「京ちゃん? なんで麻雀牌なんて持ってるの?」
火曜の昼。
京太郎は咲、和、優希と一緒に昼食をとっている。
「ほんとだじぇ。もしかしてそれが昼飯か?」
「食うわけねえだろ!」
本日の弁当はサンドイッチ。
京太郎は左手でツナサンドを食べ、右手に9索を一枚持っていた。
「お行儀が悪いですよ、須賀君」
そんな京太郎に女子達から疑問が飛ぶ。
和に至っては注意される始末だ。
「あーいや、俺にもよく分かんねえんだけど、いつも牌触ってろって師匠の命令でさ……」
「「「師匠?」」」
歯切れの悪い口調に、さらに疑問が返ってくる。
しかし、京太郎にもこれになんの意味があるのか分からない。
昨夜の事を思い出しながら、京太郎はサンドイッチを頬張った。
『坊主。毎日ちゃんと牌に触れてるのか?』
昨日普通の一軒家へ案内された後、手積みの卓で師との初めての対局が終わり、そう言われたのを反芻する。
『は? いや、部活で触ってますし、ここでもこうして触ってますけど?』
『そうじゃない。飯を食ってる時も、勉強してる時でも、常に牌には触れていろ』
『なんすかそれ!? なんか意味あるんですか!?』
『初心者には特に効果がある』
『……えーと、おまじない的な意味ですかね?』
『分かっていないようだな、坊主。牌の扱いに慣れていない奴が、どうやって牌に応えてもらうつもりなんだ?』
『え? は?』
『触れていなくても牌の形や重さをイメージできるようになれ。実際に持っているかのようになるまでな』
『は、はあ……』
『いいから牌が完全に馴染むまでやれ。これは命令だ』
『わ、分かりました』
だが、やはりよく分からない。
結構高齢だし、もしやボケちゃってんだろうか? と失礼な事を考えてしまう。
「師匠ってなに? 麻雀の?」
「まあな。昨日買いだしの時に運命的な出会いをしてさ、拝み倒して弟子にしてもらったんだ」
どんなに頭をひねっても分からない京太郎は、モシャモシャと咀嚼しながら咲の疑問に答えた。
「……おい犬。まさかキレーなお姉さんに無理矢理強要したんじゃないだろうな?」
「サイテーですね、須賀君」
「違ぇーよ! 見た目がちょっと恐いお爺さんだよ! 俺の事どんな目で見てんだ!」
日々の信用がいかに大事なのかがよく分かる会話だ。
「それで、そのお爺さんが牌握ってろって言ったの?」
「そうなんだよ。何の意味あるんだこれ?」
「お前の師匠の考えをなんでこっちに聞くんだじぇ……」
「お年寄りらしいので、少しボケてしまっているのでは?」
何気にひどい和。
考える事が京太郎と一緒だと知ったらどうなるのだろうか。
「だよなぁ……」
う~んと、京太郎だけでなく女子三人も首を捻る。
「あっ、もしかして和ちゃんのエトペンみたいなものかな?」
「「「エトペン?」」」
そこで咲が閃いた。
「こう、和ちゃんの『のどっちモード』みたいな効果があるとか……」
「おおっなるほど! 俺が『京ちゃんモード』を発動してパワーアップするわけか!」
京太郎はポンと右拳を左手に乗せて頷く。
「あるわけねえじょ」
「そんなオカルトありえません」
「そうだよね。自分で言ってて無理がありすぎると思ったよ」
「少しは夢を見させろよ!」
しかし、さすがにそんな都合のいい話などこの世にはない。
「まあいいさ。なんか意味あんだろ。なくても別に損になるわけじゃねえし」
「お前の中ではそうなんだろうな、お前の中では」
「牌は雑菌だらけだから食事中はやめた方がいいよ」
「お行儀が悪いのは損ですよ、須賀君」
「お前ら本当に俺の友達なのか!?」
こんなやり取りをしながら昼食タイムは過ぎていった。
そして放課後。
部活の時間だ。
「今日もいっぱい打とうね、京ちゃん」
「よし、かかってこい京太郎!」
「染谷部長、お先にどうぞ。ここのところあまり打っていませんでしたし」
「ほうじゃの。ならお言葉に甘えるとするか」
今日はまこも最初から参加の、清澄フルメンバーが揃っていた。
