最後に、夢中でシャッターを切ったのはいつだっただろう。
列車の窓に映った自分の顔を眺めながら、ワタシはそんなことを考えていた。
膝の上には、使い込んだカメラバッグ。隣の席には、帰省のために持ち帰った小さな旅行鞄が置かれている。車窓の向こうでは、建物の密集した街並みが少しずつ途切れ、なだらかな草地と畑が広がり始めていた。時折、遠くの木立をムックルの群れが横切っていく。
その光景を見た瞬間、指が反射的にバッグの留め具に触れた。
撮ろうと思えば撮れる。カメラはすぐに取り出せるし、窓越しの撮影に向く設定だって、目を閉じたままでも調整できる。光の具合も悪くない。秋の柔らかな日差しが、畑の畝を斜めに照らしている。
昔のワタシなら、迷わずカメラを構えていただろうね。
けれど、留め具に触れた指は、結局そのまま動かなかった。
せっかくの帰り道だ。仕事じゃなくて、好きなものを撮ればいい。そう思っていたはずなのに、何を切り取ればいいのか、どうしても決められない。
別に、写真の仕事がなくなったわけじゃない。
むしろ、外から見れば順調な方なんだろう。雑誌の撮影依頼は定期的に来るし、旅先の風景を使いたいという連絡もある。撮影現場では手際のよさを褒められるし、納品した写真に大きな修正が入ることだって少ない。
先週の仕事もそうだった。
依頼されたのは、ある街の観光案内に載せる写真。見栄えのする通りを選び、人の流れを読み、雲が切れる瞬間にシャッターを押した。担当者は写真を見て喜んでくれたし、「期待していたとおりです」なんて、何度も礼を言ってくれた。
嬉しいはずだった。
だって、写真家として仕事を任されて、その成果を認めてもらえるんだから。昔のワタシが聞いたら、きっと飛び上がって喜んでいたと思う。
けれどホテルに戻り、撮影した数百枚の写真を画面に並べたとき、何とも言えない気分になった。
どれも悪くない。
構図も露出も、仕事として十分な仕上がりだ。依頼に合わせた写真を選ぶことだってできるし、どれを納品しても恥ずかしくない自信はある。
なのに、一枚も手元に残したいと思えなかった。
昔は違った。
撮影が終わってもなかなか眠れなくて、気に入った一枚を見つけるたびに、明日はもっと面白いものが撮れる気がしていた。撮った写真を何度も見返しては、一人で笑っていたことだってある。
それなのに、今は納品を終えると、ただ肩の力が抜けるだけ。
写真が嫌いになったわけじゃない。
そう思いたいんだけどねぇ。
次の仕事の話が来れば、きっといつものように準備をして、求められた写真を撮るだろう。何を撮ってほしいのか、どう撮れば喜んでもらえるのか。それを考えるのは、もう慣れたものだから。
けれど。
じゃあ、ワタシ自身は何を撮りたいんだろう。
そう考える時間が、最近は少しずつ長くなっていた。
「……参ったねぇ、こりゃ」
小さくこぼした言葉は、列車の走行音に紛れて消えていく。
仕事の区切りがついたタイミングで、しばらく新しい依頼を入れないことにした。心配した知り合いからは「少しゆっくりしたら」と言われたし、自分でもそれがいいと思った。
ただ、いざ休みができると、どこへ行けばいいのかわからなかった。
写真を撮るために、これまでいろんな地方を旅してきた。
海も、山も、知らない街も、珍しいポケモンが暮らす森も。行きたいところなんて、いくらでもあったはずなのに。
今は、どこへ行っても同じような気がしてしまう。
だから、行き先を決めるのに時間はかからなかった。
シンオウ地方、ズイタウン。
ワタシが生まれ育った、何の変哲もない町。
若い頃は、もっと遠くへ行きたくて仕方がなかった場所だ。世界には見たことのない景色がいくらでもあるのに、ずっと同じ町にいるなんてもったいないと思っていた。
まさか、帰る場所を探してこの町を選ぶ日が来るなんてね。
窓の外で、見覚えのある道が線路と並んだ。
懐かしい景色に、思わず少しだけ身を乗り出す。
故郷が近づいている。
そう思うだけで、胸の奥にずっと居座っていた重たいものが、ほんの少し軽くなった気がした。
♦
ズイタウンの空気って、こんなに土の匂いがしたっけ。
駅から歩き出して、真っ先に思ったのはそんなことだった。
