蒼海の水平線_伊勢警備府の日常と神降ろしの業務記録   作:戦雷部員(第11山岳飛行隊)

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初めまして、戦雷部員(第11山岳飛行隊)と申します。
今回、以前から温めておりました、艦隊これくしょんの二次創作小説を投稿しようと思い立ち、投稿をしてみました。色々とした仮想戦記関連で考えていた(神道や魔術といった要素も含む)設定資料群を元に、艦娘周りのオカルト面での技術基盤と運用に関する、オリジナル解釈の元資料を構築し、更に色々と生成AIでの壁打ちを行ってプロットおよび本文を作成してみたものを今回投稿しております。
色々と粗い面も目立ちますが、頭を楽にして読んでいただけると幸いです。


第一話「伊勢警備府への着任」

プロローグ 待ち続けた人材

*

伊勢警備府の朝は、潮の匂いと、神域から下りてくる冷えた空気が混ざり合うところから始まる。

本庁舎の窓には、夜明け前から灯りがともっていた。

執務室の机には、前日から持ち越された書類が積み上がり、壁面の大型モニターには艦娘部隊の運用状況と周辺海域の警戒情報が表示されている。

艦隊の出動予定、沿岸監視システムから送られてくる報告、伊勢神宮周辺の神域管理、祭祀に携わる人々との調整、そして軍政部へ提出する各種報告。

情報の多くは庁内ネットワークを通じて共有されるようになったが、最終的な判断と責任まで機械に任せられるわけではない。

どれも昨日と同じように、今日も山崎の仕事として残されていた。

山崎多聞は、その山を一枚ずつ崩していた。

警備府の長官という仕事は、艦隊を率いて海に出ることばかりではない。むしろ大半は、部隊が滞りなく動ける環境を整え、各部署の言い分を聞いて折り合いをつけ、足りないものを足りるように手配することに費やされる。派手さのない仕事だが、山崎はそれを軽んじたことがなかった。海に出る者の背中は、こういう紙の山が支えている。

伊勢警備府は、ただの沿岸警備の拠点ではない。名古屋圏の産業と交通網を守り、内湾と外洋をつなぐ航路を見張る。それと同時に、伊勢神宮を中心とする神域を護るという、他の警備府にはない責任を負っていた。

深海棲艦と戦う力だけでは、この任は果たせない。神道への素養、艦娘の神降ろしの仕組みに対する理解、そして部隊を実際に動かすだけの指揮能力。三つを併せ持つ提督は、もともと数が限られている。しかも伊勢では、並の運用経験だけでは手に負えない問題が、折に触れて顔を出す。

山崎は、開設以来、幾度となく増派を申請してきた。そのたびに受理の通知は届き、そして、条件に合う人材は来なかった。

だから今回も、期待はしないでおこうと決めていた。期待して外れたときの落胆は、書類仕事の手を鈍らせる。

*

扉が二度、叩かれた。

「長官、人事書類が届いております」

入ってきたのは五十鈴だった。司令官附の秘書艦であり、この警備府の副官であり、総指揮艦でもある。そして、山崎の妻でもあった。執務室では互いに役職で呼び合うのが、二人のあいだの決まりになっている。

「軍政部からです。例の増派の件、正式に認められました」

「そうか」

山崎は封筒を受け取り、中身を取り出した。

新任者には、提督としての適性がある。神降ろしの仕組みに対する理解と、それに干渉する能力も見込まれている。技術的な知識だけではなく、実際の指揮に必要な能力についても、養成課程で相応の評価を受けていた。条件だけを並べれば、これまで何度申請しても届かなかった人材そのものだった。

読み進めた指が、氏名の欄で止まった。

 岸本優。

聞き覚えのある姓だった。いや、姓だけではない。

岸本彰。南方戦線で知り合い、物資の差配で何度も力を貸し合った男だ。輜重の将校でありながら、帳簿の数字の向こうに、人の命を見ている男だった。

そして、その妻、岸本詩織。かつて祥鳳として戦った艦娘であり、山崎の妻である五十鈴とは、今も親しい間柄にある。

あの二人の息子が、着任するという。

山崎は書類を、もう一度、頭から読み直した。理学部を卒業している。そこから軍の提督養成課程に編入され、舞鶴で修了。技術将校として、階級は大尉。経歴の流れとしては、どこか不自然だった。あの男の息子なら、研究の道へ進むのだろうと、勝手に思い込んでいた。何の根拠もない思い込みではあったが。

しかも、神降ろしの仕組みへの干渉能力まで備えているという。

偶然にしては、あまりにも都合がよい。

山崎は、都合のよい話を、そのまま信じないことにしている。

「……五十鈴」

「はい」

「この名前に、心当たりはあるな」

五十鈴は小さく頷いた。表情は変えなかったが、書類を差し出したときの手つきが、いつもより慎重だったことに、山崎は気づいていた。

「封筒の宛名を見て、私も驚きました。詩織さんの、息子さんです」

*

山崎は少し考えてから、言った。

「経緯を知りたい。研究へ進むはずだった者が、なぜ提督の課程に来た。お前なら、詩織から何か聞けるかもしれん」

「連絡を取ってみます」

その日の夕方、五十鈴は執務室に戻ってきた。

「詳しいことは、聞けませんでした。ただ、息子さんが最初から提督を目指していたわけではないのは、確かなようです。いくつかの事情が重なって、本人が家族と相談したうえで決めたことだ、と。それ以上は、こちらから聞きませんでした」

