それを初めて本気で読み、遠慮なく「つまらない」と言ったのが、雨宮湊だった。
腹が立った。けれどその日から、彼女の物語は一人だけのものではなくなった。
朝倉凛がその年の漫画大賞を受賞した時、最初に壇上で口にしたのは、感謝の言葉ではなかった。
「高校一年生の時、私が初めて他人に読ませた長編を、『三ページ目から十ページ目まで、かなり退屈』と言った人がいました」
会場に笑いが起きた。
凛はトロフィーを両手で持ったまま、その反応が収まるのを待った。
四十歳を目前にした今でも、彼女は公の場であまり愛想よく振る舞う人ではなかった。雑誌の取材でも、聞かれたことには丁寧に答えるが、面白くない質問には面白くない顔をする。テレビ番組への出演はほとんど断っている。
その彼女が、壇上で少しだけ笑っていた。
「一応言っておくと、その人は当時十五歳です。編集者でも、小説家でもありません。映画研究部で、自分も大して上手くない脚本を書いていた同級生でした」
今度は先ほどより大きな笑いが起きた。
「ものすごく腹が立ちました。でも、たぶん、あの時が初めてだったんです。私の書いたものを、『高校生が書いたもの』ではなく、一つの作品として読んでもらったのは」
凛は一度、手元のトロフィーを見た。
「だから今日、この賞をいただけたことを報告したい人はたくさんいます。ただ、最初に思い出したのは、その失礼な十五歳でした」
授賞式の映像は、その夜から何度もニュースで使われた。
受賞作『水底の町』は、連載開始から七年目を迎えていた。
大きな事件の起こらない漫画だった。
海辺の小さな町で、三世代の家族が少しずつ変わっていく。結婚する者がいて、離婚する者がいる。町を出る者がいて、帰ってくる者がいる。誰かが死に、子供が生まれ、それでも翌朝には漁船が港を出る。
派手な物語ではない。
にもかかわらず、単行本は国内だけで二千万部を超えていた。
漫画をほとんど読まない人間まで作品の名を知っている。
受賞翌日、朝倉凛は仕事場で一人の記者を迎えた。
長い付き合いになりつつある女性記者だった。
以前、白石紗月にインタビューした。
その後、神崎蓮。
水野遥。
そして今度は朝倉凛のところへ来た。
「先に訊いておきますけど」
凛は打ち合わせ用のテーブルにコーヒーを置きながら言った。
「雨宮の話を聞きに来たんですよね」
記者は苦笑した。
「分かりますか」
「白石の記事は読みました。神崎の記事も、水野の記事も。三人目くらいから、何を調べてるのか分かりました」
「迷惑でしたか」
「別に。本人が好きで話してるなら、私が止めることでもないでしょう」
凛は椅子へ座った。
机の向こうには、大きな本棚がある。漫画だけではない。小説、映画の脚本集、美術書、写真集、歴史書が並んでいた。
部屋の隅には、古い映画のポスターが額に入れて掛けられている。
記者がそれを見ていることに気づき、凛が言った。
「高校時代、映画研究部の部室に貼ってあったのと同じものです」
「大切な思い出なんですね」
「そういう言い方をされると、捨てたくなりますね」
凛は真顔だった。
記者が返答に困ると、少し遅れて笑った。
「冗談です。半分は」
「雨宮監督とは、今でもよく連絡を取るんでしょうか」
「時々。最近は向こうが海外にいることも多いですし、私も締切があるので、昔ほどではありません。でも、新作を送れば感想が来ます」
「どんな感想を?」
「頼んでもいないのに、直した方がいいところまで書いてきます」
凛はスマートフォンを取り出した。
「この前なんて、『六巻の百八十二ページから少し説明が長い』って。連載が終わって三年経ってる巻ですよ。今さらどうしろっていうんですか」
記者は笑った。