乾いた風が頬を撫でていく。道端には背の低い花が咲き、遠くの牧場からポケモンの鳴き声が聞こえる。大きな街に比べれば人通りは少ないけれど、そのぶん、一人ひとりの歩く速さまでのんびりしているように見えた。
「変わんないねぇ、ここは」
口に出してから、少し笑ってしまった。
もちろん、変わったものだってある。
新しい店ができていたし、古い塀は綺麗に塗り直されていた。子供の頃によく寄った菓子屋は、いつの間にか別の店になっている。
それでも、道が曲がる角度や家々の間から見える空の広さは、ワタシの記憶にあるズイタウンのままだった。
牧場の柵の向こうでは、若いトレーナーがポケモンの写真を撮っている。
どうやら、うまく撮れたらしい。
画面を覗き込んだトレーナーが嬉しそうに笑うと、ポケモンもその喜びが伝わったのか、何度も飛び跳ねていた。
何だか、昔の自分を見ているみたいだった。
ワタシもあんなふうに、撮れた写真を誰かに見せてはしゃいでいたっけ。
あの頃は、写真が上手いとか下手とか、そんなことを気にする余裕もなかった。ただ面白いものを見つけたら撮って、気に入ったら誰かに見せたくなって。
それだけで、十分楽しかった。
しばらく二人を眺めてから、また歩き出す。
そんなとき、すれ違った年配の女性に声をかけられた。
「あら、サザレちゃんじゃない。帰ってきたの?」
「あ、こんにちは。そうなんです。ちょっと休みができてね」
「大きくなったねぇ。テレビで見たよ、写真の仕事してるんでしょう?」
「ええ、まあ。ぼちぼちやってますよ」
「立派になって。お母さんたち、喜んでるでしょうね」
「あはは、ありがとうございます」
笑って頭を下げると、女性は嬉しそうに手を振って歩いていった。
悪意のない、懐かしい会話だった。
ワタシが外で仕事をしていることを、故郷の人たちが知っていてくれる。それは本来、とてもありがたいことだと思う。
でも、「立派になった」と言われた瞬間、無意識に背筋を伸ばしてしまった自分がいた。
また、だ。
誰かに期待されるたびに、ちゃんと応えなくちゃって考えてしまう。
褒めてもらったら、次はもっといいものを。
仕事を任されたら、期待以上のものを。
そんなことばかり考えて、いつの間にか、失敗するのが怖くなっていた。
「……やめやめ。休みに来たんだからさ」
軽く頬を叩いて、気持ちを切り替える。
せっかく帰ってきたんだ。少しくらい、仕事のことを忘れたっていいはずだ。
実家に顔を出すと、母さんは驚きながらも、いつもの調子で迎えてくれた。
帰ることは事前に伝えてあったのに、食卓にはワタシの好きな料理がいくつも並んでいる。
あれこれ聞かれることを覚悟していたけれど、母さんは仕事の話をほんの少ししただけで、あとは近所の出来事や畑の話ばかりしていた。
たぶん、気を遣ってくれているんだろうね。
昔から、ワタシが本当に話したくないことは、無理に聞こうとしない人だった。
その優しさが、今は少しくすぐったい。
遅い昼食を食べ、部屋に荷物を置いたあと、散歩に出ることにした。
実家の自分の部屋には、昔使っていた小さな三脚が残っていた。窓際の棚には色褪せた写真立てもある。
片付ける時間がなかったのか、それとも母さんがそのままにしてくれていたのか。
どちらにしても、ちょっと嬉しかった。
そのせいだろうか。
町を歩いていると、自然と学生時代のことを思い出す。
あの頃は、休日になると家にいなかった。
カメラを首から下げて、町の東にあるズイの遺跡へ出かけては、陽が傾くまで戻らない。
石の模様、遺跡に入り込んだ光、草の隙間から顔を出したポケモン。見つけたものは片端から撮っていた。
そして、ワタシの写真には、たいてい一人の男の子が写っていた。
古い石碑を見つけると、目を輝かせて近寄っていく男の子。
難しい本を抱えて、まだ誰も聞いていないのに自分の考えを話し始める男の子。
よく転んで、服を泥だらけにするくせに、本人は少しも気にしていない。
そのくせ、大事な研究ノートが濡れそうになると大慌てするんだから、見ていて飽きなかった。
「……コハク、元気にしてるかねぇ」
口に出してから、ちょっとおかしくなった。
連絡先なら知っている。
今でも年に何度かやり取りはするし、誕生日にはお祝いを送り合っている。たまに彼が研究のことで興奮した長文を送ってきて、ワタシが「三行でお願い」と返すことだってあった。
