ITARA。   作:Мир

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第1話 灯を数えた

「艦長、いくつ見えます?」

「茶碗が一つ。箸が二本」

「外です」

 

 箸の先に残った米粒は片側がうす茶色に焦げていて、舌でつぶすとほんのり甘かった。そのあいだに夏瑞が船外の景色を俺の右目に収めてくれた。新造で買った頃のうちの船は飯時だろうと律儀に星図を両目いっぱいに広げたものだ。漬物ひとつつまむのに星の間を手探りして、箸の先でこつんと卓を叩いたことがある。あれから覚えたな。今じゃ右には月が浮かび、左にはまだ朝飯の湯気が立っている。

 

 月の肩にちょこんと載っているのは昨夜俺たちが振った仮番号だ。ソル連邦の泊地・継石(つぎいし)で俺たちが選んだ古い播種船の記録には、地球を出た日も舳先を向けた方角も残っていた。工作機械の替え刃を何枚積んだかまで書いてある。着いた星の欄だけがぽかんと白かった。

 

 昔の地球は人と種と機械を積んだ船を幾隻も送り出した。住める星に行き当たったらその一隻の荷をほどいて、そこで暮らしを始める。今じゃ入植者の子孫が隣の星へ定期便を出す港もある。俺が「あの刃で最初に何を削ったんだろうな」と言うと、夏瑞は俺の星図を開いてあの船の舳先が向いていた方へすっと線を引いてくれた。

 

 昔の航路をこうして結び直す今を、学校じゃ「第四期大航海時代」と習った。俺たちも継石を出てから四度短く跳び、そのたびに自分の位置を測り直した。帰りに泊地へ渡せるのは星図に引いた四本の線だ。その端っこに今この月が浮かんでいる。

 

 陽が尾根の背をかすめていた。砥石から上げたばかりの刃のようにそこだけ細く光り、手前の谷にはまだ夜がたっぷりとたまっている。その底に白い灯が一つ。すぐ右に寄り添うもう一つはわずかに黄みを帯びていた。

 

「二つ見えるよ」

「私にも二つ。今度は音を聞いてください」

 

『明かりはいくつ見えますか』

 

 女の声だった。「あ」のほんの手前で舌が小さく鳴った。九秒後にもう一度、舌の鳴る間合いまでぴたりと同じ声がした。そのあとに続く言葉の節はもっと昔から耳が覚えていた。小学校で電脳を入れた年に国語の先生が聞かせてくれた昔の日本語だ。いつかよその星で聞いてみたいと思っていた俺は、いざその声を聞きながら箸を噛んでいた。

 

「どこから?」

「この谷のようです。昨夜から出ていた電波に、いま声が乗りました」

 

 夏瑞が月面図を出して昨夜の船の位置から一本、今朝の位置からもう一本と電波の来た方へ線を延ばした。二本が落ち合うのはあの灯のあたりだ。声には白黒の試験画像が一枚ついてきていた。尾根の欠け目を目印に谷の映像と重ねると、絵に打たれた二つの点に白と薄い黄がきちんと収まった。あそこにいる誰かは空から灯がどう見えるかを知りたいらしい。

 

「ここへ返してくれ。数だけ言ってみる」

 夏瑞が回線を開いたところで俺は口から箸を抜いた。

「二つ見えます」

 

 薄黄色の方がすっと消えた。

『明かりはいくつ見えますか』

「一つです」

 黄色が点くのと入れ替わりに今度は白が消えた。

「一つです。今度は右です」

 

 白が戻って谷底にはまた二つの灯が並んだ。次の九秒を待ってみたけれど、今度はあの小さな舌の音も問いかけも来なかった。

「……誰か聞いてそうだな」

「ええ。艦長、ごはんの続きはあとにします?」

「頼む」

 

 夏瑞が開けてくれた保温棚に茶碗を入れた。その下に小さな橙色の灯がともるのを左目で見届けて、俺はそっちにも月の夜を広げた。

 

*

 

 地形を撮り終えた観測子機が帰りがけに谷の外れをかすめた。そいつの目を借りると白と薄い黄の並びの先に、船からは見えなかった色がもう一つ浮かんでいた。赤だ。

 

「三つ見えた」

「そっちからは三つなんですね。私には、まだ二つです」

 

 同じ時刻の映像を並べてみると、白と薄い黄はどちらの谷底にもあって右端の赤だけが子機の方に一つ余る。俺は谷へ張り出した岩棚の上で子機を止めた。灯の足もとに立ったつもりで見上げれば〈夏瑞〉は尾根すれすれにいて、子機はそこより少し上にいる。岩棚をかわすだけ横へ滑らせてからゆっくり高度を落としてみた。赤は縁から痩せてとうとう闇に溶け、上げ直すと消えたところからふっと戻った。そのあいだも白と薄い黄はずっと点いたままだった。

 

「右のやつ、少し上を向いてるんだろうな」

「私もそこから見てみたいです」

 

 子機の操作を渡すと夏瑞は赤い光の縁をなぞった。消えるところまで下りて拾い直し、ひと息そこで浮いてからもう一度。二度目は下りるのも上がるのもずいぶんゆっくりだった。暗がりに赤が糸ひと筋だけ残る。俺がもう少し眺めていたかったところで子機がぴたりと止まった。ああ、そこが好きか。俺もだ。

 

