人間、いくつになっても慣れないことはあるらしい。
例えば、久しぶりに会った幼馴染にお茶を淹れるだけで、こんなにも緊張することとか。
「……何やってんだ、俺」
給湯室代わりに使っている小さな流し台の前で、思わず独り言が漏れた。
棚から取り出したカップを二つ並べ、茶葉の入った缶を開ける。いつもなら何も考えずに済ませる作業なのに、今日は妙に手元が落ち着かない。お湯の温度はこれでよかったか、茶葉は多すぎないか、そもそも最後にちゃんと紅茶を淹れたのはいつだったか。
……いや、待て。
紅茶一杯で何をそんなに悩んでるんだ。
俺は考古学者だぞ。これまで古代遺跡の調査で何度も危険な目に遭ってきたし、研究発表で大勢の学者を前に話したことだってある。
それなのに、初恋の相手に出す紅茶の味が気になって仕方ない。
我ながら情けない話である。
「コハクー? 何か手伝おうか?」
奥の部屋から声が聞こえた。
「ああ、いや! 大丈夫! もうできるから!」
「そう? あんまり無理しなくていいからねぇ」
その声を聞くだけで、頬が緩みそうになる。
サザレ。
俺が子供の頃から知っている、一番付き合いの長い幼馴染。
そして、結局一度も気持ちを伝えられなかった相手だ。
まさか今日、あいつが帰ってくるなんて思ってもみなかった。
最後に顔を合わせたのは何年前だっただろう。連絡は取っていたから、そこまで久しぶりという感覚もなかったんだけど、いざ目の前に現れると話は別だった。
昔と変わらない笑い方。少し低めで、よく通る声。人をからかうときに片方の口角を上げる癖。
懐かしいところはいくらでも見つかるのに、全体の雰囲気は随分と大人っぽくなっていた。
綺麗になった、と思った。
それこそ、扉を開けて顔を見た瞬間に。
……もちろん、本人には言っていない。
あんなことを面と向かって言えるなら、十年前にとっくに告白している。
「……よし」
淹れ終えた紅茶を二つのカップに注ぎ、トレーに載せる。
幸い、カップはどちらも綺麗だった。少なくとも、さっきサザレに心配されたような事態にはなっていない。
研究室へ戻ると、サザレは俺の机の前に立っていた。
何かを眺めているらしい。
「お待たせ。紅茶、できたぞ」
「ああ、ありがとね」
振り返ったサザレは、どこか嬉しそうな顔をしていた。
その視線を追って、理由に気づく。
机の上に飾ってある、古い写真立て。
「あ、それ……」
「ふふっ。懐かしい写真、飾ってるじゃないか」
「あー、うん。まあな」
何だか急に恥ずかしくなった。
そこにあるのは、十六歳の俺とサザレがズイの遺跡で撮った写真だ。
当時のサザレがセルフタイマーで撮影したもので、俺にとっても思い出深い一枚だった。
研究室を構えるとき、実家から持ってきた数少ない私物の一つでもある。
「まだ持っててくれたんだねぇ」
「そりゃ持ってるだろ。俺にとって大事な写真だし」
「……そっか」
サザレが小さく笑った。
何気なく答えたつもりだったけど、少し気恥ずかしい。
大事な写真。
まあ、嘘ではない。
ただ、どうして大事なのかまで説明する勇気は、今の俺にはなかった。
「ほら、座れよ。せっかく淹れたんだから、冷めるぞ」
「はいはい。いただきますよ」
サザレは写真立てから離れ、窓際の椅子に腰を下ろした。
カップを両手で包むように持ち、湯気を眺めている。
その姿が、妙に自然だった。
ずっと前からここにいたみたいに、俺の研究室に馴染んでいる。
……悪くないな。
いや、悪くないどころか、かなり嬉しい。
そんなことを考えながら、俺も向かいの椅子に座った。
♦
「それにしても、すごい量の資料だねぇ」
紅茶を一口飲んだサザレが、部屋の中を見回しながら言った。
「まあ、十年近く集めてきたものだからな。大学にいた頃の資料も結構持ってきてるし」
「十年かぁ。そりゃあ、こんなことにもなるか」
研究室の壁には、大きなシンオウ地方の地図が張られている。
その隣には、古代ヒスイ地方の地形を復元した地図。さらにジョウト地方の遺跡の分布図や、アンノーン文字の対応表もある。
