医師になる。
けれど高校一年の秋、雨宮湊が持ってきた一本の脚本が、彼女に初めて問いかける。
――それは、本当に自分で選んだ道なのか。
水野遥の名前が一般紙の一面に載ったのは、三十八歳の冬だった。
先天性心疾患を抱えた六歳の男児に対し、国内ではほとんど例のなかった術式を用いた手術を成功させた。
手術時間は十二時間を超えた。
術後の経過は良好。
数週間後には、男児が病棟の廊下を歩く姿も公開された。
医学界では以前から知られた名前だったが、その時初めて、水野遥という医師を知った人も多かった。
新聞には、
『三十八歳の天才女性外科医』
という見出しが躍った。
水野本人は、その表現を嫌った。
「手術室には十五人以上いたんです。私一人を天才にしてしまったら、残りの人たちは何だったんだという話になりますから」
後日行われた取材で、水野はそう言って笑った。
取材場所は病院内の会議室だった。
白衣ではなく、濃紺のスーツを着ている。
机の上には紙コップのコーヒーがあったが、話を始めてから一度も口をつけていなかった。
「昔から医師を目指していたのでしょうか」
記者が尋ねた。
水野は少しだけ考えた。
「そこが、今でも答えに困るところなんです」
「といいますと?」
「子供の頃から、将来は医者になると思っていました。でも、それが『目指していた』と言えるのかは分からないんですよね」
水野は指先で紙コップを少し回した。
「父も母も医師です。祖父もそうでした。親戚にも医療関係者が多い。だから私は、物心ついた時から自分も医者になるものだと思っていたんです。家族に強制されたわけではありません。でも、あまりにも自然にそこに道があったので、別の道を考える機会がなかった」
「それが変わった出来事が?」
「高校一年の時です」
水野は笑った。
「映画に出たんです」
記者は、もう驚かなかった。
「雨宮湊監督の映画ですね」
今度は水野が驚いた。
「よくご存じですね」
「白石紗月さんと神崎蓮さんから、同じ名前を聞きました」
「ああ」
水野は納得したように頷いた。
「そういうことですか」
「水野先生も、彼の映画をきっかけに医師を目指したのでしょうか」
水野は少し笑った。
「そこまで綺麗な話じゃありませんよ」
そして、十八年以上前のことを話し始めた。
*
水野遥は、幼い頃から勉強ができた。
特別な努力をしていなかった、という意味ではない。
努力はした。
ただ、努力すれば結果が出た。
教科書を読めば理解できた。
問題集を解けば点数が上がった。
中学校では三年間、定期試験の順位が五位より下になったことはなかった。
高校へ進学した後も変わらなかった。
教師から進路を尋ねられれば、
「医学部を考えています」
と答えた。
それで話は終わった。
父は循環器内科医。
母は眼科医。
祖父は大学病院で教授を務めたこともある。
夕食の席で医療の話が出ることは珍しくなかった。
父が珍しい症例について語る。
母が開業医としての苦労を話す。
遥はそれを聞いて育った。
小学校の卒業文集にも、
『将来の夢 医師』
と書いた。
その頃は、それが自分の夢なのだと思っていた。
高校一年の秋。
雨宮湊が教室へやってきた。
「水野さんいる?」
昼休みだった。
遥は参考書から顔を上げた。
雨宮のことは知っていた。
同じ学年の映画研究部。
春に撮った映画に白石紗月が出演していたことも知っている。
「私だけど」
「ちょっと脚本読んでもらえない?」
「どうして?」
「医療の話だから」
遥は眉を寄せた。
「私、医者じゃないよ」
「知ってる。でも医学部志望なんだろ」
「医学部志望だからって、医療のこと全部分かるわけじゃないけど」
「俺よりは分かると思う」
「どれだけ分かってないのよ」
「かなり」
雨宮は正直だった。
