二月一四日、バレンタインデー。
もともとは聖人バレンタインが処刑された日であり、男女の愛の告白に絡むお祭りなどではない。
極論から言えばバレンタインという人物の実像すら怪しいもので、キリスト教とは一切の関わりがないとされる。
まして、女性から男性にチョコレートを贈る日とされているのは、この地球広しと言えども、菓子メーカーの宣伝に踊らされている日本くらいのものだ。
そんな浮わついた時期に嬉々としてチョコレートを買い、男性に渡すという真似は自分に縁がない。
警察の中でもロイミュードに絡んだ犯罪を専門に担当する特状課に勤務する詩島霧子は、以前からそう思っていた。
少なくともこれまでは。
だが、今年は少しばかり事情が違う。
自分もチョコを準備した方がいいのではないかと思ったのは、二月一三日に同じ特状課に勤務する同僚である西城究が発した、何気ない一言が発端であった。
「へぇ。今年も友チョコ、自分チョコともに売れ行き好調かぁ!しかも、プレゼント用よりも高級な奴ばっかりが……」
彼は無意識に分厚い黒縁の眼鏡を直しつつ、涎を垂らしそうな顔をしている。覗き込む先は、オフィスにあるデスクに据え付けられた専用のモニターだ。
現在は昼休みが終わる直前で、オフィスでは昼食を終えた特状課のメンバーが思い思いに寛いでいた。新聞を読んでいた現八郎や資料の整理を早々に始めていた霧子、何に使うか見当もつかない機械をデスクの上に据え付けてうっとりと眺めていたりんな、食後の飴をぼんやりと堪能していた進ノ介までが究のデスクに集まってくる。
「友チョコ?」
「バレンタインデーに、女の子が女友達にあげるためのチョコ。自分チョコは、まさしく自分が食べるためのチョコなんだよ。それに、男から女の子にあげる逆チョコなんてのもあるみたいだよ?まったく、何てけしからんチョコばっかりなんだ!」
聞き慣れない単語を繰り返す進ノ介に、究がモニターから目を離さず説明する。
彼が操るマウスは画面にならんだチョコレートの画像を次々と開いており、新しくウィンドウが開く度に、まるで宝石のようにディスプレイされたカカオ色のボンボンやケーキが映し出される。
「ほぉ!どれもこれも、みんないい値段じゃねえか。俺の若い頃は、こんなに旨そうなのはなかったってのに」
進ノ介の横で、現八郎が目を丸くした。
確かに驚くべきはその値段で、平均すると金額は一箱三千円が相場といったところであろうか。中には一粒五百円のトリュフもあり、この時期ならではのまさしく青天井とも言うべき価格であった。
「やーん、みんな美味しそうねぇ。私もどれか一つ、自分チョコを買っちゃおうかな?」
蕩けそうな笑顔でチョコレートの一群を見つめる白衣姿のりんなに、進ノ介が視線を向ける。
「あれ?りんなさん、誰かあげる人は……いててっ!」
口で突っ込みかけた若き刑事は、現八郎から肘鉄という物理的な突っ込みを受けて言葉を途切れさせた。しかしりんなは白衣の襟を直しながら、横目で二人の同僚男性をじろりと睨む。
「何か言った?」
「いやいやいや!べ、別に何も」
みぞおちを痛そうにさする進ノ介を尻目に、現八郎が顔の前で片手をぶんぶん振って否定した。
りんなを何故か気に入っている彼は、このマッド・サイエンティスト的な一面を時折覗かせる性格の恐ろしさを、特状課の誰よりも知っていると言って過言はない。
「先生からチョコを貰える幸福者は、特状課の中の誰になるのか。当日が楽しみですよ!そいつはきっと、世界一の果報者でしょうなあ。何せ、こんな美人から受け取れるんだから」
額の冷や汗をさりげなく拭いながら思いついた話にしては、自然な方向転換だろう。
思いがけず現八郎に持ち上げられたりんなは、機嫌のいい笑顔でモニターから顔を上げて声を弾ませた。
「あら、私はみんなに何かあげるつもりではいるわよ。現さんも、期待して待っててね」
「おぉ、本当ですか?よっしゃあ!」
今度は本当に嬉しそうに、現八がガッツポーズを取る。
「おっ!バレンタインデーの僕の運勢は、家族以外からもチョコレートがもらえそうな予感、と出てますよ!」
究のデスクで騒ぐ一同につられたのであろう、一人自席で携帯電話をいじっていた責任者の本願寺が高いテンションで告げた。
本願寺はこの特状課の課長だが、基本的に自分で動くという真似をしない。
とは言え、部下のために陰でこっそりと舞台を整えて物事を運ばせる手腕は確実で、皆から一目置かれている人物である。
惜しむらくは未だに使い続けているガラケーの占いにはまっており、それを信じてしまう年配男性というイメージが固まってしまっているところだろう。きっと今日も自分の星座のラッキーカラーを調べ、ネクタイの色を合わせているに違いない。
進ノ介の隣でモニターを眺めていた霧子が、呆れ半分に言った。
「課長は奥さんに、娘さんもいらっしゃるでしょう。それだけで十分じゃありませんか?」
「いやいやぁ、僕は甘い物大好きですから。りんなちゃんや霧子ちゃんからも、大歓迎ですよ」
対する本願寺課長には全く悪気はないようで、曇りのない笑顔で頷きつつ女性二人の顔を交互に見やる。
「勿論、課長の分もちゃんと考えてますから。楽しみにしといてくださいね!」
りんながにっこり笑ってゆるく敬礼すると、本願寺もうんうん、待っているよと顔に書いてあるのがわかる表情で何度も頷いていた。
「甘い物が好き、ですか……」
二人の軽いやりとりをー目にして呟いた霧子の大きな黒い瞳が、自然と隣の進ノ介に向く。
飴が好物で今も口にしている進ノ介も、甘い物に目がないはずだ。
進ノ介が気に入っている飴がミルク風味の「ひとやすみるく」だということは知っていたが、いつもいつも同じ味で飽きないのだろうか?それとも普段が刑事に仮面ライダーと二足の草鞋で超多忙であるが故、敢えて違うものをという発想に至らないのだろうか?