棚に並んでいるのは、石版の複製品や古代の土器の破片、各地の研究機関から取り寄せた調査資料などだ。
俺としてはそれなりに整理しているつもりだけど、初めて訪れた人間からすると、かなり雑然として見えるらしい。
「これ、全部研究してるのかい?」
「全部ってわけじゃないよ。今取り組んでるのは古代ヒスイの居住文化と、地方間の神話の共通点について。ほかのは関連資料だな」
「ふうん。相変わらず難しいことやってるんだねぇ」
「まあ、趣味みたいなもんだけど」
「趣味で研究室まで作っちゃうんだから、キミも大概だよ」
「あはは。それは否定できない」
実際、俺の研究は趣味が高じたようなものだった。
子供の頃から、ポケモンの歴史や神話が好きだった。
もっと正確に言えば、生まれる前から好きだったんだけど。
俺には、前世の記憶がある。
かつて日本という国で暮らしていた、ごく普通のポケモンオタクだった頃の記憶だ。
ゲームはほぼ全作品を遊んだ。ストーリーも覚えているし、図鑑の説明文を読み比べたり、ゲーム内の古い文献を調べたりするのも好きだった。
特に夢中になったのが、いわゆる都市伝説や裏設定の考察だった。
シンオウ神話に登場するポケモンたちは、本当に世界を創ったのか。
アルフの遺跡に残るアンノーン文字には、どんな意味があるのか。
ヒスイ地方に存在した古代の人々は、どうしてその痕跡をほとんど残していないのか。
そんなことを、前世では画面越しに調べていた。
それが、気づけば自分自身がポケモンの世界に生まれ変わっていたのだから、人生というのは本当に何が起こるかわからない。
最初は興奮したものだ。
あの世界が、実際に目の前に広がっている。
草むらにはポケモンがいて、空にはムックルが飛び、町の外にはゲームで何度も歩いた道が続いている。
ただ、現実になったことで、わかったこともある。
ゲームで知っていた世界は、実際の世界のほんの一部分でしかなかったということだ。
遺跡の位置も、ポケモンの生態も、歴史の解釈も。
ゲームの知識だけで説明できないことなんて、いくらでも存在した。
だから面白かった。
前世で答えを知っているつもりだった謎に、現地調査を通して新しい疑問が生まれる。
その疑問を調べているうちに、さらに別の謎が見つかる。
気づけば十六歳で研究発表をして、大学から声をかけてもらい、そのまま研究者になっていた。
人生、何がきっかけになるかわからないものである。
「……コハク?」
「ん?」
「また考え事してたでしょ」
顔を上げると、サザレが呆れたように笑っていた。
「いや、ちょっと昔のことをな」
「まったく。相変わらず、好きなことになると周りが見えなくなるんだねぇ」
「そういうサザレだって、写真撮ってるときは人の話聞かなかっただろ」
「あははっ。それはそう」
懐かしいやり取りだった。
あいつがカメラを構えると、俺の声なんて届かなくなることがよくあった。
珍しいポケモンを見つけたときなんか特にひどい。
こっちが危ないから戻れと言っているのに、「もう一枚だけ!」なんて言いながら追いかけていくんだから。
……まあ、それを追いかけていた俺も人のことは言えないんだけど。
「そういえば、これ覚えてるか?」
俺は棚から一冊の資料を取り出した。
表紙には、古いアンノーン文字の拓本が印刷されている。
「ズイの遺跡で初めてちゃんと調査したときの記録。あの頃、お前にも手伝ってもらっただろ」
「ああ、懐かしいねぇ。あの変な文字、何枚も撮らされたっけ」
「変な文字って……歴史的に貴重な資料なんだけどな」
「ワタシには、どれも同じに見えたんだよ」
「ひどい言い草だな」
そう言いながらページを開く。
古びた紙には、当時の俺が書いた稚拙な考察が並んでいた。
今見返すと、なかなか恥ずかしい内容だ。
根拠が薄いものも多いし、前世の知識に頼りすぎている部分もある。
それでも、あの頃の俺は本気だった。
そして、その横にはサザレが撮影した写真が貼られている。
