カメラを避けていた彼女と、映画ばかり撮っていた雨宮湊。
二人の始まりは、たった十五分の自主映画だった。
白石紗月が雨宮湊の名前を口にしたのは、授賞式が終わってから一時間ほど経った頃だった。
三十四歳になった彼女は、その夜、年間最優秀アーティスト賞を受賞していた。
十六歳で芸能界に入り、七人組のアイドルグループで六年間センターを務めた後、二十二歳で卒業。ソロ活動へ転向してからも人気が衰えることはなく、近年では自ら楽曲制作に参加するようになっていた。
華やかな経歴だった。しかし十八年という時間の長さを、本人は決して短いものだとは思っていなかった。
歌手として評価されるまでに随分遠回りをしたし、アイドル時代の自分を懐かしむ声に苛立ったこともある。何より、二十代の終わりに喉を痛め、半年近く公の場から姿を消した時期のことは、今でも鮮明に覚えている。
それでも彼女は歌い続けてきた。
そうして手にした賞だった。
授賞式の会場から少し離れたホテルの一室で、紗月は雑誌のインタビューを受けていた。
テーブルには飲みかけの水と、受賞を祝って関係者から贈られた花束が置かれている。暖房がよく効いた部屋で、花の匂いだけが妙にはっきりと感じられた。
向かいに座る女性記者は四十代半ばほどだろうか。十年以上前にも一度取材を受けたことがあり、当時は紗月が所属していたグループの特集記事を書いていた。
「今日は本当におめでとうございます。白石さんの受賞を、ずっと待っていた人も多かったと思います」
「ありがとうございます。私もようやくいただけたという気持ちです。正直、名前を呼ばれた時は少し驚きました。今日は別の方が取ると思っていたので」
「そんなことをおっしゃると、ファンの方に怒られそうですね」
「そうですね。今のは書かないでください」
二人は笑った。
話題は自然と、紗月が芸能界へ入った頃のことへ移っていった。
当時のオーディション映像はいまだにテレビ番組で使われることがある。長い髪を二つに結んだ十六歳の紗月が、緊張した面持ちで自己紹介をする映像だった。
その映像について尋ねられると、紗月は困ったように笑った。
「あれは本当に恥ずかしいんです。今でもまともに見られません。何を話したのかも、ほとんど覚えていなくて。ただ、カメラがものすごく大きく見えたことだけは覚えています」
「当時から随分堂々としていた印象がありますが、緊張されていたんですね」
「緊張どころじゃなかったですよ。実は私、昔はカメラが大嫌いだったんです」
記者は少し意外そうな顔をした。
紗月は、その反応には慣れていた。
十代から数え切れないほどの雑誌の表紙を飾り、何万人もの観客の前で歌ってきた人間が、カメラを苦手にしていたというのは、確かに奇妙に聞こえるだろう。
「人前に出るのも、写真を撮られるのも嫌いでした。だから、オーディションを受けると母に話した時は、随分驚かれましたね」
「何か、考え方が変わるきっかけがあったのでしょうか」
紗月は答えようとして、言葉を止めた。
窓の外には、夜の東京が広がっていた。
遠くに見える高速道路を、車のライトが途切れることなく流れている。その光を眺めているうちに、紗月は不意に、まったく別の風景を思い出した。
古い校舎の窓。
埃の匂いがする視聴覚室。
そして、いつも首からカメラを下げていた一人の少年。
「高校生の頃、一度だけ映画に出たことがあるんです」
「映画ですか?」
「ええ。学校の映画研究部が作った自主映画です。十五分くらいの、本当に小さな作品でした」
「初めて伺いました」
「たぶん、今までちゃんとお話ししたことはなかったと思います。あの映画を撮った人が、あまり人に話してほしがらなかったので」
「その方も、今は映画のお仕事を?」
「はい。映画監督をしています」
紗月はそこで、少しだけ嬉しそうに笑った。
「雨宮湊っていう人なんですけど、ご存じですか」
記者は顔を上げた。
「もちろん存じています。『冬の舟』の雨宮監督ですよね。昨年の国際映画祭でも話題になっていましたし、私も作品を拝見しています」
「そうです、その人です」
「白石さんと雨宮監督が高校の同級生だったとは知りませんでした」
「昔から映画ばかり撮っている人でした。本人はあまり変わっていないと思いますけど」
記者は手元の録音機を確かめ、改めて紗月に向き直った。
「その映画について、少し詳しく聞かせていただけませんか」
紗月は頷いた。
そして、しばらく考えた。
何から話せばいいのだろう。
十八年前のことだった。
数え切れないほどの出来事を経て、忘れたことも多いはずなのに、あの春の記憶だけは、不思議なほど細部まで残っていた。
雨宮の声も、部室の匂いも、初めて自分が映った映像を見た時の、胸の奥が冷えるような感覚も。
「最初は、ものすごく嫌いだったんですよ」
紗月は笑った。
「雨宮君のこと」
*
白石紗月は、中学三年生の卒業アルバムに、一人だけ小さく写っている。
クラスの集合写真の右上に、欠席者と同じような楕円形の枠があり、その中に彼女の顔が載っていた。
撮影当日、紗月は学校にいた。
風邪をひいていたわけでも、怪我をしていたわけでもない。
ただ、写真に写ることができなかった。
中学二年の秋、紗月が泣いているところを同級生に撮影されたことがあった。
合唱コンクールの練習が終わった後のことだった。
紗月は歌うことが好きだった。
小学生の頃から、家に誰もいない時にはよく歌っていたし、母親が車で流す古い歌謡曲も、いつの間にか一通り覚えていた。
合唱コンクールでは伴奏者に立候補するか迷った末、結局、歌う側に回った。音楽教師から声を褒められたこともあり、練習には誰より熱心に取り組んでいた。
その熱心さが、同級生たちには少し面倒だったのかもしれない。
音程を外す生徒に何度も歌い直してもらったり、ふざけている男子を注意したりしているうちに、紗月は次第に煙たがられるようになった。
ある日の放課後、教室で言い争いになった。
相手は仲が良いと思っていた女子生徒だった。
何を言われたのか、紗月は今でも覚えている。
あんたが一人で頑張ってるだけで、別に誰もそこまでやりたいと思ってないんだよ。
その言葉に何も返せなかった。
相手が教室を出ていった後、紗月は自分の席に座ったまま泣いた。
それを、別の生徒がスマートフォンで撮っていた。
翌日、その動画には文字がつけられていた。
悲劇のヒロイン。
画面の上に、そんな言葉が浮かんでいた。
誰が最初に送ったのかは分からなかった。