「ん?何だ霧子」
すぐ側に立つ小柄な、整った顔立ちの女性から熱い視線を送られている進ノ介が、不思議そうに小首を傾げてくる。
「べ、別に何でもありません!もうお昼休みも終わりですし、私は仕事に戻ります」
怒ったように否定する霧子の口調は、慌てていて速くなっている。
自席に踵を返した彼女の頬がやや上気していたことは、きっと誰も気づかなかったに違いなかった。
二月一三日の勤務はロイミュードの襲撃もなく、珍しく平穏に終わっていた。
だから霧子は定時で職場を出られていたが、それはそれで困った事態に陥る羽目になっていた。
いつもなら深夜も珍しくない帰宅途中の道では様々なショップが宵闇に明るい光を投げ掛けており、明日のバレンタイデーを狙った商戦の追い込みをかけていることを、どうしても意識させられる。
お洒落な雑貨屋では男性向けのファッショングッズや酒類のディスプレイも多いが、その中でも圧倒的に多いのはやはりチョコレートであった。
霧子とて女性の身であるから、華やかにラッピングされたチョコレートや可愛らしいギフトには、やはり目を奪われてしまう。
進ノ介が仮面ライダーとなってからは一緒にいる時間が多くなってきていたが、どうしても彼に頼り、助けられることは多い。霧子自身では対等の関係にありたいと思っていても、ロイミュードに真っ向から戦いを挑めるのは仮面ライダーだけである故、悔しいがそれは仕方のないことだった。
同僚である進ノ介は霧子に危険が迫れば身体を張って守ってくれるし、命を救って貰ったことも一度や二度ではない。
だが、霧子個人から進ノ介に対して感謝の意をはっきりと伝えたことはなかった。
日頃から積み重ねられた「ありがとう」という気持ちを伝えるのに、バレンタインデーはいい機会ではないのだろうか?
気がつけば、彼女はふらりと雑貨屋の一つに入ってしまっていた。
店の中は甘い香りで溢れ、バレンタインデーイブとなる今夜は特に大勢の客で賑わっていた。霧子はむせ返るような熱気に紛れて、自身も若い女性の集団の一部となる。
意中の男性に贈るためのチョコレートやステーショナリーグッズを物色するコートの集団から商品棚の前へと出ると、未知の世界が広がっていた。
眼前に迫り切っているのは、バレンタイン特設コーナーのチョコレート売り場であった。一個入りのボンボンから小さなホールケーキ、大勢の人に配るための大きな箱に入った詰め合わせなど、様々な種類のラッピングが並んでいる。その合間に見本のチョコレートが展示されており、全てが特別感という化粧を施されて極上の味であることをアピールしていた。
甘くほろ苦いチョコレートの見事なディスプレイにうっとりとしかけたところで、霧子ははっと我に返った。
「私が泊さんのためにって、そんな訳ありませんから!ここは、私が食べる自分チョコを買うために入るんです!」
小さく呟き自分を無理矢理納得させると、ラフだが地味目の私服姿の霧子はチョコレートの海へと自身をダイブさせる。カカオの芳醇な香りがたちどころに脳の芯まで入り込んでいき、彼女はあっという間に食欲に身を任せようという気になっていた。
自然と、口許もほころんでくる。
しかしそれでも部分的に冷静さが働くのは、警察官ならではと言ったところだろうか。
職場である運転免許試験場の売店にあるチョコレートはミルク味ばかりで、ビターやスイートといった甘さを控えたものにはあまりお目にかかれない。甘いのも悪くはないが、たまにはカカオそのものの味と香りを楽しめるものも悪くない。
と、自分の好みと普段の環境とを分析しながらチョコレートを選ぶ霧子の白い指先が、ふと止まった。
「あっ、これ……」
思わず彼女がこぼして手に取ったのは、小さな車の形をしたチョコレートが様々な外国車の外見をプリントしたアルミ箔に包まれ、クリアケースに整然と並べられたものだった。ご丁寧に、「BMW、ベンツ、アルファロメオ、エリーゼなど、憧れの外車をチョコレートにしました。車好きの彼に!」というポップまでついている。
まさしく、進ノ介のためにあると言うべき一品だろう。
『えっ、これを俺に?霧子、ありがとう!』
弾けそうな笑顔で喜び、礼の言葉を投げかけてくる同僚刑事の姿を霧子が思い描いた時である。
つい一時間ほど前も耳にした、女性の声が聴覚に引っ掛かった。
「あらぁ、霧子ちゃんじゃないの」
「きゃっ!」
黒のコートを纏ったりんなに軽く肩を叩かれて、霧子はうっかり車のチョコレートを落としそうになってしまっていた。年下の婦警が慌てる様は殆ど気にせず、りんなは言葉を続ける。
「珍しいわね、こんなところで会うなんて」
「り、りんなさんこそ……寄り道ですか?」
「まあね。昼間にあんな話してたから、何だか無性にチョコが食べたくなっちゃって」
言いながら、りんなの瞳はもう数々のチョコレートへ向けられていた。
昼間に究のデスクで見た逸品ほどではないが、バレンタイン特別仕様のチョコレートはやはり、どんな年代の女性も虜にする魔力を持っている。どれを選ぶか決めあぐねているらしいりんなは、微笑みを湛えて霧子の方を見た。
「ね、霧子ちゃんはどれが美味しそうだと思う?」
「え?えっと、私は……それとかどうでしょう?」
いきなり話を振られ、手にしっかりと持った車チョコの透明な箱を隠すこともせずに、霧子は手近な箱を指し示してしまった。当然、りんながそれを見逃してくれるはずはない。
「あら?それ……あ~、ひょっとして泊くんの?」
「あ!い、いえ……これは、その……」
やや意地の悪い笑顔になったりんなが、焦って繋ぎの話題を見つけられなくなっている霧子の顔を覗き込んできた。
「そうよねぇ。泊くんは車好きだから、こんなのを貰ったらきっと喜ぶわよ。霧子ちゃん、結構いいところ突いてくるじゃない」
りんなは霧子の顔と車チョコレートの箱を見比べながら、にやにや笑うのを止められないでいる。
