誰も気づかない表情を見つけ、誰も拾わない沈黙を拾い、それを映画の中へ残してきた。
けれど高校二年の秋。
久世直樹に向けたそのカメラだけは、下ろさなければならなかった。
雨宮は、下ろさなかった。
久世直樹は、カメラを止めさせることに慣れていた。
三十五歳。衆議院議員、一期目。
選挙区へ戻れば街頭に立ち、国会へ行けば記者に囲まれる。自分で人前に立つ仕事を選んだ以上、撮られることそのものに不満はなかった。
むしろ、カメラとの付き合い方は知っている方だった。
質問へ答える時、どこを見れば自然なのか。どのくらい間を取れば言葉が届くのか。十分話した内容から、ニュースで使われる十秒がどこになるのか。
政治家になって覚えたこともある。
高校生の頃から知っていたこともある。
ただ一つ、昔から変わらない考えがあった。
撮ってはいけない時がある。
*
その日、久世は地元の小さな市民ホールで、高校生や大学生との意見交換会に出席していた。
大きな政策発表があるわけではない。地域交通や奨学金、子育て支援について若者から質問を受け、久世が答える。百人にも満たない、小さな催しだった。
会場には二台のカメラが入っていた。
一台は地元テレビ局。
もう一台は、久世の密着記事を制作している雑誌の映像班だった。
終了後。
スタッフたちが椅子を片づけている。
久世も上着を脱ぎ、折り畳み机を運んでいた。
「議員、それはスタッフがやりますから」
若い秘書が言った。
「議員が机運んだら法律違反になる?」
「そういう問題じゃありません」
「あと五分で終わるだろ」
「そういうところを撮られると、また『庶民派アピール』って言われますよ」
「じゃあ撮らなきゃいい」
「密着取材中です」
二人が笑った時だった。
会場の隅にいた大学生のボランティアが、スマートフォンを見たまま動かなくなった。
二十歳くらいの女性だった。
俯いたまま、肩が小さく震えている。
久世は机を置いた。
「どうした?」
女性は顔を上げない。
「すみません。大丈夫です」
大丈夫ではない顔だった。
久世が近づこうとした時、視界の端でレンズが動いた。
密着班のカメラが、彼女へ向いていた。
「そこ、止めてください」
カメラマンが動きを止める。
「え?」
「彼女、取材対象じゃないでしょう。撮らないで」
「あ……すみません」
カメラが下がった。
久世は女性のところへ行った。
「別の部屋へ行こうか」
「本当に大丈夫です。家から連絡があって……」
「なら、なおさらここじゃない方がいい。隣の控室空いてるから」
秘書に確認し、女性を連れて会場を出た。
*
三十分ほどして戻ると、後片づけはほとんど終わっていた。
女性は祖母が倒れたという連絡を受けていた。幸い意識は戻ったらしく、今は家族が迎えに来るのを控室で待っている。
久世が上着を着ていると、雑誌の女性記者が近づいてきた。
「久世さん」
「はい」
「さっきのこと、少し伺ってもいいですか」
「何でしょう」
「カメラを止めたことです」
「ああ」
「密着取材では、撮影可能な範囲についてかなり広く許可をいただいています。それでも、ああいう時は迷わず止めるんですね」
「本人から許可もらってませんから」
「それだけですか」
久世は記者を見る。
質問の仕方が少し妙だった。
「何か聞きたい話が別にあるんじゃないですか」
記者は笑った。
「雨宮湊監督の高校時代を調べています」
久世の表情が、わずかに変わった。
「なるほど」
「白石紗月さんたちから、順番にお話を伺ってきました」
「どこまで?」
「相馬先生と三浦さんまで」
「随分いきましたね」
久世は腕時計を見る。
「このあと一時間くらいなら空いてます」
「よろしいんですか」
「どうせ雨宮の話を聞きに来たんでしょう」
「はい」
久世は椅子へ腰を下ろした。
「じゃあ、最初に一つだけ言っておきます」
「何でしょう」
「あいつのことは、今でも友人だと思っています」
記者は頷いた。
「でも高校二年の時、一度、本気で嫌いになりました」
*
久世直樹は、高校時代から人前で話すことが得意だった。
中学校では生徒会副会長。
高校一年では学級委員。
二年生になると、生徒会長に立候補した。
選挙演説の日。
体育館には全校生徒が集まっていた。