でも、顔を合わせたのは何年も前だ。
最後に会ったとき、何を話したんだっけ。
そんなことを考えていると、十六歳の頃の記憶が浮かんできた。
コハクが研究発表で注目されて、大学から声をかけられた日のことだ。
あのときのワタシは、自分のことでもないのに嬉しくてたまらなかった。
だって、ずっと隣で見てきたんだもの。
誰に頼まれたわけでもないのに古い地図を集めて、暇さえあれば遺跡へ行って、難しい本を何冊も読み漁って。
そんな彼の好きなことが、初めて大勢の人に認められた。
ワタシが大喜びしていた横で、コハクは賞状なんかより、これからもっと調査を続けられることの方を喜んでいたっけ。
本当に、彼らしかった。
嬉しかった。
誇らしかった。
でも、同時に少しだけ寂しくもあった。
コハクは大学で研究を続けることになって、ワタシも写真家として少しずつ遠くへ行くようになった。
互いの夢が前に進んでいる。
それは間違いなく喜ばしいことで、だからこそ、引き止めるようなことは言いたくなかった。
だけど、あの頃のワタシには、最後まで伝えられなかった言葉がある。
今でも、そのことを思い出す日があるくらいには。
当時は、いつでも会えると思っていた。
離れたって、また昔みたいに笑って話せるって。
なのに、いざ何年も会わなくなると、どんな顔をして会えばいいのかさえ、わからなくなるものらしい。
「ま、散歩くらい気楽にしないとね」
自分に言い聞かせるように呟いて、道を曲がる。
そのときだった。
ふと、見慣れない看板が目に入った。
通りから一本入ったところにある、木造の二階建て。
確か、昔は文房具や日用品を売っていた店だったはずだ。何年か前に閉まったと聞いた記憶がある。
ところが今は、窓が綺麗に磨かれ、入口に小さな植木鉢が置かれている。
軒先には、新しい板の看板が掛けられていた。
『コハク古代文化研究室』
「……え?」
思わず足が止まった。
もう一度、看板を読む。
コハク。
この町で古代文化の研究をしているその名前の人物なんて、ワタシには一人しか思い当たらない。
そういえば、地元に拠点を作るって言ってたっけ。
去年だったか、それより前だったか。
彼から届く近況報告には、「資料が増えて置き場所がない」とか、「地元で古い建物が借りられそう」とか、そんなことが書いてあった気がする。
こっちも仕事に追われていて、詳しく尋ねる余裕がなかったんだよね。
「ほんとに作ったんだ、研究室」
思わず笑みがこぼれた。
大学の立派な研究棟でもなく、誰もが知る大きな博物館でもない。
町の小さな建物に、自分の名前を掲げている。
何というか、ひどく彼らしい。
ガラス窓には薄いカーテンが引かれていたけれど、隙間から書棚が見えた。古そうな地図が壁に張られ、棚には大小さまざまな箱が並んでいる。
入口の札には、「調査中のため、ご用の方はベルを」と手書きの文字が添えられていた。
……相変わらず、字はあんまり上手くないみたいだね。
そんなことを考えながら、扉の前まで歩いていく。
ベルを鳴らすだけ。
たったそれだけなのに、指がなかなか動かなかった。
突然来たら迷惑かな。
仕事の邪魔になるかもしれない。
そもそも、どうして何の連絡もせずに来ちゃったんだろう。
今からでもメッセージを送ろうか。
いやいや、それも変だよね。もう目の前まで来てるんだし。
自分でも呆れるくらい、考えがまとまらない。
……会いたかった。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
その瞬間、妙に照れくさくなってしまった。
昔は毎朝のように迎えに行っていた相手なのに。
扉を開けるのに、こんなに勇気がいるなんてね。
深呼吸して、ベルへ手を伸ばす。
そのときだった。
「おい、待て待て! そっちは持たなくていい!」
建物の奥から、よく知っている声が聞こえてきた。
思わず、手が止まる。
「いや、助けてくれるのは嬉しいんだけど! その箱は中身が割れるんだって!」
続いて、硬いもの同士がぶつかる音と、床を擦るような音がした。
「だから尻尾で引っかけるな! ああ、もう、棚に当たる!」
……何やってるんだか。
何年も聞いていなかった声なのに、何だか昨日も聞いたような気がする。
