まだ無名だった僕らへ   作:コマ塩

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相馬翔太は、映画の主役になったことがない。

監督でも、脚本家でもない。

それでも雨宮湊たちが撮ったほとんどすべての映画に、彼の名前は残っている。

画面には映らない場所で、誰かを支え続けていたからだ。


第五章 相馬翔太

 

 

 相馬翔太の名前を知っている人間は、それほど多くない。

 

 少なくとも、白石紗月や神崎蓮、水野遥、朝倉凛のように、名前を聞けば顔や仕事まで思い浮かぶ人物ではなかった。

 

 県内の公立高校で国語を教えている。

 

 二年生の担任。文芸部の顧問。教員生活は十五年を越えた。

 

 全国的な教育賞を取ったこともなければ、教育番組に出演したこともない。新聞に名前が載ったのは、地域の高校生を集めた読書会を企画した時くらいで、その記事に写真はなかった。

 

 本人も、それで何の不満もなかった。

 

     *

 

 十一月の放課後。

 

 窓の外では、サッカー部の掛け声が響いていた。

 

 相馬は教卓で提出物を整理していた。

 

 教室にはもう一人、生徒が残っている。

 

 二年生の女子生徒だった。

 

 帰りのホームルームが終わってから二十分以上経つのに、鞄はまだ机の横に掛かったままだった。

 

 相馬は気づいていたが、すぐには声をかけなかった。

 

 プリントを束ねる。

 

 赤ペンを筆箱へ戻す。

 

 それでも生徒は立たない。

 

「先生」

 

 ようやく声がした。

 

「ん?」

 

「私、大学行くのやめようかな」

 

 相馬は手を止めた。

 

 けれど驚いた顔はしなかった。

 

「そうか」

 

 女子生徒は少し不満そうに眉を寄せた。

 

「それだけ?」

 

「理由を聞いてほしかった?」

 

「普通、聞くでしょ」

 

「聞くよ。ただ、最初に『やめるな』って言ったら、そのあと話しにくいだろ」

 

 相馬は教卓から離れた。

 

 彼女の前の席を後ろ向きにして座る。

 

「一つだけ先に聞いていい?」

 

「何」

 

「大学へ行きたくなくなったのか、それとも、行かない方がいいと思ってるのか。どっち?」

 

 女子生徒は答えなかった。

 

 窓の外を見る。

 

 しばらくして、小さな声で言った。

 

「分かんない」

 

「じゃあ、まだ決めなくていいな」

 

「でも三者面談、再来週だよ」

 

「三者面談は人生の締切じゃない」

 

 相馬は少し笑った。

 

「今日決めなくていいことを、今日無理に決める必要はない。まず何に困ってるのか、それから話そう」

 

 それから一時間ほど、生徒は途切れ途切れに話した。

 

 父親の勤務先のこと。

 

 家計のこと。

 

 弟が来年高校受験であること。

 

 私立大学に行けば金がかかること。

 

 奨学金を借りてまで進学していいのか分からないこと。

 

 そして、本当は大学へ行きたいこと。

 

 相馬は途中で結論を出さなかった。

 

 必要なことだけ質問した。

 

 生徒が帰る頃には、校庭の照明が点いていた。

 

 相馬が職員室へ戻ると、入口近くに一人の女性が立っていた。

 

「相馬先生でしょうか」

 

「はい」

 

 雑誌記者だという。

 

 名前を聞いただけでは、誰なのか分からなかった。

 

 けれど彼女が白石紗月、神崎蓮、水野遥、朝倉凛の名前を順に挙げたところで、相馬はようやく察した。

 

「ああ」

 

 苦笑した。

 

「とうとう俺のところまで来たんですか」

 

「ご存じでしたか」

 

「朝倉から聞きました。『昔の映画を調べてる変な記者がいる』って」

 

「変な記者」

 

「朝倉の言い方です。俺に怒らないでください」

 

 女性は笑った。

 

「雨宮湊監督の高校時代について取材しています」

 

「だと思いました」

 

「相馬先生は、当時の映画研究部の部長だったそうですね」

 

「二年の途中から、三年の夏までです」

 

「雨宮監督たちより一学年上」

 

「そうです」

 

 相馬は少し考えた。

 

「でも、俺の話はたぶん、あの四人ほど面白くないですよ」

 

「どうしてですか」

 

「俺、何者にもなってないので」

 

 言ってから、自分で笑った。

 

「いや、教師を何者でもないって言ったら、生徒に怒られますね」

 

 記者は笑わなかった。

 

 代わりに、持っていた資料を開いた。

 

「雨宮監督の高校時代の作品を調べていて、不思議に思ったことがあります」

 

「何ですか」

 

「ほとんど全ての作品に、相馬先生の名前があるんです」

 

 相馬は少し目を細めた。

 