遥は溜息をついた。
「読むだけならいいけど」
「助かる」
渡された脚本の題名は、『白い部屋の外で』。
病気の弟を持つ高校生の姉が主人公だった。
弟は長く入院している。
姉は両親から医者になることを期待されており、病室でも受験勉強をしている。
物語の中盤。
弟が姉に尋ねる。
『お姉ちゃん、本当にお医者さんになりたいの?』
姉は答えられない。
その場面を境に、少女は自分の進路について初めて考え始める。
遥は最後まで読んだ。
翌日。
昼休みに雨宮を呼び出した。
「これ、駄目」
脚本を返す。
雨宮は目を丸くした。
「そんなに?」
「医療の描写がおかしいところが多すぎる。まず、この病気でこんなに長期間ずっと点滴してる意味が分からないし、手術した翌日に普通に歩いて屋上へ行ってるのも変。それに医者が家族に『絶対助かります』なんて言わないでしょ」
「やっぱり言わない?」
「当たり前でしょ」
「ドラマだと結構言ってる気がするけど」
「だからドラマなんじゃないの?」
雨宮は脚本へ何かを書き込んだ。
「他には?」
「まだあるよ。そもそも病院のことを知らなさすぎる。医者と患者が二人きりであんなに長く話す場面ばっかりだけど、看護師はどこにいるの。検査技師もいないし、患者の家族も都合のいい時しか出てこない」
「結構ひどいな」
「自分で書いたんでしょ」
「だから直すんだよ」
遥は、少し意外だった。
怒るかと思っていた。
雨宮は本当に脚本へ書き込みを続けている。
「水野さん、もうちょっと詳しく教えてくれない?」
「私だって実際の病院で働いたことないんだから、限界あるよ」
「じゃあ病院に取材行きたいな」
「そうすれば?」
「一緒に来てくれない?」
「何で私が」
「俺、医者の人に何聞いたらいいのかも分からないから」
「それくらい自分で考えなさいよ」
そう言いながら、遥は結局付き合うことになった。
*
取材を受け入れてくれたのは、市内にある総合病院だった。
映画研究部の顧問が以前勤めていた学校の卒業生に医師がいて、その縁で話が通った。
映画研究部からは雨宮と相馬翔太。
そして遥。
病院の玄関へ入った時、遥は特別な感慨を持たなかった。
病院は見慣れている。
父の勤務先にも、母の医院にも行ったことがある。
消毒薬の匂い。
白い壁。
ナースステーション。
どれも珍しくない。
案内してくれたのは、小児外科医の佐久間恵だった。
四十代半ばの女性。
白衣のポケットに何本ものペンを差している。
「高校生で映画を撮るって聞いたけど、ずいぶん本格的なんだね」
「本格的というほどじゃないです。機材も学校のものですし」
雨宮は少し緊張していた。
「でも、病院の話を書くなら、なるべく変なことはしたくなくて」
「その考えは大事だと思うよ。病院って、外から見るのと中にいるのではかなり違うから」
雨宮はノートを開いた。
「一番違うのは何ですか」
佐久間は少し考えた。
「映画ほど何も起きないことかな」
雨宮が顔を上げた。
「何も?」
「もちろん毎日いろんなことは起きるよ。でも、劇的なことばかりじゃない。むしろ患者さんにとっては待ってる時間の方が長い。検査結果を待つ。手術の日を待つ。退院できる日を待つ。家族が来るのを待つ」
「医者も待つんですか?」
「待つよ。薬が効くのを待つこともあるし、患者さんや家族が決断するのを待つこともある。すぐに答えを出さない方がいいことだってあるから」
遥はその言葉を聞いていた。
父は仕事の話をよくした。
珍しい病気。
難しい診断。
新しい治療法。
そういう話は何度も聞いた。
しかし、「待つ」という言葉で医師の仕事を説明したことはなかった。
取材の途中。
廊下の向こうから、小さな男の子が歩いてきた。
胸元から細い管が伸び、隣には点滴台。
