白雷光の少年が英雄を目指すのは間違っているだろうか 作:一魁人
はじめまして。
この作品は『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』の二次創作です。
時系列は、外伝『アストレア・レコード』の「邪悪胎動」より約二か月前、暗黒期のオラリオから始まります。
白き目覚
最初にあったのは、光だった。
夜の闇を真昼に変えるような、暴力的な白。それが空から落ちてきたのか、地面から噴き上がったのか、それすらもわからない。ただ、世界のすべてがその白に呑み込まれていった。
音は、光よりわずかに遅れて届いた。
空そのものが裂けるような轟音。鼓膜を叩くどころではなく、骨の髄まで揺さぶり、内臓をまとめて握り潰すような衝撃が、全身を貫いていく。
熱かった。
皮膚の内側を、灼けた針が何千本も走り抜けていく。指先から肩へ、背骨を伝って脳天へ。血が沸騰するような熱さに、悲鳴を上げようとして――喉から声が出るより先に、意識が焼き切れた。
――ああ、雷か。
最後に浮かんだのは、ひどく間の抜けた、そんな考えだった。
◇
どれほどの時間が過ぎたのか、わからなかった。
闇の底から、意識が少しずつ浮かび上がってくる。水の中から水面を見上げるように、ぼんやりとした感覚が、ひとつ、またひとつと戻ってきた。
まず、冷たさがあった。
頬に押しつけられた、硬く冷たい何か。ざらざらとしていて、ところどころが湿っている。それが石畳だと気づくまでに、ずいぶんと時間がかかった。
次に、匂いがした。
石と土と、古い木の匂い。どこかの家で煮炊きをしているのか、香草と脂の混じった匂いが、風に乗ってかすかに流れてくる。一つひとつは何でもないはずなのに、どれも妙に馴染みがなかった。吸い込んだ空気そのものが、肺の中で居心地悪そうにしている。そんな気がした。
最後に、痛みが来た。
全身が、軋んでいた。腕も、脚も、背中も、まるで一度ばらばらにされてから適当に組み立て直されたかのように、どこもかしこも鈍く痛む。指を一本動かそうとしただけで、肩の奥まで鈍い痺れが走った。
紫苑は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界は、しばらく白く濁っていた。何度か瞬きを繰り返すうちに、ようやく輪郭が戻ってくる。
最初に見えたのは、空だった。
建物と建物のあいだに細く切り取られた、夕暮れの空。西の端はまだ橙色に燃えているのに、反対側からは藍色が静かに滲み出してきている。一日が終わろうとしている時間だった。
「……っ、う」
体を起こそうとして、喉の奥からうめき声が漏れた。
腕に力を込める。石畳についた手のひらが、小さく震えた。それでも何とか上半身を持ち上げ、背中を近くの壁に預ける。ひんやりとした石の感触が、火照った背中に心地よかった。
紫苑は長く、深く息を吐いた。
「……どこだ、ここ」
自分の声とは思えないほど、かすれた声だった。喉がひりつき、口の中は砂でも噛んだように乾いている。
あたりを見回す。
狭い路地だった。大人が二人並んで歩けるかどうかという幅の通りが、ゆるやかに曲がりながら奥へと続いている。両側には、三階建てほどの石造りの建物が、互いに寄りかかるように軒を連ねていた。
見覚えのない街並みだった。
いや、見覚えがないどころではない。積み上げられた石の色も、窓枠の形も、軒先に吊るされた錆びた鉄の看板も、何もかもが、どこか異国めいていた。写真か映画の中でしか見たことのないような、古い時代の街。そんな印象だった。
表通りから外れた裏路地なのだろう。壁際には空の木箱がいくつも積まれ、雨どいからは汚れた水がぽたりぽたりと落ちている。人の姿はなかったが、二つ三つ向こうの窓には明かりが灯り、誰かの笑い声がくぐもって聞こえてきた。
紫苑は、ぼんやりと自分の両手を見下ろした。
土埃で汚れた、見慣れたはずの手。
どうして、こんなところで倒れていたのだろう。ここに来るまで、どこを歩いていたのか。誰と一緒にいたのか。それを思い出そうとして――そこで、思考が止まった。