多くの候補が、学校を良くしたい、行事を盛り上げたい、と話した。
久世は少し違った。
「生徒会ができることには、限界があります」
最初にそう言った。
体育館が少しざわついた。
「校則を明日全部変えることもできませんし、文化祭の予算を倍にすると約束することもできません。僕が会長になったからといって、急に学校生活が自由になるわけでもありません」
教師席から苦笑が漏れた。
「それでも、どうしてそう決まっているのかを聞くことはできます。納得できなければ、変えられないか相談することもできます。全部は変えられなくても、一つくらいなら変えられるかもしれない。その一つを、きちんと探す生徒会にしたいと思っています」
派手な演説ではなかった。
だが、終わった時の拍手は大きかった。
久世は当選した。
*
その演説を、体育館の一番後ろで雨宮湊が見ていた。
翌日。
生徒会室から戻る途中、廊下で呼び止められた。
「久世」
「雨宮?」
二人は同学年だった。
クラスは違う。
互いのことは知っていた。
映画ばかり撮っている変わった奴。
生徒会の演説が上手い奴。
その程度だった。
「映画に出ない?」
久世は笑った。
「いきなりだな」
「昨日の演説見てた」
「それで?」
「喋るの上手いから」
「役者は喋るのが上手ければいいの?」
「それだけじゃないけど」
雨宮は少し考えた。
「昨日、最初に『できないこと』言っただろ」
「言ったね」
「選挙の演説なのに、何でもできますって言わなかった」
「できないことを約束して当選しても、後で困るだけだろ」
「そこがいいと思った」
久世は眉を上げた。
「映画の役?」
「高校生。町の市民ホールが閉鎖されることになって、それを止めようとする」
「随分地味だな」
「俺は面白いと思ってる」
「脚本見せて」
「出てくれる?」
「脚本を読んでから」
「分かった」
*
題名は『議場の外』。
町の古い市民ホールが、老朽化と財政難を理由に取り壊される。
主人公は、幼い頃からそのホールで演劇をしていた高校生だった。
閉鎖を止めるため署名を集め、市議会へ陳情する。
しかし決定は覆らない。
最後、主人公は解体される建物を見ながら、自分が集めた署名用紙を箱へしまう。
映画はそこで終わる。
久世は翌日、脚本を雨宮へ返した。
「面白かった」
雨宮の顔が明るくなる。
「本当に?」
「ただ、議員が全員悪者なのは雑」
「全員じゃない」
「ほぼ全員だろ。主人公が何言っても、『決まったことだから』しか言わない」
「そういう大人もいるだろ」
「いる。でも、ホールを残したくても予算がない人もいるだろうし、安全の問題もある。閉鎖に賛成する側にも理由があるはずだよ」
雨宮は脚本を見る。
「じゃあ、一人くらい主人公の話をちゃんと聞く議員を入れる?」
「その人も結局は閉鎖に賛成する。でも理由は説明する」
「その方が主人公の負け方が強くなるな」
「負けさせたいんだろ?」
「うん」
「だったら、相手を馬鹿にしない方がいい」
雨宮は鉛筆を取った。
「久世、やっぱり出てよ」
「意見を聞くため?」
「それもある」
「それも?」
「主人公に合ってると思う」
「どこが」
「正しい言葉を使えば、人を動かせると思ってそうなところ」
久世は雨宮を見る。
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「喧嘩売ってるようにしか聞こえない」
二人は笑った。
それが始まりだった。
*
撮影は思っていたより楽しかった。
久世は、演説と演技は似たようなものだと思っていた。
全然違った。
「久世、今の演説っぽい」
「演説してる場面だろ」
「十人に話してるんだから、全校生徒へ喋る声じゃなくていい」
「じゃあどのくらい」
「そこにいる一人に届くくらい」
「曖昧だな」
「俺も今考えてる」
「監督がそれでいいの?」
「よくないから考えてる」
雨宮の監督ぶりは、想像していたものとは違った。
もっと自信満々に、
「こうしろ」
と言う人間だと思っていた。
実際にはよく迷った。
撮って、見て、考える。
役者の意見も聞く。
朝倉凛とは頻繁に揉める。
それでも翌日には、また二人で同じ脚本を覗き込んでいた。
