監督でも、脚本家でもない。
それでも雨宮湊たちが撮ったほとんどすべての映画に、彼の名前は残っている。
画面には映らない場所で、誰かを支え続けていたからだ。
相馬翔太の名前を知っている人間は、それほど多くない。
少なくとも、白石紗月や神崎蓮、水野遥、朝倉凛のように、名前を聞けば顔や仕事まで思い浮かぶ人物ではなかった。
県内の公立高校で国語を教えている。
二年生の担任。文芸部の顧問。教員生活は十五年を越えた。
全国的な教育賞を取ったこともなければ、教育番組に出演したこともない。新聞に名前が載ったのは、地域の高校生を集めた読書会を企画した時くらいで、その記事に写真はなかった。
本人も、それで何の不満もなかった。
*
十一月の放課後。
窓の外では、サッカー部の掛け声が響いていた。
相馬は教卓で提出物を整理していた。
教室にはもう一人、生徒が残っている。
二年生の女子生徒だった。
帰りのホームルームが終わってから二十分以上経つのに、鞄はまだ机の横に掛かったままだった。
相馬は気づいていたが、すぐには声をかけなかった。
プリントを束ねる。
赤ペンを筆箱へ戻す。
それでも生徒は立たない。
「先生」
ようやく声がした。
「ん?」
「私、大学行くのやめようかな」
相馬は手を止めた。
けれど驚いた顔はしなかった。
「そうか」
女子生徒は少し不満そうに眉を寄せた。
「それだけ?」
「理由を聞いてほしかった?」
「普通、聞くでしょ」
「聞くよ。ただ、最初に『やめるな』って言ったら、そのあと話しにくいだろ」
相馬は教卓から離れた。
彼女の前の席を後ろ向きにして座る。
「一つだけ先に聞いていい?」
「何」
「大学へ行きたくなくなったのか、それとも、行かない方がいいと思ってるのか。どっち?」
女子生徒は答えなかった。
窓の外を見る。
しばらくして、小さな声で言った。
「分かんない」
「じゃあ、まだ決めなくていいな」
「でも三者面談、再来週だよ」
「三者面談は人生の締切じゃない」
相馬は少し笑った。
「今日決めなくていいことを、今日無理に決める必要はない。まず何に困ってるのか、それから話そう」
それから一時間ほど、生徒は途切れ途切れに話した。
父親の勤務先のこと。
家計のこと。
弟が来年高校受験であること。
私立大学に行けば金がかかること。
奨学金を借りてまで進学していいのか分からないこと。
そして、本当は大学へ行きたいこと。
相馬は途中で結論を出さなかった。
必要なことだけ質問した。
生徒が帰る頃には、校庭の照明が点いていた。
相馬が職員室へ戻ると、入口近くに一人の女性が立っていた。
「相馬先生でしょうか」
「はい」
雑誌記者だという。
名前を聞いただけでは、誰なのか分からなかった。
けれど彼女が白石紗月、神崎蓮、水野遥、朝倉凛の名前を順に挙げたところで、相馬はようやく察した。
「ああ」
苦笑した。
「とうとう俺のところまで来たんですか」
「ご存じでしたか」
「朝倉から聞きました。『昔の映画を調べてる変な記者がいる』って」
「変な記者」
「朝倉の言い方です。俺に怒らないでください」
女性は笑った。
「雨宮湊監督の高校時代について取材しています」
「だと思いました」
「相馬先生は、当時の映画研究部の部長だったそうですね」
「二年の途中から、三年の夏までです」
「雨宮監督たちより一学年上」
「そうです」
相馬は少し考えた。
「でも、俺の話はたぶん、あの四人ほど面白くないですよ」
「どうしてですか」
「俺、何者にもなってないので」
言ってから、自分で笑った。
「いや、教師を何者でもないって言ったら、生徒に怒られますね」
記者は笑わなかった。
代わりに、持っていた資料を開いた。
「雨宮監督の高校時代の作品を調べていて、不思議に思ったことがあります」
「何ですか」
「ほとんど全ての作品に、相馬先生の名前があるんです」
相馬は少し目を細めた。
