放課後、世界を撮る   作:コマ塩

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三浦航にとって、料理は夢ではなかった。

家族のために、ただ毎日作っていただけだった。

けれどある夏、雨宮湊が何気なく言った。

「料理してる時、楽しそうだな」

その一言が、ずっと胸に残った。


第六章 三浦航

 

 

 三浦航の店には、決まったスペシャリテがない。

 

 雑誌の取材でそう答えると、たいてい驚かれた。

 

 十七席だけの小さなレストラン。予約は数か月先まで埋まり、遠方からわざわざ足を運ぶ客もいる。二十代半ばで独立してから十年近く、派手な宣伝をすることもなく、少しずつ評判を積み上げてきた。

 

 その年、国内でも権威のある料理賞で年間最優秀店に選ばれた。

 

 それでも三浦は、

 

「この店を代表する一皿は何ですか」

 

 と訊かれることを好まなかった。

 

 季節が変われば食材も変わる。同じ魚であっても、昨日と今日では状態が違う。何より、何を食べるかと同じくらい、誰と、いつ食べたかによって料理の記憶は変わる。

 

 だから、一皿だけを自分の料理の代表にはしたくなかった。

 

 ただし、店のスタッフだけは知っている。

 

 三浦が何か特別なことのあった日に、決まって作る料理がある。

 

 豚汁だった。

 

     *

 

 受賞の知らせが入った夜、若いスタッフたちは厨房で歓声を上げた。

 

 副料理長は目を赤くし、ホール責任者は三浦の肩を何度も叩いた。

 

「シェフ、やりましたね」

 

「ああ」

 

「もっと喜んでくださいよ」

 

「喜んでるよ」

 

「顔がいつもと同じです」

 

「じゃあ踊ればいいのか?」

 

「それは見たくないです」

 

 皆が笑った。

 

 その日の営業は、いつも通りだった。

 

 予約して来た客にとって、店が賞を取ったことと、目の前の皿がおいしいかどうかは別の話だった。三浦は厨房に立ち、魚の火入れを確認し、ソースを味見し、少しでも気になれば盛りつけをやり直した。

 

 最後の客を見送り、片づけが始まった頃、副料理長が尋ねた。

 

「シェフ、今日の賄いどうします?」

 

「豚汁」

 

「やっぱり」

 

「嫌なら別の作れ」

 

「誰も嫌なんて言ってないですよ」

 

 三浦は大きな鍋を火にかけた。

 

 大根、人参、牛蒡、蒟蒻、豚肉。店で使う高価な食材は一つもない。

 

 若い料理人が味見をして首を傾げた。

 

「シェフの豚汁って、店の料理と全然違いますよね」

 

「豚汁までフレンチにしたら家で怒られる」

 

「誰にですか」

 

 三浦は答えなかった。

 

 鍋から立つ湯気を見ていた。

 

 高校二年の夏。

 

 暑い旧校舎。

 

 映画研究部の部員たちが床に座り、紙の器から豚汁を食べていた。

 

 その中に、古いカメラを膝へ置いた雨宮湊がいた。

 

     *

 

 翌日。

 

 三浦は営業前の店で取材を受けた。

 

 受賞について一通り話した後、女性記者が少し意外な質問をした。

 

「三浦さんが料理人を目指すようになったのは、高校時代でしょうか」

 

 三浦は少し考えた。

 

「料理そのものは、もっと前からやってました」

 

「ご家庭で?」

 

「中学生くらいからです」

 

「では、料理人になろうと思ったのは?」

 

 三浦は椅子へ深く座り直した。

 

「そこは難しいですね。一つの出来事で決めたわけじゃないので」

 

「雨宮湊監督は関係していますか」

 

 三浦は思わず笑った。

 

「そこまで調べてるんですか」

 

「白石紗月さん、神崎蓮さん、水野遥さん、朝倉凛さん、それから相馬翔太先生にもお話を伺いました」

 

「相馬まで?」

 

「はい」

 

 三浦はしばらく笑っていた。

 

「なるほど」

 