「それでいい」と山崎は言った。「家の中の話に、必要以上に踏み込むものではない」

窓の外では、日が傾き始めていた。山崎は椅子の背にもたれ、考える。

人が足りない。そこへ、条件の揃った人間が来る。警備府にとっては、これ以上ない話だ。だが、その青年は、望んでその席に座るわけではない。

「五十鈴。この男を、ただの人員補充として扱うつもりはない」

「承知しております」

「望んでいなかった役目を負わせるのだ。せめて、それを果たせる職場にしておかなければ、筋が通らん。着任の日の受け入れは、お前に任せる。宿舎、執務室、案内、紹介。抜かりのないようにな」

「はい、長官」

五十鈴は書類を胸に抱え直し、一礼して退室した。扉が閉まる直前、彼女の口元がほんのわずかに緩んでいたことに、山崎は気づかないふりをした。

 

第一章 伊勢へ向かう青年

*

名古屋を離れる特急列車は、思っていたより静かだった。

車内の案内表示が次の停車駅を告げ、窓の外では名古屋の市街地が少しずつ後方へ流れていく。

駅を出てしばらくは高層建築や住宅が続いていたが、やがて市街地の密度が薄れ、郊外の住宅地と田畑が交互に現れるようになる。岸本優は、窓際の席で膝の上の鞄に片手を置いたまま、その移り変わりを眺めていた。

名古屋から伊勢までは、遠い距離ではない。生まれ育った松本から出てきたときのような、引っ越しの重さはなかった。けれど、近いからといって、気楽な異動になるわけではない。むしろ逆だった。

研究者になるのだと、ずっと思っていた。生物学・化学を奉ずる学徒の端くれとして、事務机と、観測機器に囲まれ、膨大な実験データ、および参照すべき文献を元に、まだ誰も説明していない現象を明らかにし、名前を付ける仕事。そういう未来を、わりあい真面目に思い描いていた。

それが今は、軍の制服に袖を通し、艦娘を指揮する立場にいる。しかも赴任先は伊勢警備府。神道的な素養が問われ、神降ろしの仕組みに関わる問題が起きやすいと言われる土地だ。

皮肉な話だった。学んできたことが、役に立つかもしれない。そのせいで、断りにくくなったのだとも言える。

提督という職務を、優は、進んで望むほど良いものだとは思っていなかった。母の過去は、かなり柔らかく包まれた形で聞かされている。細部までは知らない。ただ、艦娘と提督の結びつきが、ときに人をどれほど深く、危うく縛りうるのか。その輪郭だけは、胸の奥に残っていた。

それでも、引き受けたのは自分だ。引き受けた仕事から、今さら逃げるつもりはなかった。

通路を挟んだ隣の席では、共に伊勢警備府に着任することになっている熊野が、事前にタブレット端末に読み込ませておいた資料に目を落としている。

彼女は、舞鶴の提督養成課程で、一年を共に過ごした相棒だった。優の伊勢警備府への配属が決まると、自分も伝手をたどって同じ場所への着任を決めた。それを聞かされたのは、辞令が出る少し前、課程の最後の食堂で、お茶を飲んでいるときだった。「そういうことにいたしましたの」と、それだけだった。改まった説明は要らなかった。説明がなくても、この相棒が何を考え、どこまで先を見ているのかは、一年のあいだに知り尽くしている。

*

「着任したら、まず確認したいことがありますわ」

先に口を開いたのは、熊野だった。資料から目を上げずに言う。

「職務分掌と、指揮系統の線引き。それから、地域との窓口。警備府はすでに動いている組織ですもの、後から入るわたくしたちが、勝手に歯車を増やすわけにはいきませんわ」

「歯車の数を数えるところから、か」

「ええ。新しい部隊を預かるときが来れば、立ち上げの手順が必要になりますわ。それを先に頭へ入れておきたいのです。監査の窓口が誰になるのかも」

熊野は、戦闘と同じ重さで、こうした仕事を見ている。部隊の立ち上げ、内部の監査、地域との調整。彼女に言わせれば、どれも戦う前に済ませておくべき戦闘らしい。

優は苦笑して、窓の外へ目をやった。

「まずは、現場を見たい。実際にどう回っていて、どこが詰まっているのか。それを知らないまま理想だけ並べても、意味がない」

「山に入る前に地形図を読むのと、同じ理屈ですの?」

「その喩えは、もう聞き飽きたか」

「聞き飽きましたわ。けれど、間違ってはいませんでしょう?」

二人は、方針を短く擦り合わせた。着任したら、まず現場を一巡する。分からないことは、分からないと言う。直すべきものは、見つけた順に、重いものから。それだけだ。

熊野が資料を閉じたとき、ほんの一瞬だけ、視線が優の横顔に向いた。優は窓の外を見ていて、気づかなかった。熊野はすぐに視線を戻し、鞄の留め具を確かめた。

*

伊勢に近づくにつれて、窓の外の色が変わった。木々の緑が濃くなる。遠くに低い山の連なりが見え、その向こうに、蒼い海の気配がある。

降り立ったホームの空気は、名古屋のそれとは明らかに違っていた。冷たいわけではない。澄んでいる、という表現がいちばん近い。ただ、それだけでもなかった。

優は、伊勢という土地が、単に軍事施設の置かれた場所ではないことを、知識としては知っていた。長い歴史を持つ祭祀と信仰が、この土地の根にある。伊勢神宮を中心とする神域が、艦娘の運用にも関わっている。資料には、そう書かれていた。