「……あ、これもワタシが撮ったやつ?」
「そうそう。お前の写真がなかったら、あのときの研究発表は成立しなかったからな」
「大げさだねぇ」
「いや、本当だって。俺、当時はまともな撮影機材なんて持ってなかったし」
「ふふっ。じゃあ、もっと感謝してもらわないとね」
「今度飯でも奢るよ」
「おっ、言ったね? 忘れないよ?」
「はいはい」
楽しそうに笑うサザレを見ていると、昔に戻ったような気分になる。
十六歳の俺たちは、何の疑いもなく一緒にいた。
俺が遺跡を調べて、サザレが写真を撮る。
それが当たり前だった。
けれど、いつの間にか互いの進む道が忙しくなり、会う機会は減っていった。
今思えば、もっと連絡しておけばよかったのかもしれない。
……いや。
それ以前に、言っておくべきことがあったんだけどな。
♦
「そうだ。せっかくだし、ほかの連中にも会っていくか?」
資料を棚に戻しながら尋ねると、サザレが顔を上げた。
「ほかの連中?」
「ポケモンたち。久しぶりだろ?」
「ああ! そうだねぇ。あの子たち、元気にしてるのかい?」
「元気すぎるくらいだよ」
まずは、研究室の奥でくつろいでいたゾロアークを呼んだ。
白く長い毛並みと、赤い模様を持つヒスイの姿。
今でこそ立派なゾロアークになったけれど、出会った頃は小さなゾロアだった。
人間をひどく警戒する個体で、仲良くなるまで随分時間がかかったのを覚えている。
「ゾロアーク、サザレだぞ。覚えてるか?」
ゾロアークはゆっくりと顔を上げた。
しばらくサザレを見つめたあと、鼻先を少し近づける。
「あら、覚えててくれたのかい?」
サザレが手を差し出すと、ゾロアークはその匂いを確かめるように鼻を動かし、やがて大人しく頭を寄せた。
「ふふっ。いい子だねぇ」
そのままサザレに撫でられている。
……おいおい。
俺以外の人間には、そこまで簡単に懐かないくせに。
「何だよ。随分と愛想がいいな」
そう言うと、ゾロアークはちらりと俺を見た。
そして、何事もなかったかのようにサザレへ顔を戻す。
「……無視かよ」
「あははっ! コハク、嫌われちゃったんじゃない?」
「そんなわけあるか。普段は俺のこと大好きなくせに」
言い返すと、ゾロアークは気に入らなかったのか、俺の足元へ軽く尻尾を振った。
サザレがまた笑う。
……まったく。
主人の扱いが雑なポケモンである。
「それにしても、大きくなったねぇ。あの頃はあんなに小さかったのに」
「もう随分長い付き合いだからな。こいつも結構強くなったぞ」
「へえ。そうなんだ」
「まあ、普段はこんな感じだけど」
ゾロアークはサザレの手に頭を預けたまま、すっかりくつろいでいる。
こいつの本気を知らない人間が見たら、ただの人懐っこいポケモンだと思うだろう。
もっとも、それで構わない。
俺にとって大事なのは、こいつらが元気に暮らしてくれることだから。
その後、オオニューラも加わって、研究室の中は少し騒がしくなった。
サザレは昔の話をしながら、二匹と楽しそうに遊んでいる。
せっかくだから、最後にもう一匹。
「ガブリアスにも会っていくか?」
「もちろん! あの子にも会いたかったんだよ」
「じゃあ、裏に行こう。今は庭にいるはずだから」
研究室の裏手には、小さな庭がある。
元々は店の裏庭だった場所だけど、俺が借りてから少し整備して、ポケモンたちがくつろげるようにしていた。
ガブリアスほど大きなポケモンが自由に走り回れる広さはないものの、日向ぼっこをするくらいなら十分だ。
裏口を開けると、秋の風が吹き込んできた。
庭の隅で横になっていた大きな影が、こちらの気配に気づいて頭を上げる。
「よう、ガブリアス。客だぞ」
低い鳴き声が返ってきた。
俺の最初の相棒。
色違いのガブリアスだ。
十歳の頃、迷いの洞窟で出会った小さなフカマル。
あれから十六年。
今では俺の手持ちの中でも、特に頼りになる存在へと成長している。
遺跡調査で危険な野生ポケモンと遭遇したときも、険しい山道で足場を失いかけたときも、何度こいつに助けられたかわからない。
