GODDESS IN IRON   作:エニカスを解らせ隊

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Chapter 5 ―新しい居場所

 規則正しい電子音が、静かな室内に響いていた。

 

 ピッ、ピッ、ピッ──。

 

 一定の間隔で繰り返される機械音。清潔な空気。身体を包み込む柔らかな寝具。

 そして、意識の奥底に感じる微かな違和感。

 

 彼女の意識は、長い微睡から少しずつ浮上していった。そして、重い瞼をゆっくりと開く。

 

(……ここは……?)

 

 最初に目に入ったのは、見慣れない白い天井だった。

 軍の医療施設ではない。前線基地でもなければ、地下の避難施設でもない。

 視線を動かすと、壁際には医療用モニターや診断装置が並び、ベッドの脇には彼女の身体と接続された複数のケーブルが伸びていた。

 

 どうやら、自分は医療設備の整った場所にいるらしい。

 

(私は……確か……)

 

 記憶を辿ろうとする。崩れる建物、自身に降り注ぐ瓦礫、その際に損傷した身体。動かなくなった脚部そして、誰も戻ってこなかった戦場。

 

「……っ!」

 

 彼女の身体が強張り、モニターの数値がわずかに変化する。

 

「おや。目が覚めたようだね」

 

 聞き覚えのない男性の声がして、彼女は反射的に視線を向ける。

 そこには、一人の青年が立っていた。ダークブラウンの髪は少し無造作に整えられ、青灰色の瞳には穏やかな光が宿っている。細身ながらも適度に鍛えられた体格で、清潔感のある服装をしていた。

 

 年齢は二十代後半といったところだろうか。青年は彼女の様子を確認すると、ベッドの近くに置かれていた椅子を引いた。

 

「気分はどうだい?」

「……ここは?」

「僕が管理している施設の医療区画だよ。身体の修復と調整を行っていたところだ」

「修復……?」

 

 彼女は自分の身体に目を向けた。

 

 破損していたはずの腕には新しい外装が取り付けられ、胸部装甲も交換されている。脚部も以前の状態とは異なり、損傷部分が丁寧に修復されていた。

 

「あなたが……私を?」

「ああ。あの場所で君を見つけてね。かなり危険な状態だったけど、なんとか間に合ったよ」

「……救助されたのですか?」

「そういうことになるね」

 

 彼女はしばらく黙っていた。

 

 自分が生きている。

 

 それは理解できる。しかし、なぜ自分が助けられたのかが分からなかった。

 

「……どうして?」

「ん?」

「どうして、私を助けたのですか?」

「どうしてと言われても……そこに助けを必要としている人がいたからだよ」

 

 青年は少しだけ首を傾げた。そして、当たり前のことを話すように答えた。

 

「……私は量産型のプロダクト08のロッドNo.1000128です」

「知っているよ」

「特別な能力はありません。戦闘能力も平均的です。身体の修復に必要な費用を考えれば、新しい個体を製造した方が合理的でしょう」

「そうかもしれないね」

 

 青年は彼女の言葉を否定しなかった。

 

「でも、僕は君を新しい個体に交換するつもりはないよ」

「……え?」

「君は君だろう?」

 

 彼女は返す言葉を失った。

 

 量産型ニケ。

 

 同じ規格、同じ設計、同じ目的で製造された存在。

 個体が損傷すれば交換され、任務を遂行できなくなれば後方へ送られる。それが彼女の知る世界だった。

 そこでは個体の意思よりも、与えられた役割が優先される。しかし、目の前の青年は違った。

 

「……理解できません」

「今は理解できなくてもいいよ。焦る必要はない」

 

 青年は立ち上がり、モニターの数値を確認した。

 

「身体の基本機能は安定している。まだ細かな調整は必要だけど、少しずつ動けるようになるはずだ」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。そういえば、まだ自己紹介をしていなかったね」

 

 青年は軽く微笑んだ。

 

「僕はアダム・ロバート。ROBERTS INDUSTRIES(ロバーツ・インダストリーズ)を経営している」

「ロバート……」

「アダムでいいよ。堅苦しい挨拶は苦手なんだ」

「……分かりました、アダムさん」

「それじゃあ、今はゆっくり休んで。何かあれば遠慮なく呼んでくれ」

 