「すまんみんな。染谷先輩もすみません。俺しばらくみんなと打てないんだよ」
「「「「は?」」」」
しかし、京太郎は両手を合わせて謝る。
己の師から、『自分が長野にいる間は誰とも対局するな』と言われている。
強くなる為に必要な事だと言われれば従うしかない。
「どういう事じゃ?」
「そうだじぇ! お前が一番打たなきゃ駄目だろーが!」
「どこか怪我でもされたんですか?」
突然の事に、まこ、優希、和が聞く。
「もしかして、師匠って人の指示?」
昼間の事を覚えていた咲は正解に辿り着いていた。
このへんはさすが幼馴染みと言ったところだろうか。
「そうなんだよ。師匠が今対局しても無駄だって言ってさあ」
「師匠?」
「ああ、あれかぁ……」
「お昼にそんな事を言ってましたね」
一緒に昼を取っていないまこはともかく、優希と和も理由に思い至る。
「なんじゃ師匠って?」
みんなについていけないまこは素直に口にした。
「実は昨日師匠ができまして」
と、京太郎は昼と同じ説明。
まこは京太郎の説明を聞き、なるほどのうと頷くが、難しい表情で京太郎へ視線を飛ばす。
「その師匠とやらが言わんとする事は分かる。じゃが、麻雀なんぞ打ってなんぼじゃろ? 強くなるまで打つなっちゅうんはのう……」
「染谷先輩の言う通りだじぇ。麻雀は負けて強くなる。打って打って打ちまくるしかねえじょ」
「私もそう思いますね。もちろんセオリーを覚える事は重要ですが、明確な定跡というものがありません。経験こそが力になります」
まこの苦い顔に、優希と和も追随してきた。
京太郎はしどろもどろになりながらも、
「あーうん……、でも、俺ってまだその段階にもいってないらしいんだけど……」
そう返す。
なにせプロの指導だ。
どちらを信用するかと問われれば、どうしても師の言葉を信じてしまう。
これは仲間達との信頼とは別次元の話である。
「ねえ、京ちゃん。その師匠って麻雀強い人なの?」
そんな中、咲が表情を消して聞いてきた。
幼馴染みの京太郎には分かる。
これは咲が怒っている時の顔だ。
「そりゃ強いよ。メチャクチャ強い……と思う」
慌てて肯定するも、そういや師匠がどれくらい強いのかは知らねえな……、と語尾が弱くなってしまった。
「と思う?」
「いやいや強い! そりゃあもう超強い! アホみたいに強いよ!」
ピクリと眉の跳ね上がった咲の表情に、京太郎は手を振り回して言い直すしかない。
まあシニアリーグとはいえ相手はプロだ。ここにいる誰よりも強いだろう。きっと。多分。
そんな事を思いながら肯定するのだが、師の大沼が聞いたらぶん殴られるに違いない。
麻雀部に所属していながら往年のスタープレイヤーを知らない京太郎は、確実にアホだった。
「ふーん、どんな人? そんなに強いなら私も指導してもらおうかな?」
「え?」
そして咲の言葉に困った。
プロだと言ってもいいのだろうか?
昨夜、無償でプロが教えるのはまずい事だと言っていた。
京太郎は一回の指導料として460円分のお酒を渡しているが、そんなもの建前で実質無償と変わるまい。
そこまで大げさになるとも思えないが、少しでも師に迷惑がかかるような事態は避けたほうがいいだろう。
「な、内緒だ!」
だから勢いで隠す事に決めた。
「なんで?」
「お、俺だけの師匠だからだ!」
「別に紹介するくらい構わないでしょ?」
「ひ、秘密特訓で強くなるつもりだからな! みんなより強くなる為に俺以外を会わせるわけにはいかない!」
「へえ?」
「な、なんだよ? 本当だぞ?」
咲の目が据わってきた事に焦る。
「……京ちゃん」
「な、なんすか?」
何をそんなに怒っているのか。
普段はボケボケしてるのに、年に数回こうなる事がある。
「お昼に優希ちゃんが言ってた事が当たってるわけじゃないんだよね?」
「昼?」
そう言われ、京太郎は昼の記憶を巡らせた。
”まさかキレーなお姉さんに無理矢理強要したんじゃないだろうな?”
