都内には魔窟があると、噂されている。
実際にはある
「……」
新人アイドルの歓迎会も終わり、これを口実に呑んべえ達が二次会として夜の繁華街へ突撃したとなっては、いつも夜まで騒がしい女子寮もどこか閑散としていた。病棟を連想させるかのように、非常灯の薄緑がぼんやりとする廊下を、一人の少女が壁を背中にしてずりずり歩いていた。不気味なまでに、無言である。さながら泥棒であったが、彼女はプロダクションに所属する正真正銘のアイドルである。実にアイドルらしからぬ姿だが、泥棒ではない。
しかし、彼女の表情は、泥棒など比ではないほど、破廉恥であった。
「うひひひ」女子寮の廊下に、卑猥な声が木霊した。にまにまとした彼女は指をわきわきさせ、
おっぱいハンター棟方愛海であった。
彼女にとっておっぱいに貴賎はない。巨乳も貧乳も、ラブアンドピースであった。以前、番組で共演した如月千早にも突撃したというエピソードは、もはや伝説である。ただ、彼女は女の子の柔らかい部分が好きなのであって、断じておっぱいジャンキーではない。誤解なきように。
「失礼しまーす」
彼女は小声で呟きながら、ある寮部屋へと入っていった。スタッフもカメラもないのに、まるでドッキリカメラの光景である。一体、どこから寮部屋の合鍵を入手したのか判然としないが、彼女は下品な笑顔のまま、ドアをロックした。「これで邪魔は入らない」彼女の表情は、より卑猥になった。アイドルの面影は、まるでない。
寮部屋の主は、新人アイドルとして女子寮に入居したばかりである。上京したばかりで、部屋の隅に荷物らしきダンボールが積まれ、デスクには新品のノートパソコン(Apple製)がちょこんと置かれていただけであった。随分と殺風景である。それは彼女の性格からすれば納得であったが、当然ながら愛海には興味がない。愛海には、未知の頂が待っていた。ふはふはとした双丘が、おいでおいでをしていた。
「うひひひ」じゅるり。「おっと、いけないいけない」
一筋の涎を拭ったが、もはや愛海の理性は完全に失われていた。「これはスキンシップ。スキンシップは合法。だから、揉む」譫言のように呟きながら、愛海はゆらゆらと寮部屋のベッドへ歩いていった。さながらティーンエイジャーを襲うホラー映画のワンシーンである。目標である彼女は、胎児のようにして毛布に包まれ、すやすや眠っていた。
「いざ!」
一気呵成とばかりに、愛海は毛布を剥いだ。「ほぎゃあああ!」しかし、アイドルらしからぬ絶叫とともに、愛海は卒倒した。デスクの脚に後頭部が直撃した愛海は、悶絶しながら正気に戻った。
「な、な、な」
肌寒かったのか、毛布を剥かれた彼女は芋虫のようにうごうごしていた。愛海はしばし呆然としていたが、どうにも廊下が騒がしかった。当然である。アイドルらしからぬほどマヌケではあったが、乙女の悲鳴である。プロダクションでも随一の武闘派達が、雪崩のように寮部屋へと殺到していた。
「にょわー!」
「ボンバー!」
「賊でござるか!」
ロックしていたはずのドアが、諸星きらりと日野茜の全力トライによってティッシュペーパーのようにぶち破られ、浜口あやめは突如として壁からどんでん返しで乱入してきた。はたまた道着姿の中野有香、釘バットの向井拓海や軍用スコップの大和亜季、さらに一升瓶を片手にした片桐早苗(ぐでんぐでんである!)までうごうごと現れ、愛海はさながら屠殺される鶏の心地であった。
「あれ」大勢の先輩アイドルを前にして、やっと起きたらしい新人アイドル二宮飛鳥が、ベッドの上でしぱしぱと
彼女は、全裸であった。
○
二宮飛鳥。静岡県出身の十四歳である。
あるプロデューサーが静岡でスカウトした少女の一人である。プロダクションで彼女による全裸騒動が勃発した翌日は、見事な快晴であった。煩わしいほどの太陽が、厚着に慣れたアイドル達をじりじりと焦がしていた。十時愛梨は、既に脱いでいた。