十数秒の短い映像は、同じ学年の生徒たちの間で広まった。
廊下で顔を合わせた男子が、わざとらしく泣き真似をした。教室でスマートフォンを見ていた女子が、紗月の姿に気づいて画面を伏せた。
担任が事情を知り、動画を撮影した生徒は謝罪した。
その両親も学校へ来た。
問題は解決したことになった。
実際、それから数週間もすると、誰も動画の話をしなくなった。
紗月もそれを望んでいた。
もう誰にも触れてほしくなかった。
けれど、教室で誰かがスマートフォンを構えると、反射的に顔を背けるようになった。自分が知らないうちに撮影され、見知らぬ誰かに笑われているかもしれないという感覚は、なかなか消えなかった。
写真に写るのが嫌になった。
歌うこともやめた。
合唱コンクールの本番では、口を動かすだけで、ほとんど声を出さなかった。
高校は、同じ中学から進学する生徒の少ない学校を選んだ。
制服が変わり、通学路が変わった。
春休みの間に髪も短く切った。
そうして高校生になった紗月は、ようやく新しい生活を始められると思っていた。
四月の終わりに、雨宮湊と出会うまでは。
*
その日は、朝から雨が降っていた。
昼過ぎには一度やんだものの、校舎の窓ガラスには細かな水滴が残り、廊下には濡れた上履きの跡がところどころについていた。
六時間目を終えた紗月は、図書室へ向かう途中、保健室の前に座り込んでいる女子生徒を見つけた。
見覚えのない顔だったが、制服のリボンが同じ色なので一年生なのだろう。
少女は膝を抱え、俯いていた。
紗月が近づくと、少しだけ顔を上げた。
目が赤くなっている。
「大丈夫?」
少女は頷いた。
けれど、立ち上がろうとはしなかった。
保健室の扉には、養護教諭が職員会議に出席していることを知らせる紙が貼られていた。
紗月はしばらく迷った後、少女の少し離れたところに腰を下ろした。
「先生、もう少しで戻ると思うよ。ここで待っててもいいし、気分が悪いなら職員室に行って誰か呼んでこようか」
「……大丈夫です」
「そっか。じゃあ、私もちょっと休んでいこうかな」
少女は返事をしなかった。
紗月もそれ以上は訊かなかった。
遠くの教室から、吹奏楽部の練習する音が聞こえていた。金管楽器の音が途中で途切れ、少ししてまた同じ旋律が始まった。
二人は十分ほど並んで座っていた。
養護教諭が戻ってきた時、少女は小さく礼を言って保健室へ入っていった。
紗月は立ち上がり、スカートについた埃を払った。
その時だった。
「白石さん、だよね」
背後から声がした。
振り返ると、廊下の向こうに男子生徒が立っていた。
肩から黒いカメラバッグを提げ、片手には何枚もの紙を持っている。前髪は少し長く、ネクタイが曲がっていた。
同じ学年だろうとは思ったが、名前までは知らなかった。
「そうですけど」
「一年三組の白石紗月さん?」
「……何ですか」
男子生徒はようやく確信したように頷いた。
「よかった。さっきから声かけようか迷ってたんだ。俺、一年五組の雨宮っていうんだけど、ちょっと頼みたいことがあって」
紗月は返事をしなかった。
肩に提げられたカメラバッグが気になっていた。
「映画に出てくれないかな」
紗月は、相手の顔を見た。
何かの冗談だと思った。
「映画?」
「うん。映画研究部で短い作品を撮ることになってるんだけど、主演の女の子がまだ決まってないんだよ。先輩たちにも協力してもらってるんだけど、どうしてもイメージに合う人がいなくて」
「ごめんなさい。無理です」
「あ、そっか。急に声かけてごめん」
雨宮はそれだけ言って、持っていた紙を揃え直した。
引き止める様子もない。
あまりに簡単に諦められたので、紗月は少し拍子抜けした。
「……あの」
「ん?」
「どうして私なんですか。演劇部でもないし、知り合いでもないですよね」
雨宮は、すぐには答えなかった。
少し離れた保健室の扉へ目を向ける。
「さっき、あの子と一緒に座ってたでしょ」
紗月は、保健室を振り返った。
「見てたんですか?」
「うん。先生に撮影のことでお願いがあって来たんだけど、保健室が閉まってたから。声かけようと思ったら、白石さんがあの子の隣に座ったんだ」
「それと映画が、どういう関係なんですか」
「今書いてる話の主人公も、あんなふうに誰かの隣に座れる子なんだよ。何か言って元気づけるんじゃなくて、相手が自分から立ち上がるまで、ただ一緒にいられるような子。さっきの白石さんを見て、その役をやってもらえたらいいなと思った」
紗月は困惑した。
そんなことで映画の主演を決めるものなのだろうか。
「私、あの子のこと何も知らないですよ。ただ、具合が悪そうだったから座ってただけで」
「うん。だからいいんだと思う」
雨宮は紙の束を持ち直した。
「知らない相手に、何かしてあげなきゃって頑張るんじゃなくて、隣にいられる人っているでしょ。俺はそういう人を撮りたいんだよね」
紗月はますます分からなくなった。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
少なくとも、容姿を褒められて誘われるよりはずっとよかった。
「……でも、やっぱり無理です。人前に出るの、苦手なので」
「分かった。もし気が変わったら、映画研究部に来て。脚本くらいなら読んでもらえるから」
雨宮はそう言うと、紙の束を抱えたまま階段へ向かった。
途中で一度立ち止まり、何か思い出したように振り返った。
「あ、映画研究部って旧校舎の三階だから。場所分かる?」
「分かりません」
「じゃあ、文化部の部室が集まってる廊下の一番奥。ドアに映画のポスターが貼ってあるから、すぐ分かると思う」
それだけ告げて、今度こそ雨宮は階段を降りていった。
紗月はしばらく、その後ろ姿を眺めていた。
曲がったネクタイが、妙に気になった。
*
それから三日後、紗月は映画研究部の部室を訪ねた。
映画に出るつもりはなかった。
雨宮という男子生徒が、どうして自分に声をかけたのか。それが気になっていた。
旧校舎の三階は、放課後だというのに静かだった。
廊下の窓から差し込む夕日が、擦り減った床を橙色に染めている。
一番奥の部屋には、古い外国映画のポスターが貼られていた。映画の題名は知らなかったが、黄色い背景に黒い人影が描かれた、印象的なポスターだった。
紗月が扉を叩くと、中から慌ただしい物音が聞こえた。
「開いてるよ」
扉を開けると、狭い部屋に四人の生徒がいた。