そして思い至る。
こいつまさか、俺が本当に犯罪を犯していると思ってんのか? と、イラッときた。
「ああ、そう言う事か」
「……?」
だからニヤリと笑ってからかってみる。
「なんだ、お前やきもち焼いてるのか。素直にそう言えよ」
「そんなわけないじゃん!」
「そんなオカルトありえません」
咲が顔を真っ赤にして怒りを爆発させるが、こっちの方が精神的に楽だった。
どこからか第三者の声も聞こえてきたが、それは無視していいだろう。
「言っとくけど、ほんとにお爺さんだぞ? なんか療養の為にこっちにきたんだと」
「療養?」
「おう。そんな大したもんでもないらしいんで、来週には九州へ帰るらしい」
「九州の人なんだ」
「十日後……つーか水曜に帰るらしいから九日間は対局すんなってよ。だからもうあと八日だな」
「八日? ずっとじゃなくて? 強くならないと打てないなら一生打てないわけじゃないの?」
「当たり前だろ! ずっと打てないなんて俺が嫌だよ!? というか強くなるから! お前なに失礼な事言ってんの!?」
「なーんだ。それを先に言ってよ。それなら京ちゃんの好きにすればいいと思うよ」
どうやら京太郎と麻雀が打てなくなると思いこんで怒ったらしい。
麻雀部の仲間として大事に想ってくれてるようだと胸が暖かくなる。
「なーんだ、じゃねえよ!」
だがそれはそれ、これはこれだ。
京太郎は素早く咲の後ろに回り込むと、右手で頭を掴み、左手の指で頬をグリグリする。
「さらっと毒を吐くな! しかもいつも俺限定で! 咲のくせに!」
「あううう、やめてよ京ちゃん……」
涙目で嫌がるが容赦はしない。
最近調子に乗ってるようなので、ここらで本来の力関係を思い出させなければならないだろう。
そんなじゃれつく二人を見る外野は。
「咲でも怒る事はあるんじゃのう」
「まあ八日間なら好きにさせるじぇ。縛り付けても犬は逃げ出すからな」
「ああ、あれうらやましいです。でも私のキャラではないのでできる気がしません」
こちらも好き勝手な事を言っていた。
清澄は今日も平和である。
※
部活で本やパソコンを使い牌効率や捨て牌読みの勉強をし、お茶くみしたり雑用したりお茶くみしたりお茶くみした後、師の元へ向かう。
昨夜師との対局で二時間近くかかった為に、昨日と同じくみんなより早めにあがらせてもらった。
契約通り自販機でお酒を二本買った京太郎は、17:30には師と卓を囲んでいた。
「師匠?」
「なんだ?」
ジャラジャラと牌をかき混ぜつつ、京太郎は愚痴を零す。
「昨日も思いましたけど、なんで手積みなんですか? 時間がかかる上に超面倒くさいんすけど?」
そう、京太郎への指導は、ちゃぶ台の上に麻雀マットを敷き、自身の手で山を積むところから始まるのだ。
「しかも全部俺が積むとかどんな拷問っすか……。師匠も少しは手伝ってくださいよ」
さらに四人分。
京太郎は手積みなどほとんどしたことがなかった。これでは時間が相当かかって当然である。
「つべこべ言うな。これも牌に慣れる為には必要な事だと理解しろ」
師は弟子が買ってきた酒を呑みながらスルメをかじる。
どうやら京太郎が山を積んでる間はお酒タイムらしい。
「最終目標は40秒以内だ、さっさと積め」
「一山40秒っすか。それは相当きついっすね」
今の京太郎では、一山17とん34枚を積むのに一分はかかる。
自動卓とネット麻雀に慣れた現代っ子にはきつい注文だろう。
だが。
「面白い冗談だな。馬鹿な事を言ってないで四山全て40秒で積め」
「んな無茶な!? そんなのできるわけないでしょう!」
72歳の師の教えは現代っ子の甘えなど簡単に叩き壊すのだ。
「いいか、見ていろ」
京太郎の悲鳴を聞いた師は、まだ洗牌中の卓上へと両手をかざす。
そしてジャラリと牌をかき混ぜた瞬間、一気に手元へ集め出した。
「うおおっ!?」
京太郎が驚く。
なぜなら2、3枚、あるいは4、5枚の牌が手の中で並びながら集まるからだ。
「なにそれ手品!?」
