誰かの迷いを、誰かの決意を、誰にも見せない一瞬を。
けれど、彼自身の人生を映すカメラはなかった。
これは、七人の記憶の先でようやく始まる、雨宮湊自身の物語だ。
名前を呼ばれた時、雨宮湊は一度だけ目を閉じた。
巨大な劇場を満たした拍手が、ほんの少し遅れて耳へ届いた。
隣に座っていた主演俳優が肩を叩く。反対側ではプロデューサーが両手で顔を覆い、その向こうから誰かが身を乗り出して何かを叫んでいた。
正面のスクリーンには、自分の名前が映っている。
AMAMIYA MINATO.
その下に、映画の題名。
『遠い朝』。
四十一歳。
長編映画十作目。
雨宮湊は、アカデミー監督賞を受賞した。
*
立たなければならない。
分かっているのに、すぐには足が動かなかった。
こういう場面を、雨宮はこれまで何度も映画の中で撮ってきた。
名前を呼ばれる。
息を呑む。
立ち上がる。
隣の誰かと抱き合い、壇上へ向かう。
映画なら、どこにカメラを置くかを考える。顔を撮るのか、震える手を撮るのか。音楽を入れるのか、それとも拍手だけを残すのか。
けれど自分が画面の中へ置かれると、何をすればいいのか分からなかった。
「行け」
隣から言われた。
雨宮はようやく立った。
拍手の中を歩く。
何十台ものカメラが自分へ向いている。
その光景を見ながら、なぜか高校の視聴覚室を思い出した。
古いプロジェクター。
傷だらけの机。
窓から光が入らないように貼った黒い画用紙。
床に座った十人にも満たない高校生。
そして、その真ん中で何度も、
「もう一回、最初から見よう」
と言っていた自分。
あれから二十五年近くが経っていた。
*
壇上へ上がる。
受賞像を受け取る。
思っていたより重かった。
マイクの前に立つ。
客席が静かになる。
用意してきた言葉はあった。
映画のスタッフ。俳優。プロデューサー。撮影、照明、録音、美術、編集。忘れてはいけない名前を紙へ書き出し、ホテルの部屋で何度も確かめた。
それなのに、最初に口から出たのは別の言葉だった。
「高校生の頃、僕は映画は監督が作るものだと思っていました」
客席が静かに聞いている。
「カメラを向ければ、その人の本当の顔が撮れるとも思っていました。今振り返ると、かなり傲慢な高校生だったと思います」
小さな笑いが起こった。
雨宮も少し笑った。
「僕はこれまで、人を撮る仕事をしてきました。でも今思うと、僕の方がずっと、撮った人たちに作られてきたんだと思います」
一度、息を吸った。
「カメラの前に立ってくれた人。カメラの後ろで支えてくれた人。僕の脚本を直してくれた人。止めるべき時に止めてくれた人。僕が間違った時に、間違っていると言ってくれた人。その人たちがいなければ、僕はここにはいません」
客席のどこかで、プロデューサーがまだ泣いていた。
「そして、映画を見ることも作ることも知らなかった僕に、最初のカメラを残してくれた母に感謝します」
そこで少しだけ声が詰まった。
雨宮は無理に続けなかった。
「この映画を一緒に作ってくれた全員に、ありがとうございます」
拍手が起こる。
雨宮は像を見下ろし、それから少し困ったように笑った。
「……ただ、監督賞なので、名前は僕だけなんですけど」
会場に大きな笑いが広がった。
雨宮も笑った。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
*
受賞の映像は、その日のうちに世界中へ流れた。
日本では朝からニュースになり、昼には字幕付きのスピーチ動画が広がり、夜には何度も再放送された。
それぞれが、自分の生活の途中でその映像を見た。
*
白石紗月は、夜のライブを終えた楽屋にいた。
メイクを落としている途中、若いマネージャーがスマートフォンを差し出した。
「紗月さん、スピーチ見ました?」
「朝のニュースで途中まで。ちゃんとはまだ」
二人で映像を見る。
四十一歳になった雨宮が壇上で話している。