久世はいつの間にか、撮影のない日にも映画研究部へ顔を出すようになった。
*
雨宮とも、映画以外の話をするようになった。
「久世、将来政治家になるの?」
昼休み、雨宮が唐突に訊いた。
「ならない」
「生徒会長なのに?」
「生徒会長が全員政治家になると思ってる?」
「少し思ってた」
「ならないよ。今は法律をやりたい」
「弁護士?」
「たぶん」
「何で?」
「言葉とかルールって、ちゃんと知っていれば人を守れることがあるから」
「逆もありそう」
「逆?」
「ルール知ってる奴が、知らない奴を困らせることもあるだろ」
久世は少し考えた。
「あるね」
「じゃあ法律も怖いな」
「映画撮る人に言われたくない」
「映画、何か怖い?」
「編集できるだろ」
「できるけど」
「俺が二時間話したものを、お前が十秒だけ使えば、全然違う人間に見せることもできる」
雨宮は笑った。
「そんなことしないよ」
久世も笑った。
「分かってる」
その時は、本当にそう思っていた。
*
二年生の秋。
生徒会では、文化祭予算を巡る問題が起きていた。
前年より予算が大幅に削減される。
学校側の説明は、設備更新費と安全管理費の増加だった。
事情そのものは理解できた。
しかし、その削減案では、いくつかのクラス企画と文化部の展示が成立しない。
久世たちは代替案を作った。
不要な支出を削る。
外部業者へ頼んでいたものを一部生徒で行う。
他行事の余剰分を回せないか調べる。
各文化部から聞き取りもした。
一週間かけて数字を出した。
担当教師へ提出した。
生徒会顧問は、
「よく調べたな」
と言った。
久世は、少なくとも話し合いにはなると思った。
数日後。
回答が届いた。
却下。
理由は、
『学校としてすでに決定済みのため』
だった。
*
「それなら、最初から意見を出せなんて言わなければいいじゃないですか」
職員室の奥。
久世は担当教師と向き合っていた。
「君たちの意見を聞かないと言ってるわけじゃない」
「でも変える可能性が最初からないなら、聞いたことにならないでしょう」
「久世」
「俺たちは、単に予算を増やせと言ってるんじゃないです。配分を変えられないかって――」
「決定には、いろいろな事情があるんだ」
「なら、その事情を説明してください」
「全部を生徒へ説明できるわけではない」
「どうしてですか」
教師の顔にも疲れが出た。
「君は、生徒会長なら学校運営の全てに口を出せると思っているのか?」
久世は黙った。
そうではない。
そんなつもりではなかった。
「……思ってません」
「だったら、今回は受け入れてくれ」
話は終わった。
*
生徒会室へ戻る。
他の役員はすでに帰っていた。
机の上には、自分たちが作った資料が残っている。
何度も計算した数字。
教師へ説明するために作ったグラフ。
文化部から集めた要望。
久世は椅子へ座った。
しばらく何もしなかった。
一枚の資料を持ち上げる。
隅には自分の字で、
『再検討可能』
と書いてあった。
馬鹿みたいだった。
紙を丸めかけた。
途中でやめ、机の上へ戻した。
「何だったんだよ」
誰もいない部屋で呟いた。
自分は話すことが得意だと思っていた。
相手に届くように言葉を選べば、少なくとも話し合うことはできると思っていた。
最初から結論が決まっていたのなら、あの一週間は何だったのか。
机に肘をつき、片手で目元を押さえた。
泣くつもりはなかった。
ただ、しばらく誰にも見られたくなかった。
扉が開いた。
*
雨宮はその日、生徒会室を次の映画の撮影に使えないか確認するために来ていた。
廊下を歩きながら、カメラの設定を確かめていた。
録画はすでに始まっていた。
扉を開ける。
久世がいる。
いつもの久世ではなかった。
背中を丸め、片手で顔を覆っていた。
机には資料が散らばっている。
雨宮は足を止めた。
すぐにカメラを下ろすべきだった。
そう思った。
しかし、久世が顔を上げた。
目が赤い。
普段、人前では決して見せない顔だった。
雨宮の手が止まる。
ほんの数秒だった。
迷った。
それから、カメラをわずかに持ち上げた。
レンズを久世へ向けた。
三秒。
四秒。
五秒。
久世が雨宮に気づいた。
「……何」
雨宮は我に返ったように録画を止めた。