ちょっと慌てたときに早口になるところなんか、昔と全然変わっていない。
とうとう我慢できなくなって、吹き出してしまった。
「何やってんのよ、もう……」
中から、何かをそっと床に下ろす音がした。
「よし。そう、そこに置いて……って、誰か外にいるのか?」
足音が近づいてくる。
あ、まずい。
なんて思ったけれど、何がまずいのか自分でもわからない。
今ならまだ逃げられる、なんて馬鹿な考えまで頭をよぎった。
別に逃げる理由なんてないのに、心臓だけがやけにうるさい。
そして、扉が内側から開いた。
「すみません、今ちょっと取り込み中で――」
そこにいたのは、少しだけ背が高くなった幼馴染だった。
昔より肩幅が広くなって、髪は相変わらず無造作。
白いシャツの袖を肘までまくって、片手には薄い作業用手袋を持っている。頬には、どうしてついたのかわからない白っぽい粉が少しだけ付いていた。
……ああ。
コハクだ。
当たり前なんだけど、何だか不思議な気分になった。
ずっと知っていた男の子が、知らない間に大人の男になっている。
でも、目が合った瞬間にわかった。
何か面白いものを見つけたときの、あの目だ。
「……サザレ?」
コハクも驚いたみたいで、しばらく動かなかった。
名前を呼ばれた途端、あれほど考えていた最初の挨拶が全部飛んでいく。
「久しぶり、コハク」
結局、出てきたのはそんな平凡な言葉だった。
コハクは一度まばたきをしてから、驚いた顔のまま笑った。
「帰ってきてたのか! 連絡くらいしてくれよ」
「ふふっ。……驚かせようと思ってね」
「いや、驚いたよ。まさか今日帰ってくるとは思わなかった」
「大成功ってことかい?」
「成功しすぎ。俺、今すごい格好してないか?」
言われて、改めて彼の姿を眺めてみる。
服装はまあ、普通。
でも、顔がちょっと面白いことになっていた。
「うん。顔、何かついてるよ」
「え、どこ?」
「そっちじゃない。反対」
コハクが袖で頬を拭くと、白い粉はかえって広がってしまった。
……あーあ。
「ああ、もう。ちょっとじっとしてなって」
バッグからハンカチを取り出して、自然に彼の頬へ手を伸ばす。
そこで、指が止まった。
……あれ?
何だか、近くないかい?
昔なら何でもなかった距離だ。
泥をつけた顔を拭いてやることだって、何度もあった。
でも、今目の前にいるのは、もう子供じゃない。
思ったよりも背が高い。
顔だって、昔よりずっと大人びている。
近くで見ると、そんな当たり前のことまで意識してしまう。
しかも、コハクまで少しだけ固まっているように見えた。
……何だい、もう。
こっちまで変に緊張するじゃないか。
「……自分で拭ける?」
「お、おう」
ハンカチを渡すと、コハクは妙にぎこちない手つきで頬を拭った。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
さっきまで普通に笑えていたのに、今は目を合わせるのが少し難しい。
なんだか、悔しくなってきた。
昔から知っている相手に、どうしてこんなに緊張しなくちゃいけないんだろう。
だから、先に笑ってやることにした。
「研究者になっても、相変わらず泥だらけになるんだねぇ」
「泥じゃなくて石膏の粉。さっき資料の台座を直してたんだよ」
「はいはい。違いはちゃんとわかったよ」
「絶対わかってないだろ」
「あははっ」
そんなやり取りをしているうちに、少しずつ胸の緊張がほどけていった。
そうそう。
こういう感じ。
ワタシが知っているコハクは、昔からこんな人だった。
彼の前では、気の利いた言葉を選ばなくてもいい。
写真家としての経歴を話さなくても、何か立派な自分を見せなくても、こうしてくだらないことで笑える。
何だか、久しぶりに自然に笑えた気がした。
コハクはハンカチを返しながら、改めてワタシを見た。
「それで、いつまでいるんだ?」
「まだ決めてないんだ。ちょっと、ゆっくりしようと思ってね」
「そうか。なら、しばらくはこっちに?」
「うん。迷惑じゃなければ、時々顔出そうかな」
「迷惑なわけないだろ」
即答だった。
あまりにも早い返事に、思わず目を丸くしてしまう。
すると、コハクも自分で気づいたらしく、慌てて言葉を付け足した。
「いや、ほら、昔みたいにさ。話し相手がいると、俺も助かるし」
