白い骨と長い耳   作:霧中墓守

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第5話 商人

 人間の顔というのは、存外、窮屈なものだ。

 第九階層の姿見の前で、デミウルゴスはそう思った。

 鏡の中に、三十を少し過ぎたくらいの男が立っている。浅黒い肌はそのままに、髪を短く刈り、丸い眼鏡を外し、背広の代わりに厚手の旅装を着ている。尾は幻術の下に巻き込んで、外からは見えない。宝石の目には、薄い茶色の色を被せた。

 どこから見ても、北の街道を行き来する小商人だ。少し身なりが良すぎるかもしれない。袖口の擦り切れを、一つ足す。

「似合っておりんすね」

 戸口から、シャルティアが覗いていた。昨夜の手柄で、今朝はずいぶん機嫌がいい。

「似合わないように作ったのですがね。商人というのは、少しばかり冴えない方が、人の口が軽くなる」

「わらわには、人間の顔の良し悪しはわかりんせん」

「私にも、よくはわかりません」

 シャルティアは、それから少しだけ胸を張った。

「ちびすけには、今朝、ちゃんと自慢してきんした」

「それは、アウラも災難でしたね」

 デミウルゴスは、鏡の中の自分に向かって、一度だけ人間らしく笑ってみせた。口の端を上げ、目尻を下げる。三度目で、それらしくなった。

 

 出立の前に、執務室へ挨拶に上がる。

 アインズは、机の向こうからデミウルゴスの姿をしばらく眺めていた。

「目立つな」

「はい」

「殺すな。少なくとも、人間は」

「心得ております」

「伯爵の街で何が話されているか。何が恐れられているか。それがわかればいい。三日で戻れ」

「かしこまりました」

 頭を下げながら、デミウルゴスは主の声の調子を聞いていた。殺すな、の前に、ほんの一瞬だけ間がある。人間を殺すな、と言うべきか、魔族も含めて殺すなと言うべきか、決めかねたような間だ。

 昨夜の牢で、主は魔族の兵の話を最後まで聞かなかった。聞くべきことは、葬送のフリーレンという名ひとつで足りた、ということなのだろう。あの名を聞いたあと、主は長いこと黙っていた。

 あの魔族は、そのあとでデミウルゴスに多くを話した。北の陣の場所。兵の数。断頭台のアウラが首を落とした者の数。それから、アウラの下にいる三人の名前。リュグナー、リーニエ、ドラート。首切り役人と呼ばれているという。

 どれが本当で、どれが嘘かは、これから確かめる。

「デミウルゴス」

 扉の前で、呼び止められた。

「はい」

「……その顔、似合っているな」

 デミウルゴスは、振り向いて、深く一礼した。

 主の声には、ほんの少しだけ、笑いが混じっている。

 

◇

 

 街道は、思っていたより人が多い。

 北へ向かう荷馬車。南へ戻る空の荷車。背に籠を負った女たち。槍を担いだ兵が四人、だらだらと北へ歩いていく。どの顔にも、北へ向かうことへのささやかな怯えと、それに慣れてしまった者の鈍さがある。

 デミウルゴスは、街道の半ばまでを転移で飛び、そこから先を歩いた。宿場で買った驢馬の手綱を引きながら、人の流れに混じって南へ行く。すべてを飛んでしまえば、道を知ることができない。道を知らない者が商人を名乗れば、最初の門で嘘が割れる。

 道端に、男が一人座り込んでいる。片脚の膝から下がなく、前に置いた椀には何も入っていない。通る者は誰も椀を見ない。見ないことに慣れている足取りで、男の前を過ぎていく。

 荷馬車の御者が、男の椀を蹴った。わざとではないのかもしれない。椀は転がって溝に落ち、男は這って取りに行く。御者は振り返りもしない。

 デミウルゴスは、その一部始終を、牧場の柵の外から羊を眺めるような心持ちで見ていた。

 人間は、人間の苦痛に、思っていたよりずっと鈍い。それは発見というより、確認だ。鈍いものは、扱いやすい。痛みを感じる場所を、こちらで選んでやれる。

 這って椀を拾い上げた男と、一瞬だけ目が合う。デミウルゴスは、商人らしく、気の毒そうに眉を下げてみせた。男の椀には、何も入れない。

 昼に、街道沿いの茶屋で休む。

 茶屋の親父は、片目が白く濁っていた。魔族にやられた、と聞きもしないのに言う。勇者さまが死んでから、北はまた物騒になった。昔はこのあたりまで魔族が来ることなんかなかったのに。

