家族のために、ただ毎日作っていただけだった。
けれどある夏、雨宮湊が何気なく言った。
「料理してる時、楽しそうだな」
その一言が、ずっと胸に残った。
三浦航の店には、決まったスペシャリテがない。
雑誌の取材でそう答えると、たいてい驚かれた。
十七席だけの小さなレストラン。予約は数か月先まで埋まり、遠方からわざわざ足を運ぶ客もいる。二十代半ばで独立してから十年近く、派手な宣伝をすることもなく、少しずつ評判を積み上げてきた。
その年、国内でも権威のある料理賞で年間最優秀店に選ばれた。
それでも三浦は、
「この店を代表する一皿は何ですか」
と訊かれることを好まなかった。
季節が変われば食材も変わる。同じ魚であっても、昨日と今日では状態が違う。何より、何を食べるかと同じくらい、誰と、いつ食べたかによって料理の記憶は変わる。
だから、一皿だけを自分の料理の代表にはしたくなかった。
ただし、店のスタッフだけは知っている。
三浦が何か特別なことのあった日に、決まって作る料理がある。
豚汁だった。
*
受賞の知らせが入った夜、若いスタッフたちは厨房で歓声を上げた。
副料理長は目を赤くし、ホール責任者は三浦の肩を何度も叩いた。
「シェフ、やりましたね」
「ああ」
「もっと喜んでくださいよ」
「喜んでるよ」
「顔がいつもと同じです」
「じゃあ踊ればいいのか?」
「それは見たくないです」
皆が笑った。
その日の営業は、いつも通りだった。
予約して来た客にとって、店が賞を取ったことと、目の前の皿がおいしいかどうかは別の話だった。三浦は厨房に立ち、魚の火入れを確認し、ソースを味見し、少しでも気になれば盛りつけをやり直した。
最後の客を見送り、片づけが始まった頃、副料理長が尋ねた。
「シェフ、今日の賄いどうします?」
「豚汁」
「やっぱり」
「嫌なら別の作れ」
「誰も嫌なんて言ってないですよ」
三浦は大きな鍋を火にかけた。
大根、人参、牛蒡、蒟蒻、豚肉。店で使う高価な食材は一つもない。
若い料理人が味見をして首を傾げた。
「シェフの豚汁って、店の料理と全然違いますよね」
「豚汁までフレンチにしたら家で怒られる」
「誰にですか」
三浦は答えなかった。
鍋から立つ湯気を見ていた。
高校二年の夏。
暑い旧校舎。
映画研究部の部員たちが床に座り、紙の器から豚汁を食べていた。
その中に、古いカメラを膝へ置いた雨宮湊がいた。
*
翌日。
三浦は営業前の店で取材を受けた。
受賞について一通り話した後、女性記者が少し意外な質問をした。
「三浦さんが料理人を目指すようになったのは、高校時代でしょうか」
三浦は少し考えた。
「料理そのものは、もっと前からやってました」
「ご家庭で?」
「中学生くらいからです」
「では、料理人になろうと思ったのは?」
三浦は椅子へ深く座り直した。
「そこは難しいですね。一つの出来事で決めたわけじゃないので」
「雨宮湊監督は関係していますか」
三浦は思わず笑った。
「そこまで調べてるんですか」
「白石紗月さん、神崎蓮さん、水野遥さん、朝倉凛さん、それから相馬翔太先生にもお話を伺いました」
「相馬まで?」
「はい」
三浦はしばらく笑っていた。
「なるほど」
「三浦さんも、雨宮監督の映画に関わっていたそうですね」
「俺は出てませんよ」
「料理を担当したとか」
「担当っていうほど大げさなものじゃないです。あいつら、撮影になるとまともに飯を食わなかったんで」
記者が少し身を乗り出した。
「そこから聞かせていただけますか」
三浦は腕を組んだ。
「じゃあ、相馬の悪口から始めてもいいですか」
「どうして相馬先生の?」
