第一幕 Every rose has its thorn.
時として現実というのは残酷だ。
心から欲するモノほど遠く、遠く、どこまでも遠く。手の届かないところにある。
努力の先の成功は確約されず、夢をつかんだモノはつゆほどしか存在しない。
理想を簡単に裏切るばかりか、理想を持つものを諦めさせる。
俺たちはその現実を運命と言うたった一言で受け入れる。
その
抗うものはたちは皆このような言葉で蔑まれる。
バカだ。
諦めが悪い。
それがこの世のある種のルールであり、現実だ。
──強くなりたい。
強く、何者にも屈しない力を。
どんなモノからも俺だけの世界──俺を取り巻くあまねくすべてを守りきる力を。
残酷な現実にも抗い、抗い続けられるだけの力を。
そう思い出したのはどれくらい昔のことだっただろうか。
こんな今時子供でも抱かないようなモノを欲したのはいつだっただろうか。
きっかけはなんだっただろうか。
錆びれていく記憶の中で錆びなかった記憶──否、錆びれていくことを赦せなかった記憶が思い起こされる。
問いの答え。
それは痛みの記憶。
それは暴力の記憶。
それは弱さの記憶。
それは血と涙の記憶。
強くなりたい。
それはどんな男でも一度は抱く感情だろう。
喧嘩に勝ちたい。ゲームに勝ちたい。野球、サッカーで勝ちたい。アイツに勝ちたい。
あまねく勝利への渇望全てはすなわち強さへの渇望だ。
喧嘩に勝つために強くなりたい。ゲームに勝つために強くなりたい。野球で強くなりたい。サッカーで強くなりたい。いや、うまくなりたいと言った方が文法的には間違っていないか。アイツよりも強くなりたい。
どの渇望も自分が生物として優秀であるということを誇示したいがための本能の延長に過ぎないのではないか。
強さへの渇望とは原始的な渇望だと俺は思う。
それは何十億という生命の進化の歴史が物語っているんじゃないだろうか。生きるために、何者にも虐げられない強さを。
残酷な環境の下で如何に強さを身につけ生き抜いていくか。
例えば牙。
例えば爪。
獲物を狩るための俊敏さを。
ある生物は暑さに耐えうる体を欲し、砂漠で生き抜く術を得た。
ある生物は水に耐えうる体を欲し、水中で生き抜く術を得た。
人間が抱く強さへの憧れというのは連面と続く進化の歴史の中で俺たちの遺伝子に刻み付けられた生への欲望なのかもしれない。
より強さ―財力や地位や名声―を持つものが子孫を残すためのを
子孫を残すという本能がそうさせているのなら人間が富や名声を求めるのも納得がいく。
──だが
そんな理屈などどうでもいい。
本能がどうした。
遺伝子がどうした。
そんなものから来る
俺たちは強く願い、欲し、渇望する。
それにどんな理由があったとして、どんな目的があるのか。そんな意味のない問いなど捨ててしまえ。
欲せ!
望め!
掴むその時までもがき続けろ!
抗い続けろ!
内なる声のままに。
強く!強く!