「いやあ、上手ッスねー」荒木比奈が、ぼんやりと感嘆した。昨晩のアルコールが残っており、どうやら眠いらしい。比奈の前では、飛鳥が呑気に漫画を描いていた。「一緒に同人誌でも、どうッスか」
「いいかもしれないね」飛鳥の返事に、比奈はぽやぽや笑った。予期せぬ同好の士に、比奈も嬉しいらしい。飛鳥はシャーペンをガラステーブルに置いた。「けど」
「けど?」
「ボクはボク自身が生んだものに責任を取れるほど、オトナじゃない」
「あー」飛鳥の言葉が分かったのか分からなかったのか、比奈はぼんやりと笑った。「まだ十四歳ッスからねー」
「でも、いつかは御一緒したいね」
「是非。歓迎しますよ」
比奈は照れたように、ぼさぼさした髪をぽりぽりとした。飛鳥は興味をなくしたように、また漫画へと戻ってしまった。比奈はしばし飛鳥のオシャレなエクステを前にしてぼんやりとしていたが、ふとバッグから色紙を出し、右手のペンがきらきら輝いた。月末にある冬のコミックマーケットで配布するイラストだ。原稿は、既に脱稿した。余裕ある完璧なスケジュール管理であった。比奈はついついにんまりとする。
ぽかぽかとした陽気が、二人を包んでいた。
「おい、お前なあ」呑気な二人に、神谷奈緒が呆れていた。「比奈さんもしっかりしてくださいよ」
「いやあ、私もよく知らないッスから」比奈は苦笑した。「居酒屋で呑んでたし」
「こっちは寝不足ですよ!」
奈緒はぷりぷりしながら、ソファで泰然とする飛鳥を睨んだ。
事務所の奥では、ハンチング帽にケープというクラシカルな探偵の格好をした安斎都が、パイプ(レプリカ)をぷかぷか燻らせながら唸っていた。「これが現代社会の心の闇か」気分はさながらシャーロック・ホームズであった。しかし、彼女は事務所の窓にあるブラインドを指先で弄っていた。それは石原裕次郎である。
昨晩の全裸騒動は、女子寮のアイドル達をさながらツイッターのように、噂やデマで震撼させた。「全裸で寝てたんだって」「誰が」「知らない」「全裸って、痴漢?」「まさか」「う、生まれたがままの肉欲!」「どうする」「寝てようよ、眠いし」「でもさ」「一人で行けば?」「飴あげないよ」「卑怯な!」「捕まったかな」「私のサイキック逮捕術なら、痴漢ごときいつでも御用ですよ!」「全裸ってロックだよね!」「どこがだ」結局、全裸で寝ていた飛鳥を襲撃した愛海が、強制猥褻未遂の現行犯で早苗に逮捕されたという顚末が知らされるまで、女子寮では全裸のサイキッカーが飴玉と印税を欲して、歯ギターで『熊蜂の飛行』を演奏しながら闊歩していた。当事者で一番の年長者である早苗が二日酔いで、当時の記憶が碌になかった上に、張本人である愛海は早苗に逮捕術で鎮圧されたときに拘束衣でぐるぐるに縛られ、なおもぐっすりと気絶していた。都の推理は、難航した。何故、愛海は満面の笑顔で気絶しているのか。真相は謎のままである。
「ボクに非はないよ」爆心地の飛鳥は、飄々としていた。「ボクは寝ていただけさ」
「というか、なんで全裸なんだよ!」奈緒は心の底から叫んだ。まず疑問はそれであった。何故全裸で寝ていたのか。正月も間近の冬に、何故全裸なのか。「風邪引いちゃうだろ!」
事実、飛鳥は寝ていただけで、奈緒や他のアイドル達が寝不足になった原因は愛海にある。如月千早の一件もだが、つい最近では三村かな子の柔らかい部分(お腹である!)を揉んで涙目にさせてしまったほどである。余談だが、お腹を
しかし、全裸には我慢ならなかった。奈緒の言葉は、まるで母親のそれであった。
ぷんすかする奈緒を、ソファへ
「おはよッス」
比奈が、
「やっぱり優しいね、奈緒は」
加蓮は愉快とばかりに、にまにまと笑った。
「な」奈緒が両頬をぽっぽと朱色にした。加蓮にびしりと出された人差指も、途端にぷるぷるとして力がない。視線もぐるぐると忙しない。「なななななにを、馬鹿な」
「だって心配してたじゃん、かわいい後輩をさ」
