朝、六時半。目が覚めると体がずしりと重かった。のろのろとベッドから出て体温計で熱を測るとまだ三十八度あった。そりゃだるいはずだと私はまたベッドに戻った。白い天井を見上げて、息を吐く。
昨日、目を覚ますと私は保健室のベッドで寝ていた。対局の途中で倒れてしまったらしかった。学校から家へ連絡がいったらしく、祖父の繁さんが学校まで迎えに来てくれた。手間をかけさせたことが申し訳なくて私は何度も謝った。家に帰ると祖母の早苗さんがいろいろ世話を焼いてくれた。それが申し訳なくて私はまた何度も謝った。家に居候させてもらって、学校に行かせてもらって、この上まだ厄介をかけるなんて最悪だった。私は体調も気分もどん底の状態で眠りについた。
藤咲たちにも悪いことをしてしまった。きっと驚かせてしまったし、迷惑もかけてしまった。あの夏から半年が経って、ひょっとしたら治っているかもなんて根拠のない淡い願望にすがって麻雀を打った結果がこれなのだから、自分の軽率さが嫌になる。
「何やってんだろ、私……」
去年の夏、インターハイの西東京地区予選の決勝戦で敗れてから、私はまともに麻雀が打てなくなった。麻雀を打っていると頭痛がして、じきに体調を崩してしまうようになってしまったからだ。
けれど、まさか倒れるとは思わなかった。以前はそこまではひどくはなかったのに。治るどころか症状は悪化しているらしい。
しばらくぼんやり天井とにらめっこしていると、朝ご飯を持って早苗さんがやって来た。早苗さんは私の具合がまだよくないのを見越していたらしく、ご飯はおかゆだった。お盆を置くと、「今日は学校を休みなさい」と言った。その後、「ご飯食べられる?」「ほしいものある?」と優しい声で尋ねた。私は「大丈夫です」とあいまいに笑った。正直そこまで迷惑はかけられない。
早苗さんが何かあったらすぐに呼ぶよう言い残して部屋から出ていくと、私はおかゆに手をつけた。本当はあまり食欲がなかったけれど、食べないと余計に心配をかけてしまう。
おかゆをスプーンですくって口に入れる。口の中に広がる塩味がことさらに苦々しく感じられた。
***
「そう……そんなことがあったの」
放課後の生徒会室。昨日、体調不良で学校を欠席していた沙夜ちゃんにわたしは平坂さんのことを話していた。生徒会室にはわたしと沙夜ちゃんの他に、遥ちゃんと梢ちゃんがいて、要するに生徒会メンバーがそろっていた。
「平坂さん、大丈夫でしょうか……」
梢ちゃんが心配そうに言った。
今朝、わたしが登校すると平坂さんの席は空いていて、始業のチャイムが鳴っても平坂さんは姿を見せなかった。先生に聞いたら、熱で休むと連絡があったそうだ。
「わたしが強引にここに引っ張って来なかったら……」
「美織、あなたが気に病むことはないわ。話を聞いた限りだと平坂さんは自分の意志で卓についたのでしょう?」
「それは……そうだけど」
沙夜ちゃんの言葉にわたしは歯切れの悪い返事をした。気にするなと言う方が無理な話だった。わたしの沈んだ声で少し生徒会室が静かになってしまった。空気が重い。
「それにしても平坂さん、すごかったね~。結局あたしらボロ負けじゃん?」
その暗い雰囲気を吹き飛ばすように遥ちゃんが明るい声を出す。すると梢ちゃんが不満げに口を尖らせた。
「私は負けてません。遥さんといっしょにしないでください」
「おやおやあ? そーだったかな~?」
遥ちゃんがからかうような声を出すと梢ちゃんは少しむきになって言い返す。
「私は途中まで勝ってました!」
「でも最後は16000点負けてたじゃん」
「あら、そんなに開いてたの?」