「……わあ」
隣でサザレが声を漏らした。
「ガブリアス、こんなに立派になったんだねぇ」
その声に反応したのか、ガブリアスがゆっくりと立ち上がる。
そして、サザレの顔をじっと見つめた。
数秒ほどの沈黙。
次の瞬間、ガブリアスが嬉しそうに鳴いた。
「おっと!」
勢いよく顔を寄せられたサザレが、少しよろめく。
「ははっ。覚えてるみたいだな」
「もう、びっくりしたじゃないか!」
口ではそう言いながらも、サザレは嬉しそうだった。
ガブリアスの大きな頭を両手で撫でながら、懐かしそうに目を細めている。
「キミも元気そうでよかったよ。昔はあんなに小さかったのにねぇ」
そう言って笑う姿を見て、俺も少しだけ昔を思い出した。
フカマルだった頃、こいつはよくサザレの後をついて回っていた。
サザレがカメラを構えれば隣から覗き込み、俺が遺跡を調べていれば足元で穴を掘る。
おかげで、何度も調査場所をめちゃくちゃにされたものだ。
「あの頃は、お前のカメラによく噛みつこうとしてたよな」
「ああ、そうだったねぇ。レンズが光るのが気になってたみたいでさ」
「一回、レンズカバーを持って逃げただろ」
「あったあった! コハクが必死に追いかけてたっけ」
二人で顔を見合わせて笑った。
ガブリアスも何か言いたげに鳴いている。
きっと、自分の昔の失敗を蒸し返されるのが不満なんだろう。
けれど、サザレに撫でられると、すぐに大人しくなった。
……本当に、昔からこいつはサザレに甘い。
まあ、気持ちはわかるけど。
「そういえば、コハク」
「ん?」
「この子、今でもバトルするのかい?」
「するぞ。調査中に危険なポケモンと遭遇することもあるしな」
「へえ。相変わらず頼もしいねぇ」
「まあ、こいつがいなかったら俺、何回か死んでたかもしれないし」
「……ちょっと、笑えない冗談はやめておくれよ」
「いや、冗談じゃないんだけど」
「余計に笑えないじゃないか!」
軽く肩を叩かれた。
……ごもっとも。
危険地帯への調査は、それなりの覚悟が必要だ。
野生ポケモンだけじゃなく、崩落や悪天候、地形の変化なんかにも気を配らなければならない。
だからこそ、俺は手持ちの育成に時間をかけてきた。
別にチャンピオンを目指しているわけじゃない。
強いトレーナーになりたいという願望も、そこまで持っていない。
ただ、研究を続けるためには、生きて帰らなければならない。
そして、俺と一緒に来てくれるポケモンたちも、無事に帰してやりたい。
それだけの話だ。
「でも、よかったよ」
サザレが、ガブリアスの首元を撫でながら言った。
「キミたち、ずっと仲良くやってるみたいでさ」
「そりゃあな。家族みたいなもんだし」
「ふふっ。そうだねぇ」
その横顔が、午後の日差しに照らされていた。
昔と同じようにポケモンに笑いかけているのに、どこか大人びて見える。
……ああ、駄目だ。
さっきから、つい見とれてしまう。
本人に気づかれないよう、俺は慌ててガブリアスの方へ視線を戻した。
♦
研究室に戻った頃には、すっかり夕方が近づいていた。
サザレはもう少しだけ資料を見たいと言い、俺は古代ヒスイの地図を広げることにした。
壁に張ってある地図とは別に、最近作り直した詳細な復元図がある。
山脈や湖の位置を手掛かりに、現代のシンオウ地方と古代ヒスイの地形を重ね合わせたものだ。
「ほら、ここがズイタウンだろ。それで、この辺りが昔の紅蓮の湿地に相当すると考えてるんだ」
「へえ……じゃあ、ワタシたちの住んでる町も、昔は全然違う景色だったのかい?」
「そういうこと。まあ、地形そのものは大きく変わってない部分もあるけどな」
「面白いねぇ」
サザレが地図へ身を乗り出す。
その反応が嬉しくて、つい説明に熱が入った。
「特に気になってるのが、この辺り。古い記録では、ヒスイ時代にコンゴウ団っていう集団が暮らしていた可能性があるんだ」
「コンゴウ団?」