「高校時代から変わらない?」
「ほとんど変わってないですね。昔より言葉を選ぶようになったくらいで」
凛はスマートフォンを置いた。
「ただ、私も人のこと言えません。雨宮の映画を見れば、気になるところは全部言うので」
「ライバル、という言葉は合いますか」
凛は少し考えた。
「高校時代なら、そうだったと思います」
「今は?」
「今は分野が違いすぎますから。でも、あの人の作品を見て悔しいと思うことはあります」
記者が顔を上げた。
凛は窓の外へ目を向けた。
「たぶん、昔からそうなんです。雨宮の映画を見ると、自分も何か作りたくなる。腹が立つんですよ。こっちは締切で死にそうなのに」
そう言ってから、彼女は十八年以上前の話を始めた。
*
朝倉凛は、小学生の頃から物語を書いていた。
最初は、大学ノートの半分にも満たない話だった。
魔法使いが出てくる。
喋る猫がいる。
学校の屋上から別の世界へ行く。
今読み返せば、どこかで見たような物語ばかりだった。
それでも楽しかった。
自分が書かなければ存在しなかった人間が、ノートの中で喋っている。
ページをめくるたびに、昨日までなかった場所ができる。
書くことそのものが好きだった。
中学生になると、長い話を書くようになった。
誰にも見せなかった。
中学二年の冬、一度だけ国語教師に読ませた。
教師は随分褒めてくれた。
「朝倉さん、こういうの得意なんだね。せっかくだから、学校で応募している小説コンクールに出してみない?」
凛は迷った末に応募した。
一か月近くかけて書き直した。
原稿用紙で百枚ほどの物語だった。
家族を亡くした少女が、親戚の住む海辺の町で暮らし始める話。
結果は一次選考落ちだった。
落ちたことは悔しかった。
けれど、それだけなら書くことをやめなかったと思う。
作品を読んだ同じクラスの女子生徒が、有名な小説に似ていると言った。
凛はその作品を知らなかった。
あとから図書館で借りて読んだ。
確かに似ているところはあった。
海辺の町。
家族を失った少女。
年上の男との出会い。
細部は違った。
しかし、凛自身が一度似ていると思ってしまうと、何を書いても誰かの真似に見えた。
「これ、パクったから落ちたんじゃない?」
男子生徒が軽い調子で言った。
教室にいた数人が笑った。
担任はすぐに注意した。
それで終わった。
翌週になれば、誰も覚えていなかった。
凛だけが覚えていた。
それ以来、書くことはやめなかったが、人には見せなくなった。
自分のためだけに書いた。
誰にも読まれなければ、盗作だと言われることもない。
下手だと笑われることもない。
高校へ入学した春、映画研究部へ入ったのは物語を書きたかったからではなかった。
単純に映画が好きだった。
部室には古い映画雑誌が大量にあり、学校の視聴覚室には一般の生徒が知らない映画のディスクもあった。
それだけで十分だった。
そこで、雨宮湊と出会った。
*
「朝倉、ここどう思う?」
入部して二週間ほど経った頃だった。
雨宮が突然、脚本を机の上へ置いた。
「何が?」
「最後。主人公がバスに乗るところ」
凛は『一台遅いバス』と書かれた表紙を見た。
白石紗月を主演に撮る予定の映画だった。
すでに一度読まされている。
「前にも言ったでしょう。このままだと、何でその日だけ乗れたのか分からない」
「理由って必要かな」
「私は必要だと思う。大事件を入れろと言ってるんじゃないの。昨日まで乗れなかった人が、今日乗るんだから、何かは変わってるでしょう。その変化を観客に見せないと、ただ時間が来たから乗ったみたいに見える」
雨宮は椅子に座った。
「でも、人って理由が自分でも分からないまま何かできるようになることもない?」
「あると思う」