何も、出てこなかった。
ほんの少し前のことのはずなのに、頭の中を探っても、指先には何も触れない。霧の中に手を突っ込んでいるような、手応えのなさだった。
胸の奥が、ざわりと冷えた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。わからないことがあるなら、わかることから確かめればいい。一番簡単で、一番確かなことから。
自分が誰なのか。
「俺は……」
答えは、すぐに出てきた。
「神鈴……紫苑」
舌の上で転がしてみる。みすず、しおん。間違いない。それが自分の名前だと、体のどこか深いところが知っていた。
口に出すと、ほんの少しだけ、胸の奥が落ち着いた。
じゃあ、その前は。
どこで生まれて、どこで育って、どんな家に住んでいたのか。家族はいたのか。友達は。昨日の夜、何を食べたのか。そして、どうしてこんな見知らぬ場所で、石畳の上に転がっていたのか。
思い出そうとした。
記憶の引き出しに、手を伸ばした。
けれど、そこには何もなかった。
引き出しそのものが、なかった。
頭の中は、どこまでも真っ白だった。あの雷の光と同じ、すべてを塗りつぶす白。どれだけ手探りをしても、指先は何ひとつ掴めない。
残っているのは、ただひとつ。
空が裂けるような轟音と、全身を焼いた熱。雷に打たれた、あの一瞬だけ。
「……マジか」
しばらくの沈黙のあと、紫苑は頭をがしがしと掻いた。それから、乾いた笑いがこぼれた。
「記憶喪失って、ほんとにあるんだな。しかも名前だけきっちり覚えてるとか……ベタすぎるだろ。もうちょっとこう、ひねりとかないわけ?」
肩をすくめて言った冗談が、静まり返った路地に小さく反響して、消えていった。
笑っていないと、何かが崩れてしまいそうだった。
それでも、紫苑は何かにすがるように、もう一度あの瞬間を思い返した。
雷。
その言葉を思い浮かべた途端、頭の奥で何かがほどけた。
雷とは、雲の中に溜まった電気が、空気を引き裂いて地上へ走る現象だ。その電圧は数億ボルトにも達し、通り道の空気は太陽の表面よりも熱くなる。人がまともに打たれれば、助かることはまずない。
考えるより先に、答えが浮かんでいた。まるで、ずっと前から頭の中に書き込まれていたかのように。
紫苑は、思わず息を呑んだ。
試すように、目の前の景色へ視線を移す。足元に敷き詰められているのは石畳。屋根の縁から水を落としているのは雨どい。名前が出てくる。その仕組みも、使われ方もわかる。
知識は、次から次へと溢れてきた。
夜になれば、街は電気の明かりで埋め尽くされること。電車は決まった時刻に駅へ滑り込み、何万という人を運んでいくこと。小さな板一枚で、遠く離れた誰かと声を交わせること。
気づけば、右手がズボンのポケットを探っていた。そこに何かが入っているのが当たり前だったように、指先が勝手に動いていた。
ポケットは、空だった。
紫苑は、自分の手をじっと見つめた。
知っている。この世の仕組みなら、驚くほどたくさんのことを知っている。体だって、何かを覚えている。
それなのに、そのどれひとつとして、自分と結びつかなかった。
雷の仕組みを、誰に教わったのか。どんな部屋で、どんな声で、どんな窓の外を眺めながら聞いたのか。どの駅から電車に乗っていたのか。ポケットに入っていたはずの板で、誰と話していたのか。
そこだけが、すっぽりと抜け落ちていた。
まるで、百科事典は丸ごと残っているのに、日記帳だけが破り捨てられたかのように。知識はある。けれど、その知識を使って生きてきたはずの自分自身が、どこにもいなかった。
紫苑は、壁に後頭部をこつんと預けて、小さく息を吐いた。
「……知識の引き出しはあるのに、自分のことは何もわからないって。どういう忘れ方だよ、俺」
風が吹いて、何かが頬をくすぐった。
髪だった。肩に届くか届かないかという長さの髪が、風にあおられて顔の横に流れてきたのだ。紫苑は何気なくその一房を指ですくい、目の前に引き寄せた。