「ありますね」
「監督でも脚本でもない。出演しているわけでもない。それなのに、制作、進行、助監督、ロケーション管理。作品によって肩書きは違いますが、必ずと言っていいほど」
「部員が少なかったんですよ。何でもやらないと回らなかっただけです」
「白石さんも、神崎さんも、朝倉さんも、相馬先生の名前を出しました」
「どういうふうに?」
「雨宮監督が暴走した時に止める人だった、と」
相馬は即座に頷いた。
「それなら納得です」
「そんなに大変だったんですか」
「大変でしたよ」
相馬は笑った。
「映画のことしか見えなくなる奴だったので」
*
相馬翔太が映画研究部へ入った理由は、映画監督になりたかったからではない。
高校へ入学して間もない頃、同じ中学校だった友人から、
「部員が足りないから、名前だけ貸して」
と頼まれた。
ただそれだけだった。
映画は嫌いではなかった。
テレビで放送されていれば見るし、気に入った作品は何度か見返した。ただし監督の名前を覚えるほど詳しいわけでもなく、カメラの仕組みに興味があったわけでもない。
名前だけ貸すつもりが、一年生の文化祭では短い映画へ出演していた。
役は、主人公の友人。
台詞は一つだけ。
『もう時間だぞ』
完成した映画を見て、あまりの下手さに自分で驚いた。
それから相馬は、できるだけカメラの後ろへ回るようになった。
二年生になった春。
一年生が数人入部した。
その中に、雨宮湊がいた。
*
「先輩、土曜日、駅前で撮りたいんですけど」
入部して一週間も経っていなかった。
「何時?」
「朝六時くらいです」
「何人?」
「役者三人と、撮影二人。あと俺です」
「駅前で?」
「はい」
「許可は?」
雨宮が黙った。
「……何のですか」
相馬は嫌な予感がした。
「道路とか、駅の敷地とか。勝手に三脚立てていいのか?」
「でも高校生の自主映画ですよ」
「高校生なら何してもいい法律でもあるのか?」
雨宮は本気で分かっていない顔をした。
「じゃあ、どこに聞けばいいんですか」
「知らん」
「先輩も知らないんですか」
「俺は映画会社じゃない」
結局、相馬が顧問へ相談した。
顧問も詳しくない。
学校から駅へ問い合わせ、撮影できる場所と時間帯を確認した。予定していた構図では撮れないことが分かり、雨宮は露骨に落ち込んだ。
「ここから撮りたかったのに」
「仕方ないだろ」
「少し向こうなら?」
「そこは別の敷地だから、また確認が要るんじゃないか」
雨宮はカメラを抱えたまま、深く息を吐いた。
「映画って、面倒ですね」
「お前、映画撮りたくて入ったんじゃないのか」
「撮るのが面倒なんじゃなくて、撮る前が面倒なんです」
「そこも含めて映画なんじゃないの」
相馬は何気なく言った。
雨宮は少し考えた。
「先輩、こういうの得意ですね」
「何が」
「知らないところに電話したり、先生に聞いたりするの」
「得意じゃない。必要だからやってるだけ」
その時の相馬は、それを能力だとは考えもしなかった。
*
雨宮は、映画に関しては異様なほど行動が早かった。
撮りたいと思えば撮ろうとする。脚本に違和感があれば、その日のうちに直す。人が足りなければ探し、機材がなければ代わりになるものを考える。
その一方で、撮影以外のことは驚くほど抜けていた。
より良い光を見つければ予定を変えたがり、役者の芝居が乗ってくれば終了時間を忘れる。撮影場所の使用時間や昼食の手配、帰りの電車などは、誰かが言わなければ頭から消えた。
ある夜、十一時過ぎに連絡が来た。
『明日、集合六時に変えたいです』
相馬は電話をかけた。
「駄目」
『何でですか』
「今何時だと思ってる」
『十一時十二分です』
「分かってるなら、前日の夜中に集合時間を三時間早めるな」
『でも明日の朝、天気予報見たら――』
「朝の光が綺麗なんだろ」
『そうです』
「それで全員の家族まで朝四時台に起こすのか」