 アダムはそう言って医療室を後にした。残され静かになった室内で、彼女は閉じられた扉を見つめていた。

 

(……焦る必要はない……)

 

 そんな言葉をかけられたのは、初めてだった。

 

 そして、その翌日。

 

 彼女はベッドの上で上半身を起こし、窓の外を眺めていた。身体の調子は昨日よりも良い。

 修復された各部の動作確認も進み、簡単な動作なら問題なく行えるようになっていた。

 そんな彼女のもとへ、アダムがやってきた。

 

「おはよう。調子はどう?」

 

「おはようございます、アダムさん。昨日よりは安定しています」

「それはよかった。無理はしないようにね」

「承知しました」

 

 アダムが手にしていた端末を確認していると、背後から明るい声が響いた。

 

「おお! もう起き上がれるようになったんだね!」

 

 振り返ると、そこには奇妙な物体(ラプチリオン)が佇んでいた。

 

「あのときの……」

「覚えていてくれたんだね! 僕はラプチリオン! 君を助け出すときにアダムと一緒にいたんだ!」

「……あなたも、ありがとうございました」

「いやいや! 気にしないで! 無事で本当によかったよ!」

 

 ラプチリオンは嬉しそうに笑った。

 

「いやあ、あのときは本当に心配したんだよ。身体の損傷もひどかったし、もう少し発見が遅れていたら危なかったと思う」

「そうだったのですね……」

「でも、アダムが頑張ってくれたおかげだよ。修復に必要な設備も資材も、惜しまず用意してくれたからね!」

「ラプチリオン、この程度でそんなに大袈裟な評価はやめてくれ」

「本当のことじゃないか!」

 

 二人のやり取りを見て、彼女は少しだけ目を瞬かせた。

 軍隊の人間関係とは違う。命令する者と命令される者という関係ではなく、互いに自然体で接している。それが彼女には少し不思議だった。

 

「ところで、君の名前を聞いてもいいかな?」

 

 ラプチリオンの問いに、彼女は視線を落とした。

 

「私は量産型ニケです。ロッドNo.1000128と言う個体識別番号はありますが、個人名はありません」

「名前がないの?」

「はい」

 

 ラプチリオンは少し困ったような雰囲気を醸し出す。

 

「それは、なんだか寂しいね」

「量産型ですから。それが普通です」

「そうかなあ……」

 

 彼は首を傾げるような仕草を見せる。

 

「でも、せっかく助かったんだ。これからは新しい生活が始まるんだから、名前があってもいいと思うよ!」

「名前……ですか……」

 

 彼女はその言葉を繰り返した。その様子を見ていたアダムが口を開く。

 

「ラプチリオンの言うとおりだね。もし君が望むなら、自分の名前を持ってみるのもいいと思う」

「私が……決めるのですか?」

「もちろん。誰かに与えられる番号じゃなくて、君自身が選ぶ名前だ」

 

 彼女は考え込んだ。自分の名前を考えると言う未知の行動に。そんな経験は一度もない。なぜなら、これまで彼女が受け取ってきたものは、すべて決められたものだった。

 

 装備、任務、配置、行動規範。

 

 自分で選ぶという経験そのものが、ほとんどなかったのだ。

 

「……少し、考える時間をいただけますか?」

「もちろんだよ。急ぐ必要はないからね」

「そうそう! ゆっくり考えるといいよ!」

「ラプチリオン、ここは病室だぞ。あまり煩い動作はやめろ」

 

 ラプチリオンはガクガクと駆体を上下に振ってで頷いていたが、不快そうに眉を寄せるアダムに嗜められて落ち着いた動きに戻る。

 その後、三人はしばらく他愛のない会話を続けた。

 ラプチリオンは自分の地上調査について楽しそうに話し、アダムは時折それに相槌を打つ。

 彼女は積極的に話すことはなかったが、二人の会話を聞いているうちに、少しずつ緊張が解けていくのを感じていた。

 

 そこには、任務の報告も作戦会議もない。

 ただ、何気ない日常の会話があった。それが彼女には、とても新鮮だった。

 

 さらに数日後。

 

 彼女は施設内を歩けるまでに回復していた。

 

 脚部の修復と調整はほぼ完了し、歩行にも問題はない。まだ激しい運動や戦闘行動には対応できないものの、日常生活を送るには十分な状態だった。

 

 アダムは彼女を施設内の衣装室へ案内した。

 