「ふうん?」
「何だよ、その顔」
「さあ、何だろうねぇ?」
思わず、にやけてしまった。
だって、何だか嬉しいんだもの。
ワタシが顔を出すことを、こんなふうに喜んでくれるなんて。
……まあ、本人には言ってやらないけど。
コハクは小さく頭をかいて、それから穏やかな顔になった。
「まったく……おかえり、サザレ」
その一言は、不意打ちだった。
町に着いてから、何人にも帰ってきたことを喜んでもらった。
母さんにも「おかえり」と言われた。
なのに、コハクから聞くその言葉には、どこか別の響きがあった。
子供の頃、遺跡から帰る道で何度も聞いた声。
遠くへ行っても、何年も会わなくても、もう一度ここに戻ってきていいんだって、何の疑いもなく言ってくれる声。
ああ、そっか。
ワタシ、帰ってきたんだ。
そんな当たり前のことが、ようやく実感できた気がした。
ずっと疲れていたはずなのに、胸の奥に温かいものが染み込んでくる。
少しだけ視線を落として、それから顔を上げる。
「……うん。ただいま、コハク」
自然と笑顔になった。
仕事先で作る笑顔とは、きっと違う。
そんなことを考えなくても、ちゃんと笑えている自分がいた。
♦
「ところでさ、さっき何してたんだい?」
研究室の奥を覗き込みながら尋ねると、コハクは思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。オオニューラが箱を運んでくれてたんだけど、俺が置き場所をちゃんと伝えてなくて」
開いた扉の向こうから、細長い影が顔を出した。
白い毛並みと大きな爪。
ひょろりと背が高いそのポケモンは、ワタシを見るなり、少し首を傾げた。
「あれ、もしかして……あの子かい?」
「覚えてる? まだ小さかった頃に、一回会わせたと思うけど」
「覚えてるよ。あの頃は、ワタシのバッグの紐を引っ張って遊んでたじゃないか」
あの頃は、まだヒスイニューラだった。
珍しい姿のニューラだって聞いて、何枚も写真を撮らせてもらった記憶がある。
そのたびにバッグの紐を引っ張られて、最後にはカメラまで狙われたっけ。
目の前のオオニューラは、何かを思い出したのか、尻尾をゆっくり揺らした。
「大きくなったねぇ」
笑いかけると、オオニューラは得意げに胸を張った。
……うん。
こういうところも、あんまり変わってないみたいだね。
ただ、その背後には、積み重ねられた木箱が見えていた。
いちばん上の箱が、少し斜めになっている。
「……あれ、危なくないかい?」
「うん。今まさにそれを何とかしようとしてた」
「それなら、ワタシが来てる場合じゃないんじゃない?」
「いや、そうなんだけど……」
コハクが困ったように笑う。
その顔を見ていたら、また笑いがこぼれてしまった。
結局、二人で少しだけ箱の整理を手伝うことになった。
オオニューラは不満そうだったけれど、箱の中身が大事な資料だと聞くと、今度は慎重に運んでくれた。
コハクはそれを見て、何度も褒めていた。
昔から、ポケモンには甘いんだから。
「ほら、入って。お茶くらいなら出せるから」
「研究室にお茶なんてあるのかい?」
「失礼だな。ちゃんとあるよ」
「カップも洗ってある?」
「……そこは確認してから答えたい」
「もう、ほんと変わんないねぇ」
呆れながらも、どこか嬉しかった。
促されるまま、研究室の中へ足を踏み入れる。
紙と木と、少し古い石のような匂いがした。
壁一面の書棚には本がぎっしり詰まり、作業台には遺跡の地図や測量用の道具が広げられている。窓際には小さな観葉植物があり、午後の日差しが葉の影を床に落としていた。
棚には、見たこともない模様の石片が並んでいる。
別の壁には大きなシンオウ地方の地図が張られ、ところどころに印や書き込みがあった。
何だか、昔のコハクの部屋をそのまま大きくしたみたいだった。
子供の頃から、あの部屋は本と資料でいっぱいだった。
机の上にはいつも何かの地図が広げられていて、引き出しには拾ってきた石や、何に使うのかわからない道具が入っていた。
ワタシが遊びに行くと、決まって新しく見つけたものを見せてくれたっけ。
それが、今ではこんな立派な研究室になっている。
すごいなぁ。
素直に、そう思った。