ただひたすらに想い、もがき、足掻いた末に俺たちは力を手にできたのか。
──いや
現実というのは残酷だ。
そしてその残酷さに俺たちはいつしか屈してしまう。
そしていつしか強さへの渇望を青い夢だと。叶うことのない夢だと。
そう思い込んで残酷な現実に向かっていくのだ。
強さを手に入れた者を称賛し、同時にその努力と想いさえあれば誰でも強くなれると錯覚し、あるいはその強さを貶める。
そんな不満を心のどこかに隠しながら。
そんな諦めと折り合いの中の社会で、未だそれを抱く俺は何と蔑まされるのだろうか。
青いと言われるのだろうか。
──そうじゃない。そんな不合理があっていいはずはない。
強さを追い続けるという青春に裏切られ、力を手にできなかった大人たちが俺をそう蔑むことで優越感に浸っているに過ぎない。
言い換えるなら―
力を手にできなかったモノの嫉妬。
「頑張るだけ無駄だ。」
彼らには俺が道化に見えているのかもしれない。
だが、所詮力を手にできなかった弱者が己のごく数年の中途半端な努力の中で培われた経験を下に作った価値観に過ぎない。
そのような尺度で計られるいわれはない。
こんなことを想うと同時に別の声が俺の中でこだまする。
青い夢だ。
強くなんてなれるはずがない。
力を手にしたのはこれまで一握りの人間だけだったじゃないか。
それが、この世の現実。
そうお前は理解しているじゃないか。
富と名声を勝ち得た人間が100億という人間がいる中でどれほどいる。
そんなことはわかっているんだ。
──だけど。
だけど、もし叶うとしたら────
いや、叶わなくても構わない。
俺は強くならなければならない理由がある。そのためだったらなんだってやろう。
俺に迷いなんてない。
もしかしたらこれを厨二病だと笑う輩もいるのかもしれない。
それならそれで構わない。
俺は何よりも強くなりたい。
たとえ強さの果てに破滅しか待っていなくとも。
ー☆ー☆ー☆ー
輪郭のぼやけた暗灰色の雲。
分厚い雲が住宅街の空を覆い、太陽を遮っていた。
空からは氷の結晶が舞い落ち、辺り一面を白銀に包んでいる。
寒さから身を守るものもなく、茶色い骨組みのような枝にも降り積もっている。
時折吹く風は痛みを感じるほど冷たく、体から熱が奪い取られていく。
乾燥した空気はとても澄んでいて、吸ってみると冷たい空気が肺の中を満たし、布団の温もりを惜しみ、微睡む体を
全国三位を誇る学校保有数の都市、第三学区。
その真ん中の十字の交差点はおおよそ全ての道に繋がっており、南に向かうと駅、東に数メートル歩くと噴水広場、西に数分歩くと図書館がある。北に向かえば、学生たちの居住区があり、さらにその先。居住区から徒歩20分ほどのところには私立聖天照学園がある。
北に進むにつれ、騒がしさを増していく。
息子、あるいは娘を起こす母親の声。
「行ってきます。」の声。
街中に朝の香りが広がる。
味噌汁や焼き魚の匂いだ。
道行く人々も例年より早い初雪に様々な表情で歩いていく。
恋人と寄り添いながら雪を眺めて歩く者、見慣れたと言わんばかりになんの表情の変化も見せない者。
子供たちは白く染まった世界で大はしゃぎで遊び、駆け回り、楽しそうな声をあげながら、ランドセルを背負って学校へと向かっていた。
変わらない日常。
平和で、それでいてどことなく退屈な日常。
いつも通りの平和で心地よい喧騒を過ぎるといよいよ学校が近づいてきた。
そういえば―
今日はいつもと違うことがひとつだけある。
───今日はアイツどうしたんだ。
不安と言ったら大袈裟かもしれない。だが、やはりいつもと違うと調子が狂うものだ。
学校を休むなど誰にでもある話で、ここのところ冷え込んだせいもあって風邪を引いただけかもしれない。
心配し過ぎだ。
そう言い聞かせて、内心の憂いを黙らせる。
何やら校門近くに人だかりができている。
──行ってみるか。
野次馬根性というべきものだろうか。
俺とは無関係な非日常的現象。校門近くに人だかりができるというこの事象に対し俺は首を突っ込んだ。
取り囲む彼・彼女らも一様にそのような思いで眺めているに過ぎないのだろう。
面白半分、興味本意。それ以外の言葉で表現しろと言われたら―残念ながらこう言わざるを得ないのだろう。
無自覚の悪。
悪として自覚していないからこそ尚質が悪く、下手すると最も純粋な悪意となりうるもの。
彼・彼女らの行為というのは一様にして、ひどく
こんな偉そうなことをのたまっておきながら、首を突っ込むお前はどうなんだと聞かれれば、俺はその問いに対して満足のいく解答はできないだろう。
言ってみれば胸騒ぎ。