「三浦さんも、雨宮監督の映画に関わっていたそうですね」

 

「俺は出てませんよ」

 

「料理を担当したとか」

 

「担当っていうほど大げさなものじゃないです。あいつら、撮影になるとまともに飯を食わなかったんで」

 

 記者が少し身を乗り出した。

 

「そこから聞かせていただけますか」

 

 三浦は腕を組んだ。

 

「じゃあ、相馬の悪口から始めてもいいですか」

 

「どうして相馬先生の?」

 

「あいつが余計なことを言ったところから始まるんですよ」

 

     *

 

 三浦航の家には、父親がいなかった。

 

 正確には、幼い頃にはいた。

 

 小学校四年生の時に両親が離婚し、それ以降ほとんど会っていない。

 

 母と、三歳下の弟、五歳下の妹。四人で暮らしていた。

 

 母親はよく働いた。

 

 朝早く家を出て、帰宅は遅い。土曜日も仕事へ行くことがあった。

 

 中学生になる頃には、三浦が夕食を作るようになった。

 

 最初は母が作っておいたものを温めるだけだった。そのうち米を炊き、味噌汁を作り、肉や魚を焼くようになった。

 

 失敗も多かった。

 

 初めて作った肉じゃがは、じゃがいもがほとんど溶けた。

 

 弟は、

 

「これはこれでうまい」

 

 と言った。

 

 妹は、

 

「カレーみたい」

 

 と言った。

 

 カレーではない。

 

 翌週、もう一度作った。

 

 今度はうまくできた。

 

 その頃から少しずつ、料理が面白くなった。

 

 同じ豚肉でも値段が違う。安い肉でも、下ごしらえを変えれば柔らかくなる。昨日余った野菜が、今日は別の料理になる。

 

 百円安く済ませられた日は嬉しかった。

 

 弟が、

 

「これ、また作って」

 

 と言えば、それ以上に嬉しかった。

 

 高校へ進学してからも料理は続いた。

 

 弁当も自分で作った。

 

 ただ、学校ではそのことをほとんど話さなかった。

 

 男子高校生が料理をすること自体が恥ずかしかったわけではない。

 

 家の事情を知られるのが嫌だった。

 

「お母さん大変だね」

 

「航も苦労してるんだね」

 

 そんなふうに言われるのが嫌だった。

 

 同情されるくらいなら、

 

「母ちゃんが作った」

 

 と言っておいた方が楽だった。

 

     *

 

 三浦と相馬翔太は同じ学年だった。

 

 親友というほどではない。

 

 同じクラスになったことがあり、昼休みに話す程度の関係だった。

 

 高校二年の夏。

 

 三浦は相馬へ大きめの弁当箱を差し出した。

 

「これ食え」

 

「何だよ」

 

「作りすぎた」

 

 唐揚げが入っていた。

 

「お母さんが?」

 

「まあ、そんな感じ」

 

 相馬が一つ食べる。

 

「うまい」

 

「そう」

 

「これ、お前が作っただろ」

 

 三浦が顔を上げた。

 

「何で分かるんだよ」

 

「前にお前んち行った時、夕飯作ってたじゃん」

 

「言うなよ」

 

「別にいいだろ」

 

「いいから」

 

 その日の放課後。

 

 映画研究部へ向かう途中、相馬が三浦を見つけた。

 

「そうだ、航。唐揚げ余ってない?」

 

「何で」

 

「撮影やってるんだけど、あいつら昼飯コンビニのパン一個しか食ってない」

 

「知らねえよ」

 

「雨宮なんて朝から何も食ってない」

 

「もっと知らねえよ」

 

 相馬は笑った。

 

「じゃあいいや」

 

 三浦は帰宅した。

 

 一時間後。

 

 冷蔵庫を開ける。

 

 残った唐揚げを見る。

 

 少し考えた。

 

     *

 

 旧校舎の視聴覚室。

 

 扉を開ける。

 

「相馬」

 

 床へ座っていた相馬が振り返った。

 

「何でいるの」

 

「これ」

 

