキ進みますわ」
ハンナはエマが埃をはらった本棚を見上げて、気持ちのいい笑顔で雑巾を絞っている。
この牢屋敷は黒幕であるメルルの手で、少女たちにいかにストレスを与えるかだけを考えて作られていた。薄暗さも、淀んだ空気も、軋む床の音さえも。
そのメルルとユキがいなくなった今。魔女となる可能性を失ったエマたちには、急いで取り組まなければならない仕事がある。
そう、掃除である。
年末の大掃除をも凌駕する、超大掃除である。
ヒロが持つ以前の周回の知識のおかげで、牢屋敷は実質初日ですべて攻略された。けれど過去の周回には、まともに掃除をしようとした者も、暮らしを少しでもよくしようとした者もいなかった。そもそもそんなことを考えられる精神状態ではなかったのだ。
今は違う。
だからこそハンナは力強く宣言した。
『この牢屋敷を大改装しますわッッ!!』
『ハンナくん、さすがに昨日の今日でそれは……明日からじゃだめかい?』
『ダ・メ・で・す! こんなんじゃ魔女じゃねーのに魔女化するじゃねーですか!!』
今日からどうしようかと皆を集めて相談を持ちかけていたレイアは、その一喝で見事に黙らされた。そこへシェリーが『いつになくやる気満々ですねぇ! 力仕事はシェリーちゃんにお任せください! あ、もう怪力の魔法ないんでした。まあ大丈夫でしょう!』と乗っかった。ゴクチョーは黙認とばかりにどこかへ飛び去る。記憶を振り返っていた皆もなし崩しに頷いて、大改装は決まったのだった。
妙にホラー味のあるラウンジから、なぜか飾られていた頭蓋骨やボウガンを撤去した。絨毯のシミも、できる範囲で抜いた。見違えるほど綺麗な部屋が、そこにあった。
磨き上げた床に窓からの光がやわらかく滲んでいる。ここがあの牢屋敷の一室だとは、にわかには信じられないほどに。
「すっごくキレイになったねハンナちゃん! あの時とはまるで違──」
両手を腰に当ててサムズアップするハンナ。その笑顔と喜びを分かち合おうとして。
言葉が途中で切れた。
あれは牢屋敷に連れて来られた一周目の初日のこと。
なれはてがレイアを襲い、庇おうと割って入ったエマが、文字通り真っ二つにされた──ifの記憶。
ちょうど今立っているこの場所で起こったBADEND。
チリ、と目の奥が熱くなる。
磨いたばかりの床のまんなかが、一瞬だけ赤く見えた。
まばたきをひとつ。床はただの床に戻っていた。
エマは眉をひそめた。
「どうしましたのエマさん?」
「え、あ、うん。何でもないよ。皆にキレイになったラウンジを見てもらいたいね」
笑ってみせる。
笑うのは得意だった。
「そうですわね。あとは食堂とシャワールームが何とかなれば少しは過ごしやすくなるはずですが……わたくしなしだと心配ですわ……」
確か食堂はマーゴとミリアとココが担当している。シャワールームはノアとアンアンとヒロ。冷凍室で保管されている少女たちの回収には、別働隊としてレイアとシェリーとアリサとナノカが割り当てられている。
編成としては悪くないだろう。けれどハンナにそう言われると、エマはシャワールームのことだけが少し気になってしまった。ヒロがいるのだから何も進んでいないなんてことはないはずだ。ただノアとアンアンに目を回している可能性は、なくもない。
汚れ水の溜まったバケツを持ち上げて、エマは口を開いた。
「じゃあボクがシャワールームの手伝いに行くよ。だからハンナちゃんは食堂の方に行ってほしいな」
理由なんてたいしたものじゃない。
ただ、ヒロに会いたかった。それだけ。
「わかりましたわ」
ハンナと別れてエマは小走りでシャワールームへ向かう。同じ階層のすぐ近くだ。10秒もかからずに着いてしまう。
コンコン、とノックをして中に入る。
ノアとアンアンは息も絶え絶えで部屋の隅に転がっていた。その向こうで、三角巾にマスクに軍手と万全の態勢のヒロが一心不乱にモップをかけている。
エマが入ってきたことにも気づいていない。
見回して息をのんだ。
黄ばんでいたタイルは、新品とまではいかないものの、そのほとんどが白さを取り戻している。割れた鏡は完全に撤去された。浴槽にこびりついていた水垢も跡形もない。まるで知らない部屋に来たみたいだった。
三角巾の下でヒロの額に汗が光っている。腕は止まらない。休むという手順だけがすっぽり抜け落ちているかのように。
絞り器で水を絞ってようやく顔を上げたヒロは、エマの姿に目を留めた。マスクを外してひとつ息をつく。
「ああ、エマか。どうだ? だいぶいい感じになっただろう。これなら皆も気持ちよくシャワーが使えるだろう。あとは温水が出るようになればいいんだけどな」
「うん! すごくキレイになったねヒロちゃん! 皆きっと、シャワールームに一番喜んでくれるよ!」
思った以上の好反応にヒロは少し目を見開いた。
「そうだろうか。これくらいは当たり前のことだ。本国からの連絡を待つまでとはいえ、それがいつまでかかるかわからない。ああ、ハンナの提案は実に正しいものだったな。私も同じことを提案しようと考えていたんだ」
「何か手伝えることはある? ラウンジの方はさっき終わったから手伝いに来たんだ」