「ああ。古代ヒスイには複数の集団が暮らしていてな。現代のシンオウに残る神話にも、その影響があるんじゃないかって考えてる」
もちろん、コンゴウ団の存在そのものは前世の記憶から知っている。
けれど、この世界でそれを証明するには、当時の集落跡や文献を見つけなければならない。
俺が十六歳のときに発表した仮説も、そこから始まった。
いまだに決定的な証拠は見つかっていないけれど、だからこそ調べがいがある。
「それで、最近はズイの遺跡とこの辺りの地形を比較しててさ。もし集落の移動経路がわかれば、当時の人々がどんな生活をしていたのか――」
「ふふっ」
突然笑われて、言葉が止まった。
「……何だよ」
「いやぁ、ほんと変わんないなと思って」
「またそれか」
「だって、キミ、昔からこうだったじゃないか。遺跡の話になると、すぐ夢中になるんだから」
「……まあ、好きだからな」
「知ってるよ」
その返事が、妙に優しかった。
サザレは地図を眺めながら、懐かしそうに笑っている。
そんな姿を見て、俺はふと気づいた。
……そういえば。
サザレが、まだ一度もカメラを構えていない。
今日のあいつは、ずっとカメラバッグを肩に掛けている。
けれど、研究室に入ってから一度も中身を取り出していない。
昔なら、珍しい石版の複製品を見つけただけで、すぐに写真を撮っていたはずだ。
さっきガブリアスと再会したときだってそうだ。
あれほど嬉しそうにしていたのに、カメラには一度も触れなかった。
……おかしい。
いや、別に必ず撮影しなければならないわけじゃない。
今日は仕事じゃないんだし、たまにはカメラを持たずに過ごしたい日だってあるだろう。
それでも、昔のサザレを知っている俺には、少しだけ違和感があった。
「なあ、サザレ」
「ん? どうしたんだい?」
「今日、写真撮らないんだな」
何気なく尋ねたつもりだった。
けれど、サザレの表情がほんの少しだけ変わった。
笑顔が消えたわけじゃない。
ただ、何かを考えるように視線を落とした。
「ああ……そうだねぇ」
肩に掛けたカメラバッグへ目を向ける。
「今日は、まあいいかなって」
「そうなのか?」
「うん。せっかくの休みだしさ。たまには写真のことを忘れてもいいだろう?」
そう言って笑う。
いつもの、さっぱりした笑顔だった。
でも。
どうしてだろう。
俺には、その笑顔が少しだけ寂しそうに見えた。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
何か事情があるんだろう。
写真の仕事をしていれば、俺にはわからない苦労だってあるはずだ。
俺も研究がうまくいかないときに、あれこれ聞かれるのは好きじゃない。
だから、今は無理に聞き出す必要もないと思った。
気づかなかったふりをして、机の上の資料を片付け始める。
「まあ、写真撮りたくなったら言ってくれよ。資料の撮影くらいなら、いつでも歓迎するから」
「……ふふっ。研究の手伝いをさせるつもりかい?」
「バレたか」
「まったく、抜け目ないねぇ」
いつもの調子で返してくれたことに、少し安心した。
けれど、さっきの表情が頭から離れなかった。
あいつは昔から、嫌なことがあっても簡単には弱音を吐かない。
それどころか、周りが気づくより先に笑って誤魔化してしまう。
……昔もそうだったな。
十六歳の頃、一度だけ写真のコンテストで思うような結果が出なかったことがある。
あのときもサザレは、「次はもっといい写真を撮るよ」と笑っていた。
けれど、その日の帰り道はいつもより口数が少なかった。
俺は結局、何も言えなかったんだっけ。
十年経っても、そういうところは変わらないらしい。
……俺も、あいつも。
♦
窓の外が茜色に染まる頃、サザレが立ち上がった。
「さてと。そろそろ帰ろうかねぇ」
「もうそんな時間か」
時計を見ると、随分長いこと話し込んでいたらしい。
久しぶりの再会だったとはいえ、こんなに時間が経つのが早いとは思わなかった。
「今日はありがとね、コハク。久しぶりに楽しかったよ」