「旦那、北から来なすったね」

「ええ。北の村々を回っておりまして」

「北の森、通ってきたかい」

 デミウルゴスは、茶碗を置いた。

「通りましたが、何か」

「いやね。今朝、北から来た粉屋の小僧がさ。森で骸骨の魔物を見たって、大騒ぎしながら南へ行ったんだよ。骸骨が手を握ったら、魔族が粉になって消えたんだと」

 親父は、白い方の目を細めて笑った。

「骸骨が魔族を殺してくれるなら、ありがたい話だがね。そういや、北の森の街道じゃ、このところ魔族を見かけねえって行商の連中が言ってたな。前はよく、木の上から見張ってるのがいたのに」

 デミウルゴスも、少しだけ笑ってみせる。三度目に覚えた、あの笑い方で。

 

 伯爵の街は、高い石壁に囲まれていた。

 壁の上に、見張りが等間隔に立っている。その間を、鳥が一羽、のんびりと渡っていく。門の前には荷車の列ができていて、兵が一台ずつ荷を改めている。

 列に並びながら、デミウルゴスは門の上を見上げた。

 見張りの中に、一人だけ毛色の違う者がいる。ほかの兵が槍を持っているところを、その男だけが杖を持っている。年は四十ほど。顎鬚をきちんと揃え、胸を張って、門の下の列を見下ろしている。

 魔法使いだ。

 デミウルゴスは、目の奥で、それを量った。

 ユグドラシルの言葉で言えば、第二位階に届くかどうか。ナザリックの一般メイドより、少し上。その程度のものを、男は隠しもせずに身に纏っていた。いや、隠さないどころか、外へ外へと押し出している。あそこに魔法使いがいる、と、門の下の誰にでもわかるように。

 この街の誰もが、それを頼もしく見上げているのだろう。

 デミウルゴスの番が来た。

 兵が、驢馬の荷を改める。中身は、北の村で仕入れたことにした干し茸と、薬草の束、それから小さな布袋。袋の中には、ナザリックの宝物殿から借りてきた、ごく小さな青い石がいくつか入っている。

「金は」

「この国の銀貨を切らしておりまして。両替屋で、これを替えるつもりです」

 石を一つ、手のひらに転がしてみせる。兵の目が、一瞬だけ大きくなった。それから、急に丁寧な口調に変わる。

「……どうぞ。両替屋なら、広場の東の角だ」

 門をくぐるとき、壁の上の魔法使いが、こちらを一度だけ見た。

 見て、何も感じなかったらしい。すぐに北の街道へ目を戻した。デミウルゴスの中にあるものは、あの男の目には映らないのだ。魔力のない、ただの商人。

 それでいい。

 

◇

 

 両替屋は、広場の東の角にあった。

 狭い店の奥に、太った男が一人、秤を前にして座っている。デミウルゴスが青い石を一つ置くと、男は拡大鏡を目に当てて、長いこと眺めていた。

「……ふむ。悪くはない。悪くはないが、傷がある」

 男は、石の一点を指さす。

「ここに、ほら。曇りがあるだろう。これだと、銀貨二十枚がいいところだね」

 曇りなどない。ナザリックの宝物殿にあったものだ。ユグドラシルの職人が作った、傷ひとつない石。

 デミウルゴスは、男の顔を見る。

 額に、汗が浮いている。指先が、わずかに震えている。秤の上の石から目を離そうとしない。この男は、この石が自分の店の何年分の儲けになるか、もう計算し終えているのだ。計算し終えて、二十枚と言った。