昔より髪は短くなり、目尻には少し皺がある。それでも、言葉を探す時に一度だけ視線が下へ落ちる癖は変わっていなかった。
紗月は笑った。
「どうしました?」
「ううん」
カメラの前へ立つことさえ怖かった高校一年生の自分と、
『嫌なら使わない』
と言った少年を思い出していた。
あの頃の雨宮なら、いつかこんな場所へ行くと本気で思っていただろう。
根拠もなく。
そういう少年だった。
*
神崎蓮は、海外遠征先のホテルでその映像を見た。
現役を退いて数年。
今は若い選手の指導をしている。
「神崎さん、この監督と本当に同級生なんですか」
教え子が訊いた。
「そう」
「世界的な監督ですよ」
「知ってるよ」
「高校の時から天才だったんですか」
神崎は少し考えた。
「映画のことになると、人の練習予定を忘れるくらいには」
「最悪じゃないですか」
「最悪だった」
皆が笑った。
画面の中では、雨宮が「止めるべき時に止めてくれた人」と話していた。
神崎は何も言わなかった。
翌朝の練習時間を確認しようと腕時計へ目をやり、少しだけ笑った。
*
水野遥は病院にいた。
予定していた手術が長引き、医局へ戻った時には夕方になっていた。
若い医師たちがパソコンの前に集まっている。
「先生、雨宮監督のスピーチです」
「知ってる」
「高校の同級生なんですよね」
「そう」
「すごいですね」
「本人に言って」
遥も一緒に画面を見る。
高校一年の秋。
病院の廊下で、
『医者って、思ってたより待つんだな』
と言った少年を思い出す。
「サインとか頼まないんですか」
後輩が訊く。
「頼まない」
「もったいない」
「昔の自主映画の点滴の位置がまだおかしかったって言ってくるような人だから」
若い医師たちは笑った。
遥も笑った。
それから、次の患者のカルテを開いた。
*
朝倉凛は締切前だった。
原稿は六ページ残っている。
編集者から、
『先生、本日中です』
という連絡が三度来ていた。
凛はそれには返信せず、受賞スピーチの動画を見ていた。
高校生の頃なら、もっと喋っただろうと思った。
人とは何か。
映画とは何か。
自分が何を撮りたいのか。
今の雨宮は、以前より少しだけ、言葉を言い切らずに残すようになった。
凛はスマートフォンを取った。
『おめでとう。スピーチは少し長い。』
送信する。
返事は来なかった。
「さすがに今は返さないか」
凛は呟き、ようやく原稿へ戻った。
三時間後。
『ありがとう。漫画家に言われたくない。』
と返ってきた。
凛はそれを見て笑った。
*
相馬翔太は、自宅で夜のニュースを見ていた。
高校生の娘が隣に座っている。
「お父さん、この人と一緒に映画作ってたん?」
「一緒に作ってたっていうか、俺は主に止めてた」
「何を?」
「この人を」
娘がテレビを見る。
「アカデミー賞取る人を止めてたん?」
「高校生の時はアカデミー賞も何もないよ」
「でも才能あったんやろ」
「映画の才能はあったと思う」
「お父さんは?」
「俺?」
「何してたん」
相馬は少し考えた。
「撮影表作ったり、許可取ったり」
「地味」
「地味だろ」
娘が笑う。
画面の中の雨宮が、
『カメラの後ろで支えてくれた人』
と話した。
相馬は何も言わなかった。
娘も父親を見なかった。
ただ、テレビの音量を少し上げた。
*
三浦航の店では、最後の客を送り出した後だった。
若い料理人が厨房で受賞映像を再生した。
「シェフ、この監督、高校の知り合いなんですよね」
「そう」
「何作ってあげたんですか」
「飯」
「何の?」
三浦は少し考えた。
「豚汁」
一瞬静かになった。
「アカデミー賞監督に豚汁?」
「高校生だぞ」
笑いが起こった。
「シェフ、明日の賄い決まりましたね」
「勝手に決めるな」
「豚汁で」
三浦は画面の中の雨宮を見る。
「……まあ、いいよ」
*
久世直樹は議員会館にいた。
翌日の委員会資料が机の上に積まれている。
秘書がスマートフォンでスピーチ映像を見せた。
