村の畑が見えなくなったころ、レイは三度目に腰の鞘を押さえた。
「落ちないって」
「落ちるんじゃなくて、当たるの。ここ」
腿の横を叩いてみせると、アインが足を止めて紐を引いた。家では、ちょうどよかったはずの高さだった。
「歩いてるうちに下がったんだな。……ほら、これで」
結び直された鞘は、二、三歩進んでも腿に触れなかった。練習のときは、こんなふうに長く歩いたことがなかったのだ。
先を行くシンイが、道へ張り出した枝を持ち上げて待っていた。
「お二人とも、荷物は大丈夫ですか。鞄の中で何か鳴ってますが」
「兄さんの金具だよ。何に使うのか知らないけど」
「全部使うんだよ。たぶん」
「たぶんって言った」
村を出るとき、道の脇にはもう荷車が集まり始めていた。積まれた毛布の上に、見覚えのある小さな靴が一足載っていたのを、レイはなぜか思い出していた。
「シンイ。アバさま、荷車に乗ってくれるかな」
「乗りませんね。きっと」
答えは早かった。
「今朝、もし逃げるならと話したら、人に押されるくらいなら歩くと。……足が痛くなったら困るのはご本人なのに」
「じゃあ、ボクたちが戻ったら、三人で交代で押そうよ。三人ならアバさまも文句言いにくいでしょ」
「三人に説教しながら乗ってそうだけどな」
兄の言葉にシンイが笑い、レイも口を開きかけた。そのとき、道の脇の草が鳴った。
三人とも黙った。
シンイが歩みを緩め、無言で道の反対側へ寄る。葉の間に、青い丸い身体が二つ見えた。スライムが草を押し分けるように跳ねている。こちらへ来る様子はなかった。
草むらが背後へ遠ざかるまで、レイは柄から手を離せなかった。
今度は、鞘が腿に当たるせいではなかった。
*
洞くつの入口からは、冷たい風が吹き出していた。
奥から水音がする。頭上から落ちた雫が襟元へ入って、レイは首をすくめた。シンイがランプをともして先に立ち、レイ、アインの順で続く。足元には細い流れがあり、その脇を一人ずつ通れる道が奥へ延びていた。
「レイ、そこは壁に寄ってください。右が滑ります」
段差を薄く水が流れていた。試しに載せた靴の底がずるりとずれて、慌てて引っこめる。
「待て。直す」
アインがかがんで岩に手を置いた。指の下に光が広がり、丸かった縁が沈んで、靴を載せられる平らな面に変わる。
「……へえ。布だけじゃないんだ」
「布ばっかりいじってるわけじゃないからな。こっちは疲れるけど」
兄は作った足場を自分でも踏んで確かめてから上がってきた。帰りもここを使えよ、と言うのに頷いて、レイは壁の斜めの亀裂の形を覚えておいた。
進むにつれ、水音が大きくなった。やがてシンイの肩越しに、ランプとは違う明るさが見え始める。狭い通路を抜けた瞬間、レイは足を止めた。
泉だった。
天井の裂け目から差しこむ陽が、水の中まで届いている。浅いところでは底の小石が一つずつ見えるのに、奥へ目を移すと青い色だけが深く重なっていた。雫が落ちるたび、岩壁を照らす光まで揺れる。
「……きれい」
声が、思ったより遠くへ響いた。
山の中に、こんな場所があるなんて知らなかった。レイは鞄の中の紙を思った。この青は、鉛筆では出せない。それでも。
「ここ、描きたいな」
「帰りに少しなら」
アインの声は、もう水の向こうを見ていた。
水面を渡った光が、向こう岸の白いものを照らしている。
「あそこ。花じゃない?」
泉の左側に、岩壁に沿って奥へ回れる細い足場があった。その先の、土の溜まった岸に、青白い花がいくつも開いて、風に揺れていた。
シンイの歩みが速くなる。レイも追いかけようとして、足場の狭さに気づいた。すぐ横の水には、底が見えない。後ろから兄が鞄を支えてくれた。
土のある岸へ移って、レイはようやく息を吐いた。しゃがみこんで、花の一つに顔を寄せる。白く見えた花びらは、近くで見るとほのかに青みを帯びていた。
「これだけあれば、何本か持って帰れるね。アバさまに渡したら、荷車のところにも知らせに行こう」
鞄から布と、紙と鉛筆を出しかける。描くのは先か、掘るのが先か。
「根も一緒のほうがいいかな。ここを掘れば――」
葉の向こうで、黒いものが動いた。
奥の岩陰から滑り出てきたのは、太い輪を両手でつかんだ魔物だった。黒い角と大きな耳。白い髭が胸まで垂れた顔は、人の老人に似ていた。その足は、地面についていない。
レイが立ち上がるより早く、魔物の口が大きく開いた。
黒い炎が、花の上へ噴き出した。
「離れてください!」
シンイに腕を引かれ、レイは後ろへよろめいた。さっきまで開いていた花びらが縮み、細い茎が次々に折れる。落とした紙の端が、焦げて丸まった。
「やめて! 花が……!」
「《ヒャド》!」