沙夜ちゃんが意地の悪い表情で尋ねる。
「まだ南三局とオーラスが残ってましたっ! なんの問題もありません!」
「またまた~、強がっちゃって」
「梢は負けず嫌いね」
「もうっ、知りません」
梢ちゃんが拗ねたように頬を膨らます。わたしは思わず吹き出してしまった。すると沙夜ちゃんがわたしを見てクスクスと笑った。
「な、何?」
「別に。美織はそうやって笑っている方がいいなと思っただけよ。私は美織が落ち込んでいると悲しくなるわ」
「沙夜ちゃん……」
沙夜ちゃんの言葉に友情を感じたわたしはぐっときて言葉を詰まらせた。沙夜ちゃんはいつも意地悪だけどこういう時にはちゃんと心配してくれる、そう思うとほおが緩む。
「私は優しいのよ」
「うん。そうだね」
「もちろん落ち込んでいる人に追い打ちをかけることなんてできないわ。だから美織には笑っていてほしいの」
「うん?」
「そうじゃないと私、誰をいじめて満足すればいいのかわからないもの」
「誰もいじめなくていいよっ!」
思わず机をバンッと叩く。台無しだった。わたしの感動を返してほしい。沙夜ちゃんは目を丸くして口を開く。
「あら、机を叩いちゃダメよ。びっくりするじゃない」
「知ってるよ!」
「知ってたの?」
沙夜ちゃんがさも意外そうな顔でわたしを見る。わたしはがっくりとため息をついた。
「美織
「その言葉遣いに違和感を覚えてほしい」
「どこに? 美織は私のおもちゃよ」
「もうっ……。ていうか沙夜ちゃん、さっき梢ちゃんもからかってたよね?」
わたしがおもちゃなら梢ちゃんは何なんだ。私がじろりと睨んでみせると沙夜ちゃんが首をかしげる。
「嫉妬?」
「違うよっ!」
「心配しなくても大丈夫よ。梢はどちらかというと遥のおもちゃだもの」
「断じて違いますっ! むしろ遥さんが私のおもちゃです!」
思わぬ流れ弾が飛んできて梢ちゃんが憤慨する。
「そんなっ、おもちゃだなんて。こずえんはあたしのこと遊び程度にしか思っていなかったの!?」
「変な言い方は止めてください」
「あたし、本気だったのにっ! あたしの気持ちを弄ぶなんて。こずえん……ひどいよっ」
「バカじゃないんですかっ!」
安い恋愛ドラマのようなノリで泣き崩れるふりをする遥ちゃんに梢ちゃんが激しく突っ込む。梢ちゃん……弄ばれてるよ。梢ちゃんに同情しつつもわたしは同じような扱いを受ける仲間がいることに少し安心する。
「まあ、冗談はさておき。平坂さんの入部は聞いた感じだと無理そうね」
沙夜ちゃんが平坂さんのことに話を戻す。
「そだねー、もったいないなあ。半荘、それも途中までしかやってないけど、めっちゃ強いと思ったもん。なんか沙夜ちーが真面目に打ってる時と同じような感じが一瞬したんだよね。背中にぞっとくるみたいな?」
「そうですね。確かに強かったです。打ち方は少し不思議でしたけど」
「七対子祭りのこと?」
「それもそうですが、平坂さんの打ち筋はまるで……」
梢ちゃんが自信なさげに言葉を切った。わたしは梢ちゃんの様子にピンときて後を引き取った。
「まるで平坂さんには他人のアガリ牌が見えているようだった」
「そうです。美織ちゃんも気がついていたんですね」
遥ちゃんが「ええー」と驚きの声を上げる。
「すごいじゃん!! あたしは全然気づかなかったケド」
「遥さんが気づいてたらびっくりです」
「それどーゆー意味?」
「言葉通りの意味ですが」
梢ちゃんがさらりと毒を吐いた。さっきの仕返しのつもりなのかもしれない。
「アガリ牌が分かる……興味深いわね。二人はどうしてそう思ったのかしら?」