「あいつが余計なことを言ったところから始まるんですよ」
*
三浦航の家には、父親がいなかった。
正確には、幼い頃にはいた。
小学校四年生の時に両親が離婚し、それ以降ほとんど会っていない。
母と、三歳下の弟、五歳下の妹。四人で暮らしていた。
母親はよく働いた。
朝早く家を出て、帰宅は遅い。土曜日も仕事へ行くことがあった。
中学生になる頃には、三浦が夕食を作るようになった。
最初は母が作っておいたものを温めるだけだった。そのうち米を炊き、味噌汁を作り、肉や魚を焼くようになった。
失敗も多かった。
初めて作った肉じゃがは、じゃがいもがほとんど溶けた。
弟は、
「これはこれでうまい」
と言った。
妹は、
「カレーみたい」
と言った。
カレーではない。
翌週、もう一度作った。
今度はうまくできた。
その頃から少しずつ、料理が面白くなった。
同じ豚肉でも値段が違う。安い肉でも、下ごしらえを変えれば柔らかくなる。昨日余った野菜が、今日は別の料理になる。
百円安く済ませられた日は嬉しかった。
弟が、
「これ、また作って」
と言えば、それ以上に嬉しかった。
高校へ進学してからも料理は続いた。
弁当も自分で作った。
ただ、学校ではそのことをほとんど話さなかった。
男子高校生が料理をすること自体が恥ずかしかったわけではない。
家の事情を知られるのが嫌だった。
「お母さん大変だね」
「航も苦労してるんだね」
そんなふうに言われるのが嫌だった。
同情されるくらいなら、
「母ちゃんが作った」
と言っておいた方が楽だった。
*
三浦と相馬翔太は同じ学年だった。
親友というほどではない。
同じクラスになったことがあり、昼休みに話す程度の関係だった。
高校二年の夏。
三浦は相馬へ大きめの弁当箱を差し出した。
「これ食え」
「何だよ」
「作りすぎた」
唐揚げが入っていた。
「お母さんが?」
「まあ、そんな感じ」
相馬が一つ食べる。
「うまい」
「そう」
「これ、お前が作っただろ」
三浦が顔を上げた。
「何で分かるんだよ」
「前にお前んち行った時、夕飯作ってたじゃん」
「言うなよ」
「別にいいだろ」
「いいから」
その日の放課後。
映画研究部へ向かう途中、相馬が三浦を見つけた。
「そうだ、航。唐揚げ余ってない?」
「何で」
「撮影やってるんだけど、あいつら昼飯コンビニのパン一個しか食ってない」
「知らねえよ」
「雨宮なんて朝から何も食ってない」
「もっと知らねえよ」
相馬は笑った。
「じゃあいいや」
三浦は帰宅した。
一時間後。
冷蔵庫を開ける。
残った唐揚げを見る。
少し考えた。
*
旧校舎の視聴覚室。
扉を開ける。
「相馬」
床へ座っていた相馬が振り返った。
「何でいるの」
「これ」
容器を渡した。
「残り物」
その場には十人近くいた。
雨宮、朝倉、白石、神崎。知らない一年生もいる。
「皆で食えば」
相馬が蓋を開けた。
匂いが広がる。
「助かる」
朝倉が一つ取った。
「おいしい」
白石も食べる。
「本当に。これ、相馬先輩のお母さんが?」
三浦が答えるより先に、相馬が言った。
「三浦が作った」
三浦は相馬を睨んだ。
「何で言うんだよ」
「隠す意味ある?」
「あるんだよ」
「何が」
「いいから」
雨宮が唐揚げを食べた。
「これ、三浦が?」
「……そうだけど」
「すごいな」
それだけだった。
三浦は少し身構えていた自分が馬鹿らしくなった。
「何が」
「普通にうまい」
「普通って付けるな」
「じゃあ、かなりうまい」
雨宮は二個目へ手を伸ばした。
朝倉がその手を叩く。
「一人で食べすぎ」
「まだいっぱいあるだろ」
「人数考えて」
三浦はそのやり取りを見ていた。