加蓮は、もう笑わなかった。凜とした瞳が、奈緒からじいと離れない。「うぐ」奈緒は呻いた。加蓮の言葉は、まさに奈緒の図星であった。反論するのは簡単だが、どうにも子供っぽいように思われ、奈緒はただ唸った。「うぐぐぐ!」もはや、奈緒の両頬は、橘ありす特製の苺パスタのようである。
「風邪引かれて
「はいはい」奈緒の言葉に、加蓮はくすりと微笑した。「ゴチソウサマ」
「さ、先にレッスン行くからな!」
頬を両掌で隠しながら、脱兎のように事務所を去ってしまった奈緒の背中に、比奈も微笑んでいた。「素直じゃないッスね」比奈はペンの尻を
「比奈さんも分かってきましたね」
加蓮はにんまりとしながら、半分開けられたまま所在のない事務所のドアへ歩いていった。「今日はトライアドで?」のんびりと歩きながら、欠伸でもするように両腕をストレッチする加蓮に、比奈が訊いた。加蓮は、きらきらと笑った。
「三人一緒は久々だし、私も気合入っちゃうな」
「無理はしないでくださいッス」
「ふふ」比奈の言葉に、加蓮は照れたように笑う。「比奈さん、まるでプロデューサーさんみたい!」
比奈は頬を人差指でぽりぽりとした。心配されるのも満更ではないらしい加蓮は口許を綻ばせ、ドアの前で比奈にちょこんと頭を下げた。ドアノブを握った加蓮が、ふと飛鳥へ悪戯に微笑んだ。
「どうして裸で寝ちゃうのか分からないけど、やっぱ風邪引いちゃ駄目だよ?」苦笑する加蓮の横顔が、飛鳥には印象的であった。「皆を心配させちゃうしね」
加蓮の言葉を最後に、ドアが閉じられた。彼女の背中はガラスの奥へと薄れ、ローファーの底がこつこつと階段を叩いていった。事務所が、ふわりとした余韻に包まれる。比奈は、飛鳥にただほわりと微笑んだ。
飛鳥は背中がむずむずとしたが、どうしてか厭な気分ではなかった。
○
アイドルの卵である飛鳥や、同期生の大沼くるみと財前時子に、当然ながらアイドルとしての仕事はまだない。プロデューサーに同行して先輩アイドルの仕事を見学はすれど、ライブやイベントなど、アイドルの舞台に
「今日のレッスンはこれで終わりです!」首からホイッスルを下げた、初々しいトレーナーが快活に笑った。「おつかれさまでした!」
飛鳥達は疲労困憊であった。彼女達と一緒にダンスやボーカルレッスンをしながら指導もしていたはずなのに、まだまだ元気一杯なトレーナーに、飛鳥は感服していた。飛鳥は同期二人と一緒に、レッスンスタジオの壁にぐうたらと靠れた。「馬鹿々々しいほどの体力ね」時子が呆れながら、鬱陶しいとばかりにタオルで汗を拭う。足元でぐったりと
「ひ!」くるみは、汗と涙でぐちゃぐちゃであった。「ゴメンなさいゴメンなさい!」
「ゾクゾクする表情ね。実にいいわ」時子が、愉快千万と
「ひい!」
時子にジャージの襟首を掴まれたくるみが、悲劇のヒロインさながらに表情を歪ませ、叫んだ。しかし、それは時子にとって至福でしかなかったようで、彼女は嬉々としてくるみと一緒にシャワールームへと向かっていった。「ひやあああ!」「アハハハハハ!」涙と鼻水でぐずぐずなくるみの断末魔と、時子の哄笑が、レッスンフロアに木霊した。
飛鳥は壁に靠れたまま、ぼんやりと天井を仰いでいた。時子とくるみの馬鹿々々しい喧噪も、汗が乾いてシャツがべたべたとする感触も、ずっしりと疲れた身体の感覚も、厭でなかった。「フフ」子供の頃の粘土細工さながら、ふわふわとして曖昧だったものが形あるものへと完成され、躍動するような興奮に、飛鳥はつい微笑んだ。
「ちょっと失礼するよ」
「うわ」
突然、壁の一部分が外れ、頭がにょきりと出てきたからには、黄昏ていた飛鳥もさすがにしぱしぱと
「大沼サンと財前サンなら、シャワーだよ」
「二人で?」
「二人で」
「くるみちゃんも、可哀想に」
杏は、苦笑した。所属したばかりながら、時子がサディストらしいという噂は、周知の事実であった。杏はくるみの無事を祈った。「なむなむ!」しかし、数秒もすれば、どうでもいいとばかりにいつもの杏の姿があった。深緑をした布製のショルダーバッグを下ろした杏は、飛鳥の隣にぺたりと座った。