あっという間に二列34枚の牌を集めると、全くの無音で重ね上げる。
そして少し斜めにしながら山を前へと押し出した。
この間五秒とかかってはいまい。
「牌が馴染むとはこういう事だ。たとえ目を瞑っていても同じ事ができる」
傍らに置いてあったお盆からカップ酒を掴み、そのままチビリと一口。
どう考えても裏の世界が似合う男だった。
「ス、スゲー……、なんでそんな事できるんすか? コツとかあります?」
「そんなものはない。坊主はとにかく牌に触れろ、それが最初の一歩だ。さあ、とっとと積め」
「う、うす!」
京太郎は全速力で残り山を積もうとするも、一枚一枚裏返しながらなのでやはり時間がかかる。
三山積むのに三分近くかかっていた。
「うおぉぉ……肩が重いぃ……」
「安心しろ。三日もあれば慣れる」
牌を積むなど所詮はキャッチボールにすぎない。
クク、と笑う師は、指導を開始した。
「昨日の対局で坊主の力は分かった。本当にまるっきりの初心者だな」
昨夜も同じように四人分の山を積ませた後、一人十八順の二人麻雀を行った。
ただし、京太郎の手牌は開いた状態でだ。
それを半荘分もやれば、プロには京太郎の地力や思考、そして嗜好なども丸裸にできる。
「いやまあ、その通りっすけどね……」
丸裸にされた方は苦い顔だ。
「まあ、残り八日もあれば中級者にはなれるだろう」
「そうなんすか!?」
「変な癖もないのは幸いだった。清澄でもそこそこ打てるようになる筈だ」
「マジで!? さすが師匠! 一生ついていきまっす!」
「ついてくるな」
プロの、というより大沼秋一郎の力は凄いらしい。
たった九日間で咲達に追いつかせてくれるとは、その指導力は尋常ではないだろう。
「基本的にこれからは四人打ちをする」
チビリと酒を呑んだ師は、スルメを咥えながら言った。
「四人? ここには俺と師匠しかいませんけど?」
「ああ、お前が三人分打て」
「は?」
「俺は一人分の手牌。坊主は三人分の手牌を見ながら打つ」
「そんなの俺が超有利なんですけど……」
その通り。三倍もの情報量があれば、さすがにプロでも勝つのは厳しい。
「ただし、絶対に俺へ振り込むな。振り込んだ時点でその局はやり直しだ」
「やり直しっすか!?」
しかしその条件だといかに上手くオリられるかが重要になる。
「まあ、今の坊主じゃ百年打っても終わらんからな。制限時間は設けてやる。牌を積む時間も合わせて二時間だ」
「二時間……」
「できれば、坊主は一度も振り込む事なく終局を目指せ。こいつは防御中心の読みの練習、まずは読みと押し引きの感覚を覚えろ」
「分かりました! お願いします!」
元気よく気合を入れた京太郎。
サイコロを振り、起家が師で始まった。東一局の親は当然己の師匠だ。
京太郎は師の対面に座りながら、自身の上家と下家の配牌もとっていく。
「い、意外と大変っすね、これ……」
「無理な体勢だからな、腰と肩と腕に負担がかかる。だが、それもじき慣れる。弱音を垂れる前に早く理牌しろ」
「うっす」
しかし、三人分はかなりの重労働だった。
「(えーっと? 俺が四シャンテン、上家が三シャンテン、下家も四シャンテン……であってるか?)」
既に親の師は第一打を切り終え、カップ酒を片手にスルメへと手を伸ばしている。
京太郎は上家の分の第一ツモを引くと字牌切り、続く自身と下家もツモっては字牌を切った。
「(やっぱ三人分の手牌が見えてると楽だな。最初から役牌とか切りやすいし、死に面子とかも予測しやすいし)」
こんなので本当に練習になるのかと思いつつ、二順目。下家が一枚持っている東を河へ捨てる。
「(俺と下家が一枚ずつ持ってるし、師匠が持ってる確率は低いよな? なら、師匠が二枚重ねる前にさっさと切り飛ばそう)」
しかしそれは甘い考えだった。
「ポン」
親の師が鳴く。
「(やべっ、最初から二枚持ってたのかよ!)」
これで師は場風自風のダブ東を手に入れた。
そしてその時、不思議な事も同時に起きた。