わたしと梢ちゃんは目を合わせる。私がお先にどうぞと目配せすると梢ちゃんは話し始めた。
「昨日の東四局おぼえていますか?」
「あ~そういえば平坂さん、こずえんのリーチにぼんぼん危険牌放ってたね」
遥ちゃんが思い出すように目を細める、
「あの局、私も北待ちの七対子を聴牌していたんです。私の捨て牌は一九字牌が多くタンヤオ気配でしたし、場にはすでに北が一枚切れている状況でした。だからリーチをかければいずれ誰かが出すだろうと思っていました。ですが――」
「逆に平坂さんが北待ちの七対子をツモアガりしたね」
「ええ、七対子は状況に応じて待ちを変えやすい役。リーチのかかったあの状況でわざわざ北よりも先に危険そうな中張牌を捨てる理由が私には見当たりませんでした。私のアガリ牌を握りつぶすこと以外には」
梢ちゃんの話にわたしは頷いた。
「わたしもその次の局でアガリ牌を押さえられてた。しかも平坂さん、たぶんだけどわたしへの振り込みを避けるために自分の聴牌を一度わざと崩していたみたいなんだよね。わたしのアガリ牌を見透かしているとしか思えない打ち筋だったよー」
わたしと梢ちゃんの言葉に沙夜ちゃんは考え込むように細い顎に手をあてた。
「なるほどね。もしそれが本当ならすごいことね。振り込みはしないでしょうし、他家のアガリを潰すことも普通よりずっとやりやすくなるわ……梢が負けるわけね」
「だから負けてませんっ」
梢ちゃんが沙夜ちゃんをにらむが、沙夜ちゃんはさらりと受け流す。
「けど人のアガリ牌が見える……そんなのかなあ。あたし、なんかしっくりこないんだよねえ」
遥ちゃんが難しい顔をしていた。何か納得がいかないらしい。
「あら、遥はもっと別の何かを感じたのかしら?」
「うーん、そんな気がするんだけど……えーっと、わかんないっ!」
「……ポンコツね」
「ちょっ、沙夜ちー、それヒドくない?」
「ま、遥のことはおいといて、美織。平坂さんのことが気になるなら今からお見舞いに行ってきたらどうかしら?」
沙夜ちゃんの唐突な提案にわたしは目を丸くした。
「え、でも今日は生徒会の仕事があるし……。麻雀部の活動もしないと」
「気がかりがあるのに楽しく麻雀なんて打てないでしょう?」
「それはそうかもだけど……いいの?」
「構いません。今日は生徒会の仕事もさほどありませんし」
「そだね。あんま大勢で行っても迷惑だろうしあたしたちの分もお見舞い頼んだ」
梢ちゃんと遥ちゃんが頷く。みんななんだかんだでわたしに気をつかってくれているらしい。
「ありがとう。じゃあわたし、行ってくる!」
みんなにお礼を言ってわたしは生徒会室を後にした。
***
「チェック」
祖父の宣言に私は顔をしかめた。確実に私のキングを追い詰める一手だった。考え込む私を祖父は余裕綽々といった表情で楽しそうに見つめている。
午後五時半。夕日が射し込むリビングで私は祖父の繁さんとチェスを指していた。祖母の早苗さんは私たちの傍で編み物をしている。
お昼を過ぎたあたりで熱は下がり、体もかなり楽になった。汗が気持ち悪かったのでシャワーを浴びて普段着に着替えるとだいぶ落ち着いた。少し遅めの昼食を済ませた後、私が部屋で暇をしていたら、繁さんがチェス盤片手に誘ってきたのだ。
チェスは繁さんの趣味の一つだ。繁さんは他にも将棋、囲碁、それに麻雀などのアナログゲームを好んでいるみたいで、私はこの家に来てすぐ「チェスをやってみないか?」と誘われた。どうしてチェスなのかと聞くと、祖父いわく二人でできて一番簡単だからだそうだ。