そして、固まった。
白かった。
夕暮れの薄明かりの中でさえ、はっきりとわかるほどに。一本残らず、降り積もったばかりの雪のような、混じり気のない白。
「……は?」
間の抜けた声が、喉から漏れた。
慌てて、別の房をつかむ。耳の横から垂れた髪。うなじにかかる後ろ髪を引っぱって、肩越しに無理やりのぞき込む。どこをつかんでも、指のあいだからこぼれ落ちるのは同じ色だった。
「いや、いやいや。ちょっと待って!」
自分でもわかるほど、声が裏返っていた。
紫苑は、自分の両手をもう一度見下ろした。
土埃で汚れてはいるが、皺ひとつない手だった。節も細く、肌には張りがある。どう見ても、年寄りの手ではない。
自分が何者なのかは思い出せない。けれど、さっき確かめたとおり、知識だけは残っていた。人の髪は、年を取るにつれて色が抜けていく。真っ白な髪というのは、長い年月を生きた老人のものだ。それくらいのことは、考えるまでもなくわかる。
だからこそ、おかしかった。
この若い手と、この白い髪が、どうしても一つの体に結びつかない。
それだけではなかった。指に絡む白い髪を見つめていると、胸の奥がざわついた。言葉にはならない、けれど確かな違和感。服を前後逆に着てしまったときのような、居心地の悪さ。
――これは、俺の色じゃない。
理屈ではなかった。記憶はなくても、体のどこかがそう訴えていた。
白い毛先をつまんだまま、紫苑は半分は自分に問いかけるように呟いた。
「……元から、これだったっけ?」
答えは出なかった。
本当の色がどんなものだったのか、それを思い出せない。ただ、この白ではなかったはずだという感覚だけが、取り残されたように胸の奥でくすぶっていた。
そのときだった。
風向きが変わったのか、路地の奥から、ざわめきが流れ込んできた。
人の話し声。誰かを呼ぶ声。石畳を叩く無数の足音と、車輪が軋む音。それらが溶け合った、低く絶え間ない響き。ひとつひとつの言葉は聞き取れないのに、そこに大勢の人間がいることだけは、はっきりとわかった。
紫苑は、音のするほうへ顔を向けた。
ここがどこなのか。自分が誰なのか。何ひとつわからない。それでも、こんな薄暗い路地にひとりで座り込んでいるよりは、人のいる場所のほうがずっとましに思えた。
膝をぽんと叩いて、ひとつ息を吐く。
「……ま、ここで座ってても仕方ないか。とりあえず、人に会わないと始まらないよな」
壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。膝が笑った。それでも一歩ずつ、ざわめきに導かれるように路地を進んでいく。
奥へ進むほど、音は大きくなっていった。笑い声が混じり、誰かが威勢よく何かを売り込む声が聞こえ、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
角を曲がった瞬間、視界が一気に開けた。
大通りだった。
石畳の広い道を、人の波が流れていた。荷車を押す商人。籠を抱えて家路を急ぐ女。剣や槍を背負い、鎧を鳴らしながら歩く男たち。そのなかに、耳の長い細身の男がいた。頭に獣の耳を生やした少女がいた。紫苑の腰ほどの背丈しかない、髭もじゃの男が、大きな酒樽を軽々と担いで通り過ぎていった。
紫苑は、思わず目をこすった。
「……コスプレ、じゃないよな?」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。
紫苑は、もう一度通りを見渡した。
知っているはずのものが、どこにもなかった。行き交う車も、信号機も、頭上を渡る電線もない。暮れかけた通りに灯り始めた明かりは、電灯の白い光ではなく、ゆらゆらと揺れる橙色の炎だった。誰ひとり、手元の画面に目を落として歩いている者はいない。
知っているはずの景色と、目の前の景色が、どこまでも噛み合わない。ここは、自分の知っている場所ではなかった。
通りの両側には露店が並び、呼び声が飛び交っている。どこかの酒場からは陽気な歌声が聞こえてきた。