雨宮が黙った。
「どうしてもその光が必要なら、別日に組み直せ」
『……分かりました』
翌日、雨宮は少し不満そうだった。
撮影が始まると忘れた。
そういう人間だった。
*
白石紗月の『一台遅いバス』。
相馬は制作進行を担当した。
教室の使用許可や機材の申請、バス会社との調整。白石や他の出演者の予定も確認した。
雨宮と朝倉が脚本について話し込んでいる間、相馬は撮影表へ鉛筆で時間を書き込んでいた。
撮影が進んだある日。
白石がモニターを見た後、急に口数を減らした。
雨宮は映像を見ていた。
相馬は少し離れた場所から、白石の手元を見た。
指が強く握られている。
「白石」
声をかける。
白石が顔を上げた。
「少し休む?」
その言葉で、雨宮もようやく彼女の様子に気づいた。
その先のことには、相馬は入らなかった。
白石が雨宮に何を話したのかも、後から詳しくは聞かなかった。
ただ他の部員を別の場所へ移し、水を置き、次の撮影を一旦止めた。
それが自分のすることだと思った。
帰り際、雨宮が言った。
「先輩、俺、気づきませんでした」
「何に」
「白石があんなに嫌がってるの」
相馬は少し考えた。
「お前、モニター見てたからな」
「でも監督なら、画面だけ見てちゃ駄目ですよね」
「次から気をつければいい」
「簡単に言いますね」
「過ぎたことを巻き戻せるなら、映画より便利だな」
雨宮が少しだけ笑った。
相馬は続けた。
「撮影してる時って、カメラの中ばかり見るだろ。でも、人間はカメラの外にもいるからな」
雨宮はその言葉を、しばらく黙って聞いていた。
*
神崎蓮の撮影でも、似たことがあった。
雨宮は欲しい映像が撮れず、予定より何本も多く神崎を走らせていた。
神崎自身は「まだいける」と言った。
雨宮も続けようとした。
相馬が止めた。
「今日は終わり」
二人から不満そうな顔をされた。
「明日、神崎は部活だろ。映画で走れることと、明日の練習に影響が出ないことは別だ」
帰り道。
雨宮が横を歩きながら言った。
「俺、撮れてないと焦るんですよ」
「知ってる」
「今日の光、次に同じになるか分からないし、場所もいつ使えるか分からない。だから撮れる時に撮り切りたくなる」
「それは分かるよ」
「分かるんですか」
「俺だって映画部なんだから」
相馬は笑った。
「でも、映画を一日で完成させるために人間を壊したら、意味ないだろ」
雨宮は黙った。
翌日、自分で新しい撮影表を作ってきた。
神崎の練習予定も書き込んであった。
時間配分はかなりおかしかった。
相馬は赤ペンを持った。
「ここ、移動時間ゼロになってるぞ」
「走れば」
「役者全員を走らせるな」
*
夏が終わる頃、相馬は映画研究部の部長になった。
前の部長が受験のため退部した。
顧問が相馬を指名した理由は、
「一番まともだから」
だった。
褒められている気はしなかった。
部長になっても、自分の作品を撮ることはなかった。
雨宮が監督する。
朝倉が脚本に口を出す。
カメラが好きな部員が撮影する。
録音が得意な部員もいる。
相馬がしていることは、作品の外側にあることばかりだった。
「土曜の教室、使える」
「神崎は午前中が練習だから、集合一時以降」
「白石は夕方から予定がある。四時には終わらせる」
「この場所は先生の許可が要る」
そんなことばかり言っていた。
秋、部誌のために「自分の得意分野」を書くことになった。
雨宮。
『監督・脚本』
朝倉。
『脚本・編集』
撮影担当。
『カメラ』
音響担当。
『録音』
相馬はペンを持ったまま止まった。
「俺、何て書けばいい?」
朝倉が原稿から顔を上げた。
「雑用」
「お前、もう少し言い方ないの?」
「制作?」
「制作って何するんだ」
「相馬先輩がやってること全部」
雨宮も顔を上げる。
「プロデューサーじゃないですか」
「高校の映画部にプロデューサーなんかいるのか」
