彼女の最近の楽しみは、当番の日に先生と共に仕事をすることだった。
しかし、先生にとってそれは、何でもなかった。
恋愛したことはありますが、それは気の迷いだった、ということしかありませんでした。
健全な恋愛をしたいですね。
───先生が消えた。
彼の残滓は、机の上に残された書き置きだけ。
その日は当番の翌日で、雲は無くて、燃えるゴミの日だった。穴の開いた緑のネットに烏が1羽佇んで、誰かのビニル袋が空を這っていた。
チェーン店は賑わず、商店街は俯いたまま。街に1人だけ浮いたようだった。
それと、蝉が鳴いていた。
◇
緞帳が上がる。
約4時間ぶりに天井を見上げ、嘆息を漏らす。目覚ましは役目を果たす前にその仕事を止めなくてはいけなくなった。
まだ4時である──夜では遅く、朝にはまだ早い。肌寒いようなそうでないような気温。太陽も起きるのを渋っている。しかし二度寝の為に目を瞑っても意味の無いことは知っているから、寝床から這い出るように起きた。
いつも通りの朝、というのは急速に現実から色を無くしていく。
しかし、今日は「いつもの日々」とは違うということを思い出す。
「当番……」
シャーレの先生の補佐を務める日、もとい"12時間先生の傍に居れる日"のことを当番の日と言う。
朝が七色に輝いて、私の脳を貫いた。
口角が上がる。
「ふふ……♡」
◇
朝食はその香りをリビングに披露する。大皿の上の焼けたパンの香り、ふわりとした卵の香りに、オレンジの甘酸っぱい香りが際立つ。ハムとレタスの装飾で、パンはサンドイッチとして生まれ変わった。変わり映えのしない朝食、しかし今日はなぜだか彩度が高い。
それを少しずつ噛み砕く。
皿の上には、屑が残った。
朝食を片付け、身だしなみを整えていく。
制服に着替え、髪を結い、メイクを乗せ──今日は、ネイルもしてみよう。
補習授業部の皆んなでショッピングに行った時に買ったネイルセットがあるはずだ。
そうしたら、そうしたら──きっと先生に、もっと私を、見てもらおう。
◇
当番は午前8時から始まって、午後6時に終わる。途中で抜けることも可能。
先生は生徒のことを一番に考えすぎる節がある。それもあって「当番」という強制的な堅苦しいものではなく、「暇つぶしついでに先生の事を手伝ってくれると嬉しいな」というスタンスになっている。
身辺の整理が終わった今である午前6時からだと、開始まであと2時間ある。しかしシャーレ自体はいつでも開いていて先生もいるはず──昼間に終わらなかった業務を先生は夜間に行うため、シャーレは実質24時間営業だ。
普通より早くやってきた私にびっくりする先生の顔を思い浮かべる。
「……ふふ」
───ということで。
私は今、シャーレへ向かっている。
6時のこの街には冷たい風が走っていて、起きる前のアサガオが揺れる。
風が走ってきた方向に、シャーレはある。
真新しい素材でできていたシャーレの体には、弾丸の跡がそこらに付いていた。それを見ても私は何も思わなくなっていた。
内装は綺麗だ。誰が掃除しているのか、私は知らない。
そんな純白のホールに、紺の女子か1人立っている。
ええと、たしか……。
「早瀬さん、ですか?」
「? こんにちは、えっと……浦和さん?」
声をかけられたことに驚いたようで、一瞬目を丸くした彼女は早瀬ユウカさん──ミレニアムのセミナー、その会計担当者だ。
「まあ、知られているなんて」
「ミレニアムにも届くぐらい、あなたの名は有名ですから。優れた頭脳でティーパーティー候補……だったとか」
ティーパーティー候補という懐かしい単語。
それで思い出すのは暗い記憶。周囲の期待、それに伴う重圧……良い思い出は、ない。
しかし記憶を掘り起こした目の前の女子には敵意はない。目を見ればわかる。本当にどこかから聞いただけなんだろう。
「あらあら、学校外の方にそんなに知られているなんて光栄です♡ 私もあなたのことは知っていますよ、早瀬さん♡ なんでも、冷酷な算術……」
「ちょ、ちょちょちょっと!? なんでそのあだ名!?」
「……先生から、聞きましたよ♡」
半分嘘だ。
(ミレニアムのゲーム開発部という部の話を意気揚々とする)先生から飛び出た単語だ。