「あ、ごめん。明日の場所、確認しに来ただけ」
「そう」
「何かあった?」
「別に」
久世は資料を集めた。
「今日の撮影、無理。ごめん」
「分かった」
久世は鞄を持ち、部屋を出た。
雨宮は一人残った。
カメラの画面を見る。
先ほどの映像を再生した。
久世が顔を上げる。
何も喋らない。
ただ、悔しさを隠せない顔でこちらを見る。
雨宮は再生を止めた。
消そうと思った。
削除画面まで開いた。
指が止まる。
撮ったこと自体がよくなかった。
それは分かっていた。
けれど映像は、あまりにもよかった。
雨宮は、
「後で本人に聞けばいい」
と考えた。
削除画面を閉じた。
*
『議場の外』の撮影は続いた。
久世も戻った。
文化祭予算の話はしなかった。
雨宮も訊かなかった。
物語の終盤。
主人公が、市民ホールの閉鎖決定を知らされる場面。
何度撮っても、雨宮は納得しなかった。
「もっと落ち込んだ方がいい?」
久世が訊く。
「いや」
「じゃあ何」
「何か違う」
「それ、一番困るやつだぞ」
「分かってる」
五回。
六回。
久世の芝居は上手かった。
悔しさも出ている。
けれど雨宮には、どこか「悔しさを演じている」ように見えた。
撮影後。
一人で編集する。
何度も映像を並べ替えた。
ふと、生徒会室の映像を思い出した。
タイムラインへ置く。
主人公が閉鎖決定を知らされる。
場面が切り替わる。
無人のように静かな生徒会室。
一人で座る久世。
顔を上げる。
五秒。
台詞はない。
その後、映画のラストへ繋げる。
雨宮は最初からもう一度再生した。
今まで弱かった場面が、急に繋がった。
いい。
そう思った。
同時に、
「先に久世へ見せるべきだ」
とも思った。
けれど、すぐ別の考えが浮かんだ。
素材だけ見せたら、久世は嫌がるかもしれない。
映画の中に置けば、この映像がなぜ必要なのか分かってもらえる。
完成形に近い状態で見せてから判断してもらえばいい。
雨宮は、自分が久世のためにもそうしているような気になった。
*
「これ、使うの?」
翌日。
朝倉凛が粗編集を見た。
「使いたい」
「久世、この撮影したの知ってる?」
雨宮は少し間を置いた。
「カメラ持ってたのは見てる」
「そういう意味じゃない」
「まだ映像自体は見せてない」
凛はモニターを見る。
「先に聞いた方がいい」
「もちろん最後には聞くよ」
「最後じゃなくて、今」
「でも、カット単体で見せても意味分からないだろ。映画の中に入れた状態で見せた方が――」
「雨宮」
凛が遮った。
「それ、久世が決めることでしょう」
雨宮は黙った。
「撮影中でもない。演技でもない。本人が弱ってるところを撮ったんでしょう?」
「……うん」
「だったら、私なら先に聞く」
雨宮はモニターへ目を戻した。
「つないだ状態で見せた方が、久世も何で使いたいか分かると思う」
「それって、先に映画を見せれば断りにくくなるってことじゃないの?」
「そんなつもりじゃない」
「でも、そうなるかもしれない」
雨宮は返事をしなかった。
凛はそれ以上言わなかった。
「私はやめた方がいいと思う」
それだけ言った。
*
数日後。
主要メンバーだけで粗編集を見ることになった。
雨宮。
朝倉。
撮影担当。
音響担当。
そして久世。
視聴覚室の照明を落とした。
映画が始まる。
久世は途中まで普通に見ていた。
自分の演技は思っていたより悪くない。
台詞の順序も変わっている。
音が付くと、撮影中とは全く違って見えた。
終盤。
主人公の陳情が退けられる。
そして。
画面が切り替わった。
生徒会室。
久世は一瞬、何を見ているのか分からなかった。
自分だった。
あの日。
顔を上げる。
目が赤い。
誰にも見られていないと思っていた自分。
「止めて」
雨宮は反応できなかった。
「雨宮、止めろ」
再生が止まる。
暗い部屋に、パソコンの光だけが残った。
「これ何」
久世の声は低かった。
「あの日の生徒会室」
「それは分かる。何で撮ってるの」
雨宮は答えなかった。
久世が雨宮を見る。
「俺が顔上げた時、お前カメラ持ち上げたよな」
「……うん」
「撮ったんだ」
「うん」
「俺、撮っていいって言った?」
「言ってない」
「使っていいって聞いた?」
「聞いてない」