「ここにある服は、君が使っていいものだよ」

「服……ですか?」

「そう。いつまでもその軍用装備(バトルスーツ)というわけにもいかないだろう?」

 

 室内には、さまざまな衣服が並んでいた。

 落ち着いた色合いのブラウスやジャケット、スカート、パンツ。どれも一般的な女性が着るような服で、軍用装備とはまったく異なる。

 

 彼女は並べられた衣服を眺めた。

 

「好きなものを選んでいいよ。サイズが合わなければ調整できるから」

「私が選んでもよろしいのですか?」

「もちろん。君の服なんだからね」

 

 彼女はしばらく迷った後、シンプルなデザインのブラウスとジャケットを選んだ。着替えを済ませて戻ってくると、アダムは満足そうに頷いた。

 

「よく似合っているよ」

「……ありがとうございます」

「やっぱり軍用装備以外の服もいいものだね」

 

 彼女は鏡に映る自分の姿を見つめた。

 ヘルメットを被り、思考転換防止のためにバイザーで目元を隠されていたそれを取払い顕になっている銀色の髪。何よりも新しく修復された身体。

 そして、軍服ではない衣服。鏡の中にいる自分は、これまでの自分とは少し違って見えた。

 

「さて、少し話をしようか」

 

 アダムは近くの椅子に腰掛けた。

 

「君の今後についてなんだけど」

「今後……ですか?」

「ああ。身体もかなり回復してきたし、これからどうしたいのかを聞いておきたいと思ってね」

 

 彼女は黙って考え込んだ。軍に戻る。それが、本来なら当然の選択肢だったはずだ。

 ニケとして製造され、戦場で任務を遂行する。それが彼女の役割だった。

 

 しかし、戦場の光景が頭をよぎる。

 

 崩壊した建物。

 

 失われた仲間。

 

 動かなくなった自分の身体。

 

 そして、助けを求めても誰も来なかった時間。

 

「……私は」

 

 彼女はゆっくりと口を開いた。

 

「もう、戦いたくありません」

 

 蚊の鳴くような、本当に小さな声だった。しかし、その言葉には確かな意思が込められていた。アダムは静かに頷く。

 

「そうか」

「私は戦うために製造された存在です。任務を遂行できなくなれば、存在する意味もないのかもしれません」

「それは違うと思うよ」

「……違う?」

「戦うことだけが、君の存在理由じゃない」

 

 アダムは窓の外に目を向けた。

 

「誰かのために働くことは悪いことじゃない。でも、それを自分の意思で選べることが大切なんじゃないかな」

「自分の意思……」

「君が戦いたくないのなら、無理に戦場へ戻る必要はない。ここでは誰も君に武器を持つよう命令しないよ」

「本当に……よろしいのですか?」

「もちろん」

 

 アダムは彼女に向き直った。

 

「君はもう十分に頑張ったんじゃないかな。これからは、自分のために生きてみてもいいと思う」

 

 彼女はその言葉を静かに受け止めた。自分のために生きる。その意味は、まだ完全には理解できない。

 しかし、少なくとも今の自分には、それを考える時間が与えられている。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 アダムは微笑んだ。

 

 彼女の表情にも、ほんの少しだけ変化が生まれていた。

 

 それから数日後。

 身体の基本的な調整を終えた彼女は、アダムに呼ばれて施設内の別の区画へ向かった。

 案内された先には、広々としたオフィスがあった。

 

 整然と並ぶデスク。

 

 大型モニター。

 

 複数の端末。

 

 そして、壁面に掲げられた企業のロゴ。

 

 ROBERTS INDUSTRIES。

 

「ここが僕の仕事場だよ」

「ここが……」

「そう。会社の本社機能を担うオフィスの一つだね」

 

 アダムは自分のデスクへ向かった。

 

「主に技術開発や産業関連の事業を扱っている。研究部門もあるし、製造や管理部門もある。これからさらに事業を拡大していく予定だよ」

「そうなのですね」

「それで、今日は君に一つ提案があるんだ」

「提案……?」

「ここで働いてみないか?」

 

 彼女は目を瞬かせた。

 

「私が……ですか?」

「ああ」

「しかし、私は企業で働いた経験がありません」

「最初から完璧にできる人なんていないよ」

「私にできる仕事があるのでしょうか?」

「あると思う」

 