「じゃあ――」
「でも、それと観客に何も見せなくていいのは別。本人が言葉にできないなら、別の形で見せればいい」
「例えば?」
「知らない。それを考えるのが監督でしょう」
凛は映画雑誌へ視線を戻した。
雨宮はしばらく黙っていた。
「朝倉、脚本書いたことある?」
凛の手が止まった。
「ない」
反射的に嘘をついた。
「そうなんだ」
雨宮はそれ以上訊かなかった。
その日の放課後。
凛は一人で部室に残った。
鞄の中には、家で書いていたノートが入っていた。
雨宮との会話が頭に残っていた。
どうして自分は、脚本を書いたことがないと言ったのだろう。
誰にも見せないと決めていたからだ。
それでいい。
そう思いながら、凛はノートを開いた。
書きかけの物語がある。
高校生の姉妹が、父親の再婚をきっかけに離れていく話だった。
二ページほど読み返したところで、廊下から足音がした。
慌てて閉じた。
雨宮が部室へ戻ってきた。
「あれ、まだいたんだ」
「忘れ物?」
「カメラのバッテリー」
棚からケースを取り出す。
そこで、凛の机に置かれたノートを見た。
「何書いてたの?」
「別に」
「宿題?」
「違う」
凛はノートを鞄へ入れた。
雨宮は気にした様子もなく、バッテリーを持って部室を出た。
それだけだった。
凛は、少し安心した。
同時に、ほんの少しだけ残念だった。
*
三日後。
今度は自分からノートを持って行った。
部室には雨宮しかいなかった。
編集作業をしていた。
「雨宮」
「うん?」
「これ、読んでみる?」
ノートを差し出した。
雨宮の手が止まった。
「朝倉が書いたの?」
「そう」
「脚本じゃないよね」
「小説みたいなもの。まだ途中だけど」
「読んでいいの?」
凛は少し迷った。
「いい。ただし条件がある」
「何?」
「高校生なのに上手いとか、趣味でこれだけ書ければすごいとか、そういう感想はいらないから」
雨宮は少し不思議そうな顔をした。
「分かった」
「本当に分かってる?」
「作品として読めばいいんだろ」
凛はノートを渡した。
雨宮はその場で読み始めた。
十ページ。
二十ページ。
途中で何度か前のページへ戻った。
鉛筆を取り出し、別の紙に何かを書いている。
凛は映画雑誌を読んでいるふりをした。
一文字も頭に入らなかった。
四十分ほど経った。
雨宮がノートを閉じた。
「途中までだけど、言っていい?」
「どうぞ」
「最初の三ページは好き」
凛は黙って待った。
「姉妹が朝ご飯食べてるところ。姉はずっとパンの端をちぎってるのに、妹は何も言わない。あそこで二人が喧嘩してるの分かるの、すごくいいと思った」
凛は少し驚いた。
自分でも気に入っていた場面だった。
「ただ、そのあと十ページくらい、かなり退屈」
「……は?」
「二人が何で喧嘩したか説明してるところ。最初の朝ご飯で関係が分かるのに、そのあと全部文章で説明するから、同じこと二回読んでる感じがする」
凛は雨宮を見た。
「それ、最初に言う?」
「良かったところ先に言ったけど」
「そういう問題じゃない」
「でも、感想いらないって――」
「褒めろとは言ってない。でも普通、もう少し言い方があるでしょう」
「ごめん」
雨宮は本当に困った顔をした。
凛はノートを取り上げた。
「もういい」
「最後まで読んでないけど」
「読まなくていい」
「でも続き気になる」
「読ませない」
「朝倉」
「何」
「怒ってる?」
「見れば分かるでしょ」
「それは分かる」
凛は鞄を持って部室を出た。
*
帰宅してからも腹が立っていた。
夕食を食べた。
風呂に入った。
机へ向かった。
ノートを開く。
三ページ目から読んだ。
姉が父の再婚について考える。
四ページ。
妹との喧嘩を回想する。