余談であるが、杏はこのシンプルなショルダーバッグを、「パズーのバッグ」と呼んで愛用していた。
「杏も面倒なときは下着のままで寝ちゃうけどさ」杏の話は唐突であった。飛鳥は小柄な先輩のつむじを、ぼんやりと睥睨した。杏はパズーのバッグから出した「ニンテンドー3DS」をぽちぽちしながら、にへらと笑う。「真冬に全裸は、ちょっとないなあ」
「どうしようが、ボクの勝手さ」飛鳥は、ただ皮肉に笑った。しかし、ぐうたらアイドルとして知られる杏の表情に、飛鳥の脳裡には、先日の奈緒や加蓮の姿が蘇った。「まさか、双葉サンもボクの心配かな」
「それもあるよ」杏のイメージらしからぬ素直な言葉に、飛鳥は虚を突かれた。飛鳥の頓狂な表情に、杏が莞爾とした。「それも先輩の役目でしょ」
怪訝とする飛鳥にも、杏はほわほわとした笑顔を崩さなかった。飛鳥は杏の言葉を反芻したが、結局彼女の真意が分からない。飛鳥は、杏の言葉をただ待つしかなかった。彼女のニンテンドー3DSでは、千古不易を謳う王が傲然と咆哮していた。「さすがにソロはつらいなあ」杏が、髪をぐしぐしとした。日頃の不摂生か、ちょっとぼさぼさしていた。杏は深々と溜息をし、ニンテンドー3DSをスリープモードにした。杏の双眸が、飛鳥を貫いた。
「輿水幸子、分かるよね」
「嗚呼」飛鳥は、首肯した。「ボクとタメだったね」
杏は話をしながら、無沙汰に手元のニンテンドー3DSをぱたぱた弄んでいた。
「あいつ、前に風邪引いたんだよね」
とあるオフ、輿水幸子はプロデューサーと二人で「富士急ハイランド」を訪れた。「せっかくボクがオシャレしてきたんだから遊園地くらい連れてってください!」いつものように強引にプロデューサーを誘った幸子であったが、実際にはプロデューサーのドッキリが待っていた。幸子は雨合羽もなにもないまま「グレート・ザブーン」に搭乗させられ、見事に濡れ鼠となってしまった。しかも、びしょびしょになった姿をプロデューサーに撮られ、宣材写真にされてしまうというおまけつきである。雨合羽をしていて無事であったプロデューサーとグレート・ザブーン前にあるブリッジで口論になった幸子であるが、グレート・ザブーンの強烈な水繁吹はブリッジまで到達した。
「フギャー!」
またしても鉄砲水を喰らわされたがごとき幸子は、マヌケな悲鳴を上げた。無論、プロデューサーは無傷であった。しかし、ここでタオルを出したプロデューサーが謝罪をし、幸子においしいスイーツでも御馳走すれば、万事解決なはずであった。幸子は素直でないが、単純な性格だからである。
だが、問題はここからであった。
自棄になったのか、箍が外れたのか、幸子はエノコログサを前にした猫のように瞳をぎらぎらさせながら、一人で幾度とグレート・ザブーンに吶喊していった。一人残されたプロデューサーは、幸子の荷物番をしながらベンチで呆然と富士の山嶺を望んでいた。戻ったときには、興奮したからか、幸子の頬がほんのり紅潮していた。全身ずぶ濡れになった幸子の下着が、見事に透けていた。狼狽するプロデューサーを余所に、幸子は御満悦である。
「水も滴るボク!」幸子は、にんまりとした。「実にセクシーですね!」
幸子は、プロデューサーから渡されたスーツの上着と、社用車の
「あいつが風邪を引いたのは、プロデューサーのイタズラの所為だけどさ」途中からボロ雑巾のようなうさぎのぬいぐるみを枕のようにしながらぐうたらと話をしていた杏が、一拍するように深々と嘆息した。「風邪引いて熱があるのを、隠してたんだよね」
「隠していた?」
飛鳥の言葉に、杏が首肯した。
「私もどういうつもりであいつが黙っていたのかは知らないよ。けど、あいつには大事な
どうやら冗談らしい杏の言葉に、飛鳥はぼんやりと頷いただけであった。杏は、パズーのバッグから出した飴玉を、舌の上でころころとさせた。まるでサンタクロースのような色をした、いちごミルク味の飴玉であった。
「