「じゃあ制作部長」
「部長はもう部長なんだよ」
朝倉が笑った。
「じゃあ『いないと困る人』」
「それ、役職じゃないだろ」
「でも一番合ってます」
相馬は笑いながら、結局、
『制作・進行』
と書いた。
*
冬。
相馬は退部を考えた。
受験まで一年を切る。
映画関係の仕事へ進むつもりもない。
雨宮のように、次々と撮りたい画が浮かぶわけではない。
朝倉のように、物語を書きたいわけでもない。
自分は映画そのものを作ってはいない。
それなら、早めに後輩へ役割を渡した方がいい。
そう考えた。
部室で退部届を書いた。
『受験準備のため』
嘘ではない。
書き終えた時、雨宮が入ってきた。
「先輩、土曜の撮影なんですけど――」
机の上の紙に気づいた。
「何ですか、それ」
「退部届」
雨宮はしばらく動かなかった。
「辞めるんですか」
「受験あるからな」
「まだ二年ですよ」
「二年だから今のうちに引き継ぐんだよ。三年になって突然抜けるよりいいだろ」
「誰に?」
「お前か朝倉」
「無理です」
即答だった。
「少しは考えろ」
「俺、部長できませんよ」
「やってみればいい」
「日程表作れないし、先生と話すのも苦手だし、部費の計算も嫌です」
「お前は何ならできるんだ」
「映画撮れます」
相馬は思わず笑った。
「知ってるよ」
雨宮は笑わなかった。
「先輩、自分が映画作ってないと思ってます?」
「少なくとも監督もしてない。脚本も書いてない」
「だから?」
「だからって……」
雨宮は少し考え込んだ。
普段なら勢いのまま話すのに、その時は珍しく言葉を探していた。
「俺、高校入るまで、映画って監督が撮るものだと思ってました」
「まあ、普通そう思うだろ」
「カメラがあって、役者がいて、脚本があれば、あとは監督が決めれば映画になるって。でも全然違った」
相馬は黙って聞いた。
「場所を借りないと撮れない。みんなの予定が合わないと撮れない。朝から撮るなら家族にも説明がいる。誰かが無理してたら止めないといけない。金も必要だし、帰る時間もある」
雨宮は退部届を見た。
「俺、その辺、ほとんどできないです」
「自慢するな」
「自慢じゃないです」
少し笑った。
「だから先輩がやってくれてる」
「誰かがやればいい仕事だよ」
「でも、その『誰か』がいないと映画撮れないでしょう」
相馬は雨宮を見る。
「俺がカメラを回してる時、先輩が、そのカメラを回せる状況を作ってるんです」
雨宮の声は静かだった。
「それも映画を作ってるってことじゃないんですか」
相馬はしばらく答えなかった。
机の上の退部届へ目を落とす。
「……お前、たまにいいこと言うな」
「たまにって何ですか」
「普段余計なこと言うから」
「真面目に話してるのに」
「分かってるよ」
相馬は退部届を折った。
破りはしなかった。
鞄の中へしまった。
「受験勉強はちゃんとするからな」
「してください」
「お前もな」
「俺も?」
「当然だろ」
雨宮は心底嫌そうな顔をした。
*
相馬が教師という仕事を初めて意識したのは、その少し後だった。
春。
新しく入った一年生の中に、遠藤という男子生徒がいた。
大人しく、人前に出るのが苦手だった。
カメラを触りたいと言った。
ただ、誰かに見られていると何度も操作を間違えた。
「ごめんなさい」
失敗するたびに謝る。
「謝ることじゃないよ」
相馬が言っても、
「俺のせいで時間なくなるから」
と俯いた。
ある日の撮影。
遠藤は録画ボタンを押し忘れた。
役者は長い場面を最後まで演じた。
雨宮が満足そうに、
「カット。今のよかった」
と言った。
遠藤の顔から血の気が引いた。
「……撮れてない」
全員が止まった。
雨宮がモニターを見る。
記録されていない。
「ごめんなさい」
遠藤の呼吸が速くなった。
「ごめんなさい、俺――」
雨宮が近づこうとした。
相馬が手で止めた。
「雨宮、ちょっと向こう行ってろ」