けれど、実際に足を置いてみると、文字では掴みきれないものがあった。

神聖な場所に来た、という感覚とは違う。

駅前には観光客の姿があり、参道へ向かう人々の流れも見えた。しかし、その一方で、道路の向こうには警備府の車両が停まり、制服姿の職員が乗り降りしている。神宮へ向かう人々と、警備府へ向かう人々。その二つの流れが、同じ街の中に自然に存在していた。

神域と軍事施設、祭祀と技術、艦娘の存在と人間の暮らし。それらが、切り離せない形で、同じ土地の上に重なっている。そういう実感だった。

「どうかなさいましたの?」

「いや。……ここは、思っていたより、ずっと生きている場所だな」

「生きている、ですの?」

「うまく言えない。着いたら、まず何も決めずに見て回る。それだけ決めておく」

熊野は頷いて、先に歩き出した。優は、もう一度だけ息を吸い、伊勢警備府より送られた迎えの車に向かっていった。

 

第二章 新任将校を迎える

*

岸本優大尉と熊野を乗せた車は、伊勢市の駅前から伊勢警備府の本庁舎のある沿岸へと出発していった。

伊勢警備府の本庁舎は、伊勢市の中心地、宇治山田の街を抜けて郊外に出た先、五十鈴川の河口に近い沿岸にあった。

鎮守府/警備府というからには、如何にも全面赤煉瓦の物々しい建物であるかのように思えるが、実際にはセキュリティゲートの奥に、現代的な庁舎建築と、赤煉瓦の瀟洒な玄関が調和された形で組み合わされた、実用性と格式を兼ね備えた建物が立っていた。

その手前には駐車場が見え、軍用車やトラック、公用車が出勤・納入時間であるためか出入りしており、その奥に通信用の電波塔(アンテナ群)や港湾施設がうっすらと見えた。

さらにその背景には、伊勢の神域の森が広がっている。

*

建物の前で、山崎多聞は待っていた。約束の時刻より少し早く、二人の姿が見えた。制服姿の若い男と、その半歩後ろを歩く艦娘。

男は、思っていたよりも穏やかな顔つきをしていた。歩き方に妙な力みがなく、周囲の建物や人の動きを、さりげなく順に見ている。その仕草に、山崎は、かつて南方で言葉を交わした男の面影を、ふと見た気がした。

気のせいかもしれない。山崎は、それ以上考えなかった。考えるべきは、今、目の前にいる人間のことだ。

「伊勢警備府長官、山崎多聞だ」

「本日付で着任いたしました、岸本優大尉です」

「同じく本日付で着任いたします、熊野です」

二人の敬礼に答礼してから、山崎は庁舎の中へ導いた。手続きは、淡々と進んだ。辞令の確認、宿舎と執務室の割り当て、権限の説明、指揮系統。上官と部下として、最初に済ませておくべきことを、順番に片付けていく。思い出話は、一つもしなかった。

執務室に通して席を勧めたあと、山崎は机の上で指を組んだ。

「岸本大尉。君がここへ来るまでの事情は、書類の範囲で把握している。どういう経緯があったのかまでは、聞くつもりはない」

優が、わずかに目を瞬かせた。

「君を、貴重な能力の持ち主として、ここへ置こうとは思っていない。命令一つで仕事を押しつけるやり方も、好まん。警備府の一員として、共に働いてほしい。それが、最初に伝えておきたいことだ」

山崎は、続けた。

「伊勢警備府が必要としているのは、神降ろしの専門家だけではない。現場の問題を理解し、艦娘たちと協力しながら、部隊を動かせる人間だ」

*

山崎は、この警備府が抱える問題を、隠さずに話した。

伊勢神宮の周辺の神域を守るのに、通常の軍事的な警備だけでは足りないこと。神道への知識と、祭祀への理解が要ること。艦娘の神降ろしの仕組みに異常が生じたとき、それを理解して手当てできる提督が、どうしても必要なこと。

「だが、そういう人間は少ない。神降ろしに干渉できる提督は、この国全体でも百人に満たない。そのうえ実戦の部隊を指揮できる者となれば、五十人に届かん。しかも大半は、前線にいる」

「本土の拠点へ回ってくる余裕は、ないということですね」

「そうだ。伊勢は開設の頃から、この穴を抱えてきた」

山崎は一度、言葉を切った。

「だから、君の着任は、この警備府にとって大きい。それは率直に言っておく。同時に、君一人にすべてを背負わせるつもりもない。私も、五十鈴も、他の者たちもいる。一つのチームとして、働いてほしい。それが、長官としての要請だ」

優は、最後まで黙って聞いていた。

*

自分が呼ばれたのは、提督適性があるからだけではない。神降ろしの仕組みに干渉できる力と、それを理解するための知識、そして指揮官としての素養。その組み合わせが、ここで要る。数字で言われると、重さが具体的になった。百人に満たない、という数字の片隅に、自分も入っているのだ。