「ありますね」

 

「監督でも脚本でもない。出演しているわけでもない。それなのに、制作、進行、助監督、ロケーション管理。作品によって肩書きは違いますが、必ずと言っていいほど」

 

「部員が少なかったんですよ。何でもやらないと回らなかっただけです」

 

「白石さんも、神崎さんも、朝倉さんも、相馬先生の名前を出しました」

 

「どういうふうに?」

 

「雨宮監督が暴走した時に止める人だった、と」

 

 相馬は即座に頷いた。

 

「それなら納得です」

 

「そんなに大変だったんですか」

 

「大変でしたよ」

 

 相馬は笑った。

 

「映画のことしか見えなくなる奴だったので」

 

     *

 

 相馬翔太が映画研究部へ入った理由は、映画監督になりたかったからではない。

 

 高校へ入学して間もない頃、同じ中学校だった友人から、

 

「部員が足りないから、名前だけ貸して」

 

 と頼まれた。

 

 ただそれだけだった。

 

 映画は嫌いではなかった。

 

 テレビで放送されていれば見るし、気に入った作品は何度か見返した。ただし監督の名前を覚えるほど詳しいわけでもなく、カメラの仕組みに興味があったわけでもない。

 

 名前だけ貸すつもりが、一年生の文化祭では短い映画へ出演していた。

 

 役は、主人公の友人。

 

 台詞は一つだけ。

 

『もう時間だぞ』

 

 完成した映画を見て、あまりの下手さに自分で驚いた。

 

 それから相馬は、できるだけカメラの後ろへ回るようになった。

 

 二年生になった春。

 

 一年生が数人入部した。

 

 その中に、雨宮湊がいた。

 

     *

 

「先輩、土曜日、駅前で撮りたいんですけど」

 

 入部して一週間も経っていなかった。

 

「何時?」

 

「朝六時くらいです」

 

「何人?」

 

「役者三人と、撮影二人。あと俺です」

 

「駅前で?」

 

「はい」

 

「許可は?」

 

 雨宮が黙った。

 

「……何のですか」

 

 相馬は嫌な予感がした。

 

「道路とか、駅の敷地とか。勝手に三脚立てていいのか?」

 

「でも高校生の自主映画ですよ」

 

「高校生なら何してもいい法律でもあるのか?」

 

 雨宮は本気で分かっていない顔をした。

 

「じゃあ、どこに聞けばいいんですか」

 

「知らん」

 

「先輩も知らないんですか」

 

「俺は映画会社じゃない」

 

 結局、相馬が顧問へ相談した。

 

 顧問も詳しくない。

 

 学校から駅へ問い合わせ、撮影できる場所と時間帯を確認した。予定していた構図では撮れないことが分かり、雨宮は露骨に落ち込んだ。

 

「ここから撮りたかったのに」

 

「仕方ないだろ」

 

「少し向こうなら?」

 

「そこは別の敷地だから、また確認が要るんじゃないか」

 

 雨宮はカメラを抱えたまま、深く息を吐いた。

 

「映画って、面倒ですね」

 

「お前、映画撮りたくて入ったんじゃないのか」

 

「撮るのが面倒なんじゃなくて、撮る前が面倒なんです」

 

「そこも含めて映画なんじゃないの」

 

 相馬は何気なく言った。

 

 雨宮は少し考えた。

 

「先輩、こういうの得意ですね」

 

「何が」

 

「知らないところに電話したり、先生に聞いたりするの」

 

「得意じゃない。必要だからやってるだけ」

 

 その時の相馬は、それを能力だとは考えもしなかった。

 

     *

 

 雨宮は、映画に関しては異様なほど行動が早かった。

 

 撮りたいと思えば撮ろうとする。脚本に違和感があれば、その日のうちに直す。人が足りなければ探し、機材がなければ代わりになるものを考える。

 

 その一方で、撮影以外のことは驚くほど抜けていた。

 

 より良い光を見つければ予定を変えたがり、役者の芝居が乗ってくれば終了時間を忘れる。撮影場所の使用時間や昼食の手配、帰りの電車などは、誰かが言わなければ頭から消えた。

 

 ある夜、十一時過ぎに連絡が来た。

 

『明日、集合六時に変えたいです』

 

 相馬は電話をかけた。

 

「駄目」

 

『何でですか』

 

「今何時だと思ってる」

 

『十一時十二分です』

 

「分かってるなら、前日の夜中に集合時間を三時間早めるな」

 

『でも明日の朝、天気予報見たら――』

 

「朝の光が綺麗なんだろ」

 

『そうです』

 

「それで全員の家族まで朝四時台に起こすのか」

 

 雨宮が黙った。

 

「どうしてもその光が必要なら、別日に組み直せ」

 

『……分かりました』

 

