これはギャグです。
ン年前に書いたもの発掘。
ばしゃばしゃと、水を弾く音は一体いつから続いているのだろう?汚い、汚いと何度もつぶやきながら、時折混じる嗚咽は泣いているのか。後ろ目に、小刻みに震える肩だけで推測してみるがまず間違いはないだろう。一人の男、と呼ぶには少しばかり頼りない感じさえする青年は幼く、弱い。
自分はその姿を少し離れたところで見ている。苛付いているのが自分でも解るくらいだ、その空気はとっくに伝わっているだろう、いつもは愚鈍でどうしようも無いくせに、そういう事にだけは敏感なのだから。
・・・気に入らない。もしかしたらただ、苛付いている自分を恐れているのでは、と思ってみた。それならばただ一人の同胞はおろおろと、更に苛立たせるだろう。それも気に入らない。彼の一手一挙動、すべてが癇に障る。腕を組んで、見下すようにはぁっとため息をついた。
「いつまでやっているつもりだ、うっとうしい」
「!あなたは平気なんですか?こんな事を続けて・・・」
「目的の為ならな。俺はいくらだって手を汚すさ。お前だって同じだろう?」
はっと、息をのむのが解る。何を今さら、とその横顔に送る視線に侮蔑を込めてみる。決めた事なんだ、心なんて物はあの空から落ちた日のうちに捨ててしまったじゃないか。だったら何を迷う?何をためらう。
もう一度息を吐いて、軽蔑を隠さずに名前を呼ぶと、やっと顔を見せる。うつむいて、泣いていた目の下が少し赤い。だがそれよりも、ぞくりとするほどの暗い瞳で睨まれて、思わず息をのむ。
「同じですよ。私だってあの時に決心は付いた、だからこそここまで来れた。だけど・・・私たちは一体何をやってるんです?数え切れないほどの同胞を殺して、魔人なんかにこびへつらって。時々たまらなくなるんです、ここに居る事が、同じ空気を吸っている事だって汚らわしいのに、平気な顔をして触れている事が」
じっと、暗い底なしの孔のような瞳を自身の手のひらに落とす。洗いすぎた手のひらは死者のように血の気が無く、それなのに痛々しいほどに赤い。青年はぼんやりと、取り付かれたようにつぶやいている。
「まだ取れない。汚い、魔人の匂い・・・」
それきりまた、何度も何度も、手がこすれて血が出てきても止めようとはしなかった。あんなに白く、しなやかだった手も今となってはかさかさと、しわ枯れた老人のようになってしまっている。だからと言って情けを掛けたわけじゃない。だけど・・・
思いつきの一言で彼は、それきり手袋を欠かさないようになった。
一日の仕事も終わり自室に戻るとまず、手袋を外すようにしている。そこで無防備にさらされた手を見て初めて、参謀という鎧を脱いで本当の自分に戻れた気がする。一日中日に当たらない手は、昔のように白く、しなやかに伸びている。どんなに姿が変わろうとも、どんなに心が醜くなろうとも、この手だけはあの場所に居た頃のまま、清いままで居られる。それだけを信じて、何とか今まで狂わずに生き延びる事が出来た。
それでも時々迷う事がある。例えばこんな、お湯を沸かし、自分の為だけにお茶を淹れる時間。誰も居ない部屋で一人、それを待つ時間はぼんやりと、しばしば思考の大海原に迷い込んでしまう。今日もまた・・・
お早く、どうぞ。
二人の王子に初めて出会ったとき、彼はそう言ってサフィルスに選択の余地を与えてくれた。時々考えてしまう、あの時の発言。一見、余裕の現れのように思えるけれど本当にそうだろうか。確かに、サフィルスはジェイドのように器用にふるまえないし、ジェイドならどちらの王子に付いたとしても少なくともサフィルスよりは上手くやるだろう。現にプラチナの見聞を聞く限り、悔しいけれどアレクよりもずっと王に相応しいし、きっとサフィルスにはプラチナは荷が重い。あの時は子どものお守りなんかは御免だと、あなたにはお似合いだと随分馬鹿にされた記憶があるが、もしかすると扱いやすそうな方を譲ってくれたのではないかと思う事がある。
実際、アレクは扱いやすい。姿も心も幼く、サフィルスがいないと何一つ満足にこなせない王子。真っ直ぐな瞳で、穢れなき心で、サフィルスを全身で必要としてくれるアレク王子。それは、ずっとこのままで・・・と迷ってしまうほどに満ち足りた毎日。ともすればあの空の上に居た頃よりも幸せなのではと思えてしまうくらいに、そんな筈は無いのに。
ケルトからポットにお湯を注ぐと、紅茶の香りが部屋いっぱいに広がる。一つずつ、手順を丁寧にたどって入れるのはこの時ばかり。急かされてばかりいると何かが落ちてしまうというもの、それにやっぱり手袋越しでは微妙な感覚が鈍ってくる。目を瞑り、茶葉が広がるまでの間を過ごす。この時の紅茶の味はアレクも知らない、サフィルスだけのもの。
優しいアレク。赤の王子はそれでもサフィルスの望むように成長している。本当はジェイドのように冷たく接するのが正しいのかも知れない。どうせ裏切るのだから、その時の傷が少しでも浅くて済むように、少しずつ傷付けて行くのか。けどそれは・・・出来そうにも無い。サフィルスはやっぱり、ジェイドの言うように弱いし、甘い。加えて誰よりも自己中心的だから、出来るだけ長く、幸せな夢を見ていたいと思っている。真っ直ぐで、純粋なままのアレクを覚えていたい、美しい思い出だけを胸に抱いて・・・だから心から優しくしたい、愛しく思っているのかもしれない。