久世は画面へ目を戻した。
「じゃあ、何でここにあるの」
「この場面に必要だと思った」
「だから、何で俺に聞かなかったの」
「一回、映画として見てもらいたかった」
「何それ」
雨宮の声にも、焦りが出始めた。
「カットだけ見せるより、この中で見た方が、何で使いたいか分かると思ったんだ。嫌ならもちろん――」
「嫌だよ」
即答だった。
「消して」
雨宮が黙る。
「全部」
「分かった。でも――」
その瞬間、朝倉が雨宮を見た。
雨宮自身も、自分が何を言おうとしたのか分かった。
でも、いい映像なんだ。
一度だけ、そこまで見てから決めてほしい。
その言葉を飲み込めなかった。
「……この場面、今まで撮った中で一番――」
「ふざけんなよ」
久世の声が大きくなった。
部屋の空気が固まった。
「一番何?」
雨宮は言葉を失う。
「本物だった?」
久世は自分で言った。
「演技じゃないから?」
「そういう言い方したいわけじゃない」
「でもそうだろ」
久世は立ち上がった。
「あの日、俺、文化祭予算のことで学校と揉めてたんだよ」
雨宮は初めて事情を知った。
「一週間かけて資料作って、話せば何か変えられると思ってた。それが、最初から変える気なんかなかったって分かって。一人になりたくて、生徒会室にいた」
スクリーンを指差す。
「お前、俺がそういう時にカメラ向けたんだろ」
「……うん」
「何であんな顔してたかも知らなかったんだろ」
「知らなかった」
「それで主人公の顔にしたんだ」
雨宮は何も言えなかった。
「俺の気持ちが何だったかなんて関係なくて、お前の映画に合ったから使ったんだろ」
違う、と言いたかった。
けれど、違わなかった。
久世は続けた。
「白石には、嫌なカットは使わないって約束したって聞いた」
雨宮が顔を上げる。
「撮られるのが怖いって分かったから、ちゃんと考えたんだろ」
「うん」
「俺は?」
「……」
「俺はカメラ平気そうだから、何しても大丈夫だと思った?」
「そんなつもりじゃ」
「じゃあ何だよ」
久世の声は、怒鳴るというより震えていた。
「俺、お前の映画に出るとは言ったよ。役を演じるって言った。でも、俺の全部を好きに撮っていいなんて言ってない」
雨宮はようやく言った。
「ごめん」
「今は聞きたくない」
「久世」
「その映像、消して」
「分かった」
「元も」
「分かった」
「俺、もうこの映画出ない」
雨宮の顔が強張った。
それでも引き止めなかった。
「……分かった」
久世は鞄を持った。
視聴覚室を出ていった。
*
扉が閉まった後も、誰もすぐには動かなかった。
スクリーンには停止した久世の顔が残っている。
朝倉が言った。
「消そう」
雨宮は黙ったままマウスを動かした。
映像を閉じる。
「私、言ったよね」
「うん」
「先に聞いた方がいいって」
「うん」
「何で聞かなかったの」
雨宮はしばらく答えなかった。
「……つないだ状態で見せれば、分かってもらえると思った」
「映像の良さを?」
「うん」
「久世が嫌がっても?」
「そこまで嫌がると思ってなかった」
凛は雨宮を見る。
「どうして?」
雨宮は答えられない。
「白石は怖がる人。久世は平気な人。そう思ってた?」
雨宮の顔が少し歪んだ。
「たぶん」
「勝手に決めてたんだ」
「うん」
雨宮はスクリーンを見る。
「俺、あれ撮った時、止めた方がいいって分かってた」
凛は何も言わなかった。
「一回迷った。それでも撮った」
「どうして」
「いい顔だったから」
自分で口にして、雨宮は目を伏せた。
「最低だな」
凛は慰めなかった。
「うん」
それだけ言った。
雨宮は、生徒会室で撮った映像を元データごと削除した。
*
それで済むはずはなかった。
久世は出演を降りた。
問題の映像を外しただけではない。
主人公そのものがいなくなった。
別の役者を立てることもできた。
撮り直せば、形だけなら完成させられる。
朝倉が訊いた。
「どうする?」
雨宮は脚本を見た。
「やめる」
「映画?」
「うん」
「完成させない?」
「今の俺がこれ完成させても、たぶん駄目だと思う」
朝倉は理由を聞かなかった。
『議場の外』は完成しなかった。
雨宮湊が高校時代、途中で制作をやめた数少ない作品になった。
*