窓際では眼鏡をかけた女子生徒がノートパソコンを操作しており、床では男子二人が三脚を組み立てている。机には大量の紙が積み重なり、何本もの延長コードが絡まっていた。
その中心に、雨宮がいた。
「あれ、白石さん」
彼は驚いたように顔を上げた。
「どうしたの?」
「……脚本、読ませてもらおうと思って」
「本当? ちょうど改稿したところなんだ。ちょっと待って」
雨宮は机の上を探し始めた。
紙の束を三つほど持ち上げ、椅子の下を覗き込んでから、床に置いてあったファイルを拾い上げる。
その様子を見ていた眼鏡の女子生徒が、呆れた声を出した。
「雨宮、さっき私が揃えてあげた脚本、もうなくしたの?」
「なくしてない。置いた場所を忘れただけ」
「それをなくしたって言うんだよ」
女子生徒は立ち上がると、雨宮の背後にある棚から青いファイルを取り出した。
「はい。新しいやつ。表紙に日付まで書いたんだから、今度こそちゃんと管理して」
「ありがとう、朝倉」
「お礼はいいから、まず部室を片づけて。明日また先生が来るんでしょ」
紗月は二人のやり取りを黙って見ていた。
雨宮は青いファイルから脚本を抜き出し、紗月に差し出した。
「一応、十五分くらいの短編を予定してる。まだ細かいところは直すつもりだけど、話の大筋はこれで決まってるから」
表紙には『一台遅いバス』と書かれていた。
紗月は勧められた椅子に座り、ページをめくった。
物語は、母親を亡くした女子高校生の話だった。
少女は毎朝、決まった時刻にバス停へ行く。
母親が生きていた頃、二人は同じバスに乗っていた。
けれど母親が亡くなってから、少女はそのバスに乗れなくなる。いつも一台見送ってから、次のバスで学校へ行くのだった。
ある日は雨が降る。
別の日には、バス停に老人が立っている。
友人からの連絡に返事をする日もあれば、ただ空を見上げている日もある。
大きな事件は起こらない。
最後の日、少女はいつものようにバス停へ行き、やってきたバスに乗る。
それだけの話だった。
紗月は最後のページを読み終えると、少し首を傾げた。
「これで終わりなんですか?」
「うん。一応、それで終わり」
「でも、この子のお母さんが亡くなった理由も分からないし、どうして最後の日だけバスに乗れるようになったのかも書いてないですよね。何かきっかけになる出来事がないと、見てる人には伝わらないんじゃないですか」
雨宮は嬉しそうに椅子を引き寄せた。
「そこなんだよ。実は朝倉にも同じこと言われてる。今のままだと観客が置いていかれるって。ただ、俺としては、どうしても大きな出来事を入れたくなくてさ」
「どうして?」
「人って、そんなに分かりやすい理由で前に進むわけじゃないと思うんだよね。何かを乗り越えるきっかけって、もちろんあると思う。でも、昨日までできなかったことが、ある朝なんとなくできるようになる日もあるんじゃないかな。それを映画にしたいんだ」
雨宮は机に置いた脚本を指で軽く叩いた。
「この子は、母親のことを忘れたからバスに乗るんじゃない。まだ寂しいし、たぶんバスに乗ってからも寂しい。でも、今日は乗ってみようと思った。それだけの変化を、ちゃんと撮りたいんだよ」
紗月はもう一度、最後のページを開いた。
少女がバスに乗る場面には、台詞がなかった。
「それを、どうやって見せるんですか。何も言わなかったら、本当にただバスに乗ってるだけになると思いますけど」
「そこは役者の力を借りたい」
「……私、演技なんかしたことないですよ」
「知ってる。でも白石さんなら、できるような気がするんだよね」
雨宮は当然のことのように言った。
紗月は彼の顔を見た。
先日の保健室のことを、また思い出した。
知らない少女の隣で、ただ座っていた時間。
その程度のことで、自分に何ができると思ったのだろう。
けれど、雨宮が語る映画の中には、不思議と気になるところがあった。
何もできなかった少女が、最後にバスへ乗る。
その小さな変化を、誰かが見ている。
「……私、カメラが嫌いなんです」
気づけば、そう言っていた。
雨宮は少し表情を改めた。
「撮られるのが苦手ってこと?」
「はい。写真も嫌いだし、動画なんてもっと嫌です。昔、嫌なことがあって……だから、できるかどうか分からない」
詳しい理由を説明するつもりはなかった。
雨宮も訊かなかった。
彼は少し考えてから、床に置かれていたカメラを手に取った。
「ちょっと、これ見てもらっていい?」
紗月の肩に力が入った。
雨宮はその変化に気づくと、カメラを机の上に置き直した。
「ごめん。撮ろうとしたわけじゃないんだ。どういう機材を使うのか見せようと思ったんだけど、急に持ち上げられたら嫌だよね」
紗月は黙って頷いた。
「もし出演してくれるなら、撮影する前に必ず声をかけるし、勝手にカメラを回したりはしない。撮った映像も、上映する前に確認してもらうつもりでいる」
「私が嫌だって言ったら?」
「そのカットは使わない。撮り直せるなら撮り直すし、それも無理なら別の方法を考える」
「そんなことしてたら、映画にならないかもしれませんよ」
「そうだね。困るとは思う」
雨宮は苦笑した。
「でも、出てもらう人が嫌がってるのに、それを無視してまで撮るのは違うと思う。少なくとも俺は、そういう映画の作り方をしたくない」
紗月は、その言葉をすぐには信じなかった。
初対面に近い男子生徒が何を言おうと、簡単に信用できるものではなかった。
ただ、机の上に置かれたカメラを、雨宮はそれから一度も持ち上げなかった。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。
部室の隅では、三脚を組み立て終えた男子生徒が、雨宮に向かって何かを話しかけていた。朝倉と呼ばれた女子生徒は、ノートパソコンの画面を睨みながら、時折大きな溜息をついている。
どこにでもありそうな、放課後の風景だった。
紗月は脚本を閉じた。
「……一回だけ、やってみてもいいですか」
雨宮が顔を上げた。
「本当に?」
「でも、できないと思ったらやめます。それでもいいなら」
「もちろん。ありがとう、白石さん」
雨宮は立ち上がると、部室の奥へ声をかけた。
「相馬! 主演決まった!」
床にしゃがんでいた男子が振り返った。
「え、マジで? お前、また本人にちゃんと説明する前に決めてないだろうな」
「説明したって。脚本も読んでもらったし、撮影のことも話した」
「そういう問題じゃなくて……」
相馬と呼ばれた男子生徒は立ち上がり、紗月の前まで来た。