言葉とは裏腹に、杏は口調は綿菓子のようにふわふわとして、いちごミルクの飴玉のように甘かった。「フフ」どうやら双葉杏は、随分と天邪鬼らしい。素直でない先輩ばかりである。飛鳥はつい笑ってしまう。
「お前なあ」杏は、呆れた。「裸で寝てたらいつプロデューサーに心配されるか分かったもんじゃないよ。知らないからな」
「それは――」
飛鳥の心は、遠足前の子供のようである。口許が、つい緩んだ。風邪を引いてしまった馬鹿な飛鳥を、馬鹿真面目に心配するプロデューサーやアイドル達の姿が、次から次へとポップコーンのようにぽんぽんと浮かんできたからである。
「きっと、鬱陶しいね」
飛鳥もまた、素直ではなかった。
○
「杏の長話で風邪引かせちゃ、世話ないからね」
古ぼけたパズーのバッグから、清潔な白のバスタオルを飛鳥に渡すと、杏は苦笑した。どうやらシャワールームに常備されているバスタオルを拝借してきたらしい。パズーのバッグにバスタオルがどのように収まっていたのか、飛鳥には判然としなかった。さながら魔法のバッグである。これでパンや卵、林檎まで入っていたらもはや痛快である。
飛鳥は退屈しなかった。
「双葉サン、また」
「あいよー」
渡されたバスタオルを首から下げた飛鳥が、杏に挨拶した。杏はボロボロのうさぎのぬいぐるみをクッションにぐうたらしながら、既に手元のニンテンドー3DSに没頭していた。
防音されたレッスンフロアは、アイドル達の情熱と裏腹に静謐としていた。シャワールームへの変哲もない通路が、まるで神聖なもののようである。飛鳥は嘆息した。
「おや」噂をすれば、である。通路の陰から現れたのは、トレーニングウェア姿の輿水幸子であった。「溜息とは不景気ですね」
「違うよ」飛鳥は、幸子に誤解されるのがどうにも癪であったらしい。直截に否定した飛鳥の眉間には、皺があった。「別に溜息じゃない」
「飛鳥さんは、さきほどまでレッスンでしたか」
誤解はされなかったようだが、話の唐突な幸子に飛鳥が怪訝とした。
「それが?」
「カワイイボクでも最初ばかりはレッスンに疲れたものです。シャワーよりも、しっかり湯船に浸かったほうがいいですよ」
「わ、私達、これから……お風呂で……」
幸子の隣で、金髪の少女が飛鳥に呟いた。
白坂小梅である。病的なまでに色白の肌は、飛鳥に病棟の無菌室を連想させた。トレーニングウェアの上からすっぽりと被ったパーカーは袖が余り、小梅の華奢な両腕を覆っていた。小梅は袖をぷらぷらさせながら、無邪気に笑った。「飛鳥さんも、一緒に……ど、どうかな?」
「重要なお話がありますので、お風呂のあとにでも」
「私達と、ト、トークしよう……」三人目の少女が、幸子と小梅の言葉に追随した。「フヒヒ」
純朴な星輝子の笑顔は、不器用であった。
飛鳥は当惑した。輝子の笑顔にではない。何故幸子達が飛鳥をこれほど熱心に誘うのか、分からなかったからである。重要な話というのも、まるで見当がなかった。「ふっふーん」怪訝な飛鳥など我関せずと、幸子がいつものように笑った。幸子の頬が、得意満面とばかりに緩んでいた。
「飛鳥さんにも参加していただきますよ!」幸子は、大得意である。「極秘会議です!」
「極秘」飛鳥は、幸子の言葉を反芻した。小梅と輝子のふわふわとした雰囲気と大仰な言葉はミスマッチで、締まらない。どうにもマヌケである。
飛鳥は脱力した。
○
大浴場は、男子禁制である。
○
幸子の他愛もない話はさながら源泉のように滾々として尽きず、飛鳥達は随分と長風呂になってしまった。「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」広々とした休憩所の隅にある大型の扇風機を前にして、呑気に宇宙人ごっこをする小梅と輝子の肌は、まるでぷくぷくとした達磨のようである。二人の他にも、幾許のアイドル達が休憩所で
「で」飛鳥は辟易とした。「これは、なに?」
「極秘会議です!」