 容器を渡した。

 

「残り物」

 

 その場には十人近くいた。

 

 雨宮、朝倉、白石、神崎。知らない一年生もいる。

 

「皆で食えば」

 

 相馬が蓋を開けた。

 

 匂いが広がる。

 

「助かる」

 

 朝倉が一つ取った。

 

「おいしい」

 

 白石も食べる。

 

「本当に。これ、相馬先輩のお母さんが?」

 

 三浦が答えるより先に、相馬が言った。

 

「三浦が作った」

 

 三浦は相馬を睨んだ。

 

「何で言うんだよ」

 

「隠す意味ある?」

 

「あるんだよ」

 

「何が」

 

「いいから」

 

 雨宮が唐揚げを食べた。

 

「これ、三浦が?」

 

「……そうだけど」

 

「すごいな」

 

 それだけだった。

 

 三浦は少し身構えていた自分が馬鹿らしくなった。

 

「何が」

 

「普通にうまい」

 

「普通って付けるな」

 

「じゃあ、かなりうまい」

 

 雨宮は二個目へ手を伸ばした。

 

 朝倉がその手を叩く。

 

「一人で食べすぎ」

 

「まだいっぱいあるだろ」

 

「人数考えて」

 

 三浦はそのやり取りを見ていた。

 

 誰も家の事情を訊かなかった。

 

 誰も「男なのに」と言わなかった。

 

 ただ食べた。

 

 それが、少し楽だった。

 

     *

 

 二日後。

 

 雨宮が教室へ来た。

 

「三浦」

 

「何」

 

「今度の撮影、飯作ってくれない?」

 

 三浦は一度、雨宮の顔を見た。

 

「嫌だ」

 

「即答?」

 

「俺、映画部じゃない」

 

「金払う」

 

「いくら」

 

 雨宮が金額を言う。

 

 三浦は笑った。

 

「十人分なら食材だけでほぼ消える」

 

「そんなに?」

 

「お前、普段何食ってんの」

 

「コンビニ」

 

「だから金かかるんだよ」

 

 雨宮は困った顔をした。

 

「じゃあ予算これくらいなら?」

 

 三浦は数字を見る。

 

「食材代ならできる」

 

「手間賃は?」

 

「出ないだろ、その金額じゃ」

 

「映画完成したら飯奢る」

 

「それ、俺が作るんじゃないだろうな」

 

「店行こうよ」

 

 三浦は少し笑った。

 

「三日だけな」

 

「本当に?」

 

「ただし、食う時間は決めろ。作って持っていって、冷めるまで放置されたら二度とやらない」

 

「分かった」

 

「あと、人数を前日の夜に変えるな」

 

「相馬先輩みたいなこと言うな」

 

「お前が言わせてんだろ」

 

     *

 

 一日目はカレー。

 

 二日目は鶏そぼろ丼。

 

 三日目は豚汁とおにぎりにした。

 

 部費から出せる金額には限界がある。高い食材は買えない。だから三浦は、安い食材で量を確保しながら、冷めても味が崩れにくいものを考えた。

 

 午前の撮影が押した日、相馬が言った。

 

「あと十五分で昼飯」

 

 雨宮はモニターから顔を上げなかった。

 

「今のシーン終わったら」

 

「それ昨日も聞いた」

 

「あと一本だけ」

 

 三浦は雨宮の前へ立った。

 

「冷める」

 

「少しくらい――」

 

「じゃあ明日から作らない」

 

 雨宮が顔を上げた。

 

「食べます」

 

「最初からそう言え」

 

 撮影が止まる。

 

 部員たちが集まり、紙の器に豚汁をよそう。

 

 暑い日だった。

 

 それでも皆、よく食べた。

 

 神崎が三杯目に手を伸ばした。

 

「お前、食いすぎ」

 

「午後練あるから」

 

「映画の後に練習行くの?」

 

「今日は軽いやつ」

 

「じゃあ二杯にしとけ。走れなくなるぞ」

 

「はい」

 

 白石が笑った。

 