五ページ。
父親への不満を説明する。
六ページ。
まだ説明している。
凛は鉛筆を置いた。
もう一度、一ページ目へ戻った。
朝食の場面。
姉が食パンをちぎる。
妹は牛乳を飲んでいる。
二人とも喋らない。
確かに、この場面だけでかなり分かる。
腹が立った。
雨宮が正しいかもしれないことに、もっと腹が立った。
午前一時を過ぎる頃には、十ページあった説明が四ページになっていた。
翌日の放課後。
凛は雨宮の机にノートを置いた。
「続き読んで」
雨宮が顔を上げた。
「いいの?」
「勘違いしないで。あなたが正しいか確認するだけだから」
雨宮は笑った。
「分かった」
「あと、前より悪くなってたらちゃんと言って」
「言っていいの?」
「言わなかったら渡した意味ないでしょう」
雨宮はノートを開いた。
十分ほど読んだ。
「前より好き」
「どこが?」
「姉が父親のことを考えてる部分が減ったから、妹の方が何を考えてるのか気になるようになった」
「そこは狙ってない」
「じゃあ偶然?」
「……たぶん」
「でも面白いと思う」
凛は雨宮の隣へ椅子を運んだ。
「じゃあ、逆にどこが悪くなった?」
「ここ。説明削りすぎて、父親が再婚するって情報が分かりにくい」
「やっぱり?」
「うん。ここだけ一行戻してもいいかも」
二人はそのまま一時間以上話した。
*
それから、雨宮は自分の脚本を凛に読ませるようになった。
凛も小説を見せるようになった。
褒めるだけではなかった。
むしろ、喧嘩の方が多かった。
「この台詞いらない」
「いる」
「顔で分かる」
「分からない。あなたは脚本を書いた本人だから分かるだけでしょう」
「役者がちゃんとやれば分かると思う」
「何でも役者に押しつけないで。台本に書いてないことを全部『芝居で見せて』って言うのは、監督の怠慢だから」
「そこまで言う?」
「言う」
逆もあった。
「朝倉、これ説明しすぎ」
「ここは必要」
「さっき主人公が母親の写真見てたから、母親が恋しいのは分かるよ。そのあと『私は母が恋しかった』って書いたら、映像と台詞で同じこと二回言ってる」
「映画と小説は違う」
「今は脚本の話してる」
「……それはそう」
互いに腹を立てた。
それでも、次の日にはまた話した。
白石紗月の『一台遅いバス』も、二人で何度も直した。
凛が最初に言っていた、
「なぜ最後の日だけバスへ乗れるのか」
という問題に、明確な答えはつけなかった。
代わりに、日々の小さな変化を増やした。
少女が友人からのメッセージへ返信する。
母親の持っていた傘を初めて使う。
バス停でいつも一歩下がっていた位置が、少しずつ前へ変わる。
凛が提案したものもあれば、雨宮が考えたものもあった。
完成した映画を見た時、凛は自分が書いた場面が雨宮の撮った映像になっていることを、不思議な気持ちで眺めた。
悪くなかった。
むしろ、自分の頭の中にあったものより好きな場面さえあった。
それが少し悔しかった。
*
高校二年の夏。
二人は初めて正式に一本の映画を共同で書いた。
題名は『雨の向こう側』。
父親と二人で暮らす高校生の少女が主人公だった。
父は再婚を考えている。
少女は反対している。
しかし、その理由を父には言えない。
亡くなった母を忘れられるような気がするから。
物語の終盤。
少女が父親へ初めて本音を話す場面がある。
凛は長い台詞を書いた。
『お父さんが幸せになるのが嫌なんじゃない。私だって、お父さんがずっと一人でいる方がいいなんて思ってない。でも、お父さんが新しい人と笑ってるのを見ると、お母さんがいた時のことが、私だけのものになっていく気がする。お父さんが忘れたら、私まで忘れなきゃいけないみたいで怖いの。』
雨宮は読んだ。
