そんな神崎蓮を、雨宮湊は一本の映画で走らせる。
ただし、その日だけは誰も彼の速さを測らなかった。
神崎蓮がオリンピックの男子四百メートル決勝を走った夜、日本では多くの人が最後の百メートルを繰り返し見た。
最終コーナーを抜けた時、神崎は四番手だった。
先頭を走るアメリカの選手とは、およそ二メートル。四百メートルという競技では、その程度の差など一瞬でひっくり返ることもあれば、どうやっても埋まらないこともある。
三百メートルを過ぎた選手たちの体から、少しずつ余裕が失われていった。
肩が上がる。腕が開く。脚が思うように前へ出なくなる。
神崎だけは、ほとんどフォームを変えなかった。
残り七十メートルで一人を抜いた。
五十メートルで二人目。
最後の二十メートル、先頭の選手と並んだ。
ゴールの瞬間、どちらが前だったのか、会場にいた誰にも分からなかった。
神崎自身も分からなかった。
彼はゴールラインを越えた後も十数メートル走り、そのままトラックへ倒れ込んだ。
大型スクリーンに順位が表示されるまで、十二秒かかった。
JAPAN。
KANZAKI REN。
1。
四十四秒二十一。
日本人選手として初めて、オリンピックの男子四百メートルで金メダルを獲得した瞬間だった。
*
翌日の午後、神崎は選手村近くのホテルで取材を受けていた。
金メダルは首にはかけていなかった。
テーブルの上に置かれた黒いケースの中に収まっている。
「せっかくですから、かけていただいても構いませんよ」
そう言った記者に、神崎は笑った。
「昨日からずっとかけてたら首が痛くなってきたんです。思っていたより重いんですよ、これ」
その言葉で場が和んだ。
取材をしているのは、白石紗月の特集記事を担当したのと同じ女性記者だった。
あの記事が掲載されてから半年ほど経っていた。
白石が高校時代に自主映画へ出演していたことは、記事の中でも大きく扱われた。
映画を撮った高校生の名は、雨宮湊。
現在では国際映画祭にも作品を出品する映画監督である。
記事の反響は大きかった。
そして取材後、記者はひとつのことに気づいた。
雨宮湊が高校時代に撮った映画に、もう一人、今では誰もが知る人物が出演していた。
神崎蓮。
今回の取材は、オリンピック金メダル獲得以前から決まっていた。
「白石紗月さんの記事を読まれましたか」
記者が尋ねると、神崎は少し笑った。
「読みましたよ。本人から送られてきました」
「白石さんとは今も交流があるんですね」
「同級生ですから。しょっちゅう会うわけじゃありませんけど、たまに連絡は取ります。あの記事が出た時も、『とうとう昔のことまで喋っちゃった』って連絡が来ました」
「そして神崎さんも、雨宮監督の映画に出演していた」
「俺の場合は、白石ほどちゃんとした役者じゃないですけどね」
「どんな映画だったんでしょう」
神崎は答える前に、窓の外へ目を向けた。
ホテルの向こうに競技場の屋根が見える。
昨日、自分が走った場所だった。
「ずっと走ってる映画です」
「走っている?」
「本当に、それだけなんですよ。高校生がひたすら街の中を走る。今考えれば、あいつはよくあれを映画にしようと思ったなって感じなんですけど」
神崎は笑った。
それから少しだけ、表情を変えた。
「でも俺にとっては、たぶん、一番必要な時期に撮った映画だったんだと思います」
*
十五歳の神崎蓮は、自分より速い同級生にほとんど会ったことがなかった。
小学校の運動会では、毎年リレーのアンカーだった。
中学校へ進み、陸上部へ入った。
一年生の夏には上級生を抜いた。
二年生になる頃には、県内で彼の名前を知らない指導者はいなかった。
百メートルから四百メートルへ転向したのは、中学二年の秋だった。