平凡で退屈な日常のほんの些細な差異への圧倒的違和感。そう、虫の知らせとでも言うべきそれに導かれるまま俺は人ごみの中に入っていった。
無自覚の悪が構成するスクラムのような状態の人ごみをかき分け押し退け、騒ぎを見聞きしやすい最前列を目指す。
果たして俺の勘とやらが外れていてくれという僅かな希望は打ち砕かれた。
見覚えのある少女が、はたまた見覚えのある大男に道を塞がれ立ち往生していた。
男の方は背丈は2mほどあろうか。少女が小柄なのも相まってその大きさが誇張されているように感じる。
筋肉隆々としている体は、笑えるくらいに制服を盛り上げていた。もう、制服である黄土色の学ランがパツパツになるほどである。
──命名・筋肉達磨
勝手な仇名までつけ、俺が一番気にしていた存在に注意を向ける。
清楚にして可憐。純潔にして無垢。
そう言った女性として誉め言葉らしい誉め言葉──存外安っぽい口説き文句になりがちな言葉──でしか
それほどの存在感。
それほどの美貌。
──いや、美貌という言葉すらも彼女を形容するには些か役不足だ。
どんな国のどんな言葉でも彼女の美しさを讃えることはできないだろう。
彼女には言葉という概念すらも超越させるものがあったのだ。
さて、薔薇に関する
『綺麗な花には棘がある』
という諺がある。
本当にそうだろうか。
吹けば散ってしまいそうな儚さを漂わせるこの少女が棘らしいものを何一つとて持っていないのならこの諺は成立し得ないのではないか。
薔薇の棘は、他の生物に食べられないようにと葉が進化したものらしい。
であるなら、この少女。何をもって棘となし何をもって外敵から身を守るのか。
「や、やめて!放して!」
「可愛い声してんじゃねぇかよ、えぇ?」
舐めるようにという言葉がよく似合うほど少女を視姦する。
「発育は・・・ちと不十分か。まぁいい。払う気がありませんってんなら、
華奢な身体が軽々ともちあげられ、下卑た笑みと共に連れ去ろうとする。
「放して!放して!」
「おい!」
我ながらドスの効いた声で最前列から一歩さらに踏み出す。
キョロキョロと辺りを見回す大男。
どうやらこちらが視界に入っていないらしい。結構身長は高い方だと自負していたのだが、こんな反応をされると正直へこむ。
「お前に言ってるんだよ、この木偶の坊!!」
不遜にそして傲慢に啖呵を切る。
俺の周りの野次馬たちは、ギョッとした目でこちらを見るか、自ら距離を取ろうとする者ばかりだ。
──自分が傷つくのは御免被るってわけかよ
それならそれで構わない。そもそも彼らにとってこれは──
余興。
平凡で退屈な日常から切り取られたほんの些細な非日常。
第三者で傍観することこそが彼らにとっての日常なのだ。
『他人の不幸は蜜の味』とはよく言ったものだ。人間と言うのは他人が傷つくことはかじりついて見るくせに、自分にその災禍の火花が飛び火すると決まって同じ台詞を吐く。
『こんなはずじゃない!』『聞いてない!』『どうしてうちが』
それは我儘という奴だろう。傍観するという選択肢を自ら選びとり無関係な事象に首を突っ込んだ責をどうして他人に着せられようか。
だが────
今日はこれでいい。俺とて飛び火して騒ぎが大きくなるのは好まない。
二次災害が発生したせいで余計な罰を加えられるのは御免だ。
「あぁ?それは俺に言ったのかよ、チビ。」
「そうだよ、木偶の坊。放してやれその子嫌がってるだろうが。」
大体、お前から見ればほとんどの人間が
「その腕章、お前二年だな。なら知ってるだろう、我が剣道部に入っている者以外は神聖な道場を横切る通行料として、財布全額いただくとな。」
そう、俺の腕章は二年生を表す青色。お前何年だ?と聞かなかっただけ誉めてやりたいがそうも言ってられない。
何をそんなバカげたルールを、と思う輩も多いだろうが、実際あの大男が言ってることがあながちピントがずれているという訳でもない。
事実、下足棟へと向かうためには迂回して裏門から入るか、件の武道場の前を通る他ない。
だが、裏門から入ろうにもだだっ広いグラウンドを通過しなければならない上に下足棟に入るにはグラウンドを抜けてさらに10分、歩かなければならない。
面倒な上、急いでいるときの融通が利かないとあれば選ばれる選択肢も自然に武道場の前を横切る前者になるというわけだ。
だが、前者を選べば必然的に筋肉達磨にカツアゲされることになる。
彼の主張を突っ込まずに聞くと、神聖な道場を横切る通行料をいただくと。
「んな
チンピラに払ってやる金なんざ一文とてない。
「あ?」
「てめぇにくれてやる金なんか一文だってあるもんか。まだ
「んだと、なめやがって。」
「てめぇなめるくらいなら飴なめた方がマシだ、このタコ!」
「言ってくれるじゃねぇか!!」
ブンッ!