私はチェスをやったことがなく打ち方どころか駒の名前すらわからないレベルだった。けれど、そんな簡単ならやってみようかなと祖父の口車に乗る形でチェスの手ほどきを受けた。繁さんの言う通り、駒の動かし方や基本的なルールは簡単に覚えられた。ああ、確かに簡単だなあ、そう思っていた私は「じゃあ一局指してみようか」と繁さんに言われるがままチェスの駒をとった。
初めて繁さんと対局した時の屈辱は今でも忘れられない。同じ数の駒を使って戦っているはずなのに、どういうわけか繁さんの黒駒は私の白駒を次々討ち取っていき、気がつくと私のキングは丸裸にされていた。しかも繁さんは私に
あんまり悔しかったので、私はそれ以来こっそり指南書を買って勉強しまくっているのだけれど残念ながらまだ一度も繁さんに勝ったことがない。今も私は劣勢に立たされていた。どうしたものかと私が苦い顔をしていると、インターホンが鳴った。
「おや、誰か来たみたいだね」
繁さんが呟く。早苗さんが立ち上がって受話器を取った。
「はい。はい……。あらあら? それはどうもありがとう。今行きますので少し待っていてくださいね」
早苗さんがリビングを出ていった。私は誰だろうと思いつつ、キングを一つ右に逃がした。
まもなく玄関の方から声が聞こえてきた。一つは早苗さんの声でもう一つはふんわりと柔らかい感じの若い女性の声……というより少女のような声だった。来客はどうやら家に上がってくるようで、早苗さんが「どうぞ、こちらへ」と言うのが聞こえた。しかしこのお客さんの声どこかで聞き覚えのあるような……。
「奈々ちゃん、お友達よ」
リビングに戻って来た早苗さんが言う。祖母の後ろからひょっこり顔を出した人物を見て私は目を丸くしてしまった。
「藤咲さん?」
「平坂さん……えっと、こんにちは。具合はよさそうだね」
藤咲がほにゃりと笑顔を浮かべる。私はまだ驚いていて「うん」と返事をするのが精一杯だった。
「うふふ、奈々ちゃんのお見舞いに来てくれたのよ。せっかくだから上がってもらったの」
早苗さんが微笑みながら言った。なぜかとてもうれしそうだった。
「お見舞いに? えっと、ありがとう……とりあえず私の部屋に行こうか。繁さん、ちょっと中断させてください」
「いやいや、それには及ばない」
祖父はおもむろにビショップを動かした。予想外の一手に私はぐっと息を漏らす。見事にキングの逃げ道がふさがれていた。あと四手でチェックメイト。これはもうどうしようもない。
「リザイン」
私がそう宣言すると、繁さんはいつもの癪にさわる得意げな顔を浮かべた。
***
平坂さんの部屋は二階にあった。平坂さんはわたしを部屋に通すと「ちょっと飲み物取って来るから待ってて」と言って階下に降りて行った。
一人になったわたしはここが平坂さんの部屋かあ……と少し失礼だとは思いつつも部屋を見渡した。ベッド、クローゼット、勉強机、本棚、ローテーブル。テーブルの上にはチェス盤が置いてあった。さっきもチェスをしていたし、平坂さんの趣味はチェスなのかもしれない。あとはたぶん読書だろう。本棚にずらりと並ぶ小説からわたしはそう推測した。小説の中には梢ちゃんが以前読んでいた覚えのあるタイトルもかなりの数ある。昨日、梢ちゃんが熱心に語っていた探偵シリーズもあった。平坂さんの部屋は全体的に落ち着いた雰囲気でまとめられていて大人っぽさを感じる。整理整頓も行き届いており、散らかっているわたしの部屋とは大違いだった。
少し経って部屋のドアが開く。平坂さんがお盆を片手に部屋に入って来た。お盆には紅茶の入ったポットとティーカップ、そして大量のお茶菓子が乗っていた。
「わあ、すごくいっぱいだね」
「早苗さんが持って行けって。乗せすぎだって言ったんだけど」