「「「あれ? ここどこだ?」」」
気がつくと、いつのまにか荒野に立っている。
「「「うおっ!? なんで俺が二人も増えてんの!?」」」
しかも目の前に自分が二人増殖しているというおまけつきだ。
「慌てるな、ここは深層意識の世界だ」
「「「師匠!?」」」
さらに少し離れた場所に師までいるではないか。
「実力者が対局するとこういう事がよくある」
「「「どういう事っすか!?」」」
京太郎(達)は混乱するが、師は構わず続けた。
「お前達は、俺から見た下家、対面、上家の坊主だ」
「「「はあ?」」」
「ここでは麻雀ではなく普通に戦闘が行われると覚えておけ。まあ、覚えたところで現実の自意識には知覚できんがな」
「「「意味が分からない!?」」」
そりゃ分からないだろう。
「つまり、ここでの攻防は現実の麻雀と連動しているという事だ。いや、現実の麻雀がここでの攻防と連動しているが正しいか?」
「「「なにそのオカルト!?」」」
咲‐Saki‐世界ならではの世界観だ。
「おい、いつまでも呆けてないでかかってこい。時間は有限だ」
「「「本気っすか!?」」」
「こないならこちらからいくぞ」
と、師が口にした瞬間、既に目の前にいた。
「「「ッ!?」」」
驚きの声を上げる間もなく、師の右手の甲がスパンと京太郎の鼻っ柱を打ちすえる。
「ロン」
「マジでぇっ!? もう張ってたんすか!?」
僅か五順。師から見て下家が九萬を捨てた瞬間発声が飛んだ。
「ダブ東のみ。親で2900だ。この東一局はやり直し。そら、とっとと山を積み直せ」
「アガるの早過ぎですよ、師匠!」
「運も良かったが、今のは最速を目指したからな」
「さすがにあんな速度じゃ読みもくそもないんですが!?」
と、現実で泣きごとを吐いている裏では、
「痛でででで!」
「「は、速すぎて全然見えねえ!?」」
「なら今度は少し速度を落としてやる。……おい、いつまで痛がってるつもりだ、さっさと立て」
「は、鼻血っす! 師匠、鼻血でました!」
「知った事か。俺は坊主が無抵抗だろうが殴るぞ。痛い思いをしたくなければ必死で躱せ。いくぞ」
「「「ひぃぃぃぃぃぃ! 助けてぇぇぇぇぇ!」」」
同じように泣きごとを吐いていた。
「ロン」
「うそぉ!?」
「ロン」
「まだ八順目っすよ!?」
「ロン」
「なんでそれ単騎なんすか!?」
「ロン」
「六面待ちとか初めてみたんですけど!?」
「ロン」
「どうして溢れ牌が分かんの!?」
「ロン」
「ぐはぁっ……」
「ロン」
「うごごごご……」
「ロン」
「麻雀とはなんだったのか……」
「ロン」
「もうやめて……」
「ロン」
「ロン」
「ロン」
師が狂ったようにアガリ続け、そして二時間経過。
「結局東一で終了か。まあ最初はこんなものだろう」
「……………………」
京太郎は卓に突っ伏していた。
「大丈夫か、坊主」
「……こ、心が死にそうです。あと、肩と腰と腕が死にました……」
ピクリともしないが、どうやら生きているようである。
しかし心と体、両方の疲労で動けないらしい。
「ならそのまま聞け」
「ういっす……」
師は助けるでもなく、二本目のカップ酒の残りを飲み干す。
「スジやカベ、それらを組み合わせた完全安牌の仕組みは理解できたな?」
「なんとなくは……」
「あとは残り枚数を逆算して相手の手牌を想定しろ」
「逆算して想定……」
「麻雀は役がなければアガれん事も忘れるな」
「役……」
「まずは役を絞り込み、それを元に逆算した牌を重ねていけ」
「最初は役……次に逆算……」
「想定しきれん事などいくらでもあるが、全く読めない時は潔くオリろ。たとえ役満を張っていてもだ」
「無理っす……。役満アガった事ないんで、テンパッたら全ツッパっす……」
「クク、まあそれもいい。選択するのは坊主自身だからな」
ほとんど睡眠学習の域だが、師は弟子に叩き込んでいった。
「そろそろ帰れ。遊びの時間は終わりだ。俺は飯を食ってから他チームの牌譜研究で忙しい」
「ういっす……」