久世と雨宮は話さなくなった。
廊下ですれ違う。
目が合う。
どちらも何も言わない。
共通の友人はいた。
朝倉もいる。
白石もいる。
神崎もいる。
それでも、二人だけでは話さなかった。
一か月。
二か月。
年が変わった。
*
久世は最初の頃、雨宮の姿を見るだけで腹が立った。
無断で撮ったこと。
使おうとしたこと。
自分が嫌がった後まで、映画の良さを伝えようとしたこと。
時間が経っても、それは変わらなかった。
ただ、別のことを考えるようになった。
あの映像に映っていた自分についてだった。
見たくない顔だった。
生徒会長でもない。
演説している自分でもない。
人を納得させる言葉も持っていない。
ただ、悔しくて、どうしていいか分からなくなっている高校生。
あの映像が正しい自分だとは思わない。
普段の自分が偽物だとも思わない。
それでも久世は、自分が人前へ出る時、どれほど「見せる自分」を整えているのかを初めて意識した。
*
久世は話すことが上手かった。
相手が何を聞きたいのか考える。
届きやすい順番で話す。
感情的になりすぎない。
反論する時も、まず相手の言葉を受け取る。
長所だった。
同時に、癖でもあった。
腹が立っても、少し笑う。
悔しくても、言葉を整理する。
分からなくても、すぐにはそれを見せない。
生徒会長として必要な能力だと思っていた。
それだけではないのかもしれない、と考え始めた。
*
三年生。
久世は生徒会長を退任した。
後輩の選挙。
一人の候補から、応援演説を頼まれた。
体育館。
一年前、自分が立った場所だった。
演壇へ上がる。
「この人は、たぶん失敗します」
最初にそう言った。
候補者本人が驚き、生徒たちから笑いが起きる。
「俺は一年間、生徒会長をやりました。変えられなかったことがたくさんあります。話せば分かると思って、分かってもらえなかったこともありました。逆に、自分が正しいと思っていたら、後から自分の方が間違っていたこともあります」
少し言葉に詰まった。
以前なら、その沈黙を嫌っただろう。
その日は、そのまま続けた。
「だから、『この人なら学校を変えてくれる』とは言いません。そんなこと、誰にもできないと思います」
候補者を見る。
「ただ、失敗した時に人の話を聞ける人です。分からない時に、分からないと言える人です。俺は、生徒会長に必要なのはそういう人だと思っています」
拍手が起きた。
綺麗な演説ではなかった。
久世は、それでいいと思えた。
*
体育館を出る。
裏口近くに雨宮がいた。
カメラは持っていなかった。
久世は足を止める。
「何」
「少し話したい」
「今?」
「嫌なら帰る」
久世はしばらく雨宮を見た。
「五分だけ」
二人は校舎裏へ歩いた。
*
「前のこと」
雨宮が言った。
「ちゃんと謝りたい」
「前にも謝った」
「謝っただけだった」
久世は黙る。
「あの日、勝手に撮ったことがまず駄目だった。撮った後に消さなかった。編集に入れる前に聞かなかった。朝倉に言われたのに、自分が正しいと思って聞かなかった」
言葉を区切る。
「久世が嫌だって言った後も、俺は最初に映画の良さを説明しようとした」
久世は雨宮を見る。
「もう一個ある」
「何」
「俺が何を感じてたのか知らないのに、分かったように使った」
雨宮は少し俯いた。
「うん」
「そこが一番嫌だった」
「うん」
「本当に分かった?」
雨宮はすぐに頷かなかった。
「……今は、前よりは」
「前より?」
「本当に分かったかどうかって、俺が自分で決めることじゃないと思うから」
久世は少し意外そうな顔をした。
「随分慎重になったな」
「なった」
「俺のせい?」
「かなり」
「それは少し気分いい」
久世が笑った。
雨宮も、ほんの少し笑った。
*
「一個聞いていい?」
久世が言う。
「何」
「あの映像」
「うん」
「今見ても、いい映像だったと思う?」
雨宮は黙った。
ごまかさずに考える。
「思う」
久世の眉が少し動く。
「正直だな」
「映像だけなら、たぶん今でもいいと思う」
「じゃあ、使いたかった?」
「使っちゃ駄目だった」
雨宮は久世を見る。
「いい映像かどうかと、使っていい映像かどうかは別だった」
久世はしばらく何も言わなかった。