誰も家の事情を訊かなかった。
誰も「男なのに」と言わなかった。
ただ食べた。
それが、少し楽だった。
*
二日後。
雨宮が教室へ来た。
「三浦」
「何」
「今度の撮影、飯作ってくれない?」
三浦は一度、雨宮の顔を見た。
「嫌だ」
「即答?」
「俺、映画部じゃない」
「金払う」
「いくら」
雨宮が金額を言う。
三浦は笑った。
「十人分なら食材だけでほぼ消える」
「そんなに?」
「お前、普段何食ってんの」
「コンビニ」
「だから金かかるんだよ」
雨宮は困った顔をした。
「じゃあ予算これくらいなら?」
三浦は数字を見る。
「食材代ならできる」
「手間賃は?」
「出ないだろ、その金額じゃ」
「映画完成したら飯奢る」
「それ、俺が作るんじゃないだろうな」
「店行こうよ」
三浦は少し笑った。
「三日だけな」
「本当に?」
「ただし、食う時間は決めろ。作って持っていって、冷めるまで放置されたら二度とやらない」
「分かった」
「あと、人数を前日の夜に変えるな」
「相馬先輩みたいなこと言うな」
「お前が言わせてんだろ」
*
一日目はカレー。
二日目は鶏そぼろ丼。
三日目は豚汁とおにぎりにした。
部費から出せる金額には限界がある。高い食材は買えない。だから三浦は、安い食材で量を確保しながら、冷めても味が崩れにくいものを考えた。
午前の撮影が押した日、相馬が言った。
「あと十五分で昼飯」
雨宮はモニターから顔を上げなかった。
「今のシーン終わったら」
「それ昨日も聞いた」
「あと一本だけ」
三浦は雨宮の前へ立った。
「冷める」
「少しくらい――」
「じゃあ明日から作らない」
雨宮が顔を上げた。
「食べます」
「最初からそう言え」
撮影が止まる。
部員たちが集まり、紙の器に豚汁をよそう。
暑い日だった。
それでも皆、よく食べた。
神崎が三杯目に手を伸ばした。
「お前、食いすぎ」
「午後練あるから」
「映画の後に練習行くの?」
「今日は軽いやつ」
「じゃあ二杯にしとけ。走れなくなるぞ」
「はい」
白石が笑った。
「三浦先輩、お母さんみたいですね」
「やめろ」
朝倉が言う。
「でも分かる」
「お前ら、もう食うな」
皆が笑った。
三浦も笑った。
*
三日目の撮影で、雨宮は予定していた場面を突然変えた。
主人公が亡くなった祖母を思い出す場面だった。
元の脚本では、祖母の写真を見る。
雨宮は食卓を撮りたいと言い出した。
「何で急に」
朝倉が脚本を持って抗議する。
「昨日考えた」
「また?」
「写真って、ちょっと分かりやすすぎるかなと思って」
「じゃあ何にするの」
雨宮は、三浦が持ってきた豚汁を見た。
「味噌汁」
三浦が顔を上げた。
「俺の?」
「撮影用に少し使っていい?」
「食うやつとは別にしろよ」
「何で?」
「撮ってる間に冷めるだろ」
「そこ?」
「そこだよ」
朝倉が脚本を覗き込む。
「どうやって祖母だって分からせるの?」
「全部分からなくてもいいと思う」
「またそれ言う」
「主人公が味噌汁を飲んで、一瞬だけ止まる。その時に祖母の声を入れるとか。映像では出さない」
朝倉は少し考えた。
「……それなら面白いかも」
三浦は二人の会話を聞いていた。
「飯で人を思い出すことなんかある?」
雨宮が訊く。
三浦は少し笑った。
「あるだろ」
「誰?」
「別に」
頭の中には、幼い頃の台所があった。
まだ父親が家にいた頃の日曜日。母がクリームシチューを作り、幼い妹はスプーンをうまく使えず、父は新聞を読み、弟は人参を皿の端へ寄せていた。
もう存在しない食卓だった。
味を細かく覚えているわけではない。
それでもシチューを見ると、時々あの日が戻ってくる。
