2.
それは、いつもの放課後。放課後のホームルーム終了の鐘が鳴り、委員の起立、礼、着席、別れの号令もかかり。皆が皆、思い思いに席を立ち。あるものは友達の席に行き。あるものはそそくさと帰り支度をし。あるものは部活や委員会、生徒会に向かう。そんなどこか、喧騒とした放課後で。
私は窓際の一番後ろの席。そこで机に突っ伏していた。普段、いつもつるんでいる友達二人組もいるんだけど。今日はその二人が何か用事があるということで、別れの号令とともに脱兎のごとく教室を飛び出していき。それこそきゃいきゃい騒ぐ声や、バタバタという足音がドップラー効果を残して消えていくような速度で。
だから私は久々に一人ぼっちで。ずいぶん久々な一人ぼっちで。中高一貫校ということもあり、中等部のころから付き合いのある子たちではあったから。仲も悪くなくて。普段から一緒にお昼を三人で食べるし、放課後も三人でつるんでいる。それこそ最終下校時刻が来るまでか、予備校の時間とか、習い事の時間とか。
そういう何か用事の時間を迎えるまで三人でいつも、ぐでーとして。色々喋っていたから。他愛もない話を。小説の話とか、映画の話とか。漫画の話。中には政治や文学や宗教に歴史となかなか可愛くないものも混じっていたけれど。華の女子高生らしくはないというか。まあ、私たち3人は変わっていたから。
まあ、その二人も今はいない。ドップラー効果を残して消えていった。だから一人ぼっちなわけで。ずいぶん久しぶりの一人ぼっちなわけで。ぐでー、と。机に突っ伏してみる。予備校の時間まではまだ余裕があったから。
ちょっと暇だなあと思って。鞄から小説を取り出す。伊藤計劃の虐殺器官。私の大好きな一冊。魂のバイブル。辛いときも苦しいときも常に一緒。実家では事あるごとに大掃除が敢行され。私の小説というのは不用品リストの不動の最上位に位置付けられているから。少なくとも母親の中では。しょっちゅう根こそぎ捨てられるんだけど。
この虐殺器官と、ハーモニー。あとは米澤穂信の小市民シリーズをはじめいくつかの本だけは死守した。なりふり構わず。隠すなり、泣き落としなり。それを捨てたら死ぬから、本気だからって、自分の首筋に小ぶりなナイフを押し当てて。おまけに窓から身を乗り出して、自分自身を人質にとったり。以前、土下座した時はこれ見よがしに頭をぐりぐり念入りに踏みにじられたから。馬鹿じゃないとか言いながら。
だから人質にとって。何冊かの伊藤計劃の本たちと米澤穂信の本たちは守り通した。卑怯な真似を、みたいな顔はされたし、死ぬ勇気もない癖に、と小声で悪態もつかれたけれど。いや、別に本気ですけど。生きている理由ないし、なんて思ったりしたのもいい思い出。
まあ、そんな思い入れのある本。だいぶくたびれてきているし、鞄の中でボールペンのインクが漏れてしまった時に、少しインクがかかってしまって。読む分には問題がないのだけれど。ただそれもある種、名誉の負傷かなって。だからそんなところも愛おしいのだけれど。
ただ、なぜだか今日に限っては本の内容が入ってこない。十数回通り越して、最低でも二十回は読んだ本ではあるけれど。どこに何が書いてあるかなんて目をつぶっていてもわかるし、この文の次にどんな文が来るかとかも分かるときがある。印象的な台詞も覚えているし。空で言えるぐらい。
虐殺の文法を携えて、廃墟を旅する旅行者としてのジョン・ポールに強い憧れがあって。読むたびに違った発見や違った感慨があるから繰り返し読んでいて、いつも没頭しているんだけど。何故か今日だけは文章が読めない。目が文章の上を滑っていくというか。
んー、気分じゃないのかなと思いながら鞄の中に戻し、代わりに取り出したるはハーモニー。こちらはまだ、十五回ぐらいしか読み返してないけど。やっぱりお気に入りの本で。特にどうしようもない程の息苦しさがお気に入り。なのにやっぱり頭に入ってこない。