さも当然であるとばかりに、幸子は堂々としていた。休憩所の一角は、「極秘会議」に参加するらしい大勢のアイドル達で雑然としていた。これでは「極秘」もクソもない。現に、彼女達の脇にあるベンチでは、真鍋いつきと斉藤洋子が呑気に談笑していたが、幸子には瑣事であるらしい。
幸子は「円卓」を前にして、深呼吸をした。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
「同胞の為ならば、これしきの勞は惜しまぬ」
薔薇色の双眸が、爛々としていた。神崎蘭子である。
第二回プロダクション総選挙で二代目シンデレラガールの座に耀いた彼女が、「極秘会議」に参加している。言動の所為で忘れてしまうが、総選挙で結果を残してきた幸子もまた、名実ともにトップアイドルの一人である。これの意味するものが分からないほど、飛鳥も馬鹿ではない。
飛鳥の口許が、ふと緩んだ。飛鳥は、笑っていた。
「前口上はええ。本題はなんじゃ」
「はい。先日、くるみさんと飛鳥さんが私達のライバルになり――」やや剣呑な村上巴にも、幸子は臆しなかった。話題にされた飛鳥とくるみに一同の視線が刺さった。くるみは、もう涙目である。「また、私達の仲間になりました」
「ざ、財前しゃんは?」泣きながら、くるみは萎縮していた。「どうして二人だけなの?」
「それは我々が中学生だからだ」白衣姿の池袋晶葉が、メガネのブリッジを人差指で直した。「我々は、プロダクションの次世代を担うのさ」
「じせだい?」
「ニュージェネレーション、トライアドプリムス」幸子の口調は、詩でも詠むかのようであった。「現在、プロダクションを担っているのはこのユニットに代表される、高校生の方々です。二、三年もすればボク達も高校生です」
「私は、凜さんと、タメ、だけど……」どうしてか、一人正座する輝子が、小梅の隣で呟いた。「フヒヒ」
「輝子さん!」
「フ、フヒ」
年長者であるはずの輝子だが、年下に叱責され、悄然とする姿に貫禄はまるでなかった。アイドルとしては幸子より新参であるのも事実だが、ヘヴィメタルアイドルらしからぬ姿である。
「輝子さんには、小梅さんとボクの他に、インディヴィジュアルズもあります」幸子は、輝子の両手をぎうと握った。「輝子さんも、ボク達と一緒に次世代を担うんです!」
「さ、幸子……」
「ヒ、ヒヒ、ヒャッハー!」輝子は、絶叫した。「JKどもをぶッ殺せー!」
「むーりぃー……」
「は、離せッ」
二人は困惑した。輝子の隣で座敷童子のようにちょこんとベンチに座っていた小梅が、羨ましいとばかりに瞳を煌々とさせていた。「なら、代わってくれよ!」美玲が、呑気な小梅に唸った。
「サチコ、つまりナターリア達はもっとがんばれってことかナ?」
インディヴィジュアルズの狂乱を尻目にしながら、ナターリアが律儀に挙手をした。
「まず、前提として」幸子は、まるで言葉を選ぶかのような口調であった。それがナターリアの為かどうか、飛鳥には判然としなかった。「高校生の方々がプロダクションを担っているというのも、ボク達が次世代を担うべきというのも、ボクや晶葉さんの持論でしかありません」
「うむ」巴が鷹揚に頷いた。「高校生じゃけぇトップアイドルになれるっちゅう道理はないの。楓や瑞樹姐さんがええ例じゃ」
「これも持論ですが――」
幸子は、唇をきゅっと結んだ。
言葉を反芻させるように。
言葉が形にならぬまま、ぽろぽろと失われないように。
「皆が努力していることは、皆が知っています。努力は、実を結んでいます。だから、最後に必要なものは、大切なものは、ボク達がどうしてアイドルをするのか、どうしてアイドルになったのか、心の底にある揺るがぬものです」
幸子の、あの小生意気な笑顔が、もうなかった。ちっぽけな少女の、等身大の姿があった。
飛鳥は、それが無性に眩しかった。
○
「幸子クンにしては」ふと生まれた、淡い夢のような静寂を、晶葉が破った。晶葉が、意地悪に笑った。「立派な演説だったな」
「どういう意味ですか!」
「じゃな」