「あるよ」
三浦はもう一度言った。
「食べ物で、昔のことを思い出すこと」
雨宮は頷いた。
「じゃあ、撮りたい」
*
その場面の撮影を、三浦は教室の隅から見ていた。
主人公が一人で食卓へ座る。
湯気の立つ味噌汁を飲む。
箸が止まる。
遠くから、かすかに祖母の笑い声が聞こえる。
主人公は何も言わない。
少しして、また食べ始める。
それだけだった。
「カット」
雨宮が言った。
モニターを見る。
もう一度再生する。
「いい」
朝倉も画面を覗いた。
「思ってたより好きかも」
「思ってたよりって何だよ」
三浦は少し後ろから二人を見ていた。
雨宮が振り返る。
「三浦」
「何」
「料理って、残るんだな」
「何が」
「記憶に」
三浦は返事をしなかった。
雨宮はすでにモニターへ視線を戻している。
「味も匂いも映画には映らないのにな」
何気なく言った言葉だった。
三浦だけが覚えた。
*
撮影が終わってからも、ときどき映画研究部へ料理を持っていった。
頼まれた時だけ。
たまには、自分から。
部員ではない。
映画に出演するわけでもない。
それでも妙に居心地がよかった。
自分の作ったものを食べた人間が、遠慮なく感想を言う。
「今日の方が好き」
「前の方がおいしかった」
「もう少し辛くてもいい」
最初は腹が立つこともあったが、そのうち面白くなった。
白石は薄味の料理を好み、神崎は肉が多ければ素直に喜ぶ。朝倉は辛いものが苦手で、雨宮は何でも食べるくせに、撮影へ夢中になると何を食べたかさえ覚えていない。
相馬だけは、
「うまい」
と言った後で必ず、
「これ、いくらかかった?」
と聞いた。
三浦には、その質問が一番ありがたかった。
*
高校三年の春。
進路希望調査が配られた。
三浦は、
『就職』
と書いた。
大学へ進学するつもりはなかった。
母親の負担を少しでも減らしたかった。
弟は高校生。
妹も、もうすぐ高校受験を迎える。
地元の工場から求人が来ていた。給与も悪くなく、安定していた。
そこへ行こうと思った。
料理は家で続ければいい。
好きなことを仕事にしなければならない理由などない。
そう考えていた。
*
進路の話をどこから聞いたのか、放課後、雨宮がやって来た。
「三浦、就職するの?」
「そうだけど」
「料理の仕事?」
「工場」
雨宮は少し驚いた。
「料理やらないんだ」
「家でやるよ」
「仕事にはしない?」
「しない」
「何で?」
三浦は少し苛立った。
「お前らみたいに、好きなことを全部仕事にできるわけじゃないんだよ」
雨宮が黙った。
言ってから、三浦は少し後悔した。
雨宮だって、映画監督になれると決まっているわけではない。
まだ高校生だ。
「悪い」
「いや」
雨宮は首を振った。
「三浦の言う通りだと思う。俺だって、映画で食えるかなんて分からないし」
「だったら何で聞いたんだよ」
「料理してる時、楽しそうだったから」
「それだけ?」
「それだけ」
雨宮は少し考えた。
「俺、三浦が料理人に向いてるかどうかなんて分からない」
「じゃあ言うなよ」
「でも、仕事にしない理由が『嫌いだから』じゃないなら、一回くらい調べてもいいんじゃないかと思った」
「何を」
「料理人になる方法」
「専門学校とかだろ。金かかる」
「学校へ行かない方法はないの?」
「知らない」
「じゃあ調べればいいじゃん」
三浦は雨宮を見た。
「簡単に言うなよ」
「簡単だとは言ってない」
雨宮は少し困ったような顔をした。
「三浦んちのことも、料理人の世界も俺は知らない。だから、料理人になれとは言えない。でも、もし本当はやってみたいのに、最初から無理だって決めてるだけなら、もったいないなと思った」