平坂さんが少し困った声を出した。お盆の上のお菓子は軽く山になっていた。確かにこれは多い。
「早苗さんっていうのはさっきの?」
「うん。私の祖母。ちなみにさっき下でチェスをしていたのは祖父の繁さん」
「二人ともすっごく若いよね。繁さんはあごひげとかおしゃれだし、早苗さんはすっとしていてきれいだし。おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでるっていいね。わたしの家は母方も父方も全然違うところに住んでるからお盆とかにしか会えないもん」
おじいちゃんとおばあちゃん元気にしてるかなあ、今度電話かけてみよう。そう思っていると平坂さんがくすりと笑った。
「藤咲さんはおじいちゃんとかおばあちゃんに可愛がられそうなタイプだよね。あと親戚のおじさんとかおばさんにも」
「それを言うなら平坂さんだって可愛がられていると思うけど?」
仲良くゲームしたり、たくさんお菓子を持たせたり。わたしがそう言うと、平坂さんはあいまいに笑って「早苗さんも繁さんも親切な人だから」と言った。わたしはそんな平坂さんの態度を不思議に思った。自分の祖父母に対してよそよそしいというか少し他人行儀な気がしたのだ。
「そういえば平坂さんはおじいちゃんとかおばあちゃんのことさん付けで呼んでるんだね。ちょっと珍しいかも」
「ああ、確かにそうだね……。でも祖父母に初めて会ったのもついこの間のことだから、あんまりおばあちゃんとかおじいちゃんっていう感覚がなくて」
「そうなの?」
「うん。去年の夏に両親が離婚して、それで母方の実家のここに引っ越してきたんだけど……。元々お母さんは駆け落ちして家を出ていたからここに来るまで祖父母とは全然連絡とか交流とかがなかったんだ」
なるほど。複雑な家庭事情を聞いて平坂さんのあいまいな態度も仕方ないものなのかもしれないとわたしは納得した。いっしょに過ごした時間が少ないから、平坂さんは繁さんや早苗さんに自分がどう思われているのかわからないのだろう。わたしから見たら、可愛がられているのは一目瞭然だったけど、このことに関してこれ以上あれこれ言うのは止めることにした。だってわたしがあれこれ言ってもしかたがない。これは時間を積み重ねていくうちに平坂さん自身がゆっくりと実感していくことなのだから。うん、わたしってばちょっと大人っぽい対応。
しかし、親の駆け落ちかあ……。
「なんで目を輝かせてるの?」
「いやあ、だって……ねえ?」
駆け落ち! ドラマチックな響きがする言葉だとわたしは思う。実際にした人がわたしの周りに居なかったから創作上のものってイメージだったけど、現実にそういうのがあるんだと知って少し感動してしまった。ちょっと憧れるかも。
「言っとくけどそんないいもんじゃないかんね」
顔に出てしまったらしい。平坂さんはあきれたように言った。
「ははは、そうだよね……そういえば平坂さんのお母さんは?」
噂の女性をそういえば今日はまだ見ていない。平坂さんの冷たい視線に苦笑いしながらわたしは尋ねた。
「お母さんは今、海外で暮らしてる」
「海外? お仕事とか?」
「ちがうよ。向こうで再婚して新しい旦那と暮らしてる」
「新しい旦那? 再婚したの?」
「傷心を癒すためにヨーロッパに海外旅行して、そこで相手見つけてすぐ結婚したんだよ。離婚してからわずか一か月で再婚っていうんだからほんとびっくりだよね」
わたしは驚いてあんぐりと口を開けた。駆け落ち、離婚、スピード国際再婚……。まさに波乱万丈。平坂さんのお母さんって一体どんな人なんだろう?