しかしそんな事を知らない早瀬さんの顔は確実に赤くなっている。面白い事になりそうだ。
「……浦和さん」
「ハナコでいいですよ」
「ハナコさん! 当番でしたよね!? ついていっていいですか!?」
「いいですよ♡」
彼女はまるで鬼神のような顔をしてエレベーターの方へ向かっていく。
エレベーターは3基ある。1つはずっと封鎖されている。エレベータードアの横のボタンを押してやると、それはオレンジ色に光り、エレベーターを呼び始めた。すぐにエレベーターは到着し、扉を開けてみせた。
「先生……! 許しませんよ〜……!」
エレベーターには「シャーレ内交戦禁止」の張り紙が、磁石でパチリと留められている。
次にエレベーターが扉を開けたのは、先生のいるところのすぐ近く。先生がいるのはシャーレ執務室。ここから壁1枚抜けた先はもうそこだ。
そうだ、と思いつき、
「早瀬さん」
「ユウカでいいわよ」
「ユウカさん、どうせなら先生を驚かせませんか?」
「驚かせる……」
「どうやって」と言いたそうなユウカさんの耳元に口を近づけ、囁く。
「ごにょごにょ……」
「……なるほど! かんぺきじゃない!」
「では、少し待っていてください?」
そうと決まれば、と足音を殺しながら歩く。
開けっ放しの入り口の扉の隙間。そこから椅子に座る先生の姿が見えて、心がいっぱいになった。久しぶりに会えた喜びが感情を支配する。
彼の背後に近づいて───
「───せ〜んせ♡ 私が来ましたよ〜?」
「"どぅえ!? ハナコ!? もう8時!?"」
「いえ? まだ6時半です」
「"なっ……なんで今いらっしゃったんです……?"」
自然と破顔してしまうのはこの人の声のせいだろうか。姿のせいだろうか。いや、全部だろうか? 愛おしいと思うのが止まらないこの気持ちはどう表せばいいのだろうか?
「ふふっ♡」
「”何か企んでたり?”」
「……しませんよ?」
先生の作業用デスクに目を下ろすと、いつものように散乱している書類が目に入った。それらは都会のビル群のように、厚かましく積み重なっている。全く、ほとほとおかしな仕事量だ。
さらに、見慣れないものも目に入った。
「これは……?」
デスクの引き出しの中に、何か箱が入っている。
「”待ってね、ハナコさん、えっと、いやまあユウカじゃないからいいのかな”」
「よいしょ……まぁ、これは」
箱にはゴテゴテした武装をしているロボがかっこよくポーズを決めているイラストが載っている。1/144という表記や重さを見るに、プラモデルのようだ。蓋を開けると、案の定プラスチックのパーツがたくさん入っていた。
「"せっかく給料入ったしさ"」
「経費で落とせないんですか?」
「"流石にバレるよ〜"」
「……一回試したこと、ありますよね?」
「"なんでそれを……?"」
驚きと引きの間くらいの感情の顔を浮かべた先生。また胸の奥が満たされるような気持ちになる。が、一旦無視する。
「先生、ユウカさんにとってもお世話になっているんですよね?」
「"……え、え。……もしかして、ユウカがいたりしないよね……??"」
「さあ? ただ、答え合わせの時間ですよ」
バン!と開け放たれた扉。そこから放たれる異様なオーラ。───それは、まるで鬼。眉間に寄った深すぎるシワ、こめかみに浮き出る血管。表面上笑顔を取り繕うとしているのがまた怖い。
そんなユウカさんが、仁王立ちしている。
「"あっ"」
死を察知したのか、先生は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「せ〜〜ん〜〜せ〜〜い〜〜???」
「"あっ、あっあっ……"」
「"ご、ごめんなさーい!!!"」
◇
「……ユウカさん、凄かったですね〜」
「"ひい……反省しないと……"」
まるで嵐のように荒れ狂い、去っていったユウカ。その跡に残るのは先生と生徒、二人だけ。
しょんぼりとシナシナしている先生は、いつもよりも小さく見えた。
それが、妙に愛おしくて。
後ろからぎゅっ、と抱きしめた。
「”は、ハナコ……?”」
「……なんですか?」
「”急にどうしたの……?”」