それ以上は言わなかった。
*
その日の夜。
三浦は料理人になる方法を調べた。
専門学校。
調理師免許。
ホテル。
料亭。
レストラン。
学校へ通わず、店へ直接入る道もあった。
見習い。
長い勤務時間。
高くない給料。
厳しい修業。
華やかな世界ではなかった。
むしろ、それを見れば諦められると思った。
画面を閉じようとした。
閉じられなかった。
別の店を調べた。
さらに別の店。
気づけば日付が変わっていた。
*
数日後。
母が仕事から帰ってきた時、三浦は台所にいた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日何?」
「鯖」
「いい匂い」
母が上着を脱ぐ。
三浦は魚を皿へ移した。
「母ちゃん」
「何?」
「俺、料理の仕事したいかもしれない」
母の手が止まった。
「かもしれない?」
「まだ分かんない。でも、ちょっと考えてる」
「そう」
「専門学校に行かなくても、店で働きながら覚える方法もあるらしい」
母は椅子へ座った。
三浦は続けた。
「でも最初は給料低いし、家に金入れられないかもしれない」
「航」
「何」
「どうして、家にお金を入れる前提なの」
三浦は黙った。
「働くんだから普通だろ」
「普通じゃない」
母の声が少し強くなった。
「あなたが今まで家のことをしてくれたから、私は本当に助かった。弟と妹のご飯も作ってくれた。でも、それと、これからあなたが家族を養わなきゃいけないのは別の話でしょう」
「でも母ちゃん一人でずっと――」
「それは私が考えること」
「ずっと何とかしてるじゃん」
「だからって、あなたの人生まで使わせるつもりはない」
母は怒っていた。
三浦には、それが意外だった。
「料理がしたいなら、ちゃんと考えなさい。やってみて駄目なら、その時また考えればいい。でも弟と妹がいるからって理由で最初から諦めるのは駄目」
「何で」
「私が嫌だから」
母は言った。
「子供に夕飯を作らせて、その上、やりたいことまで諦めさせた母親になりたくない」
三浦は何も言えなかった。
母は少し目を赤くしていた。
「それに」
台所を見る。
「あなた、昔から料理してる時だけは本当に機嫌いいでしょう」
「そう?」
「自分じゃ分からないの?」
三浦は雨宮の言葉を思い出した。
料理してる時、楽しそうだった。
雨宮が誰より先に見つけたわけではない。
母親は、ずっと前から知っていた。
自分だけが、そのことに大した意味などないと思っていた。
*
その後、三浦は何軒かの料理店を見学した。
担任にも相談した。
相馬にも話した。
「工場やめるの?」
「まだ決めてない」
「料理の方は?」
「大変そう」
「じゃあやめる?」
三浦は少し考えた。
「いや」
口にしてから、それが自分の答えなのだと分かった。
*
卒業後、小さな洋食店へ就職することになった。
皿洗いから始める。
給料は高くない。
休みも少ない。
母は、
「嫌になったら帰ってきなさい」
と言った。
雨宮にも報告した。
「料理やることにした」
「本当に?」
「何でお前が驚くんだよ」
「三浦、ずっと工場って言ってたから」
「調べろって言ったのお前だろ」
「調べるだけだと思ってた」
「適当すぎない?」
雨宮は笑った。
「でも、よかった」
三浦は少し間を置いた。
「ありがとな」
「何が?」
「調べろって言ったこと」
「俺、何もしてないよ」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「いいから」
三浦は笑った。
「それより、映画完成したら飯奢るって約束、まだだからな」
「あ」