 翌日、雨宮は少し不満そうだった。

 

 撮影が始まると忘れた。

 

 そういう人間だった。

 

     *

 

 白石紗月の『一台遅いバス』。

 

 相馬は制作進行を担当した。

 

 教室の使用許可や機材の申請、バス会社との調整。白石や他の出演者の予定も確認した。

 

 雨宮と朝倉が脚本について話し込んでいる間、相馬は撮影表へ鉛筆で時間を書き込んでいた。

 

 撮影が進んだある日。

 

 白石がモニターを見た後、急に口数を減らした。

 

 雨宮は映像を見ていた。

 

 相馬は少し離れた場所から、白石の手元を見た。

 

 指が強く握られている。

 

「白石」

 

 声をかける。

 

 白石が顔を上げた。

 

「少し休む?」

 

 その言葉で、雨宮もようやく彼女の様子に気づいた。

 

 その先のことには、相馬は入らなかった。

 

 白石が雨宮に何を話したのかも、後から詳しくは聞かなかった。

 

 ただ他の部員を別の場所へ移し、水を置き、次の撮影を一旦止めた。

 

 それが自分のすることだと思った。

 

 帰り際、雨宮が言った。

 

「先輩、俺、気づきませんでした」

 

「何に」

 

「白石があんなに嫌がってるの」

 

 相馬は少し考えた。

 

「お前、モニター見てたからな」

 

「でも監督なら、画面だけ見てちゃ駄目ですよね」

 

「次から気をつければいい」

 

「簡単に言いますね」

 

「過ぎたことを巻き戻せるなら、映画より便利だな」

 

 雨宮が少しだけ笑った。

 

 相馬は続けた。

 

「撮影してる時って、カメラの中ばかり見るだろ。でも、人間はカメラの外にもいるからな」

 

 雨宮はその言葉を、しばらく黙って聞いていた。

 

     *

 

 神崎蓮の撮影でも、似たことがあった。

 

 雨宮は欲しい映像が撮れず、予定より何本も多く神崎を走らせていた。

 

 神崎自身は「まだいける」と言った。

 

 雨宮も続けようとした。

 

 相馬が止めた。

 

「今日は終わり」

 

 二人から不満そうな顔をされた。

 

「明日、神崎は部活だろ。映画で走れることと、明日の練習に影響が出ないことは別だ」

 

 帰り道。

 

 雨宮が横を歩きながら言った。

 

「俺、撮れてないと焦るんですよ」

 

「知ってる」

 

「今日の光、次に同じになるか分からないし、場所もいつ使えるか分からない。だから撮れる時に撮り切りたくなる」

 

「それは分かるよ」

 

「分かるんですか」

 

「俺だって映画部なんだから」

 

 相馬は笑った。

 

「でも、映画を一日で完成させるために人間を壊したら、意味ないだろ」

 

 雨宮は黙った。

 

 翌日、自分で新しい撮影表を作ってきた。

 

 神崎の練習予定も書き込んであった。

 

 時間配分はかなりおかしかった。

 

 相馬は赤ペンを持った。

 

「ここ、移動時間ゼロになってるぞ」

 

「走れば」

 

「役者全員を走らせるな」

 

     *

 

 夏が終わる頃、相馬は映画研究部の部長になった。

 

 前の部長が受験のため退部した。

 

 顧問が相馬を指名した理由は、

 

「一番まともだから」

 

 だった。

 

 褒められている気はしなかった。

 

 部長になっても、自分の作品を撮ることはなかった。

 

 雨宮が監督する。

 

 朝倉が脚本に口を出す。

 

 カメラが好きな部員が撮影する。

 

 録音が得意な部員もいる。

 

 相馬がしていることは、作品の外側にあることばかりだった。

 

「土曜の教室、使える」

 

「神崎は午前中が練習だから、集合一時以降」

 

「白石は夕方から予定がある。四時には終わらせる」

 

「この場所は先生の許可が要る」

 

 そんなことばかり言っていた。

 

 秋、部誌のために「自分の得意分野」を書くことになった。

 

 雨宮。

 

『監督・脚本』

 

 朝倉。

 

『脚本・編集』

 

 撮影担当。

 

『カメラ』

 

 音響担当。

 

『録音』

 

 相馬はペンを持ったまま止まった。

 

「俺、何て書けばいい?」

 

 朝倉が原稿から顔を上げた。

 

「雑用」

 

「お前、もう少し言い方ないの?」

 

「制作?」

 

「制作って何するんだ」

 

「相馬先輩がやってること全部」

 

 雨宮も顔を上げる。

 

「プロデューサーじゃないですか」

 

「高校の映画部にプロデューサーなんかいるのか」

 

「じゃあ制作部長」

 

「部長はもう部長なんだよ」

 

 朝倉が笑った。

 