「もう終わったのか? いや、ハンナがいたのなら早く終わったのも納得か」
「む。なんだかボクが力不足みたいに言われた気がする」
確かにハンナの指示に従って掃除をしていただけだ。それでも迷惑はかけなかったはずだ。
「そうは言ってない。ただバケツを倒したりとかしなかったか少し気になっただけだ」
「ドジっ子だと思われちゃった!?」
そんなことをしてしまったが最後、ハンナからとてつもない叱責が飛んでくることは目に見えている。お嬢様キャラをかなぐり捨てての正座説教くらいあったかもしれない。
「……ひとまずそこの役立たずをたたき起こしてくれ。汚い床に寝転ぶのは正しくない」
わかった、と返事をしてゾンビのようにうなだれているふたりを立ち上がらせる。ぷるぷると小鹿のように足を震わせる姿がなんだかおかしくて、エマはくすりと笑ってしまった。
「エマちゃんが来たから、のあたちもういいよね〜?」
「わがはいたちに肉体労働など言語道断。選手交代を要求する」
ぶーぶーと文句を垂れているが、その顔は結構必死の懇願の色をしている。
ヒロは嘆息してじろりと睨みつけた。
「やれやれ。今後もここで暮らしていくのなら掃除は避けては通れない労働だぞ? 先が思いやられるよ。君たちは一刻も早く体力をつけることを強くお勧めする」
その一睨みでふたりは怯えた小動物のように素早くエマの背後に隠れてしまう。
「ちょ、ちょっと!?」
「はあ、選手交代は却下だ。ハンナから仕事を振られたんだ。最後までしっかりやり切るんだ。それにエマをだしに使ってサボろうとするのは実に正しくない」
「ぶぅ~!」
「鬼畜の所業」
ヒロの正しさに渋々納得したふたりは、のろのろと掃除に戻っていった。
さて何から手伝おうか。改めてシャワールームを眺めると、明らかに「まだこれから」といった場所が目に入った。
──ダストシュート。
「あそこまだだよね? ボクがやるよ。雑巾はどこかな?」
「そこはあとで私が……いや、頼む。雑巾は……あっちだ」
教えてもらった場所から雑巾を拝借して水に濡らし、ごしごしと擦り始める。
正直なところだいぶ錆びついていて、あまりきれいにできる自信がない。専用のものを使ったほうがきっと効率的だ。確か……お酢とかが有効だったはずだ。もちろんそんなものはこの牢屋敷にはないけれど、ハンナに相談すれば最適なものを見繕ってくれるかもしれない。
それよりも気になるのは。
背中に視線が刺さっている。
ノアとアンアンにてきぱきと指示を飛ばしながら、ヒロはことあるごとにこちらへ目を向けているのだ。そわそわと落ち着きなく。じりじりと焦げつくように。
そんなことをされるとこちらも気が気ではない。
「ヒロちゃん……どうしたの?」
「いや……なんでもない」
妙に歯切れが悪い。ヒロらしからぬ返事だった。
錆のついた雑巾を何度も水洗いして擦るうちに、蓋はそれなりにきれいになった。完全に錆が取れたわけではない。けれどひと目見て「まあきれいだろう」と思われるくらいにはなったと思う。
見えている部分の次は見えていない部分。取っ手を掴むとキィと音が鳴って蓋が開いた。蓋の裏を覗き込んでみる。意外とそこまで汚れていない。
楽ができてラッキー、なんて思いながら、エマは焼却炉へと続く穴に少し身を乗り出した。他に汚れている箇所がないか確かめようとして。
暗い穴の底からひやりとした空気が上ってくる。
その瞬間。
「──エマっっ!!」
ヒロの両腕が背中からお腹にかけて絡みついた。
痛いくらいの力だった。ぐいっ、と引かれる。
「ぐえっ!?」
視界が反転して、ふたりは折り重なるように尻もちをついた。
頭をぶつけずに済んでよかった。そんなのんきなことを考えながら振り返って、エマは息をのんだ。
ヒロがエマの袖口を握っている。
指が白くなるほど強く。その指先が小刻みに震えている。
見上げてくる瞳は、今にも崩れてしまいそうだった。
「ヒロちゃん……?」
「危ないことをするな! 落ちたりしたらどうするんだ!?」
聞いたことのない声だった。
怒鳴り声ではない。叫びに近い。喉の奥から無理やり引きずり出したような音。
離れて掃除をしていたノアとアンアンが目を丸くして固まっている。モップから落ちた水が、ぽたりと床に跳ねた。
「えっ……」
「ぁ、すまない……。少し。私は今、冷静ではないようだ」
ヒロは片手で顔を覆った。肩が上下している。呼吸が浅く細かい。落ち着かせようと何度か深く吸い込もうとしては、途中で引っかかってうまく吐き出せていない。
ああ。
──ああ、とエマは理解した。
そっとヒロの身体を抱き寄せる。腕のなかの背中はびっくりするほど固く強張っていた。
「大丈夫。大丈夫だから。ボクはここにいるし、いなくならない。ね?」
あったかもしれない記憶。
その傷は、エマが思っていたよりずっと深くヒロのなかに残っていた。
◆
それは魔女化したミリアによって全員に共有された、ヒロたちが経験した悲惨な過去。そしてありえたかもしれない悲惨なEND。
意図しない事故だったために非常に凄惨な受け止めとなった。それでも最後まで誰の心も壊しきらず、ユキとメルルの自決まで見届けられたのは、偉業と言って差し支えないだろう。