「三浦先輩、お母さんみたいですね」

 

「やめろ」

 

 朝倉が言う。

 

「でも分かる」

 

「お前ら、もう食うな」

 

 皆が笑った。

 

 三浦も笑った。

 

     *

 

 三日目の撮影で、雨宮は予定していた場面を突然変えた。

 

 主人公が亡くなった祖母を思い出す場面だった。

 

 元の脚本では、祖母の写真を見る。

 

 雨宮は食卓を撮りたいと言い出した。

 

「何で急に」

 

 朝倉が脚本を持って抗議する。

 

「昨日考えた」

 

「また?」

 

「写真って、ちょっと分かりやすすぎるかなと思って」

 

「じゃあ何にするの」

 

 雨宮は、三浦が持ってきた豚汁を見た。

 

「味噌汁」

 

 三浦が顔を上げた。

 

「俺の?」

 

「撮影用に少し使っていい?」

 

「食うやつとは別にしろよ」

 

「何で?」

 

「撮ってる間に冷めるだろ」

 

「そこ?」

 

「そこだよ」

 

 朝倉が脚本を覗き込む。

 

「どうやって祖母だって分からせるの?」

 

「全部分からなくてもいいと思う」

 

「またそれ言う」

 

「主人公が味噌汁を飲んで、一瞬だけ止まる。その時に祖母の声を入れるとか。映像では出さない」

 

 朝倉は少し考えた。

 

「……それなら面白いかも」

 

 三浦は二人の会話を聞いていた。

 

「飯で人を思い出すことなんかある?」

 

 雨宮が訊く。

 

 三浦は少し笑った。

 

「あるだろ」

 

「誰?」

 

「別に」

 

 頭の中には、幼い頃の台所があった。

 

 まだ父親が家にいた頃の日曜日。母がクリームシチューを作り、幼い妹はスプーンをうまく使えず、父は新聞を読み、弟は人参を皿の端へ寄せていた。

 

 もう存在しない食卓だった。

 

 味を細かく覚えているわけではない。

 

 それでもシチューを見ると、時々あの日が戻ってくる。

 

「あるよ」

 

 三浦はもう一度言った。

 

「食べ物で、昔のことを思い出すこと」

 

 雨宮は頷いた。

 

「じゃあ、撮りたい」

 

     *

 

 その場面の撮影を、三浦は教室の隅から見ていた。

 

 主人公が一人で食卓へ座る。

 

 湯気の立つ味噌汁を飲む。

 

 箸が止まる。

 

 遠くから、かすかに祖母の笑い声が聞こえる。

 

 主人公は何も言わない。

 

 少しして、また食べ始める。

 

 それだけだった。

 

「カット」

 

 雨宮が言った。

 

 モニターを見る。

 

 もう一度再生する。

 

「いい」

 

 朝倉も画面を覗いた。

 

「思ってたより好きかも」

 

「思ってたよりって何だよ」

 

 三浦は少し後ろから二人を見ていた。

 

 雨宮が振り返る。

 

「三浦」

 

「何」

 

「料理って、残るんだな」

 

「何が」

 

「記憶に」

 

 三浦は返事をしなかった。

 

 雨宮はすでにモニターへ視線を戻している。

 

「味も匂いも映画には映らないのにな」

 

 何気なく言った言葉だった。

 

 三浦だけが覚えた。

 

     *

 

 撮影が終わってからも、ときどき映画研究部へ料理を持っていった。

 

 頼まれた時だけ。

 

 たまには、自分から。

 

 部員ではない。

 

 映画に出演するわけでもない。

 

 それでも妙に居心地がよかった。

 

 自分の作ったものを食べた人間が、遠慮なく感想を言う。

 

「今日の方が好き」

 

「前の方がおいしかった」

 

「もう少し辛くてもいい」

 

 最初は腹が立つこともあったが、そのうち面白くなった。

 

 白石は薄味の料理を好み、神崎は肉が多ければ素直に喜ぶ。朝倉は辛いものが苦手で、雨宮は何でも食べるくせに、撮影へ夢中になると何を食べたかさえ覚えていない。

 