「じゃあ『いないと困る人』」

 

「それ、役職じゃないだろ」

 

「でも一番合ってます」

 

 相馬は笑いながら、結局、

 

『制作・進行』

 

 と書いた。

 

     *

 

 冬。

 

 相馬は退部を考えた。

 

 受験まで一年を切る。

 

 映画関係の仕事へ進むつもりもない。

 

 雨宮のように、次々と撮りたい画が浮かぶわけではない。

 

 朝倉のように、物語を書きたいわけでもない。

 

 自分は映画そのものを作ってはいない。

 

 それなら、早めに後輩へ役割を渡した方がいい。

 

 そう考えた。

 

 部室で退部届を書いた。

 

『受験準備のため』

 

 嘘ではない。

 

 書き終えた時、雨宮が入ってきた。

 

「先輩、土曜の撮影なんですけど――」

 

 机の上の紙に気づいた。

 

「何ですか、それ」

 

「退部届」

 

 雨宮はしばらく動かなかった。

 

「辞めるんですか」

 

「受験あるからな」

 

「まだ二年ですよ」

 

「二年だから今のうちに引き継ぐんだよ。三年になって突然抜けるよりいいだろ」

 

「誰に?」

 

「お前か朝倉」

 

「無理です」

 

 即答だった。

 

「少しは考えろ」

 

「俺、部長できませんよ」

 

「やってみればいい」

 

「日程表作れないし、先生と話すのも苦手だし、部費の計算も嫌です」

 

「お前は何ならできるんだ」

 

「映画撮れます」

 

 相馬は思わず笑った。

 

「知ってるよ」

 

 雨宮は笑わなかった。

 

「先輩、自分が映画作ってないと思ってます?」

 

「少なくとも監督もしてない。脚本も書いてない」

 

「だから?」

 

「だからって……」

 

 雨宮は少し考え込んだ。

 

 普段なら勢いのまま話すのに、その時は珍しく言葉を探していた。

 

「俺、高校入るまで、映画って監督が撮るものだと思ってました」

 

「まあ、普通そう思うだろ」

 

「カメラがあって、役者がいて、脚本があれば、あとは監督が決めれば映画になるって。でも全然違った」

 

 相馬は黙って聞いた。

 

「場所を借りないと撮れない。みんなの予定が合わないと撮れない。朝から撮るなら家族にも説明がいる。誰かが無理してたら止めないといけない。金も必要だし、帰る時間もある」

 

 雨宮は退部届を見た。

 

「俺、その辺、ほとんどできないです」

 

「自慢するな」

 

「自慢じゃないです」

 

 少し笑った。

 

「だから先輩がやってくれてる」

 

「誰かがやればいい仕事だよ」

 

「でも、その『誰か』がいないと映画撮れないでしょう」

 

 相馬は雨宮を見る。

 

「俺がカメラを回してる時、先輩が、そのカメラを回せる状況を作ってるんです」

 

 雨宮の声は静かだった。

 

「それも映画を作ってるってことじゃないんですか」

 

 相馬はしばらく答えなかった。

 

 机の上の退部届へ目を落とす。

 

「……お前、たまにいいこと言うな」

 

「たまにって何ですか」

 

「普段余計なこと言うから」

 

「真面目に話してるのに」

 

「分かってるよ」

 

 相馬は退部届を折った。

 

 破りはしなかった。

 

 鞄の中へしまった。

 

「受験勉強はちゃんとするからな」

 

「してください」

 

「お前もな」

 

「俺も?」

 

「当然だろ」

 

 雨宮は心底嫌そうな顔をした。

 

     *

 

 相馬が教師という仕事を初めて意識したのは、その少し後だった。

 

 春。

 

 新しく入った一年生の中に、遠藤という男子生徒がいた。

 

 大人しく、人前に出るのが苦手だった。

 

 カメラを触りたいと言った。

 

 ただ、誰かに見られていると何度も操作を間違えた。

 

「ごめんなさい」

 

 失敗するたびに謝る。

 

「謝ることじゃないよ」

 

 相馬が言っても、

 

「俺のせいで時間なくなるから」

 

 と俯いた。

 

 ある日の撮影。

 

 遠藤は録画ボタンを押し忘れた。

 

 役者は長い場面を最後まで演じた。

 

 雨宮が満足そうに、

 

「カット。今のよかった」

 

 と言った。

 

 遠藤の顔から血の気が引いた。

 

「……撮れてない」

 

 全員が止まった。

 

 雨宮がモニターを見る。

 

 記録されていない。

 

「ごめんなさい」

 

 遠藤の呼吸が速くなった。

 

「ごめんなさい、俺――」

 

 雨宮が近づこうとした。

 

 相馬が手で止めた。

 

「雨宮、ちょっと向こう行ってろ」

 