母親らしい女性が付き添っている。
佐久間はその子に気づいた。
「健ちゃん、今日はそこまで歩けたの?」
男の子は得意そうに頷いた。
「昨日はあそこまでだった」
廊下の少し手前を指差す。
「じゃあ今日は記録更新だね」
佐久間はしゃがみ、男の子と同じ高さまで目線を下げた。
「先生、明日もっと歩いたら帰れる?」
「明日はまだ難しいかな」
男の子の顔が曇った。
佐久間は慌てて「大丈夫」とは言わなかった。
「早く帰りたいよね」
「うん」
「先生も帰してあげたい。でも、もう少しだけ心臓が元気になってからの方がいい。明日も一緒に歩いて、どこまで行けるか見ようか」
「先生も?」
「時間があったらね」
「絶対?」
「絶対とは約束できない」
「ずるい」
「先生は約束できないことは約束しないの」
男の子は少し不満そうだった。
それでも母親に促され、また歩き始めた。
佐久間は立ち上がり、しばらくその背中を見送った。
遥も見ていた。
*
帰りの電車。
相馬は途中の駅で別れた。
雨宮と遥は向かいの席に座った。
「どうだった?」
雨宮が聞いた。
「何が?」
「病院」
「病院は病院でしょ」
「水野さん、途中からずっと佐久間先生のこと見てたじゃん」
遥は窓の外へ目を向けた。
「……ちょっと意外だっただけ」
「何が?」
「医者って、もっと答えを持ってる人だと思ってた」
「佐久間先生も答え持ってるんじゃない?」
「そういう意味じゃなくて」
遥は少し考えた。
「患者に何でも断言できる人が、いい医者だと思ってたのかもしれない。病気を見たら診断できて、治療法を決めて、治して。それができる人が優秀なんだって」
「違った?」
「分からない。でも、あの子に『絶対帰れる』って言わなかったでしょ」
「うん」
「でも冷たくは見えなかった」
遥は自分でも、なぜそのことが気になるのか分からなかった。
「父だったらどうするんだろうって思った」
「聞いてみれば?」
「そうだね」
雨宮はそれ以上、何も言わなかった。
*
その夜、遥は初めて父に訊いた。
「お父さんって、患者さんに『絶対治る』って言ったことある?」
食卓。
父は箸を止めた。
「随分唐突だな」
「今日、病院に取材へ行ったの。学校の映画で」
母親が顔を上げた。
「映画?」
「出るわけじゃないから。脚本がおかしすぎるから見てあげてるだけ」
その時点では、本当にそう思っていた。
父は少し考えてから答えた。
「絶対という言葉は、医療ではあまり使わないな」
「やっぱり?」
「もちろん状況によるが、こちらが安心させたいからといって、できない約束をするのは違うと思っている」
「怖がってる患者さんにも?」
「怖いだろうな」
父は味噌汁を一口飲んだ。
「だからといって嘘をついていいわけじゃない。分からないことは分からないと言う。その上で、自分たちに何ができるかを説明する。それも医者の仕事だと思う」
遥は少し驚いた。
父がそんなことを考えているとは知らなかった。
「何だ?」
「別に」
「私の仕事に興味を持ってくれるなんて珍しいな」
「今まで聞いたことなかったから」
「お前が医者になるなら、そのうち分かると思っていた」
父は何気なく言った。
――お前が医者になるなら。
いつもなら何も感じなかった言葉だった。
その日は、耳に残った。
*
映画への参加は、いつの間にか「脚本監修」だけでは済まなくなった。
主演予定だった女子生徒が、家庭の事情で出演できなくなった。
撮影開始まで二週間。
映画研究部は代役を探した。
見つからない。
ある日の放課後。
遥が部室で脚本の修正を手伝っていると、雨宮がこちらを見た。
「水野さん」
「嫌」
「まだ何も言ってない」
「顔見れば分かる」
「一回だけ読んでみてくれない?」
「何で私なの」
「もう台詞全部知ってるし」