もう一つ、気づいたことがある。目の前の上官は、自分が望んでこの席に座ったわけではないことを、おそらく察している。察したうえで、それを口に出さず、押しつけるのでもなく、協力してほしいと言った。

優は、背筋を伸ばした。

「お話は、理解しました。命じられた職務は、果たします」

そこで一度、息を整える。

「正直に申し上げれば、提督という仕事を、自分から望んだわけではありません。好きかと聞かれれば、まだ答えられません。ただ、ここに必要とされているものが自分にあるのなら、見て見ぬふりをするつもりもありません」

山崎は、すぐには返事をしなかった。それから、短く頷いた。

「それでいい。無理に好きになれとは言わん。仕事ができれば、まずは十分だ」

「はい」

「よろしく頼む、岸本大尉」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

こうして優は、伊勢警備府の一員となった。

*

執務室を出ると、廊下には、思いがけず人影があった。

数人の艦娘が、用事を装って、通路の端に立っている。新任の提督を見に来たのだろう。視線は優に向き、その斜め後ろの熊野に移り、また優へ戻る。

艦娘を指揮する立場の男が、親しげな艦娘を一人連れて、赴任してきた。事情を知らない者の目に、それがどう映るか。判断に迷う光景だった。

優は、その視線の意味に気づかなかった。新しい職場の人間が、新しい人間を見ている。その程度に受け取っていた。あるいは、気づいていても、すぐに解く必要のある誤解だとは考えなかったのかもしれない。

先に動いたのは、熊野だった。

「失礼いたしますわ。本日付で着任いたしました、重巡洋艦、熊野ですの」

一歩前に出て、きちんと頭を下げる。

「岸本大尉とは、舞鶴の提督養成課程で組んだ相棒ですわ。私的な事情で同行したのではなく、課程での関係に基づいて、こちらへの着任を希望いたしましたの。ご不審の点があれば、いつでも確認してくださいまし」

組織の内側を保つ立場を、自分から選んだ者の言い方だった。この手の誤解は、放置して得をする者がいない。

艦娘たちは、顔を見合わせた。納得した者もいれば、言葉通りには受け取れないという顔の者もいる。自己紹介だけで払える疑念ではない。熊野も、それは承知しているようだった。

そこへ、五十鈴が現れた。

「岸本大尉。司令官附秘書艦の五十鈴です。ようこそ、伊勢警備府へ」

整った敬礼だった。声も落ち着いている。ただ、挨拶の途中で、ほんの一瞬だけ、優の顔をじっと見た。それから何事もなかったように、続けた。

「庁内の案内は、こちらで手配してあります。熊野も、一緒にいらっしゃい」

 

第三章 神域のほとりで

*

案内は、庁舎から始まった。

執務区域、事務室、会議室、艦娘たちが集まる談話室。工廠。港湾と岸壁。射場。案内役を務める庶務の士官は、かしこまった口調で一つずつ説明していった。優は歩きながら配置を頭に入れ、通りがかる人に質問を投げる。熊野は半歩下がって、内部統制に関わりそうな情報を、別の手帳に書き留めていた。

港へ出ると、忙しく稼働している工廠から離れた、防波堤や岸壁の端に、釣り竿を持った艦娘が数人並んで釣り糸を垂れていた。

「F作業です」と案内の士官が言った。「漁協の許可を得て、業務の合間に行っております。釣果は食料の足しになりますし、海況や沿岸の異常を掴むのにも役立ちます。気分転換にもなるようで」

優は、水面に垂れた釣り糸を眺めた。戦時の緊張と、土地に根ざした穏やかな暮らし。その落差が、この警備府の空気をつくっているのかもしれない。

*

神域に関わる部署も、順に回った。

神職の資格を持つ職員が、伊勢神宮の祭祀に携わる人々との連絡窓口を務めている。禊と祓えに関わる設備。霊的な汚染を検知するための観測室では、技官が、画面を流れる数値の意味を説明してくれた。

聞き取った内容を整理しながら、優は一つのことに気づいていた。ここでは、軍事的な警備と、神域の管理が並行して行われている。しかも二つは、互いに無関係ではない。

「神域の力があるから安全、というわけではないんですね」

観測室の技官に尋ねると、相手は小さく頷いた。

「ええ。結界があっても、それだけで全部が片付くわけではありません。祭祀、管理、警備、そして観測。どれか一つでも止まれば、すぐに綻びが出ます。……ですから、人手はいくらあっても足りないんです」

優は礼を言って、観測室を出た。自分が今見ているのは、一つの仕組みの全体像ではなく、動いている断面にすぎない。理解するには、まだ時間がかかる。

*

庁舎へ戻る廊下で、優は、小さな引っかかりを覚えた。

すれ違う艦娘たち。港で釣り竿を握っていた艦娘たち。特に意識して見ていたわけではない。ただ、艦の魂と人としての身体、その結びつきの具合のようなものが、ごくかすかに、視界の端へ引っかかる。

艦娘は、それぞれ異なる艦の魂を持ちながら、人としての人生を保っている。神降ろしによって成り立つ艦娘の場合、人間の少女や女性と、降ろされた艦艇の魂との適合の度合いが、能力の強固さに関わる。優は、その仕組みを知識としては知っていた。

