横浜駅を西に二十分程歩いた辺りにあるスーパーの中に、久藤夜陰はいた。
本来なら時雨、蛍と共に事務所に行くはずだったのだが、いつの間にか冷蔵庫の中にあったはずの食材が底を尽きかけていたのだ。まあ、大体の予想はつくが。
(蛍はかなり食べるしな……どうするかな)
夜陰と蛍は、一人暮らしをしてはいるが、蛍が料理はからっきしなため、始食、終食は一緒に食べることが多い。何かあった時のためにお互いに合鍵も持っているが、蛍は腹を空かせると勝手に入ってきて、冷蔵庫の中の食材を漁る。その度に夜陰に叱られるのだが、全く反省の色が見えない。
(とりあえず、これくらいでいいか)
右手のカゴには、既に溢れそうなほど食材が入れられている。夜陰は見た目だけでなく、料理、裁縫が得意で、そういったところも女に見られる要素の一つだろう。
レジで会計を済ませ、スーパーから出る。ここから、さらに西に十分ほど歩き、少し裏道に入った辺りに、時雨の父親の喫茶店と、夜陰、蛍の部屋のあるビルがある。買い物に随分と時間がかかってしまったため、少し急いだほうがいいかもしれない。パンパンになったレジ袋を両手に持ち、少し足早に通りを抜ける。
……その時だ。細い路地の裏から、女の声と、何かが爆ぜた様な音がした。近くに人はなく、気付いたのは夜陰だけだろう。暫く様子を見ていた夜陰だが、先程の爆ぜた様な音が立て続けに三回聞こえ、それと同時に、今度は女の悲鳴が聞こえた。
夜陰は、路地の入り口にあったドラム缶の上に、今さっき買ったばかりの食材が入ったレジ袋二つを置き、音と悲鳴がした方へ走っていった。
入り組んだ路地を二、三回、右へ左へと曲がったところで、開けた路地裏に出た。そこに、女と男が一人ずつ立っていた。銀色の腰まで届く髪の女は、奥の壁に背を向けて、左の二の腕を右手で押さえている。怪我をしているのか、押さえられた二の腕から、真っ赤な血が流れている。病院の患者の様な、一枚の布でできた服は所々破れていて、よく見ると顔や脚など、いたるところに小さな傷がある。
その女から少し離れた場所で、女と向き合う男――黒い髪に、全身黒ずくめの服装のその男は、ニヤリ、と笑うと、右手を少し前に掲げて、
「終いだアマ……死ねや」
右手を勢いよく振り下ろした。それと同時に、女の真後ろにあった窓のガラスが、割れる。割れたガラスは、雨のように女に降り注ぎ、その肢体を切り刻む――はずだった。
女の横へと走った夜陰は、そのまま女の手を取り、自分に引き寄せると、後ろに跳んだ。ガラスの破片は行き場を失い、バラバラとアスファルトの上に落ちる。
「危なかったな……大丈夫?」
夜陰は女の方を向き、無事を確認する。
女は、しばし唖然としていたが、ハッ、と我に返り、言葉を返す。
「う、うん、大丈夫」
ガラスの破片には当たらなかったようだ。左腕の出血以外は、大したことはないだろう。夜陰は制服のネクタイを取ると、左腕の傷の上に巻いた。
「きつくないか?」
「え?あ、うん、平気。……ありがとう」
止血を終えると、夜陰は男の方へと向く。
「女をいたぶるなんて……いい性格してんな、アンタ」
そう言うと、夜陰は男に一歩近づく。
「誰だよテメェは?邪魔してんじゃねェよ」
男は殺気を出しながらそう言うと、夜陰に向かって歩いてくる。夜陰の二メートル程前に来たあたりで止まり、口を開く。
「こっちは大事なお仕事中なンだよ。それともテメェから殺してほしいのか?」
と、先程よりも強く殺気を込めて、夜陰に言う。
それを無視して、先程のガラスの件のことを考えてから、
「なぁアンタ……アンタは
夜陰は男に向かって、静かにそう言った。
「……へぇ?テメェも
先程の表情が一転、男は面白い、といった感じで、ニヤリ、と笑った。
(『
夜陰は男の顔を見る。歳は同じくらいか。蛍の言っていた情報というのは、この男のことなのだろうか。
「へ?へ?え、と……?」
女は訳がわからない、といった感じで、夜陰と男の顔を交互に見る。……が、次の瞬間、男が動いた。
「テメェがどっちだろうと、まとめて殺しゃ問題なしだ!!」
男は後ろに跳ぶと、右手を前に突き出す。すると、夜陰のすぐ横にあった木の板が、中に火薬を入れられていたかの様に、爆ぜた。
「くっ……!」
夜陰は女の腕を掴み、先程のように引き寄せてから、それを避ける。