「でも」
「いいから」
遠藤を廊下へ連れ出した。
窓を少し開ける。
「座る?」
遠藤は首を振った。
「俺、向いてないです」
「何が」
「映画部。もう何回も失敗してるし」
「今日の失敗は大きかったな」
遠藤の顔がさらに曇った。
相馬は続けた。
「でも、それと辞めるかどうかは別の話だろ」
「迷惑かけるから」
「迷惑かけたら辞めるなら、雨宮なんか入部一週間で辞めてるよ」
遠藤が顔を上げた。
「雨宮先輩も失敗するんですか」
「お前、あいつを何だと思ってるんだ」
相馬は笑った。
「毎週何かやってるよ」
遠藤の口元が少しだけ緩んだ。
「今日は帰ってもいい。戻って撮り直してもいい。部活を辞めるかどうかは今日決めなくていい」
「でも皆待ってます」
「待たせればいい」
「怒られないですか」
「その時は俺が怒られる」
遠藤はしばらく黙っていた。
十分後。
自分から部室へ戻った。
「もう一回やります」
雨宮はすぐに何か言いかけた。
相馬が睨む。
雨宮は口を閉じた。
「分かった」
それだけ言った。
遠藤はカメラの前に立ち、録画ランプを三回確認した。
*
撮影の後。
雨宮が尋ねた。
「先輩、さっき何話したんですか」
「別に」
「遠藤、戻ってきたから」
「俺が戻したんじゃない。本人が戻るって決めたんだよ」
「でも俺が話してたら、もっと焦らせてたと思う」
「お前、すぐ答えを求めるからな」
「答え?」
「『大丈夫?』『続けられる?』『もう一回できる?』って。心配なのは分かるけど、答えられない時に聞かれると、それもしんどいんだよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らない」
「先輩も?」
「当たり前だろ」
相馬はケーブルをまとめながら言った。
「分からないから、急がせないだけ」
雨宮はしばらく考えていた。
「先輩」
「何」
「先生向いてそうですね」
相馬の手が止まった。
「何で急にそうなる」
「人が困ってる時、待てるから」
「教師が待つだけの仕事だと思うなよ」
「そういう意味じゃないです」
雨宮は笑った。
「何となく、向いてそうだなと思っただけです」
「お前に進路決められたくない」
「決めてませんよ」
その話は、そこで終わった。
相馬の中では、なぜか終わらなかった。
*
教師について調べた。
最初は本当に、ただの興味だった。
大学。
教員免許。
教育実習。
生徒指導。
保護者対応。
部活動。
調べれば調べるほど大変そうだった。
それでも、嫌ではなかった。
映画研究部で、自分は何かを生み出す人間ではないと思っていた。
けれど、誰かが何かをできる状況を作ることは、案外好きだった。
それが学校でも同じなのかは、まだ分からなかった。
*
三年生の夏。
相馬は部長を引退した。
最後の撮影の日には、昔からの部員がほとんど集まった。
白石はすでに芸能活動を始めている。
神崎は大きな大会を控えていた。
水野は医学部を目指している。
朝倉と雨宮は相変わらず脚本について言い争っていた。
遠藤は、いつの間にか一人でカメラを扱えるようになっていた。
相馬は少し離れたところから、皆を見ていた。
「相馬先輩」
白石が隣へ来た。
「お疲れさまでした」
「まだ卒業じゃないけどな」
「でも部活は最後でしょう」
「まあな」
「寂しいですか」
相馬は少し考えた。
「結構」
「意外です」
「俺だって寂しいくらいあるよ」
神崎が寄ってきた。
「先輩いなくなったら、雨宮止める人いなくないですか」
「朝倉がいる」
「私に全部押しつけないでください」
少し離れた場所から朝倉が言った。
「聞こえてたのかよ」
「聞こえるように言ったでしょう」
笑い声が起きた。
雨宮だけがいなかった。
「雨宮は?」
相馬が尋ねる。
誰も知らない。
十分後。
雨宮が走ってきた。
「すみません!」
「最後の日まで遅刻かよ」