「でも」

 

「いいから」

 

 遠藤を廊下へ連れ出した。

 

 窓を少し開ける。

 

「座る?」

 

 遠藤は首を振った。

 

「俺、向いてないです」

 

「何が」

 

「映画部。もう何回も失敗してるし」

 

「今日の失敗は大きかったな」

 

 遠藤の顔がさらに曇った。

 

 相馬は続けた。

 

「でも、それと辞めるかどうかは別の話だろ」

 

「迷惑かけるから」

 

「迷惑かけたら辞めるなら、雨宮なんか入部一週間で辞めてるよ」

 

 遠藤が顔を上げた。

 

「雨宮先輩も失敗するんですか」

 

「お前、あいつを何だと思ってるんだ」

 

 相馬は笑った。

 

「毎週何かやってるよ」

 

 遠藤の口元が少しだけ緩んだ。

 

「今日は帰ってもいい。戻って撮り直してもいい。部活を辞めるかどうかは今日決めなくていい」

 

「でも皆待ってます」

 

「待たせればいい」

 

「怒られないですか」

 

「その時は俺が怒られる」

 

 遠藤はしばらく黙っていた。

 

 十分後。

 

 自分から部室へ戻った。

 

「もう一回やります」

 

 雨宮はすぐに何か言いかけた。

 

 相馬が睨む。

 

 雨宮は口を閉じた。

 

「分かった」

 

 それだけ言った。

 

 遠藤はカメラの前に立ち、録画ランプを三回確認した。

 

     *

 

 撮影の後。

 

 雨宮が尋ねた。

 

「先輩、さっき何話したんですか」

 

「別に」

 

「遠藤、戻ってきたから」

 

「俺が戻したんじゃない。本人が戻るって決めたんだよ」

 

「でも俺が話してたら、もっと焦らせてたと思う」

 

「お前、すぐ答えを求めるからな」

 

「答え?」

 

「『大丈夫?』『続けられる?』『もう一回できる?』って。心配なのは分かるけど、答えられない時に聞かれると、それもしんどいんだよ」

 

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 

「知らない」

 

「先輩も?」

 

「当たり前だろ」

 

 相馬はケーブルをまとめながら言った。

 

「分からないから、急がせないだけ」

 

 雨宮はしばらく考えていた。

 

「先輩」

 

「何」

 

「先生向いてそうですね」

 

 相馬の手が止まった。

 

「何で急にそうなる」

 

「人が困ってる時、待てるから」

 

「教師が待つだけの仕事だと思うなよ」

 

「そういう意味じゃないです」

 

 雨宮は笑った。

 

「何となく、向いてそうだなと思っただけです」

 

「お前に進路決められたくない」

 

「決めてませんよ」

 

 その話は、そこで終わった。

 

 相馬の中では、なぜか終わらなかった。

 

     *

 

 教師について調べた。

 

 最初は本当に、ただの興味だった。

 

 大学。

 

 教員免許。

 

 教育実習。

 

 生徒指導。

 

 保護者対応。

 

 部活動。

 

 調べれば調べるほど大変そうだった。

 

 それでも、嫌ではなかった。

 

 映画研究部で、自分は何かを生み出す人間ではないと思っていた。

 

 けれど、誰かが何かをできる状況を作ることは、案外好きだった。

 

 それが学校でも同じなのかは、まだ分からなかった。

 

     *

 

 三年生の夏。

 

 相馬は部長を引退した。

 

 最後の撮影の日には、昔からの部員がほとんど集まった。

 

 白石はすでに芸能活動を始めている。

 

 神崎は大きな大会を控えていた。

 

 水野は医学部を目指している。

 

 朝倉と雨宮は相変わらず脚本について言い争っていた。

 

 遠藤は、いつの間にか一人でカメラを扱えるようになっていた。

 

 相馬は少し離れたところから、皆を見ていた。

 

「相馬先輩」

 

 白石が隣へ来た。

 

「お疲れさまでした」

 

「まだ卒業じゃないけどな」

 

「でも部活は最後でしょう」

 

「まあな」

 

「寂しいですか」

 

 相馬は少し考えた。

 

「結構」

 

「意外です」

 

「俺だって寂しいくらいあるよ」

 

 神崎が寄ってきた。

 

「先輩いなくなったら、雨宮止める人いなくないですか」

 

「朝倉がいる」

 

「私に全部押しつけないでください」

 

 少し離れた場所から朝倉が言った。

 

「聞こえてたのかよ」

 

「聞こえるように言ったでしょう」

 

 笑い声が起きた。

 

 雨宮だけがいなかった。

 

「雨宮は?」

 

 相馬が尋ねる。

 

 誰も知らない。

 

 十分後。

 

 雨宮が走ってきた。

 

「すみません!」

 