「それは脚本直してたからでしょ」
「主人公の考え方について一番文句言ってたのも水野さんだし」
「だから私にやらせるっておかしくない?」
雨宮は少し笑った。
「嫌いな役なら、水野さんが納得できるようにやってみたらいいじゃん」
遥は、その言葉に腹が立った。
同時に少しだけ興味を持った。
結局、読み合わせだけ、という条件で引き受けた。
その日のうちに雨宮が言った。
「やっぱり水野さんがいい」
「何で」
「台詞が冷たい」
「それ褒めてないよね」
「褒めてる。主人公、弟のこと大事にしてるのに、自分が何をしていいか分からなくて、つい正しいことばっかり言う人だから」
遥は言い返そうとして、やめた。
思い当たるところがあった。
*
撮影が始まった。
病院内での本格的な撮影はできなかったため、空き教室を病室に見立てた。
相馬と美術担当の生徒たちが壁を白い布で覆い、学校から借りた簡易ベッドを置いた。
遥は衣装の制服を着て、ベッド脇の椅子に座った。
弟役は演劇部の一年生。
主人公が勉強をしている場面だった。
「じゃあ本番いきます」
雨宮がカメラを構える。
遥は参考書を開いた。
弟役が言う。
「お姉ちゃん」
「何?」
「ほんとに医者になりたいの?」
遥は顔を上げる。
「急に何言ってるの。あなたはそんなこと気にしなくていいから」
「でも、お母さんが――」
「今は自分の病気のことだけ考えてればいいでしょ」
「カット」
雨宮が止めた。
遥を見る。
「水野さん、今のちょっと違う」
「どう違うの?」
「怒りすぎてる」
「この台詞なら怒るでしょ」
「怒ってるのはいいんだけど、弟に怒ってるように見える」
「弟に言ってるんだから当たり前じゃない」
「でも、この人、本当は自分に腹立ってるんじゃないかな」
遥は黙った。
「弟に聞かれて、自分でも答えられないことに気づく。だから、弟に聞かないでほしい。そういう感じにしたい」
「それなら脚本にそう書いてよ」
「書いたら説明しすぎると思って」
「じゃあ今説明してるじゃない」
周囲から小さな笑い声がした。
雨宮は困った顔をした。
「それはそうなんだけど」
「監督って便利だね。脚本で書けなかったこと、全部役者に後から言えばいいんだから」
「……ごめん」
雨宮は素直に謝った。
遥は少し言いすぎたと思った。
「別に怒ってるわけじゃないけど」
「いや、実際俺の説明不足だと思う。少し休憩しよう。俺も考える」
撮影は止まった。
遥は教室の隅へ行き、水を飲んだ。
窓の外では運動部の生徒たちが走っている。
少し離れたところで、雨宮が脚本を読み返していた。
鉛筆で何度も何かを書き直している。
遥はその姿を見ていた。
彼は、自分が書いたものを正しいとは思っていない。
誰かに間違いを指摘されれば直す。
役者が違うと思えば、もう一度考える。
そのことが少し不思議だった。
遥にとって、正解というものは、いつもどこかに用意されていた。
試験問題には答えがある。
進路にも、正しい道があると思っていた。
医学部へ行く。
医師になる。
それ以外を真剣に考える必要はない。
雨宮は、一本の短い映画についてすら何度も迷っていた。
それなのに楽しそうだった。
*
数日後。
撮影の帰り。
雨宮と二人で駅まで歩いている時、遥が言った。
「私、医者になりたいのか分からない」
雨宮は足を止めた。
「急だね」
「自分でもそう思う」
二人はまた歩き出した。
「この映画の主人公に腹が立ったの、たぶん自分に似てたからだと思う。親に言われた通りに進んでるくせに、自分で決めたつもりになってるところ」
「水野さんの親、医者になれって言うの?」
「直接言われたことはほとんどない。でも、ずっとそういうものだと思ってた。医学部に行くって言えばみんな喜ぶし、成績も足りてる。だから疑う理由がなかった」