 そろそろ帰り支度をする頃だった。さっきの試験画像にならって俺も白黒で返事を描いた。横からのぞく目には丸を二つ、上からのぞく目には三つ描いた。三つ並んだ丸の右端に少し下向きの矢印を添えた。谷へ送り返す頃にはもう尾根が白と薄黄色の灯を隠しかけていた。

 

「艦長。帰るのを延ばして、もうひと回りしてもいいですか」

「次にここが見えるの、いつ?」

「二時間半後です」

「回ろう」

 

 夏瑞が岩棚の縁に子機を下ろした。脚が着いてもそいつの目には白と薄い黄と赤が三つとも残っていた。船の方ではもう谷が尾根に隠れていた。

 

 保温棚から茶碗を出すと飯はまだ温かかった。釜の底のおこげもひと口ぶんきれいに剥がれて、手にのせたら両端の反った小舟の形をしていた。そいつまで食って茶碗を洗い、布巾で拭いて棚に戻す。時計に目をやると次に谷が見えるまでまだ二時間と十二分もあった。

 

*

 

 先につながったのは岩棚に預けてきた子機の目だった。さっきと同じ向きで白と薄い黄が並んでいる。その右の赤があったところだけが暗かった。

「誰か、灯の向きを変えたかな」

「もうすぐです。見ていてください、艦長」

 

 やがて夏瑞の目にも谷が開けた。月面図の上で船の印が一周前に二つの灯を数えた位置に重なる。白と薄い黄が目に入って、その横にすうっと細い赤が引かれた。糸一本ほどだった光が俺の見ているうちに丸みを帯びて、ほかの二つと肩を並べた。

 

『明かりはいくつ見えますか』

「三つです」と俺は答えた。

 

 九秒おきの問いがもう一度流れた。夏瑞は最後の「か」が消えるところまで待ってから自分の声を谷へ届けた。

「船から三つ見えます。白、黄色、赤。きれいです」

 

 ざらっと喉の奥で擦れるような低い笑い声が回線を上ってきた。咳が一つまじり、もう一度笑いかけて途中でこらえたらしい息までがこちらに届いた。俺がその声を聞くのは初めてだった。

 

 岩棚から子機を浮かせると赤い灯の足もとに人が一人いた。白い宇宙服の片肘だけが地面と同じ色に汚れている。少し離れたところで子機の位置灯を点けた。ヘルメットがこちらを向いたので子機を止めて待つと、大きな手袋がおいでと二度動いた。それを見て初めて顔が見えるところまで寄せた。

 

 その人は赤い灯の台座に腰掛けて膝に長いスパナをのせていた。柄がするりと膝を滑った拍子に、卓の上で俺の親指までが動いた。向こうの手袋はもう柄の端を押さえていて、当人の目はこっちを向いたままだ。俺もよくああやって押さえる。こんなところでそんな手癖が同じなのが妙に嬉しかった。

 

 空いた手で胸をとんとんと叩いてその人は名乗った。

「エダ」

「遠藤鷹希です。マサキ」

「マサキ」

 子機をうなずかせるとつられて俺の首まで動いた。

 

「エダ」

 夏瑞が呼ぶと胸もとの手袋が止まった。

「夏瑞です」

 

 エダは子機のレンズをのぞき込んだ。顔を少し脇へずらしてもう一度、黒い丸の奥を見ようとする。俺は子機の首をまっすぐに戻して黙っていた。ひと呼吸おいて夏瑞が自分の艦首灯を一度だけ光らせた。

 

 エダの視線がレンズを越えてゆっくり上がり、尾根の上の空の一点で止まった。その空に向かって音をひとつずつ置いていくように、エダが呼んだ。

「ナツ、ミズキ」

「はい」

 

 柄を押さえていた方の手まで上がった。エダが両手を船に振ると今度こそスパナが膝を離れた。そいつがゆっくりひと回りして月の土に着いても、白い手袋はまだ子機の頭越しに夏瑞に向かって揺れていた。

 

 子機を呼び戻してからも俺は夏瑞と尾根の背を眺めていた。その明るい縁がまた髪の毛一本ぶんに痩せて消えた。しばらくして艇庫でこつんと子機の収まる音がした。夏瑞は右目にだけ外の夜を残してくれた。左に戻ってきた卓にはもう茶碗も湯気もなかった。

 

「マサキ。あの人のところからは、私、何色に見えたんだろう」

「次に訊いてみようか」

「次って、いつ?」

 

 茶の缶を開けると乾いた葉の匂いがふわりと立った。

「二時間半後」




進入角指示灯は、見る角度で赤と白の組み合わせが変わります。 国土交通省航空局「航空灯火」
探査機の軌道と姿勢、カメラの視野から、次に目標が見える時刻を求めます。 NASA/JPL「The SPICE Concept」
図1は「はやぶさ2」の子機が分離直後に撮った一枚。上に母船、下に小惑星リュウグウが写っています。 JAXA「ミネルバⅡ1、写真撮影・リュウグウ着地・ホップによる移動に成功!」
【〈夏瑞〉の観測と推進】
地球観測センサーASTERは、反射光や熱赤外線を捉えて地形と地表温度を調べます。 NASA/JPL「ASTER」
船の速度をあとどれだけ変えられるか。噴射前後の質量と有効排気速度から見積もる式です。 NASAグレン研究センター「Ideal Rocket Equation」
核融合で飛行中の推力と到着後の観測電力をまかなう、冥王星探査機の研究構想です。 Princeton Satellite Systems/NASA「Fusion-Enabled Pluto Orbiter and Lander」
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