賑やかだった。ありふれた、一日の終わりの街の光景だった。
けれど、紫苑はなぜか落ち着かなかった。
武器を持った者たちは、誰もが二人以上で連れ立って歩いていた。そして時折、何かを確かめるように、通りの暗がりへと鋭い視線を走らせている。露店の主人たちは、まだ空が明るいうちから店じまいを始めていた。壁に貼られた紙には、読めない文字が並んでいる。その横に描かれた、黒いローブの人影の絵だけが、妙に目に焼きついた。
笑い声の下に、何かが張りつめている。そんな街だった。
紫苑は、顔を上げた。
通りのずっと先。並び立つ屋根の向こうに、それはあった。
塔だった。
あまりにも巨大な、白い塔。周りの建物が玩具に見えるほどの高さで、地上から真っ直ぐに伸び、その頂は暮れなずむ空に溶けて見えなかった。夕陽を浴びた白い壁が、橙色に淡く染まっている。まるで、天そのものを支える柱のように。
紫苑は、言葉を失ってそれを見上げていた。
知らない。あんなものは、見たことがない。記憶がなくても、それだけは確信できた。あれは、自分のいた世界にあるはずのないものだ、と。
人の波が、立ち尽くす白髪の少年を避けて、何事もなかったように流れていく。
街のざわめきだけが、途切れることなく、夕暮れの空に響き続けていた。
◇
どれくらいの間、そうして塔を見上げていたのかわからない。
どん、と肩に衝撃が走って、紫苑はよろめいた。
「おい、邪魔だ。道の真ん中で突っ立ってんじゃねえ」
振り返ると、大きな斧を背負った男が、舌打ちをしながら通り過ぎていくところだった。
「っと……す、すみません」
反射的に頭を下げてから、紫苑ははたと動きを止めた。
――今、わかった。
男の言葉が、はっきりと聞き取れた。意味も、苛立ちのこもった響きも、何もかも。
さっき壁に貼られていた紙の文字は、ひとつも読めなかったのに。
紫苑は、遠ざかっていく男の背中を見送りながら、そっと自分の喉に触れた。自分の口から出た「すみません」も、たぶん相手に通じていた。知らない街で、知らない言葉を、知っている言葉のように話している。そのことが、かえって薄気味悪かった。
苦笑まじりに、ひとりごちる。
「……読めないのに、喋れるのか。便利なんだか、気味が悪いんだか」
考えても、答えは出そうになかった。紫苑は小さく息を吐いて、人の流れに紛れるように歩き出した。
◇
通りを歩くうちに、空はみるみる色を失っていった。
橙色だった西の空は紫に沈み、建物の影が長く伸びて、石畳を黒く塗りつぶしていく。軒先の明かりがひとつ、またひとつと灯るたびに、行き交う人の数は目に見えて減っていった。
露店の主人たちは、手際よく商品を片づけていた。誰も急いでいるようには見えないのに、その手つきにはどこか、遅れてはならないという焦りがにじんでいた。
そのとき、腹が鳴った。
ぐう、と情けない音が、思いのほか大きく響いた。
紫苑は腹を押さえて、情けなく眉を下げた。
「……そっか。腹も減るよな、そりゃ」
いつから何も食べていないのか、それすらわからない。ただ、胃の底がきゅっと縮むような空腹感だけは、確かにそこにあった。
反射的にポケットを探った。さっきと同じように、指先は何も掴まなかった。財布も、小銭の一枚もない。そもそも、この街でどんなお金が使われているのかも知らない。
「記憶なし、金なし、行くあてなし。……ここまで揃うと、いっそ清々しいな」
自分で言って、自分で少し笑った。笑っていれば、まだ何とかなる気がした。
ふと、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
匂いのほうへ目をやると、通りの端に小さな屋台が出ていた。油の煮える音がぱちぱちと弾け、白い湯気が夕闇にほどけていく。屋台の奥では、背中の丸まった老婆が、売れ残りらしい丸い揚げ物を木の皿に並べ直していた。
紫苑の足は、勝手にそちらへ向いていた。
近づくと、老婆が顔を上げた。皺の深い目が、紫苑の頭から足先までをゆっくりとなぞる。見慣れない服。土埃にまみれた体。そして、夕闇の中でもぼんやりと浮かび上がる、真っ白な髪。