ずっと好きだったものを追いかけ続けて、とうとう自分の仕事にしてしまったんだから。
……ワタシと、同じはずなのにね。
ふと、そんなことを考えてしまった。
ワタシだって、写真が好きだった。
好きだから勉強して、好きだから仕事にして、ここまで続けてきた。
なのに、今はカメラを構えることさえ少し怖くなっている。
それに比べてコハクは、昔と変わらず楽しそうだ。
部屋のあちこちにある資料を眺めているだけで、彼がどれだけ夢中になって研究を続けてきたのかが伝わってくる。
少し、羨ましい。
そう感じてしまった自分に気づいて、慌てて首を振った。
何を考えてるんだか。
せっかく久しぶりに会えたんだから、もっと楽しいことを考えればいいのに。
コハクは奥で湯を沸かし始めていた。
オオニューラがまた箱を移動しようとして、さっそく彼に止められている。
そのやり取りが面白くて、思わず笑ってしまった。
ほんと、昔から変わんないねぇ。
そんなことを考えながら、何気なく机の方へ目を向けた。
そのときだった。
書類の山と資料の間に、一つだけ小さな写真立てがあることに気づいた。
今どき珍しい、飾り気のない木製のフレーム。
写真は少し色褪せている。
でも、そこに写っている二人の姿を、ワタシが見間違えるはずもなかった。
「……え?」
思わず、近づいてしまった。
十六歳のコハクと、十六歳のワタシ。
ズイの遺跡の前で肩を並んで、二人とも眩しそうに笑っている。
コハクは研究発表のために持ち歩いていた分厚いノートを抱えていて、ワタシはカメラのストラップを首から下げていた。
覚えてる。
この写真を撮った日のこと。
ワタシが小さな三脚にカメラを載せて、セルフタイマーで撮ったんだ。
コハクは最初、写真なんかいいから早く遺跡を見に行こうって言ってた。
でも、どうしても二人で撮りたくて、半ば無理やり隣に立ってもらったんだっけ。
撮り直しなんてしなかった。
少し傾いた構図も、二人の顔にかかった影も、そのまま残した。
今のワタシだったら、きっと撮り直していただろうね。
もっと綺麗に、もっと上手く撮れるはずだって。
でも、この写真を見ていると、不思議なくらいそんなことはどうでもよくなった。
だって、すごく楽しそうなんだもの。
十六歳のワタシも。
隣で笑っているコハクも。
「……これ」
写真立てに手を伸ばしかけて、そっと止めた。
ワタシの部屋にも、同じ写真が一枚ある。
ずっと大切にしてきた写真だ。
何度引っ越しても、どんなに荷物が増えても、あの写真だけは手放せなかった。
だって、あの日の思い出が大好きだったから。
……いや。
それだけじゃない、か。
写真の中で笑っている男の子のことが、昔からずっと好きだったから。
でも、まさかコハクまで同じ写真を飾ってくれているなんて思わなかった。
しかも、引き出しの中じゃない。
毎日使っているらしい机の、一番目につく場所に。
その事実が、何だか妙に嬉しかった。
ワタシにとって大切だったあの日が、彼にとっても大切な思い出だったのかもしれない。
そんなふうに考えてしまう。
……期待しちゃうじゃないか。
奥から、コハクの声が聞こえてきた。
「サザレ、紅茶でいい? コーヒーもあるけど」
「……うん。紅茶がいいな」
「了解。ちょっと待ってて」
いつもどおりの返事だった。
何にも気づいていないみたいな、のんびりした声。
まったく、もう。
こっちがどんな気持ちでいるのかも知らないで。
ワタシはもう一度、写真の中の少年を見つめた。
十年前の自分は、この写真を撮った日、一体どんな気持ちだっただろう。
たぶん、何かを上手く撮ろうなんて思っていなかった。
誰かに褒めてもらおうとか、賞を取りたいとか、そんなことも考えていなかった。
ただ、大好きな幼馴染と一緒にいた時間を、残しておきたかった。
それだけだった。
窓から差し込む午後の光が、写真立てのガラスに細い線を引く。
ワタシはその光を眺めながら、胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
あの頃のワタシが大切にしていたものは、遠くへ行った今も、ちゃんとここに残っていた。
そして、どうやらコハクも同じだったらしい。
それが何だか嬉しくて。
ワタシは写真の中の彼に向かって、そっと笑いかけた。