「白石の時は、それ分かってたじゃん」
「白石は、カメラが怖いって知ってたから」
「俺は?」
「撮られることに慣れてると思ってた。人前にも出るし、何でも喋れるし。強い人間だって勝手に思ってた」
「ひどい分類だな」
「うん」
「人によって配慮するか決めてたんだ」
「そうだと思う」
「最悪」
「うん」
久世は笑った。
「そこまで自分で認められると、怒りにくい」
「別に許してもらうために言ってない」
「それも腹立つな」
二人とも少し笑った。
以前と同じではなかった。
けれど、半年ぶりだった。
*
「俺も、一個だけ言っとく」
久世が体育館の方を見る。
「あの映像見てから、自分が普段どういう顔してるか、少し考えるようにはなった」
雨宮は黙って聞く。
「俺、喋るの得意だろ」
「うん」
「たぶん、得意すぎたんだよ。怒ってても、それっぽく話せる。分からなくても、考えてるように喋れる。それで自分でも、全部整理できてると思ってた」
「今日の演説、途中で詰まったな」
「気づいた?」
「うん」
「前なら絶対、ああならないように原稿作ってた。でも、今日はまあいいかと思った」
「よかったと思う」
「監督みたいに言うな」
「ごめん」
久世は笑った。
それから少し表情を変えた。
「でも、あの件を良かったことにはしないからな」
「うん」
「そこだけは覚えとけ」
「覚えてる」
それで十分だった。
*
その日から、突然以前の関係へ戻ったわけではない。
少しずつだった。
昼休みに話す。
映画部へ顔を出す。
雨宮が新しい脚本を見せる。
久世が、
「この議員の台詞おかしい」
と直す。
そんなところから始まった。
*
ある日の放課後。
雨宮がカメラを持って廊下を歩いていた。
窓際に久世が立っている。
西日が差していた。
「久世」
「何」
「今、撮っていい?」
久世は少し驚く。
「何を」
「何もしてないところ」
「意味分からない」
「光がいい」
久世は雨宮を見た。
しばらくして笑う。
「今日はいいよ」
雨宮はカメラを構えた。
「今日は、って何だよ」
「毎回聞けってこと」
「分かってる」
録画が始まる。
久世は窓の外を見る。
雨宮も何も指示しなかった。
数秒。
「もういい」
久世が言う。
「分かった」
雨宮はすぐにカメラを下ろした。
その映像が何かの映画へ使われたのか、久世は知らない。
おそらく何にも使われなかった。
それでよかった。
*
高校卒業後。
久世は法学部へ進学した。
司法試験に合格し、弁護士になった。
企業案件より、行政や労働、学校を巡る問題を扱うことが増えた。
法律を正しく知っていれば全て解決できる、とはすぐに思わなくなった。
制度があっても、そこへ辿り着けない人がいる。
制度を知っていても、使う余裕がない人がいる。
自分の状況をうまく言葉にできない人もいる。
高校時代に考えていたより、世界はずっと複雑だった。
三十二歳の時、国政への出馬を勧められた。
最初は断った。
政治家になるつもりはなかった。
しかし弁護士として同じ種類の問題に何度も出会ううち、制度そのものを変えなければ繰り返すことがあると知った。
初めての選挙。
落選した。
三年後。
もう一度出た。
今度は当選した。
*
初当選の夜。
雨宮からメッセージが来た。
『おめでとう。』
それだけだった。
久世は返信した。
『もっとないの?』
『選挙詳しくないから。』
『高校の時、政治の映画撮ってただろ。』
『完成してないけど。』
久世はしばらく画面を見た。
『あの映画、まだデータある?』
少しして返信。
『ある。問題の映像以外は。』
『見せて。』
『いいの?』
『今なら。』
*
数週間後。
二人で『議場の外』の素材を見た。
完成していない。
音も整っていない。
場面の順番も途中だった。
高校二年生の二人が作った未完成の映画。
久世の芝居は、今見るとかなり拙かった。
「俺、下手だな」
「当時は上手いと思ってた」
「お前の見る目も大したことないな」
「今ならもっと上手く撮れる」
「二度と出ない」
「まだ何も頼んでない」
二人は笑った。
やがて、生徒会室の映像が入っていたはずの場所へ来た。
そこだけ映像が不自然に飛ぶ。
空白だった。
雨宮は本当に消していた。
バックアップにも残していない。