「曇り、ですか」

「曇りだよ。わしは三十年この商売をしてる。見ればわかる」

 なんと見事な、とデミウルゴスは思う。

 魔族の言葉は、獲物を取るための鳴き声だと、牢の兵の様子から学んだ。けれども人間もまた、言葉で獲物を取る。この太った男は、魔族と同じことを、汗をかきながらやっている。違うのは、男が自分の嘘を嘘だと知っていることだ。知っていて、怯えながら、それでもやる。

 そちらの方が、ずっと味わい深い。

「では、ほかの店で見ていただきましょう」

 石に手を伸ばす。男の手が、それより早く石の上に被さった。

「……四十枚」

「ほかの店で」

「六十。いや、八十だ。それ以上は、この街のどこに行っても出ない」

 デミウルゴスは、ゆっくりと手を引いた。

「八十で結構です。曇りのある石に、ずいぶん奮発していただいて」

 男の顔が、赤くなり、それから白くなる。

 銀貨の袋を受け取って店を出るとき、背後で、男が深く息を吐くのが聞こえた。安堵の息だ。まだ自分の方が得をしたと思っている。実際、そうなのかもしれない。石は、八十枚の何倍もの値打ちがある。

 それでも、デミウルゴスは満足していた。人間がどんなふうに嘘をつくのかを、一つ、手に入れたのだから。

 

 広場には、市が立っていた。

 野菜。布。鍋。籠に入れた鶏。焼いた肉の匂いと、腐りかけた果物の匂いと、人の汗の匂いが、日差しの下で混ざり合っている。

 人の多いところには、話が集まる。デミウルゴスは、市の中をゆっくり歩いた。

 西の端に、人だかりができている。

 荷車の上に、若い男が立っていた。十七、八。日に焼けた顔で、粉で白くなった前掛けをしている。荷台には粉の袋が三つ。

「本当なんだって。俺は見てないけど、見たやつから聞いたんだ。木こりのハンスってやつが、すぐそばで見た」

 若者は、両手を大きく広げている。

「骸骨だよ。黒い服を着て、目が赤く光ってる。背丈は、家くらいあったって」

 家くらい。

 デミウルゴスは、人垣の後ろで、口の端だけで笑った。セバスの報告では、村の子どもたちのあいだで、骸骨はもう家ほどになっていた。本当の背丈を知っている者は、この人垣に一人もいない。主の仰った通りだ。噂というのは、勝手に大きくなる。

「手をこう握っただけで、魔族が粉になって消えたんだ。骸骨には手下がいるんだ。耳の長い子どもが一緒だったって。そのうち、手下を村に寄こすに決まってる。いや、まだ来てないかもしれない。俺はもう出てきたから、わからない。でも、きっと来る。あいつら、村に何かするつもりなんだ」