……どうしたいんだろう。
私が抱きしめても、もし好意を伝えても、先生は先生で。それに応えられる人ではないのだ。
それはわかっている。
わかっているのに。
「……暫く、いいですか?」
「”……いいよ”」
では、ともう少し抱きしめる。
先生の体はしっかりしていて、温かい。
「“……あれ?ネイル?”」
「あ……はい!そうなんです、補習授業部のみんなで遊んだ時に買って……」
「“可愛いね”」
「……ぅ」
……ああもう、ダメだ。
私の頬はだんだん、赤に染まっていくのだった。
◇
夕方。
赤い空をカラスが飛びゆく。
私と先生はシャーレビルの出入り口で、別れの会話をしていた。
「では先生……ありがとうございました」
「“うん、こちらこそありがとう。ハナコは仕事が早くて助かるよ”」
「お世辞ですか?」
「“本音だよ”」
……なら、嬉しい。
先生の力になれるのは、最近の私にとって……1番嬉しいといっても過言はない。それができると無性に嬉しくて、胸が熱くなる。
「“ばいばい、気をつけてね”」
「……はい、では、また」
先生に背を向ける。
足が重い。
でも、帰るしかない。
一歩踏み出す。自動ドアが開く。
……本当は、まだ。
「……いたいのに……」
◇
翌日。
昨日よりも眠れ、現在時刻は午前五時。
結局昨日はすぐに帰って寝たのだ。先生が関わるとどうも気持ちの処理ができなくなってしまう。だからまあ、不貞寝という行為に走ったのだろう。
朝日が窓から差し込んできている。家の中が明るいと気分は上がるものだ。
だが今日は学校がある。友人がいるから憂鬱ではないが……やはり一学生として、あまり気分は乗らないのは確かだった。
今日は朝からテレビをつけてみる。クロノススクールの生徒がフォーマルな格好で天気予報をしていた。
……今日は雨が降るらしい。午後かららしいが……クロノスの言うことをあまり鵜呑みにしてもいけない。
だがまあ、流石に憂鬱になって、テレビを消した。
◇
登校している。
空はまだ青く、陽の光が通ることを良しとしている。どうかこのままであって欲しいと願うばかりだ。
学校に行く時には、無意識にお友達の姿を探してしまう。コハルちゃん、ヒフミちゃん、アズサちゃん……私のかけがえのない大切なお友達だ。私たち補習授業部の思い出はいつまで経っても色褪せない、どころか深く鮮明に色づいていくのだ。
このことを思っても、私の口角は上がってしまう。
私は幸せ者だと、そう、最近は思えて。
◇
「あら、コハルちゃん」
「あ、ハナコ!おはよう!」
校内で出会った、小さな可愛い天使のような子、コハルちゃんは今日も元気に挨拶してきた。
「ふふ、おはようございます」
「……?今日はなんか機嫌いいわね?何かあったの?」
いつもより私がにこにこしているのが気になったのだろう。私を見上げる視線が可愛い。少しいじわるしたくなってしまう。
「実は昨日、先生と当番で……それで……」
「そ、それで……?」
「2人がまるで一つになるような熱い抱擁を交わして……!」
「え、えっ?」
「そしてそのまま……!!」
「え、エッチなのはダメ!!死刑!!」
いつもの可愛らしいセリフが出てきて、ふふ、と笑う。これだからこの子を揶揄うのはやめられない。叩けば音のなるおもちゃ……と言うのは流石に可哀想だけど、それに近いものを感じる。
顔を赤くしてぷんすかしているこの可愛い子をあやしつつ、私はクラスに向かった。
◇
今日の授業が全て終わって、チャイムの音が響き渡る。それだけで体の緊張がほぐれる気がした。くう、と伸びをする。あくびがでて、自然に溢れた涙が顎まで伝った。ふと外を見ると、空も薄暗く、涙を流しているのがわかった。
そのままの流れでホームルームも終わって、そして放課後。鞄を持って廊下に出ると、コハルちゃんと、見慣れた2人が待ってくれていた。
「コハルちゃん、ヒフミちゃんに、アズサちゃんもお疲れさまです♡」
「はい、お疲れさまです…!」
健気に労ってくれるのはペロロさんのグッズに身を固めた少女、ヒフミちゃん。彼女は真面目で、努力家なのだが……ペロロさんの為なら暴走してしまう、少し危うい女の子。
そんな子のすぐ隣にいるのは、