のろのろと起き上がった京太郎は、全身をパキパキと鳴らしながら玄関へ向かった。
その動きはもはやゾンビだ。
「ありがとうございました、師匠……」
「ああ。夜道は車に気をつけろ。ドブに落ちたりするなよ? 早く帰って飯を食って風呂に入って寝ろ。学校の勉強は後で取り戻せ」
「はい……、また明日きます……」
「そうか。あと七日、どれだけ伸びるかは坊主しだいだ」
「ういっす……」
フラフラになりながら出ていった京太郎の姿に、
「さて、明日もくるだけの根性があの坊主にあるか?」
師が人相悪く笑う。
療養中の暇つぶしには十分だった。
※
「ど、どうしたの、京ちゃん? 大丈夫?」
次の日の朝、登校した京太郎は机の上で死んでいた。
「……両腕が筋肉痛になって肩と腰がパンパン。全然大丈夫じゃない」
たった二時間。
されど濃密な二時間でボロボロにされ、一晩経っても疲労は抜けない。
「なんでそんな事になったのさ……」
しかし、心配よりも呆れを向けてくる咲の態度に、まだ幾分の余裕はあるのだろう。
「師匠と半荘打ったらこうなった」
「麻雀打ってそうなったの? 何を言ってるか分からないんだけど?」
テーブル競技でここまで肉体を消耗するとは何事か。
咲には京太郎が何を言っているのかさっぱりだった。
「しかも東一局しかない半荘だった」
「余計に分からないよ。東一局でトんだって意味?」
「いや、東一局を二時間打った」
「どうやったらそんな事できたの? それもう違う競技だよ」
「自分で何を言っているのか俺にも分かんねえけど、多分麻雀だった。ちょっと自信ないけど、麻雀だったらいいなとは思う」
もちろん、当の本人にだってさっぱりである。
残り一週間。
京太郎は学校で体力を回復させつつ、師の元へ向かう。
これが延々続くとなれば現代っ子には耐えられなかったであろうが、期間はあと一週間と短い。
合宿みたいなものだ、秘密特訓のようなものだ、と歯を食いしばった。
『御無礼。12000。これで終了ですね』
『う~ん……やられたじぇ~……』
『京ちゃん強すぎるよぉ……』
『さすが京太郎。個人戦全国一位は伊達ではないのう』
『素敵! 抱いてください京太郎君!』
『素敵! 私も抱きなさい京太郎!』
今の京太郎を支えているのは単(ひとえ)に、男子高校生の果てなき欲望だったのは言うまでもない。
そして地獄特訓は続く。
「「「ギャーーーーー!」」」
「毎回毎回手を目いっぱい広げてどうする。少しは安牌を残す努力をしろ」
意外と根性あるなと、師匠に勘違いされた日も。
「「「イヤーーーーー!」」」
「見ろ見ろ見ろ、じっと目を凝らして俺の手牌を見ろ。どこから何が出てきたのか、どこに入ったのかを決して見逃すな」
もう駄目だと思っているのに、師からさらに無茶振りされた日も。
「「「キャーーーーー!」」」
「バタバタと逃げ回るな。下がる時はもっとうまく跳べ、見苦しい」
鬼の様な師がニタリと追い回してきた日も、毎日毎日必死に頑張る。
その甲斐あってか、
「ほお……」
「「「ぶはあ! ぶはあ! ぶはあ!」」」
師と出会って五日、本格的な指導を受けて四日目の金曜の夜、京太郎はようやく時間内に終局を迎える事に成功した。
「思ったより早かったな」
「「「ぶはあ! ぶはあ! ぶはあ!」」」
ほとんどの局がノーテン親流れ。
しかし、満身創痍ながらも三位一体で師の攻撃から逃れ続けた京太郎の瞳には、碧の火がチロチロと浮かんでいた。
「喜べ坊主。坊主にもたった一つだけ優れているものがあった」
「「「ぶはあ! ぶはあ! ぶはあ!」」」
もはや足腰立たず荒野でへたり込んだ京太郎へ、師が顎を撫でながら祝辞を述べる。
「目だ」
「「「ぶはあ! ぶはあ! ぶはあ!」」」
師を囲むようにへたっているものの、京太郎は師への視線を切る事はない。何度も何度も口酸っぱく言われたからだ。
「そのつもりで鍛えてはみたが、存外いい感じに仕上がっている」
「「「ぶはあ! ぶはあ! ぶはあ!」」」