『僕が間違った時に、間違っていると言ってくれた人』
久世は少しだけ眉を上げた。
「これ、久世さんのことじゃないですか」
秘書が言う。
「自意識過剰になるからやめて」
「違うんですか」
「本人に聞いて」
久世は資料へ目を戻した。
数秒後、スマートフォンを取る。
『おめでとう。次の映画に政治家出すなら、今度こそ台詞見せろ。』
送った。
返事は来なかった。
当然だった。
久世は端末を伏せ、委員会資料の続きを読み始めた。
*
六年前。
雨宮が三十五歳だった頃。
七人を追ってきた女性記者は、最後に雨宮本人を訪ねていた。
*
その頃の雨宮は、映画好きの間ではよく知られた監督だった。
海外の映画祭で賞を取った作品もあれば、批評家に高く評価された作品もある。
ただ、興行成績は安定しなかった。
当たる時もあれば、ほとんど客が入らない時もある。
企画が動き出してから消えることもあった。
『新しい才能』
と書かれた数年後には、
『期待に応えられず』
と書かれた。
それでも雨宮は、映画を撮っていた。
取材場所は、郊外の小さな編集スタジオだった。
「やっと本人まで来ました」
雨宮が笑った。
「ずいぶん遠回りしましたね」
「あなたより先に、あなたを知っている人たちの話を聞きたかったので」
「俺から聞いた方が早かったでしょう」
「本人が、自分のことを一番正確に知っているとは限りません」
雨宮は少し目を細めた。
「それ、久世に言われそう」
「久世さんにも取材しました」
「何話してました?」
「高校二年の時、あなたを本気で嫌いになった話を」
雨宮は一度、目を閉じた。
「そこまで話したのか」
「記事にしていいと言われています」
「久世がいいなら」
「止めませんか」
「止める権利ないでしょう」
雨宮はそう言って、少し笑った。
*
記者は、これまで聞いてきた話を一つずつ雨宮へ伝えた。
白石紗月。
神崎蓮。
水野遥。
朝倉凛。
相馬翔太。
三浦航。
そして久世直樹。
「皆さん、高校時代のあなたとの時間が今も自分の中に残っていると話しました」
「そうですか」
「雨宮さんは、彼らの人生を変えたと思いますか」
「思いません」
即答だった。
「全く?」
「そんなこと言ったら、本人たちに怒られます」
雨宮は椅子の背へ身体を預けた。
「白石が歌い続けたのは白石が何年もやってきたからでしょう。神崎も、水野も、朝倉も、みんな自分で選んで、その後を生きた。相馬先輩も三浦も久世もそうです」
少し考える。
「俺は高校の途中に少しいただけです」
「でも彼らは覚えている」
「俺も覚えてます」
「同じように?」
雨宮はモニターの静止画を眺めた。
「たぶん、俺の方が残ってる」
*
「どういう意味ですか」
記者が訊く。
雨宮はすぐには答えなかった。
「撮る側から見えないものがあることも、映画を撮るために人を壊しちゃいけないことも、自分一人で映画を作ってるわけじゃないことも、高校の時にあいつらから教えられました」
それだけ言って、少し笑った。
「今でも朝倉には脚本直されますけど」
「久世さんからは?」
雨宮の表情が変わった。
長い沈黙の後、言った。
「撮れるものと、撮っていいものは違う」
記者はそれ以上、聞かなかった。
*
「それでは、雨宮さんが皆さんを変えたというより」
「俺が変えられたんです」
雨宮が言った。
「たぶん、ずっと」
*
取材の終わり。
記者は一つだけ、別の質問をした。
「雨宮さんは昔から、何でもない瞬間を撮ることが多いですよね」
「そうですね」
「何か理由があるんでしょうか」
雨宮は少し困った顔をした。
「理由って言われると難しいですね」
「監督になった原点のようなものは?」
「原点」
雨宮はその言葉を小さく繰り返した。
*
雨宮が初めてカメラを持ったのは、十歳の時だった。
父親が使わなくなった家庭用ビデオカメラ。
古く、重かった。
旅行へ行った時、父から渡された。
「落とすなよ」