「忘れてただろ」
「忘れてない」
「今の間は何だよ」
*
卒業前。
映画研究部が小さな上映会を開いた。
三浦も呼ばれた。
自分が食事を作っていた頃の映画が流れる。
主人公が味噌汁を口にし、亡くなった祖母を思い出す場面。
久しぶりに見た。
客席は静かだった。
主人公の箸が止まる。
かすかな声。
やがて、また食べ始める。
三浦は、自分でも知らないうちに少し笑っていた。
上映後。
「どうだった?」
雨宮が来た。
「普通」
「三浦、絶対その言い方するよな」
「じゃあ結構よかった」
「本当に?」
「味噌汁のところ」
雨宮が笑った。
「俺も好き」
「でもさ」
「うん?」
「映画じゃ、味分かんないんだな」
「そりゃそうだろ」
「匂いも」
「映らない」
三浦はスクリーンを見た。
「なのに、俺はあの味思い出した」
雨宮は少し考えた。
「作った本人だからじゃない?」
「それもある」
三浦は笑った。
「料理って、映画よりずるいかもな」
「何が?」
「直接食わせられる」
雨宮も笑った。
「確かに」
*
料理人になってからの日々は、三浦が高校生の頃に想像していたより、ずっと地味で厳しかった。
一年目は、包丁を握る時間より皿を洗っている時間の方が長かった。ようやく野菜を切らせてもらえるようになっても、包丁の角度から切り揃える大きさまで何度も直された。初めてスープを任された日は、先輩が一口味見しただけで鍋ごと下げられた。
「こんなの客に出せるか」
悔しかった。
それでも翌日、もう一度作った。
二十三歳の頃には、本当に一度、料理人を辞めた。
給料の安さにも、長い勤務時間にも疲れていた。自分には才能がないのかもしれないと思い、倉庫の仕事へ応募した。
面接の日程まで決まっていた。
その夜、弟から電話が来た。
『兄ちゃん、今度帰ってくる時、あれ作って』
「何」
『昔作ってた豚汁』
「何で今さら」
『急に食いたくなった』
三浦は電話を切った後、しばらく何もせずに座っていた。
翌朝、倉庫の面接を断った。
料理を続けた理由を、弟の一言だけで説明するつもりはない。それ以前にも辞めたくない理由はいくつもあったし、それ以降も何度も迷った。
ただ、戻るきっかけの一つにはなった。
*
二十代で海外へ渡った。
言葉は十分に話せず、日本で覚えたやり方が通用しないことも多かった。厨房で怒鳴られ、何度も一から覚え直した。
その土地には、その土地の食材があり、食べ方があり、客がいる。
料理にも一つの正解があるわけではない。
それを知った。
二十五で帰国した。
いくつかの店を経て、自分の店を持った。
最初は十二席。
客が三人しか来ない夜もあった。
予約帳が白いままの週もあった。
それでも店を閉めなかった。
少しずつ常連が増え、料理を紹介する記事が出て、遠方から来る客も増えた。
十年近く経った頃。
ようやく、自分が料理人になったのだと少しだけ思えるようになった。
*
店が軌道に乗り始めた頃、雨宮が食べに来た。
高校卒業後も何度か会っていたが、店へ来るのは初めてだった。
コースを全て食べ終えた後、三浦が尋ねた。
「どうだった?」
雨宮は少し考えた。
「うまかった」
「もっとないの」
「俺、料理評論家じゃないから」
「映画なら二時間喋るくせに」
「じゃあ一個だけ」
「何」
「最後のスープが一番好きだった」
三浦は少し驚いた。
コースの最後に出した、野菜と鶏の出汁を使った簡単なスープ。
もっと手間も材料費もかけた料理はいくつもあった。
「何で」
「昔食べた三浦の飯、思い出した」
三浦は笑った。
「お前、高い食材使った料理いっぱい食わせたのに」
「だから困った」
「二度と来るな」