「最後の日まで遅刻かよ」

 

「違います。これ取りに行ってました」

 

 小さな箱を差し出した。

 

 中にはUSBメモリ。

 

「何だこれ」

 

「今までの映画、全部入ってます」

 

「学校にもあるだろ」

 

「先輩用です」

 

 相馬は雨宮を見る。

 

「俺、監督してないぞ」

 

「知ってます」

 

「主演もしてない」

 

「知ってます」

 

「じゃあ何で」

 

 雨宮は少し笑った。

 

「全部に先輩いるからです」

 

     *

 

 その夜。

 

 相馬は一人でUSBを開いた。

 

『一台遅いバス』

 

『夏の終点』

 

『白い部屋の外で』

 

『雨の向こう側』

 

 短い作品まで含めれば、かなりの数がある。

 

 エンドクレジット。

 

 制作 相馬翔太。

 

 進行 相馬翔太。

 

 助監督 相馬翔太。

 

 ロケーション管理 相馬翔太。

 

 確かに、自分の名前はほとんど全部にあった。

 

 画面にはほとんど映っていない。

 

 それでも、名前は残っている。

 

 相馬は深夜まで映画を見た。

 

     *

 

 大学へ進学した。

 

 国文学を学び、教員免許を取った。

 

 教育実習。

 

 初めて教壇に立った日、三十数人の生徒が自分を見ていた。

 

 用意した授業は、思ったようにはいかなかった。

 

 説明に時間を使いすぎた。

 

 生徒の反応を見ず、予定したところまで進めようとした。

 

 質問され、うまく答えられなかった。

 

 授業後。

 

 指導担当の教師が赤字だらけの指導案を返した。

 

「相馬君、君は説明しすぎるね」

 

「はい」

 

「自分が教えたことと、生徒が分かったことは別だよ。君が話して満足してはいけない」

 

 相馬は紙を見た。

 

 赤字が多い。

 

 どこかで見たような光景だった。

 

 雨宮の撮影表を、自分が赤ペンで直していた。

 

 朝倉が雨宮の脚本へ大量に書き込んでいた。

 

 少し笑った。

 

「何がおかしい?」

 

「いえ。昔を思い出しました」

 

「なら、その昔の経験を次に使いなさい」

 

 相馬は頷いた。

 

     *

 

 教師になれば、人を見るのが上手くなると思っていたわけではない。

 

 それでも相馬は、自分は比較的、人の様子に気づける方だと思っていた。

 

 その自信を、教師三年目に一度、完全に失った。

 

     *

 

 その年、相馬は一年生の担任だった。

 

 クラスに、加藤という男子生徒がいた。

 

 成績は悪くない。

 

 特に数学が得意だった。

 

 教師たちからも、理系へ進むと思われていた。

 

 ところが二学期の進路希望調査。

 

 加藤は「就職」と書いた。

 

 相馬は驚いた。

 

「大学は考えてないのか」

 

「はい」

 

「成績的には十分狙えるぞ」

 

「でも、就職します」

 

「何かやりたい仕事がある?」

 

「別に」

 

「だったら、今すぐ就職に決めなくてもいいんじゃないか。大学へ行けば選択肢も増える」

 

 加藤は黙っていた。

 

 相馬は、自分が彼のために話しているつもりだった。

 

「奨学金もあるし、国公立なら学費も――」

 

「先生」

 

 加藤が遮った。

 

「もういいです」

 

「でも」

 

「先生、何も分かってないじゃないですか」

 

 相馬は言葉を失った。

 

 加藤は立ち上がり、面談室を出た。

 

     *

 

 後から知った。

 

 父親が長く病気をしていた。

 

 母親はパートを掛け持ちしている。

 

 加藤は中学生の頃から、卒業したら働くつもりでいた。

 

 奨学金という制度を知らなかったわけではない。

 

 借金を背負うこと自体が怖かった。

 

 何より、

 

「大学へ行きたい」

 

 と言えば、両親が無理をすると思っていた。

 

 相馬は、自分が何も聞かずに「大学へ行ける生徒」として彼を見ていたことに気づいた。

 

 成績を見た。

 

 模試を見た。

 

 本人を見たつもりになっていた。

 

     *

 

 翌日。

 

 相馬は加藤へ謝った。

 

「昨日は悪かった」

 

 加藤は驚いた顔をした。

 

「何がですか」

 

「お前が就職って書いた理由も聞かずに、大学の話ばかりした」

 

「……別に」

 

「別にじゃない。俺が勝手に決めつけた」

 

 相馬はそこで言葉を切った。

 

「大学へ行けとは言わない。就職しろとも言わない。でも、本当に自分がどうしたいのかだけは、一緒に考えさせてくれないか」

 

 加藤はしばらく黙っていた。

 

「俺、大学行きたいです」

 