「じゃあ別の仕事したい?」
「それも分からない」
遥は少し笑った。
「何になりたいのか分からないんじゃなくて、考えたことがなかったんだと思う」
雨宮はしばらく黙っていた。
「俺なら、考えてみるかな」
「簡単に言うね」
「だって分からないなら、分からないまま決めるより考えた方がいいだろ」
「医学部って、そんな軽い進路じゃないんだけど」
「映画だって俺には軽くないよ」
雨宮は真顔だった。
遥は思わず笑った。
「ごめん。そういう意味じゃない」
「分かってる」
雨宮も笑った。
「俺、医者が向いてるかどうかなんて全然分からない。でも水野さん、病院取材の後から医療の話してる時、前より楽しそうだよ」
「そう?」
「脚本の間違い指摘してる時も楽しそう」
「それは雨宮君の脚本がひどいからでしょ」
「そこまで言う?」
「実際ひどかった」
二人は笑った。
雨宮は少し先へ歩いた。
「でも、医者になるかどうかを俺が決める話じゃないから。水野さんがちゃんと考えて、それでも医者になるなら、それでいいんじゃない?」
その言葉を、遥は覚えていた。
*
週末。
遥は一人で、もう一度病院へ行った。
映画の取材ではなかった。
雨宮にも言わなかった。
事前に佐久間医師へ連絡し、可能な範囲で仕事を見学させてもらった。
派手なことは何も起きなかった。
診察。
記録。
家族への説明。
看護師との相談。
別の医師への連絡。
検査結果を待つ時間。
昼食を食べる暇もなく、佐久間は小さなパンを数分で食べた。
以前会った男の子もいた。
廊下を歩く距離は、前より伸びていた。
「先生、今日も忙しい?」
「忙しい」
「じゃあ一緒に歩けない?」
佐久間は時計を見た。
「五分だけなら」
二人はゆっくり廊下を歩いた。
遥は少し離れたところから、その様子を見ていた。
特別な治療ではない。
医療技術ですらない。
それでも、男の子は嬉しそうだった。
帰り際。
佐久間が遥に尋ねた。
「医者になりたいの?」
遥は少し迷った。
「……それを考えに来ました」
「そっか」
佐久間は笑った。
「じゃあ、今日は答え出さなくてもいいんじゃない」
「先生は、どうして医者になったんですか」
「昔は人を助けたいから、とか格好いいこと言ってたかな」
「今は違うんですか?」
「今も助けたいよ。でも、助けられないこともたくさんあるからね」
佐久間は少し考えた。
「それでも、病気の人のそばにいる仕事を辞めたいとは思わなかった。それが今の答えかな」
遥は何も言わなかった。
その答えを、自分のものにしようとは思わなかった。
ただ、覚えておこうと思った。
*
その夜。
遥は両親へ話した。
「医学部に行くの、一回ちゃんと考えたい」
母親は驚いた。
父も箸を止めた。
「医者になりたくないの?」
母が尋ねる。
「それが分からない。今まで、なりたいかどうか考えたことがなかったから」
食卓に沈黙が落ちた。
遥は少し怖かった。
期待を裏切るかもしれないと思った。
先に口を開いたのは父だった。
「そうか」
それだけだった。
遥は拍子抜けした。
「怒らないの?」
「なぜ怒る?」
「だって、お父さんもお母さんも医者だし、おじいちゃんも……」
「だからお前もならなければならない、なんて言った覚えはないぞ」
「言われなくても、そう思うでしょ」
母が少し困ったように笑った。
「正直に言えば、遥が医者になったら嬉しいとは思ってた。でも、それは私たちが決めることじゃないもの」
父も頷いた。
「医学部に行くなら大変だ。医者になってからの方がもっと大変だ。自分で決めていないなら、どこかで嫌になるかもしれない。今考えるのは悪いことじゃない」
遥は、ずっと自分を縛っていたものが、少しだけ緩んだ気がした。
その縄を結んでいたのは、両親ではなかったのかもしれない。