シンイの杖から飛んだ氷が地面を打ち、砕けた。炎の一部は消えたが、黒い火はその脇を這い、まだ青かった葉へ移っていく。
魔物は泉の上へ滑り出た。回る輪の向こうで、口が歪む。
「ほう、ようここまで来たものよ。……じゃが、遅い遅い」
「何をするんです! その花がなければ――」
「だから焼いたのじゃろうが。冥王さまのお望みを邪魔する花など、このベドラーが一輪とて残すものか」
冥王。聞いたことのない名だった。
レイは煙の向こうを見た。手には一輪もない。残っているのは、焦げた紙だけだった。
「戻ります。今すぐです」
シンイが言った。声は低く、震えていなかった。
「レイ、鞄を。アインはレイを。私が後ろにつきます」
言われるまま鞄を拾い、来た道へ駆けた。細い足場では思うように走れない。壁に肩を擦りながら進むレイの横を、黒い影が通り過ぎた。
ベドラーが泉を横切っている。岩壁に沿って回る三人よりも早く、通路の前へ滑りこんだ。
「エテーネの者じゃな。村へ戻って、ほかの人間どもを呼ばれては面倒じゃ」
突き出された手の中で、黒い光が膨らんだ。
「《ドルマ》!」
肩をつかまれ、身体が横へ引かれた。岩の出っ張りに身を寄せた直後、すぐそばで石が爆ぜる。頬に細かな破片が当たった。
「そこから出るな!」
アインが膝をつき、岩壁に両手を押し当てていた。足元からせり上がった石が、通路側から泉側までを覆っていく。さっき作った足場とは比べものにならない大きさだった。兄の肩が、重いものを支えるように強張っている。
レイは剣を抜こうとした。肘が壁にぶつかり、刃は半分も出ない。身体をひねって引き抜く間にも、石の向こうで黒い光が弾けた。
「《ヒャド》!」
石の縁から目だけを出すと、花の岸に残ったシンイが見えた。氷が泉を渡り、ベドラーの腕で砕ける。魔物が顔をしかめ、太い輪を振り上げた。
「小賢しいわ」
輪が、唸った。
前髪が跳ね上がる。泉の水が巻き上げられ、シンイの身体を叩いた。彼が膝をついて岩をつかむのを見て、レイも身を低くした。
「風だ」
隣で、アインが呟いた。目は輪に向いていた。
「あの輪が回ってる間は、火も氷も流される。……シンイ! 氷を無駄に撃つな!」
剣は抜けた。けれど魔物は水の上だ。振ったところで、届くはずがなかった。
レイは右手に剣を握ったまま、左手を石の縁の上へ伸ばした。
「《メラ》!」
小さな火が、風の中へ飛び出した。
当たって。輪でも、腕でもいい。
火は大きく横へ流れた。泉に落ち、短い音を立てて消える。そこへ次の波がかぶさった。
――動かない石にな。
兄の言葉が、耳の奥で鳴った。そうだ。あれは動かなかった。風も吹いていなかった。
吸った息に砂が混じり、咳きこんだ拍子に足が滑って、レイは左手を地面についた。掌が擦れて、声が漏れる。
「レイ!」
「大丈夫!」
兄が振り返ったその向こうで、石の囲いが砕けた。
ベドラーが岩場へ寄ってきていた。唸る輪を囲いに押しつけ、二人の隠れているところを削っている。石片が跳ね、兄の袖が裂けた。肌に赤い線が走ったのが見えたが、アインは腕を引かなかった。
「いつまで隠れておるつもりじゃ。ほれ、出てこい」
レイは壁に背を押しつけた。もう下がれない。目の前の石がなくなったら、あの輪が来る。
けれど、もう一度岩を打った輪は、今度はすぐに離れなかった。
石の縁が輪の内側へ曲がり、覆いかぶさるように閉じていく。アインの指から光が走っていた。ベドラーが輪を引くたび、兄の身体まで前へ揺れる。
「止めた……! シンイ、今なら氷が通る! 一番でかいやつを!」
兄の作戦が、分かった。シンイの氷でとどめを刺す。自分は、数に入っていない。
向こう岸で、シンイが立ち上がった。杖を構える。
――ベドラーも、そちらを向いた。
輪から離れた片手に、黒い光が集まっていく。シンイの前には、身を隠せる岩がない。さっき頭上を抜けた光が、今度はまっすぐ彼に向いている。
兄は石を押さえていて、手が離せない。シンイは詠唱の途中だ。
レイは剣を足元に置いた。
誰にも頼まれていない。でも、動けるのは自分しかいなかった。
魔物はさっきより近い。囲いのすぐ向こう。輪は止まっていて、風もない。震える右手を、白い髭の下の胸元へ向けた。
「《メラ》!」
火が、ベドラーの胸に当たった。
火の粉が髭へ移り、魔物が顔を背ける。振り払うように腕が動いて、放たれた黒い光はシンイの頭上を抜け、後ろの岩を砕いた。
「この、小娘が――!」
「《ヒャド》!」
白い氷が、魔物の胸を打った。
ベドラーの身体が折れ曲がり、輪を挟んでいた石が割れる。硬いものが落ちる音に続いて、その身体が濡れた岩へ崩れ落ちた。