 聞いていた男の一人が、腕を組んだ。

「で、兵は出るのかい」

「わからない。門の兵に話したら、笑われた。北の村の小僧が、骸骨を見たってさ、って」

 若者の顔が、少し歪む。

「でも、本当なんだ。だから、伯爵さまに会いたいんだ。伯爵さまなら、魔族のことは本気で聞いてくれるって」

「伯爵さまが、小僧に会うもんかね」

 人垣から、笑い声が上がった。若者は口を開きかけ、何も言えずに閉じた。

 デミウルゴスは、人垣が崩れはじめるのを待ってから、荷車に近づく。

「その荷台の粉を、いただけますか。袋ごと」

 若者が、目を瞬く。

「三つとも?」

「三つとも。北の村の粉は、目が細かいと聞いておりますので」

 嘘だ。粉の目の細かさなど、デミウルゴスは知らない。けれども若者の顔が、ぱっと明るくなった。

「目は細かいよ。うちの水車は、このへんのよりずっと古いけど、石がいいんだ」

「では、それも込みで」

 銀貨を数えて渡す。若者が言った値の、少し上。若者は、多すぎると言いかけて、言わなかった。言えなかったのだろう。荷車を引いて二日歩いてきた者の顔だ。

「お名前を伺っても」

「フリッツ。シュタウプの村の、粉屋の」

「フリッツさん」

 デミウルゴスは、粉の袋を驢馬の背に移しながら、何気ない調子で言った。

「先ほどのお話ですが。その骸骨は、名を名乗りましたか」

「名前?」

 フリッツは、首を傾げる。

「さあ。ハンスは何も言ってなかったな。魔族は名乗るもんだって、婆さんは言ってたけど」

「そうですか」

 名前は、まだ届いていない。

 デミウルゴスは、粉の袋の口を縛り直した。

「私が北の街道で聞いた話では、アインズ・ウール・ゴウン、と名乗ったそうですよ」

「アインズ……?」

「アインズ・ウール・ゴウン。北の茶屋で、旅の者が話しておりました。森の骸骨は、そう名乗る、と」

 フリッツは、口の中でその名前を繰り返した。覚えようとしている顔だ。

「……知らなかった。村の誰も、そんなこと言ってなかった」

「噂というのは、行く先々で少しずつ違う形をしているものです」

 フリッツが、その名前を、これから会う誰かに話すだろう。門の兵に。市の客に。もしかすると、伯爵の館の誰かに。そのたびに名前は少しずつ形を変え、少しずつ遠くへ行く。

 主が望まれたのは、それだ。

 

「それで、フリッツさんは、これからどうなさいます」

「村へ帰る」

 フリッツは、空になった荷台を見下ろした。

「粉を売ったら、すぐ帰るつもりだった。母さんが、心配してるだろうし。黙って出てきたから」

「黙って」

「止められると思ったから。寄り合いでは、誰も決められなかったんだ。だったら俺が行くしかないって」

 フリッツは、少し照れたように鼻をこすった。

「母さん、怒ってるだろうな。弟も泣いてるかもしれない」

 それから、思い出したように顔を上げる。

「そういえば、旦那は北を回ってるんだろ。耳の長いエルフの魔法使いって、見たことあるかい」

「エルフ、ですか」

「うちの村の婆さんがさ。子どもの頃に、エルフの魔法使いが村に来たって言うんだ。宝箱はないかって聞いて、茸の魔法に銀貨三枚払ってったって。みんな婆さんの作り話だと思ってるけど、俺が出てくる前の晩も、またその話をしてた」

 フリッツは、少し笑った。

「魔族と話しちゃいけないって、そのエルフが言ったんだって。だから俺、骸骨の話を聞いたとき、まず婆さんの話を思い出したんだ」

「そのエルフの名前は」

「婆さんも覚えてないって」

 デミウルゴスは、穏やかに頷いて、フリッツの顔を見る。

 取り乱していた母親のことを、セバスは報告していた。この若者が無事だと知らせてよいか、と主に願い出たことも。主はそれを許さなかった。恐れさせておけ、と。

 セバスらしい、とデミウルゴスは思う。たっち・みー様の作られた者らしく、あの執事は、目の前の涙をいちいち拾おうとする。拾ったところで、涙は次から次へと落ちてくるというのに。

 この若者がいま帰れば、村は安心する。安心すれば、また誰かが南へ知らせを出そうとする。主の判断は正しい。

「フリッツさん」

 デミウルゴスは、穏やかに言った。

「一つ、お願いがあるのですが。私はこれから三日ほど、この街で商いをいたします。荷を運ぶ手が足りない。手間賃はお出ししますので、手伝っていただけませんか」

 フリッツは、驚いた顔をした。

「三日? でも、母さんが」

「三日分の手間賃があれば、お母上にも、弟さんにも、何か土産を買って帰れます。黙って出てきて、手ぶらで帰るより、その方がよろしいでしょう」

 フリッツの目が、空の荷台と、デミウルゴスの手の中の銀貨とを、行ったり来たりする。

「それに、三日あれば、伯爵さまのお館の方に、お話を聞いていただける機会もあるかもしれません。私にも、多少の伝手がございますので」

 それが決め手になった。

「……三日だけなら」

「ありがとうございます」

 デミウルゴスは、深く頭を下げた。商人らしく、少し大げさに。

「荷運びは、明日の朝からお願いします。今日はもう、運ぶ荷がございませんので。宿は、私と同じところに一部屋取っておきます。広場の北の、看板に鍋の描いてある宿です。宿代は、手間賃とは別にお持ちしますよ」