短距離走なのに、最後には体中から力が抜けていく。
三百メートルを越えた辺りから脚は重くなり、肺の奥が焼けるように痛む。
最初は二度と走りたくないと思った。
けれど、一週間もしないうちにもう一度走っていた。
最後の直線が好きだった。
苦しくなった選手たちのフォームが崩れていく。
その中で、前を走る人間との距離を一歩ずつ詰めていく。
抜けるかもしれないと思った瞬間、疲労とは別の力が体の奥から出てくる。
中学三年の全国大会で二位になった。
優勝した選手との差は〇・一二秒。
表彰台の上で、神崎は銀メダルを握りながら、来年は勝てると思った。
悔しかった。
しかし、その悔しささえ楽しかった。
高校は陸上の強豪校ではなかった。
推薦をくれた学校はいくつもあったが、神崎自身が断った。
陸上だけで学校を選びたくないという気持ちがあった。
両親も賛成してくれた。
それでも入学すれば、学校で最も有名な一年生になった。
入学式の翌週には、上級生から名前を呼ばれた。
教師たちも知っていた。
「今年は一年生からインターハイが期待できるな」
悪意はなかった。
むしろ応援してくれていた。
神崎も最初は嬉しかった。
五月の県大会。
予選を一着で通過した。
準決勝も一着。
決勝のスタート前、場内放送が選手を紹介した。
『中学全国大会二位、一年生の神崎蓮――』
客席から歓声が上がった。
その時、神崎は初めて、自分が走る前から何かを求められていることを意識した。
一年生なのにすごい。
全国へ行くだろう。
優勝するかもしれない。
スターティングブロックへ足を置いた。
いつもより靴がきつく感じた。
号砲が鳴った。
反応が遅れた。
取り戻さなければ、と思った。
最初の百メートルで力を使いすぎた。
二百を越えた時には、すでに呼吸が乱れていた。
最後の直線。
いつもなら前を追うはずなのに、その日は後ろから追いつかれた。
五着だった。
自己記録より二秒以上遅かった。
ゴール後、顧問が肩を叩いた。
「一年なんだから、これからだ。気にするな」
神崎は頷いた。
翌週から練習量を増やした。
朝も走った。
家に帰ってからも筋力トレーニングをした。
映像を何度も確認した。
百メートル通過。
二百メートル通過。
三百メートル。
歩数。
ストライド。
腕の角度。
調べれば調べるほど、直すところが見つかった。
夏の大会では三位だった。
自己記録は更新した。
それでも、嬉しくなかった。
二位との差を見た。
〇・〇七秒。
優勝者との差は〇・三一秒。
帰りの電車の中でも、神崎はスマートフォンに表示されたタイムを見続けていた。
数字は嘘をつかない。
だからこそ、逃げる場所もなかった。
*
雨宮湊が最初に神崎へ声をかけたのは、その数日後だった。
放課後。
陸上部の練習が終わり、神崎は一人で校庭に残っていた。
本練習は終わっていた。
顧問からも帰るように言われていた。
それでも、もう一本だけ走っておきたかった。
四百メートル。
時計を確認する。
自己記録より一秒近く遅い。
神崎は息を整えながら、もう一度スタート地点へ向かった。
「神崎蓮?」
呼ばれて振り返った。
見覚えのない男子生徒が、トラックの外側に立っていた。
首から小さなカメラを下げている。
「そうだけど」
「一年五組の雨宮。ちょっと話してもいい?」
「悪いけど今練習中だから、後にしてくれる?」
「分かった。じゃあ終わるまで待ってる」
神崎は眉を寄せた。
「何の用?」
「映画に出てほしい」
意味が分からなかった。
「俺が?」
「うん。走る役なんだ」
神崎は少し笑った。
「だったら陸上部なら他にもいるだろ」
「いるけど、神崎の走り方が一番撮りたかった」
雨宮は悪びれもせずに言った。