久世は何も言わなかった。
数秒後。
次のカットが始まる。
主人公が市民ホールの前に立っている。
二人は、そのまま最後まで見た。
*
「雨宮監督を許したのは、いつだったと思いますか」
現在。
記者が尋ねる。
久世は少し考えた。
「許した、という感覚はあまりないですね」
「今も?」
「今は怒ってませんよ。もう随分前ですから」
久世は笑った。
「でも、『結果的に自分にも得るものがあったから、あれでよかった』とは思いません」
「なぜでしょう」
「誰かを傷つけた結果、その人が何かを学んだからといって、傷つけたことまで正しくなるわけじゃないでしょう」
記者のペンが止まった。
「雨宮監督も、今はそう考えている?」
「たぶん」
「高校時代は?」
「違いました」
久世は少し笑う。
「いい映像が撮れたら、それだけで価値があると思ってた。悪意はなかったですよ。むしろ、悪意がないから厄介だった」
「その後、変わったと思いますか」
「変わりましたね」
「撮影前に許可を取るようになった?」
「それもありますけど」
久世は少し考える。
「自分が見つけたものを、その人の本質だと思い込みすぎなくなった気がします」
記者が顔を上げた。
「高校の頃の雨宮は、『本当の顔』を撮りたがってたんですよ。演技してない顔とか、本人が自分でも知らない顔とか」
「今は?」
「本当の顔なんて、一個じゃないと思ってるんじゃないですか」
久世は窓の外を見る。
「俺が勝手にそう思ってるだけですけどね」
*
「これまでお話を伺った皆さんは、高校時代の雨宮監督との時間を大切なものとして話していました」
記者が言った。
「俺も大切ですよ」
「一度、そこまで傷つけられているのに?」
久世は少し笑った。
「大切な思い出って、全部綺麗じゃないと駄目ですか」
記者は答えなかった。
「高校時代の雨宮は、俺が知ってる中で一番映画が好きな奴でした。人のこともよく見ていた。でも、人を見るのが上手いことと、人を分かったことは同じじゃなかった」
久世はテーブルに置かれた取材用カメラを見る。
「あいつは、あの時初めてそれを思い知ったんじゃないですか」
*
取材が終わった頃。
先ほど泣いていた大学生のボランティアが会場へ戻ってきた。
「久世さん」
「大丈夫?」
「はい。祖母、意識戻ったみたいです」
「それはよかった」
「さっき、ありがとうございました」
「俺は何もしてないよ」
「カメラ、止めてくれたので」
久世は少しだけ笑った。
「それは当然だから」
女性は頭を下げ、スタッフのところへ戻った。
雑誌のカメラマンが久世を見る。
「久世さん」
「はい」
「今は撮って大丈夫ですか」
久世は一瞬だけ、その質問に昔を思い出した。
「俺はいいですよ」
「ありがとうございます」
カメラが上がる。
久世は特別な顔を作らなかった。
スタッフが机を運んでいる。
自分も一つ持つ。
「議員、またやるんですか」
秘書が呆れる。
「あと三つだろ」
「スタッフがやりますって」
「俺もスタッフみたいなもんだよ」
「給料違います」
「そこ?」
笑い声が上がった。
カメラは回っていた。
久世は気にしなかった。
撮られていると分かっているからだけではない。
撮られたくないと言えば、止めてもらえると知っているからだった。
*
その夜。
東京へ戻る新幹線の中で、久世は雨宮へ短いメッセージを送った。
『今日、お前の高校時代の悪事を記者に喋った。』
数分後。
『久世の映像の件まで?』
久世は少し笑った。
『当然。』
既読がつく。
少し間があった。
『あの時はごめん。』
二十年近く前にも聞いた言葉だった。
今では、その言葉を受け取る側も、言う側も変わっている。
久世は少し考えた。
『知ってる。』
それだけ返した。
窓の外へ目を向ける。
夜の町が流れていく。
窓ガラスには、自分の顔が映っている。
国会議員の顔。
一日の仕事を終えて疲れた三十五歳の男の顔。
探せば、高校生だった頃の面影も少しくらい残っている。
昔なら、どれが本当の自分なのかと考えたかもしれない。
今は、そうは思わない。
どれも自分だった。
人は、一瞬だけでは終わらない。
カメラの外にも、人生は続いている。
新幹線は、夜の中を走っていった。
第七章 了