 フリッツは、照れくさそうに笑って、荷車の轅を握り直した。

「じゃあ、今日のうちに、門の兵にもう一回話してくる。名前がわかったんだから、今度は笑われないかもしれない」

「それがよろしいでしょう。夕方には、宿へ」

 フリッツは、空の荷車を引いて門の方へ駆けていく。デミウルゴスは、その背中を見送ってから、驢馬の手綱を引いた。

 しばらくして門の前を通りかかると、フリッツが兵の前で両手を広げていた。兵は面倒くさそうに聞いている。それでも、兵の一人が、腰の帳面に何かを書きつけた。

 名前が、紙に乗った。

 この若者の母親は、あと三日、柵の前に座ることになる。

 

◇

 

 市の外れに、勇者の像があった。

 台座の上に、若い男が一人、剣を掲げて立っている。石の顔は整っていて、少し得意げだ。髪の流れまで、やけに丁寧に彫り込まれている。台座には、勇者ヒンメル、と刻まれていた。

 像の足元を、老人が一人、箒で掃いている。

「ずいぶん、きれいにしておられますね」

 デミウルゴスが声をかけると、老人は顔を上げた。

「勇者さまの像だからね。汚しとくわけにはいかん」

「この街の方は、皆、勇者さまを大事になさる」

「この街だけじゃないさ。北の国なら、どこにでもある。勇者さまが、自分で頼んで建てさせたんだそうだ。あちこちに」

 老人は、箒の柄にもたれた。

「なんでも、仲間のエルフのためだったとか。エルフは長生きだから、勇者さまが死んだあと、ひとりぼっちにならないように。像があれば、思い出してもらえるって」

「エルフのため」

「わしの爺さまが言ってたことだから、本当かどうかは知らんよ」

 老人が、像を見上げる。

「そのエルフの魔法使いさまはな、今も旅をしてるって話だ。この前も、どこかの街で像を磨いてたとか、磨いてなかったとか」

 北の村の老婆。勇者の像を掃く老人。牢の魔族の怯え。三つの別々の口が、同じ一人の話をしている。

 デミウルゴスは、像を見上げた。

 勇者は、この像を、自分のためではなく、自分の死んだあとの仲間のために建てさせた。そういう話に、この街ではなっている。

 人間らしい、と思った。死んだあとのことまで、自分で決めておきたがる。自分が忘れられることを、何より恐れている。そのくせ、それを他人のためだと言う。

 ナザリックの至高の御方々は、何も言い残さずに去っていかれた。

 その考えが、なぜ浮かんだのか、デミウルゴスにはわからなかった。

「北は、物騒でございますか」

 話を変える。

「物騒だよ。伯爵さまの若さまも、魔族に殺された。もう何年も前のことだが、伯爵さまは今でも、魔族と聞けば顔色が変わる」

「それは、お気の毒に」

「北の高原の方は、もっとひどいらしい。あっちは、一級魔法使いさまが一緒じゃなきゃ通れない関所があるとか。わしらには縁のない話だがね」

 一級魔法使い。

 デミウルゴスは、その言葉を胸の中にしまった。この国の魔法使いには、格があるらしい。門の上のあの男は、何級なのだろう。

 老人と別れて広場を抜けると、坂の上に、大きな屋敷が見えた。

 石造りの三階建てで、門の上に伯爵家の紋章らしい盾が掲げてある。ちょうど、その門から、数人の兵を従えた男が出てくるところだった。

 四十を過ぎたくらいの、背の高い男だ。肩まで伸びた茶色の髪が、片目に少しかかっている。顎には、短く整えた髭。白いシャツの胸元を開け、金の肩章のついた濃紺の長い外套を、袖を通さずに肩から羽織っている。

 男は門の前で足を止め、兵の一人から何かの報告を受けた。聞きながら、目だけで広場を一度、端から端まで掃いた。人の数を数える目だ。誰がどこに立ち、どちらへ逃げられるかを量る、戦場の目。

「伯爵さまだよ」

 屋敷の前で花を売っていた娘が、デミウルゴスの視線に気づいて言った。

「グラナト伯爵さま。若さまを魔族に殺されてから、一度も笑ったところを見たことがないって、みんな言ってる。でも、街の者を守るためなら、どんなことでもなさるお方だよ」