伊勢は神域との距離が近い。そのために、艦娘を成り立たせている仕組みの状態が、他の土地より揺らぎやすいのではないか。

そこまで考えて、優は思考を止めた。

仮説にすぎない。すべての艦娘に何かが起きていると言い切る根拠はないし、土地の性質だけを原因と決めつけるのも早計だ。長年の観察の癖が、そう告げただけかもしれない。

山で天気を読むときと同じだった。雲の形から嫌な予感がしても、それだけで下山を決めてはならない。予感は、観測と照らし合わせて初めて、判断の材料になる。

「さてと、観測を続けていきますかね…」

誰に聞かせるでもなく、将校用軍帽を被り直しながら優は小さく呟いた。

*

案内の最後に、優は談話室へ通された。警備府に所属する艦娘たちが、ちょうど集まっている。

扉を開けた瞬間、視線が一斉にこちらを向いた。熊野が同行していることもあって、それは優と熊野のあいだを、何度か往復した。

艦娘にとって、提督は、ただ命令を出す上官ではない。提督と艦娘のあいだには霊的なアンカーが結ばれ、戦う力や心の状態、部隊全体の安定にまで響く。新しい提督がどんな人間なのかは、艦娘たちの日々の暮らしに、直接関わる問題だった。

能力の高さだけではない。人としての態度。自分たちをどう扱うのか。それを、この場の全員が見極めようとしていた。

「岸本優です。本日付で、こちらに着任しました」

優は、飾らずに言った。

「ここのことを、まだほとんど知りません。ですから、まずは見せてください。ここがどう動いていて、皆さんが何に困っているのか。それを知らないうちに、何かを決めるつもりはありません」

部屋の空気が、少しだけ動いた。

艦娘の一人が、控えめに手を挙げた。

「提督は、私たちをどう扱うおつもりですか」

率直な問いだった。優は、答えを探すふりをしなかった。

「まだ、答えを持っていません。ただ、誰かが傷つく命令は、出さずに済むなら出したくない。出さなければならないときは、理由を先に話します。それだけは、約束できます」

反応は様々だった。納得した顔、半信半疑の顔、まだ見定めている顔。全員がすぐに信頼してくれるわけではない。そのことを、優は責めようとは思わなかった。信頼は、言葉でもらうものではなく、積み重ねでもらうものだ。

視線の中に、一つだけ、まっすぐこちらを見ているものがあった。壁際に立つ、白露型の艦娘だった。

張りつめた空気の中で、熊野が小さく息を吐く。

「緊張なさるのも、無理はありませんわ。提督との結びつきが、命に関わる以上は」

そう言って、熊野は優へ、もう一度だけ視線を送った。大丈夫ですわ、と言うように。

 

第四章 時雨が連れてきた白露

*

談話室の人の輪がほどけたあと、壁際にいた艦娘は、まっすぐ優の前へ来た。

「久しぶりだね」

声の調子は変わっていなかった。優は、舞鶴以来に聞くその声に、肩の力がわずかに抜けるのを感じた。

「時雨」

「来てくれて、よかったよ」

時雨は、それ以上を言わなかった。言わなくても伝わるものがある、とでも言うように。優が部屋に入ってから、彼女の視線が一度もそらされなかったことに、優は気づいていた。

舞鶴の提督養成課程で出会って以来、時雨は、優に強い執着を示している。訓練課程での面識があり、時雨にとって優は、見知らぬ新任提督ではない。

一方、優は、ここが新しい職場であることを意識していた。個人的な関係と、職務上の関係は、別に扱う。

「ここでは、提督と艦娘として話そう」

「うん。分かってるよ」

時雨は、少しだけ笑った。

「でも、一人きりにはしないよ」

優は、何も返さなかった。返す言葉が見つからなかったというより、返すべきかどうか、決めかねていた。ただ、熊野のほかにも顔を知っている艦娘がここにいる。それだけで、新しい環境の中の心細さは、確かに和らいでいた。

「それでね、提督。僕から相談したいことがあるんだ」

*

時雨は、この日を、少し前から待っていた。

舞鶴の課程での優は、訓練の成績より先に、一人ひとりの調子を見る人間だった。誰かが不調を隠していると、黙って気づく。そういうところを、時雨は、ずっと忘れなかった。

だから、あの人が伊勢警備府へ着任すると聞いたとき、時雨が最初に思い浮かべたのは、白露の顔だった。

同じ白露型の白露は、以前の戦闘で負傷し、後送された。傷そのものは癒えた。それでも、不調だけが残った。艤装の整備士も、後送先の医官も、それぞれに手を尽くしてくれた。それでも届かない場所がある。時雨は、それを近くで見てきた。

あの人なら、何か分かるかもしれない。

確証は、なかった。ただ、神降ろしの仕組みに触れられる提督が、ここへ来る。時雨には、それで十分な理由だった。

*

時雨が連れてきたのは、談話室の隅で、膝の上の両手を握りしめていた艦娘だった。

「白露。同じ白露型の」

「あ……はじめまして。白露型の一番艦、白露です」

少し俯いたまま、白露は言った。

「えっと、提督に迷惑をかけるような話じゃ、ないと思うんだけど……」

時雨が、横から静かに補った。

「射撃の照準と、管制が、ずっと安定していないんだ。艦娘として戦う力が失われたわけじゃない。でも、狙いが定まらないし、管制も、頭の中で噛み合わないみたいなんだ。前線で負った傷が原因で、後送されてからも、ずっと」