 アダムは端末を操作し、いくつかの業務内容を表示した。

 

「まずは簡単な事務補助から始めてもらおうと思っている。書類の整理、データ管理、スケジュールの確認といった仕事だね」

「事務……」

「そう。もちろん、最初は僕やほかのスタッフが教えるから心配はいらないよ」

「それは……戦闘任務ではないのですね?」

「もちろん。武器を扱う必要もないけど……慣れてない頃は多分ある意味戦場と大差ないかもしれないね」

 

 彼女は表示された業務内容を見つめた。

 

 書類管理。

 

 情報整理。

 

 スケジュール調整。

 

 会議資料の準備。

 

 これまでの自分の任務とは、まったく異なる世界だった。

 

「なぜ、私なのでしょうか?」

「君は元はスナイパーだろう? 状況を冷静に判断できるだろうし、情報処理能力も高い。身体の調整が終われば、十分に仕事をこなせると思う」

「それだけですか?」

「それだけで十分じゃないかな」

 

 アダムは少し笑った。

 

「もちろん、無理に引き受ける必要はない。君が望むなら、別の仕事を探すこともできるし、しばらく休んでいてもいい」

 

 彼女は考え込んだ。自分にできることを。

 自分がやってみたいこと。そんなことを真剣に考えた経験はなかった。

 しかし、この場所なら。ここでなら、自分にも何かができるのかもしれない。

 

「……やってみたいです」

「本当かい?」

「はい。私にできることがあるのなら、挑戦してみたいと思います」

 

 アダムは満足そうに頷いた。

 

「分かった。歓迎するよ」

 

 そして、少しだけ真面目な表情になった。

 

「ただし、一つ条件がある」

「条件……?」

「仕事のことを一人で抱え込まないこと。分からないことがあれば聞く。困ったことがあれば相談する。いいね?」

「……承知しました」

「よし。それじゃあ、これからよろしく」

 

 アダムは手を差し出した。

 彼女はその手を見つめた。そして、ゆっくりと自分の手を重ねる。

 初めての握手だった。命令によってではなく、自分の意思で誰かと交わした約束。その感触は、彼女にとって忘れられないものになった。

 

 その日の夕方。

 

 施設内の廊下には、夕暮れの光が差し込んでいた。アダムは書類を確認しながら歩き、隣には彼女が並んでいた。

 先ほどの仕事の説明を終え、これからの勤務開始日や基本的な業務について話し合っていたところだった。

 

「アダムさん」

「ん? どうした?」

「私の名前についてですが……」

「ああ。決まったのかい?」

「はい」

 

 彼女は少しだけ緊張した様子で答えた。

 

「ナターシャ、と名乗りたいと思います」

「ナターシャか」

 

 アダムはその名前をゆっくりと繰り返した。

 

「いい名前だね」

「ありがとうございます」

「これからはナターシャと呼ばせてもらうよ」

「はい」

 

 彼女は小さく頷いた。

 

「……自分の名前を持つというのは、不思議な感覚ですね」

「慣れるまで時間がかかるかもしれないね」

「ですが、嫌ではありません」

「それならよかった」

 

 アダムは嬉しそうに頷いて見せる。

 

「これからは、その名前を大切にするといい」

「はい。そうします」

 

 ナターシャは自分の名前を心の中で繰り返した。

 

 ナターシャ。それが、これからの自分の名前。

 誰かに与えられた識別番号ではなく、自分で選んだ名前だった。しばらく歩いた後、彼女は再び口を開いた。

 

「アダムさん」

「うん?」

「一つ、聞いてもいいでしょうか」

「もちろん」

「私は……ここにいてもいいのでしょうか?」

 

 アダムは歩みを止めた。

 

「どういう意味だい?」

「私はあなたに助けていただきました。身体も修復していただき、仕事まで与えていただいた。それだけでも十分すぎるほどの恩があります」

 

 ナターシャは少し視線を落とした。

 

「ですが、私はまだ何も返せていません。ここに居続ける理由があるのか、自分でも分からないのです」

 

 アダムは彼女を見つめた。そして、穏やかな口調で答えた。

 

「ナターシャ」

「はい」

「君は、何かを返すためにここにいる必要はないよ」

 

