# 聖杯問答(偽)
溶けるような暗闇の中、少女は彼方に見える光へと手を伸ばしていた。
白い光だった。
聖なる輝きは鎧の縁を照らし、伸ばした指の先まで鮮やかに浮かび上がらせる。それほどはっきりと見えているのに、どれほど手を伸ばそうとも、指先は光を掠めることさえない。
遠すぎるのか。
それとも、自分がどこまでも落ち続けているのか。
「無駄だ。あの光はもう、
自分の声がした。
振り返ると、黒い王がいた。
結い上げた金の髪。細い体躯。見慣れた顔。身に纏う鎧こそ違えど、そこに立つ女は、どこからどう見ても彼女自身だった。
ただ、その瞳だけが違う。
くすんだ金の双眸が、伸ばしたままの彼女の手を眺め、愉快そうに細められていた。
「分別のない子供でも分かりそうなものだ。あんなおぞましい戦いを繰り広げてまで、まだ聖杯などというものが欲しいのか?
「……お前が」
騎士王は振り返る。
「お前が私ならば分かるだろう! 私がなぜこの戦いに参加しているのか! 何故聖杯を欲するのか! 何を願おうとしているのか!」
「ああ、知っているとも。私はお前だ。
「ならば何故、そんな目で私を見る!」
「そんな目?」
「滑稽だと言わんばかりの、その目だ!」
黒い王は、わずかに首を傾げた。
その仕草まで自分に似ていることが、ひどく不愉快だった。
「――そうだな。今の
「なんだと……?」
「王の選定をやり直し、もっと王に相応しい者にブリテンを救ってもらう。なんとも御大層な願いだ。死んだ後まで差し出して、欲しがるものがそれか」
「何がおかしい! 何を嗤う!」
「では問おう」
黒い王は笑ったまま、言葉を続けた。
「
「違う! 彼らに何の咎がある! 私は、ブリテンのために――」
「ブリテンの民のために叔父を討ち、常に敵と戦い続け、国の守護神として守り抜いた。――そして滅びた」
「――――ッ! 貴様ァ!」
「何を怒る。事実だろう?」
国よりも人を愛した王だった。
そのために己の人間性を封じ、幸福を捨て、ただ国を守るために剣を振るった。
食事を切り上げて報告を聞いた。眠る時間を削って政務を執った。誰かが笑っているときも、誰かが泣いているときも、王は王であり続けた。
惜しいと思ったものは幾らもあった。
惜しいまま、手放してきた。
それでも足りなかったから。
最後には、死後の自分すら差し出したのだ。
「『王は人の心がわからない』。そう言って去ったのは誰だったか」
トリスタン。
彼の背が脳裏をよぎった。
呼び止めるなら、まだ声の届く距離だった。
「トリスタンは去り、ランスロットは罪を犯し、アグラヴェインは死に、ガウェインを失い、モードレッドに叛かれた。あの騎士たちは、仕える王を間違えたというのだろう?」
「彼らは間違ってなどいない!」
「ああ、そうだとも」
黒い王は、あっさりと頷いた。
「ならば間違えたのは
「それは――」
胸が疼いた。
あの丘で、槍に貫かれた場所だった。
思わず胸甲に手をやる。傷などない。なのに、鎧の下では今も肉が裂け、熱い血が流れ続けているようだった。
「違う……!」
「違わない。あの酒宴で王どもが笑ったのも当然だ。自分が王であったことを否定するために、死後まで売り渡す。これが滑稽でなくてなんだ?」
「私は――!」
「それでもまだ、聖杯を望むのか?」
足の指を動かそうとした。
動いたかどうかも分からなかった。
いつの間にか、脛のあたりまで生ぬるい何かに浸かっていた。
黒い。
水ではない。泥でもない。
それらによく似た、もっとおぞましい何か。
「……私は、間違っていない」
黒い王の笑みが、わずかに深くなった。
「ほう。まだ折れないか」
胸甲の内側で、何かが泡立った。
息を吸う。
喉の奥に鉄の味がした。
「聖杯を得るために身を売ったのだ。ならば、どんなものを踏みつけてでも、その手を伸ばすつもりか?」
「当たり前だ! そのために私は――――ッ!?」