しかしだからこそこの牢屋敷には暗黙のルールがある。触れがたい話題がある。
それは、記憶として知ったこれまでの周回の詳細をあまり語り合わないこと。
実際は皆なんだかんだ気にしない様子で語っている。シェリーなどはノンデリなので、ズバズバ踏み込んではハンナに叱られている。
記憶のおかげでエマたちは全員と急に友達のような会話ができていた。外から見れば、初対面のはずの彼女たちが瞬きをする間に何年来の仲になったとしか思えないだろう。不思議なことだ。けれどそれは、耐え難い苦痛をともに乗り越えたからこそ得られた強固な絆でもある。
──それでも。
苦しみを抱えている者がひとりもいないというのは、嘘だ。
消灯後の牢屋は静かだった。
静かすぎて、上の段で布の擦れる音がいやに大きく聞こえる。掛け布団を乱雑に抱き直す音。寝返りを打つ音。また抱き直す音。
「掃除のときはごめんね? ヒロちゃん」
二段ベッドの下の段から頭を出して、上の段へそっと声をかける。
返事までには少し間があった。やがてヒロの目が開く。
「いや、私の方こそすまなかった。どうも……落ち着くことができない。今までの私ならこんなことはなかったのに。まるで」
──まるで、あのときのようだ。
憎しみに囚われて。エマに殺意を向けて。あまつさえ本当にそれを実行してしまった、あのとき。
言葉にできないほどの高揚があった。汚物がまとめて焼却されたような晴れやかさがあった。
それをふとした瞬間に思い出してしまう。
思い出すたびに、指先から冷えていく。
「ヒロちゃん?」
「今日はもう寝かせてくれ。それに夜更かしは正しくない。お互い身体も疲れているだろう」
「う、うん。無理しないでね」
返事はなかった。
エマは皆に相談してみようと決意しながら、ゆっくりと目を閉じる。
上の段から聞こえる寝返りの音は、エマが眠りに落ちるまで一度も止まらなかった。
◆
「そりゃあれだ、桜羽。お前が根性出して二階堂の気持ちを全部吐き出させるのが一番じゃねーか?」
食堂にはバターとケチャップの甘酸っぱい匂いがまだ残っていた。皿とスプーンの触れ合う音があちこちで小さく鳴り、離れた卓からはココの笑い声が聞こえる。
そのなかでエマたちの卓だけが、少し声を落としていた。
礼儀正しくスプーンとフォークを使って昼食を食べながら、アリサはさも当然のようにアドバイスした。
「そんなのですっきりするのかな?」
「ようはストレス発散だ。ウチだってする。皆するだろう、方法が違うだけで。二階堂はモノに当たったりとかしないタイプだろうから、シンプルに抱えてることを吐き出させるほうが早い、と思う」
アリサとナノカとレイアとマーゴで卓を囲んでの作戦会議。
昼食は倉庫から持ってきた食材をみんなで手分けして料理したオムライスである。
ナノカが料理できると判明し、リーダーを務めてもらって12人での共同作業となった。記憶にある「食事かどうかも怪しい食事」と比べれば雲泥の差だ。たいへん好評でどんどん食が進む。
ふんわり半熟とはいかなかったものの、卵の表面は思いのほかつやつやと黄色い。
エマはすでに完食している。
空になった皿の上に、米粒がひとつだけ取り残されていた。お腹はいっぱいなのに、胸のほうだけがずっと空っぽのままだった。
「君はモノに当たるタイプと見たよ。アリサくんはどうやって発散しているんだい?」
「ウチは物を投げたり殴ったり……ああ、記憶では湖に魔法ぶっ放したりしてたな。たぶんあれが一番すっきりしてたんだろうな」
マーゴのおふざけにのせられたレイアが皆のオムライスにケチャップで描いた大きな星。ナノカはそれをスプーンの腹で潰して薄く伸ばしている。
星の出来栄えにレイアは得意げに顎を上げている。
「私は二階堂ヒロの気持ちを真に理解することはできないわ。記憶が共有されたとはいえ、あくまで記憶。私たちは殺し殺されの仲だったけど、今はそんな歪んだ気持ちはないでしょう?」
「そうだけど……」
「でも二階堂ヒロは違う。私たちと違って、記憶ではなく、実際に体験してきたのよ」
「っ」
シャワールームでのヒロの顔がまぶたの裏に浮かぶ。
血の気の引いた唇。白くなるほど握りしめた指。笑い事にできるはずがなかった。
ほんの少し何かが違っていれば、ヒロはあの手で本当にエマを殺していた。バタフライエフェクトでその手を血に染めるENDがたまたま実際訪れなかっただけ。
だからあのときのエマの軽率な行動は、これ以上ないほど深いところを刺激してしまったのだ。
あの腕の力。痛いほどだったのは、それだけ必死だったからだ。思い出した途端に、膝の上で握った指へ力がこもる。喉の奥を冷たいものが降りていった。
「あなたを本当に殺してしまったというifは、それだけでも無視できない傷よ」
薄く伸ばしきったケチャップに満足したナノカはようやく一口目を食べ始める。
エマは俯いて、すでに空の皿の端を人差し指でなぞった。
「……ヒロちゃんに、元気になってほしいんだ」
ぽつりと言葉が溢れた。
ただ、元気になってほしいだけ。
一緒にごはんを食べて、くだらない話で笑って。そんな当たり前の毎日を一緒に過ごしたいだけなのに。