「今日、校舎の窓から見てたんだ。最後の直線でフォームがほとんど崩れないだろ。あれ、横から撮ったらすごく綺麗だと思う」
褒められたのだと分かった。
少し前の神崎なら、素直に嬉しかったかもしれない。
その日は違った。
「別に、映画なんか出る暇ないから」
「そっか」
「大会あるし」
「分かった。邪魔して悪かった」
雨宮はあっさり引き下がった。
神崎はその背中を見送った。
もっと粘られると思っていたせいか、少し拍子抜けした。
それだけの出来事だった。
二週間後。
雨宮はまたやってきた。
今度は練習が終わるまでトラックの外で待っていた。
「しつこいな」
神崎が言うと、雨宮は素直に頷いた。
「自覚はある」
「出ないって言っただろ」
「脚本を変えたんだ。前より神崎に合うと思うから、一回だけ読んでほしい」
「何でそこまで俺なんだよ」
「走ってるところを撮りたいから」
「それなら速い奴なら誰でもいいだろ」
神崎は少し苛立っていた。
最近、人から「速い」と言われるたびに、次に続く言葉を考えるようになっていた。
だから次も勝てる。
全国へ行ける。
もっと速くなる。
雨宮は神崎の顔を見て、少し考えた。
「最初はそう思ってた」
「最初は?」
「でも何回か練習見てたら、走り終わった後の方が気になった」
「何だよ、それ」
「すごく嫌そうな顔するから」
神崎は黙った。
雨宮は続けた。
「走ってる時は綺麗なのに、時計を見た瞬間に急に顔が変わる。何でかなと思った」
「……お前、勝手に人のこと見すぎじゃない?」
「ごめん。それは本当にそうだと思う」
あまりに素直に謝られ、神崎は怒るタイミングを失った。
雨宮は鞄から脚本を取り出した。
「読むだけでいい。嫌ならもう来ない」
神崎はしばらく迷った。
それから脚本を受け取った。
*
題名は『夏の終点』。
主人公は高校生の男子だった。
両親が離婚することになり、離れて暮らすことになった妹が、その日の夕方に母親と街を出る。
主人公は妹と喧嘩をしたまま、見送りに行かないつもりでいる。
しかし家を出た後、妹が置いていった古いキーホルダーを見つける。
幼い頃、二人で祭りへ行った時に買ったものだった。
主人公はそれを届けるため、駅へ向かう。
途中で自転車のチェーンが外れる。
バスは渋滞に捕まっている。
主人公は走る。
商店街を抜ける。
坂道を上る。
川沿いを走る。
駅へ着いた時には、列車は発車した後だった。
主人公は誰もいないホームに立ち、キーホルダーを握る。
最後の場面。
主人公の携帯電話に、妹から一通だけメッセージが届く。
『お兄ちゃん、またね』
神崎は脚本を読み終えた。
思っていたより、まともだった。
「どう?」
翌日の昼休み。
映画研究部の部室へ行くと、雨宮が尋ねた。
「思ってたより面白かった」
「思ってたよりって何だよ」
「高校生が作る映画なんて、もっと意味分かんないものだと思ってた」
「結構ひどいこと言うな」
「正直な感想」
雨宮は苦笑した。
「で、出てくれる?」
神崎は脚本を机へ置いた。
「条件がある」
「何?」
「陸上の練習が最優先。それで撮影に迷惑がかかるなら、最初からやめた方がいい」
「そこは相馬先輩と予定を組む。大会の日程も全部教えてほしい。練習を休ませてまで撮ろうとは思ってない」
「あと、俺、演技したことないからな」
「走るところがほとんどだから大丈夫」
「その言い方、絶対後で後悔するぞ」
神崎の予想は当たった。
*
最初の撮影で、雨宮は早くも頭を抱えた。
「違うんだよな……」
河川敷。
六月の終わり。
神崎は同じ道をすでに五回走っていた。
「何が違うんだよ」
「走り方が綺麗すぎる」
「綺麗だから俺に頼んだんじゃなかったのか?」
「そうなんだけど、主人公は今、妹に間に合わなくて焦ってるんだよ。神崎の走り方だと、まだ余裕があるように見える」