その時。カタン、と音が聞こえたような気がしてサフィルスは現実へと引き戻される。気のせい?と思えなくも無いけれど、大方木の葉か何かが触れた程度なのだろうけど。いつもだったら気にも留めない、本当に何となく、部屋の外を覗いてみた。
「あ、サフィ・・・起こしちゃった?」
「王子・・・」
それはサフィルスにとっては全く予想もしていなかった。いつからそうして居たのか?済まなさそうに、しかし不安を隠しきれない表情のアレクがごく控えめに、佇んでいた。
「王子、眠れないんですか」
「ううん、ちょっと・・・目が覚めちゃっただけ。サフィはまだ起きてたの」
出来るだけ自然に。にっこりと笑顔を作るとアレクは、ほっとしたように少しだけ顔をほころばせてサフィルスの、今すぐにでも外に出られるような格好を見て、やっぱり控えめにつぶやいた。
「もうそろそろ、休もうとしていたんですけどね。・・・ホットミルクでもお作りしましょうか」
「この匂い・・・お茶、淹れてたの?おれ、それがいいな」
「でも、眠れなくなっちゃいますよ」
まさか、こんな事になろうとは。こういうハプニングは嫌いじゃない、自分のためだけに淹れた紅茶を他の誰かが飲むだなんて。しかもその誰かが他でもないアレクで、そっと促して部屋に入れる。背中に回した手をはっと振り返らなかったら、サフィルスは幸せな気分のままで居られたのに。
「サフィ、手袋・・・してないんだ」
「あ・・・」
思わず手が飛び退いて、アレクの眉が少しだけ悲しげに歪められる。
扉を開ける前に、どうしてはめ直さなかったのか。どうしてあんなにあからさまに、手を引いてしまったのか。この場だけでも、我慢するべきだったのに、気まずい空気が流れて、サフィルスは自分の迂闊さに気分が悪くなる。
「サフィ・・・」
「傷があるんです。・・・小さいものなんですけど、とても気にしていて。だから」
アレクが何かを言いかける前に言ってしまえば。それはあらかじめ用意していたもの、まさか本当に使う事になるとは。
「あまり、見られたくないんです」
「おれは・・・気にしないよ」
「私が気にするんです」
「命令だって言ったら」
「あなたはそんな事は言いません」
傷付けてまった。うつむいて、押し黙っている小さな体に、今は触れる資格も無い。納得はしていないだろう、する筈も無い。人一倍好奇心旺盛なアレクの事だ、いつもだったらこんな所で引き下がる事など決して無いのに。
ゆっくりと、手袋をはめ直した手でカップにアレクの分を注ぐ。熱いですからお気を付けて、と差し出すとおずおずと、両の手で暖を取るように包み込んで、何も言わずに口に運ぶ。
「・・・このお茶、いつもと違う?」
「?同じですよ」
「そうなの?いつもより美味しいや」
それは・・・
にっこりと笑ってみせるアレクに悪気は無いのだろうが、今のサフィルスには何より鋭い剣となる。自分しか大切じゃないから、アレクさえも大切には思っていないから。・・・アレクにさえも本音は見せない。アレクはこんなにもサフィルスを頼っていてくれているのに。それこそが裏切りに他ならないのではないか、自分はジェイドなんかよりよほど・・・
「飲み終わったら、早く帰ってくださいね。早く床に着いて、いい夢が見られるように」
「・・・うん」
顔が、見れない。
また少し、不安に歪められた顔なんて見たくないのに、優しくしたいのに、傷付けてばかりいる。
アレクはゆっくり、紅茶を飲み終えるとご馳走様と、静かに背中を向ける。一歩も動かない足は、やっぱり迷っているようで。
サフィルスはそっと、その肩に触れる。瞬間、アレクは振り向いてサフィルスにしがみついた。
「サフィはずっと、おれのそばにいてくれるよね?居なくなったりしないよね」
「王子・・・?」
「夢を見たんだ、とても・・・恐い夢」
ずきりと、胸に重くのしかかる。アレクは時々妙に聡い。そんな素振りは今まで一度だって、見せた事も無いのに。
じっと、アレクはサフィルスの顔を見上げてくる。今にも不安に押し潰されそうな顔をして、サフィルスが答えるのを待っている。その答えすらも・・・この子どもは知っているかもしれない。
「私は・・・私はずっと、アレク王子と一緒ですよ」
ほっと、ほころんだ顔はまだ、不安を拭いきれたとは言いがたいが。それでもいくらか安心したのだろう、もう一度頭を、サフィルスに預けてきた。
嘘ばかりが、上手くなる。
アレクを自室まで送り届けた後、すっかり冷めてしまった紅茶は捨ててしまった。今はもう、カップを洗っているのか手を執拗に洗っているのかも解らない。アレクは確実に、感づいている。それでもなお、信じようとしてくれている。それならば・・・
利用させてもらうまで。今はまだ遠い、けれど確実に近付いているその日まで。せめてその時が来るまでは。
少しぐらいわがまま言っても良いですよね。