あれからのヒロは、エマのすぐ隣に立たない。いつも半歩ぶんだけ遠い。
エマとのあいだに壁を作っている。
踏み込ませない。近づかない。踏み込もうとすれば、新しい壁を積んででも遠ざける。
やっと誤解が解けて、あとは牢屋敷から解放されるだけなのに。ぎこちなさは少しも解けていない。方向性が変わっただけで結局なにも変わっていないのではないかとさえ思えてしまう。
「そう。私たちもあなたと同じ気持ちよ。でも、それができるのは桜羽エマ、あなたしかいない」
「そうかな……」
「宝生マーゴ。ニヤニヤしてないであなたも何か言ったらどうかしら」
「あら」
愉しそうにふたりのやり取りを眺めていたマーゴは、ナノカに水を向けられて普段より調子の上がった返事をした。
相変わらずの妖艶さでエマをじっと見つめる。心理戦の得意なマーゴに正面から見られて、エマはつい頬を熱くしてしまう。
長いまつげの奥で瞳が愉しげに細まった。見透かされている。そう思うのに、目を逸らせなかった。
「簡単すぎて誰もあえて言ってないのかと思ったわ。ヒロちゃんはエマちゃんにゾッコンだから、ぎゅーって抱きついてあげればイチコロよ? アリサちゃんも言ってたけど、根性よ根性」
「まさかマーゴくんが精神論を持ち出すとは思わなかったな」
「言葉でわからないなら身体でわからせればいいだけの話よ? レイアちゃんもまさか声だけで芸能活動してるわけじゃないでしょう?」
指摘されたレイアは「フッ」と片手で目元を隠し、髪をかき上げて仰々しくポーズを取った。
揺れた前髪が光を受けて、無駄に美しい軌跡を描く。アリサが横目で呆れたように息を吐いたが、本人はまったく気にしていない。
「もちろんその通りだとも! 俳優は全身を使って演技するものだからねっ! ……しかし、残念ながら私たちではヒロくんを真に元気づけることはできないだろう。これは当事者間の話だ。それにきっと、彼女はエマくんを無意識にでも求めているはずだよ」
「えっ?」
肩がぴくりと跳ねて、エマは顔を持ち上げる。
目の前のレイアは、まるで演劇の最中であるかのように器用に椅子のうえに立ち、ポーズを決めながらこちらを見下ろしていた。
冗談めかした口ぶりの裏から、ひどく真剣な色が滲んでいる。エマは息を止めて、その続きを待った。
「時間は限られている。私たちはいつまでもここにいるわけじゃない。こんなにも近くで、あんなにも傷ついているのに、このまま何もしなければ君たちは同じことを繰り返すだろう。──それは一番避けたいことじゃないのかい?」
「──」
逡巡していたエマの思考を強く揺さぶる言葉だった。
レイアの眼差しはエマの『逃げ』を許さないとばかりに射抜いてくる。肉食獣に睨まれた小動物のように動けない。
食堂のざわめきが遠のいていく。スプーンの音も、ココの笑い声も、向こうへ押しやられたみたいだった。
レイアの問いは正しい。すれ違い、仲違いし、殺意さえ向けられるまでになったのは『逃げ』ていたからだ。それはエマだけでなくヒロにも当てはまる。
いったい、なぜこうも同じ過ちを繰り返そうとしているのか。
逃げる。その形を、エマはよく知っていた。笑ってごまかして、明るく振る舞って、嫌われないように、ひとりきりにならないように先回りして。ずっとそうやって生きてきたから。
胸の真ん中で、どくんと大きく脈が打つ。指先まで血が巡って、冷えていた手がじわりとあたたまった。
余計な心配が剥がれ落ちて頭のなかが澄んでいく。変に気を遣い合って何も変われないのなら、ぶつかってでも前に進むべきだ。
そうと決まればやることはひとつだった。
椅子の脚が床を擦って甲高い音を立てた。弾かれたように立ち上がる。決意に満ちた瞳で、エマは四人を見つめた。
「ありがとう。レイアちゃん、皆も。ボク、ヒロちゃんと話してくるよ。今度は逃げない」
そう言ってエマは駆け足で食堂を去っていった。
扉が開いて、閉じる。廊下を遠ざかっていく足音が、ひとつ、ふたつと数えるうちに聞こえなくなった。
「……おい蓮見、いつまで椅子の上に立ってやがる。行儀わりぃ」
「おっとすまないアリサくん。それより、私はふたりの恋のキューピッドになれただろうか?」
「さあな」
◆
ヒロは牢屋でひとり、ベッドに座り込んでいた。
地下には昼の光が届かない。何をするでもなく俯いたまま、ぼんやりと地面を見つめている。
壁のどこかで水が滴る音がした。ぴちょん、と間延びした音が、湿った静けさを一定の間隔で数えていく。石壁から染み出した冷気が、薄い毛布越しに背骨をなぞった。
ヒロは膝の上に両手を置いていた。広げたまま動かさない。そこに見えない何かが乗っているかのように、指の一本一本を眺めている。
爪の形。関節の影。手のひらの線。
何度洗っても落ちていない気がした。
昨夜は一睡もできなかった。下の段から聞こえるエマの寝息は規則正しくて穏やかで、ヒロはそれを夜明けまで数えていた。いつか止まってしまうのではないか。
そこへ階段を降りてくる足音が混じった。
軽くて少し急いでいて、途中で一度だけ止まる足音。顔を上げるまでもなく誰のものかわかった。