クリアケースに収められた小さな車のチョコレートは、まるでシフトカーたちがびっしりと並んでいるかのようだ。その上でりんなに茶化されると、この場にいないシフトカーたちまでが一緒になってからかってきていると錯覚してしまうほどだ。
霧子の頬が赤く染まり、耳までが一気に上気する。
「こ、これっ、泊さん……そんな、そんなわけないじゃないですか!」
どもって咄嗟に言葉が出ず、霧子は大声でぴしゃりと否定してしまった。
この店にいることすらいたたまれなくなった彼女が次に下した判断は、恐らくもっとも適切であろう行動を素早く取るというものーー即ち、撤退であった。
「では、これで失礼いたします!」
「ちょ、ちょっと霧子ちゃん?」
車チョコを棚に戻した霧子が、敬礼しそうな勢いでお辞儀をしたのちに早足で去っていくのを、りんなは止められない。自分と同じ若い女性の人垣をかきわけて進む霧子の背中を、りんなは唖然として見送っていた。
「……行っちゃった。ちょっとからかい過ぎたかな?」
最早特状課では公認の関係と言うべきか、周囲が面白がって盛り上げようとしている泊との仲をこの時期にネタにするのは、流石にやり過ぎだっただろうか。
--でもまあ、霧子ちゃんがまんざらでもなさそうなのはみんな知ってるし。いいわよね。
思い直したりんなの視線は、再びもうショップに山と飾られたチョコレートに向いていた。
明日はあの二人の間でも面白いことが起きそうだという野次馬的な期待にも、特状課が誇る才女たる彼女の胸は躍っている。
だが、一方の霧子は店から百メートルは離れた繁華街の片隅で一人、溜め息をついていた。
「どうしよう。この辺りでチョコ売ってるお店なんて、心当たりがない……今日はもう一三日だし」
ぼやく彼女の現在位置は、既に賑やかなエリアからかなり離れている。すぐ側にはスーパーマーケットがあるくらいで、先にりんなと鉢合わせたようなお洒落な雰囲気のショップは見当たらない。
駆け足に近い足取りでここまで来たため、霧子の息は軽く上がっていた。今からまた戻ってショップを漁るとしても、また知り合いにでも会ったらどう言い訳すればいいのかわからない。
「……仕方ない。こうなったら、最終手段を!」
乱れた呼吸を整えた霧子が、きっと顔を上げる。
彼女が迫力のある視線で睨みつける先には、冬の暗闇で燦然とした光に包まれるスーパーマーケットがあった。
大小のボール、泡立て器、ゴム製のへら。
飾りとして使うカラフルな砂糖菓子、字が書けるチョコペン、製菓用チョコレート、淡いブルーのラッピング用紙にリボン。
そして、大量に売られていた「初めての手作りチョコ」なるレシピ本。
自宅のキッチンで霧子が広げたのは、ついさっきスーパーで買い込んできたチョコレート作りの材料一式である。飾り気のないエプロンをつけて戦闘態勢を整えた彼女は、目の前に並んだモノをぐるりと見渡して力強く頷いた。
「よしっ!」
一言からも感じさせる気合いは十分、というべきであろう。
霧子が選択した最終手段は、自らの手でチョコレートを作ることであった。
ただ問題なのは普段からの家事すら苦手で、お菓子類など一度も作ったことがないという事実である。専門家からの見地でも、洋菓子の中でも特にチョコレートは難しいと言うのだから、無謀な挑戦にも程があると言って差し支えはない。
過剰とも言えるやる気を全身から発している霧子は、まず製菓用のチョコレートと包丁を取り上げた。その上で確認するのは、レシピ本の「基本の型抜きチョコレートの作り方」のページである。
「ええと、まずはチョコを紙の上で細かく刻んで……」
内容を反芻しながら、彼女はまな板の上で板上のチョコレートをざくざくと刻んでいく。
「あ痛っ!」
十数秒と経たないうちに、小さな悲鳴が上がった。
弾かれるように手を上げた霧子の指には小さな切り傷ができ、うっすらと血が滲んでいる。
不器用な女のお約束とも言うべき事態に溜め息をついて、彼女は包丁で切ってしまった指をくわえながら絆創膏を漁り出した。
指の手当てを終えてからは慎重にチョコレートを刻み、何とか全てを刻んでボールにいれることができたが、まだまだ戦いは続く。
「えっと、次はこれを溶かすっと……じゃあ、電子レンジで」
軽くレシピの項目を見た霧子は、耐熱性ガラスのボールを電子レンジに入れてタイマーをセットした。これさえ終われば、後は型に流して固まるのを待ち、メッセージを入れればいいだけだ。
本当はチョコレートの温度調節が必要なようだが、初めて作るのだからそこまでしなくても大丈夫だろう。
チョコレートを刻んで溶かすだけという作業に大きな達成感を覚えている霧子が、電子レンジを眺めてうんうんと頷く。
「ただいまー!姉ちゃん、今日の夕飯何?」
そこへ玄関のドアが開き、聞き慣れた若い男の声が飛び込んできた。外出していた弟の剛が帰ってきたのだ。
彼の存在を今の今まで、綺麗さっぱり忘れていた霧子は慌てた。
「ご、剛!ちょっと待っ……」
急いで電子レンジのドアへ手を伸ばすと同時に、靴を脱いで上がってきた剛がキッチンへひょっこり姿を現す。
赤いラインが入った白いジャケット姿の剛は、狭い空間いっぱいに漂っている甘い香りに早速気づいたようだった。
「お、この香りは……ひょっとしてチョコ作ってた?はっはーん、さては進兄ちゃんの……」
「そんなわけないでしょ。すぐ夕飯の支度するから、あんたは向こうで待ってなさい!」
りんなと同じように邪推してにやつく弟の言葉を制し、霧子はキッチンの入口に立ち塞がった。そのまま彼の広い背中をぐいぐい押し、外へと追い出そうとする。
剛も姉には無理に逆らおうとせず、にやけながらもリビングへ出ようとした。
「わかったわかった、わかったから……ってあれ、何か焦げ臭くね?」
剛が鼻をひくつかせて眉根を寄せると、霧子の顔色が変わる。
そう言えば、チョコレートの具体的な溶かし方まではきちんと見ていなかったのだ!