と俺の太股と比べてもなお太い、無骨な鉄拳が降り下ろされる。
見た目に違わず、スピードもなかなかのものである。
さて、少女の棘が何なのかという問いにそろそろ答えてやらねばなるまい。
結論からいってしまえば、彼女に棘などない。さらに言えば喰って悪くなるような毒もない。彼女自身が身を守る術など持ち合わせてはいないのだ。
では、何が棘足りえているか。
答えは彼女がもつものではない。
「おら、ぶっ飛べ!」
そう彼女が自身の身を守れないというのなら、守ればいい。単純だが、そっちの方が手っ取り早くことが済む。
俺の目論見より遥か彼方、計算より遠くに筋肉達磨は飛んでいった。これで起きたら本当に達磨だな。
などとくだらないことを考えていたが―
どうやら完全にのびてしまったようだ。
「綺麗な花には棘があるってな。棘が彼女自身だけとは限らないんだぜ?」
聞いていないであろう彼に向けてそう言ってやると、少女の方に向き直る。
あまりの衝撃につかんでいた腕を放してしまったのか、彼女の方は全くの無傷だ。
まぁ一緒にぶっ飛ばす気などさらさらなかったが。
ペタンと尻餅などついている少女に手を差しのべ立ち上がらせる。
「ありがとう、龍牙。」
周りまで華やぐような笑顔と共に礼を述べる少女。
「大丈夫だったか、唯。」
神代唯。それが少女の名前だ。
「うん、全然平気。」
俺の肩程の高さからそう答える。
どうやら大丈夫そうだ。
腰辺りまで伸ばした長い黒髪は絹糸のそれよりも遥かに作りがよく、艶やかな色気を放っている。
だが決して華美でなく、むしろ安心させるような優しさが感じられる。
色白で華奢な体躯は人形もかくやと言うべき圧倒的なプロポーションで、あどけなさを残しつつも均整の取れたライン。
肉付きはやや少ないように思えるが、それが逆に彼女の清楚さを引き立てているだろう。
一言で言い表すなら、美少女。
学年を表す腕章は一年生の緑。
なんでも若葉の色から取られたらしいが、それでは三年の
そもそも青はなんの青なのか全くわからないではないか。
─いや、今はそんなことはどうでもいい。
今気にするべきはもっと別のこと。
彼女に今朝がた抱いた疑問をぶつけてみる。
すなわち────
「それはそうと、お前どうして今朝はいなかったんだよ。」
普段は一緒に登校しているものである。それが今日に限ってなぜ?