 相馬だけは、

 

「うまい」

 

 と言った後で必ず、

 

「これ、いくらかかった?」

 

 と聞いた。

 

 三浦には、その質問が一番ありがたかった。

 

     *

 

 高校三年の春。

 

 進路希望調査が配られた。

 

 三浦は、

 

『就職』

 

 と書いた。

 

 大学へ進学するつもりはなかった。

 

 母親の負担を少しでも減らしたかった。

 

 弟は高校生。

 

 妹も、もうすぐ高校受験を迎える。

 

 地元の工場から求人が来ていた。給与も悪くなく、安定していた。

 

 そこへ行こうと思った。

 

 料理は家で続ければいい。

 

 好きなことを仕事にしなければならない理由などない。

 

 そう考えていた。

 

     *

 

 進路の話をどこから聞いたのか、放課後、雨宮がやって来た。

 

「三浦、就職するの?」

 

「そうだけど」

 

「料理の仕事?」

 

「工場」

 

 雨宮は少し驚いた。

 

「料理やらないんだ」

 

「家でやるよ」

 

「仕事にはしない?」

 

「しない」

 

「何で?」

 

 三浦は少し苛立った。

 

「お前らみたいに、好きなことを全部仕事にできるわけじゃないんだよ」

 

 雨宮が黙った。

 

 言ってから、三浦は少し後悔した。

 

 雨宮だって、映画監督になれると決まっているわけではない。

 

 まだ高校生だ。

 

「悪い」

 

「いや」

 

 雨宮は首を振った。

 

「三浦の言う通りだと思う。俺だって、映画で食えるかなんて分からないし」

 

「だったら何で聞いたんだよ」

 

「料理してる時、楽しそうだったから」

 

「それだけ?」

 

「それだけ」

 

 雨宮は少し考えた。

 

「俺、三浦が料理人に向いてるかどうかなんて分からない」

 

「じゃあ言うなよ」

 

「でも、仕事にしない理由が『嫌いだから』じゃないなら、一回くらい調べてもいいんじゃないかと思った」

 

「何を」

 

「料理人になる方法」

 

「専門学校とかだろ。金かかる」

 

「学校へ行かない方法はないの?」

 

「知らない」

 

「じゃあ調べればいいじゃん」

 

 三浦は雨宮を見た。

 

「簡単に言うなよ」

 

「簡単だとは言ってない」

 

 雨宮は少し困ったような顔をした。

 

「三浦んちのことも、料理人の世界も俺は知らない。だから、料理人になれとは言えない。でも、もし本当はやってみたいのに、最初から無理だって決めてるだけなら、もったいないなと思った」

 

 それ以上は言わなかった。

 

     *

 

 その日の夜。

 

 三浦は料理人になる方法を調べた。

 

 専門学校。

 

 調理師免許。

 

 ホテル。

 

 料亭。

 

 レストラン。

 

 学校へ通わず、店へ直接入る道もあった。

 

 見習い。

 

 長い勤務時間。

 

 高くない給料。

 

 厳しい修業。

 

 華やかな世界ではなかった。

 

 むしろ、それを見れば諦められると思った。

 

 画面を閉じようとした。

 

 閉じられなかった。

 

 別の店を調べた。

 

 さらに別の店。

 

 気づけば日付が変わっていた。

 

     *

 

 数日後。

 

 母が仕事から帰ってきた時、三浦は台所にいた。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

「今日何?」

 

「鯖」

 

「いい匂い」

 

 母が上着を脱ぐ。

 

 三浦は魚を皿へ移した。

 

「母ちゃん」

 

「何?」

 

「俺、料理の仕事したいかもしれない」

 

 母の手が止まった。

 

「かもしれない?」

 

「まだ分かんない。でも、ちょっと考えてる」

 

「そう」

 

「専門学校に行かなくても、店で働きながら覚える方法もあるらしい」

 

 母は椅子へ座った。

 

 三浦は続けた。

 

「でも最初は給料低いし、家に金入れられないかもしれない」

 