「えっと、白石さんだよね。俺、二年の相馬翔太。部長やってます。雨宮は映画のことになると周りが見えなくなる時があるから、困ったことがあったら俺に言って。撮影の予定とか、保護者への説明とか、そういうのは俺が担当するから」
その後ろで雨宮が何か言いかけたが、相馬は振り返りもせず続けた。
「あと、雨宮が無茶なこと言い出したら遠慮なく断っていいからね。こいつ、悪気なく休日全部潰すような予定組むから」
「そんなことしないだろ」
「先週の日曜日、朝六時集合って書いてあったの誰の予定表だよ」
「朝の光が必要だったんだよ」
「それを前日の夜十一時に連絡してくるなって言ってんの」
紗月は思わず笑ってしまった。
雨宮は不服そうだったが、言い返す言葉が見つからないらしかった。
その時の紗月は、まだ知らなかった。
自分がこの部屋へ何度も通うようになることも、ここにいる生徒たちと卒業まで付き合うことになることも。
まして、目の前の少年が、何年も後に世界中の映画祭で名前を呼ばれる監督になることなど、想像もしていなかった。
ただ、久しぶりに学校で笑った気がした。
それだけは覚えている。
*
撮影は、五月の連休が明けた週末から始まった。
最初のロケ地は、学校から徒歩二十分ほどの場所にある古いバス停だった。
道路の向こうには低い住宅が並び、その背後には新緑の山が見えた。
雨宮が選んだのは、バス停そのものよりも、その場所を通り過ぎる朝の光だった。
午前七時を少し回ると、住宅の屋根越しに差し込んだ光が、バス停の時刻表と、その脇に立つ人間の横顔を照らす。
雨宮はその時間を狙っていた。
部員たちは日の出前から準備を始めたが、紗月が現場へ着いた頃には、すでに一悶着あったらしい。
「だから、実際にバスを停めて撮ろうとするなって言っただろ」
相馬が怒っていた。
「俺は停めるなんて言ってないって。停まった時に撮れればいいと思っただけで」
「運転手さんにも乗客にも迷惑かけるだろ。第一、撮影の相談をしてないんだから、勝手に車内まで映すなよ」
「分かってるよ。じゃあ、バスは画面に入れない。走ってくる音と、光だけで見せる」
「最初からそうしろ!」
紗月は少し離れた場所で、そのやり取りを眺めていた。
映画というものが、こんなに細かいことを決めながら作られるとは知らなかった。
雨宮は脚本を書いた本人なのだから、すべてを理解しているのだと思っていた。
実際にはそうでもないらしい。
ロケ地の許可を取るのも、機材を運ぶのも、撮影時間を調整するのも、ほとんど相馬や上級生たちの仕事だった。
雨宮は映像のことになると驚くほど細かい一方で、昼食の時間や帰りの電車のことなど、他の人間が考えている当然のことを平気で忘れた。
けれど、いったんカメラの前に立つと、雰囲気が変わった。
紗月がバス停に立ち、最初のカットを撮影した時だった。
雨宮はカメラの後ろから紗月を見ていた。
その視線が気になって、紗月は何度も足元を見てしまった。
「白石さん、ちょっといい?」
撮影を止めた雨宮が近づいてきた。
「カメラが気になる?」
「……少し」
「分かった。じゃあ、最初は横から撮ろう。正面のカットはもう少し慣れてからにしようか」
雨宮はカメラの位置を変えた。
しかし、そうして撮った映像にも納得しなかった。
何度も撮り直しが続いた。
太陽は少しずつ高くなっていく。
朝の光が失われていくことに焦ったのか、雨宮の指示にも次第に余裕がなくなった。
「もう少し自然にできないかな。白石さん、今、バスを待ってる人っていうより、バスを待ってる演技をしてる人になってる」
その言葉に、紗月は思わず顔を上げた。
「そんなこと言われても、何が違うのか分からないです」
「そうだよね。だから、もう少し力を抜いてもらえれば……」
「力を抜けって言われるから、余計に緊張するんです。雨宮君は自分の頭の中に完成した映像があるんでしょうけど、私はそれを見られないんだから、ちゃんと説明してくれないと分かりません」
声が思ったより大きくなった。
近くにいた部員たちが、ちらりとこちらを見た。
紗月は顔が熱くなるのを感じた。
また言いすぎた。
中学時代の、あの時と同じだ。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
雨宮はしばらく黙っていた。
それからカメラを下ろし、紗月に向かって頭を下げた。
「ごめん。俺の説明が悪かった」
紗月は何も言えなかった。
雨宮は近くのベンチに腰を下ろし、脚本を開いた。
「少し話してもいい? 俺、この子は別に一日中悲しんでるわけじゃないと思ってるんだ。学校に行けば友達とも話すし、授業が退屈なら眠くなるし、お腹も空く。母親が亡くなったからって、生活の全部が悲しみに変わるわけじゃないだろ」
雨宮は脚本の一行を指差した。
「でも、このバス停にいる間だけは違う。ここは母親と一緒にいた場所だから、何も考えたくなくても、昔のことを思い出してしまう。だからといって、毎朝泣くわけでもないし、ずっと暗い顔をしている必要もない。本人だって、自分が何を待っているのか、よく分かってないんじゃないかな」
「……じゃあ、どういう顔をすればいいんですか」
「そこが難しくてさ」
雨宮は困ったように笑った。
「俺にも、まだ分からないんだよ」
紗月は呆れた。
「監督なのに?」
「監督だから全部分かるってわけじゃないんだ。脚本を書いた時にはこういう顔をしてほしいって考えてたんだけど、実際に白石さんがそこに立ってるのを見たら、違う気がしてきた。たぶん俺、頭の中で勝手に決めすぎてたんだと思う」
雨宮はバス停へ目を向けた。
「だから、少しやり方を変えたい。白石さんがあの子だったら、バスが来るまで何をしてると思う?」
紗月は考えた。
道路の向こうでは、白い軽自動車が坂を上っていった。
「……時刻表、見ると思います」
「うん」
「それから、携帯で時間を見たり。別に何か考えてるわけじゃなくても、同じところを何回も見ちゃう気がする」
「なるほど」
「あと、バスが来たら、たぶん少し嬉しいと思うんです。ずっと待ってたんだから。でも、乗りたくない。それが自分でも嫌になって、なんでこんなことしてるんだろうって思うかもしれない」
雨宮は紗月の話を途中で遮らなかった。
やがて小さく頷き、脚本の余白に何かを書き込んだ。
「それ、いいな。俺はバスが来た時の気持ちばかり考えてたけど、待ってる時間にもっといろんなことがあるよね」
紗月は少し驚いた。