ぷりぷりとする幸子を余所に、巴が満足したように頷いた。「ちょっと!」邪魔をされた幸子が叫んでいたが、巴はただただ儼としていた。
「最後に笑うんは、一本筋の通ったやつじゃ」
「うぎゃ」
巴の雄々しいまでの言葉に、矢口美羽が呻いた。アイドルとして
消沈する美羽の肩を、小柄な少女の掌が包むように掴んだ。
「恐れるな」南条光が、空いた拳をぐっと握った。「悩んでもいい。変わってもいい。止まってもいい。アタシ達がついている」
「悩ましきウェネトよ」蘭子が、微笑んだ。陶酔としていた。「我らとともに、いざヴァルハラへと赴かん」
「は、はい!」
美羽は、もはやむさ苦しいほどの熱血な光に圧倒され、ただ返事だけをした。
当然ながら、蘭子の言葉を欠片も理解できていなかった。
「よく分からないけど」片隅でハムスターのようにぷるぷるとしていたくるみが、鼻水をぐずぐずさせながら、にへらと笑った。「優しいひとがいっぱいで、くるみも、アイドル続けられるかも」
「くるみちゃんば泣いちょったら、ウチが笑わしちやるけん!」
臆病なくるみを安心させるように、上田鈴帆が破顔した。さすがにきぐるみはしていなかった。
「ま、まだボクの話が!」
幸子が、新人アイドルであるくるみを中心にして、「揺るがぬものとはなにか」と白熱する仲間達の下へと突撃していった。幸子としては、まだ話が終わっていなかったらしいが、小柄な彼女は旺然なアイドル達の荒波に軽々と撃沈させられた。「わぷ!」
「さ、幸子さん……大丈夫……?」
自慢のヘアスタイルをぐしゃぐしゃにしながら敗残してきた幸子を、小梅が心配した。「ふっふーん」幸子は髪を手櫛で直しながら、いつものように笑った。「皆さん、ボクの熱意に刺激を受けてしまったようですね!」
意地っぱりな幸子である。髪も、まだぴょこんぴょこんと強情に暴れていた。
「意見を戦わすことは、重要だからな!」
「元気なんが、一番たい!」
「帰りたいんですけど……」
静観していた飛鳥と小梅、敗れた幸子、戯れていたインディヴィジュアルズの輝子、美玲と乃々、さらに光と鈴帆が、仲間達の輪から、一歩離れていた。
光と鈴帆は、「揺るがぬもの」が特に明確な二人である。それはアイドルの卵でしかない飛鳥も知っていた。だが、ヒーローになりたい光と、皆を笑顔にさせたい鈴帆という、いかにも情熱的な二人が「真剣十代しゃべり場」に参加しないのが、飛鳥にはどうにも疑問であった。
怪訝な飛鳥に、二人が天真爛漫に笑った。
「ヒーローは、人々を影から守る存在だからさ!」
「人々を優しゅう照らす、太陽のようなアイドルに、ウチはなりたいんじゃ」
「別に、どうでもいいけどさ」
分かったような、分からないような飛鳥は、曖昧に返事をした。
「飛鳥さんは……どうしてアイドルに?」
「……」
小梅の言葉に、飛鳥に黙然とした。雪の結晶のようにどこまでも透明な小梅の瞳が、飛鳥を離さない。
飛鳥に、「揺るがぬもの」は、ある。だから、アイドルになった。
それは、いつか薄れてしまうものであった。思春期の心のようなものであった。シンデレラのようにガラスの靴も、残らない。
飛鳥は、それで納得していた。薄れてしまったときには、もう、アイドルなどしなければいいだけの話であった。
だが、飛鳥は移ろいでいた。
「秘密だよ」飛鳥は、笑った。「秘密は、オンナを綺麗にするのさ」
○
飛鳥は
飛鳥は
だから、アイドルになった。
だが、飛鳥は移ろいでいた。
「彼女達と、アイドルを続けるのも、いいかもしれないね」飛鳥は、彼女達を想う。愉快であった。「彼女達との未来は、どんな景色になるのかな」
飛鳥は、「明日」に心を躍らせていた。
「思春期の十四歳なんてそんなものだよ、プロデューサー」
○
「で、どうして飛鳥さんは全裸で寝ているのですか?」
「秘密はオンナを」
「いや、それはいいですから」
「飛鳥ちゃんが素直になるのは、
呑気な同僚達に、幸子は呆れた。
「フヒ、幸子はどうしてアイドルになったんだ……?」
「カワイイボクがアイドルになるのは、当然じゃないですか!」