それだけ言われた。
最初に撮ったのは海だった。
次に父親。
妹。
母親。
母は、
「何撮ってるの」
と笑った。
その後もカメラを借り、家の中を撮った。
夕食を作る母。
洗濯物を畳む母。
電話をしながらメモを取る母。
テレビを見て笑う母。
「やめてよ」
と言いながら、完全には嫌がらなかった。
十三歳の時。
母親が病気になった。
入院した。
半年後、亡くなった。
*
葬儀が終わって数日。
家には人が来なくなった。
花だけが多く残った。
父は仕事を休んでいた。
妹は時々、突然泣いた。
雨宮は泣けなかった。
自分でも理由が分からなかった。
夜。
一人で昔の映像を見た。
旅行。
運動会。
誕生日。
どれも知っている。
途中で、何でもない映像が出てきた。
母親が洗濯物を畳んでいる。
カメラの後ろから、十歳の雨宮が呼ぶ。
『お母さん』
母が振り返る。
『何?』
それだけだった。
五秒にも満たない。
雨宮は巻き戻した。
もう一度見る。
『お母さん』
母が振り返る。
『何?』
もう一度。
もう一度。
映像の中では、何度再生しても母親は同じように振り返った。
雨宮はその夜、母が亡くなってから初めて泣いた。
*
「それで映画監督に?」
記者が訊いた。
雨宮は首を振った。
「そんな綺麗な話じゃないです」
「違う?」
「映画が好きになった理由は他にもいっぱいありますし、監督になろうと思ったのはもっと後です」
少し考える。
「でも、普通の顔を撮りたいのは、あれと関係あるかもしれません」
「普通の顔?」
「何も起きてない時の顔です。ご飯食べてるとか、歩いてるとか、誰かに呼ばれて振り返るとか」
「どうして、そういう瞬間を?」
雨宮は少し黙った。
「なくなってから、一番思い出せなくなるからだと思います」
それ以上は話さなかった。
*
雨宮湊の監督人生は、順調ではなかった。
高校卒業後、映画を学び、自主映画を撮り、アルバイトをしながら助監督をした。
二十五歳で商業長編監督としてデビュー。
一作目は高く評価された。
二作目は興行的に失敗。
三作目は作品評こそ悪くなかったものの、公開規模は小さかった。
次の企画は、撮影直前で資金が止まった。
そこからしばらく、長編映画を撮れなかった。
CMや配信作品、ミュージックビデオの仕事はあった。
生活はできた。
それでも、自分の映画が撮れない。
企画書を書く。
送る。
断られる。
『前作の成績を考えると難しい』
『もう少し分かりやすい企画に』
『主演が決まれば再検討します』
似たような返事を何度も読んだ。
三十二歳の頃。
雨宮は初めて、本気で監督を辞めようと思った。
*
その年。
母校の旧校舎が、数年後に建て替えられるという話が出た。
相馬から、
『久しぶりに集まらないか』
と連絡が来た。
全員は集まれなかった。
白石は仕事。
神崎は海外。
水野は病院。
久世も予定が合わない。
集まったのは、雨宮、朝倉、相馬、三浦。
高校近くの居酒屋だった。
三浦が料理を一口食べて、
「この出汁、薄い」
と言った。
「店で言うなよ」
相馬が止める。
「本人には言ってない」
「聞こえてるかもしれないだろ」
朝倉が笑った。
雨宮はほとんど喋らなかった。
「何」
凛が気づいた。
「別に」
「嘘」
「何が」
「雨宮が飲み会で映画の話しないのおかしい」
三浦も顔を見る。
「体調悪い?」
「そこまで?」
雨宮は笑った。
少しして、言った。
「映画、やめようかなと思ってる」
三人とも黙った。
相馬が最初に口を開いた。
「撮りたくないの?」
雨宮は考えた。
「……撮りたい」
「じゃあ何でやめるの」
「撮らせてもらえないから」
朝倉が言う。
「それ、やめたいんじゃないじゃん」
「同じだろ」
「全然違う」
凛はグラスを置いた。
「撮りたいものがなくなったなら、やめてもいいと思う。でも、撮りたいのに、誰も評価してくれないからとか、企画が通らないからって理由でやめるのは、ちょっと格好悪い」