*
映画の終盤。
主人公が弟に答える場面がある。
『お姉ちゃん、本当に医者になりたいの?』
最初の脚本では、姉は最後まで答えない予定だった。
撮影前日。
雨宮が脚本を変えた。
「台詞、一個増やしていい?」
遥が読む。
『まだ分からない。でも今度は、自分で考えて決める』
「……これ、私の話じゃない?」
「ちょっと影響受けた」
「勝手に使わないで」
「嫌なら戻す」
雨宮はすぐに言った。
遥は脚本を見た。
「いや」
少し考えて、首を振った。
「これでいいと思う」
撮影当日。
弟役の少年が尋ねる。
「お姉ちゃん、本当に医者になりたいの?」
遥はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
机の上には参考書。
白い病室。
弟。
それから彼を見る。
「まだ分からない」
遥は言った。
「でも今度は、自分で考えて決める」
「カット」
雨宮の声がした。
教室が静かになる。
雨宮はモニターを確認した。
「もう一回撮りたい」
遥は笑った。
「何が悪かった?」
「悪くない。でも今の、水野さん本人が言ってる感じが少し強かった」
「自分で書いておいて何それ」
「だから難しいんだよ。主人公の言葉にしたい」
遥は少し考えた。
「分かった。もう一回やろう」
その場面は三回撮った。
映画で使われたのは、三回目だった。
*
『白い部屋の外で』の上映会。
遥は客席で、自分の演技を見ていた。
上手いとは思わなかった。
時々、台詞を言う前に息を吸う癖がある。
歩き方もぎこちない。
それでも、嫌ではなかった。
映画の最後。
弟が退院する。
主人公は医学部の資料を机の上に置き、別の大学のパンフレットも並べる。
どちらを選ぶのかは描かれない。
ただ、両方を見る。
それで終わる。
上映後。
遥は雨宮のところへ行った。
「最後、変えたんだね」
「うん」
「医学部に行くか分からないまま終わると思ってた」
「その方がいいかなと思った。進路の答えを出す映画じゃなくて、自分で考え始める映画だから」
遥は頷いた。
「私、医学部受けるよ」
雨宮が少し驚いた。
「決めた?」
「うん」
「どうして?」
遥はすぐには答えなかった。
「病院、もう一回行ったんだ。佐久間先生のところ」
「一人で?」
「うん」
「どうだった?」
「大変そうだった」
遥は笑った。
「思ってたより、ずっと地味だった。書類も多いし、待ってばっかりだし、昼ご飯もまともに食べられてなかった」
「それ見て医者になろうと思ったの?」
「変だよね」
「ちょっと」
「でも、その大変そうな仕事を見ても、嫌だと思わなかった」
遥は、少し離れたところで片づけをしている部員たちを見た。
「初めて、自分で医者になってみたいと思った」
雨宮はしばらく黙っていた。
「そっか」
「それだけ?」
「いや」
雨宮は少し笑った。
「よかったと思ってる。でも俺が『医者になった方がいい』とか言うのも変だろ」
「それはそう」
「水野さん、俺よりずっと考えたんだろうし」
遥は笑った。
「ありがとう」
「何が?」
「脚本があんなに適当だったから」
「そこ?」
「直さなきゃと思って病院に行った。雨宮君の脚本が完璧だったら、たぶん何も考えなかった」
「褒められてる気がしない」
「褒めてないから」
二人は笑った。
*
その後、水野遥は医学部へ進学した。
医学生になってからも、進路を迷った。
内科。
眼科。
父や母と同じ道。
いくつもの診療科を回った。
最後に選んだのは、小児心臓外科だった。
佐久間恵が専門としていた領域でもあった。
雨宮湊がそのことを知ったのは、大学卒業が近づいた頃だった。
『小児心臓外科にすることにした』
遥が送ったメッセージに、雨宮から返ってきたのは、
『そっか。頑張れ』