 相馬は何も言わず、その続きを待った。

 

「でも、家に金ないから」

 

 そこで初めて、話が始まった。

 

     *

 

 結局、加藤は進学した。

 

 奨学金や授業料減免制度を利用した。

 

 それが正しい選択だったかどうか、相馬には分からない。

 

 ただ、その出来事以降、相馬は進路面談で以前ほど簡単に「向いている」と言わなくなった。

 

 雨宮が高校時代、

 

「先生向いてそうですね」

 

 と言ったことを思い出すたび、少し笑った。

 

 向いていることと、できることは違う。

 

 向いていたとしても、学ばなくていいわけではない。

 

 教師は、教師になってから教師になっていく。

 

 少なくとも相馬は、そうだった。

 

     *

 

 三十歳を過ぎた頃。

 

 別の生徒が、高校を辞めたいと言った。

 

 クラスで問題があったわけでもない。

 

 成績も悪くない。

 

 ただ、毎朝学校へ来ることが苦しくなった。

 

 理由を本人もうまく説明できなかった。

 

 昔の相馬なら、

 

「あと少しだから頑張れ」

 

 と言っていたかもしれない。

 

 その時は、言わなかった。

 

 本人と話した。

 

 保護者とも話した。

 

 スクールカウンセラーにも相談した。

 

 最終的に、その生徒は通信制高校へ転校した。

 

 相馬は止めなかった。

 

 三年後。

 

 一通の手紙が届いた。

 

『あの時、学校に残れと言われなかったのが嬉しかったです。でも、どこへ行ってもいいから勉強はやめるなって言われたので、大学に行きました。今は福祉を勉強しています。』

 

 相馬はその手紙を、今でも机の引き出しにしまっている。

 

 自分の判断が正しかったとは思っていない。

 

 人生には、答え合わせのできないことが多すぎる。

 

 ただ一つ。

 

 誰かを正しい場所へ運ぶことなんて、教師にもできない。

 

 本人が次の場所へ行こうとした時、選べる道を一緒に探す。

 

 そのくらいなら、できるのかもしれない。

 

     *

 

「相馬先生は、雨宮監督に教師という進路を見つけてもらったと思っていますか」

 

 現在。

 

 記者が尋ねた。

 

 相馬は笑った。

 

「その質問、みんなにしてるでしょう」

 

「皆さん、否定されます」

 

「でしょうね」

 

 窓の外では、校庭の照明が点き始めていた。

 

「雨宮に『先生向いてそう』って言われたことは覚えてます。でも、あいつに言われたから教師になったわけじゃない。そもそも、あいつ自身そんな大げさなつもりで言ってないですよ」

 

「では、雨宮監督との高校時代に何が残りましたか」

 

 相馬は少し考えた。

 

「『画面に映らないだけ』って言われたことですかね」

 

「どういう意味でしょう」

 

「高校の頃、俺の周りには分かりやすい才能を持った奴が多かったんです。雨宮は映画を撮れる。朝倉は物語を書ける。神崎は走れる。白石は、人を惹きつけるものがあった。水野は頭がいい」

 

 相馬は笑った。

 

「俺には何もないと思ってた」

 

「でも雨宮監督は違うと言った」

 

「そうですね。許可取ったり、予定を組んだり、誰かが困ってたら話を聞いたりするのも映画を作ることだって」

 

「今、教師として生徒を見る時にも影響していますか」

 

 相馬は少し考えてから頷いた。

 

「たぶん」

 

 成績がいい。

 

 運動ができる。

 

 絵が上手い。

 

 人前で話せる。

 

 そういう才能は分かりやすい。

 

 けれど教室には、それ以外のものもある。

 

 誰かが一人でいたら、何も言わず隣へ座る生徒。

 

 文化祭のあと、誰も見ていなくても最後まで片づける生徒。

 

 友人が発表に詰まった時、自然に助け舟を出せる生徒。

 

 教室の空気がおかしくなった瞬間、最初に気づく生徒。

 

「そういうものって、成績表にはあまり書かれないんですよね」

 

「相馬先生自身が、そういう人だった?」

 

「どうでしょう」

 

 相馬は少し照れたように笑った。

 

「昔からそんなに立派じゃないですよ。面倒なことには文句言ってましたし、教師になってからも何度も間違えてる」

 

「それでも、雨宮監督たちは皆さん、相馬先生のことをよく覚えていました」

 

「俺も覚えてますよ」

 

 相馬は迷わず答えた。

 

「忘れるわけないでしょう。あいつら、本当に手がかかったから」

 

     *

 

 取材の終わり際。

 

 記者が荷物を片づけながら尋ねた。

 

「高校時代の映画は、今も残っていますか」

 

「あります」

 

「雨宮監督からもらったものを?」

 