「おや、まあ。ずいぶんとくたびれた坊やだねえ」
紫苑は、苦笑いで頬を掻いた。
「あはは……そんなにひどい顔してます?」
「ひどいも何も。今にも倒れそうな顔してるよ」
老婆は呆れたように笑うと、屋台の陰から木の杯を取り出し、水甕から水を汲んで差し出した。
「ほら、お飲み」
「えっ。いや、俺、金持ってないですよ」
慌てて手を振る紫苑に、老婆は鼻を鳴らした。
「水に金を取るほど落ちぶれちゃいないよ」
紫苑は少しためらってから、両手で杯を受け取った。
口をつけた途端、乾ききった喉に冷たい水が染み渡っていった。一口のつもりが、気づけば最後の一滴まで飲み干していた。体の内側に、ようやく血が巡り始めたような気がした。
「……っはぁ。生き返った……」
杯を両手で包んだまま、紫苑は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
「いい飲みっぷりだ。ついでにこれも持っていきな」
老婆は、皿の上の揚げ物をひとつ、油紙に包んで押しつけてきた。
「売れ残りさ。どうせ明日には固くなる」
「いやいや、さすがにそれは悪いですって」
「年寄りの親切は、黙って受け取るもんだよ」
有無を言わせない口調だった。紫苑は観念して、温かい包みを受け取った。
一口かじる。
さくりと軽い衣の下から、ほくほくとした芋の甘みが広がった。塩気がちょうどよくて、素朴で、ひどく温かい味がした。
紫苑は、目を丸くした。
「……うまっ」
思わず漏れた声に、老婆は満足そうに目を細めた。
「じゃが丸くんさ。この街じゃ、子供から冒険者まで、みんなこいつを食べて育つんだよ」
「じゃが丸くん……。名前、ゆるいな」
口元が、少しだけ緩んだ。紫苑はもう一口かじった。名前はふざけているのに、味は本物だった。
半分ほど食べたところで、紫苑は少し言い淀んでから、口を開いた。
「……あの。変なこと、聞いてもいいですか?」
「何だい」
「ここって……どこなんですか?」
老婆の手が、ぴたりと止まった。冗談かと思ったのだろう。けれど紫苑の顔を見て、それが本気の問いだとわかったらしい。笑いかけた口元が、ゆっくりと引き結ばれた。
「……坊や、本当に知らないのかい」
紫苑は頬を掻きながら、なるべく軽い調子で答えた。
「はい。気づいたら、そこの路地で倒れてて。……自分の名前以外、何も思い出せないんです」
軽く言ったつもりだった。それでも、言葉にした途端、胸の奥が少しだけ痛んだ。
老婆はしばらく黙って紫苑を見つめていた。それから、ふう、と長い息をついた。
「ここはね、オラリオだよ」
「オラリオ……?」
確かめるように繰り返す紫苑に、老婆は頷いた。
「迷宮都市オラリオ。世界の中心なんて呼ぶ連中もいる」
老婆は、皺だらけの指で通りの先を示した。夕闇に沈みかけた街並みの向こうで、あの白い塔だけが、まだ空の名残の光を受けてぼんやりと浮かんでいた。
「あの塔はバベル。あれの真下にはね、ダンジョンがあるのさ」
「ダンジョン……」
紫苑は、その言葉を口の中で転がした。
頭の奥で、また知識の引き出しが勝手に開いた。地下に広がる迷宮。うごめく怪物。剣と魔法で、その奥へと潜っていく者たち。けれどそれは、物語やゲームの中にだけある言葉のはずだった。
「……ダンジョンって、怪物とかがうじゃうじゃいる、あの……? 本当に?」
「ああ、本当さ。怪物がうじゃうじゃいる、あれだよ。冒険者たちは神様から恩恵をもらって、毎日あの穴に潜っていく。この街はね、その上に建ってるんだよ」
神様。恩恵。冒険者。
さらりと並べられた言葉の一つひとつが、紫苑の知っている世界から、どんどん遠ざかっていく。
「……すごいな。ほんとに、俺の知ってるどこでもないや」
呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
老婆は何も言わず、空になった杯を受け取った。それから、屋台の板戸を下ろしながら、声を落として続けた。