「あーっ!」
霧子の悲鳴に近い叫びがキッチンに響き、あたふたと電子レンジのドアが開けられる。
中は焦げて炭と化したチョコレートが、ガラスのボールにこびりついている悲惨な状況となっていた。もくもくとした煙がレンジから溢れてくる様は、なかなか目にくるものがある。
「あちゃあ……」
まさか失敗すると思っていなかったらしい姉の背後から惨状を目にし、剛が呟いた。しかし、霧子は呆然としたまま固まってしまっているようだ。
慰めるように、剛が霧子の小さな肩にぽんと手を置いた。
「……姉ちゃん、今日は外食にしようよ。俺、それぐらいおごるからさ」
「な、何言ってるの!こんなのすぐ終わらせるから、待ってなさいって!」
弟から憐れむような目を向けられて、やっと霧子が自分を取り戻す。
小柄な姉の顔は真っ赤になっていて、この失敗を挽回しようとしているのが嫌でも伝わってくるぐらいだ。こうなるともう、意地でも何とかしようとすることは間違いない。
頑固な意思を汲んだ弟が渋々ながらも引っ込んでいくのを尻目に、霧子は改めてチョコレートのレシピを確認した。刻んだチョコレートを溶かすのに電子レンジを使う場合のタイマーはせいぜい一分程度で、それも注意して様子を見ねばならないことが書いてある。
そして本来なら湯煎して溶かすのが普通であることが、次のページにちゃんと載っていた。
多分、湯煎なら失敗はないだろう。
気を取り直した霧子は早速ガスコンロで小さめの鍋に湯を沸かし、その上に新たに刻んだチョコレートを入れたボールを置いた。
「そうそう、本当はこうやって湯煎で……」
溶けてきたチョコレートをゴムべらでかき混ぜようと、安心して呟いた霧子がボールの縁を掴む。
「熱っ!」
再びの叫び声が、彼女の口から漏れた。熱されたガラスのボールに触るのに、ミトンで手をガードすることを失念していたのだ。
姉の声に驚いた剛がリビングから飛んできて、心配そうに声をかける。
「おいおい、大丈夫かよ。手伝おうか?」
「いいって言ってるでしょ!」
ほぼ反射的に弟からの申し出を断った霧子は、ミトンを両手につけて今一度戦いの場へと戻っていった。その背を見つめる剛の心に、一抹の不安がよぎる。
「あ……ひょっとして俺、この後飯の代わりに毒味に延々付き合わされるってこと?」
「剛、何か言った?」
「い、いや、何も!」
思わず口にした小声の本音を聞きつけた姉の一睨みに、剛は急いで応えた。
仮面ライダーマッハとしてロイミュードと戦う彼も、姉の鋭い視線には神経が勝てないのだ。
「怖ぇ。あんな殺気立った姉ちゃん、久しぶりに見た……」
そしてそんな姉は、職務中とは違った迫力に満ちている。これに反撃を試みるのは愚かなことだと即座に判断したのは、剛が幼い頃から培ってきた生存本能があるからこそ為せる技であろう。
それからも溶かしたチョコレートをこぼしたり、まだ完全に固まっていないチョコレートを型から外そうとして形を崩してしまったり、調理器具を洗った際の水がチョコレートに飛んだりと、色々なトラブルに見舞われながらも、最終的には何とか形にすることができていた。
見かねた剛が、途中からかなり手伝ってくれたことも大きかったが。
「よし、これで後はメッセージを書けば終わりね」
「けど、こんなにたくさんどうするんだよ?」
霧子が仕上げ用の飾りとチョコペンを手にする傍らで、彼女のエプロンを窮屈そうにつけた剛が大量に並んだチョコレートの群れを眺めている。形は正方形やハート、丸形など色々あるが、一番多いのは丸形だろうか。霧子によれば丸形は「タイヤをイメージした」ものらしいが、それらしく見せる工夫が何もされていないのだから、本当にただの円形チョコレートにしか見えない。
ただしどれも大きさは一五センチ程度はあるため、メッセージを入れるには十分だろう。
しかしこのうち進之介に渡すのは一つだけなのだから、残りは全て剛が片づけることになる。暫くはチョコレートの香りが身体の中にまで染みつきそうだと、今から愚痴を言いたくなる量だ。
剛の声に出さないぼやきを知らない霧子は、白のチョコペンでメッセージを口に出しながら書き始めていた。
「拝啓、泊様……」
「いやいやいや、挨拶とかいいから。手紙じゃないんだからさ」
早くも剛が霧子を止めにかかる。
バレンタインなどに今まで縁がなかった姉は、こんなメッセージの内容にも当然疎いのだ。
姉に言い返される前に、剛がメッセージを書きかけたチョコレートを素早く入れ換える。不服そうにしながらも、霧子はメッセージを書き直すことにしたようだった。
「それなら……ふつつか者ですが、どうかこれからもよろしくお願い致します……っと」
「それ、プロポーズの返事じゃん!いくら何でもまだ早いって」
「えっ……!」
剛から二度目の指摘を受け、霧子の動きが止まる。
本人は不肖の身ではあるが、くらいのつもりでいるのだろうが、世間一般からすれば結婚の申し出に応える時の常套句と取られてもおかしくない。
余計な誤解を招く表現であることに気づいた霧子が、今度は無言で自らチョコレートを別のものに取り替える。その手が震え気味になっているように見えたのは、剛の気のせいではないだろう。
「そっそそそそ、それじゃあ……日頃は大変なご無礼をいたし、お詫び申し上げます。一度御礼を兼ねてきちんと話し合いをさせてい頂きたく候。立会人は……」
「果たし状かよ!」
動揺で安定しない小声で、姉はこれまた勘違いを誘う一文を発していた。