「USBの中身は、何回か別の媒体に移しました。壊れたら嫌なので」

 

「一番好きな作品は?」

 

 相馬は少し迷った。

 

「映画じゃないものでもいいですか」

 

「もちろん」

 

「卒業式の日に、後輩たちが一本作ったんです」

 

     *

 

 卒業式の日。

 

 映画研究部の後輩たちに呼ばれ、相馬は視聴覚室へ行った。

 

「何だよ」

 

「いいから座ってください」

 

 雨宮が前に立っていた。

 

 スクリーンが明るくなる。

 

 上映されたのは、一本の物語ではなかった。

 

 高校生活の間に撮りためた、映画制作の裏側だった。

 

 白石が台詞を間違えて笑っている。

 

 神崎が撮影の合間に地面へ寝転んでいる。

 

 水野が脚本の医療描写へ赤字を入れている。

 

 朝倉と雨宮が本気で言い争っている。

 

 三浦が大きな鍋を運んでくる。

 

 遠藤がカメラを構えている。

 

 そして、その中に相馬自身もいた。

 

「何で俺がこんなに映ってるんだよ」

 

 電話をしている。

 

 撮影表を確認している。

 

 雨宮を怒っている。

 

 他の部員の荷物を持っている。

 

 誰かと廊下で話している。

 

 自分では撮られていることに気づいていない映像ばかりだった。

 

 最後。

 

 撮影が終わった後の部室。

 

 皆が帰った後で、一人机を片づけている相馬の後ろ姿。

 

 画面が暗くなる。

 

 文字が出た。

 

『制作 相馬翔太』

 

 相馬はしばらく何も言えなかった。

 

 照明がつく。

 

「……お前ら」

 

 雨宮を見る。

 

「勝手に撮っただろ」

 

「すみません」

 

「いつ撮ったんだよ」

 

「俺だけじゃないです。皆ちょっとずつ」

 

 朝倉が横から言った。

 

「私はやめた方がいいって言ったんですけどね」

 

「嘘つけ。朝倉もかなり撮ってただろ」

 

「何でばらすの」

 

 笑いが起きた。

 

 相馬はスクリーンを見た。

 

「こんなの作品って言わないだろ」

 

「俺は好きです」

 

 雨宮が言った。

 

「何が」

 

「先輩、いつも映画には映らないから」

 

 相馬が顔を上げる。

 

「最後くらい、映っててもいいかなと思って」

 

 返す言葉を探した。

 

 結局、見つからなかった。

 

「……ありがとう」

 

 それだけ言った。

 

 朝倉がすぐに笑った。

 

「相馬先輩が素直にお礼言った」

 

「うるさい」

 

 視聴覚室に笑い声が広がった。

 

     *

 

 記者が帰った後。

 

 相馬は職員室の机へ戻った。

 

 外はもう暗い。

 

 机の上には、今日相談に来た女子生徒の進路希望票が置かれている。

 

 第一志望。

 

 空欄。

 

 相馬は赤ペンを持った。

 

 何も書かなかった。

 

 代わりに、小さな付箋を貼る。

 

『次の面談でもう一度話そう。まだ決めなくて大丈夫。』

 

 少し考え、その下に書き足した。

 

『ただし、考えるのをやめるのとは別だからな。』

 

 翌朝。

 

 生徒は付箋を見て、相馬のところへ来た。

 

「先生、一言多い」

 

「そこが大事なんだよ」

 

「昨日は急がなくていいって言ったじゃん」

 

「急がなくていい。でも、考えなくていいとは言ってない」

 

「面倒くさい」

 

「進路ってそういうもんだ」

 

 生徒は文句を言いながら希望票を鞄へ入れた。

 

 教室へ向かう。

 

 廊下の途中で友人と会い、笑いながら駆けていく。

 

「廊下走るなよ」

 

「はーい」

 

 返事だけは立派だった。

 

 相馬はその背中を見送った。

 

 やがて朝の校内放送が流れる。

 

 教室へ向かう。

 

 扉を開ける。

 

「おはよう」

 

 三十六人の声が返ってきた。

 

 そのどれも、映画の画面には残らない。

 

 きっと今日も、劇的なことなど何も起こらない。

 

 誰かが授業中に眠り、誰かが友人と喧嘩をし、誰かが進路に迷う。放課後には部活動があり、日が沈めば皆それぞれの家へ帰っていく。

 

 それでも、その何でもない日の途中で、誰かがほんの少し立ち止まることがある。

 

 その時に、自分がそこにいられればいい。

 

 正しい答えを与えるためではない。

 

 次へ進むまでの間、少しだけ一緒に考えるために。

 

 映画のエンドクレジットなら、そこに名前が載ることはない。

 

 相馬翔太は、今ではそれを寂しいとも思わなかった。

 

                第五章 了

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