「坊や。悪いことは言わない。日が暮れたら、外をうろつくんじゃないよ」
紫苑も、つられるように声を落とした。
「……何か、あるんですか?」
「最近は物騒なのさ。闇派閥なんて連中が、あちこちで悪さをしてる。黒いローブを着た、ろくでもない奴らだよ」
紫苑の脳裏に、壁の紙に描かれていた絵が浮かんだ。読めない文字の横で、顔のない黒い人影が、こちらを見ていた。
「まだ大きな騒ぎにはなっちゃいないけどね。冒険者の連中も、ぴりぴりしてる。夜道でひとりなんて、狙ってくれと言ってるようなもんだ」
紫苑は背筋を伸ばして、小さく頷いた。
「……はい。ご忠告、肝に銘じます」
「行くあてがないなら、朝になったらギルドにお行き。困った人間の話くらいは聞いてくれるだろうさ」
ギルド。
その言葉には、聞き覚えがあった。冒険者が名前を登録して、仕事をもらう場所。ゲームの中なら、たしかそういうところだった。
記憶も、金も、行くあてもない。そんな自分でも、そこへ行けば、何かしら話は聞いてもらえるのかもしれない。
「……ほんとに、ゲームみたいな街だな」
紫苑が小さく苦笑しているあいだに、老婆は最後の板戸を閉めていた。屋台を引いて、通りの向こうへ去っていく。小さく丸まった背中が、角を曲がって見えなくなった。
紫苑は、その背中に向かって深く頭を下げた。
顔を上げて、しばらくしてから。
「……あ」
間の抜けた声が漏れた。
「ギルドの場所、聞いてない」
慌てて角のほうを見る。けれど、そこにはもう誰の姿もなかった。暮れていく通りに、屋台の車輪の音さえ残っていない。
紫苑は、片手で顔を覆った。
「……何やってんだ、俺」
追いかけようにも、どちらへ行ったのかもわからない。日はもう沈みかけている。知らない街の暗がりを、あてもなく歩き回るのは、たった今受けた忠告を無視するのと同じだった。
朝になれば、誰かに聞けるだろう。今は、それを待つしかない。
手の中には、まだ温もりの残る油紙だけが残っていた。
◇
夜が、降りてきた。
さっきまであれほど賑わっていた大通りは、嘘のように静まり返っていた。ところどころに灯る明かりが、石畳に頼りない光の輪を落としている。その輪と輪のあいだには、深い闇がわだかまっていた。
紫苑は、小さな広場の噴水の縁に腰を下ろしていた。
水の流れる音だけが、絶え間なく響いている。昼間の熱を失った石が、じわじわと体温を奪っていく。見上げた空には、知らない星が散らばっていた。
「オラリオ。ダンジョン。神様。……で、俺は記憶喪失の白髪、と」
指折り数えて、紫苑は苦笑した。それから、星空を仰いでぼやく。
「……設定、盛りすぎだろ。誰が考えたんだよ、これ」
答える者はいない。噴水の水音が、冗談を静かに呑み込んでいった。
膝を抱える。吐いた息が、かすかに白く濁った。
行くあてはない。頼れる人もいない。帰る場所が、あったのかどうかさえ思い出せない。それでも、不思議と涙は出なかった。
ただ、胸の奥のどこかで、空っぽの日記帳が風にめくられているような気がした。
そのときだった。
石畳を叩く、軽やかな足音が近づいてきた。ひとつではない。いくつもの足音が、まっすぐこちらへ向かってくる。
紫苑は顔を上げた。
老婆の言葉が頭をよぎる。夜道でひとりなんて、狙ってくれと言ってるようなもんだ。
身構えるより先に、明るい声が夜の広場に響き渡った。
「ちょっと、そこの君!」
明かりの輪の中に、一人の少女が飛び込んできた。
燃えるような赤い髪を、高い位置でひとつに結んでいる。腰には剣。夜の闇などものともしない、まっすぐな緑の瞳が、噴水の縁に座り込んだ紫苑をとらえていた。
その後ろから、さらにいくつかの人影が、ゆっくりと姿を現す。
「こんな時間に、こんなところでひとりなんて。危ないじゃない!」
少女は腰に手を当てて、なぜか胸を張った。
「でも安心して! 私たちが来たからには、もう大丈夫よ!」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。