弟からの容赦ない突っ込みが重なり、霧子は困り顔で頭を抱えんばかりである。
「ああもう、こんなの書いたことがないから!」
彼女の嘆きは、仕事では決して見せない心からのものであった。まさか自分が手先も心もここまで不器用だとは、露ほどにも思っていなかったのだ。
「こりゃあ、まだまだかかるかな……いいよ、俺も姉ちゃんの気が済むまで付き合うからさ」
姉の様子に呆れている剛ではあったが、進ノ介に対して一生懸命になっているのを放ってはおけない。
現在時刻は夜の十時で、朝まではたっぷりと時間がある。幸いと言うべきか、まだ十枚以上のチョコレートも残っていた。
普段は向こう見ずで言い出したら絶対に自分を曲げないのが、霧子の弟の剛だ。
彼の頑固さが、失敗ばかり繰り返している今の霧子には暖かく、そして頼もしく感じられる。
姉と弟の長く、甘いチョコレートの香りが満ちるキッチンで過ごす試練の夜は、始まったばかりであった。
「ふわあ……おはよう、ございます……」
小さな欠伸を含んだ挨拶とともに霧子が特状課オフィスのドアをくぐってきたのは、二月一四日の朝である。
昨晩チョコレート作りを終えたのが深夜の三時頃だったから、睡眠は三時間程度だっただろうか。夜勤も長時間勤務にも慣れているとは言え、普段しないことを集中してやったのだから、流石に疲れが抜けていない。
彼女が気だるさを漂わせてデスクにつくと、珍しく先に出勤してきていた進ノ介が声をかけてきた。
「ん、どうした霧子?お前が朝から欠伸するなんて珍しいな。寝不足なのか?」
「ええ、ちょっと……」
心なしか心配そうにしている進ノ介の顔をちらりと見てから、霧子はすぐに自席の正面へと向き直る。出来うる限り普通にしていようと思っても、バレンタインデーの今日ばかりはどうしても意識してしまうのだ。
彼に渡すためのチョコレートはしっかりと通勤用のバッグに入れてきたが、流石にこのオフィス、皆の前で堂々と渡すわけにはいかない。
いや、むしろ二人きりの時を狙って渡したりすれば、逆に誤解を招いてしまいかねないのだろうか。公衆の面前でやった方が、やましさはないとをはっきり断言していると言えるのではないか?
一人悶々とする霧子は、無意識のうちに進ノ介の顔をじっと見つめてしまっていたらしかった。
突き刺さるような視線を感じ、進ノ介が不安げに言う。
「って……俺、何かした?」
「いえ別に」
彼のことで頭がいっっぱいだった霧子は自身の行動にやっと気づき、素っ気なく返事を返しておく。
反面、彼女は内心大慌てだった。乱れてもいない帽子と髪を整えて誤魔化すが、現八郎や本願寺のような現職の警察官が見れば動揺しまくっているのがばればれだろう。
この二人が雑談に興じていたことは、不幸中の幸いであった。幸運なことに究も調べ物に夢中らしく、こちらのことに気づいていない。
霧子がほっと胸を撫で下ろしたところで、オフィスのドアが勢いよく開けられる。入ってきたのは、課のメンバーの中で最後に出勤してきたりんなであった。
「みんな、おっはよ!泊くん、はいこれ!」
コートも脱がずに進ノ介のデスクに来たりんなが差し出したのは、光沢のあるしっかりしたブランドのペーパーバッグだ。立派な見た目からして、中身が高価そうなチョコレートであることは間違いない。
「おぉー、りんなさんから俺に?やったぁ!」
小さいがシックで凝ったギフトをうきうきと受け取る進ノ介は、いい笑顔で声も喜びに弾ませている。勿論すぐ側にいる霧子の顔がこわばっているのに気もつかず、である。
しかし、とすぐに霧子は思い直した。
りんなは昨日も皆にチョコレートを準備すると話していたのだから、特状課の男性全員に同じものを持ってきてくれていると考えるのが正解だろう。ならば、自分の機嫌が悪くなるのはお門違いだ。
それでも落ち着かなくなっている心を鎮めようと、霧子はデスクに置いてあった湯飲みを取り上げて一口すすった。
進ノ介は無神経にもまだ嬉しそうな様子でいるが、素直な彼の姿にりんなも微笑みつつ続けていた。
「それ、美味しいって評判があるブランドのチョコなの。味わって食べてね」
「勿論です、ゆっくりと頂きます。ありがとうございます!」
そこで、はたと進ノ介が歳上の才女に問いかける。
「あ。ってことは、まさかの本命ですか?」
「やーねー、そういうのは霧子ちゃんから貰うもんでしょ」
りんなから何の前振りもなく、実にさらりと言い放たれ、霧子はお茶を飲み下すと同時に息を吸うという状態に陥った。当然、お茶が気管に入り込んで激しく噎せることとなる。
お茶を吹き出さないだけましだったが、霧子は帽子が黒い髪から滑り落ちてしまうほど、咳の連打に見舞われていた。
「お、おい、大丈夫か?」
心配した現八郎が課長との雑談を切り上げ、霧子の背中をさすってやる。涙目になっている霧子は咳のもとで何も言えなかったが、手を軽く挙げて大丈夫と意思表示をしておいた。
顔を真っ赤にしていた霧子の咳が治まったところで、やはり咳き込んでいた彼女を気にしていた進ノ介の方に現八郎が振り返る。
「先生からのチョコなんだ、泊は大事に食えよ!……ところで先生、俺には?」
「そうですよー、僕にも!」
「僕僕、僕も!」
ベテラン刑事が後半の方は何とも媚びた調子になると、便乗した本願寺や究までがうるさく挙手してくる。
りんなは面倒がる素振りも見せず、もう一つ手に持っていた洒落た感じのショップ袋に手を突っ込んだ。そのまま皆のデスクを周り、きちんと人数分用意していたらしいギフトを渡していく。