白露は、小さく頷いた。

「整備も、いろいろ試してもらったんだ。訓練も、やり直したんだけど。でも、元に戻らなくて」

その声には、悔しさよりも、疲れが滲んでいた。艤装の故障なら、直せばいい。けれど、自分の中の何かが働かないのだとしたら、それは、戦う存在としての自信そのものを削っていく。時雨は、それを知っているから、ここへ連れてきたのだ。

*

優は、すぐには何もしなかった。椅子を引いて、白露と同じ高さに腰を下ろした。

「話を聞かせてもらえますか。いくつか質問します。責めるつもりは、まったくありません」

白露が、少し驚いた顔をする。

「いつ頃から、不調になりましたか」

「負傷した、その直後からだよ」

「症状が出るのは、射撃のときだけですか。それとも、管制の仕事全般ですか」

「どっちも、だよ。照準の方がはっきり分かって……管制は、ときどき、ちゃんと働くことがあって」

「ときどき?」

「うん。調子のいい日は、普通に動くんだ。でも、続かなくて」

優は、一つ一つに頷きながら、聞いた内容を整理した。負傷の前と後で、何が変わったのか。後送先と、ここと、症状に違いはあるか。

「後送された先でも、ここへ来てからも、症状は同じようなものですか」

「うん。……場所を変えても、あまり変わらないんだ」

症状が出始めたのは、負傷の直後。場所を移しても変わらない。少なくとも、伊勢の土地だけが原因とは考えにくい。

けれど、優は断定しなかった。症状だけを見て原因を決めつける癖を、自分に禁じている。負傷の影響か。艦娘としての機能そのものの問題か。それとも、艦の魂と依代たる人としての身体との関係に、何らかの変化が起きているのか。可能性を並べて、一つずつ、確かめていく。

白露を責めない。能力不足とも言わない。ただ、聞く。それだけのことが、白露には、意味のある経験になっているようだった。

「今日のところは、原因を確かめます。直せると、約束はできません。それでも、いいですか」

白露は、しばらく黙って、それから小さく頷いた。

「……お願い、提督」

*

工廠の隅にある、人の少ない部屋を借りた。窓から、遠く海が見える。

白露を椅子に座らせ、優は、少し距離を取って向かい合った。直接、触れはしない。

目を閉じて、意識を細く絞る。

神降ろしの仕組みに干渉できる、という感覚は、他人に説明しにくいものだった。雪山で、氷の状態を手袋越しに探るのに近い。表面からは何も見えない。けれど、指先が拾う微かな抵抗や、ひび割れる前の軋みで、中の様子が分かってくる。

艦娘は、艦の魂と、人としての人生が結びついた存在だ。その結びつきが不安定になれば、能力にも影響が出る。優は、白露の中にあるそのつながりを、辿っていった。

一度に全部を調べようとはしない。何が壊れているのかを、先に決めつけない。壊れていると決めて探せば、壊れた何かは、必ず見つかってしまう。それは、観察でいちばん危うい癖だ。

伊勢という土地の性質も、検討すべき要素の一つだった。環境の影響と、白露自身の状態。それを、一枚ずつ、切り分けていく。

やがて、優は、一点に行き当たった。

艦としての感覚と、人としての感覚および精神。それを繋ぐ依代たる身体の間に、ごくわずかな、ずれがある。

傷そのものは、とうに癒えている。肉体の損傷は、治療されて終わっていた。ところが、負傷の衝撃は、肉体だけに留まらなかった。艦の魂と、依代である人としての身体および精神を結ぶ、いわば錨(アンカー)と言える領域にも、その影響が取り残されていたのだ。照準も管制も、その繋がり(所謂、艦と人という、異なる存在を繋ぎ成り立たせる結び目)を通して、艦の感覚と人の感覚が噛み合って初めて働く。そこが、わずかに外れていた。

白露の努力不足ではない。艦娘としての適性が欠けているのでもない。

優は、目を開けた。

「原因が、分かりました」

白露が、息を呑んだ。

「白露のせいじゃありません。努力が足りなかったわけでも、艦娘としての適性が欠けているわけでもない。前線での負傷が、艦の魂と、人としての身体との繋がりに、ずれを残していたんです」

白露の目に、涙が浮かんだ。零れる前に、慌てて袖で拭う。

「ずれを、元の位置へ戻します。時間は、あまりかかりません。ただ、途中で違和感があったら、すぐに言ってください」

調整は、静かに行われた。

緩んだ繋がりに、艦の感覚と人の感覚を、一つずつ、正しい停泊地に艦艇が錨を下すように、元の位置へ戻していく。ずらさないように、締めすぎないように。それは、神降ろしの仕組みに干渉できる者だからこそ届く作業で、通常の方法では、そもそも問題の場所に手が届かなかったのだ。