自分が適当に話したことを、雨宮は本当に脚本へ書き加えていた。
「……それでいいんですか」
「何が?」
「私が勝手に考えたことなのに」
「勝手じゃないよ。もう白石さんが演じる役なんだから、白石さんが考えたことも入れていいと思う」
雨宮は顔を上げた。
「もちろん全部採用するわけじゃないけど、さっきの話は俺には思いつかなかった。だから使わせてほしい」
紗月は、何とも言えない気持ちになった。
自分の意見を、誰かがこんなふうに聞いてくれたのは久しぶりだった。
それから二人は、しばらくバス停のベンチに並んで座っていた。
雨宮が一方的に指示を出すのではなく、紗月も自分の考えを口にした。
どんな時に少女はバスを見るのか。
どうして一台目だけ乗れないのか。
最後の日に何が変わるのか。
答えが出ないことも多かった。
けれど、その時間は不思議と苦痛ではなかった。
やがて相馬がやってきて、もう朝の光が使えなくなることを告げた。
雨宮は空を見上げ、少し残念そうな顔をした。
「今日はここまでかな。来週もう一回、同じ時間に撮り直そう」
相馬は大きな溜息をついた。
「お前、今週で終わらせるって言ってたじゃん」
「ごめん。でも、今の話聞いたら撮り方を変えたくなった」
「それは分かったけど、来週の予定は俺が調整するんだからな」
「うん。頼む」
「本当に頼むじゃないんだよ……」
文句を言いながら、相馬はすでに手帳を開いていた。
紗月はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
帰り際、雨宮が声をかけてきた。
「白石さん、今日はありがとう。来週もお願いしていい?」
紗月は頷いた。
もう、撮影をやめようとは思っていなかった。
*
それでも、恐怖が消えたわけではなかった。
撮影が始まって二週間ほど経った頃、紗月は初めて、自分の顔が大きく映った映像を見ることになった。
旧校舎の視聴覚室だった。
雨宮は撮影した映像を何度も見返し、必要な部分を選んで編集していた。
紗月は、自分の映像を確認してほしいと頼まれて来ていた。
最初は、思っていたほど嫌ではなかった。
遠くから撮られた自分の姿は、どこか他人のように見えた。
制服の裾が風に揺れていた。
バス停の時刻表を見上げる横顔が映った。
その次のカットで、画面いっぱいに自分の顔が現れた。
紗月は息を止めた。
頬の線。
目元。
唇の動き。
自分でも知らない表情が、巨大な画面に映っていた。
不意に、中学時代の動画が頭をよぎった。
あの時も、こんなふうに自分の顔が映っていたのだろうか。
誰かが画面を止め、笑いながら文字をつけていたのだろうか。
胸の奥が締めつけられた。
「……止めて」
声がかすれた。
雨宮はすぐに映像を止めた。
「白石さん?」
紗月は画面を見られなかった。
俯いたまま、両手を握りしめた。
「ごめんなさい。このカット、使わないでほしい」
雨宮は黙って画面を見た。
そのカットは、彼が最も気に入っていた映像の一つだった。
少女がバスの音に気づき、何かを思い出したように目を上げる。その一瞬を、雨宮は何度も撮り直してようやく手に入れていた。
長い沈黙があった。
紗月は、自分が無理なことを言っているのだと分かっていた。
けれど、どうしても耐えられなかった。
「……やっぱり、私には無理だったのかもしれない」
雨宮は編集画面を操作した。
問題のカットが、映像の並びから外された。
「分かった。このカットは使わない」
紗月は顔を上げた。
「でも、雨宮君、そこが一番いいって言ってたよね」
「うん。俺は好きだった」
「だったら……」
「でも、使わないって約束したから」
雨宮は椅子を回し、紗月の方へ向き直った。
「正直に言うと、残念ではあるよ。あの表情はもう一回撮ろうとしても、同じものにはならないと思うから。ただ、それは俺の都合だし、白石さんが嫌だと思ってる映像を無理に使っても、きっといい映画にはならない」
それから少し考えた。
「でも、聞いてもいい? 映像そのものが嫌だったのか、それとも大きく映ったのが嫌だったのか。理由を話したくなければ、別に答えなくてもいいんだけど」
紗月はすぐには答えられなかった。
視聴覚室の外では、運動部の掛け声が響いていた。
窓の向こうを、夕方の風が吹き抜けていく。
しばらくして、紗月は口を開いた。
「……昔、勝手に動画を撮られたことがあるの」
雨宮は何も言わなかった。
「泣いてるところを撮られて、変な文字をつけられて、それを学校中に回された。撮った子は謝ったけど、一回見られたものって消せないでしょ。誰が持ってるのかも分からないし、今でもたまに、その時のことを思い出すんだ」
話しているうちに、声が震え始めた。
中学時代のことを、こんなふうに誰かへ話すのは初めてだった。
「だから、写真とか動画が嫌いになった。自分がどう映ってるのか分からないのが怖いし、知らないところで誰かに笑われてるんじゃないかって、ずっと考えちゃう」
雨宮は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、嫌だっただろうね」
その声は、普段より少し低かった。
紗月は頷いた。
「本当にごめん。俺、白石さんがカメラ苦手だって知ってたのに、あんなに大きく映すことをちゃんと説明してなかった。撮影の前に、どういう画を撮るつもりなのか、もっと話しておくべきだったと思う」
雨宮は編集画面を閉じた。
「今日はもうやめよう。明日でも明後日でもいいから、白石さんが落ち着いた時に、これからどうするか一緒に考えたい。映画はまだ完成してないし、別の撮り方だってあるから」
紗月は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
雨宮はそれ以上、何も訊かなかった。
机の上のカメラに布をかけ、照明を消し始めた。
紗月は窓の外を見ていた。
校庭の隅で、野球部の生徒が一人、ボールを拾い集めている。
白いユニフォームの背中が、夕日の中で小さく動いていた。
やがて紗月は立ち上がった。
「雨宮君」
「ん?」
「……ありがとう」
雨宮は少し困ったように笑った。
「別に、ありがとうって言われるようなことはしてないよ。むしろ俺が悪かったし」
紗月は首を振った。
それ以上は説明しなかった。
自分でも、何に対して礼を言いたいのか、まだうまく分からなかった。
*
翌週、紗月はもう一度、視聴覚室へ行った。