「はいはい、みんなの分もちゃーんとあるわよー」
「ありがとうございます!……あのこれ、どう見ても泊のと違いません?」
三人の男性陣はにこにこしてりんなからの贈り物を受け取っていたが、最後に手渡された現八郎が目を丸くした。本願寺、究、現八郎が手にしているのは十円で売っているチョコレート菓子を五個ほど詰めた袋が一つだけで、進ノ介が手にしている大きな箱とは、どう見ても同じではない。
しかし、りんなはえっへんと胸を張った。
「泊くんには誰かいい人紹介してもらうんだから、大サービスしてるの。あ、お返しは五倍くらいでいいから」
「えぇえー……」
越えられない壁が両者を隔てていることに気づかされ、三名の男性が肩を落とす。ただし、もらったチョコレートの値段は恐らく百円もしないであろうことから、たとえ本当に五倍返しするとしても、懐は痛くも痒くもないのが救いだろうか。
りんなからのバレンタインチョコが賄賂だったことを知った進ノ介はほっとしたような、残念なような複雑な心境だ。
「あ、そういうこと……って、これの五倍?」
ずっしりとした箱の重みが、今更ながらにその値段を伝えてくるかのような気がする。改めてパッケージを見直す若き刑事には、正確な金額を調べて一ヵ月後にお返しの準備をするという任務が新たに発生していた。
特状課の朝のドタバタ劇から三時間が経ち、既に昼休みとなっている。
二月一四日は半分が終わろうとしているのに、霧子は未だに進ノ介へチョコレートを渡すタイミングを掴めないままでいた。
「もう、あんな空気じゃ渡せるわけが……」
コントの如き雰囲気を引っ張っていたオフィスで、手作りのチョコレートなど取り出せない。もし霧子がそんなものを準備していたと知れれば、周囲の皆が盛り上がりまくるのは目に見えている。彼らに悪気はなくとも、自分のことを中心的な話題に上げられるのが苦手な霧子は大いに困るのだ。
全体をブルーでラッピングした箱を入れたバッグを下げて、霧子は溜息をついた。
特状課オフィスのある運転免許試験場も、今は休憩時間の最中だ。来所する人々も職員も皆ランチに出ているため、彼女がとぼとぼと歩いている廊下も人の姿はまばらだった。
「あ……」
ふと俯かせていた顔を上げると、足早に去ろうとしているスーツ姿の広い背中が視界に入った。試験場内の食堂で昼食を済ませ、オフィスに戻ろうとしている進ノ介であった。
これを渡すなら今しかない!
絶好の機会を逃すまいと、霧子は小走りになって相手の名前を口にした。
「と、泊さん!」
「おう霧子、どうした?」
立ち止まって振り向いた進ノ介は、至って普通だ。
対する霧子は、後ろに隠したチョコレートの包みを前に出そうとする手が、動くことを拒否している。愛の告白をするでもなく、ただ自分で作ったチョコレートを渡すというだけだというのに、何故身体が思い通りにならないのか!
もどかしさに、彼女は先に口で用件を伝えようとした。
「あっ、あの……バ、ババ、バ」
が、緊張のせいで言おうとしていることがすっぽり抜けてしまったのと、空気の塊が喉を塞いで声が出なくなるという非常事態が重なり、うまく話すことができない。
頭の中で繰り返されるのが「バレンタインデー」の一単語だけという、情けないことになっていた。
「ん?バ?パ?」
ありえないほどどもる霧子の言葉を聞き取るために、進ノ介が長身とも言える背をかがめてくる。
急接近してきた顔に、霧子は意を決して腹に力を込めた。
そして、言い放った。
「パ、パトロールに行きませんか?ここ何日か、ロイミュードにあまり動きがないのが気になりますから」
「ああ、そうだな。じゃあ俺、ちょっと書類の処理だけ済ませてくるから。先にトライドロンのところまで行っててくれるか?」
いつもと変わらない用事を伝えてきた霧子を疑いもせず、進ノ介は頷いてから踵を返してオフィスへと向かっていった。
「は、はい……」
短い返事を返した後の相棒は、呆然として佇むのみだ。
一体、自分は何をやっているのだろう。
いくら「テンパった」状態だったとは言え、またとないチャンスをドブに捨てるような真似をするなど、冷静沈着な判断力を誇る自分に対する信頼が揺らぐようだった。こんな失態を演じるなど、詩島霧子のキャラクターではない!
「ああもう!バカですか、私は!」
心の中でついたつもりの悪態が、薄くリップをつけた唇からこぼれる。
試験場内が再び混雑し始める直前の今の時間、廊下に残された彼女の憎めない一言を聞いた者はいなかった。
咄嗟にパトロールという癖のような単語を使ってしまった霧子だったが、よく考えてみれば、その出発点であるドライブピットは進ノ介と二人きりになれる可能性が高い場所だ。
結果的にはオーライ、と言えるだろう。
一通りの準備を済ませた霧子がドライブピットに入ると人の姿はなく、隅にあるデスクで進ノ介を待つこととなった。ただし誰もいないとは言っても、トライドロンと「ベルトさん」が据えられているクレイドルは常時ドライブピットに置かれているため、霧子一人というわけではない。
椅子に座った彼女がぼんやりとしていると、何とはなしにベルトが呟いた。
「ふむ……今日は二月一四日、バレンタインデーか」
「世間ではそのようですね」
なるべく素っ気無く返した霧子ではあったが、内心は焦っていた。
もしかすると、バッグに隠し持っているチョコレートのことにベルトが勘付いたのだろうか?