「じゃあ遅く走ればいいの?」
「いや、遅くはしてほしくない」
「意味分かんねえよ」
神崎の声が少し荒くなった。
雨宮も困っていた。
「もっと、何ていうか……必死に走ってほしい」
「だから全力で走ってるって」
「でも、必死に見えない」
「それは俺の走り方なんだから仕方ないだろ」
六本目。
七本目。
雨宮はまだ納得しなかった。
神崎にも意地があった。
頼まれたからには、できないと思われたくなかった。
「もう一本いける?」
「いける」
答えた直後、横から声が飛んだ。
「駄目」
映画研究部の部長、相馬翔太だった。
雨宮が振り返る。
「相馬先輩、あと一本だけ」
「駄目だって言ってるだろ。神崎は明日も陸上の練習があるんだぞ。お前、撮影前に何本走らせるか決めてたよな?」
「五本くらいって……」
「今七本だ。しかも全部ほぼ全力だろ」
雨宮は黙った。
神崎が言った。
「俺はまだ走れますよ」
「走れるかどうかじゃない。お前も自分の体ちゃんと考えろ。明日の練習に影響したら、映画部は責任取れないんだから」
相馬は神崎にも厳しかった。
それから雨宮を見る。
「映画撮るために選手の練習壊してどうするんだよ」
雨宮は何も言えなかった。
撮影はそこで終わった。
*
翌日の昼休み、雨宮が陸上部の部室前まで来た。
神崎が廊下へ出ると、雨宮は開口一番に頭を下げた。
「昨日はごめん」
「相馬先輩に怒られた?」
「かなり」
「だろうな」
「撮ることばっかり考えてた。神崎が走れるって言うから大丈夫だと思ってたけど、そういう問題じゃなかった」
神崎は少し意外だった。
言い訳すると思っていた。
「次から本数を決めて、超えないようにする。撮れなかったら別の日にする。陸上部の練習予定も先に確認するから」
「分かった」
「あと、昨日の映像見てて思ったんだけど、俺の指示も悪かった」
「何が?」
「『必死に走れ』だけじゃ分からないよな」
「やっと気づいた?」
「反省してます」
雨宮は苦笑した。
「だから次は、演技の話をちゃんとする」
*
次の撮影。
同じ河川敷。
雨宮は走る前の神崎に、ひとつだけ説明した。
「妹に会える最後の日だと思ってほしい」
「うん」
「今、どれだけ速く走れてるかはどうでもいい。駅に間に合わせることだけ考えて」
「それで走り方変わるかな」
「分からない。でも昨日みたいにフォームを崩そうとか、必死に見せようとか考えなくていい。神崎がこの主人公だったら、どう走るか見たい」
神崎はスタート地点へ立った。
いつものように左手首を見た。
腕時計がある。
雨宮がそれに気づいた。
「それ、必要?」
「癖でつけてる」
「撮影中は時間見なくてもいいんじゃない?」
「……まあ、そうだけど」
神崎は少し迷い、時計を外した。
相馬に預けた。
腕が妙に軽く感じた。
「じゃあ行くよ」
雨宮がカメラの位置へ戻った。
神崎は走り出した。
最初の十歩。
いつもなら速度を意識する。
脚が流れていないか。
前傾が崩れていないか。
その日は考えなかった。
駅へ行く。
妹に追いつく。
雨宮から与えられた、それだけを考えた。
途中で息が苦しくなった。
脚も重くなる。
それでも走った。
カメラの横を通り過ぎた後もしばらく止まらなかった。
「カット!」
遠くから雨宮の声が聞こえた。
神崎は減速し、両膝に手をついた。
息を整える。
自然に左手首を見た。
時計がない。
「今の何秒だった?」
戻ってきた神崎が尋ねると、雨宮は首を傾げた。
「測ってない」
「測ってないの?」
「映画に秒数出ないから」
「いや、でも、どれくらいで走ってたのか気にならない?」
「全然」
雨宮は撮影した映像を確認していた。
「俺が気になるのは、ちゃんと主人公に見えるかどうかだから」