「再婚相手、一度だけあったことあるけど実業家らしいよ。向こうは若い時に奥さんを亡くしたらしくて」
ちなみにけっこうイケメンだったと平坂さんは淡々と感想を述べる。
「いっしょに国に来ないかって誘われたけど母親に海外までついていく気にはなれなくて。だから私はここに居候させてもらってるの」
平坂さんはそこで一息ついて紅茶を飲んだ。わたしもつられて紅茶を飲む。微かに甘い香りがして美味しい。わたしがそう言うと平坂さんは「よかった」と目を細めた。
「あのさ……昨日はごめん」
ティーカップに目を落としながら平坂さんがおずおずと言う。
「いろいろ迷惑かけて」
「ううん。わたしこそごめんなさい。昨日は無理に引っ張って行っちゃったから。……倒れた時はびっくりしたけどね」
あの時の平坂さんの様子は普通ではなかった。倒れる前の怯えるような眼差しと倒れた直後の「ごめんなさい」という一言が強く記憶に残っていた。平坂さんは何を恐れ、誰に謝っていたのだろう? 気になる。けれどこれは聞いてもいいことなのだろうか? わたしが逡巡していると、平坂さんが先に口を開いた。
「藤咲さんはさ、どうして大会に出たいの?」
「わたし? 単純な理由だけど、楽しそうだからかなあ」
「楽しそう……とは?」
「うーんとね、わたしは生徒会のみんなと麻雀打つのが楽しくて、放課後みんなと過ごす時間がすごく好きなの。でもわたし、欲張りなのかなあ。最近、それだけじゃ満足できなくて、もっと今を楽しくするにはどうしたらいいんだろうってずっと考えてた」
「それで夏のインハイ?」
「うん。発案は梢ちゃんだけど。全国大会ってさ、考えるだけで胸がどきどきするもん。そんなすごい大会にみんなといっしょに行けたらきっとすごく楽しいよ? そしたら今この時間がもっと楽しく、最高になるとわたしは思うんだ」
わたしがそう言うと平坂さんが驚いたように目を見開いた。どうしたんだろう? わたしは何か変なこと言っただろうか?
「どうかした?」
「いや、昔ミケ先輩も藤咲さんと同じようなこと言ってたなって」
「ミケ先輩っていうのは――」
「私が前いた学校の麻雀部の先輩。変なあだ名でしょう?」
そう言う平坂さんの表情は柔らかく緩んでいた。ミケ先輩は平坂さんにとって大切な先輩だったのかもしれない。でも、昨日、平坂さんは――
「ねえ、平坂さん。昨日のことだけど……前に居た麻雀部で何かあったんだよね?」
「……どうしてそう思うの?」
「平坂さん昨日言ってたから。ミケ先輩、ごめんなさいって」
「私、そんなこと言ってたの?」
わたしが頷くと平坂さんは「そっか」と短く息を漏らした。
「やっぱり何にも変わってないな、私は。忘れたふりをしていても結局、私はあの夏のことを悔やんでる」
ポツリと呟いた平坂さんの表情はひどく悲しげでせつない。わたしはその表情に見覚えがあった。わたしが平坂さんを麻雀部に誘った時、「嫌じゃない。誘ってくれることは嬉しい」と言いながら彼女はわたしに同じ表情を見せた。きっとこの表情の理由こそが平坂さんの抱える傷なんだとわたしは思った。
「何があったの?」
わたしは少し迷ってそれでも尋ねた。これは不用意に立ち入ってはいけない領域かもしれない。そう思いながら、けれどわたしは一歩を踏み入れた。まだ初めて話してから一日しかたってないけど、わたしにとって平坂さんはすでに友達だった。もし何か辛いことがあるなら力になりたいと、そう思う。ひょっとしたらお節介かもしれないけど、わたしは平坂さんの抱えているものを知りたかった。
「別にそんな面白い話でもないけど……藤咲さんはそれでも聞きたい?」
聞きたいとわたしが答えると平坂さんはまた「そっか」と言った。
「藤咲さんには迷惑かけちゃったし……麻雀部のこと断るにしてもちゃんとした理由が必要だよね」
少し長くなるけど、そう前置きしてから平坂さんは話し始めた。