だった。
その十分後。
『あと、昔の映画見返したけど、やっぱり点滴の位置おかしいな』
と続いた。
遥は声を出して笑った。
*
「雨宮監督が医師になるきっかけを作った、という言い方については、どう思われますか」
現在。
記者の質問に、水野は少し考えた。
「少し違いますね」
「白石さんも神崎さんも、同じことをおっしゃいました」
「でしょうね」
水野は笑った。
「あの人は、人の人生を決めるようなことを言わないんです。というより、たぶん言えないんですよ。自分の映画ですら、ずっと迷ってる人ですから」
「では、水野先生にとって雨宮監督との映画は、どんな経験だったのでしょう」
「考えるきっかけです」
水野は迷わなかった。
「私は自分の人生について、考えているつもりで考えていなかった。医学部に行けば正解だと思っていたんです。でも映画を作る中で、雨宮は何度も脚本を書き直した。間違っていると指摘されれば直すし、撮ってみて違うと思えばまた考える。私には、それが意外だったんです」
「映画作りが?」
「答えがないことを、あんなに平気で考え続ける人がいるんだと思いました」
水野は紙コップを手に取った。
すっかり冷めていた。
「それで、自分の進路についても、ちゃんと考えていいんだと思えた。結果として医者になったので、外から見れば何も変わっていないんです。高校一年の時から医学部志望で、そのまま医学部へ行った」
「でも、水野先生にとっては違った」
「全然違います」
水野は言った。
「それまでは『医者になることになっていた』。あの後は、『医者になると自分で決めた』。外から見れば同じでも、私には大きな違いでした」
記者は、その言葉を書き留めた。
「雨宮監督とは今も?」
「たまに連絡します。映画も見ますよ。ただ、医療ものを撮る時だけ急に連絡が増えます」
「監修を頼まれる?」
「無料で使おうとしてくるので、そのたびに断っています」
水野は笑った。
「本当に断るんですか?」
「半分くらいは見てあげます。でも間違いが多いと腹が立つので、最後まで直します」
「高校時代と変わりませんね」
「そうなんです。あの人も、全然懲りない」
取材が終わった後。
水野は病棟へ戻った。
廊下を歩いていると、一人の少女が母親と一緒に歩いていた。
手術を終えて数日。
まだ歩幅は小さい。
水野は足を止めた。
「今日はここまで来られたんだ」
少女が頷く。
「昨日よりいっぱい歩いた」
「じゃあ記録更新だね」
少女は少し得意そうに笑った。
「先生、明日もっと歩いたら帰れる?」
水野は少しだけ考えた。
十八年前。
同じような言葉を聞いたことがある。
「明日すぐは難しいかな」
少女の顔が曇る。
水野はしゃがみ、目線を合わせた。
「でも、昨日よりずっと元気になってる。明日も一緒に歩いて、どこまで行けるか見よう」
「先生も歩く?」
「時間があったらね」
「絶対?」
水野は笑った。
「絶対とは約束できない」
「ずるい」
「先生は、できない約束はしないの」
言ってから、自分でも気づいた。
十八年前の佐久間恵と、ほとんど同じ言葉だった。
少女が母親と歩き出す。
水野はその背中をしばらく見送った。
白い廊下の向こうから、午後の光が差していた。
その光の中を歩く小さな背中を見ながら、水野は高校一年の秋を思い出した。
病院のことを何も知らずに書かれた、間違いだらけの脚本。
その脚本に腹を立てた少女。
そして、間違っていると言われるたびに、素直に鉛筆を持ち直した少年。
あれが自分の人生を決めたのだとは思わない。
人生とは、そんなに一つの出来事で説明できるものではない。
それでも、あの日、自分で考えるということを始めていなければ。
今ここに立つ自分は、少し違う人間になっていたかもしれない。
第三章 了