「また来る」
二人は笑った。
*
「料理人になったのは、雨宮監督のおかげですか」
現在。
記者が尋ねた。
三浦は首を振った。
「違います」
「やはり」
「みんな同じ答えでした?」
「驚くほど」
三浦は笑った。
「だと思います」
「では、雨宮監督との出会いは、三浦さんにとって何だったのでしょう」
三浦はすぐには答えなかった。
厨房を見る。
まだ仕込み前で、誰もいない。
「自分が楽しそうにしてるって、初めて他人から言われたことですかね」
「料理をしている時?」
「はい」
三浦は腕を組んだ。
「俺にとって料理は、最初は家事だったんです。母親が忙しいから作る。弟と妹が腹減るから作る。好きではあったけど、それを才能とか将来とかに結びつけたことはなかった」
「雨宮監督が結びつけた?」
「そこまではしてないですよ」
三浦は笑う。
「『料理人になれ』なんて一度も言われてない。向いてるとも言われてない。ただ、『料理してる時、楽しそうだった』って言われた。それだけです」
「それだけが残った」
「自分がどんな顔してるかなんて、自分じゃ見えないでしょう」
記者はメモを取った。
「もう一つ、雨宮監督の言葉を覚えているとか」
「料理は記憶に残るってやつですか」
「はい」
三浦は少し照れたように笑った。
「本人は覚えてないと思いますよ」
「確認しますか?」
「やめてください。覚えてなかったら腹立つから」
二人は笑った。
*
取材の最後。
記者は厨房を見せてもらった。
磨かれた調理台。
並んだ包丁。
静かに火へかけられた鍋。
棚の隅には、小さな写真立てが置いてあった。
高校時代の写真。
旧校舎の一室で、映画研究部の面々が床に座っている。
真ん中には大きな鍋。
三浦自身も、端に少しだけ写っていた。
「これは?」
「あいつらと撮った唯一の写真です」
「映画には出演していないんですよね」
「一回も」
「でも写真には」
「飯作った後、相馬に無理やり入れられました」
記者は写真を見た。
白石紗月。
神崎蓮。
朝倉凛。
雨宮湊。
相馬翔太。
まだ誰も、未来の肩書きを持っていない。
ただの高校生だった。
*
その夜。
受賞後、初めての通常営業。
予約客が全て帰った。
三浦は厨房で賄いを作った。
「今日も豚汁ですか?」
若いスタッフが訊く。
「昨日余った野菜使うから」
「年間最優秀店が二日連続豚汁」
「嫌なら自分で作れ」
「食べます」
鍋の蓋を開ける。
湯気が上がった。
皆が器を持って集まってくる。
三浦も自分の分をよそった。
一口飲む。
高校時代と同じ味ではない。
味噌も違う。
出汁も違う。
何より、自分の腕が違う。
それでも思い出す。
古い校舎。
暑い夏。
紙の器。
撮影が押しているのに、飯の時間だけは守れと怒った自分。
カメラを横に置き、豚汁を食べていた高校一年の雨宮。
『料理って、残るんだな』
あの時の雨宮は、料理人でも評論家でもなかった。
深い意味などなく言っただけなのだろう。
それでも言葉は残った。
映画と同じなのかもしれない。
撮った人間が忘れていても、見た人間の中に残る場面がある。
作った人間が忘れていても、食べた人間の中に残る味がある。
「シェフ」
「何」
「今日、何か嬉しそうですね」
三浦は顔を上げた。
「そう見える?」
「はい」
少し考えてから笑った。
「じゃあ、たぶん嬉しいんだろ」
若い料理人も笑った。
大きな鍋の豚汁は、十五分もしないうちになくなった。
明日になれば、また別の料理を作る。
今日食べた味を、全員がずっと覚えている必要はない。
何年か経ったある日、一人でもふと思い出す人間がいれば、それで十分だった。
第六章 了