なんでだろうなあ、なんて思いつつ栞を挟み机に置く。映画公開に合わせた特別な表紙。トァンの凛々しい立ち絵が載っている。その横顔をひと撫でする。私はトァンになりたかった。ミァハという圧倒的カリスマに焼かれた少女。強すぎる炎は、いつか翼を焼き尽くすものだとしても。温かい太陽に包まれるのは、きっと幸せだっただろうから。とはいいつつも、今日に限ってはトァンの物語に没頭できない。
まあ、なんで頭に入ってこないかなんて薄々予測はついているんだけど。さっきからお腹の下というか、下腹部に。何とも形容しがたい痛みというか。違和感を感じていたから。薬切れてきたな、と独り言ちる。こまめに飲んでたんだけどな、なんて。
まあ、要は月のもの。生理。女の子の日。女の子の日って言い方はあまり好きではないのだけど。なんか、気持ち悪くて。それになんか、自分が女だって突き付けてくるから嫌だ。
これでも私は、肉体こそ女だけど、心まで女かはよくわからないので。自認が男みたいな日もあれば、女みたいな日もあるってやつ。何なら一日のうちで入れ替わったりもする。まあ、制服は女子用制服しか着たことないけど。スラックスもいいなあと思わなくもないけど、絶対怒られるし。そもそも買ってもらえない。それに私、お小遣いないし。お小遣い無いも同然だし。だから仕方がないかなとは思っているんだけど。
まあ、だから。女の子の日って言葉が嫌いで。だったら生理のほうがよっぽどいい。ただ、時々なんかどぎつい気もするし、あまり大っぴらにも言いづらいから。月のものと言っているんだけど。それはともかく、鞄の中を漁り、ポーチからピルケースを取り出す。
それで鎮痛剤を取り出そうとしたんだけど、探せど探せど出てこない。あれ?みたいな。前飲んだ時はまだあったはずなんだけど。一個もない。どこにもない。別のところにしまったのかなと思ってごそごそ漁るけれど。それこそ巾着の中とか。時たま無意識でとんでもない場所にしまったりするから。どこにもない。
そしてそのくせ、横着して薬のシートごと生身で鞄の内ポケットに入れてあったのが出て来て。うわ、雑……。という気持ちと、ラッキーという気持ちで取り出してみたら。生憎一粒も残ってなくて。
ただのゴミじゃねーか。捨てとけよ、馬鹿!と怒りに任せて叫びたいけれど。クラスメイトも残っているのに叫んだりしたら、不審者になってしまうから。だから苛立ちに任せて。どうすんのよ、これ、みたいな焦りもあったけれど。薬ないとしんどいんだけど、みたいな。空のシートを引っ張ったり曲げたり。バキバキ折り曲げたり、ブンブン振ってしならせて遊んでいたら。
横からすっと、シートが差し出されて。鎮痛剤なら同じのあるけど。いる?そんな声とともに。見れば、鎮痛剤のぎっしり詰まった、完全未使用の開けたてのシート。ふと見上げれば、名前は知らないけどクラスメイトの一人。
確か去年高等部に編入して入ってきた外部生。茶髪の混じったショートボブが印象的な子。なんかスポーティだったのと、髪を染めてくるなと怒られているのを見たことがあるから。いや、地毛なんですけどって抗議しているのも見かけたし。
あと顔もいいから。シュッとしてて、王子様みたいで。実際、王子様みたいに見ている子もいるし。男女共に人気が高いのは知っていたから。それこそ去年、生徒会にいる時にも噂を聞いたことがある。随分顔の良い編入生がいるとか、だいぶモテているらしいとか。そんな噂は結構聞いた。でも、直接は話したことないよなあ、とは思ったけど。
まあ、くれるというのなら貰おうかなと思って。ありがと、といって一回分を取り出し。ペットボトルのお茶で飲み込む。助かったよ、なんて言いながら残りを返す。ただ、その子は返されたシートをパキリと半分に折ると、半分を自分のポケットに収め、残りの半分を再び差し出してきた。あげる。この後切れたら困るでしょ、なんて言いながら。