「航」

 

「何」

 

「どうして、家にお金を入れる前提なの」

 

 三浦は黙った。

 

「働くんだから普通だろ」

 

「普通じゃない」

 

 母の声が少し強くなった。

 

「あなたが今まで家のことをしてくれたから、私は本当に助かった。弟と妹のご飯も作ってくれた。でも、それと、これからあなたが家族を養わなきゃいけないのは別の話でしょう」

 

「でも母ちゃん一人でずっと――」

 

「それは私が考えること」

 

「ずっと何とかしてるじゃん」

 

「だからって、あなたの人生まで使わせるつもりはない」

 

 母は怒っていた。

 

 三浦には、それが意外だった。

 

「料理がしたいなら、ちゃんと考えなさい。やってみて駄目なら、その時また考えればいい。でも弟と妹がいるからって理由で最初から諦めるのは駄目」

 

「何で」

 

「私が嫌だから」

 

 母は言った。

 

「子供に夕飯を作らせて、その上、やりたいことまで諦めさせた母親になりたくない」

 

 三浦は何も言えなかった。

 

 母は少し目を赤くしていた。

 

「それに」

 

 台所を見る。

 

「あなた、昔から料理してる時だけは本当に機嫌いいでしょう」

 

「そう?」

 

「自分じゃ分からないの?」

 

 三浦は雨宮の言葉を思い出した。

 

 料理してる時、楽しそうだった。

 

 雨宮が誰より先に見つけたわけではない。

 

 母親は、ずっと前から知っていた。

 

 自分だけが、そのことに大した意味などないと思っていた。

 

     *

 

 その後、三浦は何軒かの料理店を見学した。

 

 担任にも相談した。

 

 相馬にも話した。

 

「工場やめるの?」

 

「まだ決めてない」

 

「料理の方は?」

 

「大変そう」

 

「じゃあやめる?」

 

 三浦は少し考えた。

 

「いや」

 

 口にしてから、それが自分の答えなのだと分かった。

 

     *

 

 卒業後、小さな洋食店へ就職することになった。

 

 皿洗いから始める。

 

 給料は高くない。

 

 休みも少ない。

 

 母は、

 

「嫌になったら帰ってきなさい」

 

 と言った。

 

 雨宮にも報告した。

 

「料理やることにした」

 

「本当に?」

 

「何でお前が驚くんだよ」

 

「三浦、ずっと工場って言ってたから」

 

「調べろって言ったのお前だろ」

 

「調べるだけだと思ってた」

 

「適当すぎない?」

 

 雨宮は笑った。

 

「でも、よかった」

 

 三浦は少し間を置いた。

 

「ありがとな」

 

「何が?」

 

「調べろって言ったこと」

 

「俺、何もしてないよ」

 

「知ってる」

 

「じゃあ何で」

 

「いいから」

 

 三浦は笑った。

 

「それより、映画完成したら飯奢るって約束、まだだからな」

 

「あ」

 

「忘れてただろ」

 

「忘れてない」

 

「今の間は何だよ」

 

     *

 

 卒業前。

 

 映画研究部が小さな上映会を開いた。

 

 三浦も呼ばれた。

 

 自分が食事を作っていた頃の映画が流れる。

 

 主人公が味噌汁を口にし、亡くなった祖母を思い出す場面。

 

 久しぶりに見た。

 

 客席は静かだった。

 

 主人公の箸が止まる。

 

 かすかな声。

 

 やがて、また食べ始める。

 

 三浦は、自分でも知らないうちに少し笑っていた。

 

 上映後。

 

「どうだった?」

 

 雨宮が来た。

 

「普通」

 

「三浦、絶対その言い方するよな」

 

「じゃあ結構よかった」

 

「本当に?」

 

「味噌汁のところ」

 

 雨宮が笑った。

 

「俺も好き」

 

「でもさ」

 

「うん?」

 

「映画じゃ、味分かんないんだな」

 

「そりゃそうだろ」

 

「匂いも」

 

「映らない」

 