靴の下で、土が鳴った。
暗闇が消えていた。
そこは、あのカムランの丘だった。
「懐かしい光景だろう?」
見渡す限りの死体。
折れた槍。砕けた盾。血を吸って黒く変色した大地。
だが、おかしい。
記憶よりも、遥かに多い。
騎士の亡骸に混じって、鋤を握った男が倒れていた。盾の下から、泥にまみれた裸足が覗いている。女も、老人も、まだ幼い子供さえも。
こんな場所に民がいたはずはない。
だが、戦のために村を潰せと命じたことなら覚えている。
「戦いの中で散った騎士。巻き込まれて奪われた命。勝つために踏み潰した命。……あの丘に倒れた者だけで済むと思ったか?」
「――あ」
声にならない声が漏れた。
死者が、こちらを見ていた。
一人ではない。
二人でもない。
積み重なった屍が、揃って王を見つめている。
「己を捨てて誰かを守り、大義のために私情を殺す。理想のために幸福を諦めた。立派なものだ。実に清廉で、実に高潔だ」
黒い王は、心底愉快そうに笑った。
「――で、その結末がこれか」
死者たちは口を開かなかった。
だが、聞こえた。
こんな終わりは嫌だった。
誰も喋っていないのに、聞こえた。
どうして。
どうして私たちは、貴方に託したのに滅ばなければならなかったのですか。
知らない声だった。
けれど、その問いには覚えがあった。
あの丘で一人、息が途切れるまで繰り返した問いだった。
『モルガンの子だから、オレが憎かったのか!? 答えろ、アーサーッ!』
モードレッドの声。
あのとき、彼女は槍を握っていた。
何と答えるつもりだったのか、今も思い出せない。
『あなたの手で裁いていただきたかった』
ランスロットを貫いたときの重みが、手首に戻ってきた。
憎いと言われた方が、まだ答えようがあった。
『ブリテンが滅びるより早く、おまえはブリテンの手で死ぬ』
ヴォーティガーンの言葉。
あの日、あの言葉を聞いたのは、自分とガウェインだけだった。
黒い王の唇が、最後の「死ぬ」だけを、声もなくなぞった。
「やめろ……」
「何をだ?」
「やめろと言っている!」
「おかしなことを言う。どれも
違う。
忘れたことなどない。
一度たりとも。
忘れられるはずがない。
だからこそ――。
「では、趣向を変えよう」
胸が疼いた。
モードレッドの槍が入った場所だった。
そこを押さえようとした右手に、硬いものが触れた。
「この女を殺さなければ聖杯は手に入らない。どうする、
目の前に女が立っていた。
士郎が助けた女だ。
確か、アヤコと呼んでいた。
右手には剣があった。
闇よりもなお黒い、見覚えのない、聖剣によく似た剣だった。
「こんなことに何の意味がある!」
「何に代えても手に入れるのだろう? 聖杯を」
「ふざけるな!」
剣を捨てようとした。
手が開いた。
確かに開いたはずだった。
なのに。
次に指の感覚が戻ったとき、握りは血で滑っていた。
アヤコが倒れていた。
その目は、丘の死者と同じように彼女を見つめていた。
「な――」
「次はこれだ」
タイガが現れた。
「選べ」
「やめろ!」
剣が振り下ろされた。
肩口で一度、刃がつかえた。
手首がひねられ、抜けた。
違う。
私は、こんなことを望んでいない。
「次だ」
リンが現れた。
胴から二つに分かれた。
「次」
サクラ。
首を刎ねた。
刃が通った感触だけが、妙にはっきりと残っていた。
リンの名を呼ぼうとしたときには、もうサクラが倒れていた。
止まらない。
止められない。
自分の腕なのに。
自分の剣なのに。
自分の意思だけが、そこにない。
「最後だ」
「――――ッ!」
衛宮士郎が立っていた。
シロウ。
エミヤシロウ。
マスター。
彼女を庇い、傷を負った少年。
誰かを助けることを、まるで当然のように口にする愚かな少年。
その愚かさを、自分が救われたことも、生き残ったことも、背負ったまま前へ進もうとする。そんな愚直さを彼女は知っていた。
だからこそ。