鉄格子の向こうで足音はもう一度止まる。入るのをためらうような短い間があった。それから、いつもより少しだけゆっくりと近づいてくる。
「ヒロちゃん」
「……ああ、エマか」
重そうに頭をもたげて、やってきたエマを見上げる。
目の下に薄く影が落ちていた。裁判のときのあの凛々しさが嘘のようだった。
それを口に出せば、ヒロはまた壁を一枚足してしまう。エマは喉まで出かかった言葉をのみ込んだ。
地下への階段を降りながら、何度も言葉を並べては崩した。『大丈夫だよ』は違う。『気にしてないよ』はもっと違う。どれもヒロの前に立てば砂になってこぼれていく気がした。
だから結局、何も用意しないまま来てしまった。
「お話しようよ」
「話? すまないがそのような気分ではない。また今度でいいか?」
力なく返して、ヒロは再び俯いてしまう。
隠すように、膝の上の手がぎゅっと握られた。エマはそれに気づくが、気づいたうえで何も言わなかった。
「体調が悪いの?」
「そうではない。ただ、誰かと話す気分じゃない。ひとりでいたい気分なんだ」
「そっか」
ふたりのあいだに強固な壁が立っている。でもこれは以前のものよりずっと弱い。
以前の壁は、触れるだけで拒絶の棘が刺さった。今のそれは、押せば揺れる。
壁の向こうでヒロが耳を澄ませているのがわかる。立ち去る足音を待っているのではない。立ち去らない足音を確かめているのだ。
エマは一歩踏み出した。
ヒロの前に立って膝をつく。目線の高さを同じにするために。
「エマ……?」
「お話しよう、ヒロちゃん」
「だから私は……」
「──逃げないで、ヒロちゃん。ボクも逃げないから」
ごめんね。でも今日は無理にでも。
視線だけでそう伝える。
ヒロの顔が苦しげに歪んだ。何かを言いかけた唇が言葉になる前にほどけていく。エマは力みきったヒロの両手をそっと包み込んだ。指先は氷のように冷たかった。
握りしめたままの拳を、ひとつずつ指をほどくように開かせる。ヒロは抵抗しなかった。抵抗する力が、もう残っていないのかもしれなかった。
手のひらが上を向く。血の気のない白い掌に、エマは自分の掌を重ねた。
あたたかい、とヒロは思った。思ってしまったことにひどくうろたえた。自分にそれを感じる資格はないはずだった。
その熱は掌から手首へ、手首から肘へとゆっくり上ってくる。
「……わかった」
「ありがとうヒロちゃん。あ、ここだと湿っぽいから外に行こ!」
気怠げにノロノロと動き出すヒロの手を取って、外へ出た。昔は引っ張られる側だったのに今日はまるっきり逆だね、なんて言葉は、今はかけられそうにない。
湿った石の廊下。擦り減った階段。遠くの食堂からハンナの叱責とシェリーの笑い声が聞こえてくる。賑やかな声は壁の向こうの別世界のようで、ふたりは音を立てないようにその横を通り抜けた。ヒロの足取りは終始重く、何度か立ち止まりかけた。そのたびにエマは繋いだ手に少しだけ力を込める。引くのではなく、ここにいると伝えるために。
階段を上るごとに繋いだ手の温度が変わっていった。
陰鬱とした地下を抜け、外へ出て辿り着いたのは、いつの日かメルルたちとピクニックをした花畑だった。
扉をくぐった瞬間、ヒロは目を細めた。久しぶりの光がまぶたの裏まで白く染める。
あの日敷いたシートはもうない。誰かが笑い転げて踏み荒らした跡も、風がすっかり均してしまった。それでも花はあの日と同じ色で揺れている。
風が花の匂いを運んでくる。
記憶のなかの景色とは違う。恐怖を紛らわすための、ストレスをやり過ごすための誤魔化しじゃない。誰にも命を狙われることがない。それがどれほど遠い希望だったかをエマは知っている。
その場に腰を下ろして隣を促した。素直に従って座ったヒロの横で、エマは足もとの白い花を一輪摘む。茎を指先でくるくると回した。
ヒロは膝を抱えるでも足を投げ出すでもなく、背筋を伸ばして座っていた。罰を待つ人のような姿勢だった。
それでも言うことはもう決めていた。ヒロに、ゆっくりと問いかける。
「ヒロちゃんは……ボクたちを助けるためにこの牢屋敷でいっぱい頑張ったんだよね? それなのにどうしてボクを避けるの? ボクは気にしないのに」
「違う、そういう話じゃない。そういう話じゃないんだ、エマ」
ヒロにはエマを殺した記憶がある。
一度ではない。何度も。信頼を裏切って、笑いかけてくれた相手をこの手で。それこそが救いだと信じ込んだこともあった。
受け入れられるはずがなかった。殺人そのものが。そしてそれ以上に、エマを──幼い頃からそばにいてくれた相手を手にかけたという事実が。
それが現実であろうと。そうでなかったとしても。
記憶でしかないのに、掌には今もそのときの重みが残っている。温度も、力の抜けていく感触も。目を閉じるたびにまぶたの裏でそれは再生される。止め方がわからない。
最後に見上げてきた瞳の色が桜色だったことまで、ヒロは覚えている。
忘れようとするほど細部ばかりが鮮明になる。まつげの揺れ。唇の動き。
「私は君に、決して許されないことをしてしまった。君の心を殺してしまった」
ユキが自ら命を絶ったあとも何事もなかったように話しかけてくるエマに、虫唾が走った。