雨宮は机に向かって脚本を書き直していた。
窓際には、飲み終えた紙パックの牛乳が二つ並んでいた。
紗月が声をかけると、雨宮は少し驚いたように顔を上げた。
「白石さん。今日、来るって言ってたっけ?」
「言ってない。でも、ちょっと見たいものがあって」
「何?」
「この前の映像。あの、使わないって言ったカット」
雨宮は黙っていた。
「もう一回だけ、見せてもらえる?」
「……大丈夫?」
「うん。たぶん」
雨宮は少し考えてから、パソコンを操作した。
画面に、バス停に立つ少女の顔が現れた。
紗月は椅子に座ったまま、それを見つめた。
前回と同じ映像だった。
目を上げる瞬間、頬に光が当たる。
ほんの少し唇が動く。
誰かの名前を呼ぼうとして、やめたようにも見える。
紗月は、いつの間にか画面に近づいていた。
「……これ、何を考えてる顔に見える?」
雨宮はすぐには答えなかった。
「俺には、誰かに会いたくなったように見えるかな。母親のことを思い出して、でも、もう会えないって分かってる。そういう時の顔に見えた」
「そうなんだ」
「白石さんは?」
紗月は画面を見つめた。
あの時、自分は何を考えていただろう。
演技のことを考えていたのかもしれない。
早く撮影が終わってほしいと思っていたのかもしれない。
もうよく覚えていなかった。
それなのに、映像の中にいる少女は、何かを失っているように見えた。
紗月はゆっくりと息を吐いた。
「……不思議だね」
「何が?」
「私なのに、私じゃないみたい」
雨宮は画面を見た。
「映画って、そういうところがあると思う。カメラに映ってるのは間違いなく白石さんだけど、見てる人はたぶん、別の誰かのことを考えるんじゃないかな」
紗月は、画面から目を離さなかった。
中学時代、あの動画に映っていたのも自分だった。
けれど、見ていた人たちは、自分が何を考え、何に傷ついていたのかを知ろうとはしなかった。
ただ、泣いている姿だけを見て笑った。
目の前の映像は、それとは違っていた。
画面の中の少女には、紗月の知らない人生がある。
母親がいて、失って、毎朝バスを見送っている。
自分の顔が、別の誰かの物語を生きていた。
「……これ、使ってもいいよ」
紗月が言うと、雨宮は驚いた顔をした。
「本当に? 無理してない?」
「うん。今は大丈夫。それに、この子の顔、私も好きだから」
雨宮はすぐには映像を戻さなかった。
しばらく紗月の表情を確かめ、それから静かに頷いた。
「ありがとう。でも、上映前にはもう一回確認してもらうから。もしその時にやっぱり嫌だと思ったら、遠慮なく言って」
紗月は笑った。
「雨宮君って、意外と心配性なんだね」
「いや、今回のことはちゃんと反省してるから。次は同じことにならないようにしないと」
雨宮は少し照れくさそうに頭を掻いた。
紗月は、その横顔を見ていた。
あの日、廊下で声をかけられた時には、こんなふうに話すようになるとは思っていなかった。
少し前まで、自分の顔が映った画面をまともに見ることすらできなかった。
それが今、同じ画面を見ながら笑っている。
恐怖が消えたわけではなかった。
この先も、突然カメラを向けられれば身構えることはあるだろう。
それでも、少なくともこの映像については、自分でどうするかを決めることができた。
紗月には、そのことが嬉しかった。
*
映画が完成したのは、六月の終わりだった。
上映会は学校の視聴覚室で開かれた。
観客は三十七人。
映画研究部の部員とその友人、何人かの教師、通りかかって興味を持った生徒たち。
紗月の両親も来ていた。
母親は少し緊張した顔で最前列に座り、父親は慣れない様子でパンフレットを眺めていた。
紗月は一番後ろの席を選んだ。
隣には朝倉凛が座った。
映画の脚本を一緒に直していた、あの眼鏡の女子生徒だった。
「緊張してる?」
朝倉が訊いた。
「……うん。思ってたよりずっと」
「そりゃそうだよね。私だったら、自分の顔があんな大きなスクリーンに映るなんて耐えられないと思う」
「ちょっと、余計に緊張するからやめてよ」
「ごめん。でも、私、白石さんの演技好きだよ。特に最後の場面。脚本を読んでた時は、もっと分かりやすく表情を変えた方がいいと思ってたんだけど、完成した映像を見たら、あのくらいでよかったんだなって思った」
紗月は朝倉を見た。
「……ありがとう」
「雨宮には言わないでね。あいつ、すぐ調子に乗るから」
朝倉は笑った。
前方では、雨宮が相馬に何かを言われていた。
スクリーンの位置が少しずれているらしく、二人で何度もプロジェクターを調整している。
やがて照明が落ちた。
視聴覚室が暗くなる。
スクリーンに、朝のバス停が映し出された。
十五分間、紗月はほとんど身動きしなかった。
最初は、自分の顔が映るたびに胸が強く打った。
隣の朝倉がどう思っているのか、前に座る両親がどんな顔で見ているのか、そればかり気になった。
けれど、物語が進むにつれて、少しずつ周囲のことを忘れていった。
画面の中の少女は、毎朝バスを見送っていた。
風の強い日も、雨の日も。
時には苛立ったように時刻表を見つめ、時には通り過ぎる車をぼんやりと眺めていた。
母親の姿は、最後まで映らなかった。
その代わり、少女が一台目のバスを見送るたび、誰も座っていない空席が短く映った。
紗月は、その編集を初めて見た。
撮影中には気づかなかった。
雨宮は、母親がいないことを説明するために、誰もいない座席を撮っていたのだ。
物語の終盤、少女はいつものバス停に立つ。
季節は春から夏へ変わっている。
バスが近づいてくる音がする。
少女は顔を上げた。
そこには、あの時の紗月の表情が映っていた。
使わないでほしいと頼み、後から使っていいと言い直した、あのカットだった。
少女は一度だけ目を伏せた。
それから、足元に置いていた鞄を持ち直す。
バスの扉が開く音がする。
少女は歩き始めた。
そこで画面が暗くなった。
音楽が流れた。
部員の一人が作った、短いピアノ曲だった。
やがてエンドロールが終わる。
視聴覚室に明かりが戻った。
少しの間、誰も何も言わなかった。
紗月は、その沈黙が怖かった。
やはり変だったのだろうか。
自分の演技が下手だったのだろうか。
そんなことを考え始めた時、前の方から拍手が聞こえた。
一人、また一人。
やがて部屋全体に広がっていった。
紗月は、顔を上げられなかった。
拍手が自分に向けられているのか、映画そのものに向けられているのか分からなかった。
けれど、どちらでもよかった。