「違います。これ取りに行ってました」
小さな箱を差し出した。
中にはUSBメモリ。
「何だこれ」
「今までの映画、全部入ってます」
「学校にもあるだろ」
「先輩用です」
相馬は雨宮を見る。
「俺、監督してないぞ」
「知ってます」
「主演もしてない」
「知ってます」
「じゃあ何で」
雨宮は少し笑った。
「全部に先輩いるからです」
*
その夜。
相馬は一人でUSBを開いた。
『一台遅いバス』
『夏の終点』
『白い部屋の外で』
『雨の向こう側』
短い作品まで含めれば、かなりの数がある。
エンドクレジット。
制作 相馬翔太。
進行 相馬翔太。
助監督 相馬翔太。
ロケーション管理 相馬翔太。
確かに、自分の名前はほとんど全部にあった。
画面にはほとんど映っていない。
それでも、名前は残っている。
相馬は深夜まで映画を見た。
*
大学へ進学した。
国文学を学び、教員免許を取った。
教育実習。
初めて教壇に立った日、三十数人の生徒が自分を見ていた。
用意した授業は、思ったようにはいかなかった。
説明に時間を使いすぎた。
生徒の反応を見ず、予定したところまで進めようとした。
質問され、うまく答えられなかった。
授業後。
指導担当の教師が赤字だらけの指導案を返した。
「相馬君、君は説明しすぎるね」
「はい」
「自分が教えたことと、生徒が分かったことは別だよ。君が話して満足してはいけない」
相馬は紙を見た。
赤字が多い。
どこかで見たような光景だった。
雨宮の撮影表を、自分が赤ペンで直していた。
朝倉が雨宮の脚本へ大量に書き込んでいた。
少し笑った。
「何がおかしい?」
「いえ。昔を思い出しました」
「なら、その昔の経験を次に使いなさい」
相馬は頷いた。
*
教師になれば、人を見るのが上手くなると思っていたわけではない。
それでも相馬は、自分は比較的、人の様子に気づける方だと思っていた。
その自信を、教師三年目に一度、完全に失った。
*
その年、相馬は一年生の担任だった。
クラスに、加藤という男子生徒がいた。
成績は悪くない。
特に数学が得意だった。
教師たちからも、理系へ進むと思われていた。
ところが二学期の進路希望調査。
加藤は「就職」と書いた。
相馬は驚いた。
「大学は考えてないのか」
「はい」
「成績的には十分狙えるぞ」
「でも、就職します」
「何かやりたい仕事がある?」
「別に」
「だったら、今すぐ就職に決めなくてもいいんじゃないか。大学へ行けば選択肢も増える」
加藤は黙っていた。
相馬は、自分が彼のために話しているつもりだった。
「奨学金もあるし、国公立なら学費も――」
「先生」
加藤が遮った。
「もういいです」
「でも」
「先生、何も分かってないじゃないですか」
相馬は言葉を失った。
加藤は立ち上がり、面談室を出た。
*
後から知った。
父親が長く病気をしていた。
母親はパートを掛け持ちしている。
加藤は中学生の頃から、卒業したら働くつもりでいた。
奨学金という制度を知らなかったわけではない。
借金を背負うこと自体が怖かった。
何より、
「大学へ行きたい」
と言えば、両親が無理をすると思っていた。
相馬は、自分が何も聞かずに「大学へ行ける生徒」として彼を見ていたことに気づいた。
成績を見た。
模試を見た。
本人を見たつもりになっていた。
*
翌日。
相馬は加藤へ謝った。
「昨日は悪かった」
加藤は驚いた顔をした。
「何がですか」
「お前が就職って書いた理由も聞かずに、大学の話ばかりした」
「……別に」
「別にじゃない。俺が勝手に決めつけた」
相馬はそこで言葉を切った。
「大学へ行けとは言わない。就職しろとも言わない。でも、本当に自分がどうしたいのかだけは、一緒に考えさせてくれないか」
加藤はしばらく黙っていた。
「俺、大学行きたいです」
相馬は何も言わず、その続きを待った。
「でも、家に金ないから」