「長い」
凛が睨んだ。
「必要な長さ」
「途中で意味分かる」
「じゃあ、どこ切るの」
雨宮は鉛筆で線を引いた。
最後に残ったのは、
『私まで忘れなきゃいけないみたいで、怖い』
だけだった。
「切りすぎ」
「これだけで分からない?」
「分かる人もいる。でも、それまでずっと言えなかった子が、ようやく父親に言葉をぶつける場面なの。私は、ちゃんと喋らせたい」
「でも、本当にずっと言えなかった人が、急にこんなに整理して話せるかな」
「整理して話せないからこそ、途中で言葉が重なるんでしょう」
「俺はもっと短い方が、この子らしいと思う」
「それは雨宮が短い台詞好きなだけじゃない?」
雨宮は黙った。
「……それもあるかもしれない」
「でしょう?」
「でも、朝倉は喋らせすぎる」
「人間は必要な時には喋るの!」
部室の奥で、相馬が顔を上げた。
「お前ら、またやってんの?」
二人とも返事をしなかった。
*
数日後。
読み合わせのため、役者が集まった。
凛が脚本を開く。
問題の場面。
ところが、台詞が変わっていた。
長い台詞はなくなっていた。
雨宮が短くした版になっている。
「雨宮」
凛が低い声で呼んだ。
雨宮が振り返った。
「何?」
「これ何」
「……台本」
「それは分かる。私の台詞は?」
雨宮の顔に、少しだけ迷いが出た。
「昨日、もう一回考えたんだけど、やっぱりこっちで撮りたいと思った」
「それを、どうして私に言わずに変えたの」
「今日説明しようと思ってた」
「読み合わせが始まってから?」
「時間なくて」
「時間がないなら、共同脚本なんて最初からやらなければよかったでしょう」
部室の空気が変わった。
役者たちが黙る。
雨宮が言った。
「でも最後に決めるのは監督だから」
凛は、その言葉をしばらく理解できなかった。
「……そう」
脚本を閉じた。
「だったら、もう私いらないね」
「朝倉、そういう意味じゃ――」
「同じ意味だよ」
「一回聞いて」
「嫌」
凛は鞄を持った。
「最初から自分の好きなように書けばいい。私の名前も脚本から外して」
部室を出た。
後ろから雨宮が呼んだ。
振り返らなかった。
*
一週間、映画研究部へ行かなかった。
雨宮からメッセージが来た。
『話したい。』
返さなかった。
翌日。
『勝手に変えたのは悪かった。』
それにも返さなかった。
凛は家で小説を書いた。
だが、進まなかった。
頭の中では、あの場面ばかり考えた。
長い台詞。
雨宮が短くした台詞。
どちらが良いのか。
腹が立っているのに、それでも考えている自分にも腹が立った。
八日目。
下駄箱に茶色い封筒が入っていた。
中には脚本が二冊。
一冊は凛が書いた版。
もう一冊は雨宮が直した版。
付箋が一枚貼られていた。
『両方撮らせてほしい。撮ったものを見て、役者の意見も聞いて、それから一緒に決めたい。勝手に変えたのは本当に悪かった。』
凛はその紙を持ったまま、しばらく下駄箱の前に立っていた。
*
翌日。
部室へ入る。
雨宮は編集用のパソコンの前にいた。
凛を見ると立ち上がった。
「朝倉」
「先に言っとくけど、まだ怒ってるから」
「うん」
「『監督が最後に決める』っていうのも、間違いだとは思ってない。最終的に映像の責任を取るのは監督なんでしょうから」
「うん」
「でも、共同で書いてる途中で勝手に変えて、完成した台本だけ見せるのは違う。私が何のために一緒に書いてたのか分からない」
「分かってる」
「本当に?」
雨宮は少し時間を置いた。
「最初は、朝倉が納得しなくても、撮って映像見せたら分かると思ってた」
「それが腹立つの」
「今は分かる」
雨宮は机の上に二冊の脚本を置いた。