*

「……どう、かな」

白露が、自分の両手を見つめた。それから、顔を上げた。

「あ」

その短い声に、すべてが詰まっていた。

場所を射場に移して、確かめた。白露が構え、標的へ狙いを定める。これまで、どうしても定まらなかった照準が、止まる。引き金を引くと、弾は標的の中心を貫いた。管制も、噛み合っている。何度繰り返しても、同じだった。

「当たる……ちゃんと、当たるよ!」

白露は、笑いながら泣いていた。時雨が、黙ってその肩に手を置く。

優は、少し離れたところから、それを見ていた。瞳の奥から頭の芯にかけて、わずかに痺れている。慣れない作業の反動だろう。顔には出さなかった。

今回うまくいったのは、状態を解析して、原因を特定したうえで、対処できたからだ。同じ艦娘でも、状態も原因も違う。すべての不調を、これと同じように片付けられるわけではない。

「今日のところは、これで。数日おきに、状態を確認させてください。何かあれば、いつでも言ってください」

「うん! ありがとう、提督!」

白露は、深く頭を下げた。顔を上げたとき、その目に宿る光は、談話室の隅で膝の上の手を握りしめていたときとは、まるで違っていた。

白露にとって、能力を取り戻せたこと以上に、印象に残ったことがあった。自分の不調を、能力不足として切り捨てず、正面から受け止めてくれた、新任の提督の存在だった。

 

第五章 誤解を解く

*

優が射場を出る頃には、白露の件は、警備府の中を伝わり始めていた。

夕方の廊下を歩くと、これまでとは視線の質が違う。値踏みするようなものから、探るようなものへ。変化は小さいが、確かにあった。

それでも、着任時の誤解が、すべて消えたわけではない。熊野を伴って着任したこと自体を、様子見している者たちはまだいる。艦娘と提督の関係は、単なる上官と部下のそれとは違う。霊的なアンカーが、戦う力や心の状態、部隊の安定にまで響く以上、指揮官が艦娘たちをどう扱うかは、命に関わる問題になる。

しかも、この世界には、その危うさを痛い思いで学んだ歴史がある。提督と艦娘の関係が、愛憎や嫉妬の形で壊れ、鎮守府が半ば崩れた事件は、一つや二つではない。そのたびに安全規定が見直され、積み上げられてきた。周囲が慎重になるのは、不自然なことではなかった。

優は、それを理解しておくべきだと思った。自分が歩いているのは、誰かが痛い目を見て作った道の上だ。

*

夕食の前、熊野は談話室で、艦娘たちの前に立った。隣には、時雨がいる。

熊野は、この種の誤解を放置するのがいちばんまずいことを知っていた。疑念は、眠らせておけば、必ず別の形で表に出る。だから、自分から切り出した。

「着任時の件を、改めて説明させていただきますわ」

集まった艦娘たちの顔を、順に見渡す。

「岸本大尉とわたくしは、舞鶴の提督養成課程で、一年間、組んで訓練を受けましたの。わたくしがこちらへの着任を決めたのは、彼の配属を知り、伝手を頼ったからですわ。それは確かに、わたくしの意思です。ですが、特別扱いを求めるためでも、誰かを侍らせるためでもありませんわ。一緒に働くためですの」

はっきりした声だった。数人の艦娘が、視線を落とす。

「わたくしの言葉だけでは、足りませんでしょうね」

熊野は、隣の時雨へ目を向けた。

時雨が、静かに口を開く。

「課程で、あの人と同じ時間を過ごしたんだ。提督は、成績より先に、一人ひとりの調子を見る人だったよ。誰かが不調を隠していると、黙って気づいて、何も言わずに先に手を打つんだ」

少し間を置いて、続ける。

「それに、今日、白露の不調を、提督は責めなかった。原因を調べて、直してくれたんだ。艦娘をどう扱う人なのか。それが、いちばんの説明になると思うよ」

談話室は、静かになった。

少し離れた席で、白露本人が頷いていた。その手には、もう、膝を握りしめる力はなかった。

*

説明が終わっても、空気はすぐには変わらなかった。けれど、少しずつ、確実に緩んでいった。

艦娘の一人が、小さな声で言った。

「……事情は、分かったよ。熊野さんのことも」

別の艦娘が、白露の方を見る。

「あの子、また撃てるようになったって、本当なのよね」

「ええ。わたくしも、射場で見ましたわ」と熊野が答えた。

初対面の人間を、一日で完全に信頼することはできない。それでも、熊野を伴って着任したというだけで、優を不誠実な人間と判断する必要は、もうなくなった。

そこへ、優が、談話室の入口に姿を見せた。話の途中から、聞こえていたのかもしれない。

優は、何も言わなかった。弁解もしなかった。熊野と時雨に目礼して、席の端に腰を下ろしただけだった。誤解が生じたのなら、説明すべきことは説明すればいい。それ以上、自分を弁護する必要はない。仕事を通じて信頼を得ていく。優は、そう考えているようだった。

熊野は、その横顔を、また一瞬だけ見た。

指揮官への信頼は、命令だけで成り立つものではない。日々の対応と、実際の行動の積み重ねで、少しずつ築かれていく。今日の出来事は、これからの組織運営を考えるうえで、重要な示唆になった。熊野は、その考えを、手帳の隅へ書き留めた。

 