「お疲れ、ハナコ。一緒に帰ろう」
そう言ったのはアズサちゃん。無表情だが、無愛想ではない、これまた可愛い子だ。まっすぐな子で、言われたことを疑うことが少ない。そして純粋無垢だ。私の揶揄いは通用しない。
「ええ、もちろん。今日もですね」
最近、私たちは一緒に下校することが多い。放課後何もない時間に、みんなで街に行って買い物をしたりするのだ。それが最近は楽しくて、これの為に学校に来ていると言っても過言ではないかもしれない。
……そういえば。
「……あ、傘を忘れてきてしまいました」
「む、ほんとうか、ハナコ」
「もう、何やってるの!……貸してあげないこともないけど!」
「やっぱりコハルちゃんは優しいですね?」
「そ、そう?」
そう、コハルちゃんは優しい。その優しさで何人もの人を救ってきたはずだ。私のその光にあてられた。感謝してもしきれない。
……いや、コハルちゃんだけじゃない。ヒフミちゃんも、アズサちゃんも、本当に優しいのだ。私には勿体無いくらいに。
「……では、行きましょうか♡」
◇
やはり、雨が降っていた。しとしと、とも言えるかもしれないし、ざあざあ、と言うことも出来るかもしれない降水量。
妙に静かだ。
商店街にいるのは私たちだけなのでは……なんて思えるほど。そんなはずはないはず。はずなのだが。
「全然人がいませんね……?」
「貸切みたいですね……!」
いつも賑わっているゲームセンターには、ガラの悪い生徒がたむろしてはいるが……ただそれだけだ。
その生徒らは大声で何かを話していた。
「センコーがいなくなったらしいぜ?」
「え、あのシャーレの?マジ?」
「マジマジ。クロノスの飛行船がでっけえ声で喚いてたよ。『速報です!先生が……いなくなった!?え!?』ってさ」
……?
……何を言っているんだ……?
あんな人たちの言っていることだ、真に受ける必要はない。そのはずなんだ。
気づけば、口呼吸をしていた。
「……3人とも、ちょっと……あの、私、早く帰りますね」
「え?まぁ……いいケド……どうしたの?ハナコらしくないわよ。急に帰るなんて」
「……用事を、思い出して。……さよなら!」
みんなとは逆方向に走り出す。カバンの中身がガタガタ揺れる。
その最中、スマホを取り出して最新のニュースを閲覧する。
【先生、失踪か 書き置きを残して消息不明】
……嘘だ。
昨日までいた。あんな、いつも通りに。笑っていた。
何が起きた?先生の身に何か起きてそれで?
それとも日々の過労で?逃げた?先生に限ってそれはないだろう。
それはないだろう。
それは……。
……先生のデスクが思い出される。
ぶ厚く積み重なった、到底手に負えないような書類の数々。
……先生の責務を、行動を思い出す。
生徒を幸せにするため、日中は世界を駆けずり回る。
それは、無いと、言い切れるのか?
雨が強まる。
「嫌だ
やだ
やだ……!」
◇
シャーレビル。窓は全て閉じられ、ブラインドが下ろされていて中は見られない。つい昨日まで普通のビルだったそこの前には、甘味に唆された蟻のように人々が集っていた。
「シャーレ内部の撮影許可を!!」
「取材!!取材させてください!!」
「先生いるんだよね……?」
「先生は!?生徒会長代理さんは何か知らないの!?」
「あの人がいなくなるわけないじゃん……」
人ごみ。声。
それらは、シャーレの入り口に立つ生徒会長代理に基本は向けられているようだった。
私は少し離れたところでしかそれを見られなかった。だから会長代理が何を説明しているのかもわからないし、ましてやシャーレ内の様子なんて見られるはずもない。
握り込んだ拳に爪が刺さる。
「先生……」
呟いて、へたり込んだ。
なんだか、何も、わからなくなって。
世界から色が抜け落ちていく。
◇
もう、三日経った。
騒動はじきに落ち着き、シャーレの前に人だかりはできなくなった。
だから、ここにいるのは私、しかいないのだろう。
「……なんで」
おかしいじゃないですか。
あなたは、ずっと、笑っていて、元気で。
ちっとも弱いところ見せなかった。
だから?
……弱いところを見せられなかったから?
ずっと無理していた……?