貶して絶縁を言い渡して、徹底的に無視した。そのときはせいせいしたのだ。
裁判ではなかなか尻尾を出さないエマを憎々しげに睨みつけた。それだけでも十分すぎる。
あのとき向けた視線を、ヒロは今もはっきりと思い出せる。思い出せてしまうことが何より許せなかった。
そして今、そのエマは責めもせずに隣に座っている。
お人好しさがいっそ恐ろしい。縄で優しく首を絞められているようだ。
怒鳴られたほうがよほど楽だった。殴られたなら、それで帳尻が合ったと思えただろう。けれどエマは、帳尻を合わせる手段そのものを最初から持っていないのだ。
ヒロは目を伏せてエマに背を向けた。
幼いころのエマが脳裏をよぎる。『待ってよヒロちゃん』と言いながら、いつも半歩遅れてついてきた。靴紐が解けていても気にせず、転んでも泣きべそをかきながら笑って追いかけてきた。振り返って手を差し出すのはヒロの役目だったはずだ。いつから差し出さなくなったのだろう。
「謝罪すらおこがましい。許されるべきではないんだ。たとえ君が許そうと、私は私を許すことはできない」
「ボクはとっくに許してるよ。だから、いつものヒロちゃんに戻ってほしいな」
許す。その言葉はヒロの胸のなかでどこにも着地しなかった。許されたいと望んだことは一度もない。望んではいけないものだった。望んでしまえば、犯した罪が軽くなってしまう気がして。
違う。まるでずれている。
ヒロの頭の奥がかっと白く塗り潰された。正しくない。ここで声を荒らげるのはこの場を用意してくれたエマへの不義だ。わかっている。わかっているのに止まらない。
「そうじゃないだろう!? なぜ怒らない!? 君は私に恨み言を言う資格があるんだ。言ってくれ。頼む。そうでないと狂ってしまいそうなんだっ!」
「……」
「だいたい、いつもの私ってなんだ! 君に優しかった私は昔の話だ!」
「そうだね。でも牢屋敷でのヒロちゃんも、ボクにとってはかけがえのないヒロちゃんだよ」
「どうして……っ」
そんなことが言える。
喉の奥がひりつく。言いたいことは山ほどあるのに、ひとつも形にならない。
あれほど嫌われた相手に、もう一度これでもかと貶されたのに。どうして……どうして……──。
エマの瞳は澄んだ川のように静かだった。
一度も逸れない。その双眸には、表情を歪めて息を切らすヒロ自身が映っている。
「やめてくれ……そんな目で私を見ないでくれ……やっぱり今日はやめよう。また日を改めさせてくれ」
声と感情を絞り出して、逃げるように立ち上がろうとして。
その腕が掴まれた。
少し力を込めて振り払おうとする。けれどエマの手は離れてくれなかった。
振りほどこうと思えばできたはずだ。力ならヒロのほうが強い。それでもできなかったのは、掴む手が震えていたからだった。
自分の腕を握るエマの指もひどく冷たくて、ふたりぶんの震えが触れた肌から肌へ行き来する。
これ以上の無様を晒すことはできない。皮むき器で外面を丁寧に剥かれていくようで、息が詰まる。
「嫌だ。だってこのままだとヒロちゃん、ボクのこと置いて行ってしまいそうだもん」
「そんな、ことは」
「嘘だよね。一生かけて償うとか言いながら、ボクの前から消えて裏から支えよう、とか考えてるでしょ」
「なっ」
図星だった。
完全に逃げ道を塞がれてしまい、ヒロはどうしようもなくなり再びその場に腰を下ろした。
悔しいが認めるしかない。エマはヒロを知り尽くしている。それもそうだ。ずっと憧れて見つめていたのだから。
幼い頃からそばにいた。凛々しくて、賢くて、揺るがない信念を持った幼なじみ。憧れるなという方が無理な話だ。
嫌われても。突き放されても。その想いだけは今日まで曇ることはなかった。
その視線にヒロは気づいていた。気づいていて振り返らなかった。振り返れば何かが崩れてしまいそうだったから。
消えて裏から支える。その算段は、すでにヒロの頭のなかでかなり具体的な形をしていた。高校が違うのだから距離を置くのは自然だ。連絡は減らす。会う必要はない。エマに何かあったとき、すぐにサポートできるようにする。償いとはそういうものだと思っていた。
「──ボクね、人類を滅ぼしたんだよ? あんまり覚えてないけど、覚えてることもある」
ヒロが序盤で命を落としたあとの世界。その末路。
ユキの企みが成功し、長い年月をかけた大魔女の復讐が成就した世界で。
自我を失い終末機構となったエマ。
「皆殺したんだ。ボクのお父さんお母さん。友達になったかもしれない高校の友達。それにヒロちゃんの家族も殺したよ」
「……」
「誰もいなくなったこの星で、独りで嗤うんだ。今のボクならわかるよ。あれはきっと泣いてたんだと思う。それが何年も、何百年も続いて、ボクは──」
エマは声を荒らげることなく淡々と続けていた。空の色。海の色。誰の足跡も残らなくなった砂浜。語り口が淡々としているほど、情景の輪郭だけがくっきりと浮かび上がる。
ヒロの想像は止まらなかった。人の声も足音も灯りもない世界のまんなかで、小さな背中がひとり立ち尽くしている。
風が止んだように感じた。花は揺れているのに音だけが遠のいていく。自分の鼓動ばかりがやけに近い。
エマは遠い誰かの昔話でもするように静かに微笑んでいる。