「えと、それは・・・」
あちらこちらと大きな瞳を動かしながら必死に何かを考えている。
そして何かを思い付いたのか
「ほら、勉強しなきゃなって。」
はぁー
ため息をつきたくなる。
「目が泳いでるぞ。」
それでは誰が見ても嘘だとわかる。
と
グ~~
あまりにも間の抜けた音が鳴る。
無論鳴らしたのは俺じゃない。
じゃあ他の誰かか、そう聞かれれば断言できる。答えはNOだ。
では誰か。
恥ずかしいのかモジモジなどして、俯きがちにその場を後にしようとする少女のもので
「おい、唯。どこに行く?」
なるだけ優しく微笑み彼女に
瞬間、愛想笑いで誤魔化そうとするも冷や汗が止まらないに違いない。
きっと俺の顔は怒りと笑いとが混ざりあった、大層恐ろしい顔をしてるんだと思う。
「い、いやぁ早く行かなきゃなって。」
「唯?」
無言の問いを続けること数秒。
答えは意外なところから
「身体測定とかないよね~」
「ホント、太ってたらどうしよう~」
「私、朝抜いてきたもんね。」
「え~私も抜いてくればよかった。」
「でも、一食だけで変わるの?」
「昼も我慢すればOKっしょ?」
・・・・・。
大体の事情は察した。
「唯、身体測定って何時間目にあるんだ?」
「な、ないよ。今日じゃなくて来週のことじゃないかなぁ。」
さっき以上に目が泳いでる。というかこちらを見ようとしない。
「嘘つけ!」
「うぅ。」
つまりこういうことだろう。
「朝抜いて、歩いてってすれば少しは軽くなるって魂胆だったろ?」
身体測定前に意味がないとわかっていながらもやってしまうこと。というか、そんなので痩せられたら誰も苦労しない。
「そ、そんなことないもん。」
図星であるのは言うまでもない。
「お前なぁ、ただでさえ細いのに朝飯抜いたら体もたねぇぞ。」
こうもう少し肉があるほうが健康的な気がする。
「だ、男子の細いはあてにならないの!」
と、誉めた方が怒られる始末である。
なんだ、細いって言われて怒る女の心境って。
これだから女心というものは至極読みづらくて困る。
と、猛ダッシュ―それも猪と見まごう程のスピードで突っ込んでくる人物が。
「唯~!おっはよー!」
うるさいのが来たよ。
なるだけ会いたくはなかったのだが・・・
「あれ?今日
ニヤニヤと唯を小突きながら俺の方をチラチラと見る。
「や、やめてよ!別に龍牙はそんなんじゃ」
本当に困ったように言う唯。というか俺、さりげに『そんなの』呼ばわりされてるし。
「下の名前で呼んじゃってさ♪見せつけてくれるよね、ホント。 」
「だから違うんだって真由ちゃん。」
唯もよくこんなテンションに付き合っていられるよな。・・・どちらかというと振り回されてる気もしなくはないが。
「もうその辺でやめといてやれ、雛森。」
そう調子づく後輩をたしなめる。
女子剣道部の期待のエース、唯とクラスメイトの雛森真由。
背がかなり高く170前後はあると思われる長身で、長い髪をポニーテールにまとめている。
テンションが無駄に高いだけでなく、可愛いもの──もとい唯に目がない残念女子高生。
背が高いのも相まって唯と並ぶと姉妹同然に見えてしまうが、さながらからかう姉困る妹と言ったところか。いや、見たまんまだなこれ。
「またまた~先輩もまんざらでもないくせに!」
つけ加えておくと、礼儀という概念は彼女の中に存在しない。あるのは何度も言うが、神代唯の可愛さ開拓にある。よって何を出汁にしても構わないのだ、彼女の中では。
ったくマキアヴェリじゃあるまいし、手段くらいは選んでほしいものだ。
「雛森!」
だから再度たしなめる。
「はーい、わかりましたよっ!じゃね、唯。五時間目楽しみにしてるよ、うふふ。」
不気味な笑いを浮かべながら下足棟へと向かう雛森。というか全くわかってないだろお前っ!