風がやんでいた。
雫の落ちる音だけが、やけにはっきり聞こえた。
レイは右手を向けたまま、動けなかった。魔物が立ち上がる気がして、目を離せない。シンイも杖を構えたまま、岩場をこちらへ歩いてくる。
倒れた身体の輪郭が、薄れ始めた。白い髭の向こうに濡れた岩が透けて見える。瞬きをしても、戻らなかった。黒い角も、大きな耳も見えなくなり、やがてそこには何もいなくなった。
シンイが足を止め、ようやく杖を下ろした。
「……倒せました」
その声で、レイの腕も下りた。隣で兄が、両手を岩から離してその場に座りこむ。
レイは兄を見た。
「見てた!?」
自分でも驚くほどの大きさで、声が出た。
「今の、見てたよね!? 当たった……ボク、ちゃんと――」
「見てたよ」
アインは肘をついて、少し息を整えてから言った。
「……当たったな。動くやつに」
言い返そうとして、口が開いたまま止まった。言葉が出てこない。嬉しいのが先に来て、言い返すどころではなかった。
「……うん!」
それだけが出た。アインが笑った。
シンイが岩場を渡りきって、二人のそばに膝をついた。濡れた髪が額に貼りついて、肩で息をしている。
「……レイに助けられる日が来るとは、思っていませんでした」
「ボクも思ってなかった!」
シンイが吹き出した。
「兄さん、腕。血が出てる」
「ああ。ちょっと切れた。……お前、その手」
隠そうとした左手を、兄に取られた。擦れた掌に砂が入っている。
アインの水袋で、シンイが傷の砂を流してくれた。冷たいはずの水が、掌には熱く沁みた。
「《ホイミ》」
柔らかな光が掌を包み、擦れた皮膚が閉じていく。光が薄れるころには痛みも引いて、レイはおそるおそる指を曲げた。まだ震えてはいたが、痛くなかった。
「……治った」
「アインも、袖を」
兄の腕にも光が広がった。赤い線が消えていくのを、レイは最後まで見ていた。
*
花の岸へ戻ると、焦げた臭いが鼻をついた。
レイは焦げた紙を拾い、焼け跡にしゃがんだ。黒くなった茎をそっと持ち上げると、花のついていた先が崩れて落ちた。
「……これも、駄目ですね」
シンイが隣で呟いた。倒れた葉の下まで確かめているが、その手にも花はなかった。
ついさっきまで、何本持って帰ろうかと考えていたのだ。レイは唇を噛んで、まだ見ていないところに手を伸ばした。触れるたびに指先が黒くなる。細い葉をよけても、下にあるのは縮れた花びらばかりだった。
目の奥が熱くなった。でも、まだ探していないところがある。顔を近づけ、岩の際へ倒れた茎をたどった。
「……あった」
兄の声だった。
「二人とも、こっちだ! まだ咲いてる!」
アインは泉側の大きな岩にしゃがんで、地面すれすれの窪みを覗いていた。レイは駆け寄り、その肩越しに顔を出した。
一輪だけ、青白い花があった。
張り出した岩の奥から茎が斜めに伸び、薄い花びらの端に水滴がついている。外側の草は焦げていたが、窪みの中には湿った土が残っていた。
「これ……持って帰れるよね?」
「茎も傷んでいません。根ごと行きましょう」
シンイが葉の下を確かめる。レイはしゃがみかけて、立ち上がった。
「待って。まだ抜かないで」
鞄から出したのは、濡れた手拭いと、もう一枚。今朝、川べりで兄にもらった、水を弾く布だった。
「土が乾いちゃうと駄目でしょ。濡らした布で根を包んで、その外からこれで巻けば――」
アインの眉が上がった。
「……ああ。内側の水が、外に逃げない」
「でしょ」
「お前、それ、絵の紙を包むって言ってなかったか」
「紙は焦げちゃったもん」
兄が笑って、自分で土を掘り始めた。シンイが花を支え、レイが濡れた手拭いを広げる。根を抱えた土が手拭いの上へ移され、その外側を、水を弾く布でくるんだ。布の表面を水滴が転がり、中には染みない。
薄い花びらが、目の前にあった。さっきまで焼け跡を探していた指が、今はそれを支えている。
「ボクが持つね。鞄に入れたら折れちゃう」
「じゃあ鞄は俺が持つ」
アインが肩から鞄の紐を外してくれた。レイは少し遅れて礼を言った。
「……兄さん。見つけてくれて、よかった」
「俺もだよ。あのまま帰るのは嫌だったから」
シンイが指の土を払って、杖を取った。
「帰りましょう。おばあさまが待っています」
「うん!」
すぐに歩き出そうとして、レイは花を岩に近づけすぎた。慌てて抱き寄せると、隣から兄の手が肘を支える。
「急ぐな。まず、ここを出てから」
「分かってるよ。……早く見せたいけど」
泉を振り返った。青い水は、来たときと同じ色で揺れていた。描けなかった。今度来たときに描こう。
花を胸元へ寄せ、レイは二人と一緒に、ランプの残る入口へ向かった。