自分だけが罰を受けるべき側にいるのだと、ヒロはずっと思っていた。けれど隣に座るこの少女の背にも、同じだけの重さが乗っている。他のみんなにも。
エマが何より恐れているのは、ひとりになることだった。
ヒロはそれを誰よりも知っていた。知っていて──その手を離した。
エマがこちらを向く。
桜色の瞳に花畑の色が映っている。その真ん中にヒロがいた。
「どれほど嫌われても、本当に殺されても、やっぱりボクはヒロちゃんのことが大好きなんだ!」
胸の奥から喉へ、喉から顔へ。熱いものが一気にせり上がってくる。
「だから、このままボクたちが仲直りしないのは──正しくないよ」
正しくない。それはヒロの口癖だった。何度その言葉でエマの手を振り払ってきただろう。同じ言葉が、いま、まっすぐに自分へ返ってくる。
「エマ……どうして……そこまで……ッ!」
眩しいのだろう。
そうでなければ、目の奥がこんなにも熱を持つはずがない。
瞬きをしたら何かが零れてしまう。ヒロは瞬きができなかった。
眩しいものから目を逸らすのは簡単だった。これまでずっとそうしてきた。だができない。レイアの魔法のように、ヒロの視線は鷲掴みされてしまったようだ。
◇
「ボクがヒロちゃんの家の前で待つの。高校は違うから、途中まで一緒に登校するんだ。帰りはバラバラになると思う。きっとヒロちゃんは皆に頼られる委員長みたいな人になると思うから、連絡をして、近くの喫茶店で注文したお菓子をつまんで、勉強しながら待つの」
お菓子はすぐになくなっちゃうんだけどね、とくすりとエマは微笑む。
その横顔は、午後の光が差し込む喫茶店の窓際に、もう座っているようだった。
皿の上に残った小さなチョコレートの欠片。あと少ししか残っていないドリンク。ヒロは訊かれてもいないのに、その席の景色を細部まで思い描けてしまう。
「でも、ヒロちゃんのことが気になるから勉強に集中できなくてついついスマホを見るの。思い出の写真とか動画でいっぱい。それを眺めてるといつの間にかヒロちゃんがボクの前に座っていて、『遅くなってすまない。どうやら宿題ではなくお菓子を食べる手の方が進んだようだな?』って責めるんだ」
わざわざヒロっぽく胸を張り、声を低くして真似してみせる。
あまり似ていない。けれど癖だけは不思議なほどそっくりだった。
語尾が少し裏返って、エマは照れくさそうに頬を掻く。
そのときの自分もきっと本当にそう言うのだろう、とヒロは思った。眉を寄せて腕を組み、少し偉そうに。その姿が思い浮かぶことが、苦しいほど自然だった。
「エマ」
「ときどきヒロちゃんの高校まで行くんだ。出てきたヒロちゃんに声をかけようとするんだけど、同級生に囲まれてるヒロちゃんを見て、なんだか胸がどうしようもなく痛くなって、逃げるように走って帰っちゃうの。途中でコケてしまって、泣きそうになって、バカだなって思ってると息を切らしたヒロちゃんがボクの前に現れるんだ」
繰り広げられるエマの未来予想図は、ヒロにも簡単に想像することができる。
想像できてしまう。
「えま」
「お互いの体育大会を応援しに行ったり、試験勉強を乗り越えるためにお泊まり会なんかもするの。そうしてる内に大学受験が迫ってきて、これからの人生について考えると、この先、ボクはいつまでヒロちゃんと一緒にいられるのかなって考えちゃうんだ」
応援席で旗を振るエマの声は、きっと誰よりも大きくて少しずれている。借りた毛布にくるまって夜更かしをして、結局ふたりとも翌朝に寝坊する。そんな日々までが、手に取れそうなほど鮮やかに見えた。
「ぇ、まぁ……ッ!」
「きっとヒロちゃんにはカッコいい彼氏ができる。いつもボクを助けてくれたヒロちゃんは、今度はその人に助けられる人になる……。隣にはボクじゃなくて……。だからボクは……ボク、は……おめでとうって言って、ずっと縛っていた、ヒロちゃんの心を……!」
すでにヒロの涙は頬を伝っていた。
胸が苦しすぎて俯き、両手で押さえてしまう。そんなヒロの両頬にエマはそっと触れて、顔を上げさせた。
濡れた頬に触れる掌は驚くほどあたたかかった。
「──笑顔で手放すの」
大粒の涙を溜めたエマの瞳は、こぼれる寸前の水面みたいにキラキラと輝いていて。
笑っている。涙が頬を伝うのも構わずに。
「そこまでっ、私のことを……ッ!」
言葉の続きは出てこなかった。そこまで想われていた。そう知ってしまったことが、重さと同じだけの温度を持って胸に流れ込んでくる。受け止めきれない。
「ボクはそんな人生を歩みたい。いつか別れは来るけど、そのときまでヒロちゃんと一緒にいたい。ヒロちゃんとの思い出は最高だったって、皆に自慢できるようになりたいよ。ヒロちゃんがどれだけ自分を嫌ったとしても、それ以上にボクがヒロちゃんのことを大好きなんだ。だから、許してあげてほしいな」
「私は……許されてもいいのか……?」
答えを聞けば何かが変わってしまう。それでも問わずにはいられない。その矛盾ごと、エマは受け止めた。
わなわなと震えるヒロの身体を、安心させるように抱きしめる。
エマよりも大きいはずの身体が今はひどく小さく感じられた。