「速かったかどうかは?」
「速かったと思うよ。神崎だから」
神崎は、何となく拍子抜けした。
「変な奴だな、お前」
「よく言われる」
雨宮は画面を見ながら笑った。
「でも今の、すごくよかった」
「何が?」
「途中からフォーム少し崩れた」
「それ褒めてないだろ」
「映画としては褒めてる。最初の撮影よりずっと、人が走ってる感じがした」
「今までも人だよ」
「そういう意味じゃなくて」
雨宮は言葉を探した。
「最初は、陸上選手の神崎蓮が走ってるんだよ。でも今のは、妹に追いつきたい高校生が走ってた。俺はそっちを撮りたかった」
神崎は返事をしなかった。
相馬から腕時計を受け取った。
画面には、現在時刻しか表示されていない。
走った時間は残っていなかった。
何年ぶりだろう。
自分が何秒で四百メートルを走ったのか分からない。
不思議だった。
それなのに、さっきの一本を失敗だとは思わなかった。
*
映画の撮影が始まってから、神崎は週に一度だけ、腕時計をつけずに走るようになった。
顧問に言われたわけではない。
雨宮に言われたわけでもない。
練習が終わった後、一人で走る。
一本だけ。
距離も決めない日があった。
速いのか遅いのか分からない。
それでも走る。
最初は落ち着かなかった。
数字がないと、その日の自分が良かったのか悪かったのか分からない気がした。
けれど、しばらくすると別のものが分かるようになった。
今日は脚が軽い。
風が強い。
呼吸が楽だ。
疲れている。
フォームが自然に前へ進む。
数字を見る前から、体は自分の状態を知っていた。
夏の終わり。
神崎は大会へ出た。
県大会の決勝。
スタート前、また胸が苦しくなった。
一年生で全国へ。
中学全国二位。
周囲の言葉が頭に浮かぶ。
神崎は一度、目を閉じた。
河川敷を思い出した。
時計を外した左手首。
雨宮の声。
――駅に間に合わせることだけ考えて。
神崎は小さく息を吐いた。
今日は勝つ。
それは思っていい。
ただ、自分が何秒で走らなければならないかを、スタート前から決めるのはやめた。
号砲。
走る。
最初の百メートルで前へ出る。
二百。
三百。
最後の直線。
隣の選手が並んだ。
以前なら、抜かれることを恐れただろう。
その日は、前だけを見た。
ゴール。
二着だった。
一着との差は〇・〇四秒。
神崎は電光掲示板を見た。
自己ベスト。
悔しかった。
本当に悔しかった。
それでも、以前とは違った。
もう一度走りたいと思った。
*
映画『夏の終点』の上映会は、九月に行われた。
神崎は自分が走っている映像を、客席の後ろから見ていた。
映画の半分近く、主人公は走っていた。
その中に、神崎が最も速く走ったカットがどれなのかは分からなかった。
雨宮も覚えていないだろう。
最後。
主人公は駅へ到着する。
電車は出た後だった。
ホームには誰もいない。
ベンチへ座る。
握ったままだったキーホルダーを開く。
妹からメッセージが届く。
『お兄ちゃん、またね』
主人公は、その文章を何度か読む。
泣かない。
それから初めて、少し笑う。
映画はそこで終わった。
上映後、神崎は雨宮のところへ行った。
「なあ」
「どうだった?」
「俺さ」
神崎は少し迷った。
「一番好きなの、走ってるところじゃなかった」
雨宮が笑った。
「俺も」
「最後の駅のところ」
「よかったよ、あそこ」
「あれ、何回も撮り直したけどな」
「神崎が泣こうとするから」
「映画なんだから、泣いた方がいいと思うだろ普通」
「俺は泣かない方がいいと思った。妹ともう二度と会えないわけじゃないし。悲しいけど、少し安心もしてるはずだから」
「最初からそれ説明してくれれば、もっと早く終わったんじゃないの?」
「……それはそう」