そこで初めて、話が始まった。
*
結局、加藤は進学した。
奨学金や授業料減免制度を利用した。
それが正しい選択だったかどうか、相馬には分からない。
ただ、その出来事以降、相馬は進路面談で以前ほど簡単に「向いている」と言わなくなった。
雨宮が高校時代、
「先生向いてそうですね」
と言ったことを思い出すたび、少し笑った。
向いていることと、できることは違う。
向いていたとしても、学ばなくていいわけではない。
教師は、教師になってから教師になっていく。
少なくとも相馬は、そうだった。
*
三十歳を過ぎた頃。
別の生徒が、高校を辞めたいと言った。
クラスで問題があったわけでもない。
成績も悪くない。
ただ、毎朝学校へ来ることが苦しくなった。
理由を本人もうまく説明できなかった。
昔の相馬なら、
「あと少しだから頑張れ」
と言っていたかもしれない。
その時は、言わなかった。
本人と話した。
保護者とも話した。
スクールカウンセラーにも相談した。
最終的に、その生徒は通信制高校へ転校した。
相馬は止めなかった。
三年後。
一通の手紙が届いた。
『あの時、学校に残れと言われなかったのが嬉しかったです。でも、どこへ行ってもいいから勉強はやめるなって言われたので、大学に行きました。今は福祉を勉強しています。』
相馬はその手紙を、今でも机の引き出しにしまっている。
自分の判断が正しかったとは思っていない。
人生には、答え合わせのできないことが多すぎる。
ただ一つ。
誰かを正しい場所へ運ぶことなんて、教師にもできない。
本人が次の場所へ行こうとした時、選べる道を一緒に探す。
そのくらいなら、できるのかもしれない。
*
「相馬先生は、雨宮監督に教師という進路を見つけてもらったと思っていますか」
現在。
記者が尋ねた。
相馬は笑った。
「その質問、みんなにしてるでしょう」
「皆さん、否定されます」
「でしょうね」
窓の外では、校庭の照明が点き始めていた。
「雨宮に『先生向いてそう』って言われたことは覚えてます。でも、あいつに言われたから教師になったわけじゃない。そもそも、あいつ自身そんな大げさなつもりで言ってないですよ」
「では、雨宮監督との高校時代に何が残りましたか」
相馬は少し考えた。
「『画面に映らないだけ』って言われたことですかね」
「どういう意味でしょう」
「高校の頃、俺の周りには分かりやすい才能を持った奴が多かったんです。雨宮は映画を撮れる。朝倉は物語を書ける。神崎は走れる。白石は、人を惹きつけるものがあった。水野は頭がいい」
相馬は笑った。
「俺には何もないと思ってた」
「でも雨宮監督は違うと言った」
「そうですね。許可取ったり、予定を組んだり、誰かが困ってたら話を聞いたりするのも映画を作ることだって」
「今、教師として生徒を見る時にも影響していますか」
相馬は少し考えてから頷いた。
「たぶん」
成績がいい。
運動ができる。
絵が上手い。
人前で話せる。
そういう才能は分かりやすい。
けれど教室には、それ以外のものもある。
誰かが一人でいたら、何も言わず隣へ座る生徒。
文化祭のあと、誰も見ていなくても最後まで片づける生徒。
友人が発表に詰まった時、自然に助け舟を出せる生徒。
教室の空気がおかしくなった瞬間、最初に気づく生徒。
「そういうものって、成績表にはあまり書かれないんですよね」
「相馬先生自身が、そういう人だった?」
「どうでしょう」
相馬は少し照れたように笑った。
「昔からそんなに立派じゃないですよ。面倒なことには文句言ってましたし、教師になってからも何度も間違えてる」
「それでも、雨宮監督たちは皆さん、相馬先生のことをよく覚えていました」
「俺も覚えてますよ」
相馬は迷わず答えた。
「忘れるわけないでしょう。あいつら、本当に手がかかったから」
*
取材の終わり際。
記者が荷物を片づけながら尋ねた。