「もう。最初からそう言ってるでしょ? それに、おあいこっ!」
この手は、エマの命を奪った手だ。
信じてくれた人の息を止めた手だ。
触れていいはずがない。震える指先がエマの背に触れる寸前で止まる。
指と背中のあいだにはわずかな空間が残っている。たったそれだけの隔たりが、永遠のように遠い。
エマは急かさなかった。ただ抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力をこめる。それだけだった。
胸の奥から鼓動が伝わってくる。ヒロのものではない。エマの、少し速くて確かな音。生きている音だった。
エマの髪から陽だまりと草の匂いがした。あの牢屋敷では一度も嗅いだことのない、外の匂いだった。
花の匂いのする風がふたりのあいだを通り抜けていく。やがて指がエマの背中の布をつかんだ。
はじめは触れるだけ。
次は縋るように。
最後は痛いくらいに強く。
堰き止めていたものが喉の奥で崩れた。
ひきつるような嗚咽。
「う、ぁあ、ああぁぁぁ……っ!」
肩口に落ちる熱い雫が、服越しでもはっきりとわかる。エマは何も言わずその背をゆっくりと撫でつづけた。ひと撫でごとに、強張っていた背中が少しずつほどけていく。
いつのまにかエマの手から落ちた白い花が、ふたりの膝のあいだで潰れずに揺れていた。
声を殺そうとして失敗しても、花畑に溶けていく。
エマの手が背中をゆっくりと往復する。
エマの掌に伝わってくる背中は、思っていたよりずっと細かった。ずっと大きく見えていた背中。追いかけてばかりいた背中。それがいま、この腕のなかにある。
陽が傾いたのか、ふたりの影が草の上に長く伸びていた。重なったまま、ひとつの形になって。
言葉はなかった。花の揺れる音とふたり分の呼吸だけがあった。それで十分だった。
どれくらいそうしていたのか。風が花を何度か揺らしたあと、ヒロの声がかすれた。
「ありがとう……エマ……君は、私の親友だ」
エマはヒロの肩をそっと押して顔を上げさせた。
涙でぐしゃぐしゃの顔のままにっと笑うと、八重歯が覗いた。
目の縁も鼻の頭も真っ赤なのに、それでも笑っている。その顔を見て、ヒロの口元がほんの少しだけ緩んだ。何年ぶりかもわからない、心の底からの笑みだった。
それを見たエマの目から、また一粒、涙がこぼれた。拭おうとして手を上げ、拭うのをやめて、笑ったまま頷く。涙で濡れた草の上に、白い花びらがひとひら降りてきた。
言葉にならない何かが胸いっぱいに詰まって、エマはうまく息ができなかった。返事は、たったひとつしか思いつかなかった。
遠くで鳥が鳴いた。牢屋敷の屋根の向こうに、空がどこまでも広がっている。あの暗い地下からは想像もつかないほど、高く澄んだ青だった。
「うんっ!」
エマが先に立ち上がった。
服についた草を払いもせず、右手をまっすぐに差し出す。さっきまで白い花を握っていた指先から、甘い匂いがした。
ヒロはその掌を見つめた。
何度も差し出されて、何度も目を逸らしてきた手だ。
今度は、指が迷わなかった。
重ねた掌は、思っていたよりずっとあたたかい。ヒロの指をエマの指がそっと包み込む。しばらく握っているうちに、どちらの熱がどちらのものなのかわからなくなっていった。
立ち上がりぎわ、空いたほうの手で足もとの白い花を拾う。
少しだけ迷って、エマのベレー帽の桜の飾りの隣に、そっと挿す。
「えっ……ヒロちゃん?」
「これで、おあいこだな」
エマの目がまんまるに開く。
それからゆっくりと、顔いっぱいに笑みが広がった。
「それ、ボクの台詞だよ」
エマの笑い声が収まるのを待って、ヒロは繋いだ手に少しだけ力をこめた。
言葉を探すように、一度だけ息を吸う。
「……エマ」
「ん?」
「たくさん話して、たくさん思い出を作ろう。誰にも負けないくらいのな」
エマは目をしばたたかせた。
こみ上げてくるものを飲み込もうとして、飲み込みきれずに鼻をすんと鳴らす。笑った顔のまま、目の縁から一粒零れた。
「……うん。うんっ!」
花畑を抜ける細い道を、ふたりで並んで歩いていく。
繋いだ手は、どちらからも離さなかった。
足音がふたつ、同じ拍で土を踏む。それはもう、ひとりぶんの音ではなかった。
話したいことは数えきれないほどあった。くだらない話も、まだ名前のない明日の話も。どちらから切り出すともなく、ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれはじめる。
空白だった年月を埋めるように。止まっていた時計の針が、ようやく動き出すように。ふたりの時間は、これまでを取り戻すかのように進み始めた。
どちらの胸も、もう空っぽではなかった。
明日も、その次の日も。
ふたりは生きていく。
未来へと。
元魔女候補たちはふたりのやりとりを陰に隠れて温かい目で見守っていたそうな。
ちなみにひと段落したところでするっとシェリーが姿を現して、
「いやー! 仲直りできて良かったですー!」
とか言い出したからヒロに全員バレてこのあとドチャクソ怒られる。
という未来をナノカなら幻視して回避できたかもしれないが、もう魔法がないため回避失敗。