 三浦はスクリーンを見た。

 

「なのに、俺はあの味思い出した」

 

 雨宮は少し考えた。

 

「作った本人だからじゃない?」

 

「それもある」

 

 三浦は笑った。

 

「料理って、映画よりずるいかもな」

 

「何が?」

 

「直接食わせられる」

 

 雨宮も笑った。

 

「確かに」

 

     *

 

 料理人になってからの日々は、三浦が高校生の頃に想像していたより、ずっと地味で厳しかった。

 

 一年目は、包丁を握る時間より皿を洗っている時間の方が長かった。ようやく野菜を切らせてもらえるようになっても、包丁の角度から切り揃える大きさまで何度も直された。初めてスープを任された日は、先輩が一口味見しただけで鍋ごと下げられた。

 

「こんなの客に出せるか」

 

 悔しかった。

 

 それでも翌日、もう一度作った。

 

 二十三歳の頃には、本当に一度、料理人を辞めた。

 

 給料の安さにも、長い勤務時間にも疲れていた。自分には才能がないのかもしれないと思い、倉庫の仕事へ応募した。

 

 面接の日程まで決まっていた。

 

 その夜、弟から電話が来た。

 

『兄ちゃん、今度帰ってくる時、あれ作って』

 

「何」

 

『昔作ってた豚汁』

 

「何で今さら」

 

『急に食いたくなった』

 

 三浦は電話を切った後、しばらく何もせずに座っていた。

 

 翌朝、倉庫の面接を断った。

 

 料理を続けた理由を、弟の一言だけで説明するつもりはない。それ以前にも辞めたくない理由はいくつもあったし、それ以降も何度も迷った。

 

 ただ、戻るきっかけの一つにはなった。

 

     *

 

 二十代で海外へ渡った。

 

 言葉は十分に話せず、日本で覚えたやり方が通用しないことも多かった。厨房で怒鳴られ、何度も一から覚え直した。

 

 その土地には、その土地の食材があり、食べ方があり、客がいる。

 

 料理にも一つの正解があるわけではない。

 

 それを知った。

 

 二十五で帰国した。

 

 いくつかの店を経て、自分の店を持った。

 

 最初は十二席。

 

 客が三人しか来ない夜もあった。

 

 予約帳が白いままの週もあった。

 

 それでも店を閉めなかった。

 

 少しずつ常連が増え、料理を紹介する記事が出て、遠方から来る客も増えた。

 

 十年近く経った頃。

 

 ようやく、自分が料理人になったのだと少しだけ思えるようになった。

 

     *

 

 店が軌道に乗り始めた頃、雨宮が食べに来た。

 

 高校卒業後も何度か会っていたが、店へ来るのは初めてだった。

 

 コースを全て食べ終えた後、三浦が尋ねた。

 

「どうだった?」

 

 雨宮は少し考えた。

 

「うまかった」

 

「もっとないの」

 

「俺、料理評論家じゃないから」

 

「映画なら二時間喋るくせに」

 

「じゃあ一個だけ」

 

「何」

 

「最後のスープが一番好きだった」

 

 三浦は少し驚いた。

 

 コースの最後に出した、野菜と鶏の出汁を使った簡単なスープ。

 

 もっと手間も材料費もかけた料理はいくつもあった。

 

「何で」

 

「昔食べた三浦の飯、思い出した」

 

 三浦は笑った。

 

「お前、高い食材使った料理いっぱい食わせたのに」

 

「だから困った」

 

「二度と来るな」

 

「また来る」

 

 二人は笑った。

 

     *

 

「料理人になったのは、雨宮監督のおかげですか」

 

 現在。

 

 記者が尋ねた。

 

 三浦は首を振った。

 

「違います」

 

「やはり」

 

「みんな同じ答えでした?」

 

「驚くほど」

 

 三浦は笑った。

 

「だと思います」

 

「では、雨宮監督との出会いは、三浦さんにとって何だったのでしょう」

 

 三浦はすぐには答えなかった。

 

 厨房を見る。

 

 まだ仕込み前で、誰もいない。

 