「俺もだよ。まさか帰ってきてるとは思わなかったし」
「ふふっ。驚かせた甲斐があったねぇ」
サザレはカメラバッグを肩に掛け直し、玄関へ向かった。
オオニューラが見送りに来ると、その頭を軽く撫でる。
「またね。今度は箱、落とさないようにするんだよ?」
オオニューラは不満そうに鳴いた。
……いや、そこは反省してくれ。
ゾロアークも奥から顔を出し、サザレへ小さく鳴き声をかけた。
「キミも元気でね。また遊ぼうじゃないか」
そんな光景を見ていると、妙に名残惜しくなってくる。
今日まで、俺はこの研究室で一人でも楽しく過ごしていた。
調べたいことは山ほどあるし、ポケモンたちもいる。寂しいなんて思ったことは、ほとんどなかった。
なのに、サザレが帰ると考えただけで、少し静かになるような気がした。
……何だかなぁ。
十年も経ってるのに、俺は本当に変わってないらしい。
玄関まで見送ると、サザレが振り返った。
「じゃあ、またね。コハク」
「ああ。またな」
そう答えてから、少しだけ迷った。
別に、次に会う約束をしなきゃいけないわけじゃない。
サザレはしばらく地元にいると言っていたし、連絡先だって知っている。
でも。
せっかく帰ってきてくれたんだ。
また、会いたい。
「……なあ、サザレ」
「ん?」
「明日も暇なら来いよ」
思っていたより、すんなり言葉が出た。
「どうせ俺、しばらくは研究室にいるし。茶くらいならいつでも出せるからさ」
サザレは少し驚いたように目を丸くした。
それから、口元に笑みを浮かべる。
「ふふっ。考えとく」
「何だよ、それ」
「さあねぇ。気が向いたら顔出してあげるよ」
そう言って、ひらひらと手を振った。
いつもの、ちょっと人をからかうような笑顔。
だけど、その表情はさっきよりもずっと柔らかく見えた。
「じゃあね、コハク」
「ああ。気をつけて帰れよ」
サザレは夕暮れの町へ歩き出した。
その背中を、俺はしばらく見送っていた。
昔も、こうして何度も別れた。
遺跡からの帰り道。
学校が終わった夕方。
研究発表の準備をしていた頃。
いつもあいつは、少し歩いてから振り返って、笑いながら手を振ってくれた。
だからだろうか。
今日も何となく、そのまま見送っていた。
すると、角を曲がる少し手前で、サザレが振り返った。
そして、大きく手を振る。
俺も思わず手を上げた。
……ほんと、変わらないな。
姿が見えなくなってから、ようやく研究室へ戻った。
さっきまで二人で座っていた椅子。
飲み終えたカップ。
机の上に広げたままの古い資料。
そこには確かに、サザレがいた痕跡が残っている。
俺はカップを片付けながら、小さく笑った。
「……明日、来るかな」
誰に聞くでもなく呟く。
すると、足元でゾロアークが鳴いた。
「お前に聞いたわけじゃないよ」
そう言うと、ゾロアークは何故か得意げな顔をした。
……何なんだ、お前。
まったく、うちのポケモンたちは変なところで勘がいい。
♦
その夜。
研究室の二階にある自室で、俺はベッドに横になっていた。
時計の針は、もう日付が変わりそうな時間を指している。
普段なら、とっくに眠っている頃だ。
明日も調べたい資料があるし、午前中には大学から届く報告書にも目を通さなければならない。
それなのに、どうにも眠れなかった。
目を閉じると、今日の出来事が次々と思い浮かんでくる。
研究室の扉を開けた瞬間。
久しぶりに聞いた、あいつの声。
頬についた石膏の粉を拭こうとして、途中で手を止めたサザレの顔。
……あのとき、近かったな。
思い出しただけで、何だか落ち着かなくなる。
いや、待て。
二十六歳にもなって、何をそんなことで動揺してるんだ。
自分でも呆れる。
でも、仕方ないだろ。
好きだったんだから。
……いや。
好きだった、というのは少し違うか。
十六歳の頃から、ずっと気持ちは変わっていなかった。
もちろん、離れて暮らしている間に、互いの生活は変わった。
サザレは写真家として各地を飛び回るようになり、俺も研究に追われる日々を送っていた。