「俺も、朝倉が何であの長さにしたいのか、ちゃんと聞いてなかった。長いから切ることばかり考えてた」
凛は椅子に座った。
「私は、あの子が初めて父親に自分の気持ちを説明するところをちゃんと書きたいの。上手に喋れなくてもいい。途中で詰まってもいい。長くなっても、言わせたい」
「俺は、逆に上手く言えないから途中で諦めると思った」
「じゃあ、役者にも聞けばいい」
「うん」
「二つとも撮る」
「うん」
「それで私の方が良かったら使う」
雨宮は少し笑った。
「そこは映像見て決めよう」
凛も笑った。
「本当に腹立つ」
*
二つの版を撮影した。
凛の長い台詞。
雨宮の短い台詞。
どちらも悪くなかった。
どちらにも足りないものがあった。
最後に主演の女子生徒が言った。
「私、一回、自分なりにやってもいい?」
雨宮と凛は顔を見合わせた。
「もちろん」
撮影が始まる。
父親役の前で、少女が立つ。
しばらく言葉が出ない。
やがて、
「私、お父さんが幸せになるのが嫌なわけじゃない」
と話し始めた。
凛の台詞。
途中まで言う。
少し詰まる。
目を逸らす。
「でも、お母さんのこと、私だけが覚えてるみたいになるのが……」
そこで止まった。
雨宮の短い台詞へ繋がる。
「私まで忘れなきゃいけないみたいで、怖い」
父親役は何も答えない。
少女も、それ以上は言わなかった。
「カット」
雨宮が言った。
しばらく誰も動かなかった。
凛はモニターを見た。
自分が書いたものとも、雨宮が書いたものとも違う。
けれど、一番良かった。
「……これだね」
凛が言った。
雨宮も頷いた。
「うん」
「私たち二人とも負けたね」
「役者に?」
「そう」
雨宮が笑った。
「映画って面白いな」
凛はその横顔を見た。
「今さら?」
「今さら」
*
完成した映画を、凛は何度も見た。
自分の書いた脚本が、そのまま残っているわけではない。
雨宮が変えた。
役者が変えた。
カメラを担当した生徒が、凛の想像とは違う角度から撮った。
編集で順番も変わった。
それでも、作品が自分から遠くなったとは思わなかった。
むしろ、自分一人では書けなかった場所へ行ったように感じた。
同時に、別の感情もあった。
自分一人で、全部決められる表現をやってみたい。
言葉も。
表情も。
画面の大きさも。
沈黙の長さも。
次のページをめくる瞬間さえ、自分で決めたい。
*
高校三年の春。
凛はノートの端に漫画を描いた。
それまで絵は落書き程度しかしたことがない。
下手だった。
雨宮に見せた。
「何これ」
「漫画」
「見れば分かる」
「どう?」
雨宮は四ページ読んだ。
「絵はまだ下手」
「分かってる」
「でも、ページめくったところで妹が立ってるの、すごくいい」
凛は黙った。
「映画だと、観客が自分でタイミング決められないだろ。でも漫画なら、読む人がページめくる瞬間が演出になるんだな」
「そう。それがやりたい」
「じゃあ漫画描くの?」
「まだ分からない。でも面白い」
雨宮はもう一度ページをめくった。
「朝倉に向いてそう」
「どうして?」
「全部自分で決められるから」
凛が睨んだ。
「どういう意味?」
「人と意見合わないとすぐ怒るだろ」
「雨宮にだけは言われたくない」
二人は笑った。
*
大学へ進学した。
漫画を描き始めた。
最初の投稿作は落選。
二作目も落ちた。
三作目で編集部から連絡が来た。
担当編集者は、初対面で原稿を読みながら言った。
「朝倉さん、この十二ページから少し長いですね」
凛は思わず笑った。
「何かおかしいですか?」
「いえ」
十五歳の雨宮を思い出した。
「昔、もっとひどい言い方をされたことがあるので」
*
二十六歳で連載を持った。
二十九歳で最初のヒット作。
三十二歳から『水底の町』を始めた。
