蛍さんは、不思議な子です。
あれほど綺麗な音を奏でるのに、自分の音が誰かを傷つけるのではないかと、いつも心配している。世界で一番美しい楽器を持ちながら、その音色を誰かに聴かせることを恐れているような子。才能とは、必ずしも持ち主に幸福を与えるものではありません。時には、その人自身を苦しめるほどの重荷にもなるのでしょう。だからこそ、私は彼女の音を聴いていたいと思うのです。
彼女の才覚を、浴びていたい。私が、私だけが、焼かれたい。
「蛍さん」
「はい?」
「少し、こちらへ」
私が手を差し出すと、蛍さんは小さく首を傾げてから、その手を取ってくれました。
指先が触れる。
それだけで、彼女の表情がほんの少し柔らかくなる。それがたまらなく、背筋がゾクゾクする。かわいらしい、小動物のようでいて、それでいて世界の天井にいる二面性。
これだ、これこそ、天才。
「朋花さん」
「どうしました?」
「もう少し、近くてもいいですか?」
まあ。これは、なかなか大胆なお誘いですね。
「もちろんです。どうぞ」
私は彼女の手を引き、隣へ座らせました。蛍さんの肩が私の肩に触れる。ほんのわずかな重み。けれど、その小さな接触が、思いのほか心地よい。
音楽に例えるなら、演奏が始まる直前の静寂でしょうか。まだ音は鳴っていない。けれど、互いの呼吸が揃っていく。
「朋花さんは、いつも私に合わせてくれます。それがすごいありがたくて」
「ふふ。ドラムですから。皆さんの音を聴くのは得意です」
「そういう意味ではなくて……」
蛍さんは私の手を見つめました。そして、そっと指を絡めるように握り直します。
「私が近づいても、嫌がらないでいてくれます」
「嫌なら、こうして手を握ったりしません」
「そうですね」
蛍さんは嬉しそうに笑いました。
その笑顔を見ると、私はいつも思う。
この子は、なんて素直に音を鳴らすのだろう、と。誰かに褒められるためでもなく、誰かを従わせるためでもなく。ただ、自分の中にあるものを、懸命に届けようとしている。だからこそ、私は彼女の音を聴いていたい。
「蛍さん」
「はい」
「今度は、私からもお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
私は彼女の肩を抱き寄せました。
蛍さんは驚いたように瞬きをしましたが、離れようとはしませんでした。それどころか、少しだけこちらへ身体を預けてくれます。
「こうしていると、落ち着きます。蛍さんはどうですか?」
「私もです」
「本当に?」
「はい。朋花さんのそばは、安心します」
その言葉に、胸の奥で小さな音が鳴りました
私は蛍さんの髪をそっと撫でます。彼女は目を閉じ、私の肩に頬を寄せてくれる。信頼してくれているようで、心地がいい。無垢な貴方はとても美味しそうで、眩しくて。
「……朋花さん」
「はい?」
「私は、ここにいてもいいですか?」
「ええ。もちろん」
「誰かを傷つけてしまうかもしれません」
「それなら、傷つけない音の出し方を一緒に探しましょう」
「失敗したら?」
「何度でも合わせ直せばいいのです。貴方がやってくれたように」
蛍さんはしばらく黙っていました。やがて、私の手を両手で包みます。
「もう少しだけ。ここにいてもいいですか?」
「ええ。私が許す限り、なんて言いません」
私は彼女の目を見て、微笑みました。
「蛍さんがここにいたいと思う限り、どうぞ」
音楽に、正しい距離などありません。近づけば響き合う音もあれば、離れているからこそ美しく聴こえる音もある。大切なのは、互いの音を聴くこと。そして、どちらか一方だけが演奏し続けるのではなく、ふたりで音を重ねていくこと。
蛍さんが私の肩に寄りかかる。私はその小さな身体を、優しく抱きしめました。
ああ、今夜は、まだ演奏を終わらせたくありません。どうやら私は、この子の奏でる音だけでなく、音が止んだあとの静けさまで好きになってしまったようで。
ああ、まったく。
どれほどの時間が過ぎたのでしょう。