 デミウルゴスは、男を見ていた。

 悲しみを抱えた人間は、たいてい、わかりやすい。同じ言葉に、同じように顔色を変える。押せば、どちらへ倒れるかが見える。

 この男は、違う。悲しみを、外套と同じように肩に羽織ったまま、袖を通していない。必要とあれば、いつでも脱ぎ捨てて剣を取るのだろう。そして、街を守るためなら、憎いものとでも手を握るのだろう。

 動かしにくい。だからこそ、動かしがいがある。

 伯爵の目が、一瞬だけ、デミウルゴスの上を通り過ぎた。止まりはしない。ただの商人だ。

 花売りの娘に銅貨を一枚渡して、白い花を一輪買った。宿の部屋に飾るつもりもなく、ただ、商人がそうしそうだったから。

 

◇

 

 その門の上の男を、夕方、もう一度見た。

 広場で、兵の訓練が行われていた。若い兵たちが、槍を構えて並んでいる。その前で、門の上にいたあの魔法使いが、杖を掲げていた。

「魔族は、魔力を見る」

 魔法使いは、よく通る声で言った。

「魔力の大きい者を恐れ、小さい者を侮る。だから、我々魔法使いは、魔力を常に示さねばならん。ここに力がある、と見せつけねばならん。隠すなど、もってのほかだ。隠せば、侮られる」

 男の体から、魔力が立ちのぼる。さっき門の上で見たときより、さらに大きく。若い兵たちが、感心したようにどよめいた。

 デミウルゴスは、人垣の後ろでそれを見ていた。

 第二位階に届くかどうか、の魔力を、男は精一杯に膨らませている。孔雀が羽を広げるように。

 なるほど、と思う。

 この世界では、魔力が、そのまま格になるのだ。

 魔族がそうなのは、牢の兵から聞いていた。魔力の大きい者が上に立ち、小さい者は下に従う。魔族にとって、魔力は身分であり、財産であり、誇りだという。

 それを相手にする人間の魔法使いもまた、同じ物差しで自分を量っている。魔力を見せつけることで、魔族に侮られまいとしている。敵の物差しを、そのまま自分のものにしている。

 では、魔力を見せない者は、どうなる。

 デミウルゴスは、自分の胸に手を当てた。

 門の上の男は、デミウルゴスを見て、何も感じなかった。森の子どもの形をした魔族は、アインズ様を見て、魔力がないと言ったという。昨夜の兵は、シャルティアを付属品と呼んだ。

 彼らの物差しに、ナザリックは映らない。

 映らないものを、彼らは「ない」ことにする。魔力を隠すという考えそのものが、彼らにはないのだ。隠す理由がない。魔力は見せるためにあるのだから。

 だとすれば。

 この世界で最も恐ろしいのは、魔力を見せない者だ。

 デミウルゴスは、自分の考えに少しだけ眉を寄せた。

 牢の兵が葬送のフリーレンの名を口にしたとき、あれほど怯えたのはなぜか。魔力の大きい者を恐れるのなら、名前だけであれほど黙りはしないだろう。あの兵は、魔力の大小とは別の何かを恐れていた。

 千年生きるエルフ。像を磨いて旅をする魔法使い。茸の魔法に銀貨を払う、物好き。

 その者は、この物差しの外にいるのかもしれない。

 もしそうなら、この世界でナザリックを量れるのは、その者だけなのかもしれない。

 

◇

 

 宿の一階は、酒場になっていた。

 兵が三人、隅の卓で杯を傾けている。昼間、門で荷を改めていた顔もある。デミウルゴスは、彼らの隣の卓に座って、薄い麦酒を一杯頼んだ。

「北の村の小僧の話、聞いたか」

「骸骨だろ。家くらいあるっていう」

「さっき市で聞いたら、城くらいになってたぞ」

 兵たちが笑う。笑い声の端に、少しだけ乾いたものが混じっている。

「笑いごとじゃねえよ」

 いちばん年かさの兵が、杯を置いた。

「伯爵さまの耳に入ったら、どうなる。若さまを殺されてから、伯爵さまは、魔族の話となればどんな小さな噂も捨てておかれねえ。骸骨だろうが何だろうが、北の森に魔物がいると聞いたら、確かめに兵を出される」