人に見られることが、必ずしも恐ろしいことではない。
その事実が、胸の奥でゆっくりと形になっていくようだった。
隣の朝倉が、紗月の肩を軽く叩いた。
「よかったね」
紗月は頷いた。
目の奥が熱くなっていたが、涙は出なかった。
前の方では、相馬が観客に向かって挨拶をしていた。
雨宮はその横に立ち、所在なさそうに手を後ろへ回していた。
紗月は、その姿を見ながら笑った。
いつも偉そうに映画のことを語っているくせに、人前で挨拶するのは苦手らしい。
上映が終わった後、紗月は雨宮のところへ行った。
「雨宮君」
「白石さん。どうだった?」
「それ、私が聞こうと思ってたんだけど」
雨宮は笑った。
「白石さんはよかったよ。最初の撮影の時はどうなるかと思ったけど、最後のバス停の場面は本当にいい芝居だった。あれは俺が想像してたよりずっとよかったと思う」
紗月は少し照れくさくなった。
「……ありがとう」
「ただ、一か所だけ、やっぱり撮り直しておけばよかったな。二番目のバスを見送るところ。あそこだけ、少し芝居が固いんだよね」
「ええ? せっかく褒められたと思ったのに」
「いや、本当に全体としてはよかったんだって。ただ、あそこはもっとよくできた気がするからさ」
雨宮は真剣だった。
紗月は呆れて、それから笑った。
「雨宮君って、映画のことになると本当に面倒くさいね」
「よく言われる」
「でしょうね」
その時、紗月の母親が近づいてきた。
上映中ずっと泣いていたのか、目元が少し赤くなっていた。
「雨宮さん、娘がお世話になりました。素敵な映画でした」
雨宮は慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました。白石さんには何度も撮り直しをお願いしてしまって、申し訳なかったです」
「いいえ。あの子が、あんなに楽しそうに学校の話をするようになったのは久しぶりで……」
母親はそこで言葉を止めた。
紗月は、少し驚いて母を見た。
自分が映画の話をする時、どんな顔をしていたのだろう。
母親は小さく笑い、紗月の肩に手を置いた。
「本当に、ありがとうございました」
雨宮は何と答えればいいのか分からない様子だった。
相馬が横からやってきて、代わりに丁寧に礼を述べた。
そのやり取りを見ながら、紗月はふと考えた。
自分は、また歌ってみたい。
誰かに見られることが怖くて、ずっとやめていたこと。
教室で声を出すことも、皆の前で歌うことも避けてきた。
けれど、今日のように誰かが見てくれるのなら。
自分が歌いたいと思って歌ったものを、誰かが聴いてくれるのなら。
もう一度、やってみたい。
その気持ちは、映画が始まる前にはなかったものだった。
紗月はスクリーンを見上げた。
そこにはもう、何も映っていなかった。
ただ白い布が、視聴覚室の壁に掛かっているだけだった。
*
それから半年後、白石紗月はアイドルグループのオーディションに応募した。
きっかけは、母親が持ち帰ってきた雑誌に掲載されていた募集広告だった。
最初は冗談半分だった。
けれど、応募用紙を前にすると、紗月は何日も迷った。
歌うことは好きだった。
人前で歌ってみたいという気持ちも、確かにあった。
それでも怖かった。
知らない人に見られること。
誰かに評価されること。
また、自分の知らないところで何かを言われること。
応募締切の前日、紗月は映画研究部へ行った。
雨宮は相変わらず、机の上を紙だらけにしていた。
今度は文化祭で上映する新しい映画を準備しているらしい。
「白石さん、どうしたの?」
「ちょっと相談があって」
紗月は鞄から応募用紙を取り出し、雨宮に渡した。
雨宮はそれを読んで、少し驚いた。
「アイドル?」
「うん。受けてみようかなって思ってるんだけど、どうかな」
「いいんじゃない?」
あまりに簡単な返事だった。
紗月は拍子抜けした。
「……それだけ?」
「いや、白石さんがやりたいなら、受けてみたらいいと思うけど。歌うの好きなんでしょ?」
「好きだけど……。私、向いてると思う?」
雨宮は応募用紙をもう一度見た。
それから、少し困った顔をした。
「正直、アイドルに向いてるかどうかは分からない。俺、そういうの詳しくないし、白石さんが歌ってるところもちゃんと見たことないから」
「そうだよね」
「でも、少なくとも映画に出てもらった時、白石さんは最初に比べて随分変わったと思う。最初はカメラがあるだけで緊張してたのに、最後の方は自分から撮り方を提案してくれるようになったし、映像を見て意見も言ってくれた。だから、知らないことでも、やってみれば案外できるようになる人なんじゃないかな」
雨宮は応募用紙を紗月に返した。
「ただ、映画とアイドルじゃ全然違うだろうから、無責任に大丈夫とは言えないけどね」
紗月は紙を受け取った。
雨宮は、受かるとも、向いているとも言わなかった。
それでも、少し気持ちが軽くなった。
「……もし落ちたら、笑わないでね」
「笑わないよ。というか、俺もこの前出した映画祭、一次審査で落ちたばっかりだし」
「え、そうなの?」
「うん。結構自信あったんだけどな。審査員の講評がまた厳しくてさ。『映像への執着は感じられるが、登場人物の心情を観客に伝える努力が不足している』だって。朝倉なんか、読んだ瞬間に『ほら見ろ』って大笑いしてた」
雨宮は苦笑した。
紗月もつられて笑った。
「でも、また映画撮るんでしょ?」
「もちろん。今度はもっといいのを撮るつもり」
その返事には、少しも迷いがなかった。
紗月は応募用紙を鞄にしまった。
「じゃあ、私も受けてみる」
「うん。結果が出たら教えてよ」
「落ちても?」
「落ちても。受かったらお祝いするし、落ちたら残念会でもしよう」
雨宮はそう言って、また脚本へ目を落とした。
紗月はその横顔を見つめた。
窓の外では、冬の夕日が校庭を照らしていた。
彼はもう、次の映画のことを考えている。
紗月は少し笑って、部室を出た。
帰りの電車の中で、応募用紙を取り出した。
名前と生年月日を書き、住所を記入する。
最後に、志望動機を書く欄があった。
紗月はしばらく考えた。
それから、ゆっくりとペンを動かした。
――人前で歌うことが、もう一度好きになりたいから。
書き終えてから、少しだけ迷った。
けれど、消さなかった。
*
「……というわけなんです」
紗月が話し終えると、記者はしばらく黙っていた。
録音機の小さな赤いランプだけが、テーブルの上で点滅していた。