神崎は笑った。
少ししてから、雨宮へ言った。
「俺、最近また走るの楽しくなってきた」
雨宮は、すぐに何か言おうとはしなかった。
「前は?」
「しばらく、全然楽しくなかった。大会で負けてから、タイムのことばっかり考えてた。練習してても、今日速かったか遅かったかしか気にならなくなって」
神崎は壁に掛かったスクリーンを見た。
「お前の撮影で、タイム測らずに走っただろ。あれ、久しぶりだったんだよ。何秒だったか分からないのに、いい走りだったと思えたの」
雨宮はしばらく考えた。
「じゃあ、映画に出てもらってよかった」
「珍しく素直だな」
「いや、本当に。俺も最初、神崎を速い奴としてしか見てなかったから」
神崎が雨宮を見る。
「どういう意味?」
「走り方が綺麗だから映画に出てほしいって思った。でも撮ってるうちに、走ってる時より、走る前とか走った後の顔の方が面白くなってきた」
「それ褒めてる?」
「褒めてる。たぶん」
「たぶんなのかよ」
二人は笑った。
神崎は、その日のことを後になって何度も思い出すことになる。
*
「金メダルを取れたのは、もちろん雨宮のおかげじゃありません」
現在。
神崎はそう言って笑った。
「そこは絶対に間違えないでほしいです。高校を卒業してからも何千回、何万回って走りましたし、俺を競技者として作ってくれたのは指導してくださったコーチやチームの人たちです」
「それでも、雨宮監督との経験は残っている?」
「残ってます」
神崎は迷わず答えた。
「俺、高校の頃から今まで、月に一回くらい時計をつけずに走る日を作ってるんです」
「今も?」
「今もです。GPSも切って、距離もできれば測らない。適当に走って、疲れたら帰る」
「オリンピック選手が?」
「だから必要なんですよ。俺の仕事って、突き詰めれば数字の世界ですから。何秒で走るか。何位になるか。世界ランキングがいくつか。全部数字で評価される」
神崎は窓の外の競技場を見た。
「でも走ることそのものには、本当は数字なんてないんですよね。少なくとも俺が最初に好きになった頃にはなかった。それを忘れないために、たまに測らない」
「昨日の決勝でも?」
「さすがにオリンピックで時計見ないわけにはいきませんけど」
神崎は笑った。
「でも最後の直線では、何秒とか何位とか、もう何も考えてなかったです。目の前にゴールがあって、そこまで走る。それだけでした」
「雨宮監督から連絡は?」
「来ましたよ」
神崎はスマートフォンを取り出した。
「『おめでとう。最後の直線、映画みたいだった』って」
「監督らしいですね」
「その後に、『高校の時の方がフォームは綺麗だったけど』って書いてありました」
記者が笑う。
「返事は?」
「まだしてません」
「どうして?」
「ちょっと腹が立ったからです」
神崎も笑った。
インタビューが終わった後、記者はホテルのロビーでノートを開いた。
白石紗月。
神崎蓮。
二人とも、同じ高校。
同じ学年。
雨宮湊の映画に出演している。
そして二人とも、彼を「自分を成功させた人」とは言わなかった。
そこが、記者には妙に気になった。
人生を変えてもらった、と簡単には言わない。
あの映画がなければ今の自分はいない、とも言わない。
もっと小さな出来事として話す。
けれど、何十年経っても忘れてはいない。
記者はノートを閉じようとして、最後のページに書かれた名前に気づいた。
以前、雨宮の高校時代について調べた時に見つけた名前だった。
水野遥。
同じ高校の卒業生。
高校時代、雨宮湊が監督した短編映画『白い部屋の外で』に出演。
現在の肩書きを見て、記者はもう一度その名前を読み返した。
小児心臓外科医。
国内で最も若くして、ある難手術を成功させた医師だった。
第二章 了