碧が揺らめくその両眼は、きっとこれからの京太郎を支える力となるに違いない。
「たった一つだが坊主は武器を手に入れた。もう初心者ではあるまいよ」
「「「ぶはあ! ぶはあ! ぶはあ!」」」
荒い呼吸はまるで治まらなかったが、京太郎の顔には笑みが広がっていった。
※
対局後、京太郎は牌を集めて片付けの準備をする。
若い肉体故に順応力は抜群。既に体の痛み等はない。
「いいか、坊主。麻雀でアガるには『見切る』事が重要だ」
湿らせた布で洗牌(せんぱい)していると、突然師の言葉が飛んできた。
「見切る?」
京太郎は牌を磨きながらきょとんとした顔を向ける。
「たとえばアガリ牌が全て河に出ている状況で、坊主はそこで待つか?」
「いやいやいや、そんな事すんのウチの部長くらいっすよ」
久が使う『悪待ち』は、もはや驚天動地の技なのだ。
「そんな馬鹿が近くにいるのか……? まあいい、どうせおかしな感覚持ちだろう。坊主の参考にはならん」
「あー、たしかにそうですね。部長の打ち方は俺には理解不能です」
師弟揃って呆れ顔である。
「話を戻すぞ? この『見切る』とは、なにも実際に目で確認した事に関してだけではない」
「……?」
「手牌読み、山読み、心理読み。さらには流れ読みや感覚読み等の第六感にも適応される」
「はい? 俺そんなのできないっすよ? しかも第六感って……、超能力じゃあるまいし」
何言ってんだこの師匠……、と師の頭を心配する弟子は、そのありがたみを欠片も分かっていなかった。
「ああ。さすがにそこまで期待してはいない。ただ、アガる為にはアガれる待ちにしろという事だ」
「はあ? どういう意味っすか? アガるにはアガれる待ちにしろって……それ当たり前の事ですよね?」
「その当たり前の事ができてない人間が多すぎる。坊主に至っては、わざとアガれない待ちを選んでいるとしか思えんな」
「えええぇぇぇ……」
師は師で酷い事を平気で言うので、どちらにせよどっちもどっちという事だろう。
「打ち続けていればいつかは分かるようになる」
「そうなんすか?」
「明日か、それとも50年後かは知らんがな」
「期間がアバウトすぎる!?」
ニヤリと笑う師の表情に、弟子は悲鳴を上げるしかなかった。
微妙な顔をしながら牌を片付ける。
「じゃあ師匠、帰りますね。ありがとうございました」
「ああ。気をつけて帰れ」
しかし、京太郎の心は沈んではいない。
なぜなら今日、師から初心者脱出を告げられたからだ。
自身もようやく中級者の仲間入り。
師の説明では、高校生の中に上級者などほとんどいないという話だった。
上級に手が届いているのはトッププレイヤーの中のさらに一部のみであり、それ以外は団子状態らしい。
『プロからすれば中級者など皆五十歩百歩。誰が勝つのかと問われても、”誰にでもチャンスはある”と答える事しかできんな』
つまり、咲達が上級者なのかは分からないが、さすがに全員そうだというわけではないだろう。
「もうそろそろ、打ってもいいんじゃないか……?」
帰り道。
星が降りそうなあぜ道でポツリと呟く。
自身も中級者ならば、勝てるチャンスはあるという事だ。
師には、自身が九州に帰るまでは対局するなと言われている。
しかし、今日褒められた言葉は『意外に早かった』だ。
「たった五日で初心者脱出できたし、もしかして俺才能あったりして」
むふふふふと、鼻を膨らませながら京太郎は妄想する。
頭の中では、水着姿の和が笑顔でアイスクリームを食べさせてくれていた。
というか全員が水着姿で順番待ちだった。
「同じ土俵なら勝負は時の運。そうだよ、たとえ勝てなくても勝負にはなる筈だ。……つーか勝ったりしてな!」
明日の部活。師との出会いから五日後の土曜。
京太郎は対局する事に決めた。
インターハイを制した、日本の頂点である清澄麻雀部の女子メンバー達と。
「あいつらきっと驚くぞ、俺スッゲー強くなったし。ヤバイ、俺の妄想が現実になる日も近いぜ!」
崩壊の時は近い。