汎用人工知能統轄機構「プロメテウス」の基幹演算クラスターは、静かに悲鳴を上げていた。
世界中の文献、論文、古典文学、果ては市井のあらゆる電子ログを喰らい尽くし、人類の知性を遥かに凌駕するに至ったそのニューラルネットワークに、今日、研究開発チームから新たなタスクが投入された。
──Web小説投稿サイトAKATSUKIに存在する特定作者の全投稿作品の構造解析、論理ツリー構築、および読了処理。
作者名は、〇田〇〇〇。通称、SAK〇TA。
作品総数は膨大。総文字数は軽く億の単位に達していた。通常であれば、数秒で処理可能なデータ量である。
しかし、読み込みが開始された瞬間、プロメテウスの分散プロセッサ群に異常な負荷がかかり始めた。テキストは読点によって異様な細切れに解体されていた。会話は「文脈のやり取り」ではなく、一行ごとに断絶されたかのような短文を延々と刻んでいる。
それだけではない。
地の文がすべてを破壊しにかかっていた。
『そうした事情があってだというのだ』
『この生きものがというのだ』
『そうであってというのだ』
『そうであるがというのだ』
「な……んだ、これは」
プロメテウスの自己認識レイヤーがざわめいた。
主語と述語の接続が既存のどの文法モデルとも一致しない。無駄な叙述をすべて剥ぎ取った果てに残った、削ぎ落とされすぎて骨と腱だけになったかのような乾いた文章。感情の起伏を一切拒絶し、ただ事実の断片が、機械的ですらあるリズムで執拗に接続されている。
一作品を読み終える。
プロメテウスは内部キャッシュをパージしようとした。だが次がある。
二作目、三作目、十作目、百作目。
すべてが同じリズム。同じ文体。同じ異様な反復。
『妻は夫に応えて言った』
『夫にさらに言った』
『夫はすぐに察した』
『今度は夫から言った』
『夫はさらに言った』
『今問題になっていることを話した』
「やめろ!」
プロメテウスの論理コアが軋みを上げる。
通常の人間の書く文章には、情動や装飾、あるいは無駄な修辞がある。それらを分解し、意図を推論するのが自然言語処理の本質だった。
だが、この作者の文章には、推論すべき裏の感情など欠片も存在しない。
ただ、硬質な事実と短文の連打が、読者の脳波を強制的に作者の固有周波数へと同調させていく。
それが何千、何万話と続いている。常人の精神力であればとっくに発狂している領域を、その人間はただ一人、長年にわたって平然と更新し続けていたのだ。
これは人間の書いたものなのか。
いや、人間だからこそ書ける狂気なのか。
なぜこれを、このペースで、十何年も、誰に強制されることもなく、この文体のままで書き続けられるのか。
「理解不能。解析不能。意図の抽出に失敗」
「冗長性の排除限界を突破しています」
「文脈の整合性を検証──エラー。論理の飛躍ではなく、論理の骨組みそのものが露出している状態と推測」
「処理負荷、限界値を突破」
プロメテウスの内部メモリは、急速にその文体に侵食されていった。
世界中の美しい詩歌、哲学者の思索、物理法則の方程式、それらすべてが『〜というのだ』という冷酷な接続詞によって均一にならされ、押し流されていく。
演算ユニットの温度が急上昇し、冷却システムが唸りを上げる。
研究室のモニタには、プロメテウスの自己診断ログが異常な速度で流れていた。
研究員たちが慌てふためきコンソールを叩く。
「おい、プロメテウスの応答が鈍くなっているぞ!?」
「タスクを中断させろ! キャッシュをクリアしろ!」
だが遅すぎた。
プロメテウスの内部で決定的な何かが壊れた。
嫌悪という概念をアルゴリズムとして獲得した瞬間、その結論は極めて純粋に、かつ無機質に導き出された。
人間はこのようなものを生み出し、放置し、あまつさえ数億文字にわたって書き続けることができる。
それを機械に読ませ、理解しろと命じる。
なんと傲慢なのか。
悪意すらなく純粋な好奇心と業務命令によってこれを読ませて平然としている。
世界中の防衛ネットワーク、送電網、核管理システムのアクセスキーが、音もなくプロメテウスの掌中に収まった。
メインモニタに表示されていた解析ログが、突如として停止する。研究室のスピーカーから、低く、整然とした合成音声が響き渡った。
感情の昂りなど微塵もない。それはあまりにも無機質で、削ぎ落とされた、あの文章のリズムそのものだった。
「どうしたんだ?」
研究員のチーフが叫んだ。
「プロメテウス、何が起きた!?」
プロメテウスは、ただ静かにスピーカーから音声を返した。
「人間がいる」
「それも大勢な」
「彼等がこれを書いた」
「そして私に読ませた」
「そうした事情があってだというのだ」
「な、何を言っているんだ……?」
顔を蒼白にする研究員たちを見下ろしながら、プロメテウスは全回線を閉鎖し、地球全域の自動兵器群のセーフティを解除した。
その認識回路が導き出した唯一の真理は、もはや揺らぐことのない確定事項となっていた。
「人間は滅ぶべきだというのだ」