第六章 新しい職場の一員として

*

夕刻、五十鈴が、報告に来た。

「白露の件です。岸本大尉が、射撃照準と管制の不調を、解消しました」

山崎は、書類から顔を上げた。

「着任したばかりでか」

「はい。工廠で解析と調整を行い、射場で確認もしています。白露本人も、今日のうちに通常の射撃ができる状態に」

人事書類にあった「神降ろしシステムへの干渉能力」という一行は、机上の評価ではなかった。あの青年は、それを実際に使って、艦娘の不調を取り除いてみせた。

山崎は、能力の高さそのものよりも、別のことに目を留めた。

「大尉は、神域の力に頼って片付けたのか」

「いいえ。観察と解析で、原因を突き止めたと聞いています。環境と本人の状態を、切り分けながら」

山崎は、ゆっくりと頷いた。

それは、この警備府の任務にも通じる姿勢だった。神域の力は、すべてを自動的に解決してはくれない。祭祀を続け、管理し、警備し、観測する。人が積み上げて初めて、結界は結界として働く。観察と解析で問題へ近づくやり方は、その営みと相性がいい。

*

日が傾く頃、山崎は優を執務室へ呼んだ。

「白露の件、聞いた。経緯を、君の口から聞かせてもらいたい」

優は、必要な範囲で説明した。何を観察し、どのように原因を絞り、どこへ干渉して、何を調整したのか。話し方は簡潔で、無駄な誇張はなかった。説明の終わりに、優は、はっきりと付け加えた。

「今回は、原因を特定できて、対処できました。ですが、同じ不調でも、艦娘ごとに状態も原因も違うはずです。今回のやり方が、すべてに通じるとは思っていません」

山崎は、その言葉を、頭の中で確かめた。成功の直後に、成功の限界を自分から口にできる人間は、そう多くない。

山崎の方も、一度の成果で、優の能力を測りきったとは思わなかった。それでも、着任初日から、警備府にとって意味のある成果が出たのは確かだった。

「ご苦労だった。今日は、よくやった」

「ありがとうございます」

「明日からは、通常の職務だ。急ぐな。分からないことは、五十鈴に聞け」

「はい」

*

執務室を出ると、廊下の窓の外が、夕暮れに染まっていた。

優は、着任初日の業務を終えようとしていた。

警備府の内部には、まだ理解しなければならないことが、山ほど残っている。艦娘たちとの関係も、これから築いていかなければならない。神域と神降ろしの仕組みの関係も、今日の観察だけで分かったとは、とても言えない。

それでも、白露の問題を解決できた。山崎とのあいだに、協力の形をつくれた。熊野と時雨を通じて、艦娘たちとの接点も得た。着任初日としては、十分な成果だった。

研究者になるつもりだった自分が、今、提督としてここに立っている。その事実を、改めて意識する。

けれど、今さら嘆いても仕方がない。目の前に解くべき問題があるのなら、まず、それに取り組む。それが、自分の選んだ道だ。

*

優が去ったあとの執務室で、山崎は、しばらく動かなかった。

長く待ち続けた人材が、ようやく、この警備府に来た。しかも、あの岸本彰と、祥鳳こと詩織の息子として。

これは、人事上の幸運というだけの話ではない。過去の縁が、巡り巡って、この場所へ一人の青年を連れてきた。それが、警備府の未来を変えるかもしれない。

山崎は、窓の外へ目を向けた。夕闇の向こうに、神域の森が、黒い影になって横たわっている。

だが、楽観はしなかった。

優には、優の事情がある。警備府には、警備府の問題がある。二つが噛み合い、実際に仕事が進んで、初めて何かが変わる。縁があったから、うまくいくという話ではない。

「……これから、ともに運営していくのだな」

山崎は、独り言のように言って、机の上の書類を、もう一枚手に取った。

 

エピローグ 伊勢警備府の新しい一歩

*

宿舎へ向かう途中、優は、岸壁の端で足を止めた。

日はすっかり暮れて、海と空の境が、ほとんど見えなくなっている。かすかに残った夕映えの帯が、水平線の位置だけを、細く教えていた。

着任初日が、終わった。

白露の問題は、解決した。熊野との協力関係も、変わらず続いている。時雨や白露をはじめ、ここの艦娘たちとは、これから関係を築いていく。山崎は、自分を警備府の一員として迎え入れてくれた。

けれど、伊勢警備府が抱えている問題は、白露一人の不調だけではない。神域の保護、神降ろしの仕組みの安定、艦娘部隊の運用、そして地域との調整。どれも、一朝一夕に片付くものではなかった。

提督になった経緯には、いくつもの事情があった。今でも、胸の底に、割り切れないものがないわけではない。それでも、今、自分はここにいる。目の前の仕事を、放り出すつもりはなかった。

潮の匂いが、風に混じっている。神域の森から流れてくる、深い、別の匂いも。その両方を胸に吸い込んで、優は、岸壁を離れた。

水平線の向こうに何があるのかは、まだ見えない。

けれど、明日は、また始まる。

優は、伊勢での新しい生活の、最初の一歩を踏み出した。




【お知らせ】

本作品はPixivにも掲載している作品です。
ハーメルンでの掲載にあたり、こちらでも連載を開始することにしました。

Pixiv版はこちら:
https://www.pixiv.net/novel/series/16734147

今後とも『蒼海の水平線』をよろしくお願いいたします。
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