いや、そんなはずはない。いくら気心が知れた彼とは言え人を勝手にスキャンするほど不躾ではないし、ましてわざわざ手作りのものを用意しているなど知る由もないのだ。
しかしベルトまでがバレンタインデーのことを意識しているとなると、そもそもここに来た意味すらなくなってしまうのではないか?
霧子が一人腕組みして考えているところへ、再びベルトから核心を突いた言葉が飛んでくる。
「霧子、君は進ノ介にチョコを渡さないのか?」
「ベルトさんまで、何言ってるんですか!」
霧子が反射的に返したのは、語気も態度も荒いものであった。
予想外だったのか、ベルトが顔代わりの画面表示に困った表情を浮かべる。
「お、おっと……何をそんなに怒っているんだ?」
「怒ってなんかいませんから」
本当は怒っているのではなく落ち着かなくて困っているのだが、そこまで教える義務はない。今度こそこのチョコレートをちゃんと渡そうと思うほど、緊張は強くなる一方だったのだ。
合格発表の通知を今か今かと待つ受験生の頃に戻った心境でいる彼女の聴覚に、ドライブピットのドアが開く音が届く。
すぐさま、霧子は腰を浮かせた。
「泊さん?」
が、視界に入ってきたのは期待した人物ではなかった。
「俺だよ、俺」
「……剛」
短く明るい色の髪にラフな私服と、どこか人を食ったような特徴ある話し方。
警察関係者ではないのにもかかわらずここに入ってきたのは、霧子の弟である剛だった。
はっきりとわかる落胆ぶりをがっくりと肩を落とした様子で示している姉に、彼は少しだけ不満げに言った。
「何だよ、進兄ちゃんじゃないのがそんなに残念?」
「べ、別に私は……」
そっぽを向いて否定する霧子の側まで来ると、剛はバッグの口から覗いているチョコレートの包みを目ざとく見つけた。やっぱりなと言いたげに、彼は姉の白い顔と待機状態にある包みを交互に見比べる。
「その調子じゃ、やっぱりまだ渡せてないんだな。姉ちゃん、いざとなると奥手だからなぁ。けど兄ちゃんはちょっとやそっとのことじゃあブレない朴念仁だし、手強いと思うよ?」
遠慮というものを知らない弟の話ぶりに、霧子が口を尖らせる。
「誤解しないで。これは単に、泊さんには日頃お世話になってるから……」
「俺がどうしたって?」
降って湧いたような進ノ介の声に、霧子は椅子から軽く十センチは飛び上がっただろうか。
いつの間にか、進ノ介が姉弟のすぐ横に控えていた。
「とっ、泊さん?いつからそこに!」
「ついさっきだけど……あ。これ、ここに置かせてもらってもいいか?」
椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった霧子を尻目に、進ノ介がベルトに確認を取ろうとする。
「ああ、構わないが……随分と大荷物なんだな?」
応えたベルトの声が怪訝そうになるのも、無理はない。ドライブピットにはいつも手ぶらで来ることが多い進ノ介が、一抱えはある大きな紙袋を下げていたのだ。
「うん。今日ってバレンタインデーだろ?これだけもらったんだけど……これさ、席に置いとくにはちょっと邪魔だし。流石の俺も、一度にこの量を食べ切るのは無理だから」
進ノ介が重そうに持ってきた紙袋を椅子の上に置き、口を開ける。
すると、色とりどりのラッピングに彩られた数々のチョコレートとおぼしき大小の包みが姿を現した。多分義理チョコなのだろうが、中には部署の女性全員から連名で贈られている、なかなかに立派なものもある。
「こんなに?すっげー!進兄ちゃん、モテるんだな」
「うん、この成果は私にもちょっと意外だ」
チョコレートの群れを一目見た剛が感嘆の声を上げ、ベルトも驚きと呆れが混ざった感想を漏らしていた。
が、見た目は何の反応も示していない人物が、この空間にただ一人だけいた。
「……あ。や、やっべ!」
ぞくりとする気配を敏感に感じ取った剛が、びくっと身体を硬直させる。血を分けた肉親であるだけに霧子の恐ろしさをわかっている剛は、この手のことにてんで鈍い進ノ介に比べれば、危機回避能力は格段に高いのだ。
厚い氷壁のごとく冷たく重い気配に恐る恐る剛が振り返ると、その先には完全に目が据わった霧子が佇んでいた。
恐らく無意識に取り出したのだろう、手作りチョコレートの可愛らしいラッピングを丁寧に両手で持っているのだから、怖さが却って倍増するというものだ。
「泊さん……」
暗い迫力をはらんだ一言が、姉の唇から漏れる。
その先を続けさせまいと、剛は必死に明るい口調を取り繕った。
「ね、姉ちゃん!そのチョコ、昨日折角手作りしたんだろ?ほら!進兄ちゃんに早く渡さないと」
「え?霧子が……俺に?手作り?」
霧子の声が低すぎて、進ノ介に届いていなかったのは幸いというべきか。
邪気の欠片もない彼の驚いた顔と、そして嬉しそうに自らを指差している姿が目に入ると、霧子ははっとして首を激しく横に振った。
「ちっ……ち、ちち違います!」
顔を真っ赤にして否定するものの、最早言い逃れができる状況ではない。
ーーよしよし。姉ちゃん、もう腹を括って早く進兄ちゃんに渡しちまえよ!