「厳しいな」
「昔からでしょう」
三浦が言った。
「小さいの撮れば?」
「簡単に言うな」
「高校の時は金なくても撮ってたじゃん」
「商業映画と一緒にするなよ」
「じゃあ映画じゃなくても何か撮れば」
相馬はしばらく黙っていた。
「湊」
「何ですか」
「本当に撮りたくないなら、やめてもいいと思うよ」
高校時代と同じ声だった。
決めつけない。
急がせない。
「でも、まだ撮りたいなら、今日決めなくてもいいだろ」
雨宮は返事をしなかった。
*
翌年。
雨宮は小さな映画を撮った。
大きな会社は入らなかった。
予算も少ない。
有名俳優もいない。
題材は、母親を亡くした中年の男が実家を片づける数日間だった。
古い食器を捨てる。
服を畳む。
冷蔵庫の中身を処分する。
隣人と話す。
最後に、母が使っていた椅子を一つだけ持って帰る。
大きな事件は起きない。
国内では小規模公開だった。
客は多くなかった。
けれど海外の小さな映画祭へ呼ばれ、そこから別の映画祭へ渡り、配信でも少しずつ見られた。
雨宮にとって、二度目の始まりになった。
*
それから八年。
雨宮は映画を撮り続けた。
成功した作品もある。
失敗した作品もある。
批評家に褒められ、自分では好きになれない映画もあった。
自分では好きなのに、ほとんど見てもらえなかった映画もある。
そして十作目。
『遠い朝』。
*
主人公は、母親を亡くした十三歳の少年だった。
父親の古いカメラを持っている。
少年は町にいる人を撮る。
朝早く店を開けるパン屋。
駅前で鳩へ餌をやる老人。
毎日同じ時間に犬を散歩させる女性。
商店街で喧嘩する兄弟。
誰かの帰りを待つ父親。
何も特別ではない人たち。
母親が亡くなった理由は、最後まで詳しく説明されない。
少年も、
『忘れたくない』
とは言わない。
ただ、撮る。
物語が進むにつれ、カメラを構える時間が少しずつ減っていく。
最後。
朝の食卓。
少年と父親が二人でパンを食べている。
カメラはテーブルの端に置かれている。
録画はされていない。
父親が何かを言う。
少年が笑う。
映画はそこで終わる。
*
公開後、
『雨宮湊の自伝的作品』
と何度も書かれた。
そのたびに雨宮は、
「違います」
と答えた。
嘘ではなかった。
自分の人生そのものではない。
ただ、これまで撮ったどの映画より、自分の近くにある作品だった。
*
アカデミー賞受賞後の記者会見。
世界中から記者が集まっていた。
制作費。
主演俳優。
日本映画について。
次回作。
母親について。
似た質問へ、少しずつ違う言葉で答える。
終盤。
後方の席から手が上がった。
日本人の女性記者だった。
六年前、自分を取材した人。
雨宮は少し驚いた。
「お久しぶりです」
会場に小さな笑いが起こる。
記者も笑った。
「覚えていていただけましたか」
「かなり長く取材されたので」
「では、最後に一つだけ」
「はい」
「六年前には聞かなかった質問です」
雨宮は待った。
「雨宮監督にとって、映画とは何ですか」
よくある質問だった。
人生。
夢。
言語。
世界との対話。
どんな答えでも用意できる。
雨宮は少し考えた。
高校時代の顔が、順番もなく浮かんだ。
カメラの前に立った人。
その後ろにいた人。
自分と喧嘩した人。
止めてくれた人。
そして、洗濯物を畳んでいた母親。
『お母さん』
振り返る。
『何?』
雨宮はマイクへ顔を近づけた。
「誰かを覚えておく方法です」
それだけ答えた。
*
受賞から三か月後。
雨宮は母校を訪れた。
旧校舎はもうなかった。
数年前に建て替えられている。
昔の映画研究部の部室も、視聴覚室もない。
職員室で名前を告げると、若い教師がひどく緊張した顔で出てきた。
「本当に来られるとは思ってませんでした」
「約束してたので」
「校長が出張で、ものすごく悔しがってます」
「それは申し訳ないです」
教師は笑った。
「昔の映画、残ってますよ」