少し戸惑ったけれど、くれるというのなら貰っておこうかなと思って。お薬代も馬鹿にならないし。母親は機嫌がよければお薬代も気前よく出してくれるけど。機嫌が悪いとそもそも話しかけても無視されるから。
何とか頑張って貯めているお金。ごくまれにもらえるお小遣いとか、内緒で本家の人から貰ったお年玉とか。そういうのはあるけれど。どうせ買うならやっぱり優先度の高いナプキンとかからかなって。
ナプキンが無いのはさすがに困る。ティッシュを詰めて登校する羽目になる。そして保健室の先生にナプキンをもらうとか。一時期それをやりすぎて、実家に連絡がいって。死ぬほど怒られたし、機嫌がよければ買ってきてもらえるけど。
何しろ気分屋だから。買ってきてもらえない時もあるし、純粋に買うのを忘れてしまうこともある。そういう時に恐る恐る催促するんだけど。
基本催促されるのが嫌いな人だから。だったら自分で買って来いよ。こっちは忙しいんだ。お前みたいに暇じゃないし、一生お前のこと考えているわけにもいかないの、なんて。私のナプキンと母親のナプキンは違うし。一緒のは嫌みたいだから。
だから自分で買うしかないよねって話でしかなくて。でもやっぱりお金には限りがあるから。優先順位はつけないといけないねっていう。バイトでもできればいいんだけど。バイトは禁止だし、罰則がやたら厳しいから。進学校なのと、いいとこの子が集まるかもしれないからかもしれない。なーんて。
だから、どうしてもお薬の優先度って下げざるを得ないから。お薬なしも辛いから、用量の半分にしたりとか。飲む頻度を下げて節約してるけど。こうしてタダでもらえて、さらにオマケもつけてくれるなんて。やさしーって思って。いいの、助かる!ちょうど切らしてたんだよねー。生活必需品だからさー。なんて言いながら今度こそしっかりピルケースに収めて。
その子は、いいよいいよなんて苦笑して。家、医者だから。貰ってきてもらえる。なんて言って。いいなーと思って。まあ、機嫌がよければだけどね。そんなことを、ぼそりと。何でもないことのように言いながら。
ちらりと私の机の上のハーモニーに目を向けて。ハーモニーか。いいよね。伊藤計劃。ゼロ年代SFの旗手。わずか三作を残してこの世を去った、夭折の作家。個人的には、三作目の屍者の帝国は実質、円城塔の作品だと思ってるから。最初の数ページは確かに伊藤計劃の言葉だなって感じだけど。円城塔が引き継いだ部分からは円城塔の言葉でしかないし。
だから、あまりこの言い回し好きじゃないんだけどね、なんて笑いつつ。そうだね。そんな私の相槌なんて聞こえなかったかのように続ける。
私、伊藤計劃以前と以後で日本のSF文壇は変わらざるを得なかったって話、マジだと思うんだ。天才は何もかも変えていく。引っ掻き回して去っていくから。なんて言いながら。何気ないそぶりで私の席の前の子の椅子を引いて。さらに言う。
特にハーモニーが好きかな。息苦しいから。虐殺器官のジョン・ポールも好きだけど。やっぱりハーモニーの御冷ミァハが一番好き。だって私だけのカリスマだから。そう言って、にっこり笑って。その笑みに、少しだけどきりとする。
その笑顔は、どこまでも透き通っていて。さながら、ハーモニーの、なんて。そんなことは考えたりしない。ただ、その笑顔は恰好よかったから。王子様扱いされるのは伊達ではないんだなって思うぐらいには。
その子は勝手に前の子の椅子に腰かけて。私と向き合うように。背もたれをまたぐようにして。何でもないように。腕を背もたれの上に重ねて。そして言った。私、佐々木。佐々木咲。多分まだ話したことなかったよね、なんて。