周囲がドン引きしているというのに全く気にしている素振りがないのは最早あっぱれと言うべきだろう。
だが一つ気になることを言ってたような。
「なぁ、何を楽しみにしてんだアイツ。」
身体測定が楽しみな―少なくとも女子ではそういう人は一人もいないだろう。
「な、何も楽しみにしてません!」
その質問にやや乱暴に答えプイッと背を向け、そさくさと歩き出す彼女。
「あ、あぁ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょい待ち!」
若干どもりつつ、慌てて呼び止める。
危うく渡し損ねるところだった。
「?」
そして呼び止められた彼女はというと―
きょとんとした顔で振り返るものだからリアクションに困る。
さっきのはポーズって訳ですかい。
「これとこれ持ってけ。」
そう言って栄養調整食品のショートブレッド状菓子とゼリー飲料を渡す。
「それなら腹もちいいから午前中はもつだろうし、昼は
「うん。でも・・・いいの?」
それらは本来俺が道場に行く前に食べているものであるからだろう。
「いいよ、放課後それ食って道場行こうと思ったけど、サボればいいしさ。」
「サボっちゃダメだよ。」
当たり前と言えば当たり前のことを言うが、実際稽古に行ってもすることがない。
「天才は一日サボったくらいじゃなんともなんねぇんだよ。」
と、軽口で応答してみる。芝居っ気たっぷりに。それこそ
「もう、なにそれ。」
そんな仕草が可笑しかったのか、苦笑混じりに言う彼女を見て少し安心する。
「それと─────」
「?」
「放課後、駅前のケーキ屋で待ち合わせな。」
「え!?」
そんなにビックリされては、誘ったこっちが申し訳なく思えてくる。
「いやなのか?」
そう聞くと
「ううん、そんなことないよ。わかった、放課後ね。」
頬に手をあて、いやぁでも意外だななどと言っているがなんのことやらさっぱりわからん。
確かに甘いものは苦手だが、彼女の好物でもあるし腹を括ったわけだが。
と、そんな会話をしながら下足棟へと向かっていると────
「おい、唯!大丈夫か!」
フラッと体勢を崩した彼女を抱き止める。
華奢な腰辺りに手を回し、ぎりぎりのところで彼女も気がつく。
「あ、ごめん。貧血かな?」
あはは、と力なく笑っているがとても大丈夫そうには見えなかった。
思えば俺はこの時彼女の異変に気づくべきだったのだ。
忘れていたんだ、現実の残酷さを。
ただそんなことに気づかない俺の返答はただの軽口だった。
「朝抜くからだぞ。」
「う、うん。」
「教室ついたら
「う、うん。ごめんね、なんか。」
「いや、別段重いって訳でもないからいいんだけどさ。それより」
「わかってる。無茶はしないから。」
「そうか。気をつけてな。」
「うん!」
そう言って
そしてまた振り返ったと思ったら、口に手を当てて大声で
「龍牙、絶対だからね!」
などと言うのだから失笑するしかない。
おそらくケーキ屋のことだろう。
まるでそう、子供が何か約束したときに決まってやるようなやり取り。
だからこそ、俺はこの約束を守ってやればよかったのだ。そうしたらあるいは―
いや、今は知り得ないことを話したところで興が醒めるだけだ。
「あぁ、わかったからさっさと行け!授業間に合わねぇぞ。」
と他人事でもないことを叫び会う。
「絶対、絶対だからね!」
「くく、わかったっつの。」
無邪気なその小さな背を見送り、上履きへと履き替える。
「さーて、面倒な授業に顔出してやるとしますか。」
俺、紅龍牙の最後の日常にして、非日常一日目が幕を開けたのだった。
マキァヴェリ
『君主論』の著者。『目的のためには手段を選ばない』というマキァヴェリズムを展開。
栄養調整食のショートブレッド状の菓子のこと。
一箱200kcal。
ショートブレッド
〔short〕は、食感がサクサク、あるいはポロポロすると言う意味の形容詞で、〔bread〕は、いわゆるパンのことであるが、この2つの単語が合わさるとひとつの名詞となり、その場合には「バタークッキー」(油分のたくさん入った、分厚いもの)を指す。
ゼリー飲料
某企業の某栄養補給用のゼリーのこと。
一つでおにぎり一個分のカロリー(180kcal)が手軽に取れるというのが売りの商品。
Every rose has its thorn.
『美しい薔薇には刺がある』という意味。