「自分が楽しそうにしてるって、初めて他人から言われたことですかね」

 

「料理をしている時?」

 

「はい」

 

 三浦は腕を組んだ。

 

「俺にとって料理は、最初は家事だったんです。母親が忙しいから作る。弟と妹が腹減るから作る。好きではあったけど、それを才能とか将来とかに結びつけたことはなかった」

 

「雨宮監督が結びつけた?」

 

「そこまではしてないですよ」

 

 三浦は笑う。

 

「『料理人になれ』なんて一度も言われてない。向いてるとも言われてない。ただ、『料理してる時、楽しそうだった』って言われた。それだけです」

 

「それだけが残った」

 

「自分がどんな顔してるかなんて、自分じゃ見えないでしょう」

 

 記者はメモを取った。

 

「もう一つ、雨宮監督の言葉を覚えているとか」

 

「料理は記憶に残るってやつですか」

 

「はい」

 

 三浦は少し照れたように笑った。

 

「本人は覚えてないと思いますよ」

 

「確認しますか?」

 

「やめてください。覚えてなかったら腹立つから」

 

 二人は笑った。

 

     *

 

 取材の最後。

 

 記者は厨房を見せてもらった。

 

 磨かれた調理台。

 

 並んだ包丁。

 

 静かに火へかけられた鍋。

 

 棚の隅には、小さな写真立てが置いてあった。

 

 高校時代の写真。

 

 旧校舎の一室で、映画研究部の面々が床に座っている。

 

 真ん中には大きな鍋。

 

 三浦自身も、端に少しだけ写っていた。

 

「これは?」

 

「あいつらと撮った唯一の写真です」

 

「映画には出演していないんですよね」

 

「一回も」

 

「でも写真には」

 

「飯作った後、相馬に無理やり入れられました」

 

 記者は写真を見た。

 

 白石紗月。

 

 神崎蓮。

 

 朝倉凛。

 

 雨宮湊。

 

 相馬翔太。

 

 まだ誰も、未来の肩書きを持っていない。

 

 ただの高校生だった。

 

     *

 

 その夜。

 

 受賞後、初めての通常営業。

 

 予約客が全て帰った。

 

 三浦は厨房で賄いを作った。

 

「今日も豚汁ですか?」

 

 若いスタッフが訊く。

 

「昨日余った野菜使うから」

 

「年間最優秀店が二日連続豚汁」

 

「嫌なら自分で作れ」

 

「食べます」

 

 鍋の蓋を開ける。

 

 湯気が上がった。

 

 皆が器を持って集まってくる。

 

 三浦も自分の分をよそった。

 

 一口飲む。

 

 高校時代と同じ味ではない。

 

 味噌も違う。

 

 出汁も違う。

 

 何より、自分の腕が違う。

 

 それでも思い出す。

 

 古い校舎。

 

 暑い夏。

 

 紙の器。

 

 撮影が押しているのに、飯の時間だけは守れと怒った自分。

 

 カメラを横に置き、豚汁を食べていた高校一年の雨宮。

 

『料理って、残るんだな』

 

 あの時の雨宮は、料理人でも評論家でもなかった。

 

 深い意味などなく言っただけなのだろう。

 

 それでも言葉は残った。

 

 映画と同じなのかもしれない。

 

 撮った人間が忘れていても、見た人間の中に残る場面がある。

 

 作った人間が忘れていても、食べた人間の中に残る味がある。

 

「シェフ」

 

「何」

 

「今日、何か嬉しそうですね」

 

 三浦は顔を上げた。

 

「そう見える?」

 

「はい」

 

 少し考えてから笑った。

 

「じゃあ、たぶん嬉しいんだろ」

 

 若い料理人も笑った。

 

 大きな鍋の豚汁は、十五分もしないうちになくなった。

 

 明日になれば、また別の料理を作る。

 

 今日食べた味を、全員がずっと覚えている必要はない。

 

 何年か経ったある日、一人でもふと思い出す人間がいれば、それで十分だった。

 

                第六章 了

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