防音設備の整った練習室には、無機質な機材のLEDが青い光を放っていました。暗い室内に浮かび上がる私たち。窓の外から届く街の明かりさえ、ここまでは入り込めない。静寂の中、私は隣にいる蛍さんの横顔を眺めていました。彼女の表情には、いつものような不安がありません。自らの才能を恐れ、その破壊的な美しさに苛まれてきた少女。しかし、今は私だけが。
「……蛍さん」
「私、ずっと怖かったんです。私の音が、皆さんの作ってきた世界を壊してしまうんじゃないかって。でも、もしが朋花さんが私の光に灼かれたいと願うなら、私はそのための場所になります。朋花さんの空虚も、諦めも、器用すぎるがゆえの孤独も……全部、私が私の音で包み込んで、消して、最後は笑顔になれるハッピーエンドに」
──ああ。
それは、なんと甘美で、残酷なまでの逆転劇なのでしょう。
私は彼女の音を守り、その才能を受け止める側でいたかった。彼女が自分の音を恐れずに済むよう、必要な言葉を選び、適切な距離を保ち、彼女にとって安心できる場所を作ろうとしていた。けれど、彼女は私のことも見てい。
私がどれほど器用に振る舞っているのか。どれほど多くのことを考え、どれほど自然に自分を制御しているのか。そして、その奥に何があるのか。それを見抜いている。その上で幸福の踏み台になろうと申し出てくれている。
「朋花さんは、何も失わなくていいと思います」
蛍さんの手が、私の頬に触れました。
その指先は温かく、ひどく優しい。
「器用に生きてきたことも、自分の中に何もないと怯えていたことも、全部、私は感じます。付き合いが短い私が何って思うと思います。でも、私はこの短い時間の中で、朋花さんをみてきました。何でもできる姿はかっこうよくて、美しい。でも、だけど、だったらちゃんと報われるべきです。朋花さんだけの幸せがあるべきです」
……困りましたね。
そんなことを言われてしまっては、どうすればいいのでしょう。確かに私は普段、相手の言葉の意図を考えます。何を求めているのか、どのような返答が適切なのか。状況を整理し、必要な行動を選び、失敗すれば修正する。
それが私のやり方でした。
今の蛍さんは、私が答えを用意するよりも早く、その奥にあるものへ手を伸ばしてくる。
欲しい言葉を、欲しいように、届けてくれる。それは音楽ではですが、だからこそ言葉だからこそ脳に瞳が宿りそう。
上位者だと、畏れ、敬い、全てを委ねてしまい。偽りの私をめちゃくちゃにして、全てを溶かして一つにして、狂った火釜に投げ捨てて欲しい。
「私に灼かれて、灰になりたい。約束します。私を朋花さんを焼き尽くしてあげます。その後で、灰になったあとは、私が新しい朋花さんを抱きしめます。朋花さんが自分の存在を好きになれるまで、何度でも、私の音で、全てを焼き溶かします。炎の象徴は不死なれば」
「……蛍、さん……」
言葉を、うまく発することができない。
彼女の言葉によって少しずつ揺らいでいく。
私が彼女を救い、彼女に幸せを与えるはずだった。けれど、だけども、真実は必ずしも一方通行ではないのでしょう。
彼女もまた、私を救いたいと思っている。そのために自分の才能を使おうとしているのです。
なれば……!
「逃がしません。朋花さんの鼓動も、吐息も、過去も、全部私にください」
蛍さんは私の背中に腕を回します。。その抱擁には、普段の彼女からは想像できないほどの強さがあって。
私はその温もりを受け止めながら、彼女の言葉を考えていました。彼女は私を縛ろうとしているのでしょうか。それとも、私が自分自身を縛り続けていることを知っているのでしょうか。
おそらく、その両方なのでしょう。
「……ええ。差し上げます、すべて」
私は彼女の身体に顔を寄せました。
「私の過去も、未来も、この空虚な自我のすべてを、貴方の光の中に捧げます。どうか、私を灼き尽くし、あなた好みの形に作り替えてください。光があるハッピーエンドに」
「はい、約束します。私が必ず送り届けます。彗星の向こう側へ」