連絡する機会だって減ったし、昔みたいに毎日顔を合わせることもなくなった。
それでも、サザレの名前を見かけると嬉しかった。
雑誌に掲載された写真を見つければ、つい手に取っていた。
誰かがあいつの仕事を褒めていると、何故か俺まで誇らしくなった。
……我ながら、随分とわかりやすい。
もっとも、本人に伝えたことは一度もないんだけど。
俺には、前世の記憶がある。
この世界の歴史や神話について、普通の人間より多くの手掛かりを持っている。
だけど、恋愛に関しては何の役にも立たなかった。
ゲームのストーリーなら覚えている。
どこに何があって、誰がどんな行動をするのか、ある程度は予想できる。
でも、目の前の女の子が何を考えているのかなんて、さっぱりわからない。
昔から、そうだった。
サザレは誰にでも気さくで、よく笑う。
俺と一緒にいるときも楽しそうだったけれど、それが幼馴染としてなのか、それとも別の意味があったのか。
結局、聞けなかった。
そして、聞けないまま十年が経った。
「……馬鹿だよなぁ」
天井を見上げながら、思わず笑う。
古代の人間が何百年も前に残した石碑の意味なら、何年かけてでも調べようとするくせに。
自分のすぐ隣にいた女の子の気持ちは、一度も確かめられなかった。
まあ、それも今さらか。
これからどうなるかなんて、まだわからない。
ただ、久しぶりに会えたことが嬉しかった。
それだけは確かだ。
枕元に置いたスマホが、小さく震えた。
「……ん?」
画面を見ると、メッセージが届いていた。
送り主は、サザレ。
『まだ起きてるかい?』
思わず身体を起こした。
こんな時間に、どうしたんだろう。
『起きてるよ。どうした?』
返信すると、すぐに既読がついた。
『いや、特に用事はないんだけどさ』
『今日、久しぶりに会えて嬉しかったなと思ってね』
……おいおい。
そんなこと言われたら、余計に眠れなくなるだろ。
画面を見つめながら、何度か文章を打ち直した。
変に気取る必要はない。
いつもどおりでいい。
『俺も嬉しかったよ』
『また明日も来いよ。資料整理なら手伝ってもらえるし』
送信。
少しして、返事が届いた。
『結局、ワタシを働かせるつもりじゃないか』
『あははっ。まあ、気が向いたらね』
そのあとに、小さな笑顔のスタンプが送られてきた。
思わず、こっちまで笑ってしまう。
……明日、来てくれるといいな。
そう思いながらスマホを置こうとすると、もう一度通知が鳴った。
『それじゃ、おやすみ。コハク』
短いメッセージ。
たったそれだけなのに、妙に嬉しかった。
『おやすみ、サザレ』
返信を送って、ようやくスマホを伏せる。
……さて。
今度こそ寝よう。
そう思って目を閉じた。
けれど、しばらくしても眠気は訪れなかった。
きっと、あいつもまだ起きているんだろうな。
何となく、そんな気がした。
今日、俺たちは久しぶりに再会した。
昔と変わらないところもあったし、知らない間に変わってしまったところもあった。
それでも、一緒に笑っている時間は、驚くほど自然だった。
……明日も、あんなふうに笑えたらいい。
考古学者としての俺は、過去を調べることが仕事だ。
何百年も前の人々が残したものを読み解き、失われた歴史を少しずつ明らかにしていく。
けれど、今日ばかりは少し違った。
十年前に置いてきたはずの気持ちが、今も胸の中に残っていることを思い知らされた。
そして、その気持ちがこれからどうなるのか。
それだけは、どんな古文書を調べたってわからない。
俺はもう一度寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。
「……ほんと、参ったな」
小さく笑いながら、目を閉じる。
研究室の机には、十年前の俺とサザレが並んで笑う写真が飾られている。
あの日から、随分と時間が経った。
それでも、変わらないものは確かにある。
……願わくば。
今度は、あの頃よりも少しだけ、素直になれたらいいんだけどな。