 彼はどこまでも、お人よしだった。かかったコストなど眼中になく。ナターシャが再び歩けるようになることを心の底から祝福している雰囲気を見て取れる。

 嬉しさと呆れが混じった複雑な気持ちが彼女の心に芽生えるが、そのせいで呆然とその言葉を脳裏で反芻する。

 

「……」

「ここで働いてみたいと思った。新しい生活を始めたいと思った。それなら、それでいいんだ」

 

 アダムは窓の外に目を向けた。

 

「ここは会社でもあるけど、僕にとっては仲間たちが安心して過ごせる場所でもある。君もその一人になればいい」

「仲間……」

「そう。だから、もう自分がここにいていいのかなんて心配しなくていい」

 

 彼は彼女に向き直った。

 

「ここはもう、君の居場所だ」

 

 ナターシャは何も言わなかった。ただ、その言葉を静かに受け止めていた。

 これまで彼女にとって、居場所とは与えられた任務のために存在する場所だった。

 戦場が変われば移動し、部隊が変われば配置も変わる。自分がそこにいる理由は、常に明確だった。

 

 しかし、今は違う。

 

 何かを遂行するためでも、誰かに命令されたからでもない。ただ、自分がここにいたいと思っていいのだ。

 やがて、ナターシャの口元がほんの少しだけ緩んだ。それは、彼女が初めて見せた自然な笑顔だった。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 夕暮れの光が、二人の姿を柔らかく照らしていた。

 

 翌朝。

 

 ROBERTS INDUSTRIESのオフィスには、いつもと変わらない朝の空気が流れていた。

 

 スタッフたちが出勤し、それぞれのデスクで業務を始める。そんな中、ナターシャはオフィスの入口に立っていた。

 身につけているのは、落ち着いた色合いのブラウスとジャケット。銀色の髪も丁寧に整えられ、清潔感のある印象に仕上がっている。

 

 手には業務用端末と書類があった。

 

 彼女は一度深呼吸をすると、アダムの執務室へ向かった。

 

「おはようございます、アダムさん」

「おはよう、ナターシャ。早いね」

「本日から勤務開始ですので」

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

「緊張しているわけではありません」

「そうか?」

「……少しだけです」

 

 アダムは小さく笑った。

 

「まあ、最初はそんなものだよ。気楽にやっていこう」

「承知しました」

「それじゃあ、まずは今日の予定を確認してもらえるかな?」

「はい」

 

 ナターシャは端末を操作し、予定表を確認する。

 

「午前九時から開発部門との会議。十時半から取引先とのオンラインミーティング。午後一時から研究棟の視察予定となっています」

「ありがとう。午後の予定については、少し調整しておいてくれるかな」

「かしこまりました」

 

 彼女は手際よく端末を操作した。

 

 情報処理能力の高さもあって、基本的な業務にはすぐに対応できている。

 

「それと、会議資料の確認もお願いできる?」

「すでに確認しております。最新版を共有フォルダに整理してあります」

「おお、仕事が早いね」

「必要な情報を整理しただけです」

「その調子で頼むよ」

「はい」

 

 アダムはデスクに向かい、仕事を始めた。

 

 その傍らで、ナターシャもまた自分の業務に取り掛かるまだ始まったばかりだ。彼女がこの場所に慣れるには、もう少し時間が必要だろう。

 これから失敗することもあるかもしれない。分からないことに戸惑う日もあるだろう。それでも、彼女はもう一人ではない。

 

 自分を助けてくれた人がいる。新しい仕事を与えてくれた人がいる。そして、自分の存在を仲間として受け入れてくれた人がいる。

 ナターシャは端末から顔を上げ、執務室の窓の外を見た。

 

 青空が広がっている。戦場の空とは違う、穏やかな空だった。

 

(……今日から、ここが私の居場所)

 

 彼女は小さく息を吐き、再び端末に視線を戻した。

 

 ROBERTS INDUSTRIESの朝は、いつもと変わらず静かに始まっていた。

 

 しかし、その日から一つだけ変わったことがある。アダムの傍らには、新しい仲間が加わっていた。

 かつて戦場に取り残され、存在する意味さえ見失っていた一人の量産型ニケ。

 彼女は今、自分の名前を持ち、自分の意思で働き、自分の意思で明日を迎えようとしている。

 

 その名は、ナターシャ。

 

 そして今日が、彼女の第二の人生の始まりだった。

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