「ハハッ、マジかよ!今の避けンのかよ!」
男は愉快そうに笑い、夜陰の右に、左に、後ろにある物を、次々と破裂させる。夜陰はそれを間一髪のところで、全て避ける。しかし、人一人を守りながらでは、時間の問題だろう。
「なあ、アンタ名前は?」
「え?あ、弥宵……
「弥宵、そこの路地の壁の向こうに隠れろ。守りきれない」
「え?いや、勝てる訳……」
「いいから、早く!」
夜陰は弥宵を路地の壁の向こうまで行かせると、男に向かって走った。
「ハハッ、どうした?避けてばっかじゃそのうち死ンじまうぞ!?」
男はそう言いながら、夜陰の周りの物を破裂させる。それを避けながら、夜陰は男の目の前まで行く。
「ご忠告どーも」
そう言うと、夜陰の右眼が赤紫に変わる。そして、男の脇腹に触れてから、後ろに二、三歩下がった。
「ああ?なんだァ?テ……メ……が、あ?」
男の顔が、突然歪む。まるで、何か得体の知れない、言い様のない恐怖を感じたような……そんなふうに。
「な、なに……あれ……まさか、あいつも?」
少し離れた路地の壁に隠れながら、天河弥宵はそう呟いた。通常なら、この光景を見てそんな感想は言わないだろう。しかし、この場でこの言葉が出る、というのは、恐らく……
「い、あ、ひぁ、がぁあ……!?」
男は、まだ辛うじて正気を保っている様だが、この様子だと時間の問題だろう。
(何か聞き出せると思ったんだけど……)
これ以上は、無駄だろう。そう思った夜陰は、男に背を向けて、路地の壁に隠れている弥宵に向かって歩き出す。が、しかし。
「お、い、テメェ……こんなん、で……俺がやられると思ったか!?」
男は、近くに転がっていた石を掴み、夜陰に向けて投げる。ギリギリでそれを避けるが、次の瞬間に、
「死ね!」
夜陰の顔の真横で、石が爆ぜる。夜陰の身体がグラリ、と揺れ、アスファルトの上に倒れる。
「ハ、ハハ、テメェ、今のは『宵』の力か?拍子抜けもいいとこだ」
男の顔は、未だに少し恐怖が滲んでいるが、それでも完全に正気を取り戻した様だ。夜陰を倒した、と、男は弥宵の方を向く。
「ハハ、次はテメェだ」
男は足元に転がっていた石を掴むと、弥宵の額めがけて、投げる。
「あ……」
「ハッ、終わりだ」
弥宵から三十センチ程離れたところで、石は爆ぜる。男は先程の夜陰の力の影響か、破裂させる力の加減を間違え、石は三つの破片を残して粉状になり、弥宵の周りは見えなくなる。
「ハァ、ハァ、……お仕事完了だぜ、クソが」
男は荒く息をついて、後ろに振り向き、路地裏から立ち去ろうとする。
「どこいくんだよ?」
煙の中から、男を引き止める声がする。煙が消えると、弥宵の前に、真っ黒い影が伸びていた。
「アンタ、『暁』だな?悪いけど、もってる情報渡してもらうぞ」
弥宵の前にあった影が、男に向かって伸びてくる。男は、近くにあったドラム缶を破裂させ、それを凌ぐ。
「て、テメェ、っざけんな!力が……二つ!?」
男は影を避けながら、夜陰に言う。
「さっきのは
影を操りながら、夜陰は男に近づく。破裂させる物がなくなり、男は壁際に追い詰められる。
「まださっきの効果はきれてないから……今ならできる、か?」
夜陰の右眼が赤紫に変わる。男の顔が、再び恐怖に歪む。
「ぐ、ぁ……クソ……!」
しかし、男は近くに落ちていたガラスの破片を手に取ると、
パックリと裂けた手首から、真っ赤な液体がドクドクと流れ落ちる。その痛みで正気に返った男は、立ち上がると、左手を押さえながら、路地から逃げていった。
(まさか、自分で手首を切るなんてな)
夜陰のあの力は、外的激痛を与えるとすぐに解けてしまう。とはいえ、二度も破られたのは、夜陰も初めてだった。
「さて、弥宵は大丈……うおっ」
振り向くと、いつの間にか弥宵が後ろに立っていた。
「ね、ねぇ、あんたも……」
弥宵が夜陰を見ながら、恐る恐る尋ねる。しかし、夜陰はそれを遮って、路地から出て行こうとする。
「ね、ねぇ!ちょっと待ってよ!」
弥宵が夜陰の後を追いかける。夜陰は入り口まで戻ってくると、レジ袋を持ち、弥宵の方を向いた。
「話は後で。俺は久藤夜陰。とりあえず、ついてきてくれる?」
そう言うと、夜陰は家に向かって歩き出した。
『暁』とか『宵』とか、夜陰の力に関してとかは、次回以降で少しづつ明らかにしていきます。