「出したら、俺たちが行くんだぞ」

「だから笑いごとじゃねえって言ってんだ」

 しばらく、誰も喋らない。

「……でもよ」

 若い兵が、ぽつりと言う。

「骸骨が魔族を消してくれるなら、それはそれで、いいんじゃねえのか」

 年かさの兵は、何も答えなかった。

 フリッツは、門から戻ると早々に、二階の部屋で眠ってしまった。二日歩きどおしだったのだから、無理もない。

 デミウルゴスは、麦酒を半分残して席を立つ。

 部屋に戻り、《伝言》を開く。

「アインズ様。デミウルゴスでございます」

『ああ。どうだ』

 主の声は、いつも通り落ち着いている。

 デミウルゴスは、見たものを順に報告した。城ほどになった骸骨の噂。勇者の像。伯爵の息子。一級魔法使いの関所。門の上の魔法使いと、その演説。それから、粉屋の若者のこと。

「名を、噂に添えておきました。アインズ・ウール・ゴウン、と。若者には三日、この街に残るよう頼んであります。そのあいだに名前は、市の端から端まで届くでしょう」

『三日』

「はい。三日のあいだ、村は若者の安否を知りません」

 《伝言》の向こうが、少しだけ静かになる。

 出立のときに聞いたのと、同じ長さの間だった。

『……わかった。続けろ』

「かしこまりました」

 《伝言》が切れる。

 デミウルゴスは、窓の外の暗い屋根を眺めた。主は、今の間のあいだに、何を量っておられたのだろう。若者の母親のことか。それとも、もっと遠くの何かか。

 わからないことが一つ増えるのは、悪い気分ではない。

 

 夜半、デミウルゴスは宿を抜けて、街の外へ出た。

 城壁の外は、畑と、まばらな林だ。月は細く、星が多い。北の方角に、黒く濁った空気が低く溜まっているのが見える。ナザリックの上から見たのと、同じものだ。

 城壁の北の角まで歩いたところで、足を止めた。

 何かが、光った。

 城壁の石と石の間に、細いものが一本、張られている。月の光を受けて、かすかに光る。糸だ。蜘蛛の糸よりも細く、弦よりも硬い。それが、城壁の角から林の方へ、まっすぐに延びている。

 デミウルゴスは、糸に指を近づけた。触れはしない。

 目を凝らすと、糸は一本ではなかった。城壁の角から角へ、門の上から林の梢へ、細い光がいくつも張り渡されている。街全体が、目に見えない網の中に置かれているのだ。

 糸の上を、ほんのわずかな魔力が流れている。冷たく、細く、よく研がれた刃物のような魔力だ。門の上の男のように膨らませてはいない。必要なだけを、必要なところに通している。

 牢の兵の言葉を思い出す。

 首切り役人の一人、ドラート。糸を使う。

 林の奥で、枝が一本、鳴った。

 デミウルゴスは、そちらを見ない。見なかったふりをする。主は、殺すなと仰った。少なくとも人間は、と。魔族については、何も仰らなかった。あの一瞬の間は、つまりそういうことだったのかもしれない。けれども、今夜、この糸を断ち切れば、断頭台のアウラは、伯爵の街に何かがいると知る。

 まだ、早い。

 デミウルゴスは、糸から指を離し、城壁に沿って宿の方へ戻りはじめた。

 背中に、視線が刺さっている。

 林の奥から、誰かがこちらを量っている。量って、何も見つけられずにいる。魔力のない、ただの商人。夜に城壁の外を散歩する、物好きな男。

 その視線が、ふっと外れた。外れる直前、頭上の糸が一本、風もないのに小さく震えた。

 デミウルゴスは、宿の裏口の前で立ち止まり、北の空を見上げる。

 黒く濁った空気の下で、糸が一本、まだかすかに光っている。

 この街は、もう量られている。

 伯爵の街の誰も、それを知らない。門の上の魔法使いも。勇者の像を掃く老人も。三日だけ街に残ると言った、粉屋の若者も。

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