「高校時代の映画は、今も残っていますか」
「あります」
「雨宮監督からもらったものを?」
「USBの中身は、何回か別の媒体に移しました。壊れたら嫌なので」
「一番好きな作品は?」
相馬は少し迷った。
「映画じゃないものでもいいですか」
「もちろん」
「卒業式の日に、後輩たちが一本作ったんです」
*
卒業式の日。
映画研究部の後輩たちに呼ばれ、相馬は視聴覚室へ行った。
「何だよ」
「いいから座ってください」
雨宮が前に立っていた。
スクリーンが明るくなる。
上映されたのは、一本の物語ではなかった。
高校生活の間に撮りためた、映画制作の裏側だった。
白石が台詞を間違えて笑っている。
神崎が撮影の合間に地面へ寝転んでいる。
水野が脚本の医療描写へ赤字を入れている。
朝倉と雨宮が本気で言い争っている。
三浦が大きな鍋を運んでくる。
遠藤がカメラを構えている。
そして、その中に相馬自身もいた。
「何で俺がこんなに映ってるんだよ」
電話をしている。
撮影表を確認している。
雨宮を怒っている。
他の部員の荷物を持っている。
誰かと廊下で話している。
自分では撮られていることに気づいていない映像ばかりだった。
最後。
撮影が終わった後の部室。
皆が帰った後で、一人机を片づけている相馬の後ろ姿。
画面が暗くなる。
文字が出た。
『制作 相馬翔太』
相馬はしばらく何も言えなかった。
照明がつく。
「……お前ら」
雨宮を見る。
「勝手に撮っただろ」
「すみません」
「いつ撮ったんだよ」
「俺だけじゃないです。皆ちょっとずつ」
朝倉が横から言った。
「私はやめた方がいいって言ったんですけどね」
「嘘つけ。朝倉もかなり撮ってただろ」
「何でばらすの」
笑いが起きた。
相馬はスクリーンを見た。
「こんなの作品って言わないだろ」
「俺は好きです」
雨宮が言った。
「何が」
「先輩、いつも映画には映らないから」
相馬が顔を上げる。
「最後くらい、映っててもいいかなと思って」
返す言葉を探した。
結局、見つからなかった。
「……ありがとう」
それだけ言った。
朝倉がすぐに笑った。
「相馬先輩が素直にお礼言った」
「うるさい」
視聴覚室に笑い声が広がった。
*
記者が帰った後。
相馬は職員室の机へ戻った。
外はもう暗い。
机の上には、今日相談に来た女子生徒の進路希望票が置かれている。
第一志望。
空欄。
相馬は赤ペンを持った。
何も書かなかった。
代わりに、小さな付箋を貼る。
『次の面談でもう一度話そう。まだ決めなくて大丈夫。』
少し考え、その下に書き足した。
『ただし、考えるのをやめるのとは別だからな。』
翌朝。
生徒は付箋を見て、相馬のところへ来た。
「先生、一言多い」
「そこが大事なんだよ」
「昨日は急がなくていいって言ったじゃん」
「急がなくていい。でも、考えなくていいとは言ってない」
「面倒くさい」
「進路ってそういうもんだ」
生徒は文句を言いながら希望票を鞄へ入れた。
教室へ向かう。
廊下の途中で友人と会い、笑いながら駆けていく。
「廊下走るなよ」
「はーい」
返事だけは立派だった。
相馬はその背中を見送った。
やがて朝の校内放送が流れる。
教室へ向かう。
扉を開ける。
「おはよう」
三十六人の声が返ってきた。
そのどれも、映画の画面には残らない。
きっと今日も、劇的なことなど何も起こらない。
誰かが授業中に眠り、誰かが友人と喧嘩をし、誰かが進路に迷う。放課後には部活動があり、日が沈めば皆それぞれの家へ帰っていく。
それでも、その何でもない日の途中で、誰かがほんの少し立ち止まることがある。
その時に、自分がそこにいられればいい。
正しい答えを与えるためではない。
次へ進むまでの間、少しだけ一緒に考えるために。
映画のエンドクレジットなら、そこに名前が載ることはない。
相馬翔太は、今ではそれを寂しいとも思わなかった。
第五章 了