案内されたのは、新しい視聴覚室だった。
大きなスクリーン。
新しいプロジェクター。
壁には文化部活動の写真。
「相馬先生から、昔のデータを学校へ寄贈してもらったんです。劣化する前にって」
「相馬先輩が?」
「はい」
雨宮は笑った。
「相変わらずだな」
パソコンのフォルダが開かれる。
『一台遅いバス』
『夏の終点』
『白い部屋の外で』
『雨の向こう側』
いくつもの題名。
その中に、
『議場の外』
もあった。
未完成。
雨宮はそこへ一瞬だけ視線を止めた。
「何か見ますか」
「一人で見てもいいですか」
「もちろんです」
若い教師は部屋を出ていった。
*
雨宮は椅子へ座った。
『一台遅いバス』
を選ぶ。
再生した。
*
ひどい映像だった。
最初の一分で笑ってしまった。
画面は少し傾いている。
音は遠い。
カットのつながりも悪い。
「何でここ切ったんだよ」
一人で呟く。
照明も足りない。
芝居もまだ硬い。
音楽の入り方も、今見ると恥ずかしい。
十六歳の自分が、
『これで完成』
と思っていたことが信じられなかった。
それでも、途中から笑わなくなった。
*
画面の中に白石紗月がいる。
まだ何の肩書きもない、高校一年生。
バス停に立っている。
一台目のバスを見送る。
次の日。
少しだけ前へ立つ。
母親の傘を持つ。
友人からのメッセージへ返信する。
そして最後の日。
一台目のバスに乗る。
窓際へ座る。
劇的なことは何も起こらない。
昨日までできなかったことを、今日はする。
それだけだった。
「朝倉、やっぱりここの方が正しかったな」
雨宮は誰もいない部屋で呟いた。
*
映像の外から声が聞こえた。
『もう一回いける?』
高校生の雨宮自身の声。
今より少し高い。
『いける』
紗月が答える。
その後ろから、
『あと二十分で撤収だからな』
相馬の声。
『雨宮、時間見て』
朝倉。
誰かが笑った。
画面が少し揺れる。
本編には使われなかった数秒が、そのまま残っていた。
雨宮は再生を止めなかった。
画面の中の誰も、まだ未来の肩書きを持っていない。
誰も、自分がどこへ行くのか知らない。
もちろん雨宮自身も知らない。
全員、途中だった。
*
映画が終わる。
エンドクレジット。
監督 雨宮湊。
出演 白石紗月。
脚本協力 朝倉凛。
制作進行 相馬翔太。
高校生が付けた、不格好な肩書きが流れていく。
最後の文字が消えた。
白いスクリーンだけが残った。
雨宮はしばらく座っていた。
*
プロジェクターを止める。
スクリーンの光がゆっくり消えていく。
あの頃は、映画を撮れば何かをそのまま残せると思っていた。
今も、残せるものはあると思っている。
ただ、全部ではない。
声も。
匂いも。
味も。
その人が本当に何を考えていたのかも。
カメラは一瞬しか撮れない。
その一瞬が、その人の全部になるわけではない。
それでも時々、一瞬だけが何年も残る。
一台遅いバス。
時間を測らなかった走り。
病院の廊下。
何度も書き直された脚本。
撮影の外で組まれた予定表。
湯気の立つ豚汁。
消した五秒。
洗濯物を畳む母親。
どれも、人一人の人生を説明するには小さすぎる。
それでよかった。
*
視聴覚室を出た。
放課後だった。
廊下の向こうから、生徒たちの声が聞こえる。
部活動へ向かう者。
友人と話しながら帰る者。
教室へ忘れ物を取りに戻る者。
誰も雨宮には気づかない。
窓の外へ目を向けた。
校庭の端。
一人の生徒がしゃがみ込んでいた。
その隣に、別の生徒がいる。
何かを言っているようには見えない。
ただ、そこにいる。
雨宮は一瞬、ポケットのスマートフォンへ手を伸ばしかけた。
止めた。
そのまま少しだけ見た。
やがて二人のうち一人が立ち上がる。
雨宮は窓から離れた。
全部を残さなくてもいい。
自分が覚えていればいいものもある。
校舎を出る。
西日の中を、生徒たちの影が長く伸びている。
二十五年前と同じように、放課後が始まっていた。
完