雨宮とは何度か仕事の話も出た。
一度、凛の漫画を映画化する企画で、監督候補に雨宮の名が挙がった。
凛は断った。
「嫌いだからですか」
担当編集者に訊かれた。
「逆です」
凛は答えた。
「知りすぎてるんです。あいつが監督したら、たぶん私、脚本会議に毎回行きますよ。それで絶対喧嘩します。制作会社が可哀想でしょう」
映画は別の監督が撮った。
完成披露の夜。
雨宮からメッセージが届いた。
『映画よかった。原作とは結構違うけど、あれはあれで好き。』
その数分後。
『ただ、三巻の駅の場面は原作の方がいい。』
凛は返信した。
『映画の感想だけ言えばいいのに、何で三巻の話になるの。』
『思い出したから。』
『あなたの前作、最後十五分長い。』
しばらく既読がつかなかった。
三十分後。
『俺も少し思ってる。』
凛は笑った。
*
「雨宮監督に、才能を見つけてもらったと思いますか」
現在。
記者に訊かれ、凛は少し考えた。
「違うと思います」
これまで取材した三人と、よく似た答えだった。
「私は雨宮に会う前から書いていました。漫画を描き始めたのも自分です。雨宮がいなければ創作者にならなかった、という話ではありません」
「では、何が残ったのでしょう」
凛はテーブルの上のトロフィーを見た。
「人に読ませてもいいと思えるようになったことかもしれません」
「批評されたのに?」
「だから、です」
記者が顔を上げた。
「中学生の時、作品を人に見せて傷ついた経験がありました。それから、自分の中だけで完成させるようになった。誰にも見せなければ否定されない。でも、それだと自分が気持ちいいものしか書けないんです」
凛は少し笑った。
「雨宮は本当に失礼でしたけど、読んでいたんですよ。『面白い』とか『つまらない』だけじゃなくて、どこで退屈したのか、どの場面が好きだったのか、何でそう感じたのかを話した。私が直したら、また読んだ」
「それが嬉しかった?」
「後から考えれば」
「当時は?」
「腹が立ってました」
即答した。
記者が笑う。
凛も笑った。
「でも、誰かに真剣に読まれるって、褒められることとは違うんですよね。雨宮から最初に教わったのは、たぶんそれです」
「今でも雨宮監督の意見を大切に?」
「参考にはします」
「素直ですね」
「採用するとは言ってません」
凛はコーヒーを飲んだ。
「むしろ、あの人が『ここは切った方がいい』って言うと、残したくなる時もあります」
「ライバルだから?」
「性格が悪いからです」
そう言った顔は、どこか楽しそうだった。
*
取材が終わり、記者が帰った後。
凛は仕事机へ戻った。
連載準備中の新作。
ネームの上には担当編集者からの付箋が何枚も貼られている。
一枚を剥がす。
『この台詞、少し説明しすぎかもしれません。』
凛はしばらくそれを見た。
鉛筆を取る。
台詞を半分ほど消した。
読み返す。
もう一度書き足す。
今度は最初より短く、しかし消す前より長い。
凛は椅子の背にもたれた。
スマートフォンを取り出す。
雨宮とのメッセージ画面を開いた。
『今、新作の脚本書いてる?』
数分して返事が来た。
『書いてる。何で?』
『できたら読ませて。』
『珍しいな。』
『受賞したから、今日は機嫌がいいの。』
『おめでとう。スピーチ見た。俺のこと失礼な十五歳って言っただろ。』
凛は笑った。
『事実でしょう。』
少しして、
『否定できない。』
と返ってきた。
凛はスマートフォンを机へ置いた。
新しいページを開く。
白い紙。
まだ誰も知らない物語。
最初の一コマを描く前に、ほんの少しだけ考えた。
これを読んだ時、あの男はどこをつまらないと言うだろう。
そう思うと、不思議と続きを描きたくなった。
第四章 了