「……やめろ」
剣先が、士郎の腹の前で止まった。
かつて彼女を庇い、傷を負った、その腹だった。
「やめろ……やめてくれ……!」
両手で柄を掴んだ。
右手を止めるために添えた左手が、右手の指を一本ずつ握り直させる。
違う。
こんなものは違う。
これは私の手ではない。
私の剣ではない。
「どうした
黒い王の声がした。
「前のように、自分の剣で聖杯を吹き飛ばすことになるかもしれない。ブリテンでそうだったように、また裏切られるかもしれない」
士郎は何も言わなかった。
ただ、剣を持つ彼女の手を見ていた。
「マスターを殺せば聖杯を譲ろう。そう持ちかけられたら、
「私は……!」
「殺すとも」
黒い王は、当然のことのように言った。
「マスターより聖杯を取る。それほどまでの悲願なのだろう? 何もおかしなことはない。王とはそういうものだ。大義のために私情を殺す。今までだって、そうしてきたではないか」
「いや――」
「さあ、選べ」
「いやだ――!」
「選ぶまでもないか」
剣が、士郎の腹に入った。
柔らかなものを裂き、硬いものに触れ、さらに奥へと進んだ。
柄を握る拳に、士郎の服が触れた。
息がかかるほど近くで、少年は彼女を見ていた。
目尻から流れた赤い雫が、頬を伝った。
何かを言おうとしていた。
その唇が動くより先に、彼女の膝が折れた。
ようやく手が開いた。
剣の落ちる音はしなかった。
「おめでとう、
頭上から、よく知った声が降ってきた。
「見事なものだ。そこまでして聖杯を求めるとは。さすがは騎士王。さすがはブリテンの守護者だ」
「……やめて、くれ」
「何を? 祝福しているのだぞ?」
黒い王は笑っていた。
「だが、残念なことが一つある」
景色が変わった。
燃え盛る炎。
崩れ落ちた建物。
瓦礫の山。
人の命など、およそ感じられない光景だった。
見覚えのある街の家々が燃えていた。
ひしゃげた雨樋から火が噴き、玄関先に片方だけ残った靴が、赤く焼けていた。
どこかで見た光景だった。
あの丘。
あの、最後の丘に似ていた。
「これが前回の聖杯戦争の末路だ。どうだ、懐かしいだろう? お前が最後に見た、あの島の景色によく似ている」
炎の向こうで、何かが溢れていた。
黒いもの。
火の中を流れているのに、そこだけ光がない。
「この地の聖杯は、とうに汚れている。いつからかは知らないがな。願望機などとは名ばかりの、出来損ないだ」
「……そんな」
「マスターを殺し、騎士を殺し、民を殺して手に入れたところで、まともな願いなど叶いはしない」
黒い王は、彼女の傍らに膝をついた。
くすんだ金の瞳が、覗き込んでくる。
まるで、鏡だった。
「王の選定をやり直す? 結構なことだ。今度こそ正しい王を選び、今度こそブリテンを救う。ああ、素晴らしい願いではないか」
その口元が、歪んだ。
「――その救った島を、この泥がどう焼くか。見てみたいものだな」
「そん、な……」
何かを言わなければならなかった。
違う、と。
間違ってなどいない、と。
この願いだけは。
これだけは、間違ってなど――。
「残念だったな、
黒い王が囁いた。
「また『間違えた』ようだ」
「あ――」
声が漏れた。
「あ、ああ――」
胸の奥で何かが裂けた。
熱い。
黒い。
足元から這い上がっていたものが、今度は胸の内側から溢れ出す。
喉を焼き、肺を満たし、指先へと流れ込んでくる。
違う。
違う。
私は――。
「あ、あああああああああああああッ!」
叫んだ。
何を叫んでいるのか、自分でも分からなかった。
ただ、声を上げた。
声を上げ続けた。
その下で、同じ声が嗤っていた。
黒く。
熱く。
溶け合い、混ざり合い、どこからが自分で、どこからがそうでないのかも分からなくなる。
それでも。
彼女はもう一度、光に手を伸ばした。
届かない。
届くはずもない。
闇から突き出した腕には、いつの間にか黒い鎧があった。
極光は反転するのだ。