「言って、くれたら」
私にも、何か、出来ることがあったんじゃないか。
でもそんな考えは、全部後の祭りで。
だからもう私は独り、ここに蹲るしかなくて。
つまるところ、私の転換点だった。
……背後から、カツカツ、とヒールの音。
「ハナコさん?」
「……なんですか?」
後ろには誰かが立っていた。
声はユウカさん。しかしそれの中身はまた別の人のようだった。彼女が誰かはわからないし、わかる必要も無いと思った。今はその時ではないのだ。
彼女は口を開いた。
「……先生は、“駅”にいますよ」
「……“駅”……?」
「ええ。それはずっと遠くの、ここではない場所。キヴォトスの入り口、かつ外の世界への出口。私が彼に全てを託した場所」
……ああ、なるほど。
彼女の中身は、かの会長のようだ。
「どうやってそんなことを……」
「……乙女の秘密、とさせていただきます。この子に悪いとは思っていますよ?」
「それであの人は……まだそこに?」
「ええ。“私”が引き止めていますので」
「……私にしかできない、と」
「……悔しいですが」
立つ。
少しふらつくが、それでも、確かに。
向かうしかない。そうするべきであり、そうしなければならない。
「行き方は?貴女ならわかるのでしょう」
「……ありがとうございます」
「こちらの台詞です。……こんなところで出会うとは思っていませんでしたよ。職務はどうしたのです?」
「非常事態ですので。もう保ちませんし」
「そうですか……では」
私は一歩を踏み出し、キヴォトスの蒼き長に別れを告げた。
◇
“駅”。
そこには動かない列車と、それに伴って重く落ちてゆく空気があった。
外の世界との境界線。それでしかないこの場所にいると、おかしな実感が湧き上がってくる。
この世界は、完全なフィクションなのだと。
……夕日が、彼の後ろから差していた。
「“……こんなところに来たらいけないよ、ハナコ”」
いつもと変わらない調子で、その大人は言った。大口開けてただ待っている電車の前に立って。
……ああ、上っ面だけ。
上澄みの立派な部分で、それだけで私たちは会話していたことに今更気づく。
「戻ってください」
「“……私にはできないよ”」
「今までを捨てるのですか?」
「“そうなるかな”」
「私たちとの
「“仕方ないんだ。時間がないから。これを続けることはできないよ”」
逆光。
黒い彼は、どうしても私と目を合わせる気はないらしい。
どうしても、私と会話する気はないらしい。
それは、あまりにも理不尽な“逃げ”だ。
「……私たちを、殺すといいたいのですか」
「“……結果的には、そうなるかもしれないけど”」
「この世界を身勝手に……捨てると!」
「“別に、良いだろ……!?そんな事は私の勝手だろ!?これを始めたのは私だ、なら終わらせるのも私のはずだ!”」
「いいえ、いいえ!貴方は……貴方には義務がある!」
「“……っ”」
「たとえ偽りの世界だろうと……本質的には貴方と関係はないのかもしれないけれど!」
許さない。
情けない貴方を、私は許さない。
言い残した言葉を捨て置く貴方を許さない。
正当化の奴隷になって世界を沈めていく貴方を許さない。
でも。
それでも私は貴方を愛するのだから。
そんな心を、貴方は産んでしまったのだから。
私は貴方を、逃せない。
「───私はただ、貴方が好きなんです!!」
列車は口を閉じた。
そして彼をこのホームに残して、走り去った。
夕日は微動だにせず、しかしそれは、彼を温かく包むように輝いている。
「“……生徒に諭されるなんてね。先生失格だ”」
「……ほんと、ですよ」
彼はあちらに向かわなかった。
……そうすべきだったし、そうしなければならなかった。
私をこんなにした責任を取ってもらわないといけないのだから。
◇
そうしていつも通りの日常は戻ってきた。クロノスのニュースは、くだらないいざこざや天気予報を取り扱うようになった。
あの“駅”での出来事は不確かな夢のように朧気な記憶でしかない。私を送り出したひとも、もうあるべき場所へ還ったはずだ。
けれど。
「せ〜んせ♡」
「“わっ……ハナコか”」
シャーレ、執務室。相も変わらず書類は塔を模しているし、隠されたプラモデルもそこにあった。
しかし先生は、そのどちらでもないものを持っているようだった。
「それは?」
「“書き置きだよ。……あの時、置いてったんだ”」
「何を書いたんですか?」
「“……さよならを綴っただけの、くだらない文字列だよ”」
そう言って、先生はそれを破り、捨てた。
それを見て私は、後ろから先生に抱きついた。あのときと、同じように。
いや……もっと強く、わがままに。
「……今日は、ずっと、居させてもらえますか?」
「“もちろんだよ。……ずっと、こうしてようか”」
……窓外は橙色に染まっていく。
その淡く、温い色に包まれて、私たちは一緒だった。
いかがでしたでしょうか。
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