「そんなことがあったんですね」
「ええ。今思えば、本当に些細なことだったのかもしれません。でも、当時の私にとっては大きな出来事でした」
紗月は水を一口飲んだ。
遠くでエレベーターの到着を知らせる音がした。
「雨宮監督は、白石さんを芸能界へ導いた人でもあるんですね」
紗月は、少し考えてから首を振った。
「そう言ってしまうと、ちょっと違う気がします」
「違う、というと?」
「雨宮君は、私をアイドルにしようと思って映画へ誘ったわけじゃないんです。たぶん、そんなことは一度も考えていなかったと思います。あの人はただ、自分が撮りたい映画に私が必要だと思った。それだけだったんでしょうね」
紗月は窓の外へ目を向けた。
「でも、私はあの映画に出たことで、もう一度人前に立ってみたいと思えた。それは確かです。ただ、実際にオーディションを受けたのは私ですし、芸能界に入ってから頑張ったのも私です。そこまで全部、雨宮君のおかげにしてしまうのは、ちょっと違うと思うんです」
記者は静かに頷いた。
「では、白石さんにとって雨宮監督は、どういう存在なのでしょう」
紗月は、少し困ったように笑った。
「難しいですね。恩人という言葉も、何だか大げさな気がしますし。友達ではあるんですけど、普通の友達とも少し違う気がするんです」
しばらく考えた後、紗月は言った。
「……私が、自分で選んで人前に立つことを、初めて楽しいと思えた時に、隣にいてくれた人でしょうか」
記者はその言葉を書き留めた。
「今でも交流はあるんですか?」
「ありますよ。年に何回か連絡を取りますし、映画が公開されたら必ず見に行っています。本人にはあまり言いませんけど、昔からずっとファンなんです」
「今日の受賞については、何か連絡がありましたか?」
「さっきメッセージが来ました」
紗月はスマートフォンを取り出した。
画面を開き、思わず苦笑する。
「本当に、この人は……」
「何と書かれていたんですか?」
「『おめでとう。授賞式の歌、よかったよ』って。その後に、『ただ、二番の入りはもう少し抑えた方がよかったと思う』って続いてます」
記者が笑った。
「映画監督らしい感想ですね」
「でしょう? 私が何年歌ってると思ってるんだろうって、たまに腹が立つんです。でも、昔からそういう人なんですよ。褒める時はちゃんと褒めてくれるんですけど、気になったところは絶対に言うんです。相手が誰でも」
紗月は笑いながら、返信欄に文字を打ち込んだ。
『ありがとう。でも二番はあれでいいの。あそこはわざと強く歌ってるんだから』
少し考えてから、続けて入力した。
『それより、次の映画はいつ完成するの? この前、春にはできるって言ってなかった?』
送信すると、ほどなくして既読がついた。
返事が来るまでの間、紗月は記者と別の話をしていた。
今回のアルバムのこと。
来年のツアーのこと。
これから挑戦してみたい仕事のこと。
やがてスマートフォンが小さく震えた。
『春って言ったのは来年の春のこと』
紗月は思わず笑った。
さらにメッセージが続いた。
『あと、二番は絶対に前の歌い方の方がいいと思う。今度会った時に説明する』
紗月は画面を見つめた。
十八年前の雨宮湊が、そこにいるような気がした。
脚本を抱えて廊下を歩き回り、映画の話になると周囲が見えなくなる少年。
思いついたことをすぐ口にして、人を怒らせることも多かった。
けれど、誰かが本当に嫌がっている時には、ちゃんとカメラを下ろせる人だった。
紗月は返信を打った。
『分かった。じゃあ今度、ちゃんと説明してもらうからね』
送信してから、スマートフォンを伏せた。
テーブルの上には、さきほど受け取ったばかりのトロフィーが置かれていた。
その表面に、部屋の照明が細く映り込んでいる。
紗月は指先で、トロフィーの台座に刻まれた自分の名前をなぞった。
十八年前の自分が、これを見たらどう思うだろう。
たぶん、信じないだろう。
人前で歌うことを怖がり、集合写真から逃げ回っていた少女が、何万人もの観客の前で歌うようになるなんて。
けれど、あの日の視聴覚室で拍手を聞いた自分なら、少しは信じてくれるかもしれない。
あの小さな部屋から、随分遠くまで来た。
そう思った。
*
インタビューが終わった後、記者は一人でホテルのロビーへ下りた。
外はすっかり暗くなっていた。
コートを羽織り、タクシーを待つ間、録音機に残された音声を少しだけ聞き返した。
白石紗月が語った高校時代の思い出。
十五分の自主映画。
そして、雨宮湊という一人の少年。
記者は、その名前を知っていた。
もちろん知っていた。
今では国内外の映画祭で作品が上映される監督なのだから、知らない方がおかしい。
ただ、少し気になることがあった。
数年前、別の人物を取材した時にも、同じ名前を聞いたことがあったのだ。
その人物は、映画とはまったく関係のない世界で成功を収めていた。
当時は気にも留めなかった。
けれど今、白石紗月の話を聞いて、ふと二つの記憶が繋がった。
記者は鞄から手帳を取り出し、古いページを探した。
そこには、取材の際に書き留めた短いメモが残っていた。
――高校時代、映画に出演。監督は同級生の雨宮湊。
記者はしばらく、その文字を眺めていた。
それからスマートフォンを取り出し、編集部の同僚に連絡を入れた。
「少し調べてほしい人がいるんです」
タクシーが近づいてきた。
記者は手帳を閉じた。
「映画監督の雨宮湊。彼が高校時代に撮った作品について、資料が残っていないか調べてもらえませんか。できれば、出演者の名前も知りたいんです」
電話の向こうで、同僚が何かを訊いた。
記者は少し笑った。
「いえ、映画の批評記事を書きたいわけじゃないんです」
タクシーのドアが開いた。
冷たい夜気が、足元を吹き抜けていく。
「もしかしたら、面白い話になるかもしれないと思って」
彼女は車に乗り込んだ。
窓の外では、街の灯りが流れ始めていた。
手帳の中には、もう一人の名前が残されている。
日本代表として世界選手権を制し、翌年のオリンピックで金メダルを獲得した、ある陸上選手の名前だった。
彼もまた、高校時代に一本の映画へ出演していた。
そのことを、記者はまだ知らなかった。
そして雨宮湊自身も、自分が高校時代に撮った小さな映画の数々が、何年も経ってから人々の口を通じて語られることになるとは、想像していなかった。
彼はただ、映画を撮っていた。
その頃も。
今も。
誰かの人生を変えようなどとは、少しも考えずに。
第一章 了