にやついた剛が、声に出さないエールを贈ろうとした時である。
彼は不意にぐい、と腕を引っ張られてよろける羽目となった。
「これは、剛にです!」
「はあぁ?」
たたらを踏みつつ、強引に引き寄せられた剛は素っ頓狂な声を上げた。
我が姉ながら、何と言う往生際の悪さであろうか。
「あぁー!だーかーらー、姉ちゃん!何言ってんだよもう!」
「だから、これは貴方のだって言ってるの。私が苦労してたの、横で見てたでしょう!」
白い指を引き剥がそうという剛と、手にした箱を押しつけようとする霧子との間で、今にも派手な姉弟喧嘩が始まりそうになる。
が、その険悪さを破ったのは進ノ介というどこまでも鈍い男の一言だった。
「えぇー!何だよ。折角霧子がくれるって思ったのに」
「……え」
霧子がチョコレートの箱を持ったまま振り上げていた両手を下ろすのをぴたりと止めて息を飲み、次いでしげしげと進ノ介の顔を見つめる。
この機会を逃す手してはならない。
剛は素早く霧子の腕を下ろさせてから進之介との間をすり抜けると、クレイドルからベルトを引っ掴んで出入口へと一気に駆け出した。
「こりゃあ、俺たちはお邪魔虫だよな?んじゃ、あとは若い二人だけで!」
「若い二人って、この中で一番若いのはお前だし」
今や既に十メートル程度の距離を開空けた剛が茶化すのを、進ノ介が冷静に突っ込む。
弟の腕に掲げられているベルトまでが笑顔の表示に変わっているのを見て、霧子は逃亡者の後を追おうとした。
「ちょ、剛!」
しかし時は既に遅く、彼女が走り出すと同時に無情にも自動ドアは閉ざされた。
ドライブピットに残されたのは、一組の男女のみ。
置いて行かれて呆然とする霧子がそのことを意識したとき、おずおずと進ノ介が名前を呼んできた。
「えっと……霧子?」
振り向いてみるまでもなく、彼が戸惑った表情を浮かべているのがわかる。
逃げ場がない今度こそ、覚悟を決めるしかなかった。
頷いた霧子がチョコレートの箱をしっかりと胸に抱き直し、つかつかと進ノ介の方へ歩み寄る。
「とっ、泊さん!」
「はいっ!」
気迫がこもった大声で呼ばれた進ノ介は、上官に呼ばれた兵士のようにしゃきんと背筋を伸ばして返事を返す。
気をつけの姿勢で固まっている彼の視線をまっすぐに受け止め、霧子は両手に持ったチョコレートを差し出した。
「こっ、こ……こここここ、これ……」
一言、「これを受け取ってください」と言えばいいだけなのに、緊張して言葉が喉から先に出ていってくれない。
日頃、犯罪者やロイミュードを前にしても怯まないでいられるのに、何たるざまか!自分なら、こんなことは容易いはずなのに!
自身に鞭を入れて、霧子は腹に力を込めた。
そして、遂に言い放った。
「これ、落ちてました!」
「……は?」
「泊さんのなんだと思って、持ってきたんです」
予想していたのと全く違う状況を瞬時には理解できないでいる進ノ介が、間の抜けた顔から更に空気を抜いたような声を漏らした。
腕をまっすぐ伸ばした先にブルーのラッピングされた箱を持つ霧子は、顔を下に向けたままだ。両腕の間に顔を埋める格好になっているのだから、今の進ノ介の表情も見えていないに違いない。
この包みが落とし物なら受付にでも持って行かなければという条件反射的な反応が、この異常事態で進ノ介がまず辿り着いたところであった。
「え……あ、いや。落ちてたんなら、届けておかなきゃダメだと思」
「いえ、泊さん宛てです!ほら見てください、ここに名前がちゃんと書いてあるじゃないですか」
やはり顔を上げないまま、霧子が進ノ介の声を遮って箱を押しつけてくる。
二〇センチ四方くらいのその箱には、紺色リボンの隙間に挟まれたメッセージカードに「泊さんへ」と記されているのが見えていた。
「あ、ホントだ」
進ノ介が自然に箱を受け取った途端、霧子が三歩ほど後ずさる。
まるで渡した箱が危険物であるかのような、回避行動もかくやという動きだ。
「わ、私は課長に呼ばれているのを思い出したので。パトロールは、また後で行きましょう。では、失礼します!」
「ああ、うん……」
そして霧子は進ノ介に敬礼すると、素早く踵を返して出入口へと向かっていく。追って来るな、と彼女の小さな背中は語っていた。
特殊な制服の後ろ姿が自動ドアの向こうに消えるのを、進ノ介は黙って見守るしかなかった。
「あ~あ、兄ちゃんも兄ちゃんなら、姉ちゃんも姉ちゃんだよな。にしても、進兄ちゃんがあそこまで鈍いとはね。あれじゃあ、姉ちゃんは苦労するぜ」
「それは、私も同感だね」
早足で去っていく霧子は、出入口の脇でこっそりとドライブピットの様子を窺っていた剛とベルトのことには全く気づけていないようだった。
剛が溜め息をつき、ベルトが呆れ顔を表示させるが、霧子の歩調は少しも緩まない。
そしてドアの外に出歯亀二人がいる気配を感じ取れなかったのは、進ノ介とて同じであった。
彼は手にした可愛らしいラッピングの箱をまじまじと見つめてから、メッセージカードをつまみ上げた。
「俺宛てかぁ……ん?これは」
先刻はばたついていて気がつかなかったが、ラッピング用紙と同じブルー基調のカードに綴られている文字は、どう見ても霧子の筆跡だ。急いで薄い箱を隅のデスクに置いて包装紙を取り、丁寧に蓋を持ち上げる。
すると、ミルクチョコレートの甘い香りが付近にふわりと広がった。その真ん中にあるのは、「いつもありがとうございます 詩島霧子」のメッセージが白く書かれた、ドーナツ型のチョコレートだ。カカオ色のチョコレートはカラフルな砂糖菓子やカラーチョコレートで飾り付けがされており、いかにも努力して手作りしたという印象が微笑ましい。
それに剛がこのチョコレートのことを知っていたということは、恐らく彼の確認の下で作られたのだろう。多分、普通に食べられる味だと考えて大丈夫な筈だった。
進ノ介の口許が自然とほころんで、穏やかな笑顔になる。
「よし。来月は霧子にちゃんとお返ししなきゃな!」
無意識に、彼はネクタイを締めていた。
トップギアになった脳細胞が、霧子のために働き出した証拠であった。
--もっとも、彼がもう少し女心に敏感であったなら、今ここで笑顔の霧子が寄り添っていたかも知れなかったが。